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2005年07月20日(水)
『ファイナルファンタジー』誕生秘話

「CONTINUE Vol.22」(太田出版)のインタビュー記事「『ファイナルファンタジー』を創った男・坂口博信」より。

(「ファイナルファンタジー」のシリーズ最初の作品「ファイナルファンタジー1(当時のタイトルには「1」はついていないのですが、今回は便宜的につけさせてください)」の開発当時のことを振り返って)

【インタビュアー:『FF1』のクレジットを見ると、坂口さんの名前はなくて、スクウェアAチームになっていますね。

坂口:当時のスクウェアはチーム制になっていて、僕らは古株だったので、スクウェアAチームと呼ばれていたんです。最初のAチームは4人しかいなくて、僕と、渋谷さんという女性デザイナーと、石井(浩一。現『FF11』ディレクター)。それにプログラマーのナーシー・ジベリだけ。ほかのチームは15人くらいいたのに、すごく哀しいチームで……(苦笑)。「Aチームは終わったな」とか言われていました。

インタビュアー:なるほど……なぜそんなに少人数だったんですか?

坂口:僕に人気がなかったから(笑)。ちょっと人に対して厳しすぎたんですね。それで、「もう大学を8年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームもうまくいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思っていました。それが『ファイナルファンタジー』というタイトルに。

インタビュアー:まさにファイナル!

坂口:当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、がんばろう」って。その意図をナーシーに理解してもらって、RPGを作ることにしたんです。

インタビュアー:なるほど。まさしく坂口さんにとっての最後のファンタジーだったんですね!】

〜〜〜〜〜〜〜

 いまや『ドラゴンクエスト』と並ぶ、国産RPG(いや、国産ゲーム、と言うべきかもしれません)の代表作、『ファイナルファンタジー』の制作者が語る誕生秘話。
 坂口さんは、もともとミュージシャン志望だったそうなのですが、大学時代にApple2というマイコンにハマってしまい、自分でゲームを作るようになって、ずっとスクウェアでアルバイトをされていたそうなのです。でも、なかなか作ったゲームが理解されなかったり、妥協しない性格が周囲と軋轢を生むようなこともあったようで、あの『ファイナルファンタジー』は、坂口さんにとっての「最後のファンタジー」という意味が込められていたんですね。
 当時、まだ英語を覚えたての僕たちは、「なんでいきなり『ファイナル』なんだ?」と、首をひねったことをよく覚えています。ましてや、この「ファイナルファンタジー』は、毎回「最後」のくせに、延々と続いているんですから。あの頃は「ファイナル」というのは、「究極の」という意味だ!とか言っている人もいましたけど、そんな難しい話ではなく、本当に「最後」のつもりで作られたゲームだったみたいです。8年も留年してたら、戻るもなにも、もう放校なんじゃなかろうか?と、思わなくもないんですが。
 このインタビューを読んでみると、確かに当時の坂口さんが置かれた状況は、ナーシー・ジベリという天才プログラマー(あの『ファイナルファンタジー』の飛行船の高速スクロールの技術は当時としては画期的というか、信じられないようなものでしたから)を抱えていたとはいえ、かなり厳しいものであったのは間違いないようです。でも、そんな中で創られた『ファイナルファンタジー1」は、【完成したときは、プログラマーと一緒に「初めて自分たちが納得できるゲームが作れた!」という満足感を分かち合いました】と坂口さん自身が語られるような、素晴らしいゲームになったのです。
 
 これからも続いていくであろう、『ファイナルファンタジー』。本当に「最後」のつもりでやれば、なんだってできるのかもしれませんね。