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2005年06月26日(日)
「最悪」「失敗作」と罵倒された『スター・ウォーズ』

「九州ウォーカー・2005.No.14」(角川書店)のコラム「シネマ居酒屋」(Key教授・著)より。

(まもなく「スターウォーズ・エピソード3〜シスの復讐」が公開される、ジョージ・ルーカス監督に関するさまざまなエピソードなど。)

【72年、ルーカスは1年懸けてかった13枚の企画書を書く。イントロは、”これは有名なジェダイのパダワン、ウズビー・C・J・テープの親戚で、尊敬すべきオプチのジェダイ、メイス・ウインドゥの物語である”。これがスター・ウォーズの始まりだ。彼のこの構想はユニバーサルやワーナー、ユナイト等の多くのスタジオからB級SF映画だと失笑された。唯一20世紀フォックス映画の製作部長アラン・ラッドJrだけが350万ドルなら出そうと言った(ラッドは後に『エイリアン』『ブレードランナー』までも世に送る男となる)。ルーカスは経験から、フィルムにハサミを入れないことを約束してもらいスター・ウォーズの製作が本格化。が、完成したフィルムは妻マーシャから『失敗だわ』と言われ、試写を観た親友ブライアン・デ・パルマからは『最悪なものを観せられた』とののしられた。だか、周囲の酷評の中で唯一スピルバーグだけが『これはハリウッドの記録を塗り替える映画になるよ』と語った。77年、ついに2つの太陽が沈むのを見ながら”自身の人生を得る”ことを夢見るルーク・スカイウォーカーがスクリーンに映し出される。ここから伝説は始まったのだ…】

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 若き日のジョージ・ルーカスは、フランシス・F・コッポラの製作スタジオから、「THX−1138(1971年)」という実験的なSF映画を世に出したことがあるそうです。それこそ、「アーティスト」としてのプライドにかけて。しかしながら、その映画は、悲しいほど世間から無視されて、妻にまで「冷たい映画」だと酷評されたのだとか。
 そこで、ルーカスは「じゃあ、明るい映画ならいいんだな?」とばかりに、青春映画「アメリカン・グラフィティ」を撮りました。ちなみにこちらは大ヒット作品。
 もちろん、どちらの作品もジョージ・ルーカスという人が併せ持つ一面であることはまちがいないのですが、こういう経験が、ルーカス監督の「エンターテイメントとしての映画」観に、あらわれているような気がします。
 このコラムによると「スター・ウォーズ」の誕生時には、いわゆる「映画関係者」の評判は、あまり良くなかったようなのです。というか、ここに引用されている人々の反応からすると「最悪」に近かったのかもしれません。でも、ルーカス監督は、「映画マニアではない一般の観客」が、どういう作品を喜んで観るかというのをしっかり理解していて、そこから「芸術として評価されたい」という方向にブレることはなかったのです。それこそ「アーティストとしては不本意」だったのかもしれませんけど。
 今から考えると、「スター・ウォーズ」は、特撮技術は当時の最高峰のものだったのですが、ストーリーは至極シンプルです。正義のジェダイと悪の帝国、父と子の葛藤。この映画を最初に観たとき、小学生だった僕ですら、「なんてベタなストーリーなんだ!」と内心バカにしていたような記憶があります。それこそ、アーティスト志向の人には、「なんだこの底の浅い、パターン化された勧善懲悪SFは!」という感じだったのではないでしょうか。
 でも、ルーカス監督は、そういう「王道」こそが、多くの人の心をつかむものだというのを、たぶん理解していたのです。そして、この映画をメジャーにするために、わざと、「そういう話」にしたのです。
 だいたい、「ストーリーがベタ」なんて言いつつも、僕らはこの映画の面白さに感激して、掃除の時間にホウキを持って、ライトセイバーごっこをやったり、「コーホー」というダース・ベイダーの(ウォーズマンかむしろ?)マネをしたりしていたのだから。
 それにしても、「スター・ウォーズ」を賞賛した唯一の映画人が、スピルバーグ監督だった、という話は、とても興味深いものです。もちろん、「お金になる映画」=「良い映画」ではないにしても、「多くの人に観てもらえる映画」を作り続ける2大巨匠には、たぶん、当時から相通じるものがあったのでしょうね。