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2005年06月13日(月)
退屈な「元ひめゆり学徒の証言」

毎日新聞の記事より。

【青山学院高等部(東京都渋谷区)の今春の入試で、元ひめゆり学徒の証言を「退屈で飽きた」と感じたという内容の架空の英語感想文が出題された問題で、同高等部の大村修文(ただふみ)部長ら4人が13日、謝罪のため元学徒たちが証言活動をしているひめゆり平和祈念資料館(沖縄県糸満市)を訪れた。大村部長は謝罪を前に報道陣に「申し訳ないの一言に尽きます」と語った。
 大村部長のほかに訪れたのは、入試当時の教頭、問題作成にかかわった40代の英語教諭と事務職員。4人は午前10時半ごろ、同資料館前にある戦没学徒らの氏名を刻んだ「ひめゆりの塔」に花束をささげ、頭を下げた。午前11時から資料館で本村つる館長ら10人の元学徒と面会し、謝罪した。
 問題となったのは今年2月にあった入試の英文読解。戦争体験を伝えることの難しさを考えさせるのが狙いで、英語教諭が以前に沖縄を訪れた体験をもとに作った。
 入試問題には、沖縄のガマ(壕(ごう))に入った生徒が、元学徒の体験談を聞いたとき「退屈で飽きた。彼女が話せば話すほど、私は防空壕で受けた強い印象を失った」と感じたことが書かれていた。設問では、なぜ生徒が体験談を気に入らなかったかを問い「彼女の話し方が好きではなかったから」の選択肢を正解にしていた。
 元学徒側からは「どのような感想を持っても自由だが、それを入試として出題することがおかしい」「『未来永劫(えいごう)、平和が続きますように』が学業半ばで戦争に巻き込まれた『ひめゆりの心』。こういう問題が出ると今までやってきたことの意味を考え込まざるを得ない」などと反発と戸惑いの声が上がっている。
 ◇戦争の無残さ、先生が伝えて
 東京大空襲を語り継ぐ活動をしている海老名香葉子さん(71)は「私は悲しい、つらい出来事を自分の体が総毛立つ思いで話している。学校で話すこともあるが、多くの生徒さんが一生懸命、涙を流しながら聞いてくれる」と言う。今回の問題については「あまりにも悲惨だった戦争の悲しみを思う心が、戦後の先生にはないのでしょうか。戦争の無残さ、悲惨さを先生たちが伝えないと平和は守れない。そういう先生がいることは本当に残念」と語る。
 【ことば】沖縄戦とひめゆり学徒隊 1945年3月26日に米軍が沖縄県の慶良間(けらま)列島に上陸、日本軍の沖縄守備軍司令官らが自決し、組織的戦闘が終わったとされる6月23日まで民間人を巻き込む激しい地上戦があった。日本側の死者は軍人、民間人計20万人を超えた。負傷兵の看護に沖縄県立師範学校女子部と同第一高等女学校の女子学生らが加わり、両校のシンボル白百合と乙姫から「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた。戦闘では引率教師を含む200人以上が犠牲になった。】

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 この【元ひめゆり学徒の証言を「退屈で飽きた」と感じたという内容の架空の英語感想文】が入試問題に出題されたという青山学院高等部には、かなりの非難の声が届いているようです。まあ、この話に関しては、「入試問題にするには、不適切だったよなあ」としか言い様がないような気もするのですが。
 しかしながら、この問題の「文意」というのを考えてみると、出題者の意図というのは、「遺物」として当時のまま存在している防空壕と、それとは逆に、戦後60年間語り続けられることによって、語り手も知らず知らずのうちに「上手に」なってしまい、どんどんリアリティを失ってしまっている「体験談」との対比にあるのではないかな、と僕は思います。ときに、あまりに立て板に水の演説よりも、たどたどしく、言葉に詰まりながらの話のほうが、人の心をとらえることがあるように。
 その変化はもちろん「語り部」の人たちの責任ではないとしても、そうやって長い間語り続けることによって、ある種の「演出」が加わってしまうことは、致し方ないことなのでしょうし、それを「退屈」だと感じる聞き手がいるというのは、わからなくもないのです。というか、そういう人もいるだろうと思うし、時と場合によっては、僕だって、そんなふうに感じてしまわないとは限らない。
 「語り部」の方々が【つらい出来事を自分の体が総毛立つ思いで話している】というのは、身につまされる言葉です。でも、それだからこそ、その「思い」が、もっとよく伝わるためにはどうすればいいのか、ということも、あらためて考えてみるべきなのではないかなあ、という気もします。
 残念というか、本来は喜ばしいことなのでしょうが、今の日本の子供たちにとって「戦争」というものに感じるリアリティはどんどん薄れてきています。逆に、「まあ、場合によっては戦争もしょうがないんじゃない?」というような考えを持っている子供たちも少なくないのです。「戦争」がどういうものかなんて、全然体験したこともないのに。
 もちろん僕も「戦争体験」は無いのですが、最近はメディアでも「戦争」について語られる機会が少なくなったような気がしています。8月15日の「終戦記念日」だって、「原爆の日」だって、ニュースで追悼集会の映像が流されるくらいのもので。
 それが「時間」というものなのだよ、と言われればそれまでなのですが、僕は、そうやって「戦争への嫌悪感」みたいなものが薄れていくのは、非常に怖いと感じています。でも、それを風化させないためには、どうしたらいいのだろう?と考えると、それは一筋縄ではいかないなあ、と頭を抱えてしまうのです。
 「退屈だと思うな!」といくら叫んでみたところで、表面上はつくろえても、「退屈だ」と感じる心の動きというのは、そう簡単に変えられるものじゃないのだろうし、「どうして『退屈だ』と思う子供がいるのだろう?」ということを考えてみるのは、マイナスではないですよね。この感想の筆者は、少なくとも「防空壕」という当時のままの存在には「強い印象」を受けていたのだから、こういう生徒に「より上手に伝えるための方法」は、何かないものなのでしょうか?

 ただ、僕はやっぱり、これを入試問題として採用したことには問題があるのだろうな、とも思います。正直、「戦争は悪い」と感じる心というのは、人間に生まれつきあるものというよりは、後天的な教育の賜物だから。実際に、「戦争で死ぬのは美徳だ」という教育がされていれば、(表面上でも)喜んで戦地に向かうような人は、増えていくはずです。
 そういう意味では、子どもたちには、「戦争は悲惨なものだ」という、一種の「刷り込み」も必要なのかな、と思うんですよね。