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2005年06月03日(金)
「妻と恋人」と「ごはんとお菓子」

「泣かない子供」(江國香織著・角川文庫)より。

【あのね、ラルフ。私は、奥さんには奥さんの特権があると思う。それはもう理屈じゃなくて、侵害できないものがあると思うの。じたばたしても駄目みたい。ただ、反対に恋人には恋人の特権がちゃんとあって、役柄をとりかえるわけにはいかないけれど、どっちにもそれぞれの存在価値があるはずだと思うのです。ごはんとお菓子みたいにね。それをみんなが認めようとしないのは、変だと思うなあ、実際。
 あなたがエレンと出会ったように、私もあれから別の恋をしました。少しは大人になったと思うのだけれど、それでもね、私はやっぱり、好きな人に条件なんてつけられない、と思うのです。たとえば最近「三高」という言葉があって、日本の女の子は、背が高く、学歴が高く、収入の高い男性しか好きにならない、といわれているのですが(勿論これは事実ではありません、念のため)、たいていの人はそれを困った傾向だと考えています。条件つきで人を愛するなんて不遜だ、不誠実だ、あまりにも打算的だ、ってね。私には、独身の人しか好きにならないというのも同じことに思えます。
 一週間くらい前、友人と串カツを食べながらそういう話をしました。その友人は独身ですが、結婚している女性と恋をしたことは一度もないし、自分が結婚したら、奥さん以外の女性と恋など決してしないと言うのです。「要するに意志の問題だと思う」と彼は言いました。その通りかもしれないけれど、もしそうだとしたら、私は怖くて、誰かの奥さんになんてとてもなれない、と思いました。だって結婚してから何年ものあいだ、自分の夫が他の女性と一度も恋をしなかったとして、それが彼の意志の力なのだと思ったら、自分の存在の意味を疑わずにはいられないでしょう? この人が毎日ここに帰ってくるのは意志が強いせいであって、私を好きだからじゃないのかもしれないって、一秒ごとに不安になると思う。不安で不安で死にそうになると思う。一秒ごとに不安になりながら何十年も暮らすなんてこと、ほんとに可能だと思う? そんな苦しいこと、みんなどうしてできるのかしら。恋人なら、少なくともその人が遊びに来てくれた時、ああ私に会いたいと思ったんだなってわかるでしょ。ああうれしいって思って抱きあえるでしょ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 江國香織さんのエッセイ(というか、この部分は、個人的な「手紙」に属するのかもしれませんが)の一部です。
 なんだか、すごく僕の心に残った文章なので。
 「三高」なんて言葉が出てきますから、かなり前に書かれたものなんですけどね。

 僕はこの年まで、「不倫」とか「浮気」というものに対して、けっして良い感情は抱いていませんでしたし、今でも、許し難い裏切り行為だという気持ちを捨てることはできません。でも、この江國さんの文章を読んでいると、そういう「先入観で他人をみる」ということは、「恋」とは、本質的に相容れないのかな、という気もするのです。確かに、【独身の人しか好きにならないというのも同じこと】なのかもしれないなあ、って。
 結局そこには「いろんなトラブルに巻き込まれるのはゴメンだ」という打算や「不倫は自分のモラルが許さない」というような意識がはたらいている面はあると思うのです。そして、結婚したあとに、自分のパートナー以上の異性と出会う可能性というのを考えてみると、例えば、30歳で結婚したとして、それまでの15年くらいの「恋愛人生」と、それからの30年くらいの「恋愛人生」を比較すれば、「パートナーよりも、もっと好きな人」にめぐり合う可能性は、けっして低くはなさそうです。むしろ、「この人と先に出会っていたら…」なんてことは、少なくないのではなかろうか。
 そして、そういう感情の「暴走」が「理性」で抑えられるくらいのものであるのなら、確かに、それはもう、純粋な「恋」ではないのかもしれませんね。

 でも、江國さんが書かれていることに「そうだよなあ…」と頷いてしまう一方で、「恋愛に不自由な人間」である僕としては、「そんな自由恋愛社会なんて、滅茶苦茶になりそうだし、だいたい、江国さんみたいにモテる人はそれでもいいだろうけどさ……」などと考えてみたりもするのです。たとえお互いに「打算」や「意志の力」に縛られているのだとしても、心の平穏が得られるのなら、それはそれでいいのではないか、と。

 「恋」というのは、本質的には「結婚制度」とは、相容れないものなのかな、と僕はこれを読んで思ったのです。そして、僕は、純粋な「恋」に、たどり着くことはないのかもしれません。
 こういうのは、どちらが「正しい」とか「幸せ」かなんて、誰にもわからないことなのでしょうけど。