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2005年02月11日(金)
「大安」や「友引」は、差別の温床なのか?

京都新聞の記事より。

【滋賀県の大津市職員互助会(理事長・佐藤賢助役)が、昨年末に発行した2005年版職員手帳に、大安や仏滅などの「六曜」を新たに記載。県内の人権団体や職員の一部から「人権啓発の主体である市として不適切」との指摘を受け、発行済みの約3800冊の全面回収と焼却処分を予定していることが10日、分かった。
 手帳は市の全職員に無償配布し、市民にも510円で販売している。以前は六曜が記載されていたが、人権問題への配慮から1990年版から取りやめていた。
 今回の記載は、昨年初当選した目片信市長(元衆院議員)が「国会議員の手帳は日付に六曜が記され、便利だ。職員手帳にも記載してはどうか」と提案、互助会事務局の市人事課が受け入れた。同課の齋藤弘課長は「人事異動で担当者が何人も交代し、記載しない理由が引き継がれていなかった」としている。
 人権団体などからの指摘を受け、市は回収を決めた。市人事課は24日、各部課長や出先機関の長を対象に人権研修を行い、25日から手帳を回収する。密封して集め、焼却処分する予定。
 市が住民向けの人権研修に使っている滋賀県発行の冊子は、日柄の良しあしと関連付けられがちな六曜について、差別意識と絡め「非科学的な迷信で、こだわらないことが大切」としている。
 佐藤助役は「迷信や風習にとらわれてはいけない、という人権啓発の主体であるべき行政が、逆行する判断をしてしまった。反省して改めたい」と話している。】

参考リンク:
「六曜迷信と差別解消への行動」(篠山市人権・同和教育研究協議会)

「広報ひかわ・9月号」


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 「結婚式は大安(あるいは友引)」「葬式は友引は絶対にダメ」、そういう言い伝えを本気で信じている人は現代ではあまりいないと思うのですが、それでも、自分のこととなると、世間体といものもあるし、結婚式ならともかく、あえてお葬式を「友引」の日にやろうという人はいないと思います。そもそも火葬場がお休みだったりするわけですし。
 しかしながら、こういう因習がずっと続いてきた理由というのは、「多少日をずらしてもあまり大きな影響はないのなら(そもそも、結婚式や葬式なんて、そうそう頻回にやるものでもないですし)、とりあえず通例のようにやっておいたほうが無難かな」というようなものだったりするわけです。まあ、結婚式であれば、仏滅で不幸になるとしても本人たちだけの問題かもしれませんが、葬式なんて「他の人を連れて行く」なんて言われたら、やっぱり気持ちのいいものではないですしね。そのほかにも家を新築するときの地鎮祭などでも、こういう「六曜」の影響というのはいまだに残っているようです。

 この記事に関して、僕が最初に思ったことは、「もう作ってしまった手帳を、この『六曜』が載っているというだけの理由で、3800冊も廃棄するのは、勿体ないんじゃないの?」ということです。
 そこで、「六曜」と「差別」について調べてみたのですが(参考リンクをご覧ください)、どうも、「六曜」そのものには別に差別との直接の因果関係はなさそうで、もともとは中国から輸入された習慣らしいのですが、現代にまで伝わっているものは、江戸時代に完成されたもので、とくに『原典』とか『宗教的バックボーン』とかいうものはないようです。
 では、どうしてこの「六曜」というのが、ここまで槍玉に挙げられているのかというと、「六曜のような迷信に従う非科学的な姿勢が、差別の温床になっている」というのが、人権団体の主張。まあ、確かに何の根拠もなく、実際の出来事との因果関係も証明されていないのに「昔からの習慣だから」とか「従ってもそんなに大きな問題はないから」「縁起が悪いから」というような発想は、非科学的であまり褒められたものではないのかもしれませんが、正直、そこまで目くじら立てないといけないことなのだろうか?とも思うのです。
 「人権啓発」と「六曜弾劾」というのを結びつけるのは、現代人の僕としては、ちょっと不自然というか、そこまでやらなくてもいいんじゃない?という印象すら受けますし。
 そもそも「担当者すら六曜が載っていない理由を知らなかった」という状況で、手帳だけ捨ててしまうことに、どのくらいの意義があるのだろうか?という気もします。
 差別意識というのを無くしていく過程として、この「六曜」のように、「実際は無くてもほとんど影響のない非科学的な慣習の根絶」をモデルケースとしてやっているのかもしれませんが、だからといって、役場の人が結婚式をやるカップルや身内を失った遺族のところに行って、「六曜に惑わされてはいけませんっ!」って説得しているわけでもないですしね。だいたい、もしそんなことをやって、隣のおじいさんが「友引の葬儀」の直後に急逝されたりでもすれば、「やっぱり…」ということにならないともかぎらない。
 逆に、何も起こらなかったとしても、みんな、それが当たり前のことだとしか思いませんから…

 たぶん、多くの日本人は、「六曜なんて、迷信」だとわかっているのだと思います。そして、現実的にも、六曜の影響する範囲なんていうのは、ものすごく少なくなっていますし、今30代である僕たちが還暦を迎えるころには、自然消滅してしまう慣習なのではないでしょうか。「差別をなくす」というのは、人類にとって永遠のテーマなわけなのですが、「人権団体」の人々には、そんな「魔女狩り」以上に、やるべきことなんてたくさんあるような気がするのですけど。
 僕としては、正直、「六曜が載っていることを理由に、3800冊の手帳が焼き捨てられてしまうこと」のほうに、居心地の悪さを感じてしまうのです。「来年からは載せないようにします」というくらいで、十分なのではないかなあ。
 現在の日本において、そういう「迷信」と「差別意識」を過剰に結びつけることに、はたして、そんなに意味があるのでしょうか?

 その一方で、「六曜迷信」が強く叫ばれていた時代に比べて、現代人の「差別意識」というのが薄れてきたのか?と問われると、むしろ、僕が子どものころに感じていたような、「潔癖すぎるほどの、差別することへの罪悪感」みたいなものは、次第に失われつつあるのかな、とも思うのですが……