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2004年12月24日(金)
「メリー・クリスマス」を救え!

読売新聞の記事より。

【クリスマスを堂々と祝うべきか、それとも、非キリスト教徒への配慮から、慎むべきか――。キリスト教徒が国民の8割強を占める米国で、「12月のジレンマ」と呼ばれる議論が、例年以上に過熱している。

 ▼サンタクロースや「ジングルベル・ロック」はOKだが、イエス・キリスト、「きよしこの夜」はダメ。

 ▼オフィスで開くのは「クリスマスパーティー」ではなく「年末パーティー」。「クリスマス休暇」ではなく「冬休み」。

 「政教分離」と「信教の自由」を憲法修正第1条で定める米国では、クリスマスの宗教色はかなり薄まっていた。政府庁舎など公共施設ではクリスマスの飾り付けが見られない。イリノイ州の小学校は昨年から、スクールバスの中でクリスマス曲を流すのを禁じた。

 クリスマスツリーについてさえ、「宗教的なシンボル」として、「私企業のオフィスなら良いが、公共の場では禁止」(フロリダ州パスコ郡)や「コミュニティーツリーと言い換えるべきだ」(カンザス州ウィチタ市)といった、日本人にはにわかに信じがたい条例もある。

 今年は大手デパート、メーシーズが顧客への宣伝で「クリスマス」の表現を取りやめたことから、ついに不買運動が起こった。

 不買運動「メリー・クリスマスを救え」創始者の1人、カリフォルニア州サクラメントのマニュエル・ザモラノさん(56)は「26日になれば手のひらを返したかのように『アフター・クリスマス・セール』をやるくせに『クリスマスは禁止』かね。政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)を追求しすぎて、大半の消費者を敵に回している」と憤る。
 これに対し、メーシーズの親会社、フェデレーテッド・デパートメント・ストアーズ(オハイオ州シンシナティ)のキャロル・サンガー副社長は「1950年代のアメリカではない。非キリスト教徒もいれば、宗教と距離を置く世俗的な人々も多い」と主張するが、2万人以上が参加する運動の広がりは脅威でもある。
 こうした騒ぎや訴訟は、今年に入って700件以上にのぼるとされる。
 ブッシュ大統領再選に影響力を持ったキリスト教右派ら保守派は「行き過ぎ」に猛反発し、巻き返しを図る。宗教関係者は毎日、ラジオのトークショーなどで批判を展開。「史上最悪と言えるほど過激な検閲だ」(宗教団体、「米国・法と正義センター」)といった主張は、「どこかおかしい」と感じる市民に浸透し、不満層を奮い立たせる。
 宗教問題に詳しいラザフォード研究所のジョン・ホワイトヘッド所長は「ハヌカ(ユダヤ教の神殿清め祭)、クワンザ(黒人の収穫祭)は認められているのに、なぜクリスマスはいけないのか。逆差別されていた多数派(キリスト教)が怒り、振り子は逆方向に戻っている。このような不満に宗教右派の存在が火をつけた」と、例年になく騒がしいクリスマスを分析する。】

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 「宗教に対して寛容な日本人」である僕としては、ここまで「クリスマス」で争うわなくても、やりたい人はやればいいし、やりたくない人は放っておけばいいんじゃないかなあ、とも感じるのですが。
 まあ、僕も含めた大部分の日本人にとっては、「クリスマス」というのはひとつの「イベント」でしかなくて、そこにある宗教的な色彩というの意識している人は少ないのではないでしょうか?とくに1980年代末から、1990年代前半に大学時代を送っていた僕としては、クリスマスというのは、「一緒に過ごす恋人がいるかどうか?」で、「勝ち組」と「負け組」に分かれる、あまり嬉しくないイベントだったような気がします。「今日は用事があるから…」なんてそわそわしながらいつもより早く帰り支度をはじめる部活の同級生たちに、「お前らの『用事』って、いったい何やねん!」と似非関西弁で問い詰めたくなる気持ちでいっぱいだったのを、よく覚えています。当時は、学生でも「高級レストランと高級ホテルを予約して2人っきりで…」なんてのが、「常識」だった時代でもありますし。
 そして僕たちは、「キリスト教徒でもないのに、なんでクリスマスとか関係あるんだよ!」と毒づきながら、みんなで集まって性質の悪い酒など煽ったりしていたわけなのです。

 しかしながら、今から考えると、まあ、ああいう日が1年に1日くらいあっても悪くはないかな、とも思うんですけどね。少なくとも、朝起きて、枕元にプレゼントが置いてあるのを発見したときは、けっこう嬉しかったし。見慣れたデパートの包装紙で包まれていたとしても、やはりそこには、ちょっとした夢みたいなものもあったような気がするし、若い恋人たちが、公然とイチャイチャできるような日というのもいいかな、と。「負け組」にとっては、精神鍛錬に役立ちました。

 それはさておき、このアメリカでの「クリスマス論争」というのは、本当に難しいところですね。確かに「少数派に配慮」するというのは大事なことなのですが、その一方で、「キミたちは多数派で勢力も強いのだから、少数派に対して譲歩したまえ」というのが、多数派にとって「逆差別」という印象を与えるというのもよくわかります。本来ならば、「宗教的少数派も、多数派も同様の権利を有する」のがスジなのでしょうが、実際にそうなってしまうと、多数派のプレッシャーが強くなりすぎて、少数派にとっては生きにくい世の中になってしまうのだろうし。とはいえ、「宗教色のないクリスマス」というのは、もともとキリスト教の宗教的行事であったのだから、「そんなの意味あるの?」とも思えます。この背景には、イラク戦争に対するブッシュ大統領の「十字軍」発言により、アメリカ国民の「政教分離」に対する危機感が煽られたため、なんて話もあるようです。
 そう考えると「そこまで神経質にならなくても…」と感じる一方で、「そんなに神経質になるほど、不安が広がっているのか…」とも考えてしまいます。気軽に「そんな細かいこと気にせずに、楽しくクリスマスをやればいいのに」なんて言うのは、「平和ボケ」「宗教ボケ」してしまった、日本人の感覚に過ぎないのかもしれません。
 でもねえ…別にクリスマスを排除したからって、アメリカでのキリスト教徒の「宗教的影響力」には変わりないのだから、そういう「目に見えるものだけを覆い隠す」という行為が、本当に意味があるのかどうかには、ちょっと疑問もあるんですけどね。
 そういう「形だけかもしれないけど自制していること」を評価すべきか、ナンセンスだと笑いとばすか…「宗教」というのは、非常に難しい問題ですよね。
 たぶん、一般のアメリカ人たちは、こういう「クリスマスを救え!」とか「クリスマスは差別だ!」という「問題意識を持つ人々」の論議とは別のところで、「ま、クリスマスはクリスマスだから」と、楽しんでいるのだろうし、それはそれでいいとも思うのですが。

 別に、サンタクロースやトナカイが悪いことをしたわけじゃないのにね。