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2004年10月17日(日) ■ |
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誰が、物事の「価値」を決めているのか? |
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「プチ哲学」(佐藤雅彦著・中公文庫)より。
【「価値のはかり方」について 普通、寿命というのは時間で測りますが、トイレットペーパーの場合、寿命は長さで測る、という考え方も成立します。 ひとつの事柄には、いろんな価値が存在します。例えば1kgの金塊は、お金に換えると莫大な額の数字になりますが、つけもの石として使うとしたら、1kgの価値しかありません。あるものの価値を測るのに、いろんなっものさしがあるということを知るのはとても大事なことです。そして、その時もっと大事なことは、どのものさしをあなたが選ぶかということなのです。】
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僕はこれを読んで、ものごとの「価値」というものについて、あらためて考えました。例えば「お札というのは、みんながこれを『お金』だと認めているから価値があるわけで、そうでなければタダの紙切れだ」ととか言いますよね。 結局、「絶対的な価値」なんていうのは存在しなくて、どれだけ多くの人がそれに価値を認めるか、という「ものさし」の集積でしかないのでしょう。 例えば、イチローの年間最多安打と同じような「大記録」が、ハンドボールやボーリングというった比較的地味な競技で作られたとしても、そこに「価値」を見出す人が少ないのと同じで。 確かに、人気スポーツは競技人口が多くてレベルが高いという面はあるかもしれませんけど。
たぶん、世間には「イチローがどんな大記録を作ろうが、所詮野球選手じゃないか」という「ものさし」で判断する人もいるでしょうし、「プロとしてのサービス精神が足りない」という「ものさし」で判断する人もいるでしょう。 まあ、イチロー選手の場合はともかくとして、僕も自分の周囲に人について考えるときにいろんな「ものさし」を用いているのです。 例えば「やさしい」とか「不器用」だとか「頭がいい」とか。 でも、同じ人に対して、「甘い」とか「堅実」とか「鼻につく」とかいう印象を持つ人もいるわけで、よく小学校の通知表に書かれていたように「優しさ」と「優柔不断」というのは、紙一重というより、その「価値」を判断する人の立場や「ものさし」によるものですから。街頭で募金箱に1000円入れるサラリーマンは、世間一般からみれば「優しさ」でも、妻からすれば「今月は苦しいのに…」と苦虫を噛み潰すような行為かもしれません。
僕はどうも、他人に対して、欠点ばかりを測る、ネガティブなものさしを使ってしまうことが多いので、自分で金塊をつけもの石にしてしまっているような気がします。 無意識のうちにそういう「ものさし」を使う癖がついていて、自分で判断しているにもかかわらず、それが絶対的な「価値」だと信じ込んでしまいがち。 「短所を見て自分を安心させる」より、「長所を見て自分の糧にする」ほうが、はるかに自分にとって有益なはずなのにね。
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