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2004年09月15日(水)
宅間守の「早すぎる死刑執行」に思う。

産経新聞の記事より。

【遺族ら悔しさ新た 帰らぬ子供 悲しみは癒えず
 十四日、明らかになった宅間守死刑囚(四〇)の刑の執行。死刑判決が言い渡されたのは昨年八月末。約一カ月後の刑の確定から、一年足らずという異例の早さだった。突然の連絡に付属池田小の犠牲者の遺族は絶句し、謝罪のないままの執行に悔しさを新たにした。「刑が執行されるまで、事件は終わらない」としてきた遺族の悲しみと怒り。刑は執行されても、遺族ら関係者の心が安らぐことはなかった。
 この日、刑の執行を伝えられたある遺族は「えっ、本当ですか」と一瞬、絶句した。「(刑確定から)ちょうど一年ぐらいですか。長かったかな」。遺族はしみじみとつぶやき、こう続けた。
 「八人もの子供を殺しておいて、なぜいつまでも生かされるのか、という気持ちもありました。昨年(の刑確定)から自分に『もう決まったんだ』と言い聞かせてきた。あれだけの罪を犯して判決を受けたのだから、執行は当然です」
 別の遺族は「執行までに、子供たちへの謝罪はあったのかが、気になります。執行されても子供が帰ってくるわけじゃない。でも、元気に跳びはねていた命を理不尽に奪われた子供たちには謝ってほしい」と声を震わせた。
 昨年の冬、池田小では、子供たちの間で宅間死刑囚の刑が執行されたといううわさが流れたという。
 凶行を目の当たりにした少年の母親によると、「(宅間死刑囚は)死刑になったんでしょ」。めったに事件のことを語らない息子がそう口にしたという。「まだだと思うけど。きっとそうなるから安心してていいよ」。そう答えるのが精いっぱいだった。
 少年は、宅間死刑囚が無言のまま引き戸を開けて一階の教室に侵入し、同級生たちを刺す光景を目の当たりにした。発生直後は「なんかこのへんがいっぱいなの」と自分の胸を指さした。樹液を見て「血が流れている」と言ったこともある。
 「いまでも、物音や暗闇には敏感で、『音がする』といって私がバットを持って見にいくとネコだったりすることもあります。事件の影響がこれからどういう形で出るのかわかりません」。当時、二年生だった子供たちも五年生になった。いまも子供たちの心身の傷の回復に心を砕く。
 重傷を負わされた児童の親は「一年以内は早いのでしょうが、正直言って過去のお話のような感覚すらあります」と淡々と語り、「反省したのか、生き続けることに未練を残して苦しんで死んだのか、そういう詳しい姿を知りたかったなと思います」と話した。法務省には執行前に知らせてほしいと要望していたが、連絡はなかったという。
 同小の大日方(おびなた)重利校長は刑の執行について「亡くなった八人の児童たちのご家族の皆さま、負傷したり、心に傷を負っている児童たちとそのご家族の皆さまのお気持ちの回復に少しでも助けになることを願わずにはいられません」とコメントした。】


時事通信の記事より。

【宅間守死刑囚ら2人の刑が執行されたことを受け、「死刑廃止を推進する議員連盟」(亀井静香会長)のメンバーが14日、法務省を訪れ、樋渡利秋事務次官に野沢太三法相あての抗議声明を手渡した。
 声明は「国会閉会中で、野沢法相の在任期間が残りわずかなタイミングでの執行は、死刑に対する議論を行わせない政治的な意図がある」としている。
 面会後会見した議連事務局長の山花郁夫衆院議員によると、野沢法相は政務のため不在。法務省側は「2名の執行があったのは事実だが、名前は公表していない」と回答し、抗議声明には「しっかり大臣に伝える」と答えたという。
 山花議員は「時間の経過で心境の変化や謝罪の意が生まれる場合もある。それが全く引き出せない刑の執行は本当にいいのかどうか」と確定から1年での執行に疑問を呈した。】

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 死刑確定後1年での執行に、疑問の声も上がっている、宅間守死刑囚への死刑執行。僕も昨日の昼にこのニュースを知って、「えっ、もう?」と驚きました。だって、彼の控訴取り下げによって死刑が確定したのは、つい最近のような気がしていたから。

 今回の執行に対する世間の反応には、大きく分けて3つのタイプがあって、ひとつは「死刑も当然だし、速やかに死刑を執行するのもやむをえないことだ」というもの。二つめは、「死刑は当然だが、時期尚早だったのではないか?」というもの、そして三つめは、「死刑制度そのものが間違っている」というものです。
 「死刑制度そのものが間違っている」という意見については、正直なところ、「宅間死刑囚に対しても、『死刑は間違っている』と一点の曇りも無く言える人は、本当に筋金入りの(加害者側の)人権主義者、あるいは世間で起こる事件は、すべてテレビの中だけで起こっていると感じている人なのではないか、と思うくらいです。

 逆に「死刑廃止論者」たちにとっては、「宅間はどうなんだ?あんなことをやっても、死刑にならなくていいのか?」と問われることは、一種の「踏み絵」だったのではないでしょうか。

 執行の時期については、僕も、「(死刑執行が)早いな」とは思ったのです。そして「なるべく早く死刑にしてくれ」という死刑囚を希望通り死刑にしてしまうのは、ある意味「敗北」なのではないかなあ、と。
 こんなに早い執行は「遺族・社会感情に対する配慮」だったのか、それとも、「死刑になる男へのせめてもの温情」だったのか…

 「反省の言葉もないままに、死刑にしてもいいのか」
 これは、確かにどうなのだろうか、とは思うところです。宅間死刑囚だって同じ人間なのだから、「罪の意識」というのを持つことはできるはずだ、そうであってほしい、でないと「宅間のようなモンスター」が世間をウヨウヨしているのではないか、という恐怖は拭い去られることはありません。
 そもそもあんな残虐かつ身勝手な犯罪をやった男に対してさえ、「支えてあげたい」と獄中結婚を申し出る人がいたり、「社会・環境のせい」というエクスキューズを用意してあげる人たちだっているのだし。

 でも、その一方で、「それじゃあ、その『罪の意識』を持てない人間は、それが芽生えるまで粘り強く待ってから死刑にして、すぐに『罪の意識』を持って謝罪した犯罪者は、順番に絞首台行き、というのは、あまりにも「不公平」なのではないかな、と考えざるをえないのです。
 「死刑より厳しい、罪の意識を抱えて生きる無期懲役」なんていうけれど、そんなに残虐な刑なら、むしろ「無期懲役廃止運動」をやったほうがいいのではないか、とも思うし。
 「死刑になりたくないから、謝罪しない」なんて犯罪者だって出てくるかもしれない。
 死刑囚の手記を読むと、彼らが非常に辛い思いをしていることはわかります。とはいえ、人間というのは、生きているかぎり「全然何の喜びもない人生」とか「一日中頭の中は自責の念ばかり」なんてことは、絶対ありえないのではないでしょうか。
 1日の「生活」の中では、昔の楽しかったことを思い出すことだってあるだろうし。
 そして、「生きている」ということには、やはり「死」との大きな違いがあると思うのです。
 宅間の苛立ちをぶつけるために殺められた子どもたちは、もう二度と「何かを考えることもできない」のだから。
 死んでしまった人間には「何もない」のです。もちろん「子どもたちは天国で幸せにやっている」という希望を僕は否定するものではありませんし、そうであってもらいたい、とは思っているのだけれど。

 本当は、僕にもよくわからないのです。
 宅間守という男を、いったいどうするのが「正解」だったのか、ということが。
 「死んでもいい、あるいは死を望んでいる」という人間にとっては、どんな「悪事」に対しても、真の意味で「贖罪」をさせることなんて不可能なのではないか、という気がしてなりません。
 そもそも「懲役刑」とか「罰金刑」とか「死刑」なんていうのは、それを苦痛だと思う人間に対して行使されるから効果があるわけで、ビル・ゲイツが「一万円の罰金刑」とかに処せられても「払いに行くのがかったるいなあ」という感じでしかないはずです。
 「自由を奪われる」とか「死」というのは、多くの人間にとって最大公約数的に「苦痛なこと」なはずですが、宅間死刑囚のように、「自分の死を望み、しかも他人に苦痛を与えることを望む人間」には、「刑罰」にならないのでは、とも思うのです。
 彼にとっての「苦痛」とは何だろう?と考えると、それこそ拷問のような肉体的・物理的苦痛しかないのかもしれません。
 でも、そうするわけにもいかないのが近代社会の建前だし、僕の考えられる範囲では、「死刑」以上の「贖罪に少しでも近い方法」というのは、思いつかないのです。
 確かに、宅間が「反省」していれば、「ナチュラル・ボーン・キラー」なんて存在しないさ、と安心できるところはあるかもしれないけれど、そのために、彼に「生きる時間」を与えて「人格改造」をやることの意義というのは、いったいどこにあるのでしょうか。

 僕は怖い。
 彼のように「罪の意識が欠落して(あるいは、ある種の狂信的な状態になっていて)、自分はどうなってしまってもいい」という人間にとっては、現代社会はあまりに無防備だから。
 「自分も死ぬつもり」というテロリストが満員電車で自爆テロをやったり、刃物を持って路上で切りかかってきたりしたら、誰だって次の被害者になる可能性はあるのです。
 でも、そういうことに神経質になりすぎていたら社会生活は送れない。

 結局、「救いようのないことが、世の中にはあるのかもしれない」という虚しい気持ちだけが取り残されて、僕の周りを漂っています。

 せめて、宅間が死刑になったことによって、少しでも遺族の方々や被害にあった子どもたちの心の傷が癒されるきっかけになってくれればいいのだけれど…
 今の僕にはただ、そう「願う」ことしかできなくて。