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2004年08月25日(水)
「中立を保つ」という危険な選択

「マキアヴェッリ語録」(塩野七生著・新潮社)より。

【わたしは断言してもよいが、中立を保つことは、あまり有効な選択ではないと思う。
 とくに、仮想にしろ現実にしろ敵が存在し、その敵よりも弱体である場合は、効果がないどころか有害だ。
 中立でいると、勝者にとっては敵になるだけでなく、敗者にとっても、助けてくれなかったということで敵視されるのがオチなのだ。
                       −『手紙』−】

〜〜〜〜〜〜〜

 「結果さえよければ、手段は常に正当化される」という「マキアヴェリズム」の語源となった、ニコロ・マキアヴェッリの著作の言葉を塩野さんが抜粋したもののなかに、この一節は出てきます。

 僕は子供のころから、「人間は、なるべく中立(あるいは、「公正」と言い換えたほうがいいかもしれません)であるべきだ」と思っていました。他人に対して自分の感情で贔屓をしてはならないものだ、と。
 でも、今、ひとりの大人として考えると、人間というのは、「公正さ」に魅かれるものではないのだなあ、という気がするのです。もちろん、対象が赤の他人であれば「公正な判断ができるなんて、すごい」と素直に感動できるのですが、その「公正な判断をされるべき対象」に自分が含まれている場合には、やはり「自分の味方をしてくれる人」や「自分を評価してくれている人」というのを「公正な人」以上に好ましく思ってしまうのです。
 「公正な人に評価してもらえる」というのが、いちばん良いことなんでしょうけどねえ。
 そして、「敵がいない人」というのは、逆に「友達もいなくなる」のではないかという気もします。
 誰かと仲良くするというのは、往々にして、その仲間の敵を自分の敵にしてしまう、ということになりがちです。
 逆に「自分はみんなと仲良くするんだ!」「他人に迷惑はかけないんだ!」とかいうタイプの人が、いざというときに自分が頼れる人がいない、という悲喜劇は、けっして少なくないのが現実で。

 「中立を保つ」というのは、安全かつ平和的にみえるのですが、確かに、本当はものすごく危険な選択なのかもしれません。勝った側からも負けた側からも「日和見主義」とか「味方してくれなかった」なんて恨まれるのだから、いちばん「割に合わない戦略」なのです。
 スイスが「永世中立国」を宣言しているのも「まあ、あのくらいの規模の国だから可能なこと」と言える面があるのかも。「中立国」と言いながらも、軍隊は持っていますし。
 「中立」っていうのは、簡単そうに見えて、ものすごい「覚悟」が要ることみたいです。
 争っている両者が疲弊したところに乗じる、なんてしたたかさがあれば、話は別なんでしょうが。