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2004年05月29日(土)
「生きること」と「生きることの意味」のあいだに

「風の歌を聴け」(村上春樹著・講談社文庫)より。

【僕にとって文章を書くというのはひどく苦痛な作業である。一ヶ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。
 それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える……そんな気がした。
 それが落とし穴だと気がついたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。
 僕たちが認識しようと務めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。】

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 「文章を書くのは苦手」という人はけっこう多いと思います。僕も昔はそうだったのですが(夏休みの宿題の読書感想文とか、まともに提出したのは学生生活を通じて一度か二度ですし)、最近はさすがに「苦痛な作業」ではなくなってきましたが。
 「風の歌を聴け」は、村上春樹さんの実質的なデビュー作で、ここに書いてあることは、もちろん100%の本心ではないにしても、今のような大ベストセラー作家になる前の、「作家志望の文章書き」だった村上さんの思想が反映されているのではないか、と思います。
 「文章を書く」という作業は、ずっと続けていると、苦痛とともに快楽をもたらすのは事実です。【生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単】という部分は、まさに「文学」というものの本質なのかもしれません。
 「恋愛をすることよりも、恋愛論を書くことは簡単」なのですから。
 もちろんその「恋愛論を書くこと」と「それが多くの人に支持されること」というのは別物なんですけどね。
 「文章を書く力」というのは、ある意味「イメージの力」なのではないかなあ、と思うことがあります。「世界の中心で、愛をさけぶ」の作者の片山恭一さんは、こういう言い方をしては失礼なのですが、どこにでもいそうな普通のオジサンですし、村上春樹さんだって、とりたててカッコいい人ではないですし。もちろん「個性的」ではあるんですけどね。そして、「現実でのやるせなさやもどかしさ」みたいなものと、頭の中で理想としてきたイメージが、作品に反映されているのではないでしょうか。現実ですべてがうまくいる人は、創作よりも現実を生きるものではないのかなあ。
 逆に、中谷彰宏さんなどは、見た目はカッコいいのかもしれませんが、文章の中身は…
 「モテナイ組」の僕としては、「文章を書く」という行為は、「どうしようもない自分」を何か意味ありげに見せてくれるような気がするんですよね。村上さんや片山さんのように、収入を得られたり、他人の人生に影響を与えられるクラスの「作家」になれば、そこにはまた別の「意味」が生まれてくるのかもしれませんが。

 少なくとも「人生を語ること」は「生きること」よりはるかに簡単です。その2つのあいだには「理想の医者について他人に演説すること」と「自分が理想の医者であること」と同じくらいの格差があるのです。

 「書こうとしているもの」と「書いているもの」には深い溝があって、「伝えたいもの」と「伝わっているもの」のあいだにも、高い壁があるのです。それは、ひとりひとりが違う人間であるかぎり、やむをえない宿命。
 「書くことによって救われる」というのは、おそらく幻想なのです。
 本人が「救われたような気になっている」だけのことで。
 どんなに「辛い状況でがんばっている自分」を文章にしてみても、現実世界で他人に見えているのは、「悲劇のヒロインぶっているナルシスト」だったりするのですよね。

 まあ、世の中そういう人間ばかりだからこそ「文章を書くこと」の存在意義があるのだろうし、僕もその恩恵を受けているひとりなわけですけど。