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2004年01月17日(土)
「来年咲く花」

「天狗の落とし文」(筒井康隆著・新潮社)より。

【「この花は来年咲きます」
 花屋の店頭で、裸女を思わせる風変わりな植物の鉢植えを見つけ、主人からそう聞かされてさっそく買った。どんな花が咲くのだろうと楽しみにしていたのだが、翌年は咲かなかった。来年咲くのだろうと思っていたが、その翌年も咲かなかった。おれはやっと気がついた。これは常に「来年咲く花」なのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これは常に「来年咲く花」。
 この話を聞いて、どう思われたでしょうか?
 この花屋の主人は酷いやつだ、と感じる人もいたのではないかなあ。
 でも、僕はなんだか、この花にとても惹かれてしまったのです。
 おそらく、この花の「正体」に気がつく前の主人公と同じように。
 「来年咲くはずの花」には、行く前の旅行や読み始める前の本のような、「想像する楽しみ」がたくさんつまっています。
 その状態なら、誰もが心の中で「理想の花」を咲かせることができるはず。
 現実にもし「来年」どんなに綺麗な花が咲いたとしても、それはたぶん、僕が「咲くと思っていた花」の美しさにはかなわないと思うのです。

 「世界に一つだけの花」ではありませんが、「可能性」というのは美しいものだと思います。同じ「貧乏でカップラーメンばっかり食べている生活」でも、夢を追っている若者の場合は、なんとなく明るくて、独居老人の場合は、強い哀調が感じられるのは、このためなのでしょう。
 もっとも、「可能性」というのは、年齢だけに左右されるものではありませんが。
 
 それにしても、この世には「来年咲くはずの花」が、どんなに多いことか。僕自身も、自分のことを「来年咲く花」だと思い込みながら、結局、まだその花を見ることができていないような気がします。

 夢とか希望とか可能性というのは、人間を満たしてくれます。
 でも、その一方で、その「来年咲く花」の想像ばかりしていてもいいのかな、という気もするのです。
 傍目からみたら、もう枯れきっているのに「これから花が咲く」と思っている人は、けっこう多いのではないでしょうか?
 それはそれで、ひとつの「幸せ」なのかもしれないけれど。