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2003年11月02日(日)
すべての人間は、ギャンブラーである。

「Number・587」の記事「今様競馬随想」(福田和也著)より。

【友人の、外道イタリア料理人澤口は、高価なワインの栓を抜くのも、ワケのわからない骨董を買うのも、ギャンブルだから、素養はあるのだ、と云う。立川談志師匠も、博打とは主観を客観と一致させる遊戯−つまり、自分の解釈、分析、読み筋が、実際の結果と一致するかどうかを競う−だと云ったけれど、それと同じことだね。そうなのかもしれないが、でもギャンブルに興奮しないのは、しないんだから仕方がない。】

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 僕は競馬場が大好きなわけなのですが、競馬場にいる人たちをよく観察していると、実は、みんな華麗なるギャンブラーとかじゃないのです。家にも居場所がなさそうなオジサンたちが、馬と騎手に向かって「コラ!○○!もっと前行かんかい!」とか、叫んでいるわけです。それも何百円かの馬券を握りしめて。
 そういう光景を見ると、情けないなあ、と思いつつ、まあ、この人たちはこれで日頃のストレスを解消しているんだろうなあ、という気にもなるのです。
 今までにも何度か引用してきた言葉なのですが、かの寺山修司は、「賭博には、人生には味わえない敗北の味がある」という名言を残しています。
 昔の僕は、この言葉に対して「負け惜しみ」だと感じていたのですが、最近は、この言葉の真意が理解できるようになったような気がします。
 人間というのは、とかくあきらめの悪い生き物で、どんな状況に置かれても、「なんとかなるんじゃないか?」と思ってしまうのですよね。でも、どうにもならないことが世の中には非常に多い。それでも、人生はなかなか投げ捨てられない。
 でも、博打は違います。負けてしまったら、「負けた…」と落ち込みまくることができますし、負けたからといっても、生活が窮迫するくらいの多額でなかったり、まわりに当り散らして嫌われたりしなければ、単に「お金が減った」というだけのことでしかありません。いや、それがいちばんの問題なのかもしれないけど、競馬で負けても仕事がなくなるわけでもないし、身内が病気になるわけでもない。
 安心して、敗北感に浸れるのです。
 ある意味、「プチ自殺」とでも言いましょうか、人間のタナトス(死にたい、という根源的な欲求)を満たしてくれる存在なのかもしれないなあ、という気もするんですよね。

 逆に考えると、「競馬をやるなんて、信じられない!」というような人が、傍からみて「大丈夫なの、その人?」というような異性と結婚したりすることだって、けっこう多いのです。
 僕からすると、「そっちのほうが、競馬とかよりも大きなギャンブルじゃないのか?」とか思ってしまうのですが。
 むしろ、日頃ギャンブラーを気取っている人のほうが、そういう人生の転機に対して、保守的というか、踏み出せない一面があるのかなあ、などと思ったり。
 僕などは、まさにその典型とでも言うべきで。
人生における決断というのは、やっぱりある程度ギャンブルの要素を持っています。
 完璧な予想なんてありえない。
でも、ギャンブルに負けたからといって、他人に八つ当たりしたり、お金を借りて迷惑をかけたりはしないようにしたいものです。
 競馬場でも現実世界でも、問題は「ギャンブルに負けること」そのものよりも、「負け方」や「負けた後の態度」のほうにあることが多いわけですから。
 お金や恋人(いやそれだけでも大変なことだけど)を失った上に、友人や社会的信用まで一緒に失ってしまうのはあんまりだから。

 「ギャンブルなんて、最低!」と言っている女性のほうが、意外と「人生のギャンブラー」だったりするんですよね、実際は。