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2003年11月01日(土)
「現場で体験すること」と「画面を通して知ること」の乖離

「週刊アスキー」2003・11月4日号の鈴木慶一さんの「コンピューター使用レポート」より。

【ちょっと前の話になってしまいますが、ニューヨークの大停電をばっちり体験してきました……

(中略)

 停電を経験してわかったのは情報がいかに大事か、ということ。ニューヨークの人たちも、みんな何が起こっているのかがわからず、噂レベルの話が蔓延しているだけ。いつ復旧するのかもわからず、ずっと不安なまま。電気が復旧すると「いったいニューヨークでは、何が起こっていたの?」と真っ先に日本に電話をして訊ねたのでした。】

〜〜〜〜〜〜〜

 傍目八目、とか言いますが、確かに、実際に大きな事件や事故の渦中にいる人たちっていうのは、「ここで何が起こっているのか?」という全体的な状況が掴めないということが多いみたいです。
 それでも、周りの人間としては、「実際に体験してどうだった?」とか問うてしまうものなのですが。

 例えば、第3者(もちろん、被害者になる可能性がゼロではなかったわけですが)にとっての拉致事件は、「北朝鮮の国家的犯罪」なわけなのですが、拉致被害者の方々にとっての「北朝鮮による拉致」というのは、「いきなり知らない人たちに知らない土地に連れて行かれて、自由を奪われ、意味がわからないような仕事をさせられ続けた」という、個人的な体験なわけです。
 客観的にみた「歴史的な位置づけ」と「個人的な体験」の間には、やっぱりそれなりのギャップが存在するはずで。
 おそらく、「拉致事件」というものについて、被害者の方々が理解したのは、日本に帰国されてからなのではないでしょうか?

 それにしても、メディアの力というのは凄いですよね。
 僕たちは、自分の家のテレビやパソコンの前で、当事者たちも知らないような世界の情勢をほぼリアルタイムに知ることができるのです。
 ただ、そのことは逆に、目の前で起こっていることに対する「現実感」を失わせる要因になっているのかもしれません。

 今まさに墜落しようとしている飛行機に乗っている家族から電話がかかってきたら、どうすればいいんだろう、とか考えたことはありませんか?
 そう、どうしようもないんだけど、僕たちはそれを知ることができる時代に生まれてしまった。

 よく、大きなコンサートとかに行くと、ステージの上とかに大きなモニター画面があって、ステージ上の様子が映し出されていますよね。
 でも、せっかく現場にいるのに、モニターばっかり観ててもテレビ観てるのと一緒のような気がしませんか?
 でも、そちらのほうが「よく見える」のは間違いないんですよね。

 むしろ、現実は自分の体験の中にではなく、テレビ画面の中にあるのかなあ、なとど思ってみたり。