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2003年09月27日(土)
「邪教の徒」の著作を現代に伝えてきた人々

「ローマ人の物語〜ローマは一日にして成らず(上)」(塩野七生著・新潮文庫)の文庫版序文より。

【長かった中世時代を通じての書物とは、修道僧たちの苦労の結果である筆写本であったのでした。人間の手で一字一句を書き写していくのですから、当然のことながら部数も限られてくる。値のほうも高価になる。それゆえに、一般の読書人には手の届かない存在でありつづけたのです。印刷技術の発明は、この限界を取り払った。しかも、利点はこれだけではなかった。

 修道士たちは、彼らにとっては邪教の徒であるギリシアやローマ時代の人々の著作でも、まじめに筆写はしてくれたのです。古代の著作が現代にまで遺れたのは、彼らのおかげであったと言っても言いすぎではない。しかし、修道僧とは、キリスト教に生涯を捧げた人々です。キリスト教徒が読むには適していないと法王庁が定めた作品は、筆写はされても、修道院の奥深くに眠る歳月がつづいたのでした。

 それを探し出し世に出したのが、ルネサンス精神に目覚めた人々です。この人々の探究心の源は、ルネサンスの別名と言ってもいい「古代復興」が示すように、キリスト教が支配する以前の文化と文明への関心にあったからでした。そして、この精神運動と呼応するかのように、印刷技術の発明が起る。出版業の誕生は、この二つがドッキングした結果です。】

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 そして、印刷技術の発明と人々の「読書欲」が、教会からの精神的、経済的な自立をすすめ、出版業を発展させていった、という流れを塩野さんは書かれています。。
 この文章の中で僕が気になったのは、中世時代に書物を筆写していた修道僧たちのことでした。彼らが、キリスト教の教義に外れた、もしくは人々が読むのにふさわしくない、と考えていた本に対しても一生懸命筆写していたことが、その後の文化の伝承に繋がっていくわけですから。
 もちろん、筆写されることもなく歴史に消えていった書物もたくさんあるのでしょうが…
 それにしても、キリスト教の教義に生涯を捧げたはずの修道僧たちにとって、これらの書物を筆写するというのは、いったいどんな心境だったのでしょうか?
 「なんで俺がこんな本を…」とかブツブツ言っていた人もいたでしょうし、「教義はさておき、この本は人類の遺産として遺しておく必要がある」という意識を持っていた人もいたでしょう。
 中には、勉強がしたくて修道院に入った人もいたかもしれません。

 「書き写す」という行為は、価値を認めていたということですが、その一方で、それらの写本は教会の奥深くに秘蔵されていたわけです。
 それらの「教義に合わない本」のハマってしまった修道僧なども、きっといたんでしょうね。

 人間というのは、ほんとうに矛盾したところがありますね。
 教徒のためにならない、と考えていたものを一生懸命に保存し、伝承してきたのですから。
 現代から考えたら信じられないような宗教裁判や、戦争の引き金になったりと、宗教にはある種の「罪」もあるでしょう。
 しかし、このようなおおらかさも抱えていたからこそ、人類の文化は今まで生き延びてきた、ということなのでしょうね。