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2003年06月21日(土)
「引用は、選んだ人間のオリジナルである」


「マトリックス・リローデッド」の映画パンフレットより。

(映画監督・樋口真嗣さんのコメントから)

【いみじくもあの押井守監督が「映画における引用は選択する意思が介在する以上、選んだもののオリジナルである」とかつて強弁していた。引用そのものよりもどの部分を引用するか?が重要なのだ。】

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 これは、同じ映画作者として、「マトリックス・リローデッド」という作品内で、「ネオ(主人公)が襲いかかる無数のエージェント・スミスをはね飛ばす瞬間をブレッドタイムでキャメラ回り込み」というような、ある意味「誇張しすぎて滑稽にすら見える」というシーンなどの表現法について、同じ映画監督として、樋口さんが書かれていたものの一部です。
 「マトリックス」で使われたカメラワークや映像表現は、すべてがオリジナル、というわけではなく、香港映画などの強い影響を受けています。アクション監督は、前作同様、「グリーン・ディスティニ−」のユアン・ウーピンですし。
 それらの極東の映画たちが「マトリックス」に影響を与え、そして「マトリックス」が、
香港映画や日本映画、ハリウッド映画に影響を与え、そしてされに対して、「マトリックス・リローデッド」が応える、というふうに、お互いに「引用」しながら進化していっている、というわけです。

 押井守監督は、海外での評価も(むしろ、海外での評価のほうが、でしょうか)高い日本を代表する映像作家のひとりです。「うる星やつら」の映画版や「機動警察パトレイバー」などの作品で知られています。
 
 確かに、「引用」=「パクリ」というような印象を持たれる場合もあるかもしれませんが、その一方、「引用」の場合には、どうしても「引用する人間の嗜好や信条」といったものを避けては通れないと思います。
 たとえば、あるゲームについて、「面白かった」というプレイヤーの声を大きく打ち出せば、それは「面白いゲーム」という意思表示になるでしょうし、仮に少数意見でも、雑誌に「つまらない」という意見が大きく掲載されれば、「つまらないゲーム」というイメージを読者に植え付けてしまう場合があるように。
 もちろん、「多数意見」というのが存在する場合もあるわけですが、取り上げる側の「引用のしかた」において、受け手に与えるイメージというのは、けっこう違ってくるわけです。
 新聞などでは、「どの記事を大きく取り上げるか」という時点で、すでにそれは編集者や記者の「オリジナリティ」というのが出てきます。

 こうやってネット上に書かれる文章でもそうですが、「他人の書いたものの100%コピー」というのは、許される行為ではありません。
 でも、これだけ多くの表現が出てきている現代では、「何を取り上げるのか(つきつめれば、何をパクるのか)」という選択もひとつのオリジナリティ、ということは、確かに言えるかもしれません。
 ただし、押井さんが言っているのは完璧にそのままのコピーじゃなくて、面白い部分を引用して、濃縮したり改良することによって、さらに面白いものを創る、ということだと思うので、誤解なきよう。別に劣化コピーを推奨するつもりもありませんし。

 実際、「全く他の作品に何も影響を受けていないオリジナル作品」って、現代に生きる人間にには絶対に創れないと思います。
 「こんなのは絶対にマネしない!」っていうのも、「影響」には違いないから。