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2003年06月20日(金)
「52年間、普通の生活をさせてもらいました」


日刊スポーツの記事より。

(先日亡くなられた、新作落語の大御所、春風亭柳昇さんの追悼記事より)

【最期をみとった孝子夫人は「本当に穏やかに逝きました。主人には、ご苦労さま、ありがとうございます、の言葉しかないです。52年間、普通の生活をさせてもらいました。悔いはないです」と、むしろホッとした表情だった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「大きいことを言うようですが、今や春風亭柳昇といえば、わが国では私1人」というマクラ(語りだし)で知られた柳昇師匠が、先日亡くなられました。
 僕は柳昇さんのことにそんなに詳しいわけではないのだけれど、いくつかのテレビ、新聞、雑誌などでの追悼特集で、もっとも印象に残ったのが、52年間連れ添った孝子夫人のこのコメントでした。

 柳昇さんだって人間ですし、ましてや噺家の世界は「何事も芸のこやし」なんていう考えが色濃く残っている社会。きっと、夫人にもいろいろ辛いこともあったのではないのかなあ、と僕は思います(勝手なイメージで、実際は違っていたのかもしれませんが)。

 きっと、52年の間には、いろんな波風だってあったのだろうけど、そういったことも含めて「普通の生活」と孝子さんは仰ったのでしょう。
 この言葉に、僕は底知れない深さを感じるのです。

 僕たちは、「普通の生活」や「平凡な生活」が大嫌いです。
 他人とどこか違う、「非凡な」もしくは「すばらしい」生活を送りたいを思わないひとは(とくに若い人は)いないと思います。
 それで、浮気をしてみたり、犯罪に手を染めてみたり、人生に絶望してみたりもします。
 「平凡な人生なんて、つまらない」って。
 
 でも、実際は、どんな「普通の生活」にだって、嵐の日はあります。たとえば、「平年並みの気候」の年にも、快晴の日があれば、大雨の日もあるように。
 子供のころは、みんな努力が足りないから「普通の生活」しかできないんだ、と思っていたけれど、大人になって、やっとわかったような気がします。
 みんな、一生懸命頑張って生きて、なんとか「普通の生活」をしているんだ、ということが。

 実は、「普通の生活」をしていくというのは、ものすごく大変なことです。
 平凡を望むというのではなく、柳昇さんのように芸の道で大きな足跡を残した人も、妻にとっては「普通」だったわけですから。
 
 もちろん、より高い所を目指すのは大事なことです。
 というより、「高い所を目指す」くらいでないと、「普通」というのは維持できないもの。

 安易に「普通なんて嫌」だと理由をつけて、自分の欲望に負ける言い訳にする、というのが、多すぎるという気が僕にはするのです。

 「普通の主婦なんてイヤ」だから不倫。
 「普通のサラリーマンなんてイヤ」だから無謀な転職。

 「普通の生活」っていうのは、そんなに甘いもんじゃない。
 
 「52年間、普通の生活をさせてもらいました。悔いはないです」
 本当は僕にも、この言葉の凄味、まだわかっていないんだろうなあ…