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2003年04月08日(火)
その日から、「運命」という言葉が嫌いになった。


『西日本スポーツ』の記事「タカ番スクランブル」4月9日付、安枝記者のコラムより。

【どういう状態?というツッコミは抜きにして、以前、見合い結婚した女性に「これも運命だと思って…」と聞かされたことがある。
 自分に言い聞かせるような語り口と深いため息。
 その日から、「運命」という言葉が嫌いになった。】

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 福岡ダイエーホークスの番記者の方のコラムの冒頭の部分です。
 なんだか、訳アリっぽいシチュエーションであることは、間違いなさそうなのですが。

 僕たちは、けっこう「運命」という言葉を使いますよね。
 「運命的な出会い」とか、「その望みは叶えられない運命なんだ」とか。
 その一方、「宿命」という言葉も、この世界には存在します。
 この2つは、どちらも「自分の力ではどうしようもない大きな力(それは巡り合わせであったり、環境だったりするわけですが)によって、自分の進む方向が決定づけられてしまうこと」を示す言葉なのですが、用法には、微妙な違いがあるようです。
 けっこう、混同されている場合も多いみたいですけど。

 「宿命」とういうのは、まさに「どうしようもない」こと。
 たとえば、人間として生を受けたことや僕でいえば、日本人として生まれたこと、そして、死ななければならない、ということもまた「宿命」ですよね。
 
 それに対して「運命」というのはどうなんでしょうか?
 「私たち、きっと別れる運命だったのよ」
 「俺の努力は、報われない運命だったんだ…」
 「運命」ということばの一般的な用法は、こんな感じでしょうか?
 でも、よく考えてみてください。
  実は、この場合の「別れる運命」というのは、あくまでも結果論であって、たぶん2人が別れない、という選択肢も、本当はあったと思うのです。それは、2人が別れた、という結果に「運命だから仕方がない」という理由付けをしてみただけのこと。
 世界には「運命だから仕方がない」という考え方と「運命は変えられる」という2つの考え方があります。
 僕は、未来のことが100%わかるわけはないのだから、「運命」なんて言葉そのものに意味はないと思うし、「運命だから、仕方がない」なんて、思いたくはありません。
 実際、多くの場合「運命」とされていることは、自分たちをドラマチックモードに突入させるためのキーワードでしかなくて、もし、この女性が他にどうしても好きな男性がいたとしたら「これも運命」だなんて、口にしなかったのでは。
 結局、彼女にとっては「運命」で片付けられるレベルのことだったような気がします。
 
 この世界には「宿命」というのがあるのも事実。
 死なない人間はいないし、生まれる国も自分では選べない。
 でも、本物の「運命」なんて、そんなに沢山あるとは思えないのです。

 そう感じる一方、空爆で命を落とす多くの幼い命のことを考えると「運命なんて、自分の力で変えられるんだ!」と強く言い切ることができないのも、また事実ではあるのですが。