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2002年10月25日(金)
2002年10月25日。


時事通信の記事より抜粋。

 【最高裁から出版差し止めが命じられた柳美里さんのデビュー小説「石に泳ぐ魚」について、柳さんと出版元の新潮社が25日午後、東京都内で記者会見し、改訂版を31日に発売すると発表した。

 改訂版では、小説のモデルとなり、プライバシー侵害を理由に提訴した女性の家族関係や容ぼうに関する描写を原作から削除するなど、約50ページにわたり変更が加えられている。仮処分申請の段階で柳さん側が東京地裁に提出したものと同一内容で、同地裁は一審で改訂版の出版差し止め請求を棄却、判決は確定している。

 出版に踏み切ったことに柳さんは「初の小説が出版できず、この8年間の執筆活動はスタートラインを消されたままマラソンをしているようなものだった」と振り返り、「(評価については)わたしの作品を読み続けている読者を信じたい」と語った。】

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 「芸術」は、プライバシーを侵害してもいいのか?仮に完璧なプライバシーの保護が困難でも、どこに線引きがされるべきなのか?そういう観点で「石に泳ぐ魚」の出版にまつわる裁判は、興味深いものでした。

 結果は「出版差し止め」で、その判決に対しては、僕はまあ、ある種の妥当性を感じはしたのです。「身内の悪口を書けないようでは、作家としては一流じゃない」という、有名な作家(太宰だったか、芥川だったか?)の言葉がありますし、佐藤愛子さんの「血脈」なんて作品は、あえて身内のことをあからさまに書いているのですが、それは、作家本人からメリットを受けることもある「身内」としての仕方がない部分なのかなあ、と思えなくもありません。

 でも、今回の件は、モデルとされた女性は、個人の名前が出たりはしていないものの当代きっての人気作家、柳美里さんの作品中で自分の障害のことをあからさまに書かれて、しかもこの裁判でかえって世間の脚光を浴びてしまうことになったのですから、たまったものじゃないと思います。それに、モデルにされることによる、現実的なメリットは、彼女にとっては何もないわけですし。

 柳さんの「初の小説が出版できず、この8年間の執筆活動はスタートラインを消されたままマラソンをしているようなものだった」という言葉には、作家としての情念みたいなものが感じられて、自分の作品を世に出したい気持ちは、わからなくもないのです。

 でも、どうして今なんでしょうか?

 「石に泳ぐ魚」は、各地の図書館で、掲載雑誌の閲覧申し込みが相次いでいるそうです。
 「プライバシーを侵害する小説」というのがどんなものか、読んでみたいという世間の関心もあるでしょう。
 本来、柳さんや出版社が、モデル女性とよく話し合ってから出版するべきなのに、この間の判決から間もない今に、もう改訂版の出版とは…
 そんなに焦って世に出す必要が、あるんでしょうか?地裁で出版差し止め請求が棄却されていたとしても。

 初版5万部。「今なら売れる!」という気持ちがないと言えば、嘘になるのでは。

 僕が柳さんを見ていていつも思うのは、「柳さん自身が自分のプライバシーを商売道具にするのは個人の自由だろうけど、世の中には、柳さんとは違う考え方を持った人間がたくさんいるということを理解してもらいたい」ということです。

 マスコミも作家も「表現の自由」というのを過剰に標榜する人に「自分は特別なんだから、好きなことを書かせろ」と思っている人が多いように感じるのは、僕だけでしょうか?