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2002年09月29日(日)
2002年9月29日。


「らもチチ・わたしの半生〜青春篇」(中島らも・チチ松村著、講談社)より抜粋。

(中島らもさんが、まだ7、8ヶ月くらいの年齢のときのことを覚えていて、部屋の状況などを詳細に母親に話したらびっくりされたという話を受けて)

【らも「引っ越してくる前の家の部屋なんだって。それが寸分たがわず合ってるわけよ。
で、やっぱり、自分は7、8ヶ月のこと記憶してるんだということを確認したんだよ。
 チチ「いや、それはちょっとすごい。たとえば、同じような体験をしたと言っている人に三島由紀夫さんとかいるけどね。
 らも「産道をつたって、外へ出るときの産まれてくる瞬間のことを覚えてるって、三島由紀夫さんは言っているけどね。あれはうそやと思うんや。
 チチ「何やそれは(笑)。
 らも「あれはないと思うんや。」
 チチ「そんなな〜。だって、まだ目が見えへんやん。」】

〜〜〜〜〜〜〜

 自分が産まれてから最初の記憶って、何ですか?
 僕もこれを読んで思い出そうとしてみたのですが、どうも「これがいちばん小さいときのだ」というのは、はっきりしないんですよね。
 なんとなく、部屋でおもちゃで遊んでいた記憶とか、母親にミルクを飲まされていた「ような」記憶はあるのですが…
 これも、自分がもっと若いとき、たとえば幼稚園のころには、もっといろいろ覚えていたような気がするんだけどなあ。
 それにしても、この三島由紀夫さんの「産道をつたって…」というコメントは、僕も読んだことあるんですが、ほんとかな?と思っておりました。う〜ん、三島由紀夫だったらありえるかも、と感じたのですが、確かに、目が開いてないのに何を覚えてるんだ!というツッコミはもっとも。

 しかし、中島らもさんも含めて、こういう「記憶力のよさ」というのは、やっぱり作家には必要な条件なんでしょうね。
たとえそれが、事実とは違っていたとしても、作品を描く上で「見てきたように語れる」というのは大事な要素なのかもしれない。
そして、三島由紀夫のように、「自分は、産まれたときのことも覚えているような、特別な人間なんだ」という過剰なまでの自意識も。