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2002年06月24日(月)
2002年6月24日。


「活字中毒。」コレクションへのお誘い。

いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
約半年間の「活字中毒。」のなかから、リアクションが多かったもの、
検索エンジンのキーワードで検索された回数が多いものを

「活字中毒。コレクション」

としてまとめてみました。
ご意見、ご感想などいただければ。

だいたい、毎回タイトルが日付なんで、検索しにくいですよね(反省)。

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Yahoo!トピックスより。

【米国医師会が検討を始めた移植臓器提供への謝礼、どう思う?
  謝礼を認めてもよいと思う。         49%
  今までどおり、無償提供のほうが望ましい   38%
  そもそも臓器移植には反対だ          9%
  なんともいえない               4%

ちなみに、6月24日、18時の時点で総得票数161票です。】

〜〜〜〜〜〜〜
 最近はあんまり行かなくなりましたが、まだ研修医時代に、アルバイトとして献血に来られた人たちの血圧を測ったり、問診をしに行っていたことがありました。
 実際に献血をしてくださる人たちは、千差万別。涼しいところで、ジュース飲み放題だし…という学生さんから、会社の社長の方針で…ということで、かなり義務的に参加してくれる方、献血だけが生きがい!とでも言うかのごとく、100回以上の記録が残っている献血手帳をみせてくれる方。いずれにしても、こういう「善意の人々」によって、日本の献血制度はなんとか成り立っているわけです。一昔前は文字通りの「売血」で、アルコール中毒の人が、血を売ったお金でまた酒を買って飲む、なんてことが行われていた時代もあったわけで。
 ずいぶん長い前置き。この「臓器提供者への謝礼」ここまでの途中経過をみて、僕はちょっとびっくりしました。「臓器売買につながる!」ということで、嫌悪感を示す人が多いかと思っていましたが、意外と「謝礼をみとめても(この「も」がポイント)よいと思う」という人が多いようです。まあ、ネット上というのは、街角でのインタビューよりも極論が選択されやすいという傾向があるにせよ。

 ただ、僕が思うのは「果たして、謝礼が出るようになるのは、提供者にとって満足すべきことなのか?」ということです。もちろん、ものすごく経済的に逼迫している人はどうだかわかりませんが、必ずしもそうとは言えない部分が大きいと思います。
たとえば、友達の結婚式で、受付の手伝いをすることにしましょうか。そのとき、まず通常であれば、なにがしかのお金を「お礼に」といって、結婚する友達は出そうとするでしょう。それを受け取るべきかどうか?
もし受け取った場合、当然、いくばくかの収入にはなります。まあ、大金持ちになるレベルではありえませんけど。ただ、お金を受け取ってしまうと、それはある意味「仕事」になってしまうわけですね。責任も生じてくる。お金を出すほうも「いちおう、お礼はしているから」ということで、心が軽くなる面は否定できないと思います。
 では、受け取らなかった場合は?というと当然、収入はゼロです。でも、やっている当人にとっては「自分は、タダで友達のために手伝ってあげた!」という強烈な自己満足感と優越感を得ることができるわけです。結婚する当事者も「タダで手伝ってもらった」という感謝とともに、ちょっとした引け目を感じることになるでしょう。

 どっちが得か?というのは、それぞれの価値観でしかないわけで。
もちろん、臓器移植そのものを倫理的に受け入れがたいと考えている人々には、それ以前の問題なわけですけれども。
 臓器提供者となることを肯定する人々にとって、どちらがいいのか?というのは、非常に難しい選択です。たとえば、骨髄移植のドナーとなるために、会社を何日か休まなければならない程度のトラブルを抱える人々は、自己満足よりも休業補償を切実に欲する場合があるでしょうし、大切な一人息子を事故で失った親からすると、いくばくかの金銭よりも、息子の「善意」をこの世に残しておきたいと思うこともあるでしょう。もちろん、一家の柱を失ってしまった場合には、少しでもお金になったほうがいい、と思うこともあるはずですし、それを死者が責めるとも思えない。

逆に、臓器をもらう立場の人からすれば、なにがしかのお礼をしたいと思うことは、とても自然な感情でしょうし、お礼をすることによって、心が軽くなる部分もあるんじゃないでしょうか?テレビのインタビューなどで「提供してくださった方に、一生感謝して生きていきます!」などというのを見ると、そういうプレッシャーを本人の責任でもなく、かけられ続ける人生というのは、ちょっとかわいそうな気もするのです。

 僕は、いまのところ、謝礼をみとめて『も』いいんじゃないかと思っています。それは、あくまでも提供者の意向に従っていて、移植を受ける側の人の選択の際の選択要因にならず、常識的な範囲の額でなら。
世の中なんでも金、金、いう意見もあるでしょうけれど、それが普通の人々に思いつく、もっとも現実的かつ普遍的な感謝の気持ちの表し方だということは、否定しがたい事実であるわけですし。