momoparco
  雪あかり
2006年01月29日(日)  

 先週の今日は雪の一日だった。夜中から静かに降りだした雪は、朝になると窓の外の景色を一面に蔽い、どこもかしこも真っ白な世界にしてなお静かに静かに降り続いているのであった。

 柔らかそうな大きめな雪のひとつひとつは、触れればすぐに溶けてしまいそうなのに、誰にも触れられることのないまま舞い降りて、当たり前のようにして重なってゆく。か細い木の枝や電線は、痛々しいほどに冷たく凍っていて、まるで世界が静止したようであった。

 表に出てみると、わずかの時間なのに着ているもののあちこちには大きな薄綿がついたようになった。新雪の上なら滑ることはないし、散歩でもしてみようと思ったのだが、私には長靴がない。ブーツを履いて歩こうとしたら、ヒールの底に雪が固まってついてしまうので歩けないのである。

 寒い。しんしんと冷える。どれほど暖房で暖めても底冷えがして、表の寒さが勝ってしまう気がした。雪は新しいうちになら軽いので、早めに雪かきをしてしまおうと思ったが、一日中やむことはなかった。一日中家の中にいて窓の外を眺める。人通りもなくて、車の走る音もしない。子どもの頃なら、大喜びで表を転げまわったのに、今の私は手をこまねいて、今日の、そして明日以降の生活の心配をしてしまうのであった。

 基本的に飽きっぽい。同じ状態で延々とそればかりが続くとすぐに飽きてしまう。閉ざされたような気がする部屋の中で、意識が雪にばかり向いてしまうのを持て余す。風が吹くと右へ左へと靡きながら降り続ける雪は、まるで足の向くまま気の向くまま、ひとの心などおかまいなしに生きている性悪男のようだ。夜になると、雪明りというのか辺りは明るかった。

 一週間が過ぎてみれば、日の当たらない場所にはまだ溶け残った雪がある。これほど頑なに固まってしまった雪が、綺麗に溶けて流れるにはどのくらいかかるだろうか。



  お気の毒ともいいかねるのよね
2006年01月28日(土)  

 今週は、新聞を読むのがひどく疲れた。ホリエモン関連のニュースである。普段から株だの投資だのには縁もないし興味もなかった。したがって、その筋の話にはとんとうとい。しかし、今回の逮捕によって繰り出されるニュースには専門の用語が散りばめられ、私は理解をするのにとても時間がかかった。株式の100分割など、詳しく知るのも今度が初めてである。そういうことを、ひとつひとつ理解しようと思いながら新聞を読むと、知らないことがあまりにも沢山あって、なかなか先へ進まない。一体水面下では何が起こっていたのかを知るのにひどく疲れたのである。

 もともと、得をするのは好きだが、儲けということに執着がない。得というのは、物を定価で買わなくても済むような手づるがあって、それを利用して、いくらか得をするという、あのトクである。どういうわけか、私のところには、そういうおトクな話が舞い込んでくる。デパートで買い物をするのにも、ほぼ下代に毛の生えたような金額で買い物が出来てしまうし、その他もろもろ、海外のブランド商品であっても、家族割引きくらいの出費で済んでしまうところがある。たぶん、買い物をするのに少々オトクな思いをしていることが、他のひとより多いと思う。

 ときどき、こうしたオトクな買い物を、友人にも教えてあげることがある。私の名前で一緒に買い物をすれば、かなり安く手に入るということをである。すると、たいていの友人はとても喜んで自分の欲しいものだけを買い、その場限り、また何かあったら教えてね、で終わる。

 しかし、たまにいるのである。「それを沢山買って、あのひとこのひとにいくらいくらで売って儲けましょうよ」などという人種が。私はあんぐりとする。私という存在なしに、彼女はオトクな思いをすることは出来ないのに、あたかも権利を手にしたようなつもりになって、儲け話を持ちかけてくるそのずうずうしさに呆れるが、私自信にも儲けをもたらすのだから、何も問題はないはずだという観念である。

 儲けることが好きなひとは、いつもそうしたことを考えている。思考回路がそういう風に出来ている。他人の金で潤うことを厭わない。私はその感覚がとても嫌いだから、そういうひととは二度とその話はしない。

 それに私はギャンブルも好きではない。滅多にしない、というかほとんどしない、というか全然しない。パチンコすら好きではない。したことがないのではなくて、したことはあるのだが、その場所のその椅子に座って、ああ、私はこれは似合わないなと感じた。ダサい。

 では、麻雀好きはどうかといえば、あれはゲームとして好きなのであって、お金をかけてどうこうという気持ちにはやはりなれない。そういうことをいうと、あれは金をかけてこそ面白いのだ、それがなくて何の麻雀というひとがいる。

 勝負事はすべからく賭け事にしないと面白くないのなら、スポーツ好きでテニスやサッカーや野球をやるひとは一体どうだろう。純粋にゲームを楽しんでいて、それはそれで充分ではないのだろうか。だから、何でも金というのは、すでにもう欲しい病に侵されているだけなのである。

 同じゲームでも、金を賭けていることで、赤くなったり青くなったりしているのは、見ていて気の毒としか言いようがないが、当人たちは、それでなくてはならないというのだから、仕方がないことではある。負けが込んでどうなろうと私の知ったこっちゃないし。

 というところで、ホリエモンである。依然として、私は仮装社会を見ているような気がしている。ああした人種のために、泣いたひとも数多くいるのだろうが、なんだかあまり同情をする気になれないような、とても変な感じなのである。



  一日がネタ?
2006年01月26日(木)  

 読むことが好きだ。これは前にも書いたことがあるが、ひとの書いたものを読む行為は、他人の思考をなぞる行為である。読んでいる間、私の脳は何も考えてはいない。頭の中、つまり脳は自分の活動場所ではなく、誰かの考えた過程を反復的にたどっているだけのことで、他人に物を考えてもらっているのと同じことである。私はその行為がとても好きである。

 ネットをしていると、ときどき自分がどこにいるのかわからなくなることがある。最近はブログの蔓延によって、よりいっそうその感が強い。ブログはとても便利なツールである。中身をどのように書こうと、HTMLなど駆使しなくても綺麗なレイアウトである。携帯やデジカメで画像を取り込むことが容易になったのも大きく影響をして、さながら何かの公式ページのようである。しかし、だんだんと、私が求めていた、読むという行為からは遠ざかっているのである。

 例えば、いただき物の口紅、行った先の風景、美味しい老舗の有名なお菓子、お気に入りのグッズ、お薦めの本やCDに手作りの品々。そうした画像と共にその説明がなされ、綺麗なレイアウトによって乱れのない頁がある。読み進むが、だから何だとかそれがどうした、とかがない。最も知りたいのはそこであるのに、何もなく終わってしまうのである。私はじれじれとする。

 一体何故、どうして、私はあなたのそれを読まなくちゃ(見なくちゃ)ならいんだ?という思いがかすめる。オフィシャルを知らないひとの私的な生活をである。他にも、今日一日の出来事が比較的リアルに書かれていて、家族や周囲の人々との会話が再現されて、面白おかしく、あるいは小奇麗に落ちがついて終わっているのを見ると、そういうことをリアルで話す相手がいないのだろうかと首をかしげてしまうのである。

 出来事は序章である。その先が問題なのである。だから何をどう考え、どう思ったのか、そういうことが読みたいんである。読めども読めども延々と序章ばかりでは疲れるばかりである。

 そうこうしているうちに、すう〜っと意識が遠のいていくような感覚がある。ここで見ている私と、向こうでやっている誰かの間の決定的な隔たりを感じるからで、私はネットの住人となって長いのにも関わらず、何をやっていたんだか分からなくなり、一文字も書くことが出来なくなる。あたかもやり方を忘れてしまったかのように。

 もちろん、行く先々全てではないのは書くまでもないのだが、結局のところ、丁寧に内面を記述してくださる方の所ばかりへ訪問しては、ほっと安堵の溜め息を漏らしているのである。


 しかしあれですよ。見ているっていうのはじつに色んなことを感じるものですね。本筋からとことんずれたところで。たとえば食事の画像。そうしたものがメインで、ほとんど毎日のように、今出来たばかり、これから食事をしますといわんばかりのセッティングがなされた画像を見るにつけ、私が一番見てしまうのは、料理の出来栄えや食器の選び方や、その背景に映る様々なものではなくて、その画像を撮っているひとのその時の様子や、食事を待っているであろう、その家の家族の状態や、その家族がその画像を写しているそのひとを一体どういう目で見ているのだろうというところなんですから。

 今夜はあれを作ろうと思った時点で、すでにそれをブログに載せようという計画に直結しているのであろうかという点。そのことを張りあいとして、調理をし、少しでも見栄えのよい盛り付けをして・・・、つまり、画像をアップした状態を想い描いて調理時間を過ごすのであろうか。やるのであろうか。更に色んなひとのコメントも想定内なのか。

 そういうことばかり考えて見てしまうから疲れてくる。しかし、そういうことをそのひとに聞いて良いものなのだろうか。
 あなたが写真を撮る時は、まだ家族は帰っていなくて、画像のためだけにに盛り付けをして写真に収め、もう一度鍋に戻して、改めて家族が帰って来たら温めなおして食事になるのか。それとも、家族はもう着席をしていて、目の前に出された料理をあなたが写している間、おあづけを食らった形で待っているのか。

 その時、家族の会話はなんであろうか。「早く食べたいよー」「しっ!お母さんは今、ぶろぐの写真撮ってるんだから、待ってなくちゃだめだよ」なんてお姉ちゃんが妹を諭すとか。「ここでひとこと言えば、せっかくのメシが不味くなるから黙っていよう」と内心思っているダンナがいるのか。それとも、僕の可愛い○○ちゃんの作ったお料理をみんなに見てもらおうと協力してくれるパートナーがいるのであろうか。

 食事だけではなくて、行った先の風景も。何かを感じる場面があって写真に撮る。その時、頭の中には上手く撮れたらブログに載せようと思うのか。そのひとは普段から写真が趣味なのか。それともブログがあるから趣味になったのか。食べ物屋の食事しかり、窓の外の景色しかり。頭の中にはブログがあって、そうしたことを意識していて写すのか。いつも来てくれるあのひとこのひと、コメントをくれるそのひとかのひとを想い描いてサービス精神がむくむくともたげるのか。一日のどこにいてもネタ探しになるのであろうか。それは疲れないのか。などなど。

 キリがない。面白いのか面白くないのかわからない。みんな記者か。特派員か。とかなんとか考えてしまうと、みょーに疲れてしまう昨今である。

 なんてことを書く私は、ただの時代に乗り遅れたひねくれ者なのかも知れないけどさ。



  七転び七起き
2006年01月13日(金)  

 雪が積もると転ぶ転ぶ、転ぶのは嫌。そんなことばかり考えて過ごしていたら、平日のデパートで派手に転んだ。

 買い物をすませてふり向いた時、ちょうど目の前を中年女性が通りすぎて、いつものタイミングならその後ろをクロスするように歩けるはず、だったのに、足もとには彼女の引いていたショッピングカーがあった。前ばかり見ていた私の視界にそれは入らなかったのである。

 両脚はそのショッピングカーに行く手を阻まれ一歩も踏み出すことは出来ない。体だけが慣性で前へと進む。頭では倒れるとわかっていても避けようがなく、私はものの見事に前方へ倒れこんだ。それはもう、本当に見事としかいいようのないダイビングである。

 両手の平と上になった左膝の内側あたりにある骨の部分や、下になった右膝の外側にある骨の部分が、僅かな時間差でフロアに叩きつけられるといった形。長く伸びた右腕の上に頭が乗った状態で、しばらくは痛くて声も出ず動けもせずなのである。いたたあたた。

 すぐに聞こえたのは、「あら、引っかかっちゃったのね」という、ショッピングカーの彼女の声と、店員さんらしいひとの「大丈夫ですか?」という声。私は「あら、引っかかっちゃったのね」の声に若干むっとしたのだが、「大丈夫ですか?」には答えたい。しかし何も答えることが出来ない。視界には、全て私の方を向いている沢山のひとの足足足。

 すぐに起き上がろうとしたのだが、あちこちがあまりにも痛くて力が入らずに、もう一度倒れこむようにして頭が落ちた。大衆の面前で、よよと泣き崩れたようなポーズなのである。痛。仕方がないので、開き直って考えた。見えるのは、相変わらず何人分もの微動だにしないひとの足足足。
 
 さて、どうしたものか。皆さまが心配して眺めていらっしゃるのだから、ここはひとまず速やかに起き上がった上で、「お騒がせいたしました」とでも言えば大人なのだろうが、なんだかそれは間尺に合わない。その間尺に合わないというのはなぜかというのを開き直りついでに考える。

 ここはデパートである。近くにいた店員さんが、かがんで覗きこんだり、起き上がるのに手を貸してくれてもよさそうなものなのに、と思っていた私がいる。ポーズでもいいから、そうしてくれないとおさまりがつかないではないの。それに、目の前でひとが転んだら、誰でもいいから手を貸すくらいは当たり前ではないかと思っていた私がいる。私はそれほど世の中には借りはないつもりだし、とかなんとか。

 そして、一体この状態はどういうものなんだろうと、すごく悲しい思いで耐えていた。なんというか、こうなったらこうするべきと思っていたことがあって、それが、そうは行かなかったのが間尺に合わないのだろうと思った。

 それから、そんな甘えたことを赤の他人に期待してはいけないのだと悟った。何しろこのままではいられないのだから、とりあえず誰ともなしに「大丈夫です」と答えたのだが、自分でも思いがけないほどの低い声。まるで倍賞のお美津っちゃんである。不気味。この場はもう自力で起き上がるしかないのだが、あまりにも痛いのと、悲しいのと、恥ずかしいのと、情けないのとがごった煮になったような感情でやりきれないったらない。

 結局、それからどうしたかというと、まるで何事もなかったように、いつもより更に気取って、何も言わず歩き去ってしまったのである。誰の顔も見ずに、何も言わずに。あまりにもやりきれないから、出来事そのものを無視しようとした状態で、もろもろの何かを遮断してしまったらしい。

 そういえば、私は記憶の中で最も辛い出来事を、想い出すことができない。いくら時間が経っても、思い出そうとすると何かが遮断して記憶そのものにたどりつかない。記憶が檻の中に封じ込められて頑丈に施錠されてしまうらしいのだ。それは自分自身を守るための本能だと友達に言われたが、だとすると、かなり都合の良い性格だろう。私はとても動物に近いのだと思う。

 ということはいいとして、正直にいうと、今回はひどく情けなかった。自分自身に対してもだし、その他もろもろの色んなことに。歩く時には、膝に激痛が走り、カクカクしてしまいそうなのにえらくやせ我慢をして歩いたことまで。

 それから、短い時間に目まぐるしく頭の中は回るものだと、改めて思った。何しろ、以前電車の中で具合の悪くなった妊婦さんを介抱してあげたことや、その時の嘔吐物を隠すために、座っていたおじさんの新聞を少しわけてもらったことまでを、倒れこんでいた間に鮮明に思い出したりしたのだから。



  昨日の横浜
2006年01月09日(月)  

 昨日は成人の日。横浜では、全国で一番多い3万人が成人式を迎えたそうだ。横浜市の人口が22万人前後だから、その中に、『二十代』ではなくて、『二十歳』が3万人いるというのは驚く数字だ。そんなに生まれていたの?という感じ。みんなで同じ時に入学したり卒業したりしていたわけである。ああ、すごい。

 そして、3万人の両親が6万人で、本人たちを合わせると9万人。市の人口の半分以上のひとが、立場は違えど、この成人式に何らかの感慨を持ったということだ。それに、早朝から、美容師さんやら着付けのひとやら写真屋さんやら、一体どのくらいの人たちが頑張っちゃったんだろうと思うと唸ってしまう。もう一度、ああ、すごい。

 横浜アリーナの映像は、まるでコンサートのようである。会場いっぱいに埋めつくされた新成人は壮観だった。大人たちが案じていたような騒ぎも起らず、式次第は無事に済んだようだが、会場の回りは機動隊がわんさか。

 街を歩いていても、振袖姿の女の子をずい分見かけた。普段はどんななのかわからないけれど、とっても華やか。綺麗に結い上げられた髪は艶やかで、何よりお肌はやっぱり美しい。いいなぁ〜と思うことしばし。

 だけど、普段着物なんて着慣れていないせいで、水鳥の羽の白いショールやらが、歩き方なのか風のせいなのか、真横になってしまっているのをモノともせずに闊歩して歩く姿には、可笑しいやらオカシイやら。マフラーじゃないってば!って言ったって、本人は、何とも思っていないんだろうね〜。(笑)歩道橋の階段を長い袂で掃除して歩くのなんか見ちゃったりすると何だかヒヤヒヤしてしまう。食事はちゃんと出来るのかしら?トイレはちゃんと出来るのかしら?な〜んてね(笑)

 アリーナの近くの交差店では、スーツを着た男達がそちこちにわけもなく立っていて、あれは二十歳の女の子ばかりを狙うのキャッチだろう。何もあんな所でしなくても、と思ったら、みんな二十歳なんだと言われて、ほほーう、と納得。そうか、彼らも新成人なのね。確かに、よくよく見れば、横浜駅周辺でたむろしているキャッチの皆さまよりずっとずっと初々しい。男にも、初々しいという言葉がふさわしい時があるのを初めて知ったくらいである。今の子はみんな脚が長い。

 年明けは天気がよくなかったが、昨日は比較的穏やかな晴れ間が見えて、これまでの準備に追われた親御さんもずいぶんほっとされたことだと思う。

 新成人の皆さま、おめでとうございます。
これからは・・・
というのは置いておいて、あの初々しさをいつまでも。



  中途半場のろくでなし
2006年01月08日(日)  

 というのは、足のことである。馬鹿の大足、間抜けの小足。中途半端のろくでなしと。でも今私が書こうとしているのは、足のことではなくて脳みそのことだ。

 ときどき私は、自分は右脳型と左脳型のどちらだろうかと考える。そんなことをよく考えるのは、私が左利きだからである。右利きのひとは左脳型で左利きのひとは右脳型だとは、しばしば聞く言葉だが、だとしたら、左利きの私は右脳型だろうし、世の中のほとんどのひとが左脳型ということになる。でも、たぶん、きっとそれだけではないだろう。

 昨日、ものの5分くらいだったが、二十歳くらいの男の子と接することがあった。なかなかイケメンな子だったのだが、私が彼から目が離せなかったのは別な理由があった。誰かに似ている・・・のだ。とても似ているのだが、それが誰だか分からない。瓜二つと言えるくらいに似ている誰かが想い出せないから、その子の顔をしげしげと眺めてしまったのである。

 芸能人だとか有名人ではない誰か。でも頭の中でその顔をはっきりと思い出すことが出来て、今目の前にいる男の子にそっくりな顔を持つ男。さあ、一体誰だろう。そんな時、私は理屈で考えない。そうしてもきっと想い出せないだろうと思うからだ。何となく気になりながら、あえてそこから意識を逸らせて過ごすこと三時間。

 唐突に、一人の男の顔を想い出す。かれこれ二十年近くも前に、我が家に何度か来たことのある、自動車メーカーの営業マンである。頭の中で、彼と彼の顔がピタリと一致する、その瞬間にやっぱり似ている、と確信するわけである。

 そういうことがよくある。理屈ではなしに、ひとの顔はよく憶えても、名前はほとんど憶えられない。一度聴いた音は忘れない。一度嗅いだ匂いも決して忘れない。そうしたことが、ものを憶えることの何かの役に立ち、一方で、理屈や理論ではあまりものを憶えることの役には立たない。

 だから、私は右脳派なのだろうと思おうとするのだが、それがまたそうはいかないことが多いのは、何かをとことん、理詰めで説明され、とことん理詰めで納得したいという欲求を捨てきれないからである。いつも何で、どうしてがついて回る。そんな時、とても曖昧な説明ではなくて、かくかくしかじか、かくありてかくありなん、といった、しかるべき直線的かつ説得力のある説明を欲するのである。だから私という人間は、とても始末に悪いと思うのだ。

 長嶋さんが、ホームランを打つ秘訣を訊ねられた時に
「だから、あのね、いわゆる、ほら、ポーンと来たらカーンと打つ。これです」
ってあれは、忘れられない。
それはたぶん、あの方だけの持つ説得力のなせる業だとは思うが、ほとんどの場合、そうではなくて、
「ドとレとミの音はみんな違うでしょー」
といった説明が欲しいのだ。(ヲイ)

 などと考えていると、自分でいうのもなんだがどっちつかずの私はとても歯がゆい。もっと単純に一方に絞られていたら面白いのにと思うのだ。自分が一体、何が得意なんだかわからなくなってしまうのである。

 と思っていたら、ellie さんのところで、似たようなことを考えていらしたことを知り、嬉しくなると同時に、好きか嫌いかで物事を判断する癖があると書かれていらして、あっと思う。

 そういえば、とても好きで付き合っていたひとでも、顔が想い出せなかったり(曖昧な記憶しかない)したのが不思議だったのだが、そうかそれはそういう意味だったのかと思った。そうか、単純にあのひとの顔は、私の好みではなかったのだと思う。そして、それも確信に変わる。これはすごい発見であった。

 っていうのは、ellie さんが書かれていらしたこととはずれてしまうと思うと申し訳ないのだが。

 
 ときどき、こういうことを、とことん理詰めですらすらと綴れたらどれほど説得力があって恰好いいだろうと思うのだが。
でもなければ、とことん感覚的に、情緒たっぷりな文章で綴れたら、どれほどしっとりするだろうとも思うのだが。
どうにもどっちつかずで、こんな文章になってしまうのがとても歯がゆくて、私はそれがとても嫌なのだ。



  酸欠
2006年01月06日(金)  

 お正月の休みが明けたと思ったら、来週早々にはもう連休があるので、平日にしか機能しない場所ばかりに用があった今週は、目が回るほど忙しかった。

 おまけに、三日の日から始まった花粉症の症状のような鼻呼吸困難のせいで、集中力が散漫になるものだから、何をしているのかわからないようなうちに一日が終わった。

 といっても、あれこれ様々な用事を何とか終えることができたのは、とても人間業ではないのではないかと自分で思ったりして・・・しまうのも、この苦しい呼吸のせい。

 ああ、ぼうっとしてしまう。書いていてもちっとも集中していないみたい。

 そういえば、日本海側の雪がすごい。雪国での雪害なんて初めて見聞きする言葉だった。一時間の積雪が26cmなどというのは、私には全く想像外の出来事だが、冬は雪が当たり前という地域で、生活がマヒしてしまうほどの降雪とは、さぞかし大変なことだろう。早く安心して生活が出来ますようにと祈るばかりなのである。

 ちょっとまとまりませんが、今日はこの辺で。
息を吹き返したらまた。



  早四日
2006年01月04日(水)  

 元旦はお雑煮とおせちをいただいて新年の挨拶をすると、午後はのんびり過ごす。年末に書店で本を購入したので読み始める。書店では、別な小説を探していたのに、目の前にP・コーンウェルの新作『神の手』が山積みになっているのを見て予定変更。その他数冊連れ帰ったが、年の初めは小池真理子の『薔薇船』。小池真理子の物の書き方が、なんとなく辛気くさくて馴染めないと思っていたわりにはよく読んでいる。たぶん、苦手だと思ったものは、実は好きの裏返しだということなのだろう。『薔薇船』を読み終えると、馴染みにくいあの辛気くささのわけが少しわかったような気がした。昨年は浅田次郎に終り、今年のはじまりは小池真理子。


 二日。千葉の兄宅へ行く。横浜の上空ではヘリが飛び、箱根駅伝が始まったことを知る。私がアクアラインを走る時はいつも天候が良くない。この日は最も悪くて、冷たい雨が槍のように降っていた。交通量は少ないと思っていたら、予想に反して車両が多い。カーナビで、蜷川幸雄の『シェークスピア紀行』をちらちらと見る。

 古いヨーロッパの街並みが映し出されると、懐かしい石だたみや、冬の厳しい寒さを想い出す。私のいたトリノは、北海道と同じ緯度に位置して、横浜で生まれ育った私には、乾燥した刺すような風の中にはもう過ごせないだろうと思っていたのに、唐突にあの冬のヨーロッパが恋しくなり、いつかまた訪れようと思う。何物にも流されない大人の国へ。

 三日。『Mr.&Mrs.スミス』を観る。劇場で映画を観るのも久しぶり。やっぱり映画は楽しい。ブラッド・ビッドだからはずせないのもある。アンジェリーナ・ジョリーとの共演なら尚更のこと。映画自体は全くの娯楽である。さすがアメリカ、莫大な予算をかけてゴージャスな娯楽をただ愉しむ。ブラビが出ていれば、相手は誰でも良いと思ったが、二人の絡みになると、目がどうしてもアンジェリーナ・ジョリーに行ってしまう。それほどに、彼女は美しくて魅力があった。風邪は、頭痛は消えていたが、花粉症のような症状に変わり、映画館では鼻呼吸が出来ず苦しかった。

 食事をして、買い物を少しだけ。あまりの混雑にゆっくり珈琲を飲む場所も見つからず、買い物は早々に切り上げて帰宅。夜は楽しみだった『古畑任三郎』を見る。風邪の薬のせいで、佳境に入ったところでうとうとしてしまい、臍を噛むような気持ちだが、あと二日あるので少し余裕。ベッドに入って『神の手』を読み始めると、イメージの中でルーシーとアンジェリーナ・ジョリーが重なってしまう。

 四日。休みは今日まで。また明日からの生活に戻れるように心がけて過ごそうと思う。ネットもぼつぼつと。




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