momoparco
  現役
2005年04月30日(土)  

 私は自分が何をしたかったのか、何になりたかったのか、何をしていたのかと書いたことがない。
過去に遡って、その時の将来の夢や、あれになりたいと思ってそうしていた時、それを大声でひとにいうことはほとんどなかった。
ただ、必要に迫られて(時間的なこととか)話したことはあったとしても、だから私はそちらに向かっていますと大声では言えなかった。

 憧れがただの憧れであったとしたら、何でもなく話してしまっていただろうと思う。それはただ、遠くから眺めてちょっぴり憧れているだけだから。しかし、自分が実際にそのことをものにしようと考えてそれに向かって行動を起こし始めた途端、誰にもそれを言えなくなってしまった。

 何故だかはよくわかっている。現実にその道でプロとしているひとと、自分というその道の未熟な人間の間の大きなギャップに気がついてしまうからである。それは私にとって、足りない自分というものを晒すことに他ならず、とても恥ずかしいことなのであった。

 それだけでなく、私はそのプロに対して嫉妬もしたし、敵対心も抱いていた。そんな小生意気な私が、どうしてひとにそれを語ることができただろう。

 もし私がそれを語っていたら、何人かの心ある回りのひとは、喜んで応援してくれたかも知れないし、励ましてもくれただろう。時々様子を聞いてくれたかも知れないし、何かのアドヴァイスを与えてくれたかも知れない。

 しかし、私という天邪鬼な人間は、そうしたことが最もわずらわしいことだと思う人間だった。生暖かな励ましや、ほやほやとした社交辞令や、ちやほやした中で私は決して育つことは出来ないと本能的としかいいようがないアンテナで感じていたし、実際にコイツは放っておかなくてはならないと指導者に言われたりもした。

 のみならず、同じような志願者の誰かに、一緒に頑張りましょうなどと声をかけられると、何が一緒なものかと、じれったくて腹が立った。つまりとことん身勝手なのだと思うのだけど。

 だから、私は何かになりたいと堂々と言えるひとを、何より誰よりとても素直なひとだと感じる。それはとても真っ直ぐで私は眩しさでくらくらする。たぶん、そんなひとたちは、自分のしていることに大きな自信があるのだろう。

 それは今でも同じだ。だからあまりプロファイルを語らないのかも知れないし、それを知ってもらいたいと思ったりもしないのかも知れない。未だにそれを語るのは、私にとってはとてつもなく恥ずかしい行為なのである。



  ヘンな奴で申し訳なく候(笑)
2005年04月29日(金)  

 初めに書いておかなければならないと思うのは、今私がこれから書くことは、あまりに飛躍してきっとおわかりになりにくいことではないかと思うことだ。
それを初めにお断りしてから、書き出してみようと思う。

 かいつまんで書くと、かれこれ3年(もっとかも)くらい前から体の一部に不快な感じがあって、ようやく意を決して(というか計画的に)専門医へ行き、調べてもらったら、内視鏡で診たところ特別に異常はなく、大きな病気の可能性もなく、何より悪性の疑いもなく、何も心配はいらないということであった。

 では何で不快感が在るのかといえば、それはただ、精神的なものであるという診断だ。

 だから、処方といっても、特別何をしなくてはいけないなどということはなくて、ただ、二つに一つ、このまま何もしないでいるか(それで良いから)、どうしても気になるなら薬を出しますが(まぁ薬と言っても精神安定剤です)と言われ、とりあず、長い間気になっていたので・・・、というと、ではと言って安定剤を処方された。

 自分も同じ感覚になることがあると医師はおっしゃり、何でもないから元の状態に戻れるし、何も心配いりませんと言われて、安心したものの、言われるままに薬を飲んだら驚いた。

 なんだか自分が自分でなくなってしまったような感じがする。どう言えばいいのか、感情が抑制されたというか、喜怒哀楽が遠のいたというか、回りに聞くと私はいつもの私で、特に変わった感じはしないというのだが、私自身がとっても違う。
 
 らしいとからしくないとかいう言葉は、自分で思うのと回りが思うのとは違うから、ふさわしくはないが、ではなんと言えば良いのか、いつもなら琴線にびんびん触れてくるものが、なんだかみんなぽすぽすとかすっていく。何かを感じて、それを深く味わおうとすると、とてつもなく億劫で途中からどうでも良いような面倒なような、浅い所でしかものが行き来しないような、とっても遠くにいるような感じだ。といって意識ははっきりしているのである。

 それを別なところで看護婦さんに言ったら
「あんた、子ども並みの体重しかないのに一錠飲んだら効き過ぎなのよ、半分にしなさい半分に」

 といわれて、昨夜は半錠だけ飲んでみたのだが、やっぱり同じだ。精神的に獰猛になったり泣き喚いたりするひとが、大人しくなるために薬なんぞ打たれたとき、きっとこんな気分になるのじゃないかと思えるくらい、なにかに呪縛されているような感じ。こんなものが合法なのか。

 だから、こうして書くのはやめた方がいいと思ったのだが、後でこれを読んで自分でどんな風に思うのか憶えておきたくて書いてみた。本当なら、もっときちんと書くべきなのだが、それが何しろ億劫だ。

 お医者は、日数分の薬の後、診察に来て具合を聞きたいといわれたが、臨床実験として私はふさわしくなく、正しい飲み方をしていないので、正しい薬の報告など出来ないだろうが、私は金輪際この薬は飲みたいと思わない。

 合う合わないもあるのだろうが、薬って怖いと思う。今は、ひたすらこれが抜けて行くのを待つばかりなのである。

 元気です。
ご心配をおかけしたら申し訳ありません。
大丈夫♪です。
各々方、連休でござる。(笑)



  お悔やみ以前に
2005年04月26日(火)  

 あり得ないような事故が起こり、24時間経ってまだ救出作業も難航している状態で、大勢の亡くなられた方は即死の状態であったとも伝えられているのだが、なにかこう、亡くなられた方のご冥福を祈るという気持ちがすぐに素直に出てこない。

 勿論、亡くなってしまったことは変えようもない事実なのだろうし、事故が起こる前には時間は戻らず、ひとびとの時間も生命も、戻らないのだと思うのだが、当の亡くなられた方が、この事実をまだ受け止められずに、何で今があるのか分からないままでいられるような気がしてならない。

 ご家族や回りの方も同様で、まだまだ誰かが亡くなってしまったと受け入れられていらっしゃるとはとうてい思えず、突然遮断された命の中にあった魂のようなそのひとそのひとの気のようなものは、理由も居所もわからず途方に暮れていらっしゃるのではないかと思えて、だから、すぐにご冥福、などという言葉で、ひとの死を受け入れ、魂が安らかに、という気持ちまで至ることが出来ない。死者を悼む気持ちには変わりはないのだが。

 では、いつになれば、そうした心になれるのか、と考えても答えも出ないが、なにかどうしても今の今、右から左にご冥福と簡単に言えないのである。

 当初8メートルのオーバーランと伝えられた距離も、調べを受けた当車掌が後になれば、実際は40メートルであったという。それは当運転手とのやり取りでそのように報告しようと決められたことのようである。

 運転手は依然として、車内から救出されてはおらず、事情徴収も出来ない状態ではあるが、私は一連のニュースを聞いて、昔むかしの、飛行機の羽田沖逆噴射事件という大きな事故を想い出してしまった。あの時の機長は心身症という病気を持っていたが、それを思い出したからといって、今回のの運転手がそうであった、と思っているのでもない。ただただ想い出してしまうのである。まだ、何もかも霧の中だ。

 ただ一つ言えることは、こうした大勢の命を預かる、あるいは関わるという仕事には、それにふさわしい人選はあってしかるべきだし、適正ということは非常に重要だ。

 当人のセルフコントロールはもとより、職場の管理責も重大である。運転手の飲酒運転による電車やバスの事故も多くなり、ほんの些細な操作ミスが、想像を絶する事故になる可能性はいくらでもあるのだ。

 このような、あってはならないことが起きて、それから分かっても取り返しのつかないものが沢山ある。当事者の、ご家族やゆかりの方の失ったものはあまりにも大きく、そして二度と戻ることはないのだから。

 まだ事実を受け入れかねている亡くなられたかたの迷いが慰められる時は、とてつもなく気が遠い先のことではないかと思う。
今はまだ、謹んでお悔やみを申し上げます としか、言葉にならない。



  とりとめもなく
2005年04月23日(土)  



 椎名(誠)さんの何かの小説のあとがきだったかに(定かに憶えていないけど)、「日本の小説は読んでいくと何か非常に悩み深い主人公が出てきて、かなり深い人生的な過ちの中で物事を考えていく」という作品が多く、それがいやなので
「あまり物事を深く考えないやつが主人公であってもいいのではないかと、とつめて明るい小説があってもいいではないか」というようなことが書かれていて、それは私がとても嬉しいと思う瞬間でもあった。

 私はブンガクの何たるかはわからないので、文学をたしなむひとと同じ土壌の上に立つことは出来ないが、文楽(人形のでるアレじゃなくて)くらいは味わっているのではないかと思う。それがいいかどうかは知らないし、それしかできないのだから仕方がないが、なにごとも深くとらえればそれが良いとばかりは思わない。

 このひとの私小説の中に、家族がどれほどうたかたのものであったのかとしみじみ思う場面が出てきて、何も考えない能天気風の椎名さんのエッセイや、二人の子どもさんのまだ小さい頃の私小説ばかり読んでいれば、おや?と思うのだが、子どもさんたちがそれぞれ巣立ち海外で暮らすようになり、また夫婦二人の生活が戻り、妻の方はチベットに魅せられ、向こうへいく機会が増え、したがってひとりで過ごす時間が長くなってくると、そんな風に思うのだろう。

 新卒者から、定年前までのひとばかりの職場にいると、あまりこうしたことは考えないが、子どものいる家族連れを見たときに瞼が押したシャッターは、記憶の中に子どものいる家族のひとつのシーンとして焼きつく。記憶の中での一枚一枚は、そのまま子どものいる風景なのだが、数年経って同じ家族を見たとき、まったく違う世界がそこにあって唖然とする。子どもたちの成長がそのまま雰囲気の違いを作り出す大きな要因となって、日々の中、少しずつ時間は確実に流れたことをあらためて思い知るのである。

 あの日、あのときは確かにそこにあり、それはかけがいのない家族の一コマなのだけど、みんなまぎれもなくどちらかに向かって進み、変化して、もう二度と同じ場面に戻ることはない。
急いで生きる必要はないが、何故かその時には、そのことの貴重さに気がつかず、先へ先へ、明日へと生きているからなのだと思う。過ぎし日は尊く、そのことを後になって知る。

 私の家の近くに、酸素のボンベを手放せず、外出する時には必ず、ショッピングカーの小さくしたような専用の台車に酸素ボンベを積んでからからと引きながら歩いていらっしゃるお年寄りがいる。ばったりお会いして、軽い世間話をするとき、どんなお話をしても眉も目尻も下がり、笑顔ばかりの好々爺といった方なのだが、たいてい一緒にいる奥さまは、まったく正反対の苦虫を潰したようなお顔である。

 たとえていうなら、美川憲一みたいに、いつも眉間に皺を寄せて、「いやぁねぇ〜」といった雰囲気とでもいおうか。物事をとてもハキハキとおっしゃり、さばさばしたご性格のようで(自分でいうのもどうかと思うが、どういうわけか、私はこうした性格の方に好かれる傾向にあるので)、お話は長くなるのだが、話題がご主人のことになると、よりいっそう眉間の皺を深くして「いやぁねぇ〜」というお顔になるのである。その割には、何かとご主人の世話を焼かれていたりする。

 私は、どうしてあのような穏やかで優しそうなおじいさんに、あのような怖ろしげな奥さんが?と密かに思っていたのだが、ある時あるひとが教えてくれた。若い頃、あのご主人は酒乱でどうしようもなく、時には暴力を振るい、奥さまはいつも泣かされてきたのだと。

 人生は四季にたとえられ、夫婦の間にもそんなたとえがあるけれど、実はその中に四季は沢山あって、くるくると繰り返しているようで、少しずつ何かの方向へ進んでいるのだろう。どの時にも起承転結のようなものがあって、そのときそのときには想像もつかない明日や明後日が待っている。なるようになるときばかりではなくて、むしろ思いもつかなかった今があるのだ。

 私は生まれたばかりの子どもでもないし、少しばかりは何がしかの経験も積んできたつもりではいたが、こうしたことを考えると、まだまだひよっこなんだろうとつくづく思う。もしかしたら、本当の意味で人生を味わう、その味をしるのは、これからもっと先の話なのかも知れない。

 せつなさは、私の涙腺を刺激するが涙のてまえ。日々はうたかた。
人生は、泡沫の刹那さ。



  「本屋さんへ行っちゃいけませんよ」とあれほど言ったのに
2005年04月22日(金)  

 久しぶりに書店に行った。春先は毎年出費が多く、今年は特にお盆とお正月がいっぺんに来たような年で、お財布の中がすっからかんになっているところに、まだあとひとつ大きな支払いがやってくるので、これいじょう締めようがないというくらいに財布の紐をしめていたのだが、なんだかとてつもない禁断症状にみまわれてしまっていたらしい。理屈の上では納得していたし、だからこのところ一度読んだ古い本を読んでいたりしたわけで、べつだん本がほしい本がほしいと思っていたわけではないのだが、なんとなく本当にただなんとなくふらりと書店にはいったとき、体のすみずみにゆきわたるような開放感とか、高揚感とか、足取りが数段軽くなるような浮遊感とか、新しい本のある空気にまじりこんだ途端、ああ禁断症状が消えてゆく、とそんんな気がして、まさに何かがたまっていたことに気がついた。

 こうなると、ちょっとは自分にご褒美をあげてもいいんじゃないか、なんて簡単に単純に考えてしまって(そこが私である所以なんだけど)いきあたりばったりに数冊の本を買ってしまう。とくに何かを探したりというのじゃなくて、いきあたりばったりのこういう時、背表紙が目に飛び込んでくるものを素直に手にする。そして、一度手にしたら最後、なんだか手放せなくなってしまうのだ。まるで子どもみたいである。そんな、誰の、とか何の、とか、こだわりがまるでないときに選ぶものは、たぶん潜在意識のどこかでなんとなく気になっていた文字やフレーズがあるものだと思うから、読んでみて、ああ良かったと思ったりもするのである。

 まんべんなく広がった青い空の下で、本を数冊手にしただけで、体が軽くなったみたいだ。さて、この出費をどこで補おうかと考えるのは、まんざら嫌じゃなかったりする。



  もしも・・・の話はもしも・・・で終わる
2005年04月16日(土)  

 仕事場にてうららかな昼下がり、なんとなくそれぞれの手が空いた時、吉永小百合さんの話題になった。たぶん、最近の映画の話から発展したものだとかすかな記憶がある。吉永小百合さんのことは、50Text's の中の『アイドル』というところで書いたのだが、相変わらずお美しいと思う。あのお顔は、美しい顔の条件としてあげられる”左右対称”に限りなく近いそうだ。芸能界では整形手術をしていない稀有な存在であるともいう。私はファンでも何でもないが、あの方の場合、生まれながらにして、何かの精を天から授けられたような気がする。

で、そのとき
-もし、一箇所だけ保険適用で整形手術が出来るとしたらどこを治すか-

という馬鹿げた質問をしてみた。一箇所だけ、顔でも体でもどこでもいい。ただし後になって不具合が生じたとしてもそれを修正するのは保険適用外であるという条件つきで。するとみんなその話に乗った。そういう話になると、宝くじに当たったらどうするかを考えるのと同じくらい真剣に夢を見る。
 
 「う〜ん、顔は治しても年をとって、他が変わってくるとバランスが崩れるかも知れないし〜、髪の毛でもいいの?最近何だかこしがなくて、ペシャンコになってしまうのよね〜」
 「増毛?それは整形の範疇になるのかしらねぇ」
 「あれもけっこう痛いらしいわよ」
 「あら、そうなの?でも毎日のセットが楽そうよね」
 「それって、マープのこと?あれは鬘の一種だから、手術のうちには入らないわよねぇ、だとしたら、どこをやってもらおうかしらん」

 などなど、皆が色んなことを言い合っているうち、急に静かになったので顔を上げると、苦虫を潰したような顔のボスがいた。目尻を上げてなにやらむっつりと考え込んでいる。おやや、無駄なお喋りを聞かれてしまいましたわね?と思ったが

 「どうなさいましたか?」とややそっけなく聞いてみた。
 するとボスは、釣りあがった目尻で空(くう)を見つめたまま
 「増毛・・・」とつぶやいた。それから眼差しの焦点を私の目にきっちりと合わせると
 「僕は増毛だけじゃない。白髪だって増えてるし、髭だって白髪が混じって嫌なんだ」とのたまった。

 そういえば、ボスは長年鼻の下に髭があったのだが、去年入った若手君の同じ場所にある髭が黒々としているのを見て、突然サックリと剃ってしまったのである。だが今ふと気がつくと、再びボスの鼻の下には髭がある。それは確かにごま塩だ。

 「でも、髭だけ真っ黒だったらそれも可笑しいではありませんか?髪と同じ方がコーディネートばっちり、おしゃれ〜な感じです」

 というのは慰めなのかお悔やみなのかわからない。ボスも喜んで良いのか悲しんで良いのかわからない表情だが、釣りあがっていた目は三日月目になった。ボスは昨年還暦を迎えたが、そんな男性も、色んなことが気になるのね。


 話がそれたが、数日後、今度は昼休みのテレビに、岸恵子さんが映っていた。もう70をいくつか越えているはずと誰かが言っていたが、とても年齢には見えない美しさである。白っぽいスーツ、素足にミュール、髪も頬もふっくら。体の線はちっともくずれていないし、シワだとかシミだとかいう問題ではなくて、姿勢の良さは素晴らしい。年を取るとどうしても、腰椎や頚椎が老化して、姿勢が悪くなりがちだが、スカートの裾から伸びた脚の線も真っ直ぐに美しいまま、いかに健康を維持されていのだということがわかる。

 それからまた数日後、今度は我が家の依然としてモノカラーのテレビで、デビ夫人を見た。私はかねてから気になって仕方なかったのだが、最近あの方の顔の向こうにはマイケル・ジャクソンの顔がちらつく。その日のテレビのデビ夫人は、ますますその道に近づいたようでなんだかハラハラしてしまったのである。

 肌のたるみのようなものは、切り取って引っ張って繋げば、また何とかもとの顔に近づくことが出来るが、鼻の中に入れた異物は、年とともにその大きさが合わなくなる。お年寄りが総入れ歯にしても、加齢とともに歯茎が痩せてしまうと、その入れ歯が合わなくなるのでまた作り直すということと同じだ。崩れるのは鼻からである。彼女はあの鼻に異物挿入を何度繰り返してきたのであろう。財力にものを言わせて、美を貪りたい気持ちは女だからわからないでもないが、いつか頭から滝で打たれる場面を見たら、やっぱりお婆ちゃんなんだもの。ちょいとやり過ぎ、行き過ぎではないか。かくあるだろうという素と人工の間が遠すぎ、ひとの顔もああなると、ヒトの顔としては見えない。

 この際だから、もうひとり。
そこへ行くと、森光子さんは凄いと思う。あの方の場合は、肌に二度や三度のメスを入れたであろうことは想像に難くないが、80歳を過ぎてなお、『
放浪記』の舞台の上でのでんぐり返りやダンスは素晴らしい。あれはもう、森さんの芸への執念、女優魂としか言いようがない。

 吉永小百合さん・・・天の配剤
 森光子さん・・・なせばなる
 岸恵子さん・・・やればできる
 デビ夫人・・・もはやこれまで

 そんな感じ。


 話は戻るが、職場での

-もし保険適応ならどこを治すかアンケート-

の結果である。
その場にいたメンバーの答えは、なんと同じ、歯並びである。
私はいかにひとの歯を見ていないかを思い知ったのだが、それぞれ見せてくれた歯並びのよろしくないことに驚いた。隣同士の歯が重なっていたり、一本だけ飛び出していたり、それが原因で咬合が非常に悪い。ああ、なんという賢明な答えと私は感心しきり。確かに歯の治療は高いから、保険適用というのは心強いものだと思う。それに、自分自身の歯並び変えても年齢によって全体が変化してしまうことはないだろう。なんだかみんなが堅実なので嬉しくなった。

 私は小学生の頃に、歯科矯正の針金を巻いた小学生だったので、その点はありがたいことだとつくづく思ったが、前歯の一本を後ろから少し治したので、その部分の色が少し違ってしまいなめらかでない。なので、その場の中で最も美しい歯の持ち主は誰だったかというと、それは入れ歯になったボスの歯であった、というお粗末である。やはり、人工の美しさにはかなわないのかどうか。それが問題である。



  
2005年04月12日(火)  

 初夏のような日曜の午後、町内一番の桜並木を歩いた。前日は風もなく、春を待ちくたびれた桜が、絢爛に花ひらき、眩しい薄桃色の連なりを見せてくれたが、風の強い日曜の午後には、沢山の花びらが、右へ左へ吹雪のように舞い散ってゆく。


 ある時私は70を過ぎた高齢の方とお話をした。色々なお話を伺ううち、ご家族の写真を見せていただいたことがある。鞄の中から出された財布の中に、まだお若い頃のご自身や奥さま、子どもさんや、お孫さんたちの写真があり、目を細めて誰彼と指差しながら教えてくださった。
 
 それから、もっと大切な写真があるとおっしゃり、胸のポケットから取り出した定期入れの中に、薄く色あせた数枚の写真があった。写真には少年がが5人ほど写っていて、それは軍服を着た兵隊たちであった。その中のひとりの少年ががその方で、言われるまでもなくそのひとの面影があるのがよくわかった。

 写真は同じ部隊にいた戦友たちだという。みんなまだ二十歳そこそこの少年たちで、笑顔を浮かべているのだが、ひとりひとりの顔を見たとき、私は阿木耀子の短編に書かれていたことを想い出した。

 小説の中には
 -思えばあの当時の男たちは、戦地に行く前にすでに死んでいたのだ。召集令状を受け取った時点で、彼等は自分自身の命と意志を放棄する。水盃を交わすまでもなく、心はとっくにあの世に渡り、体だけを戦地に運ぶ。-

 写真の中の少年たちは、誰もが”決意を”したという顔で、責任や役目、お国のため、重い責務を果たすために、二度と生きては帰れない覚悟が、笑顔の向こう側に透けて見えた。それは、悲壮なほどに美しく、凛々しい顔をしているのだった。こんな顔の少年を、私はそれまで見たことがなかった。

 そして、その方は歌を歌う。

貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機

貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう


 桜の花は、見事に咲いてすぐに散る。あらん限りの魂を、命が終わるだけのために咲かせ、潔く散ってゆくそのさまを、戦地に赴く兵隊になぞらえた歌なのだろう。そして言われた。だから桜の花を見るのは悲しいのだと。

 写真の中に写る少年たちの中で、今生きているのはご自身ともう一人だけ。あとの三人の戦友たちは、その後すぐに命を落としたのだといわれ、だから、この写真は、大切にいつもここに入れてあるのだと、左胸のポケットのあたり手を当て、ぎゅっと押えられた。柔和なお顔は、その時にだけ、目のふちに力が入ったように見えた。

 悲しい花などあってよいのかと思うが、桜の花を見てその美しさを愛でる気持ちの片隅に、花の命のはかなさだけでない哀しみが混じるようになった。春の日の、風に吹きだめられた花びらで出来たふくらみを見ると、沢山の尊い命のように思えてくる。

 サクラサク
 サクラチル

 サクラサクはおめでたいが、サクラチルはおめでたくない。聞きなれた電報文が、頭の中でリフレインした。



  月光花
2005年04月11日(月)  

  あまりにも美しいので手が出てしまいそうな
Janne Da Arc のアルバムはこれ。
ジャケットに見とれてしまいました。




  - 天使の牙 -   大沢在昌
2005年04月10日(日)  

 前日の Diary の続きは、長くなりましたので、
Reading の方に up いたしました。
お時間がありましたら、おつきあいくださいませ。

Reading は左の MENU から♪




  天使の牙  その前に
2005年04月09日(土)  

 怪我で体の一部、例えば片脚を失ったひとが、ないはずの脚の痛みをうったえることがあると聞いていた。神経はすでに切れているのに、まだその部分が生きている頃に感じた痛みを記憶した脳が、その脚はもうないと理解しているはずなのに、あたかも現実にそれを感じているように錯覚するのだという話。

 それから、体のどこかを触ると、それは膝だ、とかふくらはぎだと(失う前の)感じることもあるらしい。そんな時、脚の痛みをうったえられたら、その部分として感じる体のどこか、例えば頬のどこかをさすってやると、痛みが消える。痒みをうったえたら掻いてやると、やはり痒みは消えるのだとか。その存在を抜きにして、脳が記憶している脚の感覚と頬の感覚が交差するとでもいうか。

 最近、興味深い話を聞いた。
そんな時、まだ健在な脚のこちら側に鏡をおいて、そのひとに見せるのだそうだ。鏡に写る今ある脚が、まるで失った側の脚のように見えるように。そして、その脚を元気に動かすと、鏡に写るその脚は、まるで失う前の健在な脚のように見えるらしい。

 そして、それを脳に記憶させると、それまで感じていた脚の痛みは消えるのだそうだ。古い記憶の上に新たな記憶を上書きするかのようにして、脳に新しい感覚を覚えこませる。すると今まで感じていた苦痛が綺麗に消えるのだと、それは現場に立ち会っていても、とても不思議な話だという。

つづく



  今年の桜
2005年04月08日(金)  

 待って待って待ちぬいた桜がいっせいに花ひらき、熟すだけ熟した果実がたわわに実っているように、一分のすきもなく開いた花びら花びら花びらが、あたり一面をうっすらと桃色がかった霞にして、しんなりと空(くう)を蔽う。

 おそ咲きの花の秘めに秘めた情念は、夜になるといっそう艶やかに、薄墨色の空に映え、今宵散ることもなくその生を確かめる。





-散りぬべきとき知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人は人なれ-    細川ガラシャ




  柳に風
2005年04月07日(木)  

 最近私はそんな風に生きている気がする。以前は何かを想像すると、もしそうなったらどうしようとかああなったらどうしようと不安に思うことが沢山あって、まだ何も起きていないうちからあれこれ考えてしまったりしていた。しかしこの数年が過ぎてふとかえりみると、何事もなるようになってきたり、なるようにしてきていて、それは想像していたより出来てしまうものであったし、想像はそれ以上の何物でもなかったとわかったからかも知れない。日々の積み重ねが、私という人間を変えたのかも知れない、とそう思う。

 と書いてから気がついたのだが、私は柳というものを触ったことが一度もない。(笑)たぶん柳という木はしなやかで、強靭なのだと、それこそ想像している。-柳に雪折れ無し -という言葉があって、その意味は、柳の枝はしなうので、雪が積もっても折れないことから、柔軟なものは弱々しくみえるが、剛堅なものよりもかえって強いたとえなのだそうだ。

 軟弱に見えるかどうかは、見ている側の決めることだから、私はなんとも言いようがないが、しなうという感じが以前の私にはなかったものだ。若い頃、私はどちらかというと、杓子定規に考えてポキリと折れてしまいそうな要素が多かったと思う。それが今になるとそうでもなくなっていると感じるのである。

 もしかしたら、もともとある私の不埒さやしたたかさが上手く相まって、折れそうになる部分がほどよく緩和されたのかも知れない。

 もっとも、ひとから見たら、糠に釘とかのれんに腕押しとか、馬耳東風などということになっているのかも知れないが。少なくとも、今の方が生きやすい。生きやすくなったと思う。柳に風。しなやかというイメージにはまだまだ遠いが、今がそれほどいやじゃない。

 本日、ようやく母が退院しました。1月26日に入院したので、かれこれふた月半の入院生活でした。どうしても体力が落ちているので、回復まではしばらくかかりそうですが、一安心といったところです。

 相変わらず更新が遅いですね。(笑)



  残像
2005年04月01日(金)  

 我が家のリビングのテレビが、かれこれ三週間くらい白黒になっている。少し前までは、ときどき横に波線が生じて、ポンと叩くと戻っていたが、今度は何をしても戻らない。要するに古いのだ。

 私は、いつになったら、元のカラーテレビにもどるのかと待っている。永遠に白黒のままかも知れない、たぶん。近い将来すーっと黒くすいこまれるようにして、最後にプツっと消えてしまうのだろうと思うのだが、燃えつきる前に一度元気を取りもどすかも知れないと思ったり思わなかったり。

 しかし、テレビが白黒になったからといって、あまり違和感がない。文字通り精彩を欠いている気がするが、だからといってなんということもない。更に、家族が誰も何も言わないので放置だ。たぶん今まで見てきたさまざまなものの残像で見ているのだろうと思う。時として、目に見えるものよりも残像の方が鮮やかなことがある。画面の世界に限らず。



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