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2005年10月31日(月) 敗者の休日。

■一昨年、ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」を夢中になって通読した後、世の中には幾つもの幾つもの素晴らしい物語が、未読のままに、本屋や図書館で眠っているのだと思い、わたしはそのどれだけを生きてる間に読み切れるのだろうと、何やら悲しい気持ちになった。それからというもの、本屋に行くたび、古本屋に立ち寄るたび、いつ読めるかもしれない古今の名作をすこうしずつ手にとって帰るようになった。それらは、わたしのライティングテーブルの上で、積ん読状態になっている。

■旅公演の夜用に選んだ本は、川上弘美の新刊エッセイと、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の2冊。川上さんのはあっという間に心地よく読み終えて、「トニオ」を読み始めたとたん、4ページ目で早くもくらくらくらするような一文に出会う。

『トニオはハンス・ハンゼン愛していて、そのためにもうこれまで幾度か苦悩をなめてきたのである。最も多く愛する者は敗者である、そして苦しまねばならぬ……トニオの十四歳の魂は、すでに人生からこの単純で苛酷な教訓を受け取っていた。』

十四歳で、そんな教訓を受け取られてはたまらない。

■休演日。昨夜から今夜にかけての時間を恋人と過ごす。大阪の町を、目的なく歩き倒した。特に何を話すだけでもなく。それはそれは幸せな時間だったのだけれど、久しぶりに会って、また別れるという行為自体に、過ぎていく二人の時間のあれこれに、トニオ言うところの敗者のわたしは、大いなる苦しみも味わうのだった。……トニオより、30歳年嵩のわたしが。

一人の夜。30歳年下のトニオの愛を追って、静かに眠りを待とう。


2005年10月29日(土) 忙中、ひとりごと。

■またまた長らく書かなかった。忙しかったのだ、ものすごーく。
 本番をランニングしながら、夜な夜な、友人のために20分くらいの小さな戯曲を書いていた。平均睡眠3時間の2週間でひとまず書き終えたところで、企画が流れた知らせ。がっかりはしたが、久しぶりに「書く」時間を思い出せたのがうれしかった。その後、旅公演に出てきたものだから、「書く」時間は、また失われてしまったが。それでも、今の仕事を終えたら、しばらくのんびり過ごせる。心のうちに貯め込んだものを、書くことで少し吐きだしていければなあ、と、思いながら、忙しく立ち働く日々。

■泊まっているホテルはインターネットとPCが使い放題。このところ家のADSLが調子悪く、ブロードバンドの恩恵に浴していなかったわたしは、夜、インターネットラジオをかけっぱなしにして楽しんでいる。今は、ブロードウェイのミュージカルナンバーを流し続けてくれるチャンネルがお気に入り。
現在、歌ものの仕事をしているのだが、はっきりいって歌に関しては素人ばかりのキャストで無理やりに成立させているので(それが逆に評判なのだが……)、練れたナンバーを聞いているとほっとする。初めて出会う美しい曲はタイトルをチェックしておいて、休みになったらCDを買い求め、ゆっくり聞こう。

■映画やテレビで活躍する、かっこいい女の代名詞になるような女優に、このわたしが「かっこいい」と言われる。かっこよくて憧れる、とまで言われる。まだ自分発信で仕事する場も持たず、プライベートでは恋人に振り回され、この間は一人寂しく死にそうになったような、どうしようもないわたしが……。
 自分のかっこ悪さは自分がどうしようもなくいちばんよく知っているのだけれど、まあ、ちょっとはかっこいいところがあるのかもしれないぞと、たまには人の言うことも信じてみようと思ったりする。だって、そうでも思わないと、本当にどうしようもない人間だもんな、今のわたしは。

■そう言えば、またひとつ歳をとってしまった。44歳。……44歳にもなって、このざまかよ、と、自分を責め立てながら恥じ入りながら、誕生日を過ごした。休みに入ったら、胸のうちにある、自分を試す新しい企画を実行しよう。行動して、行動して、せめて自分を恥じることの少ない生活を送りたい。人生、まだまだ、これからだぜ。



2005年10月03日(月) さまざまな認識。

■事故を思い返して空恐ろしくなるのは、あまりにも突然、記憶が途切れていること。眠りが足りていた時にもかかわらず、起こされても起きない深い眠りに墜ちていたこと。痛みや気丈な会話を織り交ぜながらも、眠り続けたこと。記憶のないところで暴れていたこと。

時間がたってみると、わたしは誰かに強引に眠らされていたような気がしてくる。
つまりは、現在を許容して生きる自分自身に業を煮やした、わたしの本体が、駄目なわたしを眠らせて暴れて、「目を覚ませよ」と迫ったのではないかと。
これはくだらない想像だろうか?

■でも、わたしは、強引にそう思いこむ。その凶暴なわたしを鎮める方法は、表現という仕事の中にあると思うから。そうして、自分にはっぱをかける。

■休日の半日を、恋人と過ごした。
事故が起こって、わたしが危険な状態にあっても、この人はすぐには来てくれないのだということを認識した。そしてまた、そういう人だとわかっていて一緒にいるのだと認識した。それでも一緒にいたいのだと認識した。休日を一緒に過ごすと、やっぱり幸せだった。

自分に何か起こっても、かつてのように母に電話して泣きつくことはできないのだということも認識した。母は、病気を越えてから、かつての母ではない。わたしの頼る母から、わたしを頼る母に変わってしまったので、心配をかけるわけにいかないのだ。

如何せん、わたしは今、どこまでも一人なのだ。
世界に向かって自分の存在を表現に置き換える仕事をしない限り、生きていることも、死んでいることも同じくらい、一人なんだっていうことを、認識した。もとい。他者が認めてくれる仕事を出来たとしても、それでも一人なんだってことを、認識した。

■そして、偶々死ななかったわたしは、偶々生きているのだという、妙な感覚も覚えた。偶々生きてるだけなんだから、何を恐れることもないだろう、という、長らく同じところで仕事してきてがんじがらめになっていた自分が、ちょっと楽になった感じ。

■ちょっと哀しいこと。
外傷は大したことないと思っていたのに、5センチ直径の血だまりが後頭部に出来ており、まだ熱を持って炎症を起こしており、医者が言うには、いつかこの部分の毛根がやられてしまうかもしれない、ということ。
5センチのはげが出来るってこと?
これは痛くわたしを傷つけた。かなりかなり滅入った。
死んでもおかしくなかったところを生き延びて、生きてるんだからそんなことくらい何てことない、なんて思えないってことを、認識した。
生きてるってこと自体が、あらゆる欲を身にまとうことなんだって、認識した。

■さて。また一週間が始まる。仕事に関して言えば、まったく同じことの繰り返しのルーティーンな生活だ。その中で、ささやかな認識とともに、わたしは少しでも違う精神を持ち続けることができるだろうか? 
わたし本体の反乱に、立ち向かう人になれるだろうか?







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