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2005年09月29日(木) 喜び、ひとしお。

■事故の翌日、一日穴を開けたものの、仕事に復帰して、生きてるぞ生きてるぞの実感、しきり。いやあ、ほんとに死ななくってよかった。死んでてもおかしくなかったものなあ。
仕事場では事故を伏せておいたので、何気なく日常に戻っていた。もちろん、「頭の中大丈夫か?」という不安は依然あったのだが、ひとつひとつ「大丈夫、大丈夫」と、自分を確認しながら一日を送った。
一日を終えても、眠ったらもう起きないなんてことがあるのでは?といった一抹の不安も残っていたのだが、しっかり目覚ましで目覚めた。外傷の血も止まって、かさぶたができはじめている。……どうやら悪運強きわたしは、生き残れたようだ。

■今日、復帰二日目で、ほぼ不安は消えた。明日から心も体も日常に戻るだろう。戻るわけなんだけど、頭のうちどころがよかったのか、本を読むときの集中度が事故前よりあがってる気がする。文章の理解が事故前よりスムーズなのだ。でも、これって、生きててまた本を読めるっていう喜びの表れなのかもしれないな。

■わたしみたいな馬鹿な人間は、いつなんどきまた危険な目に会うかわからない。恐れないで思いっきり生きてかないと後悔するぞと、自分と対話する夜。


2005年09月27日(火) 死に損なって、生き直そう。

■「どうしたんですか?」と声をかけられ目が覚めた。声の主は警察官で、我が家の玄関の前にわたしは寝ていたらしい。そして、頭がひどく痛い。触ってみると、膨大な量の血が凝固して、わたしのロングヘアーはがちがちのひと塊になっている。

■覚えているのは、8時頃一人でふらっと一人で飲みに入った店で飲んでいた11時頃まで。それ以降の記憶はまったくない。

■と、恋人から電話がかかってきた。「大丈夫?」と。どうやらわたしは店で倒れて、バーテンダーにタクシーで家まで送ってもらったらしい。場所を知るために、店の終わった朝4時、彼はわたしの携帯から恋人の名前を探して電話をかけたのだ。どうやらうわごとのように恋人の名前を呼んでいたらしいから。

■何が起こったか。
 わたしはさほどの量でもないお酒で眠り込んでしまい、カウンターの椅子から転げ落ちるなどの迷惑をかけたあと、トイレへ。長らく出てこないのでバーテンダーが入ってみると、頭から血を出して、大の字になって倒れていたらしい。(話しかけると、「大丈夫、大丈夫」と元気に答えていたらしいが、もちろんわたしは覚えていない。)そして、苦労してタクシーで家まで送り届けてくれたのだが、わたしはなぜだか、わざわざ部屋を抜け出して、家の外で眠ってしまったらしい。

■何故こうなったか。
 怒りだの不満だの不安だの孤独だのストレスだの、負のパワーがわたしの中で爆発しちゃったような気がしている。疲れた身体の中で、爆発が起こって、ぶっ倒れちゃった、と、そんな感じ。

■部屋に入って、再度の貧血。ふらっと倒れて、床の上で固まり動けないこと1時間。病院に行こうと、ひと塊になった髪の毛を洗っていたら、さらに目眩と頭痛に襲われ、これは駄目かもと、救急車を呼ぶ。やってきてくれた救急隊員はとても優しい目をしていて、一人の恐怖から少し救われる。

■CTスキャンとレントゲンの結果、脳内の損傷はなし。なんてわたしはついているんだろう。頭痛はあるが、外傷の痛みと、打撲の痛みからくるのだろうということに。
で、へんてこりんなネットを頭に被されたまま新大久保の病院を一人出て、タクシーに乗り込む。

■恋人に電話で結果報告しながら考えた。
死なないでよかった。死んでてもおかしくないのに死ななかった。爆発して血も大量に流したから、きっと貯めこんでた悪いものも流れちゃっただろう。
死に損なったからには、明日からまた生き直さんといかんなあ、と。やるべきこと、いっぱいあるよなあ、と。









2005年09月22日(木) 今、自分が在る場所では、ないところに。

■大作に関わっていたため、初日を開けるまで人心地のしない日々だった。何の問題もなく仕事しているだけでも大変なのに。ああ。
同僚との不和に悩み、疲れていても酒を飲まねば眠れず。神経と肉体の疲れから仙骨を痛めて立てなくなり、まあ、それでも病院通いしながら仕事を続け。現在を生き悩む恋人はしばしば荒れて、危うく警察沙汰の騒ぎを何度も起こし、それに悉くつきあい。
現場では、大変な仕事であるがゆえに出演者たちが抱え込むストレスを、一手に引き受け、あらゆる口からこぼれる不平不満に耳を傾けた。
眠りを削り、心を削り、まったく、わたしは何人分もの人生を一気に生きてるようだった。体力だけはある女で、本当によかった。まあ、それでも今回は肉体を痛めたけれど。

■現在は本番のランニングをこなす日々。少し本を読む時間も生まれた。
母の闘病の記憶が新しいわたしは、リリー・フランキーの「東京タワー」を落涙しながら読んだ。
村上春樹の新作「東京奇譚集」は、わたしを、「今、自分が在る場所」から「今、自分が在る場所ではないところ」に連れていってくれた。
遠いところで吹いている風に、わたしは知らず知らず動かされている。
今、自分がいる場所ではないところに、世界はある。
風が吹けば吹きだまりが出来、水が流れれば淀みが出来る。じゃあ、人が生きれば?
自分の生きる根拠を、足場を、自分がいる場所ではないところに、ふと見いだすことがある。自分の現在を俯瞰する作業は、意識しても出来るものではなく、自分の場所での現在の積み重ねが飽和に達したとき、自然と訪れるものなのか?
こういう本を、仕事が佳境のときのわたしに読ませてやりたかったと思うが、それは無理というもの。
興奮と熱狂からしばし醒めて、仕事を重ねながらも、静かに自分と向き合いたいと思うこのごろ。


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