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2005年07月22日(金) 長い一日。

■朝。久しぶりに我が家を訪ねてくれた恋人が、早い時間に仕事に出かける。眠い目をこすりながら、朝ご飯の支度、駅まで自転車で送っていく。

■午後。一度一緒に仕事をしてから、とても大切に思っている俳優が主演するミュージカルを見に行く。成長著しく、終演後楽屋に行き、その仕事をねぎらう。

■夕刻。再びヘアサロンに行って、さらに強いパーマをかける。前回に劣らず実によい出来。丁寧な仕事をしてくれるいいスタイリストに出会った。

■夜。母が再入院の報せを父から受ける。命に別状はないらしいが、突然容態が変化したので、明日検査がある、とのこと。10日ほど前に帰ったときは、あんなに元気だったのに……。不安が募る。

■深夜。恋人が仕事で使う着物の直しをする。若い頃覚えた和裁が役に立つ。一針一針、丁寧に、心をこめて縫う。3時間もかかってしまったが、なんとも美しいできばえ。

■そして、明日は、また朝から仕事場に出かける。あと2日間、次の仕事の稽古をして、明明後日の朝には米国に向けて飛行機に乗る。


2005年07月18日(月) 太陽が大好き。

■我が家から観劇に銀座へ、銀座から仕事で渋谷へ。今日の移動は久しぶりの自転車。休日なので新宿通りも246もすいてて、気分良く車道をすいすい。お濠端は相変わらずいい気分。この間実家に帰って感じたのだけれど、川っぺりに産まれたものだから、水辺に近づくとわたしはリラックスするらしい。梅雨明けして暑かったけれど、汗をかくのもまた心地よい。仕事場に着くなり、「どうしたの、いい歳して日焼けして?」と突っ込まれたけれど、いいのよ、いいの。わたしは幾つになっても日焼けなんぞ気にしない。太陽はわたしのエネルギー源ですから!太陽浴びないと、ウルトラマンみたいに胸のタイマーがピコンコンと鳴り始めますから!

■来年の夏まで、具体的に仕事が決まった。また海外公演が含まれたりはするものの、ちょっとルーティンワークになりそうな予感。今年の11月、12月に、2ヶ月の休みが取れそうなので、そこを上手に過ごさなければなあ。


2005年07月17日(日) 帰京。

■昨日のわたしの苦しみより、もっと深い深い悩み痛みを抱えた主演俳優が、一晩を越えて、会心の演技を見せる。

 23歳の彼がしょっている十字架の重さ。それを見守る自分の役目。来し方と、来たる日々。様々に思いを馳せながら、早々と荷物をまとめて帰京するカンパニーの中、楽屋で祝杯。乗るはずの新幹線には乗り遅れるも、晴れやかな気持ち。喜び溢れる。

 一週間後には、このツアーの最終目的地が待っている。渡米間近。

■明日は朝から師匠の新作を観にいき、それから次の仕事の打ち合わせ。帰京早々スケジュールはパンパンに詰まっている。
 でも、昨日から今日にかけての一連の心のぶれで、仕事への愛情を再確認した。
 自分の仕事の重みと難しさを深々と感じ取った。
 
 気力は充実している。



2005年07月16日(土) 頑張れる。また、明日。

■何をしてるのだろうなあ、わたしは。
 と、自分を責める夜である。

 この間、わたしは他者を映す鏡であるのだと書いたが、このところの自分がまさに正しくない鏡を演じていることに気づかされることが、今日、あった。

 不安、怖れ、自分の曖昧な立場からの遠慮、などなど、わたしを間違った鏡たらしめた原因を思い、自らを責め苛む気持ちから立ち直るのに、3時間ばかりかかった。

 他人の土俵で相撲をとっているから、こんな半端なことで悩むんだ。
「あんた、そろそろ自分の名前で仕事しなさいよ、身体はりなさいよ」と、わたしに囁くわたしがいた。

 わたしは本当の意味で勝負なんてしてないので、取り戻せないことなんて何もない。(はず。)だから、今日までのことは、きっと明日からで取り戻せる。

 よし、明日からまた頑張ろうじゃないか。

 まあ、いつも頑張ってるつもりなんだけれど、間違うこともあるし、ずれることもある。抜けることもある。

 だから、また、明日。

■大体において、何があって前向きに生きていけるわたしを支えているのは、精神力なんかじゃなくって、親からもらった健全かつ屈強な肉体なんではないかと、ふと思うことがある。

 母親は、先日退院した。医師も舌を巻く驚くばかりの快復力だ。それをわたしは受け継いでいる。会いにいって、その母に力をつけてあげることばも、持っている。自分の鋭気を母に移してあげる余裕が十分にある。

 夜公演だけで昼が空いた日に、スポーツクラブで筋力と筋肉量のテストを受けた。最近飲み過ぎ食べ過ぎで太ってきたと思っていたが、体脂肪は標準以下。筋肉は全身標準を遙かに上回っていた。アスリート並みと絶賛された。

 親からもらって、かつ自分で大事に乱暴に育ててきた肉体が、わたしを守ってくれている。

 よし、まだまだ頑張れるぞ、43歳。精神よ、ついて来い。


 

  


2005年07月14日(木) 7月13日は。

■去年の今頃、わたしはあまりに大変な仕事に参加していて、朝から晩まで稽古場にいた。で、恋人に会う暇もなかった。しかも家のエアコンが壊れていて、修理を頼むことも新規購入する時間もなく、サウナの夜を過ごしていた。
 そして去年の7月13日。恋人と空き時間がたまたま重なったので、わたしは新宿の某有名ホテルの一室を予約した。ネットで予約すると割引になるプランで、それだけでも贅沢だったのに、チェックインしようとすると、予約のクラスの喫煙部屋が満室ということで、なんとジュニアスウィートの部屋に案内された。新宿の夜景を高層階から眺めながら、だだっ広い三部屋ぶち抜きを飛び回りながら、たかだか夜10時から朝10時までの12時間、それでも幸福に過ごして、翌日からの元気を蓄えた。

 そして、今年。またまた仕事の休みが重なるのが7月13日だったので、これも何かの思し召しと、わたしはまた高級ホテルを予約。ちょっと贅沢めのダブルをとってチェックインしようとしたら、またしても喫煙部屋が満室。エグゼクティブフロアなる、贅沢極まりない部屋に通された。いやはや、二年続きの大当たり。
 思いがけない心地よい部屋に、恋人と二人、おおはしゃぎ。夜景を楽しみつつワインを二本空けたら、最近神経がたって眠りを奪われていた恋人は、縦横同寸のでっかいベッドに転がるようにして眠ってしまう。肌触りのよい真っ白なシーツと羽布団からのぞく幸せそうな彼の寝顔を楽しみながら、わたしは静かな部屋で読書を楽しんだ。

 というわけで、7月13日は、ホテルの日なのだ。
 こうなると、来年も、と、思いたくなるが、いやいや、偶然は、予期しないから起こるし、偶然を必然と思いこんだ途端、人生はつまらなくなってしまう。

■昨日、心と体の疲れや憂さをすっかりぬぐい取る休日を過ごしたというのに、さっき電話で話したら、お互いにまた、新しい疲れや憂さを貯めている。たった一日のリラックスなんて、何の役にもたっていないように思えるほどに。でも、まあ、そうこうして過ごしているから、休日その時だけでもその有り難みを大きく感じるし、休日の女神様だって微笑んでくれるのだ。……頑張って、この日々、日々を、乗り越えていくこと。


2005年07月09日(土) うぬぼれ鏡を眺めながら。

■演出家不在のカンパニーを守って旅を続けているが、毎日毎日観続けていると、自分の感性のどこかが麻痺して、作品が何かを喪ったり何かを過度に獲得したりすることによって微妙な崩れを起こしていることに気づかないのではないかと不安になる。そのことに意識的に仕事してはいるが、不安は不安。今日は久しぶりに演出家がやってきて、わたしはいつもと違う緊張感。もちろん俳優たちだってそうだ。
 結果は上出来で、演出家もご機嫌。わたし自身も、自分がずれていなかったことにほっとし、誇らしい気分。何が変わったわけではないけれど、穏やかで、ニュートラルな感情でいられる、幸せな夜だ。

■地方に来ると、都市によって大体利用するホテルは決まっていて、馴染みの宿に幾度もチェックインすることになるのだが、今回は初めてのホテル。入ってみて感じたのは、設置されてる鏡が、全部「うぬぼれ鏡」だってこと。
 鏡って、ひとつひとつ色んな特徴がある。総じてありのままを映すものみたいに言われるけど、縦に伸びたり横に伸びたり、微妙な歪みを生じていたり、平面的に映ったり立体的に映ったり。で、とにかく美しく見せてくれる鏡を、わたしは「うぬぼれ鏡」って呼んでいるのだ。

「うぬぼれ鏡」を眺めながら、ふと、自分は仕事をしている時、俳優たちの鏡として存在しているのだと思ったりする。自分の姿を自分で見れない、演じる自分がどう見えているか分からない彼らを、「こう見える」「ああ見える」と伝えながら、導いていくのだから。
 基本は、出来るだけ「ありのまま」を映す鏡になってあげること。でも、時には「うぬぼれ鏡」になってあげることも。そして時には、ありのままを少し誇張して映してあげることが力になることもある。
 
 人を映す以上は、自分がニュートラルでなきゃならない。ちっぽけな人間であるから、感情は常に千々に乱れがちだけれど、仕事する自分は、安定してなきゃいけない。大変な仕事をしてるんだなあ、と、しみじみ。
 ホテルの中間照明でさらにうぬぼれ度を増す鏡を眺めながら、「今日は終わった。さあ、明日が来るよ」と自分に声をかける。


2005年07月07日(木) 「生きている」って。

■ロンドンで、またもテロ。

 何者でもなく生きている時間がこうして一日一日積み重なっていくと、若い頃、今在る自分を否定して未来の在るべき自分のために時間を使って生きていた感覚は、どんどんすり減ってなくなっていく。
 今の自分が生きているということだけで、穏やかに幸福であるという感覚。向上心が薄れるというのとも、ちょっと違う。今の自分がどうであれ、生きているだけで、暮らしているだけで、自然に人生を肯定できるようになってきた、という感じ。
 死に直面した母が、記憶を喪ったところからひとつずつ再獲得し、歩く機能を喪った足に再び歩くことを教えこんでいる姿を見ても、単純に、生きているということの幸福を感じる。
 いずれ死ぬのに、どうせ死ぬのに、今は「生きている」のだ。

 その、人に与えられたわずかな「生きている」という自由時間も、こうして人が存在するゆえの諍いを起因にして、無意味に無作為に奪われていったりする。

 この自由時間は、あまりに不公平で、秩序がない。「生きている」という原罪が「生きている」という幸福を冒していく。

■こぶりでささやかなわたしの人生も、もう半分以上が過ぎた。さて、何歳で自由時間が終わるのかはしれないが、たぶん、半分は。
 
 こう在りたい自分をいまだに抱えつつ、現在の自分の仕事も愛している。働いていないと自分じゃなくなると思うくらい、仕事が好きだ。恋人や親の愛情だけじゃ、ましてや自己愛なんかだけで、生きてはいけない。

 また、次の地方公演にやってきた。ホテルの窓から都市の夜景を眺めつつ、明日のための眠りの準備のことを考えている。


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