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2001年11月02日(金) 神頼みは苦手

 昨夜も、当たり前な人たちが出勤するまで机に向かう。
 昼前にようやく目を覚まし、仕事のからみで行っておかねばならないお祓いに、都内の神社へ。
 決まり事として、賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし、手を合わせるけれど、心の内は、「何を思うたらよいものか?」と。
 神仏に願い事する時、人は皆、何を思っているのかしらん? それは勿論それぞれなのだろうけれど、例えば、声にならない心の声で、お願い事を言葉にするのか、それとも心の内を真っ白にしようと努めるのか? 敬虔な気持ちを呼び覚ますのか?

 そういうことが分からぬままに、40年やってきた。神仏頼みはとにかく苦手。それらしい顔さえ出来やしない。自分に頼む方がよっぽど楽な、不信心。

 大事な休み。一日を残して、とりあえずやるべき仕事は全部終えた。(これの何処が休みだと言うのか?)
 明日は、のんびり、横浜まで足を伸ばし、トリエンナーレを見てこようかと思う。


2001年11月01日(木) 相米監督の訃報が届いた日

 昨夜心に誓った通り、って言うか間に合わないので仕方なく、1日中家で仕事。まあ、適度に休憩は挟んだけれど、ずっと机に向かっていたなあ。
 時代物の脚本なので、注釈本を2冊並べて、もう受験生のようにお勉強。これをやっておかないと現場で楽になれないことはわかっているので、とにかく、やる。
 夜中になって、さすがに集中力が続かず、TVをつけたら「セーラー服と機関銃」をやっていた。そうだ、相米監督はもういないのだ、と思い入れあって、つけっぱなしで仕事を続けている。
 「台風クラブ」とか、「お引っ越し」は、一生忘れられない、生きていれば折々に思いだしてしまうタイプの映画。
 訃報を知った日の朝。あの朝はひどい台風の雨風の中の出勤で、偶然にも「台風クラブ」の1シーンと挿入歌を思いだしていた。そして夜、訃報を読み、台風と共に監督はどこかに行ってしまったんだとひどく悲しい思いをしたのだった。
 相米監督を知ったのは、大学生の時。
 同じロシア語クラスに、大変な映画好きの男の子がいて、休講になったか何かの時に、たまたまお茶を飲みに行くことになって、映画の話をしたのだった。
 その頃のわたしは、ベルイマンだのフェリーニだのタルコフスキーだのに狂っていて、その手の好きな映画の話をしたら、彼は「そんなの、何が面白いんだよ」と、言い放った。そしてわたしが、「じゃあ、どういう映画が面白いの?」と聞くと、「今、いちばん面白いのは相米監督だね。あの長回し、スゴイよ」と、喜色満面でそのスゴさをとくとくと語った。
 悔しがりで生意気でとんがってた女学生のわたしは、すぐに映画館にとんでって、「セーラー服と機関銃」を見た。「へえ、これが彼の言ってた長まわしかあ、いいよ、いいよ、これ」とか思いながら。
 今思えば、粋がってるばかりの大学生二人の、笑っちゃう会話、笑っちゃう映画談義だったが、少なくともわたしは彼のおかげで、相米映画を知ることができた。
 そして、後日、「台風クラブ」に接して、わたしは、その生き生きとした人間達、緊密な時間、上質な抒情に魂を抜かれてしまうことになる。
 そう言えば、相米映画の面白さを熱く語った彼は、「らせん」の映画版シナリオやカルト的人気の「女優霊」など、ホラーを中心とした売れっ子シナリオライターとして活躍している。
 付け加えると。訃報をネットで読んだ後、何気なくTVをつけて、テロ事件が起こったのを画面を通して目の当たりにしたのだった。
 それから、何も書けなかった。ここにも何を書いていいのかわからなくって。
 今はこうして日常に戻り、どうでもいいことをまた書き続けている。ただ、やっぱり世界も、人も、わたしも、何処か変わってしまったのだ。言葉にならぬそこら辺を意識しつつ、これからは仕事していかなければならないのだろうな。


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