おひさまの日記
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2003年09月29日(月) 自然筋トレ

どうしても欲しくて探し出して買った私の愛車カプチーノは、
10年落ちで今時重ステだ。
ハンドルが重いのなんのって。
マニアックに、それがまたいいんだ、なんて思っちゃうんだけど。
スピードが落ちれば落ちるほどハンドルは重くなる。
車庫入れ、車庫だしなんかは、ぐぐぐいーっ!って感じだ。
それが自然筋トレになってるんだろうな。

私の腕は、育児マッスルと、重ステマッスルでできている。


2003年09月24日(水) 恐れを見つめる

昨日は中島先生のワークショップに顔を出してきた。
何度行っても自分の中から色々なものが湧き上がってくる。

ある男性のワークを見て、彼と共通する自分の姿を見た。
彼のワークが進む度に、私は涙が溢れてきて止まらなくなった。
私が遠くに置いてきたもうひとりの自分がすぐそばまで来ているのを感じた。

人がとても怖い自分。
何かを言う度、する度、父に怒鳴られてきた小さな私。
いつも自分が言ったりしたりすることへの、相手の反応が怖かった。
怒られるんじゃないか、嫌われるんじゃないか、と。
本当のことを言ったら、きっとみんな怒るんだ、
だから飲み込もう、その人が言ったことを、したことを、
聞かなかったことに、見なかったことにしよう、
イヤだということを言わないでいよう、
NOを言わないでいよう、
相手に合わせていよう、
そうやって相手の顔色ばかり伺っていた自分。
胃の辺りがイヤな感じで、苦しかった自分。
いつも否定されるのが怖かった自分。

久しぶりだね、もうひとりの私。

よく考えれば、今もどこかでそんなことを繰り返す私。
昔よりは勇気を出して色々と言えるようになったけど、
それでも、自分の言ったこと、したことへの相手の反応に怯える自分。

改めて、自分のルーツがはっきりと見えた。

でも、そんな自分でもいいなぁ…って思った。
そんな自分が見ている現実と、大人になって色々学んだ自分が見ている現実は違う。
小さいままの私が見ている現実は、恐れに基づいた自分の想念が作り出した幻想。
今はそれがわかるから。
大人になって成長した今の私が、小さいままの私を助けてあげたい。
彼女が私の中にいたままだっていい。
彼女をだっこして一緒に感情を感じて、ほらね、大丈夫、って教えてあげたい。
怖かったけど、もう大丈夫だよ、って。
繰り返し、繰り返し、抱きしめて、事実を伝えていくうちに、
きっと彼女も新しい現実を見始めるだろう。
今まで怯えていたものが、実は幻想だったと気付くだろう。
それまでは、一緒にもがこうと思った。
もう逃げないで、しっかり小さいままの自分を受け止めようと。

私の恐れは、もう、得体の知れないものではなくなっているのだ。
だから、怖いけど、怖くない。
暴れる感情にやみくもに飲み込まれ切ることも減った。
昔は、その怖さを知りたくなくて、
その怖さから感じる悲しみや辛さを感じたくなくて、とにかく逃げてきた。
逃げるから、それは永遠に追いかけてきた。
けれど、逃げないで正面から受け止めたら、
それは、私を傷つけようとするものではなく、
救われたいと願っているものだと知った。

今日も、ふたりの人に、とても伝えにくいことを伝えたの。
きちんとありのまま、状況のままコミュニケーションしたいと感じて。
怖かった。
今も怖いよ。
怒られるんじゃないか、嫌われるんじゃないか、って。
その傍らで、そんな自分を見ている自分がいる。
いつか、恐れも薄らいできたら、
人に伝えなくて済むことだって増えてくるだろう。
それまでは、不器用に、時には不必要なことまで人に伝え続けていくのだろうな。
「痛いよ」って、色々表現を変えて。

恐れる自分も応援してあげよう。
感じてあげよう。
ほら、怖くなかったでしょう?
そう伝えてあげるために。
私に。
私自身に。
彼女に新しい服を着せてあげられるのは私しかいないのだ。
私が私の味方になってあげるしかないのだ。

ビニールウォーマーにはならず、
現実の中で行動し、挑戦してみようと思うのだった。
人は、こんな葛藤が死ぬまで続くのだろうな。
だからこそ人間やってるんだろうな。


2003年09月22日(月) ざずんぞー

アンナがブロックで作ったよくわからない物体に名前を付けた。
それが「ざずんぞー」だった。
わからない、わからないけど、おかしい。

今、「ざずんぞー」がブームだ。
なんとなく、親子で連呼している。

何かに変身できそう。





昔、専門学生の頃、たおとよくやってた意味不明な言葉遊びを思い出した。
なっつかしーな。


2003年09月21日(日) ビニールウォーマー

なんかの便利グッズみたいなタイトルだけど、違う。

ビニールウォーマー、それは「椅子をあたためる人」の意。
講演会や、セミナー、ワークショップ、
セラピー、カウンセリング、ヒーリング、
それらに代金を支払い、参加すれば、受ければ、
何か情報を学べるだろうと考える人達のことを言うのだそうだ。

本来、それらは、
人々が参加したり、受けたりすることによって、
彼等がそこから何かを見い出し、それを現実に活かし、
何かを生み出そうという努力の源になるべきものだ。

けれど、それらに依存し、
自分が行動していくことをせず、
ただ、それらに携わることだけで変化を迎えられると
信じ込んでしまっている人達もいる。
それが、ビニールウォーマーだ。

そして、そのようなビニールウォーマーを作り出しているのは、
それを提供する側であるとも言える。
例えば、セラピーで言うと、あるセラピストが、
セラピーが探り出すものよりも、セラピー自体に価値があるとしてしまった場合、
つまり、その人自身の内側にあるものを発見する手助けをするより、
テクニックを崇拝したり、システムを神格化してしまった場合、
相手から、考える力、感じる力、行動する力を奪ってしまう。

提供する側、提供される側、
一緒に、ただ、椅子をあたため合うだけのになってしまう。


昔、あるネットワークビジネスに誘われ、
そのセミナーに参加したことがある。
そこの女社長はパワフルで、彼女のひとことひとこと、一挙手一投足、
すべてが参加した人達の心を強く動かした。
ほぼ全員が感動して泣いていた。
そのインパクトたるや、
世界がまったく別のものに変わってしまったようなものすごさなのだ。
私は人生が変わったと確信した。

そのセミナーの余韻を感じながら喜々として日々を送っていたが、
やがて感動も薄れ、私はいつもと同じ日常の中にいた。
何も上手くいかない、何も変化がない。
そして、思った。
「あれ?何も変わってないや。あの感動は一体なんだったんだろう」

そう、私はまさにビニールウォーマーだったのだ。

ただそのセミナーに参加し、
ものすごいインパクトと感動を体験したことで、
自分に変化が訪れると思っていたのだ。
でも、それはお門違いだった。
セミナーはものすごいインパクトで感動的だったけれど、
そこで感動したことによって、
自分が自ら行動を起こし、何かを変えていく努力をしない限り、
何も起こりはしないのだ。
私にはそれが分かっていなかった。
感動の波にただ踊らされ、やみくもに情熱だけを人に語っただけだった。
それは選択による行動ではなく、衝動による裏付けのない行動だった。

私は、日々の中、自分を戒めなければならない瞬間を数多く体験する。
セラピストという立場を謙虚に受け止めることを忘れる時、
人間として、この仕事をしながら成長することを忘れる時、
まさに「神のイカズチ」のごとく一撃を食らう。
傷付いて、泣いて、苦しむことを与えられ、
私は忘れてはならないことを思い知らされるのだった。
神の愛は偉大だ。

ただ椅子に座り、セラピストという仕事にあぐらをかく時、
私自身もビニールウォーマーになってしまう。
自分の技術や知識を提供することだけが仕事になった時、
そこには、もはや、私がセラピストである必要さえなくなってしまう。
そのうち有能なアンドロイドでも開発されれば、
そんなことは彼等にだってできることなのだ。

そして、セラピーを受ける側の方へもお伝えいしたい。
セラピーを受けるだけで魔法のように劇的な変化が生まれるわけではなく、
受けて、そこから得たものを糧に、現実の中で行動を起こし、
あなた自身に何らかのストロークを与えていくこと、
それこそが真の変化を産むおおもととなるのだということを。

人間として這い上がろうともがくからこそ、
提供する側と提供される側、そこに行き交うもの生まれる。
たとえどんなに稚拙であれ、常に、人間性を高めていくことへの挑戦、
それが、生きるということなのかもしれないと感じるこの頃だった。

体験すること、それがすべて。
そこから生まれるものがすべて。


2003年09月15日(月) 得体の知れないものって必要以上に怖い

得体の知れないものほど怖いものはない。

昨日、アンナがまた熱を出した。
8月いっぱい3つの病気をかけもちし、まるまる1か月寝込んでいて、
やっと治った矢先のことだった。
熱があるのに元気いっぱい。
一体なんだ!?
ひょっとして、先月の病気は伏線で、なにか大きな病気では!?
そう感じて、ものすごく不安になった。

夜になると、赤いぽつんとしたものがあちこちに。
ん?
これは?
水疱瘡!?

夜間診療所に行くと、やはり水疱瘡だった。

なんだか笑ってしまった。
昼間の不安はまったくの杞憂。
なぁんだ。

得体の知れないものは、不安や恐れを倍増させる。
でも、わかってしまうとどうでもいいことだったり。

これって、何にでも言えるよなぁ。

人の悩みもそうだね。
私達セラピストがセッションですることは、
きっと、心の、この得体の知れない部分を一緒に探して、
「ほら〜、こんなん出ました〜。
 ね、だからダイジョブですよ〜」
安心をつかんでいくことなのかも、って思った。

知るのが怖い、見るのが怖い、
それを越えて事実を知った時、
そこには、笑っちゃうくらいの安堵と新しい自分が待ってるのかもしれないね。

そんなこんなで、安心し、
最低でも1週間は家でまたゆっくりと親子で過ごすことになったので、
今日はアンナとクッキーを手作りしてみた。
すっごくおいしくできたんだよ!
まぢ、カントリーマァム並み!
家のこと全般において、女らしさに欠けてる自分も、
実は捨てたもんじゃないかも!?と嬉しくなった。
子供の病気も見方変えれば楽しいもんだ。

が、また家に軟禁状態だなぁ…

あああ、トレカフェ行きたいなぁ…
アンナのピアノも、ヴォイストレーニングも、ジムも行きたいなぁ…


2003年09月14日(日) 人生を変える一念発起

できないことができるようになる方法。

それは簡単。

「できない」んじゃなく「やる」。
「無理」じゃなく「やる」。
「なんでできないんだろう?」じゃなく「やる」。

とにかく「やる」と強く決断することだ。
できないのでは、とか、どうすれば、なんか関係ない。
ただ、ただ、「やる」と決めること。

それだけ。

私達は現実から逃げるための口上をいくつも用意している。
そして、それは、もっともなものだ。
でも、それを盾にしてその後ろにいる限り、変化も前進もない。

できないこと、辛いこと、苦しいこと、
それを人のせいするのは楽だ。
楽な代わりに、そこから抜け出すこともできない。
いつまでの澱みの中でもがくことになる。

できないことができるようになるには、ただ、一念発起。
「やるんだ」、そして、時には「変わるんだ」、
その決断、そして、行動だけ。
この一念発起はあなたの人生をも変えていく。


2003年09月13日(土) アンナ、初めての意思表示

アンナには、あまり好きでない友達がいた。
その子は結構ワガママで気性の激しい子。
一緒に遊ぶと、いつも言い負かされたり、叩かれたりして泣く。
かと言って口も出せず、見るに忍びない。

その子のことをイヤだと言う割に、なぜかいつも一緒にいるので、
私が「別の子と遊べば?」と言うと、
「でも、遊ぼうって来るからイヤだと言えない」とめそめそしていた。
とにかく気弱だったのね。

私は事ある度に、アンナに、
「イヤなものはイヤと言うんだよ。
 それを伝えないと、相手にはわからないんだよ。
 我慢してイヤなことをしていたら心が痛くなるでしょう?」
そう伝えていた。

そんなある日、アンナはとうとう自分の意志を、その友達に伝えたらしい。
保育園から帰ると、
「今日ね、○○ちゃんが遊ぼうって言った時、
 他の子と遊びたいって言えたんだ」
と、私に話した。
どんな気持ちだったか聞いてみると、
「本当のことを言って、好きなお友達と遊んだら楽しかった」
と答えた。

ウチのムスメっ子は、いつも自分の気持ちをアウトプットするのが下手で、
どうしたいのかを自分の中に飲み込んで、怒りもせず、ひとり泣いてばかりだった。
特に「イヤ」「ああしたい、こうしたい」が言えない子だった。

それが、とうとう、子供社会に出て荒波に揉まれる中で学習し、
今まで言えなかった自分の意志を相手に伝えて自分を救うという行為を体験した。

私は感動した。
子供はこうやって成長してくんだなぁ、って。

そして、それを聞いて、
「言えてよかったね。
 これからはそうやって自分の気持ちを伝えようね」
とアンナに言った。
「でも、恐い言葉で意地悪く言うんじゃなく、
 イヤだってことをやさしく伝えてね」
と付け足して。
彼女は「うん!」と答えた。

大切なのは意思表示。
思いやりのある意思表示。
攻撃でない意思表示。
人に自分の力をゆだねず、人のせいにせず、自分の力で生きる第一歩。
それは、生きることをラクチンにしてくれるのだ。
時に、意思表示をすることで辛くなることもあるかもしれない。
でも、そんな時、私達が本当に尊重すべきなのは、
一瞬の痛みよりも本質的な自分の意志なのだ。
最終的に自分を持ってそこに在ることが重要なのだ。
自分の本質に添った人生はそうやって成り立っていく。

でも、時に、意思表示が困ったちゃんになることだってある。
「私が!私が!」になったり、協調性を欠いてしまったり。
言いようによっては敵を作ることだってなる。
だから、思いやりのある気持ちとともに、
「意思表示をしないという意思表示」だって必要になってくる。
『私はここで黙ることでこの場をおさめます』という意思表示だ。
それは、普段自分が意思表示できる、している、という前提があって、
初めて意思表示へのこだわりが捨てられるのであり、場を読めるのであり、
黙る、飲み込むということもできるのだ。
最初っから言えなくて黙り込むのとは別の、意志ある沈黙ね。
陰があって陽があり、陽があって陰があるのと同じ。

アンナはその第一歩を踏み出したのだなぁ。
子供には教わることばかり。
アンナを見て、私は人生の縮図を見る。

私も、いい意思表示を、これから改めてしていきたいと思った。
そして、かなーり自分自身の反省もしたりした。

しかし、アンナ、やったね!
意思表示デビューおめでとう。
もっと、もっと、あなたの人生は素敵になるよ。

ママ、とっても嬉しいんだ。


2003年09月12日(金) 人の話を疑って聞こう

伝言ゲームはすでによく知られているだろう。
ほとんどの人がやったことあると思う。
一列に並んで、先頭からある文章をひとりひとり耳打ちして伝えていって、
最後尾にどれだけ正確に伝えられるかを競うゲーム、
これをやると、大体最初と最後ではかなり違った文章になっている。
いかに人から人への口伝えがいい加減かわかる。

噂もこれと同じだ。

○○ちゃんが男の人とお茶してたよ。
     ↓
○○ちゃんが男の人と会ってたんだってよ。
     ↓
○○ちゃんが男の人と密会してたんだってよ。
     ↓
○○ちゃんが男の人とホテルに入ったらしいよ。
     ↓
○○ちゃんが不倫してるらしいよ。
     ↓
○○ちゃんは不倫してるんだってよ。
     
とまあ、例えばだけど、こんな具合にぐいぐい話の内容は変わっていくのだ。
人の憶測や興味本位の脚色の成せる技だ。
こわいねぇ。

「○○が△△って言ってたよ」

っていう言葉ほど恐いものはない。
信憑性に欠ける。 
間にひとり入っただけで、そこにはその人間のエゴのフィルターがかかり、
真実が大きく歪むこともあるのだ。

人の話はまず疑って聞いて間違いない。
特に、ゴシップ的噂話や、誰かに対する批判や非難、悪口はね。

そして、もっと気を付けなければならないのは、
自分自身が、真実に限りなく近いことを、
意識して伝えられる人であるように努力するということだ。

人は感情の動物だからね。
言う方も、聞く方も、自分に都合良くやるんです。
人生は伝言ゲームだらけ。
あなたが言うことは、聞くことは、どこまでが真実なのか意識してみて。

もちろん、私もそうしなきゃなんデス。


2003年09月07日(日) ちょっとしたことだけど、やってみよう

誰かと接する時、
自分の中でその人にあるイメージや感情を持って接すると、
その人はその通りの人になる。

「ムカつくんだよ、こいつ!」
と思って接すると、本当にその人の言動にムカつく。

「結構イイとこあるんだよな」
と思って接すると、なんかいい奴だな、と思えることがある。

これは面白い。

カラクリは簡単。
自分がその人にあるイメージや感情を持った時点で、
もう、色眼鏡をかけることになる。
だから、その色で相手を見ることになる。
「ムカつく奴」というレッテルを相手に張った時点で、
その人は何をしても「ムカつく奴」にしか見えない。
また、こちらも、ムカつく相手に対するそれなりの態度を無意識に取るものだ。
それが連鎖していく。

そして、日常、私達は、
無意識に相手に先入観を持ち、その反応によってコミュニケーションしている。

これを意識してみると、人間関係の中で面白い体験ができる。

誰かとコミュニケーションする時、
今この人にどういうイメージや感情を持っているか、まず自分を観察する。
そして、それがネガティブなものだったら、そこでちょっと視点を変えてみる。
「この人は、大丈夫、絶対に大丈夫」
そう思ってみる。
この「大丈夫」には大きな意味が含まれていて、
『この人は何があっても絶対に大丈夫、本当は素晴らしい人だよ』
という意味とでも言っておこうかな。
意識的にそう思ってみる。
そして、その上でコミュニケーションしてみると、相手が違って見えたりする。
もちろん、言葉は悪いが、性根が腐ったような人もいるので、
そういう人が根本から変わるようなことはまずないだろう。
でも、その瞬間は、こちらが持ったイメージや感情のような人になることも多い。

私の場合、軽い挨拶や世間話の間柄で、
深く長く話すとどうもトンチンカンな人とでも、
こうして心地よい関係を作れることを体験している。
すべての人と深くがっしりとした関係を作らなくちゃならないわけじゃない。
でも、どうせなら、接する人みんなと気持ちよくありたいし、
そうなったら自分が楽しい。

人を責めたり、嫌ったり、憎んだりすることは、とても疲れることなのだ。
ものすごいエネルギーを消費する。
それに気分も悪い。
とにかく、自分がへとへとになるのだ。
そうしないで過ごせる時間が増えたら、人生結構楽しくなる。

だから、試しにやってみるといいんじゃないかな。

と、私が言うと「無理です!」と答える人がいる。
確かに最初は難しいかもしれない。
無意識に反応しそれに準ずるコミュニケーションを、誰もが取って来たのだから。
でも、逆に言うと、それもただのクセなのだ。
クセを直すのに時間がかかることはあっても、必ず直る。
そして、クセを直すには、
それをやめるようと続けて意識することだったり、
新しい習慣を継続することで自分にしみこませていくことだったり、
そういったちょっとした心がけでできるのだ。

だから「無理です!」と取り組みを否定した時点で、それはもちろん無理だ。
そして、それは、
「あいつはムカつく奴」と思った相手がムカつくのと同じで、
「私には無理」と思った自分がその通りになるなのだ。

実験するような遊び心を持ってそういうことをしてみると、
人生はグンと楽しくなってくる。
人が変わってゆく光景、人が変わって見える光景を目の当たりにしていくと、
私達は人生に光を見始める。
人がどうこうではなく、自分がどうこうなのだと気付く。
自分が変われば相手も変わることを知っていく。

カタイ話はいいや。
試してみると面白いです。
誰かと接する時、相手に持つイメージを意識していいものに変えてみよー。
嫌いな人が減ると、苦手な人が減ると、それだけで日々が楽になる。

それをする時のポイントは、それと、やらなくちゃ!と思わないことです。
遊びのつもりでやってみる。
自分の意識を観察してみて、気が向いたらやってみる、くらいの感じで。
義務になるとなんでもできないから。
ひとつ道具が増えたくらいの感覚で。
時に、新しい道具使ってみるか、みたいな感じで。

それと、相手に期待しないことです。
こんなんじゃーどうにもならないほど心が疲れている人もいるし。
それをやってもイヤな人とは、ひとまず、ほどよい距離を置くに限ります(笑)


2003年09月06日(土) マドンナ先生!

最近、GAPのCMにマドンナが出てるでしょ。
あああああ〜、カッコイイなぁ〜!
私、昔からあの人すっごく好きなんだよね。
ああいう体系になりたくて、
イメージトレーニングのために彼女の写真集飾ってるほど。

さっきもつけたテレビであのCMがやってて、もう釘付けだったよ。
あれで40代だよ、40代!
黒木瞳より、マドンナみたいな40代がいいなぁ。

年齢重ねるほどカッコよくなる女っていいっ!

アンジェリーナ・ジョリーも好きだな。

でもやっぱり、マドンナ先生なのだ!
あの雰囲気もなにもかも彼女がいいのだ。
アンナの体調不良の1か月、付きっきりで家に缶詰めになってて、
必然的にジム通いもできなかったんで、
(き、筋トレもサボったのよね…)
やっとついてきた筋肉も細り、私の体型はほぼ昔に戻りつつある。
イヤッ!ダメ、ダメッ!
また頑張って、あの体型にちょっとでも近付きたいっ。
骨格も作りも違うんで無理なんだけどね…
まあ、意識を高く持つっつーことで(笑)

私は本当に太りやすいのよ…
少し気を抜くと、見るも無惨になるのよ…
死ぬまで食事にはピリピリするんだろうな…
でも、和菓子大好きなんだよな…
唐揚げも大好きなんだよな…
ピザも大好きなんだよな…

だから一体何を書きたかったんだ???

そうそう、マドンナが好きってことかな。


2003年09月05日(金) 現代っ子

アンナは去年の誕生日にプレゼントされた
「キティちゃんのマイクスタンドなななんとカラオケ付き」を持ってて、
ちょうちょ、かたつむり、ひなまつり、森のくまさん、その他諸々、
童謡や子供向けの歌が結構な数の曲が歌えるようになっている。

そのマイクスタンドで近所の子と遊んでいたアンナ、
オケがスタートする度に、仲良しのSちゃんと声を合わせて歌う。
5歳児にしてはふたりともなかなかウマイ。
私も別室で小さな声で一緒に歌ったりしていた。

何曲か歌い、次に「メリーさんのひつじ」のイントロが流れた。
てっきり、
 ♪メ〜リさんのひつじ〜
  ひつじ〜
  ひつじ〜
  メ〜リさんのひつじ〜、かわい〜いな〜
と来るものだとばかり思いきや、
いきなり、

♪お〜ふろでキュッキュッキュ〜
 キュッキュッキュ〜
 キュッキュッキュ〜
 お〜ふろでキュッキュッキュ〜、東京し〜んぶんっ


と声を合わせて来た。
現代っ子やのぅ…

母はマックにつっぷして身をよじって笑った。


2003年09月03日(水) 神様にお願い

今日、すぐそばでお祭りがあった。
某霊堂でお参りもした。

手を合わせて顔を上げると、アンナが無邪気に言った。
「ママが怒らなくなるようにお願いしたよ。
 ママ、怒りたくないでしょ?」

なんだか、うふふふふ、って笑ってしまった。
どうしてだろう、心があったかくなって、
小さな頭をぐりぐりとなで、唐揚げを買って一緒に食べた。

私は、手を合わせ、この界隈を守ってくださる神様に、
引っ越して来てから5年経って、初めてきちんと挨拶した。
「5年前に引っ越して来ました。
 今までご挨拶もせずにすみませんでした。
 ずっとこの土地に住む人達を守ってくださってありがとうございます。
 これからもよろしくおねがいします」
やり残したことをやっとやったような、とてもスッキリした気持ちになった。

相手が見えようと、見えまいと同じ。
礼を尽くすことが大切だと最近思うのです。


2003年09月01日(月) 「何もされない」愛

今日実家に帰った。

実家に帰る一番の楽しみは、母の手料理が食べられること。
普段は、食べる量を意図的に制限している私も、
おいしくて、おいしくて、これでもかってくらい食べてしまう。
ゆえに、食後は腹がキューピー状態になる。

アンナは大好きなばばと遊び、
私はキューピーな腹を抱え、たたみに寝転がってボケーッと過ごした。

なぜだろう、そんな時、昔のことを急に思い出した。

あれは、確か私が小学生の頃のこと。
親戚の結婚式があり、親子で招かれ、
当時、金のなかったウチだから、服など買えなかったのだろう、
母は私にブラウスとスカートを手作りしてくれた。
仕事をしていた母が寝る時間を惜しんでちくちくと縫ってくれた力作を、
私は今でもはっきりと覚えている。
ピンクにラメの入った柔らかい生地でフリルのたっぷりあるブラウスに、
深緑色をしたベルベットのロングスカート。
私はお姫さまみたいなその服に感激し、着る日を心待ちにしていた。

ところが、結婚式当日、私は熱を出した。
当然結婚式には行けず、家で真っ赤な顔をして寝ていた。
枕元には着られなかったブラウスとスカートがハンガーにかけられていた。
私はものすごく悲しかった。
その服が着られなかったからじゃない。
母が一生懸命にその日のために作ってくれた服を着られなかったからだ。
心から申し訳ないと感じたのを覚えている。

私が「お母さん、服着られなくてごめんね」と言うと、
母は「何言ってんだ、そんなこと気にするんじゃないよ」と言って笑った。

そんな出来事を思い出したのだった。

私は、改めて、母が私に注いでくれていた愛情をかみしめた。

私達は「何かしてもらう」行為によって愛を感じることが多い。
でも、「何もされない」ことによって愛を受け取っていることも、
何かしてもらってきたこと以上にあったのではないかと思った。

「何かしてもらう」とわかりやすい。
その行為によって、愛を確認できる。

「何もされない」と愛の所在がわからないことがある。
「何もされていない」ので、別段何もなかったようにも思える。

私が思い出したその出来事で、
服を着られなかった私に、母は「何もしなかった」。
そこで、もし、母が「せっかくあんなに苦労して作ったのに」と、
自分の中にある残念な気持ちや悔しさを表現するという行為をしたら?
私は不可抗力な病気であるにもかかわらず、自分を責めただろう。
悲しい気持ちをずっと引きずっただろう。

でも、母は何もしなかった。
私を責めるということをしなかった。
もちろん病気だから責め様がなかっただろうけど、
手作りの服を子供に着せる楽しみが消えてしまったのだから、
とても残念で悔しかったに違いない。
自分が母親になった今、それがとてもよくわかる。
でも、何も言わなかった。
子供が心を傷めているであろうことを察し、何も言わなかった。
これは「何もしない」という素晴らしい行為だ。
だから、私は救われたのだった。

そう思った時、私は、
今まで気付いていなかった、そして、今でも気付いていない、
親の愛を無限に受け取っていることを知った。
「あんなことされた、あんなこと言われた」
そんな、イヤだったことばかり覚えているし、
それに文句を言ってばかりだったけど、
愛しているんだと、でっかい看板をぶらさげない親の愛もあることを、
自分の深い部分でハッキリ知ったのだ。
切ない喜びが胸いっぱいに広がって、目頭が熱くなった。
私はなんと大切にされてきたのだろう。

親だって未熟な人間だ。
トラウマちゃんもいっぱいもらった。
でも、それだけじゃない、葛藤する親が子供を傷つけながらも、
一生懸命に与えてくれていたものもあったのだ。

自分が苦しくていっぱいいっぱいの時は、それが見えなかった。
そして、見たくもなかった。
見えても信じたくなかった。

でも今は、そんなものをいっぱい受け止めて自分のものにしたいと思った。
今までだって受け取っていたのに、気付けなかったそれらを。

ある本に、
「100%なのが愛ではなく、
 たとえ、10%でもそこにあれば、それは愛」
そんなことが書いてあった。
私達は完璧な愛を求める。
そして、完璧でないと愛ではないと思いがちだ。
でも、それは違うんだね。
未熟な親が葛藤し、子供を傷つけながらも、
それでも懸命に与えようとしていた愛は、
完璧な愛をこえる深い想いなのではないだろうか。
それでも愛したい、それでも愛し続けたい、そんな深い愛。

私達は、目に見える行為に価値を感じやすい。
でも、目に見えないものを見てみよう。
誰かが自分にしてくれる何かではなく、
誰かが自分に何もしないことの陰にある愛を。

両親との関係だけではない。
あらゆる関係において言える。
放っておいてくれること、
ただ黙っていてくれること、
遠くで待っていてくれること、
離れて祈ってくれること、
どれも目に見えて何かをされることではないけれど、
それは、尊い行為だ。

目に見える行為でなら嘘もつける。
打算的にこちらに愛や利益を与えるフリもできる。
それこそ、欺瞞に満ちたものだって多いのだ。
でも、目に見えない行為で嘘はつけない。

あの人は何もしてくれない、あの人は何も与えてくれない、
そう考え、そして、誰かから何かをしてもらうことを考えている時は、


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