おひさまの日記
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2003年08月30日(土) チビテレビ

某市町村の商工会主催のお祭りに顔を出してみた。

そこでは、子供達にハッピを貸して、みこしをかつがせてくれる。
アンナもやりたいと言い、青いハッピを着ておみこしをかついだ。
狭い会場をぐるぐる回るだけのみこしごっこのようなものだけど、子供達は楽しそう。
アンナも大はりきりで「わっしょい!わっしょい!」とかつぐ。

その様子を千葉テレビが取材していた。

みこしをかつぎ終わって戻ったアンナに、
「テレビの人が撮影に来てたよ。
 アンナ、千葉テレビに映るかもしれないね」
と言うと、
チビテレビにアンナが映るんだね!」
と答えた。
子供が映るテレビだから
チビテレビ

だと思ったらしい。
母ちゃん、腹が痛いよ。


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2003年08月27日(水) 美しい言葉

最近、美しい言葉を使うように心がけている。
と言うか、汚い言葉を使わないようにしているという感じかな。
あと、なるべくポジティブな言葉を使うようにもしている。

今まで、特にプライベートでは、
毒舌だったりするのも自分のキャラの一部だったんだけど、
汚い言葉が持つ荒く重たい波動も、自分が発するものだったと改めて気付いた。
同時に、同じことを表現するにも、別の言い方ができるのだと気付いたし。

想念から言葉が生まれるが、言葉から生まれる想念もある。

普段、無意識に発する言葉だけれど、
まず意識して自分が発する言葉に心配りをすることで、
内面にあるものを形作っていくこともできる。
言葉に気を配ろうと決めることで、自分の想念と向かい合うことになる。
そして、発する言葉を自分で選ぶ時、想念も自分で選ぶことになる。
自分の意識の中に浮遊するあまたの想念のうちの
どれを自分のものとして取り入れて表現するか、
その作業をすることによって、自分の心を形作っていくことになる。

例えば、子供に片づけをするように言うにも、
「部屋が汚くなるから片付けさない」ではなく、
「部屋がきれいになると気持ちいいから片付けよう」という表現にすると、
全くその響きが違うことに気付いていただけると思う。

上の場合はほんの一例だけど、
何においても、前者のような言い方をしている人が、
私も含めて多いのではないかと思う。
そして、それを後者のように切り替えるのはなかなか容易でない。
もう、無意識にそういう習慣になっているから。

それを意識的にコントロールして切り替えるには、
自分の意識を見張る作業が必要となり、
その中で今までとは別の言葉を選んで何かを表現しようとする時、
意識の切り替えも起こる。

ここ少しの間、いつも自分の言葉遣いに意識して取り組んでみると、
自分の内面にそんな動きがあるのを感じる。
そして、それには驚異的な効果がある。
内観の機会を得ることにもなる。

私が心から尊敬する人は、とても美しい言葉を使う。
でも、堅苦しく距離があるのとは違う。
そこから美しい波長が溢れ出て包み込まれるような、そんな言葉を使うのだ。
そして、それはまさにその人の人格そのものなのだと感じる。

美しい想念から美しい言葉が生まれるが、
美しい言葉からも美しい想念が生まれる。
見えない想念をいじるには、まず自分が扱える言葉からいじってみるのもいい。


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そんな誰もが当たり前に知っている言葉を心から伝えることから始めたい。


2003年08月24日(日) レンタルビデオ屋のお兄ちゃん達とアンナの物語(すんばらすぃ気付き編)

今日、アンナが見るビデオを借りに、某レンタルビデオ屋に行った。
そこは、安いんだけど、ものすごぉーく店員の態度が悪くて有名なの。
今日も今日とて、3人いた店員はみんな無愛想で態度は最悪。
正直、かなり不愉快で腹が立った。

アンナはそんなことにはお構いなく、自分の見たいビデオを選んだ。
そして、そんな店員と口もききたくない私は、
アンナに会員カードを渡して自分でレジに行かせ、後ろからついていった。

アンナはカウンターの前に立つと、
ものすごく大きく元気な声で「お願いしまーす!」と言った。

すると、態度の悪い店員達は驚いた様子で、
今まで接客中にもやめなかったおしゃべりをやめた。
そして、その中の一人がアンナの小さな手からカードとビデオを受け取ると、
戸惑いながらもいい感じで接客してくれた。
もうひとりの店員が袋に入れたビデオをこちらに渡すと、
「ありがとう!」と、これまたものすごく大きな声でアンナがお礼を言った。
すると、その店員もはにかんだようにちょっとにっこりした。
そんな彼等を見て、さっきまでカッカしていた私も、
思わず「お世話様でした」と、これまたにっこりしてしまった。
彼等は、去っていく私達の背中に「ありがとうございました〜」と、
気迫はないけど、しっかりハモった声で言った。

店の階段を降りながらアンナが言った。
「お兄ちゃん、やさしかったね」



私はこの出来事にひたすら感動していた。

あのチョー態度の悪い3人の店員、
カウンターに来たお客さんには声もかけずに、
横を向いて自分達の話で盛り上がり大笑いしながら接客していた。
接客していない店員はポケットに手を突っ込んでいた。
もし「テメーら最低!」と思ってる私がカウンターに行き、
そう思いながら取る態度でビデオを借りたらどうだっただろう?
きっと、彼等は、他のお客さんにしたように、ダラダラした態度だっただろう。
そして、私はもっと怒ってガン飛ばしたに違いない。

でも、彼等は、私達にいい感じの接客をしてくれた。
それは、アンナが礼を以て接したからだろう。
彼等の態度が悪いとか、感じが悪いとか、そんなこと考えず、
純粋にビデオを貸してくれる店のお兄さん達だと思って。

そして、アンナが彼等に与えたものが、そのまま彼等から私達に帰ってきた。
子供の力はすごい。
その無意識の純真無垢さ、素直さは、まさに魔法だ。
それは、アンナだけでなく、すべての子供の中にある。
そして、それは、私達の中にもあったし、掘り起こせば今もある。

ま、彼女はそんなことなーんも考えず、ただ素でいたんだろうし、
何もよくわからんってこともあったんだろうけど、
子供だからこその素がそれって素敵なことだ。

今、巷でも有名な江原啓之さんの一冊の本の中に、
「全ての人を善なる存在として見ることが大切」
というようなことが書いてあった。

今日のビデオ屋のその一件で、私はその意味がハッキリわかった。

私が彼等を「ひどい奴ら」だと裁き、彼等にそのレッテルを張って接する時、
彼等は私が張ったレッテル通りの人間になる。
けれど、アンナのように、
彼等を「ビデオを貸してくれるお店のお兄ちゃん」として、
感謝の気持ちを込めて接する時、彼等はその気持ちに見合った人間になる。

もちろん、彼等がいつも横柄な態度でいることの根本までが
瞬時に変わるわけではないだろう。
けれど、時間を共有するその間、
彼等は一瞬でも、与えられたものに見合った人間になる。

私はそのものすごい瞬間の目撃者となったのだ。

人は自分が発したものを必ずまた受け取る。
攻撃すれば攻撃される。
憎めば憎まれる。
やさしくすればやさしくされる。
与えれば与えられる。
それが、その場のやり取りでなくても、いつか巡り巡って、
自分が発したものは必ず自分に返ってくる。

人はすべて善なるもの、そう思って人に接したら、
たとえ、その時は腹が立っても、
その後にそういう想いを少しでも持って、仕切り直して接したら、
必ず私達は素晴らしいものを目撃することになるのだろう。

それは、時に、難しいことかもしれない。
けれど、それをやってのけることで、
人生はより快適で素晴らしいものになるのだと、
今日、心の底から感じた。

そして思った。
目指すべき道はこれだよなぁ、って。


2003年08月22日(金) 魅惑の味ぽん

食事時、アンナが一生懸命に「スポンジ」がおいしいと私に訴える。
一体何のことかとよくよく聞いてみたら、味ぽんのことだった。
今、彼女のブームらしい。

魅惑の味ぽん。
よく冷や奴やサラダにかけます。
和え物にも大活躍。


2003年08月20日(水) ヒラメキ手作りおやつ

今日は、らしくなくおやつを手作りしてみた。

それは、おからとホットケーキミックスを混ぜて作ったもの。
指定の量より多めの牛乳と卵で溶いたホットケーキミックスに、
おからをじゃんじゃん入れ、よく混ぜる。
それを、炊飯ジャーに流し込み、炊飯スイッチを入れる。
これで終わり。

ジャーが勝手に出来上がりサインをくれたら、もう食べられる。
出来具合いは竹串でさして見るといい。
まだ中に火が通ってなかったら、もう一度炊飯スイッチを入れて、
具合を見ながら途中で切ればいい。

これがうまい。
甘さはかなり控えめなので、甘いのが好きな人は砂糖を入れるといいかな。

なんでこんなモン作ったかと言うと、
アンナが病気して食欲がなくなり、あまり食べなくなったからだ。
熱があるんで、食べてもアイスとか、そうめんとか、栄養のないものばかり。
で、なんかおいしく食べてくれて体にいいモンないかな、
そう思って店をうろついてたら、おからが目に入ってきて、
ホットケーキミックスと混ぜようとひらめいたわけ。
それを、食がすっかり細っているアンナがぱくぱく食べてくれた。
嬉しかった。

安い!カンタン!うまい!
料理が得意じゃない私には、凝ったスゴイおやつは作れないけど、
こういうのならできるなぁ。
凝った難しいことできないからしないんじゃなく、
凝った難しいことできないからこそ思い付くそういうものもいいと思った。

スナック菓子は極力与えない、それが、私のおやつのルールだったけど、
そこに、時々は頑張って手作りしてみる、そんなルールも加えてみようと思った。

子供がおいしそうに作ったものを食べてくれる、それだけで心があたたかくなる。
私は普段あんまりママらしくないんだと思う。
でも、ママになってよかった、今日、心からそう思った。
そして、これから、もっとママらしくなりたいと。
そういうフツーのことの中に見る当たり前の幸せをいっぱい感じたいと心から願った。


2003年08月18日(月) 限界まで来た人は変化を選択できるチャンスを得ている

HPの今日のひとこと(8/19)にも書いたんだけど、
私達って、何かを決断した時に変化しはじめる。
心の底の底から決めたことが現実になる。

でも、私達人間は結構バカな生き物で、
ギリギリ限界まで追い詰められないと変化を決断できないのだ。
限界まで来ないと、どっかで別に変わらなくてもいいって気持ちでいるのだ。
我慢もできるから。
今のままでもなんとかやれるから。

私達は同じような辛い状況を繰り返し体験することがある。
これでもか、これでもか、っていうほど、同じようなことが、
回を重ねるごとにパワーアップして襲ってくる体験を私もしたことがある。
恋愛にしろ、仕事にしろ、人間関係のパターンにしろ。
その背後にはメッセージが込められているわけで、
それに気付かないうちは、何度でも同じ状況が来るってこと。

神様だか、宇宙だか、見えない上の人達みたいなそういう存在も、
それに加担していると私は思っている。

で、こう言われるのだ。
「どう?辛いでしょ?
 これでもまだ変わらない?
 変わってみないの?
 これがあなたのお題なんだよ」
と。
いや、言葉で言われるわけじゃない。
そういう問いを無言のうちに投げてよこされるのだ。

繰り返し繰り返し、同じような辛い状況を体験し続け、
私達は、ある時「もう限界だ!苦しい!こんなのイヤだ!」そう心から思う。
心の底の底から思う。
そして「もうこんなのやめる!」って。
(思わないでそこにい続けるひともいるけど)

それが「決断」の瞬間なのだ。
そして、その決断によって私達の変化は始まる。
頭で考えうるあらゆる手段を越えて、
私達は日常の中に無造作に転がる奇跡によって、
変化への道のりを辿り始める。
「変化」の意志を持つ人には、その導きが必ず訪れる。

今限界に来ているあなた。
出口は近いですよ。

私達は腰が重いので、限界に来ないと動かない。
変化は恐ろしいものだ。
私達は変化が恐いのだ。
変わるくらいならしんどくてもここがいい、そう思って、いつまでも今に居座る。
そうやっているうちに、しんどいのに耐えられなくなる時が来る。
そういう時の「もうイヤ」があなたの原動力になることを覚えておいてください。

辛いことは宇宙の贈り物。
愛のムチを絶叫しながら受け止めてみてください。
それは終わりのない苦しみではないのだから。
もっとよりよい自分になるためのチャンスなのだから。
私なんか、もうムチ打たれてばっかり。
見た目としては、ムチ打つ女王様のボンテージの方が好きなんだけど。


2003年08月14日(木) 寂しいと言えないから

アンナが熱を出して10日目。
熱を出した当初と比べたら下がってはいるけれど、
いまだ微熱が続く。

さらに、咳がひどくなり、止まらない時には泣きながら咳き込む。
それが続くと嘔吐する。
ここ2、3日それを繰り返していた。
咳止めの薬が全然効かない。

今日の夜も「苦しいよぅ」と言いながら、コンコンと咳き込むアンナ。
ある瞬間、ハッ!として、
私は一緒に布団に横になってだっこした彼女に言った。
「病気が治ったら、ママがまたお仕事して一緒にいてくれなくなるって思った?」
するとアンナが答えた。
「…うん、ちょっと思った」

私は、彼女が寝込んでから、ずっと一緒にいた。
いつもそばにいた。
パソコンが壊れたこともあるし、普段はパソコンにかけている時間を、
アンナと一緒にいる時間にあてた。
もちろん、ずっと一緒にいるわけだから、途中イライラして怒鳴ったりもした。
でも、いつもよりもずっと一緒だった。

私は続けてアンナにこう言った。
「病気治っても、お咳が止まっても、
 ママはアンナと一緒にいるから、安心して治っていいんだよ。
 ママはお仕事よりアンナの方が大切なんだよ。
 今まではパソコンいっぱいしてあんまり一緒にいなかったけど、
 これからは元気なアンナとも一緒にいるようにするから、
 安心して元気になりな」
アンナは「ありがとう」と言ってちょっとにっこりした。
すると、今まで止まらなかった咳が軽くなり、やがて止まり、
そのまますやすや眠りに落ちていった。

あまりに長く熱が下がらず、また咳が止まらない様子見て、
寂しくて、アンアがこんなこと自分で招いてるんじゃないかと感じた。
病気になってママに自分を見てもらいたいんじゃないかと。
で、それを伝えてみた。

すると。

ま、まさか本当に咳がずいぶん減るとは!?
自分でも嘘臭いと思ったよ。
でもそれは現実に起こった。

寂しいと言えないから、子供は具合が悪くなる。
ちょっとした風邪を引いたり、お腹が痛くなったりする。
実はそれはよくあることだ。
病気になるとママがやさしくしてくれるから。
気にかけてくれるから。
そばにいてくれるから。
寂しいと言えないから。
言えないから。

学校に行きたくない子供が、朝になると本当に頭痛や腹痛がするのも同じ。
行きたくないと言えないから。
言えないから。

そして、それでも伝えたいから。

大人も同じだ。

寂しいと言えないから、
こっちを向いて、かまってと言えないから、
何かの気持ちがあっても言えないから、
でも、伝えたいから、
色々なことを代替え行為として利用する。
それは、潜在意識の成せる技。
自分を病気や辛い状況に追いやってまで、
周りの人達や、時に自分にメッセージを送ろうとする。
自分で自分を傷つける行為をすることだってある。
リストカットもそうだ。
自暴自棄な生活で自分を痛めつけることだってそうだ。
寂しいよ、苦しいよ、こっち見てよ、と言いたいのだ。

心と体は密接な関係にある。
体だけじゃない、私達のすべてが心と密接な関係にあるのだ。

以前の日記にミュンヒハウゼン症候群のことも書いたけど、
それも、伝える行為がエスカレートしたもの。

「寂しいよ」
そんなシンプルなことなのにね。
まっすぐに伝えられないんだよね。
言えないんだよね。
言っちゃいけないような気がしちゃうよね。
言ったって無駄だと思っちゃうよね。
言ったら自分が壊れちゃうとさえ思うかもしれない。

人は自分が寂しいことに気付かないことだってあるんだ。

相手を責めず、ただ穏やかに、ただシンプルに、「寂しい」と言えたら、
自分がそう感じるのだと伝えられたら、素敵だよね。


2003年08月11日(月) 光の12日間

「光の12日間」、精神世界に詳しい人ならすぐにわかると思う。
私はそんなに精通しているわけではないので、
なんとなくしかわからないけど、
とにかく、今が宇宙的視野で見たその「光の12日間」なのだそうだ。

その「光の12日間」とは、
西暦2000年以降にさらに活発化した地球やそこに住む私達の
アセンション(次元上昇)のプロセスで起こるもので、
(あああ、書いててうさんくさい…)
つまりは、今よりも精神性の高い状態に進化するために体験する時期のこと。

その「光の12日間」とは、別にきっかり12日間じゃなくて、
もっと長い期間のことを言うらしく、
それがどのくらいかは読んでさっさと忘れたけど、
とにかく、ここしばらくそういう時期なんだそうだよ。

その期間には、
私達が潜在意識で望んだり考えたりしたことが、
すべて瞬時に実現してしまうそうだ。
「えええええ!?じゃあ、あんなことも、こんなことも!?
 ちょっと不安に思ったり、恐れたりしたことも実現してしまうの!?」
と、私は以前とっても恐ろしく思ったことを覚えている。
でも、それは違ってて、
あくまで『潜在意識』で望んだり考えたりすることだから、
日常、頭であれこれ考えてることとはちょっと違う。

ちょっと違うから、生活してても、別段、光の12日間の仕業?で
潜在意識の中のなにもかもが実現しているようには思えないんだけど、
よくよく観察してみると、これがまた!本当にその通りなんだよね!

今、ものすごく辛くなってる人って多いと思うのね。
過酷な状況が訪れてる人とか。
問題が表面化している人とか。
これは、潜在意識の中にある観念がそのまま現実化しているからなのね。
すごいよー、今までは見ないで済んだこと(無意識の中の観念)も、
光の12日間パワーでみんな勝手に実現してしまうんだから、
たまったもんじゃない勢いで色々吹き出してくるさ。

自分では気付いていなくても、
潜在意識の中で、
「私には価値がない」って思ってると、
自分には価値のないものだと思い知らされる現実が訪れる。
「私は愛されない」って思ってると、
誰も愛してくれないと感じる現実が訪れる。
輪廻転生の中で自分が持ったカルマや、
今生で育つ間に自分に刷り込まれた観念、トラウマが、
今、ここぞとばかりに表面化して、一気に見えてくるってことだね。
そいでもって、苦しいから、それをなんとかしようとしてもがいて、
でも、同じ観念の基、逃げ続けているだけだから、解決を見ない。

それが、いわゆる、
「潜在意識で望んだり考えたりしたことがすべて瞬時に実現してしまう」
ということだ。
この期間で実現のスピードと勢いが加速してるもんだから、
歪んだ観念もそのペースで吹き出してきて、
私達の心の荒廃もそりゃあ加速するというわけだ。

私自身を振り返ってみてもそう。
ここ何年かで自分に起こる出来事は、自分が深い部分でずっと抱えてきたものを、
ありありと見せるかのようなものばかりだった。
こんなモンも持ってたんか!?ってなモンが目白押しの怒濤の日々。

ずっと昔に知った「光の12日間」、
その時は意味がわからなかったけど、今になってやっとわかった気がする。

「光の12日間」、
それは、私達がより高い精神性を持つための大切なプロセス。
私達の意識の中にある重苦しいものを「浄化」を促す大切なプロセス。

私達は、この期間の間に、
自分の意識の中にあるものを目の当たりに体験することでそれに気付き、
それをどういうものにしたいのか自分自身の深い部分で選択し、
必要であれば変化させる(変化させると決断する)ことで、
体験する現実を変えていく大きなポイントになる時期なんだ。
そして、それが可能であると、身を以て体験する時期なんだ。
今までの私達にはあり得ない非常識な体験になるはずだ。
そう、私達はあまりに非常識な素晴らしい世界へと向かっている。

潜在意識の中にあるものは自分ではわからないので、
あえて、見えるように表面化させてくれている宇宙の恩恵ってやつかね?

そして、すべては『選択』にかかっている。
自分はどうありたいのか?という『選択』。
それをすることにより、すべてはその選択に従って動きだす。
どうしたらいいのかわからない、そんな時は、ただ『選択』すればいい。
それだけでいい。
どうしたらいいの?と問いを投げるだけでいい。
答えや方法は、私達人間の頭で考え付く以外の素晴らしいものであることが多く、
それは、人智を越えたところからやってくる。
逆に考えるだけ無駄かもしれない(笑)
すべてをゆだねて『選択』だけすればいい。
私達は、古い強い観念を越えて、それを変化させるべく選択をすることができる。
「選べません、だって変わるなんて無理です」
そう言う人がいたら、それも古い観念の成せる技だ。
それさえも放棄して、ただ変化を選択してみよう、どうせタダなんだから。

HPの「今日のひとこと」にも書いたけど、
私達の意識はパンドラの箱だよ。
今、光の12日間で、封印されたあらゆるネガティブなものが次々と飛び出す。
それが出尽くした後、最後に出てくるのは希望だ。
封印されたネガティブなものを目の当たりにすることで、
私達は、初めて、それらを認知し、理解し、解き放つことができる。
解き放ち、最後に見い出すのは、
それらすべてのネガティブなものを越える希望。
あのパンドラの箱の話、この時代の前触れを語っていたのかもしれない。

自分がどう在りたいか、選択しよう。
それを否定する自分の声を聞きながらも、選択し続けよう。
この光の12日間に。
私達は、きっと、変われる。


2003年08月01日(金) 泣きたい時

泣きたい時、
泣きたいのに泣けない時、
心がいっぱいになって、きちきちで、どうしようもなくて、
でも、日常は容赦なく押し寄せてきて、
狂ってしまいたくなる時、
「辛かったんだね」って、たったひとこと、
そう言ってもらえるだけでいいと、ふと、思った。
たとえ、そんな言葉さえなくても、
黙ってそばにいて見守ってくれればいい、そう思った。
いい話なんかいらない。
もっともな話なんてもっといらない。
理不尽で、ハチャメチャで、自分勝手な、
そんな時の自分を、
ただそっとすくい上げて眺めていてくれればいい、
そう思った。

「助けて」と大切な人に言えたら、
私達はどれほど楽になれることでしょう。
そこから始まる一歩もあるのです。


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