- 2004年12月30日(木) 忘年会があって。 学科女子数人とその知り合い女子数人と 研修医軍団でまるで合コン状態で。 最初例の先生はいなかったので来ないのかと思って安心したりがっかりしたり 結局来たのだけど挨拶してそのままで。 そうこうするうちに私は凄い勢いで飲んでて 他の先生と話していても胸のつかえはどんどん重くなっていって 次のボウリングでは先生来なくて。 気が付いたら酒の勢いもあって号泣してて周りの女子に慰められて 女子トイレに篭っていたので先生たちには飲みすぎて気持ち悪くなったことにしてもらって あんまり情けなくて。 もうやめようと思った。 けれど泣けるだけマシだ。 記憶は全部残っている。 それは悲しいけれど。 精一杯忘れる努力を。 これほど無駄なことはないんだ。 思い続けていてもどうしようもない。 さよなら。 飲んだ酒の量が祟って気持ち悪くて殆ど眠れないし。 最悪だ。 - うわああ - 2004年12月09日(木) 何故だろう。 例の先生と時々遭遇、というか エレベーターホールを介して会う、というか目が合うことがあるのだが あ、向こうが気づいた、と思うといつも目を逸らしている私である。 会いたくて会いたくて仕方ないと思っているのに。 向こうは声を掛けるなり手を挙げるなりしようとしているようなのだけど その前に私が視線を外してしまう。 もちろん挨拶を交わすことなく。 昨日偶然挨拶を交わしたのだって 病棟に向かって階段を上っていたら 私の前を歩いていた同じ班の友人が下ってきた誰かに挨拶をしていたので 私は下を向いていて誰だが確認ができないまま あ、奴が挨拶しているってことは私も挨拶しなきゃならない可能性の高い人だ、 ということで挨拶したらその先生だった。 挨拶して顔上げた瞬間に認識したから少々驚いてしまって 恐らくきょとんとした顔をしていたであろう。 何をやっているのだろう、一体。 まだ好きなのは間違いない。 そしてそれに戸惑いを覚えていることも。 でもこんな自分はちょっと嫌だ。 それでも会いたいと思う。無様だ。 - さすがに外科って - 2004年12月06日(月) 今までのようにはヒマヒマでは行きませんでした。 というわけで久々の更新です。 私のモチベーションの全ては先週火曜のオペに費やされてしまったのに 実習は続くさまだまだね。 今日から肝胆膵そして下部消化管。 ちゃっかり土曜の忘年会でビンゴ当たってしまっただけにあんまし手を抜けないし。 でも3次会で微妙にセクハラされたしちょっとは見逃してほしい。 そんなことはさておき。 外科なのです。 手術ガンガンですよ。失神発作がやばいのですよ。 せめて前方の術野に倒れず後方の電気メスに向かって倒れようと思う。 例え自分の頭を縫う羽目になっても。そうしよう。 そして精神的にも肉体的にもよくない。 煙草が再び定着しそうな模様でおいおい。と思っていたら。 酒の飲み方も心を反映してか無茶苦茶になっている。 カクテルと日本酒とウイスキーとウォッカとビールとちゃんぽん呑み。 翌日ひどい目にあったのは言うまでもなく。 同じ階の東病棟に好きな研修医がいる。 西と東の渡り廊下で時々見かけるのである。 最近全然挨拶もしてないなぁ、と思う。 というのも全て私がぼーっとしているというか、心の準備ができてないというか。 そういう『みすみす機を逸する』形ですれ違ってしまう。 渡り廊下にあるエレベーターを今付いている研修医と待っていたら あの人がこちらを見ていたので気にかけてくれるのか。と ちょっと嬉しくなったのだけど よく考えたら人影見える→ついつい確認してしまう、というのは 私もよくやることで、別にその人が特別なわけではない。 見ている時間が少し長かったのはまぁ私がああいうことをやったせいだし 特別な気持ちはないんだろうな、と思い直した。 それにしてもあの人に関しては私は割りと冷静に分析する。 それが今までの一瞬の恋愛と違うところ。 でも気持ちの上であの一瞬と一体何が違うというのだろう。 5年前のあの頃から。螺子がずっと外れっぱなしだ。 - 懐古 - 2004年12月04日(土) 今日は母方の祖父の七年忌でした。 いろいろ思い出すことがあります。 祖父母は私たちの住むところから車で2時間の、 結構な山奥の中に住んでいました。 語弊があるので記しておくと、高さとしては丘という程度ですので 鬱蒼とした林の中、というのが正しいでしょうか。 よくイノシシが出ました。 祖父は炭焼きをしていて。みかん畑をやっていて。芭蕉の葉を煮て。 祖母は祖母が煮た葉から芭蕉布という、沖縄の織物の糸を紡いでいました。 染める前の芭蕉の糸は金色。私はとてもそれが好きだった。 祖母は80歳を越えても、黒々とした長い髪をしていました。 女性が短い髪、というのは彼女の常識ではあり得なかったようで 母は髪を切って物凄く怒られたそうです。 きっと私が高校の頃角刈りのような頭をしているのを見たら 卒倒するか、延々と説教されたことでしょう。 しかしながら彼女は大変我慢強い人だったようで説話はいろいろあります。 母の兄弟は集まると、必ず彼女の話になる。 祖母は喘息持ちで、ネブライザーが手放せなくて 周りに殆ど家のないあんな場所になぜ二人だけでいたのか 昔は不思議に思いました。 でも今なら何となく解る気がする。 祖母は長い入院後、退院しあの家で亡くなりました。 それは私の中学生の頃。 祖父は時々竹を取りに行く、と行って 獣道を通って山の中に連れて行ってくれることがありました。 鬱蒼として。それでいてひんやりとして。小川があって。 その場所がとても気に入っていた。 ある日みかん畑に弟と二人、遊びに行くと 2匹のウリ坊と遭遇してしまったことがあります。 さてどうしたものか、と微動もできずウリ坊と見詰め合っていたのですが そのうちふいっ、とウリ坊はどこかに行ってしまった。 そのことを祖父に話すと。そのウリ坊の親は死んでしまったとのこと。 あの2匹はこれから生きていかれないかもしれない、と話す祖父が 何だか淋しげだったのを覚えている。 家の裏には山羊小屋があって、つがいの山羊が飼われていました。 ある日。妙に甲高い鳴き声がしたので行ってみると子山羊が。 祖母に「いつ子山羊が生まれたの?」と聞くと 「そんなものはいない。」と言われてしまい。 いやいるんだけど、と言って皆で見に行ったら2匹目が生まれるとこだった。 生まれるところを見ただけに愛着もあったのですが ある日見に行ったら食されていました。ちょっと泣きたかった。 山から帰るとき。 祖父は私たちの車が去るのをずうっと見つめていた。 それがあまりに淋しくて幼心に後ろ髪が引かれた。 その祖父は祖母が亡くなって、山を降りた。 山での時のように畑ができなくて。辛そうで。 胃癌を発病して。恐らく発見時には手術ができない状態だったのだろう。 入院して。亡くなった。 看護婦が気が付いたときには死後硬直が始まっていたらしい。 誰も看取ってあげることができなかった。 それが何より悔しい。 いろいろなことを思い出す。 -
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