DEAD OR BASEBALL!

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Vol.143 投打のバランスを壊すラピッドボール
2003年07月29日(火)

 先週放送された某スポーツ番組で、巨人の上原浩治が興味深い話をしていた。近年から多くの球場で使用されているミズノ社製の反発係数の高いよく飛ぶボール、いわゆるラピッドボールの普及に投手である上原が苦言を呈したのだ。

 ラピッドボールを使用する球場が増えたことが、近年ホームランの本数が激増した要因の一つであるのは間違いない。それだけでなく、ライナー性の打球の勢いも上がり、ピッチャーライナーやサードライナーなどに守る側が反応しきれなくなりつつあるようだ。

 上原曰く、「遅かれ早かれ死者がでるのではないか。機構の方は実際にことが起こらないと動こうとしない」。年々強まっていく打高投低傾向に警鐘を鳴らすだけでなく、自らも含めた身の危険を訴えた、悲痛な叫びのように聞こえる。

 普段の上原の言動は、どちらかと言うと周囲の空気を読めない暴言や負け惜しみ染みたものが多く、個人的にはどうしても好きになれないのだが、今回のこの発言は確かに頷けるもの。正確なデータは取っていないのだが、確かにここ数年、試合中に打球を直接体に受けて途中退場したり長期欠場に追い込まれる選手が増えた、そんな感覚は強くなっている。

 昨年、メジャーリーグの試合で石井一久(ドジャース)がトリイ・ハンター(ツインズ)のピッチャーライナーを前頭部に受け、頭蓋骨を亀裂骨折。救急車で病院に担ぎ込まれた事例も頭にあった筈。今年に入って石井は順調に勝ち星を稼いでいるが、あれだけの打球を受けたら、並の人間なら再びマウンドに立つことに大きな恐怖感を持つだろう。

 横浜スタジアムや大阪ドーム、東京ドームなど、比較的本塁打を多く打つチームの本拠地でラピッドボールが採用されているとのこと。これらの球場では本塁打が乱れ飛ぶ大味な試合が比較的多く、一見華やかであるもののじっくり試合を観たら弛緩するようなゲームが度々演出されている。

 ポーンと上がった外野フライがグングン伸びてスタンドイン。ホームランは確かに野球の華ではあるが、華は希少価値が高いから華なのであって、意図的にそれを産み出そうとする演出があれば、それはゲームの価値そのものを貶める結果にもなりかねない。個人的な感覚ではあるが、はっきり言えば、ホームランが乱発する試合ほど途中で飽きてくる試合はないのだ。

 この10数年で確かに球場の広さは大きくなったが、それ以上に打者のパワーと技術も長足の進歩を見せている。そこにきて、ラピッドボールの採用を多くの球場が実施しているという現実。上原の言う「いまに死人が出る」ということは、平たく言えば野球というゲームにおける投手と打者のバランスシートが崩れつつあることを示している。

 今シーズンここまで、チーム防御率で3点代をキープしているのは、セ・リーグで首位を走る阪神と、パ・リーグで首位を走るダイエーのみ。あとの10球団は全て4点以上で、それぞれのリーグで最下位の横浜とオリックスに至っては5点代という惨状。パ・リーグでは2年続けてシーズン本塁打日本タイ記録の55本という数字が叩き出されており、ここ数年のプロ野球の投打バランスというのは、明らかに打者サイドに寄ってきている。そう言えば、防御率1点代で規定投球回数に乗る投手というのも、92年の赤堀元之(近鉄・1.80)、石井丈裕(西武・1.94)以来ここ10年出てきていない。

 従来の野球の規格に変化が訪れるのは、ある意味で仕方ないことではある。ただ、それによってスポーツとしてのバランスが失われ、野球というゲームが大味で味気ないものになれば、それはどこかで調整が必要な筈だ。打者優位が揺るぎ無くなりつつある現状で、さらにそれを助長するかのようなラピッドボールの普及は、野球のバランスを著しく狂わせているように感じる。

 私の結論から言えば、上原の訴える身の危険も含めて、ラピッドボールの採用でいいことなど何一つないように思う。やたらホームランばかりウリにされても、観ているこちらはどうにも白けてしまうのだ。

 メジャーリーグでマーク・マグワイア(カージナルス)とサミー・ソーサ(カブス)の本塁打王争いが脚光を浴びたことが、ラピッドボール採用の裏事情であると言われている。確かにあの対決は日米で脚光を浴びたように思うが、よくよく考えてみれば、あの争いはほとんどデキレースのようなものだった。

 両者が打席に立つ度に、ボール球を投げた投手には容赦ないブーイングが浴びせられた。ど真ん中のストライク以外は認められない投球、それが果たして野球として正当なものであるかどうか。昨年のカブレラの舌禍事件でもわかるように、ストライクだけ投げてホームランを供給することなど、決して正々堂々ではない。むしろそれは八百長だ。

 ファンは本当にこんな大味な野球ばかりを望んでいるとは思えない。同時に、機構は上原の訴えを真剣に受け止め、あってはならない事故を防ぐ為の危険防止策を講じる責務がある。そこから導き出される結論は、どうしてもラピッドボールにノーなのである。

 横浜スタジアムの場外弾や東京ドームの看板直撃弾を見る度に、凄いと思う反面、それが決して珍しくなくなっている現状を考えれば、どうしてもどこか白けてしまう部分がある。

 記録のかかっている打者と真剣勝負をすればブーイングを浴び、強烈になっていく打球に命の危険すら感じながら投げ続ける投手という職業の因果。そして物理的にどんどん打者優位に拍車をかけ続ける野球界を考えると、投手という職業の悲観は察するに余りある。

 投手と打者のバランスシート、それこそが野球を魅力あるゲームたらしめている重大要因に違いない。もしそこに変化が訪れた場合、調整するのは道具の役割であってもいい筈。ならば、見せかけの華やかさに媚びる前に、野球を魅力あるゲームとして機能させる為の厳格な基準を道具に設けないと、何が起きてもおかしくないということになる。

 それは“不幸な事故”などではなく、れっきとした人災である。選手というかけがえのない財産を失う前に、そして野球の根幹であるバランスシートを失う前に、ラピッドボールの使用は早急に取り止めるべきではないだろうか。上原の言うとおり、何かが起きて誰かが犠牲になった後では遅すぎる。


Vol.142 世界最強の舞台
2003年07月16日(水)

 メジャー7年目。長谷川滋利にとって、初めてのオールスターゲームのマウンドは嬉しさと満足だけが残る舞台ではなかった筈だろう。

 「中継ぎ投手の価値というものをアピールしたい」と長谷川は語っていた。リードした場面だけでなく、同点の場面でもリードされた試合でも敗戦処理でもゲームを壊すことなく投げられる長谷川流メジャーの生き方。今年はここまで0.77という脅威的な防御率を残し、故障の佐々木主浩に変わりシアトル・マリナーズのクローザーを任されるようにもなった。

 堂々たるオールスターゲーム初出場の筈だった。しかし初めて踏む栄光の舞台は、一転して長谷川に容赦なく牙をむく。

 1-0とアメリカン・リーグ1点のリードで向かえた5回表、長谷川はアメリカン・リーグの4番手としてU.S.セルラーフィールドのマウンドに上がるも、緊張からか微妙にコントロールが定まらない。先頭のシェフィールド(ブレーブス)を歩かせると、続くヘルトン(ロッキーズ)に高めの甘いストレートを中越え2ランされ逆転を許す。続くローレン(カージナルス)にも右前安打を打たれ、ロペス(ブレーブス)、ビドロ(エクスポズ)は抑えるも、代打ファーカル(ブレーブス)に中前安打を許したところで、ソーシア監督から交代を告げられた。

 救援のグアルダード(ツインズ)が長谷川の残した走者をホームに招き、長谷川に残った数字は2/3回3安打1四球4失点(自責点4)。1イニングを投げきることもできず、恐らく長谷川にとっては悔しい登板になっただろう。

 メジャーリーグのオールスターゲームは、選手なら誰でも憧れる晴れの舞台であると同時に世界で最も厳しい舞台であることを痛感した。出てくる選手は誰でも超一流のスーパープレーヤーである。打者にしてみれば「こんな投手陣、どうやって打ち崩せばいいんだよ」というラインナップを相手にし、投手にしてみれば「こんな凶悪な打線、ゼロで抑えるのはしんどいぜ」というオーダーだ。

 ボールパークの厳かな空気と、スーパースターが居並ぶフィールドの眩しさ。忘れかけていたことだが、そこは世界最強のベースボールが繰り広げられる舞台である。

 素晴らしい試合だった。息を呑み、一つ一つのプレイに拍手をし、そしてどこまでもベースボールの魅力に浸かることができた素晴らしいゲームだった。約3時間、セレモニーまで含めれば約3時間20分、幸せな時間だった。

 これだけのプレイヤーが一同に会し、自身の誇りと名誉を賭けた真剣勝負に挑む。素晴らしい試合にならない筈がないのだ。世界最強のプレーヤーによる、世界最強の真剣勝負。大袈裟ではなく鳥肌が立った。

 世界最高のサウスポークローザーであるワグナー(ツインズ)の100マイルを一振りでライトスタンドに消し去ったジアンビー(ヤンキース)の凄味は、このフィールドが野球の神に祝福された幸せな舞台であることを、海の向こうからブラウン管を通じて見ていた私にも確信させるものだった。

 試合終了から約一時間半後にこれを書いている。興奮冷め遣らぬ今、改めて考える。なぜこの試合があんなにも素晴らしく見応えのある面白い試合だったのだろう、と。

 そこでベンチに下がった長谷川の悔しさを噛み殺した表情が浮かんできた。

 長谷川は頭のいい投手であり、35歳になる今年に150kmを計時するなど、今が野球人生のピークと思えるような実力を備えた投手である。今年ここまで積み上げてきた数字は、オールスターに選ばれて当然と言えるだけの恐るべきものを残している。長谷川は初のオールスター選出に対して素直に喜びを表した。前日行われたホームランダービーの最中も、息子を隣に連れた長谷川の表情はこの舞台にいることの喜びに満ち溢れたものだったように見えた。

 しかしマウンドに上がった長谷川に待っていたのは試練だった。ナショナル・リーグのオールスター打線というかつてない程の強力打線。そこは栄光に彩られた華やかな舞台であるだけでなく、世界最強のベースボールが繰り広げられる修羅のコロシアムでもあった。

 長谷川は初のオールスターでその怖さを感じたと思う。本気で牙をむく強力なナショナル・リーグ打線は、長谷川がカウントを整えにきた甘い球を容赦なく弾き返した。ここまで順調すぎるほど順調にきた今年の長谷川にとって、こういうマウンドは久しく経験してなかった恐怖に化けたかもしれない。

 長谷川の力が足りなかった訳ではない。ただ、一歩間違えばいつでも打ち込まれる、あるいは簡単に抑えられる……オールスターとはそういう強さと対峙するフィールドであることは間違いないだろう。

 だからこそ私は、興奮して幸せな時間を味わえたのだと思う。世界最強の舞台で、世界最強の選手が繰り広げる、世界最強の真剣勝負。そんなベースボールを味わえたからこそ、この試合を心の底から楽しめたのだと思う。

 日本でもオールスターゲームが行われている。オーダーを見れば、なるほど確かに豪華なメンバーだ。オールスターと言っていいメンバーは揃っている。昨日の第一戦を振り返れば、カブレラの本塁打は圧巻だったし、高橋由が途中出場で二打席連続本塁打したのも見事だった。和田毅や井川の投球にも唸らされた。

 だが、チームの勝ちにこだわる真剣勝負だったかと言えば、それにはどうしても疑問符を付けたくなってしまう。

 この国のオールスターゲームでは、しばしば「真っ向勝負」という言葉が使われる。投手は全力で自分のストレートを投げ込み、打者はそれを真っ向からフルスイングする……そんな“美学”がこの国では随分と幅を利かしてきた。まるで変化球を使う投手や逆方向に軽打する打者が卑怯者であるかのような“美学”、である。

 カブレラを空振り三振に斬って取った井川のストレートは確かに見事だったが、ストレートを待っているところにチェンジアップを投げる方が、はるかに三振を奪える確率は高い。しかしそこで勝負にこだわれば、井川はマスコミから“チキン”だの“卑怯者”だの言われる。解説者もしたり顔で「ここで変化球を投げてはいけませんよ、まっすぐで真っ向勝負しなきゃ」と言う。

 “真っ向勝負”と“正々堂々”は、必ずしもイコールではない。もちろん“真っ向勝負”と“真剣勝負”もまたイコールではない。そして勝負にこだわらない野球は、その時点で既に野球ではない。少なくとも私が観たいのは、定まり事のようにストレートとフルスイングが飛び交うデキレースではない。

 “ミッドサマークラシック”は、オールスターゲームとは何たるかを私に改めて教えてくれた。オールスターゲームとは、世界最強の選手が集う世界最強のベースボールだ。

 日本でも、そんな興奮を味わいたい。世界最強を標榜する日本最強の野球を、心の底から堪能したい。

 その為にはまず、ベンチの中で緊張感なくうちわをパタパタするのは止めようよ。


Vol.141 マークシートを塗り潰せ
2003年07月08日(火)

 オールスターゲームのファン投票が揺れに揺れたことは、図らずも現代におけるファン投票の在り方というものの難しさを顕在化させることになった。

 混乱を招いたのはインターネット投票の存在だが、広くファンの意向を募れるインターネット投票を存続させたいという機構側の言い分は納得できる。今回の問題は、「じゃあインターネット投票をやめればいい」と言うような短絡的な話で終わることではない。

 一部の心無い人達による悪意としか思えない投票が、一人の選手の心を深く傷付けた。投票が集まり始めた当初は本人も「頑張れという応援票だと思った」と言うのだから、裏切られたという感情もあるかもしれない。既に今から「来年は誰に……」と狩りの獲物を物色する書き込みも見えているという。

 長谷川一雄コミッショナー事務局長は「根本的には皆さんの良識にすがるしかない」と言うが、今回の騒動を見れば、そういう人達に初めから存在しない良心に期待するのも野暮というものだろう。もちろん理想論を言えば、「ファンからの期待のみを抽出した票が投票されれば……」という想いは理解できるし、私もそう願っている。ただ、今回のようなテロ的な投票行為が現実化してしまった以上、何かしらの対策は必要になるという論調が圧倒的になるのもやむを得ない。

 これは野球ファンの、と言うよりも完全に日本人の民度の問題だから、スポーツ的見地からの解決策はないに等しいのかもしれない。この国において、プロ野球のオールスターゲームがごく一部の一般大衆にとってオモチャ以下になったという現実は、もはや問題はオールスターゲームをどうこうすればいいということではないことを示している。

 野球的解決策はないに等しいが、広くプロテクトをかけた時に被害を真っ先に被るのは、破廉恥な投票とは一切関係ない熱心な野球ファンになる。ここにこの問題の難しさがある。オールスターゲームをオモチャ以下に扱った人間の手によって、そこに何かしらの夢や期待を抱いているファンに規制がかかってしまう。だからこの問題は根深い。

 平たく言えば、オールスターゲームからますますファンの意思が遠のいていくということ。その原因がオールスターゲームを冒涜している輩の信じ難い行為なのだから、ファンはその怒りをどこに向ければいいというのか。

 プロアスリートに対してのリスペクトが民衆の根底にあるアメリカなら、こういうことはまず起こらないと思う。メジャーリーグでも組織票問題が顕在化した58年から12年間ファン投票を廃止した時期があるが、今回の問題はそれとは全く色合いが違うだろう。

 選手に対して尊敬の念を抱けるかどうか、これはその国のスポーツ民度を測る最も簡単な線引きであるが、日本などで特定球団の選手に票が集まりやすい状況は、それでもその球団の選手に対するリスペクトを感じさせるものだった。今回のように選手が吊るし上げにあった事例など聞いたことがない。

 それがファンからの叱咤激励ならまだ理解できなくもないが、今から獲物が物色されてる状況を考えればそうでないことははっきりしている。この国の野球好きの一人として、これ程までに悲しいことはない。

 選出資格に過去数年の成績を設ける動きはあるかもしれない。投手なら過去2年で100イニング以上登板であるとか60試合以上登板、野手なら過去2年で140試合以上出場とか100打席以上というように、ある程度「試合に出た」という実績がない選手は選出資格がないとすれば、少なくとも今回のようなことは起きなくなるだろう。

 ただもしそうなれば、仮に今年千葉ロッテの黒木知宏がオールスター前に全快できる見通しが立ったとした時、絶大な人気を誇るジョニーの復帰登板を地元開催のオールスターで、ということもできなくなる。

 黒木もそうだが、例えば巨人の清原和博など、仮に成績が伴っていなくても顔と実績で選ばれて納得するファンが多いという選手もプロスポーツには存在する。プロテクトがかかれば、そういうファンの夢も潰されることになる。それは機構側としても避けたい事態の筈だ。

 運営委員会は28日に対策協議の場を設けるということだ。こうなった以上、何かしらの対策は必要であるという考えに異論を挟む気はない。ただ、どんな対策が講じられたところで被害者はファンになるという事実は動かない。どうしようもないことなのだが、それだけにことさらやるせなくなる。それが悔しくてたまらないのだ。

 心無い投票をした人間は、少なくとも今年のオールスターゲームを全て観戦する義務があると思う。もちろんそんな考えが届く筈はないだろうが、少なくとも彼らは、近くの電器店でオールスターゲームのファン投票用マークシートをもらってきて、ワクワクする気持ちでマークシートを塗り潰していた野球ファンの気持ちを知っている筈がない。知っていれば、そんなファンや選手の気持ちを踏み潰すようなことができる筈がない。

 マークシートに比べて、インターネット投票は確かに投票が便利で身近になった。その身近さがこのような災厄をもたらしたなら、ファンがあのマークシートを塗り潰すドキドキ感に立ち戻るのもいいかもしれない。マークシート投票の率を増やすことが、もしかしたらファンの意思表明になる可能性はある。

 この問題が起きるまで忘れていたことなのだが、マークシートには確かに胸躍るドキドキ感があった。ワンクリックで投票が終わるインターネット投票には、投票したという実感がマークシートに比べて薄い。だから「自分がとんでもなく破廉恥なことをしている」という実感もないのだろう。ここまでくると単純に人間性の問題という気もするのではあるが。

 何事も身近になり過ぎるということは、便利であるプラス以上にそのものの神聖さを損なわせるマイナスの方が大きいのかもしれない。

 多分、そういうことが野球民度ということなのだろうと思う。



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