DEAD OR BASEBALL!

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Vol.137 トラッキー騒動に思うこと
2003年05月21日(水)

 阪神タイガースの快進撃が連日スポーツ紙を賑わせている。スポーツジャーナリストの二宮清純氏は週刊大衆で「阪神の独走と巨人の不調で、昨年までとは逆の形で“伝統の一戦”が復活せず」ということを書いていたが、私のようにそもそも年齢の浅い野球好きにとっては、もはや“伝統の一戦”という響き自体が古めかしい雑音めいて聞こえる。

 “伝統の一戦”という言葉を否定する気は毛頭ないし、先日も甲子園で行われた阪神−巨人の3連戦には独特の風情が流れていた。それ自体は確かに日本野球の看板カードであるとは言ってもいい。ただ、今だ“伝統”という言葉にしがみつく道を日本野球が選ぶなら、そこから先にあるものは一体何なのか、私にはもう一つ見えてこないというのが正直な感想ではある。

 今の阪神は確かに強い。だから例年以上のペースでお客さんも入っているし、競った試合を逆転でものにする試合ぶりは見ていてハラハラドキドキする面白さがある。私は巨人にも阪神にも、ましてや“伝統”という言葉にも全くしがらみを感じていない一介の野球好きな若僧である。だから、その事実だけで充分のような気がする。

 閑話休題。だいぶ前の話になるが、阪神の人気マスコットであるトラッキーの着ぐるみで甲子園球場を沸かしていたスタッフが、昨月末に解雇された。このことが阪神ファンの間で小さくない論議を沸かせているという話を聞いた。

 昨日の甲子園での試合を中継で見た。トラッキーの姿はあまり映らなかったので動きの違いなどはわからなかったが、この記事を読むところ、ことはそう単純なことではないかもしれない。

 ジャニーズJrに球場で六甲おろしを唄わせるなど、ここ最近の阪神の営業姿勢は、よく見れば積極的で革新的、悪く見れば傍若無人に映る。阪神ファンの目線からはどのように映っているかわからないが、取り敢えず今までとは違う方向に動いていることははっきりしている。

 はっきりしていることはそれ以外にもある。これまでのトラッキーのキャラクターにジャニーズの華やかさは合致しないということだ。

 何か小ぎれいになりたがっていると言うか、私の目からは阪神にジャニーズは合わないよなぁと思う。阪神球団が持ちかけたのかジャニーズ事務所が持ちかけたのか、それは知るに及ばないが、私がこれを見たら間違いなく違和感を覚えるだろう。

 あらかじめ断っておくと、私はジャニーズに私怨は全くない。ただ、人にはそのステージに立つだけの場のわきまえ方というものがある。それに合わない者は、その場に立ってはならないというのが持論だ。

 98年夏の高校野球を思い出した。甲子園での開会式、セレモニーに出てきたのはジャニーズJrだった。スタンドからはコンサート会場かと思わせるほど百花繚乱のうちわが舞い、確かにスタンドは盛り上がった。恐らく開会式の観客は55000人超満員だっただろう。

 開会式が終わると、ジャニーズJrだけを目当てに甲子園に来ていたジャニーズファンは、潮が引いたかのように甲子園を去った。オープニングゲームの桐生第一×明徳義塾の試合は、最後は延長10回サヨナラで決着する劇的な好ゲームだったが、ジャニーズファンの分の空席を見ると、この好ゲームを甲子園で見たくても見れなかったファンがいた気がして、どうしようもない怒りが込み上げてきた。

 甲子園でパフォーマンスをしたジャニーズJrが悪い訳ではない。試合を控えた開会式でジャニーズJrを呼んだ主催者サイドが悪い。野球を行う野球場に野球以外のパフォーマンスを招き、試合が始まれば空席になるという事態を読めなかった主催者サイドが悪いのだ。

 先月解雇されたトラッキーのスタッフは、甲子園の阪神戦には欠かせない超人気者で、ファンからの支持も大きかったと聞く。その人が解雇されたことに何らかの政治的意図が隠されているなら、あまりにもファンを無視した暴挙と言わざるをえない。

 ましてやこの人は、阪神が万年最下位の弱小チームだった時代をずっと間近で見ている人だ。これだけの快進撃を続けている今、この人にも優勝の美酒を飲ませてやりたいと思うのが人情ではないだろうか。

 ホームランを打った選手がトラッキーにプロレス技をかけたことや横浜ベイスターズの佐伯貴弘とバーリ・トゥードをしていたことも、要は「ケガすると危ないからやるな」と通達すればことは済んだと思う。ましてや少々のパフォーマンスなら、それも許せる範囲の筈だ。

 直接の引き金になったという「ムーアのヒゲ事件」も、ヒーローインタビューの中継を見ていたがファンは大いに喝采していた。当の赤星憲広は少々困惑していたようだが、翌日のスポーツ紙は揃って写真を掲載するなど、評判は悪くなかったかのように思う(私は中継を見て大笑いしてしまった)。

 これらが理由でスタッフが解雇されたのなら、理由があまりにも後付けのような気がして薄ら寒さすら覚える。トラッキーをここまで愛される存在にしてきたスタッフが、こんなに簡単に解雇されていいものだろうか。

 一言で言えば、あまりにもファンからの視線というものが欠落しているように感じてしまうのだ。

 プロ野球はエンターテイメントである。野球を軸にした娯楽である。野球を楽しむ為の仕掛けなら、ある程度の許容範囲は設けるべきだ。しかし、野球に全く関係ない娯楽を野球に持ちこむことは、球団の節度の問題である。

 阪神ファンに愛されたマスコットを長年演じてきたスタッフを解せない理由で解雇し、それについてファンに対してすら事情を説明できない球団が、本当の意味でファンの支持を得られるだろうか。

 チームが強くなっていい試合をすれば、確かにお客さんは集まる。だが、その影では地道な営業努力やパフォーマンスが下支えの役割を果たしていることは間違いない。それを無視するということは、フロントが集客力の責任を全て現場に丸投げしていることとイコールであると言っていい。

 メジャーリーグのボールパークは、チームだけではなく球場や球団があの手この手を使って球場を盛り上げて観客動員に繋げようとしている。派手な演出の下では、どこでも7回に「Take Me out to the Ball Game(私を野球に連れてって)」を唄うという文化が確立している。メジャーリーグは確立されたエンターテイメントであることを自認しているからだと思う。

 この騒動が起きた後も、阪神のチーム状態は全く落ちていないし、観客動員も落ちる気配を見せない。たかがトラッキーというマスコットの問題かもしれないが、阪神球団のファンへの目線ははっきりわかった気がする。

 トラッキーのバック転やパフォーマンスに注がれていたファンの目線を、恐らく阪神球団のフロントは誰一人知らない。その痛みは、恐らく阪神ファンしかわからない。

 いや、ファンだからこそわかるものだと言うべきであろうか。私は多分、わかっていない。それでも、今回の球団の姿勢には首を傾げざるをえないのだ。


Vol.136 オールスターに芳醇な純度を
2003年05月09日(金)

 半分は予想通りではある。昨日発表された今年のサンヨーオールスターゲームのファン投票、セ・リーグでは現在首位の阪神から投手を除く8人の野手がトップに立ち、長年ファン投票の人気上位に君臨してきた巨人からは1人の選手もトップに立たなかった。

 様々な要因があることは事実であろう。昨年同様に阪神は開幕から快進撃、毎年恒例の“組織票”も加味すれば、現時点で阪神の選手たちが“ファン投票ジャック”するであろうことは充分に予測の範囲であるし、主力にケガ人が多発した巨人のレギュラークラスに票が集まらないのも予測の範囲。

 昨年はレギュラーを外された阪神の藤本がファン投票で一時トップに立ったことを考えれば、まだ巨人ファンは節操があるのかもしれないな(笑)。

 しかし、である。「ついにここまで来たか」というのも偽らざる本音であることは、ここで正直に白状しておかねばならないかもしれない。

 これまでの統計的データを考えれば、巨人の選手は黙っていてもファン投票で多くの得票を得てきた。阪神への組織票という話は、ひとまず棚上げしておく。問題は、その「黙っていても入っていた得票」は、いったいどこへ消えてしまったか、或いは流れてしまったのかということだ。

 私観から述べれば、すっぽり消えてしまったのではないだろうか。

 これまでのオールスターファン投票で、巨人の選手は2つの固定票を持っていた気がする。巨人ファンからの組織票と、一般の野球ファンからの流動票である。前者はどこの球団でも持っている票だが、絶対数が違う。後者は露出度が多い球団のみが持っている、いわば“有名票”。

 これまで巨人は、その2つの固定票をもってしてオールスターに多くの選手を送り込んだ。莫大な組織票と有名票を持つに至った経緯に眼をつぶれば、至極当然の真っ当な票だったと言えると思う。

 今年の中間発表を見ると、後者の有名票が巨人からすっぽり抜け落ちた結果、今回のような結果が出ているような気がしてならないのだ。つまり、一般の野球ファンからオールスターゲームに対する興味が離れていっているように感じるのである。

 投手部門の上位は川上、井川、上原と開幕投手3人が並んでいるが、共にもう一つ調子の上がらない井川と上原の間に現時点で1万票以上の差があり、川上とは完全に差がつけられている。阿部、清原と矢野、桧山の差も同様の印象を受ける。

 清原のカリスマ性は一種の絶対性を秘めた怪物的産物だが、それとて打率.200そこそこで一塁手1年目の桧山に3万5千票近くの差をつけられている。チームリーダーとして絶大な人気を誇る高橋由も現時点では5位、トップの濱中とは5万票以上の差がある。

 果たしてこれをどう見るか。野球人気の衰退という安直な議論には辿り着きたくないのだが、少なくともオールスターゲームに向けられたファンの目に変化の兆しを感じるのは確かだ。

 ファンがオールスターゲームに何を求めるか、それはまさしく千差万別だから一概に言うことはできない。私が求めているものは、普段のペナントレースで味わうことのできないグレートマッチアップ。同時に、オールスターでしか感じることのできない独特の風情を求めたい。

 かつてオールスターゲームと聞いてワクワクしたあの感情の昂ぶり、それを取り戻したいのだ。今のイベント化した真剣味が伝わってこないオールスターに、私ははっきりNOを突き付けたい気分だ。

 日本のオールスターゲームが失い、メジャーのオールスターゲームが宝のように守っているものが、まさしく風情というものだと思う。日本にないものは、メジャーのオールスターゲームが“ミッドサマークラシック”(真夏の古典劇)と呼ばれる由縁そのもの――そう言ってもいい。

 風情というものは、様式美であると思う。様式美とは、それそのものが存在するだけで醸し出す風情や美しさであると思う。それは、長い年月をかけて醸造し醸成されていく中で、初めて芳醇な薫りと風味を醸し出す。

 メジャーのオールスターを例えるなら、長年樽の中で大事に熟成されてきたモルトウイスキーのようなものだ。瓶の中でじっくりと旨みを膨らませた古酒のようなものだ。創業以来継ぎ足されては使われてきた鰻屋のタレのようなものだ。

 日本のオールスターが、長年鰻の旨味を吸い続けてきた秘伝のタレを引っ繰り返して、出来合いのタレを使うようになってしまったのは、いつのことだろう。

 秘伝のタレの芳しさを失ったことに加えて、ここ数年で日本のファンはミッドサマークラシックの芳しさを知り、或いはかつての郷愁にかられてしまった。それがファンのオールスター離れ、すなわち「黙っていても入っていた流動票」の消滅に繋がっているのではないか。そんなノスタルジーが、この項の本論である。

 極めて感覚的なことではある。だが、その感覚的なものが変わってきたこと、そしてその変化した感覚は確実に“勝負”“ゲーム”として劣化したものだということは、胸を張って肯定できると思う。レベルの問題ではない。純度の問題だ。

 ファンがオールスターゲームで見たいものは、ピッチャーイチローでもなければ、浴衣姿の女子アナでもない。観点はそれぞれあろうが、野球であるということは共通のベクトルであると思う。野球で夢を見るためには、野球で魅せる以外にない。

 メジャーのオールスターに風情と美しさを感じるのは、試合にしてもセレモニーにしても前夜祭にしても、ベースボールへの深いリスペクトと親愛に全てのベクトルが強く向けられているからだと思う。オールスターでもレギュラーシーズンでも、グラウンドにあるのは結局ベースボールである。それ以上でもそれ以下でもない。

 オールスターゲームは特別な試合である。特別だからこそ特別な風情を感じたい。特別な風情とは何か。結局それは、野球というスポーツの上に乗っかった極上のゲームなのだと、私は思う。

 ファンの視線が色々な意味でオールスターから離れかけているとすれば、これは尋常ならざる事態である。オールスターゲームは、夢の産物である。夢は美しいものである。美しい夏には野球が似合う。真夏の古典劇には、風情が必要だ。野球の風情とは、真夏に訪れる極上の勝負だ。それがなければ、夢もない。夢がなければ、ファンもついてこない。

 お祭り騒ぎも、多少はいい。だが、野球という勝負の先にこそ真夏の夢があることを、そしてその先にこそクラシックな純度があることを、是非御一考頂きたい。



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