DEAD OR BASEBALL!

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Vol.135 開拓者であること
2003年04月29日(火)

 野茂英雄の偉業を称えることは、誰にでも容易い。しかし、野茂の功績を振り返ることは、野茂以外には許されない。なぜなら、野茂は「開拓者」であり続けたからだ。

 野茂は実質的な開拓者として海を渡った。時は今から8年前の1995年。野茂はメジャーリーグという舞台に立つ以前に、文字通りの荒波を超えていかなければならなかった。

 今でこそ野茂はメジャーを代表するスターターの1人として内外から認知され、彼をこの国の誇りに挙げる人も少なくない。しかし、思い返してほしい。野茂のロサンゼルス・ドジャース移籍が正式に決まった時、誰が誇るべき開拓者を快く送り出していったか。

 マスコミだけならず、日本野球界のほぼ全てが野茂のメジャー移籍を「無謀だ」と罵り、「日本を捨ててまでアメリカに行きたいのか」と非難した。野茂の偉大なる決断は侮蔑と嘲笑の格好の的にされ、野茂の成功を予測する媒体などは存在しなかったと言ってもいい。

 松井秀喜が今年ニューヨークに活躍の場を移したことに対するような期待、そのようなものは、航路の無い海を渡る野茂の周囲には全くなかった。広岡達郎氏の「メジャーはそんな甘いもんじゃない。どうせすぐに逃げ帰ってきますよ」というコメントに象徴されるように、あったのはあたかも野茂の失敗と帰国を期待するかのような、非常に低次元の予測に過ぎなかった。

 その後の野茂の活躍は言うまでもない。通算100勝を達成したことはもとより、新人王、2度の奪三振王、そしてアメリカンリーグとナショナルリーグ両リーグを跨いで2度のノーヒッター達成。

 メッツからの解雇通告。右ヒジにメスも入れた。所属チームは数えて6度変わっている。野茂の道は成功の道だけではなく、失意と歓喜を渡り歩きながら、それでも野茂の歩いてきた道程には今ではアスファルトが敷き詰められ、その道を後人が必死に追いかけてきている。

 道なき道を切り開き、まるで獣道を突っ切るように野茂は歩みを進めてきたように思う。私は野茂を偉大なアスリートして尊敬し、そして誇りにも思う。だが、野茂は自らを決して誇ろうとしない。

 野茂は95年に海を渡った時から、「日本」の看板を背負う存在になった。それは幸か不幸か、嘲笑を含んでいたマスコミの目を期待に転換するきっかけにはなったと思う。それだけに、野茂は1年目から結果を残すこと、それも生半可な結果ではなく、全てを黙らせるだけの結果を求められていたことも事実だった。

 野茂の活躍は、日本のお茶の間にメジャーリーグを急速に近付けることにもなった。日本中の視線が野茂に集まる中で、13勝6敗という成績を残し新人王獲得。

 いや、日本だけではなく、メジャーの視線も野茂に集まっていた。アメリカで巻き起こったNOMOフィーバーは、前年から続いていたストライキの影響で客足が鈍っていたボールパークに、再び観客を引き戻した。

 この年ドジャースは地区優勝を果たしプレーオフに進出。そこでシンシナティ・レッズに3連敗を喫し、ワールドチャンピオンへの道は閉ざされたが、レッズの主砲ロン・ガントは、試合終了後の記者会見で野茂のもとに歩み、「メジャーは君に救われた。ありがとう」と声をかけたと伝えられている。

 その後も野茂は淡々と投げ続けた。紆余曲折あった中で再び95年と同じドジャーブルーのユニフォームを纏い、偉大なる100の勝ち星を積み上げてきた。

 野茂の切り開いてきた獣道を、後人は胸を張って歩んできた。新人王を獲得した野茂への視線も、34歳になった野茂に対する視線も、野茂の後を追ってきた選手達のそれは何も変わっていない。そこに野茂の開拓者としての偉大さがある。

 それはつまり、日本野球において、野茂の獣道を追う選手はこれからも多く出てくるだろうが、獣道を切り開くことは開拓者たる野茂以外は不可能なことであるということを示していると言っていい。

 「まだ終わりじゃない」

 野茂が野茂であるということは、開拓者という困難な立場を意識することもなく、これからも淡々とゲームに臨み、淡々と実績を積み上げていくことにあるような気がする。

 野茂は自らの実績を語らない。ノーヒッターを達成したその試合後ですら、「なぜこんなに騒ぐんかなあという感じですね。なんでしょう? まぁみんなが喜んでくれているから、これでよかったんでしょうね」と語っている。

 ただし、野茂は自らの成績の重さは知っている。もし野茂が1年目に日本マスコミが“期待した”ような成績を残していたら、恐らく日本からメジャーに移籍する選手はこれほど多くはならなかった。野茂の肩には、日本野球全体のレベルという重荷がかかっていたことは間違いない。

 野茂は試合前日にこれから投げるであろう1球1球を丹念ににシミュレートし、試合後には自分の右腕から放たれた1球1球をつぶさに検証してから眠りにつくという。野茂が1枚ずつ丁寧に積み重ねてきた解答は、あくまでも“結果としての”、或いは“通過点としての”100勝に過ぎないのかもしれない。

 野茂は、100勝の記念となったウィニングボールすら手にしていない。野茂は、自らの解答を誇ることはしない。それを「開拓者の誇り」と見るのは、恐らく野茂にしてみればお門違いなのかもしれない。

 それでも私は、野茂英雄という偉大なアスリートを、誇りに感じずにはいられない。野茂を知ろうとすれば知るほど、「開拓者であること」を考えれば考えるほど、野茂の偉大さを感じずにはいられない。

 翌週、野茂は何事もなかったかのようにメジャー通算101個目の白星を手にした。


Vol.134 カットボール大流行
2003年04月15日(火)

 今の球界、特にプロ野球で一大ムーブメントとなっている変化球、それがカットボールだ。中継を見ていれば、1試合で投げない投手が出てくる方が珍しいほどの感じを受けるカットボール。この球種がこれだけ流行している裏には、一体どのような背景があるのだろう。

 まずは昨シーズンのデータから、カットボールを武器にしていた投手を、球団別に挙げてみよう(データは主に「プロ野球選手録2003Stats」データスタジアム&田端到著による)。

巨人……上原浩治、工藤公康、高橋尚成

ヤクルト……ケビン・ホッジス、石川雅規

中日……川上憲伸、マーク・バルデス、エディ・ギャラード

阪神……藪恵壹、谷中真二、福原忍

広島……河野昌人、アラン・ニューマン

横浜……三浦大輔、若田部健一

西武……松坂大輔、森慎二、青木勇人

大阪近鉄……三沢興一

福岡ダイエー……杉内俊哉、田之上慶三郎、吉武真太郎

千葉ロッテ……清水直行、加藤康介、ネイサン・ミンチー、小野晋吾

日本ハム……金村暁、正田樹、カルロス・ミラバル

オリックス……金田政彦

 おわかり頂けるだろうか。ほとんどが各チームの主力投手であり、川上や清水のように、この球種をモノにした途端に成績を急上昇させている投手も結構いるのである。

 そもそもカットボールとはどんな球種なのだろうか。一言で言うなら、「ちょっとだけ曲がるストレート」という概念でいいだろう。

 ストレートと同じ軌道・ほぼ同じ球速で打者に向かい、打者が打ちにきたその瞬間僅かにスライドする球種であり、主にバットの芯を外して打たせる球種と言っていい。

 今までこのカットボールが日本で脚光を浴びることはあまりなく、ブームはメジャーリーグの影響である部分が大きいと思うが、以前にもこのカットボール、すなわち「曲がる速球」は日本にも存在した。元阪神の中込伸や現阪神の谷中が投げている「まっスラ」という球種がそれで、中込から背番号1を受け継いだ谷中も「まっスラ」を武器にしているというのは面白い偶然だ。

 ストレートと思って打ちにきた打者の芯を外す。ギリギリまでストレートと同じ顔をして、打者が「もらった!」とバットを振り出した瞬間まで自分の正体が変化球であるということを見せない。インパクトの瞬間に嘲笑うかのように芯を外れ、力無い打球が転がっていく。言葉は悪いがまるで詐欺師のような球種である。

 しかし、よくよく考えてみればこのカットボールという球種、これまでの変化球の概念を180度裏返すという離れ業を演じた、非常に面白い球種と言っていい。

 これまで変化球に求められていた要素、それは「曲がりの大きさ・鋭さ」と「緩急」である。バットを合わせることもできない変化と、ストレートとの球速差で打者のタイミングを外す技術。これがこれまでの変化球の存在意義だった。

 カットボールは、大して曲がりもしないし、球速もストレートとほとんど変わらない。これまでの概念で考えれば、まったくもってダメな変化球なのだが、事実カットボールで勝ち星の山を積み上げた投手が存在する。

 大して曲がらず、球速も変わらない。この2つのマイナス面が組み合わされることで、カットボールは現代野球を席巻する魔球と化した。

 この球種は、打者の目線に近いところで変化すれば、それだけ打ちにくいボールになる。右投手の投げるカットボールが左打者に、左投手の投げるカットボールが右打者にとって厄介なのは、「目線に近いところで、より目線に近い方へ僅かに変化する」という一点に尽きる。

 相対的に不利とされている利き腕と逆の打席に立つ打者、それを封じられる球種をマスターしたならば、成績が伸びるのはある意味でわかりきった結論ではある。

 単純に言えば、ストレートとカットボールをコーナーに投げ続けるだけで、打者にとっては厄介極まりない二択攻撃になる。川上の場合、それに加えて逆方向に速く曲がるシュートをマスターしたことが躍進の原動力になった。カットボールは、投手にとっても打者にとっても選択肢を爆発的に広める球種なのだろう。

 ストレートの握りを少しスライダー寄りにずらし、リリースはほぼストレートと同じで瞬間的に人差し指で切る。はっきり言えば、結構簡単に投げられる球種ではあるが、スウィートスポットの広い金属バットを使う野球では、少々芯を外されただけでも打球は飛んでいくので、危険な球種だ。

 また、僅かに曲がるという特性上、真ん中近辺にアバウトに投げ込んでも効果は薄い。コーナーをついてこそのカットボールということで、緩急や曲がりという騙しが無い分、コントロールは相当のレベルが要求される球種だ。ギリギリ手を出してくれそうなコースに投げないことには、その効果を発揮することができない。

 ツーシームと呼ばれるシュート系のボールも、平たく言えば芯を外すボールである。メジャーのスタンダードボールだった2つのムービングボールが今、日本でも驚異的な旋風を起こしつつあることは間違いない。

 ただ、個人的な考えを言わせてもらうならば、私はこのムービングボールの氾濫にはあまりいい想いを抱いていない。うまく使うピッチャーは確かにうまく使っているが、猫も杓子もカットボールという投球を見ると、安直と言うか、小手先というイメージを持ってしまう。

 カットボールもツーシームも、あまりにもコンビニエンス化している気がするのだ。有効な球種であることは間違いないのだが、果たしてムービングボールをピッチングレベルの物差しとして考えていい投手がどれだけいるか、これだけ氾濫すると少々考えてしまう。

 カットボールの本場アメリカでも、実際に学生や子供にまず教えられる変化球はカーブとチェンジアップだと言われている。カーブは特にそうだが、若いうちから正しく柔らかい肘や手首の使い方をしっかり身に付けないと、キレのある大きなカーブは投げられない。

 今の野球少年がカットボールに味をしめれば、これまでこの国の野球が培ってきた投球技術が失われる恐れがある。カットボールを「便利な球種」だと思ってしまえば、投手全体のレベルは落ちていくことになるだろうと思う。

 カットボールは、野球全体を揺さぶる魔球なのか、それとも安易な発想を蔓延させる破壊の使者なのか。

 少なくとも、高校野球レベルでカットボールが積極的に指導されるようなことになると、この国の野球の未来は危ないような気がする。


Vol.133 危機の正体はどこにあるか
2003年04月04日(金)

 プロ野球の開幕日にサッカーの日本代表戦がブッキングしたことは、NPBにとっては頭の痛い問題だったかもしれない。イラク情勢の影響でサッカー日本代表のアメリカ遠征が中止され、その穴埋めという形で、急遽3月28日に国立競技場でウルグアイ代表との親善試合が行われた。

 当日のテレビ視聴率は、テレビ朝日系で放送されたサッカーが13.6%、日本テレビ系で放送された巨人×中日の開幕戦が18時台16.1%、19時以降が16.2%。

 数字だけ見れば野球の辛勝というところだが、昨年同局で放送された巨人×阪神の視聴率が18時台28.2%、19時以降26.4%だったことを考えれば、少なくともお茶の間からの野球離れは現実的なレベルとして数字に表れた格好だ。

 ほぼ席が埋まっていた国立競技場に対して、パ・リーグの開催球場や国立競技場の隣の神宮球場では空席の数が目立ち、形としては煽りを受けているように感じる。

 親善試合とは言え、代表戦をウィークデイの金曜日に持ってきたのは、サッカー協会の狙いなのかそれとも偶然なのか。流石にそれはわからないが、MLB日本進出という以外にも、サッカーという黒船がNPBにとって大きな影響を与えているという事実は浮き彫りになった。

 しかし、これはある意味で当然のことと言えるのではないだろうか。

 別に、サッカーの方が野球よりも面白いから、素晴らしいからという単純な二元論ではない。ただ、試合単位の“重さ”を考えたら、中田、小野、高原、稲本、中村というヨーロッパ組が一同に会するサッカーの方が、少なくとも140試合も行われるプロ野球よりは1試合あたりの“単価”は高いというように思われても不思議ではない。

 平たく言えば、明日からずっと野球はやっているんだから、今日はサッカーを見ようということである。開幕シリーズだって3試合もある。別に開幕戦ぐらい見なくても……ということだろう。

 開幕から早くも、この視聴率を肴にプロ野球の人気凋落という言葉がマスコミから飛び交っている。確かにそれはあながち間違いとも言い切れないが、事実の一断面に過ぎない。ましてやそれが全てでは決してない。

 こういう話題が出る時、「プロ野球」という括りで表現されるのは、大抵の場合で巨人戦という枠内だけの話だ。巨人戦の視聴率がますます落ちた。松井秀喜というスーパースターがいなくなってオープン戦のチケットが完売しなかった。だからプロ野球は人気が落ちた、もうダメだという、極めて狭い範囲で話題が飛躍している。

 よくよく考えてほしい。開幕戦は巨人戦1試合だけではない。同日同時刻に他の5試合が同時に行われている。それらの観戦者はどういう扱いになるのだろうか。巨人戦以外はテレビ中継がなかった時代と違い、今はケーブルテレビやCS放送で様々な試合が見られるようになった。巨人戦以外の試合をテレビ観戦していた人は、どういう扱いになるのだろう。

 巨人戦の視聴率が落ちたということは、ファンが選択肢を持てるようになったということである。それはスポーツを楽しむ上で「正常な環境」であると思う。正常になりつつある今、その正常が「異常だ」「危機だ」と煽られる現状の方が、よっぽどこの国のスポーツ環境にとっては危機である。

 そういう論調が出るということは、「プロ野球は巨人が中心で巨人が人気を一人占めするもの、巨人大鵬卵焼きだ」と思っている人間が、いまだにはびこっているからだろう。

 かと言って、巨人が衰退すればプロ野球が活気付くかと言うと、この国のこれまでの野球環境を考えればそれも疑問符がつく。巨人が今あまりにも急激に衰退して求心力を失えば、立て直す以前に土台から根腐れを起こしかねない。松井1人がいなくなっただけでもこれだけの影響が出ている。

 1つだけ言えることは、今回の視聴率の衰退がプロ野球人気の衰退を示しているとは断言しかねるものの、巨人という特殊な球団から求心力と神通力が弱まっているということは間違いないということである。数々の弊害を生み出してきた特殊性――機構に所属している1つの球団であるにも関わらず、巨人だけが常に「常勝」「優勝」を義務付けられているという不公平感――が弱くなりつつあるのは、歓迎すべきことと言えることかもしれない。

 ただ、巨人を批判するにしても巨人を応援するにしても、いい加減に巨人を常に基準にして考える風潮は改めるべきであると、私は思う。

 パ・リーグの中にはセ・リーグでは決してお目にかかれないような独創的なファンサービスを行っている球団もあるし、自助努力に懸命な球団だってあるに違いない。ヤフーBBスタジアムに設置されたフィールドシート(一、三塁ベース後方部分のスタンドをグラウンド側に大きく突き出させた場所に作られた席)は、目線がグラウンドレベルに限りなく近い為、新たな野球観戦の面白さを引き出してくれるかもしれない。

 福岡ドームは毎試合スタンドを博多っ子が埋め尽くす。ここに至るまでの企業努力を、どれだけのマスコミが伝えてきたか。

 千葉ロッテの熱狂的応援団が、毎日スポーツ人賞文化賞に選ばれた。試合終了後に観客席のゴミを片付け、好プレーを演じた他球団の選手にも拍手を送り、鳴り物一本槍だったプロ野球の応援スタイルに声援主体のスタイルを持ち込んで一石を投じたなどの理由で選ばれたことを、どれだけの報道が伝えてきたか。

 はっきり言えば、野球民度の問題である。この国に根付いているのは、果たして本当に野球そのものなのか。それとも、巨人ファン×アンチ巨人ファンという、特定球団を軸にした不毛な二項対立図式に過ぎなかったのか。

 「アンチ巨人ファンは実は巨人のことしか見ていないから巨人ファン」「アンチ巨人こそ野球の健全化を願っている」などという議論は、率直に言って甚だ不毛である。何も生み出さない。だから、視聴率云々で危機だ衰退だと嘆くのも、また不毛であるのだ。

 器に問題があるのは百も承知だし、そのことは散々ここで触れてきた。だが、器にばかり文句を言っていても、その中で懸命に力を発揮している選手に目を向けないのは失礼に過ぎる。

 今と昔では試合の色合いが違う。確かに物足りなくなった部分はある。だが、それでも試合を見れば面白いし、魅力的な選手は日本各地にゴロゴロしている。松井がいない、イチローがいない、佐々木がいない。いなくなった選手を嘆くなら、新たに魅力的な選手を探した方がいい。

 自ら楽しもうとする姿勢は、スポーツを見る上で大事だと思う。今の野球が「つまらない」と思うのなら、見なければいい。ただ、最低限「何がどう面白いのか」を自分なりに考え、肯定し、それに沿って楽しもうとする姿勢は、ファンにとっても選手にとってもプラスである。これは間違いない。

 最近思うのは、「危機」という言葉が一人歩きしているということだ。今の状況は、危機と言うより正常に近くなりつつあるように思う。問題なのは、これまで異常な世界であぐらをかいてきた野球界が、その正常になりつつある状況を受け止めて適応できるかということだ。

 私は、背広組の話ばかりしていても、それはそれで仕方ないと考えるようになってきた。確かに野球界の背広組には山ほど文句がある。だが、そんな不毛な文句を言ってムカムカする暇があるのなら、1試合でも多くの試合を見る為に球場に足を運ぶ方がよっぽどいいと思う。

 試合を見れば、選手を見れば、野球っていいなぁと思える。野球って面白いなぁと腹の底から思える。野球を見ていれば、野球の面白さはよくわかる。これはどのスポーツにも共通していることだろう。

 暴言かもわからないが、ここで断言しておく。試合を見なければ、球場に行かなければ、今を否定する資格はない。

 試合を見よう。危機だと言うならば、球場に行って、野球を見よう。

 「野球の危機」という無責任なフレーズを目にする度に、「木を見て森を見ず」という言葉が頭に浮かぶのだ。



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