堀井On-Line



若者よ、外に出よ! ー 〜学生生活は人生の砂場遊び

2016年04月30日(土)

     * 学生時代は、人生の砂場遊び〜  
 古希を過ぎて一年、人生をある程度達観視出来るようになってきた。
両親、家族、そして時代背景からして非常に恵まれていた。特に、20、
30歳代が高度成長期の真只中、時代の波間を順調に泳ぐことが出来ていた。
 50歳代後半から65歳までは、9・11テロ、中越地震、刈羽沖地震、
リーマンショックの直撃を受け、止めが3・11東北大地震となり、事業閉鎖に
至ったが、何とか、最悪の事態はさけることが出来た。で、「人生のどの辺り
が一番良かったか?」と問われると、「20〜45歳までは、どこもかしこも、
良かった」としか言いようがない。それでも、敢えて言えば学生時代、それも
3年、4年の2年間である。学生時代は、社会的ステータスなどを一切問わず、
様々な人との出会いが出来た。そこで、一番に恵まれていたのが暇である。
≪ ー暇な大学生活のすすめー   『人生の教科書』 なかにし礼著
 4年制大学への進学を強くすすめたい。・・ 出てすぐ、さあ給料だ、
保険だ、家賃だ、働け、といった生活になることを4年間遅らせられるという
ことは、素晴らしいことだ。大学での4年間、この期間は純粋に友達と付き合い、
笑い、遊び、そして家に帰ったら本を読み、という、当然学生がそうあるべき
生活を送ることがとにかく大事だと思う。特に、本を読むこと。それが学生の
本分なのだから。試験問題に取り組み、解答を見て悩んだりする。その行為自体
は生活とは全然関係がない。しかしそういう生活と無縁なことをすることに
よって、実生活には必要ではないけれど、人間にとって大事な何かが養われて、
培われていく。そして大学生活が終わると突然「生きるために必要なのは」
という生活になるわけだが、そうなったときに忘れなくても済む何かを、
4年間もあれば学べるはずだ。だから大学へは行ったほうがいい。
これはもう、心からそう思う。 ≫
▼ 学生時代はモラトリアムという。この意味とは「執行猶予期間」で、
 これを人生にあてはまるのならば、「実際には成熟した身体を持っている
のに、社会にはまだでず、社会に出るまでの猶予期間」になる。
大学生活とは社会に出るための準備の場で、社会人への執行猶予期間になる。
そこで、自分を見つめ、自分の人生の目的を見つけるため、様々な読書、
各地の様々な人との付合いをし、鳥瞰、虫瞰、モグラ瞰を知り、その後の
人生を充実させることだ。人生でやりたいこと、方向を、主体的に探し、努力
することが重要だ。そう人生は、公園の砂場遊び、箱庭遊びのようなもの。
 読返してみて、文章化しておいた価値・意義を、つくづく実感する。
―――
2001/12/20
青雲寮(わが青春)

私が学生時代過ごした寮ー青雲寮のことを書いてみよう 。
場所は飯田橋から都電で新宿への中間 、新宿の牛込柳町にあり
早稲田南町のバス停にも近い住宅地であった。
また、歩いて15分ほどで、四谷や、早大、神楽坂などに行けた。

早稲田大学の理事の自宅の庭にあり牛小屋のような造りで、
古くきたないL字型の24〜5室の寮であった。
早稲田の学生が3分の1,あとは各大学の在学生で占められていた。
そこからは代議士(渡部恒三)や県会議員が数人ずつ出ており、
汚い棲家でもけっこう皆プライドはもっていた。

全国からの出身者のため個性的な人間の集まりであった。
今でも年数回、そこに今でも住んでいる夢を見る。
月に数回は10人位集まり酒を買ってきて飲んでいた。
誰か必ず部屋に遊びに来ている状態で、あまり勉強に良い環境とは
言えないが人間勉強という意味で非常に良かった。

自民党の総裁の鳩山一郎系のいきがかかっていた。
思いもよらない先輩がいて、よく赤坂とかあの頃の学生では行けない所に
飲みにつれてもらったりした。音羽の鳩山御殿も数回行った憶えがある。
その関係で軽井沢の友愛山荘に長期の休みにアルバイトに行ったりしていた。
そこで学生時代の大きい財産になった欧州旅行のきっかけもできた。

その寮は一緒に生活をしている事もあってか、とにかく癖が強い人間が多かった。
私生活がお互い丸見え、どうしてもアラが見えてしまう、と同時にサル山と同じ
勢力争いがあって結構それが面白かった。ホモあり、女狂い有り、哲学専攻で
いつも一人ニヤニヤぶつぶつ言っている先輩あり。真面目のいやみな先輩あり、
学生運動の闘士有り、今考えてみてもかなりおもしろい寮であった。

学生時代はこの寮と武澤ゼミと欧州旅行とクラブを除いては考えられないが、
いい経験をした寮であった。私の大学の友人の間でも、この寮の存在―
特に汚い馬小屋風の寮で珍しがられていた。 父がこの寮に卒業の八ヵ月
前にきて、翌月から仕送りを二倍に上げてくれた事で、いかに凄いか
想像出来るのでは。               2001/05/24

――――
2010年09月02日(木)
* 初めての21歳の欧州旅行 ー3
 初回の欧州旅行で、帰国して半年間は自失呆然状態であった。 
自分の心が粉々に粉砕されてしまったようだ。カルチャーショックである。
今から思うと、これが良かった。両親から受け継がれていた小さな世界の
価値観が根こそぎ壊れたのである。それと「自分は東洋の小さな島国・日本の
黄色人種」という目線を得たことである。これをキッカケとして、根こそぎ
自分を変えなければ学生時代の4年の自由時間を与えられた価値がないと気づく。 
それと社会、世界は、不平等で格差であること。世界には豊かな人種と国家が
あり、反対に貧しい人種と国家が満ちている。その中で生きていく自分を作る
基礎を学生時代に培わなければと、気づいたのである。とにかく世界は広く、
深い一端をみた。 話は戻るが、ロマンチック街道から見た、川添に展開する
お城と、景色。それと、早朝にスイスに霧の中から見えたレマン湖とスイスの
渓谷の美しさに言葉を失ったことを思い出す。 毎日にように、これまで、
想像すらできない光景を、これでもか、これでもかと見せられるのだから・・ 
当時、中高年の人で、あまりのカルチャーショックで精神の異常をきたす人が
多いと聞いた。現在のように、写真に、テレビの旅番組に、ニュースに、
映画の背景として過剰に入ってくる時代ではない。私のように、中高校の白黒
の小さな写真でしか見たことがないものを、次から次へと見れば、感動の蓄積で、
脳が変になって当然である。 幕末の獅子たちで、当時、欧米渡航経験があるか
ないかで、動乱の中で大きく、その後を左右したというが、当時の彼らは欧米
の社会を驚愕の目で見てきて近代国家の絵図を描いたのである。
時代も、スケールも、全く違うが、それでも21歳での経験として、
大きな財産になっている。

――――
2002/12/05
ある時間の断片-15
  1968年10月5日  土曜日
昨夜飲み過ぎせいか頭が痛い。
10時に深井に電話をするが、アユに用とかでお流れ。
集団デートお流れ。小作の方にしておけばよかった。
その後、酒井君が部屋にきて疎外論から人間関係論について
話し合う。かなり哲学づいているようだ。

深井が寮の部屋にくる。車を持っていると行動範囲が広い。
新橋の深井の自宅に行く。親父に紹介される。
40店舗を持っている新橋しのだ寿司の社長だ。
私に興味があるみたいであった。

食事をした後、彼と東名高速で横浜・板付へドライブをする。
あまり面白くなかった。
帰寮後、ボクシングの世界戦をみる。
小林が一方的に勝つ、つまらない試合であった。
その後食事に行く。
TVを見ていると市川さんが飲みに誘いにくる。
寮の近くの「三浦」という行きつけのスナックへ行く。
帰寮の後夜半の2時に寝る。
明日からは本格的に卒論に集中しなくては。

・・・・・・
2002年11月08日(金)
574, つれづれに-学生時代のこと

学生時代の最後の半年間の日記を「ある時間の断片」
という題で書き写している。そのときは34年の時空を飛び越えて
青春真っ只中の自分に立ち返っている。
記憶もそのときのことが走馬灯のように立ち返ってくる。

変わらない自分と全く変わってしまった自分がそこに見える。
今時に悠長なことを思い出しているものだとも考えてもしまう。

学生時代は、
・そこで住んでいた青雲寮の生活
・武澤ゼミと卒論
・欧州の一ヶ月の旅行
・影響を受けた大学の先生と授業
・クラブの先輩同僚などの思い出
・軽井沢の友愛山荘のアルバイトの思い出
・合コンや合宿などなど

結構多くの構成が重なっている。
この4年間が人生の圧縮であった。
物理的には馬小屋のような部屋に住んでいたが、出来事は数え切れない
ほどのことがあった。

脱皮脱皮の連続線上にあった。20代30代は誰でもそうだが
私の場合創業を目指していたこともあり、刺激の強い20年間であった。

武澤ゼミ、欧州旅行、青雲寮、軽井沢友愛山荘、個性的な教授と
結構恵まれていたのは時代の背景もあったようだ。
高度成長期で日本がアップスケールの真只中だった。

毎日日記の中で色々な友人と語っている内容は、これからどういう
生き方をしようかという内容と、批判である。未来が光り輝いていた。
・自分は留学しようと思う。
・いや大手の会社に勤めようと思う。
・大学に残ろうと思う。
・自分で事業を起こしてやろう。

そういえば結婚をしようという人は誰もいなかった。
如何しようか?という人は多かったが。
自分が何か使命を持って社会に期待されているようであった。
何かやっと自分の出番が回ってきたようでもあった

・・・・・・
002年11月09日(土)
575, つれづれに学生時代のこと  ー2

現在、学生時代の日記を書き写していることは意味のあることだ。
ユングは「人生に午前の人生と午後の人生がある」といっている。
その価値観はまるで違う物差しになる。

今の私は午後の人生の学生期にある。
それで敢えて「学生時代の日記を書くことで、これからの
午後の人生の設計の基礎を考えようとしている」事になる。

若い時には仕事や家庭創りや物質など外に見出そうとした。
午後はその時に見出されなかった事や、人生全体の何かを
自分の中に見出していく時期だ。

そのことは「夜と霧」を書いた心理学者のフランクルもいっている。
「コペルニクス的視点の大逆転人生に何を求めるのでなく、
人生が何を求めているかの追求」である。

人生の意味の完成というと難しいのかもしれない。午後の人生を
余白でなく、新しいページの書き込みの過程として捉えると解る。

その意味で学生時代を省みるのは理のある行為である。可能な限り
行動し、知り、新しいものを開拓していく設計図の再構築が必要
ということ。

その下敷きとして学生時代の日記を見てみると違う視点が生まれる。
別に難しい事をいっていない。両親がそれをしっかりやって死んで
いったモデルがある。

・・・・・・
2002/10/27
ある時間の断片ー7 
        1968年   9月21日
9時起床。11時に図書館に行く。
13時にコモンルームでゼミのフルメンバー16名が集合する。
そして八王子のセミナーハウスへ。
近年できたセミナー専用のコテージ付のセミナーハウスだ。

思っていたより敷地が広く建物が近代的なのに驚く。
メインの建物が逆三角形で、異様な感じだ。
宿泊は二人で一部屋のツウィンだ。
それぞれのコテージが違うデザインで何か異界に入ったようだ。
空には飛行機が飛び交いまるで欧州にいるようだ。

夜から早速議論をはじめる。
課題は「遊び」だ。
「見返りのない、何の目的のない遊びこそが遊びだ」
「創造の為に、その背景としてそれは必要でないか」
私の言ったのは「4つの1つとしての位置付けの遊び
ー「愛、創造、知性、そして遊び」であった。
何かポイントが外れているようだった。

終了後、レストランで石川とゼミの一年後輩の大島君と飲んでいると、
武澤先生がこられる。
その後夜半の12時半に寝る。
―――
ー感想ー
日記を書き写していて、当時の日々がありありと思い出されてきた。
背景にベトナム戦争、大学紛争、そして高度成長期の真っ最中
でもあった。歌ももう二度とこういう時期は来ないというほど名曲が
生まれていた。

その背景を持って誰もが緊張と希望に揺れていた。
夏休みは卒論の流通革命論を書く為に一ヶ月、大阪のメリヤス問屋
に行ってきた。その後新潟県の六日町の「雲頓庵」という
禅寺に一ヶ月にも行っていた。そして自宅に帰った後の日記である。

学生時代の十数年間の総括の時期であり、
また新しい世界への旅たちの直前であった。
この卒業の直前一年は人生で一番良かったときかも知れない。
いろいろの人との邂逅と喧嘩と別れの時期でも合った。

寝ずに人生について話し合ったのが記録として日記に残っていた。
そういう意味で大学時代に恵まれていた、当時はその事に気が付いて
なかった。寮にゼミに教授クラブに友人に恵まれていた。
赤面する場面は当然カットして写している。

大学で学んだ事は、本を読む事、他人の話を聞きとること、議論を
する事、自分の壁を取り去る事、何事も勇敢にチャレンジする事、
戦略的思考をする事など数えればきりがない。
人生で一番良かった時期といえば、やはり大学生活であった。
馬小屋のような汚い寮であったが、いや長屋であった。
ー友人の間でもこの寮が凄いと話題になっていたー

父が5月に来て、翌月から仕送りを2倍にしてくれた、
あまりの凄さに同情したのだ。でも楽しい生活であった。
友人が吹き付けるようによって来た。
一人になれないのが悩みでもあった。あの孤独の都会生活で最後に
は友人が吹き付けるように集まったのは本当に良い青春の財産だ。

――――
1月14日  1969年

11時過ぎに起床。
食後、卒論の最後の仕上げだ。
16時に酒井君がくる。
佐藤の友人で早稲田の男で何か気が合う。
酒を買ってきて、佐藤と三人で飲む。
酒井君に「私は防御が強すぎる。そして直に針を出して、人から自分を
守ろうとする。如何でもよいことまでも突き詰めてしまうと。
自分をあまりに大事にしすぎだと。
もっと自分を下から見るべきである。

・「観念構成のために最もよい燃料は経験である。
 直接的な経験は一番上等な燃料になる。こういう経験はいつまでも
 身についてくるし、必要な時にはドンドンでてくる」

・「賢人の最も美しいあり方は、きわめて控えめな言葉を使って、
 きわめて強烈なことを言うことにある」

・「自分自身の考えを信じること、人知れず深く考え、自分にとって真理で
 あることは全ての人にとって
――――
1月15日  1969年

 今日は学生時代最後の誕生日だ。
毎年この日にNHK「青年の主張」を必ず見ることにしている。
このよう見るのは最後だろう。

 内容と評価を、メモをしながらみた。
・北海道代表の武田(女)さんの主張 
 あまりハッキリした意志が感じられないー65点
・東北代表の清水さん
 働きながら夜間にいっている。自分をしっかり把握して真正面から
 自分を見つめられる人間になりたい −70点
・四国代表の中西さん(女)ー実習教官
 自分を温かく包んでくれる深い何かに感謝−80点
・東海代表の須田さん(女)
 女である自分の農業の立場 75点
・東京代表の守屋さん
 青春の喜びー無限と思われる未来の夢に対する生き方
  若さの代名詞は可能性  75点
・沖縄代表の宮城さん(女)
 沖縄県民の心情ー85点
・近畿 林さん 精薄施設の女指導員
 園児の美しい心の素晴らしさについてー75点
・関東代表の関谷さん
 自分1人で生きていく心構え 70点
・九州 河嶋(女)
 生活の為働かなくてはならない姉妹について
 老人対策など       90点
・中国代表の吉原さん
 非行少年の観察員の主張
 心が病んでいる少年達ー80点

 以上が私のつけた評価の点数である。
現実にドップリ使っているのだから、仕方がないがもっと
広い視野で自分を見下ろす目が必要ではないか。
可能性の追求をもっと見つめることが大事ではなかろうか。

 この目で自分を見つめ直すと、どうであろうか。
流通で生きると決めたのだ。そこで何を可能性として求めるべきだろうか。
そこで自分の基盤を深いものにしなくてはなるまい。
そこで自己建設をしていくことになる。
 
 ここで忘れてはならないのは、他人もそれをおこなっているということだ。
何故、そんなことをしなくてはならないか?
人間として生まれ、最後は死ぬ中で自分の生きた証を残す為である。
それが義務といってよいからだ。
その立場によって、それぞれが違って当然である。
私は今、そのスタートラインに立っている。
誕生日に毎年この番組を見るのが私にとってベストになった。

・・・・・・
2004/01/14

1月16日  1969年

9時起床。
10時前に大学にいって卒論提出。
万歳!これで頭を痛めていた難問をクリアーする。
内容は満足のいく半分のできであった。
あれだけ努力をして、内容はこのレベルでしかない。
基礎ができてなかったのだろう。
あちこちの文章を切り抜いて、自分の言葉に言い換えただけでしかない。
そこに新しい視点を見つけることは不可能であった。
甘さといい加減さが、この内容が物語っている。
以前の自分はもっと自分に厳しかったはずなのにどういうことだろう。

そういえば今日試験があったのを知らなかった。
これをとらないと単位が取れないという。
欠席届を出して、後はどうなるか様子見である。
一つ大きな心配が増えた。
ゼミの河村と石川と外山と4人で研究室に行き、助手の横浜さんと話をする。

その後、寮に帰りTVをつけると、
東大の校舎で反代々木系全学連が安田講堂にたてこもって8千人の警察官と
攻防を繰りひろげていた。
まるで戦場である。講堂の屋上からは火炎瓶、空からはヘリコプターが
三機もいて催リュウガスを撒いている。驚くばかりである。
駒村の部屋に行く。彼とは大きな距離を感じる。
その後風呂に行く。
その後部屋に帰ってくると、先輩の永田さんくる。
先日、飲みに行ったばかりだが、また彼と飲みにいく。
先日よりズット落ち込んでいた。
あれだけ強気であった人が、何があったのか弱気なのだ。
もう秘書は辞めて田舎に帰るとか、鼻ー蓄膿症ーが悪くてどうにもならないとか。
午前一時過ぎに帰って、就寝。


5523,若者よ、外に出よ! ー② トルコ編

2016年04月29日(金)

             〜『人生の教科書』 なかにし礼著
 トルコは日本人にとって何か懐かしいような馴染深い感じがする。
東西の境目の地勢的位置がトルコという国を特徴付けている。それと、
極東アジアの小国が、敵国・ロシアのバルチック艦隊を撃破したことも、
彼らにとって大きな衝撃として今でも残っていて、異様な親近感がある。
  * トルコで自分の中の神秘を知る
≪ トルコのイスタンブールという街は紀元前からずっと途絶えることなく
 現在も生き続けている街だ。そんな街はイスタンブール以外にない。
パリなんて街として始まったのは12世紀からだ。ニューヨーク、ロンドン、
東京、みんなまだ新しい街と言っていい。 紀元前から栄えていまだに続く
大きな街はイスタンブールだけなのだ。ボスポラス海峡を挟んで2キロ先に
アジアがあり、手前がヨーロッパという風景の素晴らしさ、東洋と西洋の文化
が交差し、融合し、新たなものを生み出してきた街。人類の歴史が濃縮された
街が今もなお残って生きている。そこに飛び込んでいくことは計り知れない
刺激を与えてくれるはずだ。コンヤという街がある、「スーフィー」という
イスラムの愛の神秘主義者たちの街だ。高い帽子をかぶり、白いスカート状の
服を身につけてクルクルと無限に回って踊る。セマー(旋回舞踏)という
踊りだ。これが素晴らしい。彼らは踊ることによって自分の中の奥底にある
愛に達する。その恍惚によって踊っている人は皆笑っている。すべての
雑念を捨て去った美しい舞踏は、スーフィーという愛の哲学者たちによる
人類の神秘の領域を垣間見せてくれる。イスタンブールとコンヤを旅したら、
もう「夢がない」なんて言っていられない。 ≫
▼ 「今までの旅行で、何処が一番よかった?」と、ツアー仲間から、度々、
 聞かれることがある。しかし、その都度、答えに窮し、「3分の2は優劣を
つけがたい」と答えるが、「それでは3つ挙げて」と、決まったような質問。
そこで、その都度、相手をみて変えるが、文化的カルチャーショックの
大きいのは、「エジプト・トルコの旅」と、初回の「欧州30日間の旅」である。
イスラム圏のエゴ丸出しの文化も、想像の域を遥かに超えたもの。
世界は広く、深い。そして濃厚である。現在、欧州では「トルコに近づくな!」
が合言葉だそうだ。テロだが、今ではパリと、ベルギーが、次の要注意国。
こうして過去の文章を読んでみて、憑かれて行ったものと我ながら感心する。
行蔵として、残るから良い。「行きたいうち、行けるうち、元気なうち」だ。
若者だけでなく、壮年も同じ。 壮年のうちだったからこそ、行けたからだ。
老年は? 高めなら、いくらでもある。少々の勇気と、金と、元気があれば。
――
   ーH0805 エジプト・トルコ感激の旅  −トルコ編 ー
 トルコといえばキノコ岩等の奇岩の群れカッパドキアが有名である。
トルコ中央に位置しているアンカラの南東に広がる高原地帯にある。
中世にイスラム教徒の圧迫により逃れ逃れたキリスト教がたどりつき、奇岩を
くり抜き洞窟教会や住居をつくりあげた聖地。まさにSF映画やアニメ漫画に
出てくるような現実ばなれした奇景そのもの。“本当にここは地球上?”と
息をのんでしまうほど。
 その近くにあった地下都市・カイマルクも異教徒からの目から逃れる為の
秘密地下都市群。あちこちに蟻の巣穴のように縦横に掘られており、地下の
マンションと形容できた。一万人以上が何世紀にわたり隠れ住んでいたという、
信仰の深淵さをみた思いであった。そして、その帰りのバスの中より夕景の
“大きな 丸い真赤の月光”も生まれて始めてみる生涯忘れられない光景であった。
 イスタンブールの地下宮殿と呼ばれている地下水道の貯水池“イエレバタン
・サライ”も非常に印象的なものであった。十二列×八mの列柱が336本
整然と並んでおり、その一本の柱の下に神話に出てくる女神、メンドーサの
石首が土台になっているのが神秘的。バック・グランド・ミュージックに
ベートーヴェンの第九が厳かに流されていたが、その場の雰囲気にぴったり。
 トプカプ宮殿では、かのオスマントルコ帝国が、何世紀にわたって世界中
より集めた秘宝がところ狭しく展示してあった。リンゴ大の四十数カラットの
ダイヤモンドや純金の椅子には驚いた。宮殿もその絢爛たる宮廷生活をしのばせ、
四〇〇年間のスルタン(皇帝)の日々が目に浮かぶようだ。
 また、イスラム寺院のブルーモスクやアヤソフィアも、その荘厳な内部も
圧倒された。私自身、気功をやっている為か、右手がいたくなるほど、しびれ
たのには驚いた。 これだけの深い歴史の国に四日間だけで、ほんの一部しか
触れる事はできなかったが、この国の“光”の一部はしっかり見たつもりである。 
 最後に行った巨大市場、スークも面白かった。五千の貴金属、みやげ物を
売っているが、ほとんど偽物の金銀の貴金属商品という。そういう目でみると
逆に面白いものばかりであった。殺人的なスケジュールの十日間の旅であったが、
中味の濃い感動・感動そして感激の日々であった。(1996年.1月30日〜2月8日)

・・・・・・
5158,不幸不利の7つの法則 〜②
2015年04月29日(水)
 そこで、幸福優位の7つの法則の真逆の言葉を書いてみる
  〜不幸不利の7つの法則〜
法則1: 不幸感の強い人は、周囲に人に違和感と、悲哀感と、絶望感を与える
  2: 心のマイナスへのレバレッジ化が強くなり、ドブ沼にはまりこみ、
     その毒を周囲にマイナスを振りまく
  3: 何事にもマイナス要素に対し敏感になり、何事もマイナスに考え、
     粗探しを求めて彷徨う、あの人たち
  4: 下降の勢いを他人に向けて、結果として傷口の血を周囲に塗りつけ周る
  5: ゾロ・サークルの円が、日々、小さく、固くなり、自分の首を絞める
  6: 20秒ルールが、悪く働き、下降曲線が身につき、悪い習慣が増強される
  7: ソーシャルに毒を撒き続けることで、その毒が返り矢で降りかかる
 多くは、四苦八苦に打ちのめされ、「貧すれば鈍する」の負の連鎖で、恨みを
買う劣者のスパイラルに入っていく。「順境には枝を、逆境には根を張れ」の
とおり、ただ、ジッと下を向いていれば良いものを。傍からみれば、私の現状は、
まさに、上記の法則のように見えているのだろが、何とか『不幸不利の法則』の
スパイラルから逃れている。 子供の頃から現在に至るまで、様々な『不幸不利」
の事例を見てきたが、それはそれは残酷なもの。とにかく、不幸不利の状況に
立たないことだが。 備えを普段からつくり上げておくしかない。
とはいえ、全ての人には、死という挫折が待っている。死ぬまでは生きている
のだから、死を悟る瞬間までは、幸せに生きなくては! 
ところで、毎年、小、中、高、大学と同級会に出席しているが、上に進むにつれ、
不幸不利の人の割合が、少なくなる。 これだけは、仕方がないことだが。
 『泣いても、笑っても、同じ空!』である。
 〜参考〜 「幸福優位の7つの法則」
法則1 ハピネス・アドバンテージ〜幸福感は人間の脳と組織に競争優位をもたらす
法則2 心のレバレッジ化〜マインドセットを変えて仕事の成果を上げる
法則3 テトリス効果〜可能性を最大化するために脳を鍛える
法則4 再起力〜下降への勢いを利用して上昇に転じる
法則5 ゾロ・サークル〜小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる
法則6 20秒ルール〜変化へバリアを最小化して悪い習慣をよい習慣に変える
法則7 ソーシャルへの投資〜周囲からの支えを唯一最高の資産とする
・・・・・・
4793,「消費される物語」 ー3
2014年04月29日(火)
           朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
  * 自己完結せず外へまなざしを        作家・高村薫
 毎日、一文章を書き終える自己完結に精一杯で、内々に凝り固まっている
現状を批判するに、丁度良い内容のようだ。 それも、13年間にわたって、
束縛されてしまっている自分にである。 ーその辺りからー  
《 ■「我々の社会」という物語が揺らいでいるため、物語は過剰な作られ方
 をしているー人間の社会があるところには必ず物語が誕生します。原始時代
でも自分たちの集落とその外を分ける物語があったはず。日本で「古事記」や
「日本書紀」が編纂されたのも、律令国家が確立して自らの国史を欲したから。
つまり、物語は人間が生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、
私たちの王、家族、これらはすべて物語です。物語の特徴は、自分たちが見たい
もの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除
することができるところにある。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を
消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されている。ですから、今日
さまざまな物語が次々と作られているのはそれほど不思議なことではありません。
 ただここへきて、その物語の作られ方が年々過剰になっているのは
「私たちの社会」という物語が揺らいでいるからです。例えはグローバル世界
では、人やモノの自由な往来が国境をなくしてゆくだろうと予想されていたのに、
実際には世界のあちこちで「私たちの国」という物語が不安定になって、その
穴埋めのために過剰な物語が生まれています。ナショナリズムの台頭もその一つ。
社会不安が増したり、経済状況が悪化したりして、人ぴとが自信や幸福感を
失うとアイデンティティーも揺らぎます。それを補うために、ことさら物語を
増幅させているのが今の世界です。これまでと大きく方向性の異なる安倍政権が
誕生したのは、新しい物語を語ってくれそうだという朋待が有権者にあるからで、
それが高い支持率の正体かもしれません。
 日本では、戦後続いた経済的な繁栄という物語が崩れた後、社会をまとめる
物語がなかなかできません。1990年代以降は、心の余裕がなくなつて、物語が
より内向きになっています。人は誰でも、より心地よい物語の方に惹かれます。
社会にはかって、本筋を外れてはならない暗黙の了解というか、節操があった
と思います。明るい未来が見えているときには、外に向かって積極的に開いて
いくことができたのですが、それが出来なくなってしまった。》
▼ 13年間で、5千近い文章、物語を書き続けてきたが、これが私を、更に
 内向けにしていた。これで、都合の良いように物語化して、都合の悪いことを
排除していたのである。混沌とするほど、それが大きくなっていくのを、冷笑
して、改めて読み返すのも、また、都合の良い物語である。小さく、小さく、
自己完結をしていただけだったのである。その知識を加えて、これからの文章を
書いていくしか、現在の私には術がないが。自己完結するから、次に進むことが
出来るともいえる。そういえば、単調な自己完結した日々を繰り返している
現状を、改めて考えてみようか? 読者の一部には、これが見えていたのだろう。 
今さら、自分は自分でしかない!と、思わなくては、ボキッと折れる。
・・・・・・
4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9
2013年04月29日(月)
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
  * 日本人は実は会社が大嫌い
 これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると
信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは昔から会社が大嫌いでガマン
して働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 
バブル崩壊で景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っている
のが露呈してきた。 著者は、ここで、
《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、
 中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、日本人がアメリカ人の2倍
(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした
日本的システムから生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列の
終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。
  ーその辺りを抜粋してみるー
≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する
 日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、日本と米国のデータが
すべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」
を根底から覆す。カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、
日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の労働者それぞれ
4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った
違いを明らかにした。
* 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、
 満足との回答は米で34%、日本はその半分の17・8%。不満は米では
 わずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。
*「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは
 勧めますか」の質問には、米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、
 日本はわずか18・5%だけだ。逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、
 日本が27・6%だ。
*「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社の
 いま一度、この仕事につきますか」の質問では、「もう一度やりたい」
 との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。
 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の
 四割にものぼる。
*「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、
 合格点は米33・6%に対し日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたって
 は米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。もういちど
 繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果
 ではない。80年代は日本企業が世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"
 と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていたIBMや
 コダック、AT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。
 それにもかかわらず、アメリカの労働者のほうが日本のサラリーマンよりも
 はるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫
▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的
 裏づけがある。日本にあるのは、儒教と朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の
意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。
そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。
振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、国民の民度の問題でもある。
これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、
使う方はモット大変。 * これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 
日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。
・・・・・・
4052, 閑話小題 
2012年04月29日(日)
   * ゴールデンウィーク
 ゴールデンウィークといっても、現在の私には関係ないし、敢えて人混み
の中に外出をすることもない。一般社会では、まとまった休暇は、この時期
しかないのが世の習い。大多数が行楽地に出かけたりするのを見ると、似た
ように動きたくなるのが人情。 ところで、現在通っているスポーツジムが、
この期間にオール・オープンのサービスを打ち出してきた。年中休みの私に
とって有難いことである。例年、ゴールデン・ウィークは昼か夜、隔日ごとに
外食するのが慣い。今年も何の予定も無し、サンデー毎日と同じ感覚である。 
5月の連休をゴールデンウィークとは、良い命名である。
  * 見切り千両
 撤収の決断のキーワードは、「見切り千両」である。 以前より節目では
「見切り千両」をキーワードにしてきた。見切りこそ生物的本能が生かされる。
攻撃の判断と、撤退の判断、この二つが決断の要。 そのためには経験と知識
の蓄積が必要。攻撃の決断より、撤退の決断は遥かに難しい。 
遅かったきらいもあるが、この時しかなかったのも事実。
  * 秘境の写真集とドキュメント
 趣味に、秘境・異郷の写真集とTVドキュメントを楽しむことがある。
(最近、秘・異郷ツアーに行ってないので写真で我慢もあるが)最近は、
もっぱらiPadで写真集にアクセスして見ている。 やはり一度、訪れた
ところが主になる。 一度行ったところは、それぞれの目線により対象が
違って見え新たな発見があり、その延長の旅を続けているような気持ちになる。
その点でiPadは便利。常に身近において置けるのでチョッとした豆時間
(隙間時間)に、開き見ることが出来る。質も大事だが、量をこなすことも必要。
多いほど、より対象により近づいていける。 現地で全身で情報を吸収すれば、
その後、情報は磁石のように吸い寄せられてくる。今ではネットから簡単に入手
出来る。 世界は面白いことで満ち溢れている。 やはり行動しなければ、
そして知識を満たさなければ!


5522,若者よ、外に出よ! ー① ピラミッドという衝撃を体験しろ  

2016年04月28日(木)

             〜『人生の教科書』 なかにし礼著
 図書館で、青少年向けだが、なかにし礼の『人生の教科書』が、面白そうな
ので借りた。まず目についたのが、この<ピラミッドという衝撃を体験しろ>。
それぞれの秘・異郷旅行で魅せられるのは、想像を絶した衝撃を体験するため。
 その度に、大自然の神秘、世界の広さと深さ、人間の神秘、「超」能力など、
旅行のたびに衝撃を受ける。それが、自分の広がり、深さに繋がる感覚が
次の旅行を誘う。その上、ツアーの同行者は旅行情報の宝庫でもある。
エジプトには世界の遺跡の7割があると言われるが、危険をおかしてまで
行く価値は十分にある。世界は驚異に満ちている。何故に、ここまで旅行
したかが端的の書かれている。 正に、以下の感動があるからだ。 
   * ピラミッドという衝撃を体験しろ
≪ 海外に旅へ出る。まずどこを目指せばいいのか?
 迷うことなしにエジプトのピラミッドだ。時間が許すのならすぐにでも
行ったほうがいい。脳天をぶち破られるほどの衝撃を受けるはずだ。
 エジプトのピラミッドほど人知を超えた代物はない。ピラミッドを見て何も
感じないということはあり得ない。ピラミッドを見たあとにローマへ行ったら、
絢燗な建築物も、しょせんは人間業でしかないと感じる。
ギリシャのパルテノンも、円形劇場もどれもこれもが、理解の範疇のものに
思えてしまう。でもピラミッドだけは、人間の想像もつかない神品なのだ。
 ごく普通の会議室のような部屋が、大きな数枚の石によって作られている。
天井も床も一つの巨大な石。壁には斜めに切れ目のある石が組み合わされている
のだが、この石の隙間がカミソリも入らないくらいピタリと合わさっている。
それだけで、世界の広さ、人間の神秘、人間の持つ「超」能力を肌で感じること
ができる。
 エジプトやピラミッドについてあまり知らないのであれば、本を持っていけば
いい。勉強しながら目的地へ近づく。徐々に気持ちが盛り上がり、そして現地で
実物を目の当たりにして感激する。その興奮の醒めぬままにまた本を読んで確認
をする。ガイドブックではなく、歴史が記してある少し専門的なものを持って
いくといい。
 今、エジプトには簡単に行くことができる。もちろん治安状態など事前に
チェックしておくべきだけど、基本的にはツアーならばほぼ安全に行ける。
 ピラミッドを見て、ルクソールに行って、王家の谷に行く。その3箇所は絶対
見たほうがいい。ナポレオンがエジプトを見て、「俺たちはいったい何をやって
いたんだろう」と深刻に考えたそうだ。その気持ちは実際にエジプトに行って
みるとよくわかる。≫
▼ 当時の衝撃を文章に書き残してあるが、何れの遺跡の前でも、ただ呆然と
 立ち竦みしかなかった。石の文明は、数千年の世界を、そのまま、保存する。
もう20年も経ったが、感動した行蔵は、魂に刻まれ、そのまま残っている。
――
1996年2月
エジプト・トルコ感激の旅  
ーエジプト編ー 
 まさにタイム・スリップして数千年前の古代を旅している日々であった。
まず最初に訪ねたのが「カルナック神殿」であった。“まさしく驚愕!”
直径が二mの石の大列柱が百数十本並ぶ神殿。
これが三千数百年に本当に!周辺の王侯貴族を驚かす為に造られたというが、
今まさに自分が、目を丸くして驚いているのだ。
歴史が私という小さな存在を見下ろしているのだ。
 日本ではまだ縄文の時代、これを造りあげた高度の技術があったのだ。
そして壁に刻みこまれたレリーフ、古代文字、現地のまだ若い日本人女性ガイドの
熱心な説明も手伝って古代文明の世界にタイムスリップした気分になってしまった。
そらに天を指すオペリスクとラムセス鵺世などの王や神の像の数々。
今まで何度か海外旅行をしていながら、
何故ここにもっと早く来なかったのだろうか?と考えてしまったほどだ。
 
 次に行った「王家の谷」。ここは何代の王様の墓が、かくれるように数々
掘られている集団墓地だ。この中で英国の考古学者カーターの執念で
つきとめられたツタンカーメンの墓室にも入ってみた。
また、夕日の長い影を落としていたハトシェプスト女王の壮麗な葬祭殿と
そこにやはり刻まれていたレリーフの数々。
その帰りにたちよったネクロポリスの麗に立つメムノンの二体の巨像の神秘的な
光景も印象的であった。
その翌日行ったアブジンベルの大神殿、小神殿、のラムセス鵺等の巨大な立像。
実際そこに立ってみて古代歴史の深さを実感する事ができた。

 またアスワンのナイル川で乗ったのんびりした“ファルーカ”という
小さな帆かけ舟の夕日の中での“ひととき”も、一瞬の中に永遠を
感じる事ができるようだった。

 旅の後半になってカイロに入ったが、
ナポレオンが言ったという“四千年が諸君を見下ろしている!”
というまさに異様なイスラム社会が大きなカルチャーショックになった。
丁度、ラマダン(一ケ月間の日の出から日の入りの断食の行)という事もあり、
異様さがさらに目立ち、我々日本人は西欧社会に感化されているのが、
逆に対比する事ができた。
早朝、街中とどろくアラーラの祈りのスピーカーの音も異様そのものだった。
我々の目からみると、接するエジプト人全員が金に特に汚い詐欺師そのもの、
“騙すより騙されるのが悪い!”“車は轢かれるほうが悪い!”とか、
それがイスラム教という。カイロ郊外にある二百五十万個の巨石を積みあげた
「クス王のピラミッド」も本当にすばらしいの一言。
考古博物館のツタンカーメンの黄金のマスクと財宝をみた瞬間、
ゾクゾク身ぶるいをしてしまった。
まだ今にも起きあがりそうな「ラムネス�」をはじめとする数々のミイラも
数千年をこえて不死への激しい希求を魂にかたりかけてくるようであった。

・・・・・・
5157,不幸不利の7つの法則 〜①
2015年04月28日(火)
 去年の暮れ、幸福優位についての以下の書籍の批評文を書いた。
そこで、真逆の『不幸不利性の法則』のテーマを思いついた。あらためて、
幸・不幸を考えるに手軽である。ひとつ歯車が狂えば他人事の話でない。
≪2014/12/02 〜幸福優位7つの法則 −2
 【幸福優位7つの法則ー幸福と成功の意外な関係】ショーン・エイカー著
   * 幸福の概念と、幸せな人
 それぞれの内容一つ一つに含蓄があり、納得させられる。その法則とは・・ 
法則1 ハピネス・アドバンテージ〜幸福感は人間の脳と組織に競争優位をもたらす
法則2 心のレバレッジ化〜マインドセットを変えて仕事の成果を上げる
法則3 テトリス効果〜可能性を最大化するために脳を鍛える
法則4 再起力〜下降への勢いを利用して上昇に転じる
法則5 ゾロ・サークル〜小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる
法則6 20秒ルール〜変化へバリアを最小化して悪い習慣をよい習慣に変える
法則7 ソーシャルへの投資〜周囲からの支えを唯一最高の資産とする
  ー以上だが、再起力、20秒ルールには特に新鮮な驚きを感じる。】
▼ 幸福度からみた、下位の二割の人たちのところに八割の不幸が集まり、
 上位二割の人たちのところに、八割の幸福が集まる傾向にある。幸福感も
長期スパンでつくることが可能。人間である限り、孝不幸はついてまわる。
特に不幸?の四苦八苦は、避けることが出来ないが、その三倍の幸福状態を、
中長期の習慣化で身につけることは可能である。第二の天性といわれる習慣を
身に付け、幸福状況を三倍にすればよい。周囲には実に不幸の人が多くいるが、
彼らは、上記の幸福優位の法則の真逆をしているため。  〜つづく
・・・・・・
4792,「消費される物語」 ー2
2014年04月28日(月)
           ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)
  *「消費される物語」 〜希薄化する挫折      
 物語といえば、劇場で演じられ、それぞれの役割がある。その物語が、
右下がりで、大した意味のない役割としたら、生きている張り合いがない。
そこには、夢も挫折もない、節のない竹のようなもの。挫折には価値がある
のである。今回の節目で、気づいたことが、これ! その挫折さえ持てないと
したら・・ 挫折感は、人を絶望に到達させる。その虚無を背景に、人生が
新たな出発点になる。その以前に夢が持てないとなると、どうするのだろう。
  ーその辺りから
《 ◆ 希薄化する挫折
 一方、現代を生きる人々にとって、恋愛はもはや、それほど非日常的な
体験ではないし、社会への高い理想を持つこともない。欲望が「恋愛」や
「理想」という形で結晶化しないため、我々の世代では当たり前だった
「若い時に挫折し、自らの欲望をかみ殺す」という重大な経験が起こりにくく
なっている。 挫折が希薄化したことで、多くの人々が「いつかはみんなから
認められる」「夢はかなう」というナイーブなロマンチシズムを、年齢を
重ねても引きずり続けているのではないか。 あくまでも仮説ですが、
佐村河内さんや小保方さんの成功物語が大きな支持を集めたのも、そうした
ことが影響しているのかもしれません。「夢はかなうかも」と思い続けたい
上に、うさんくさそうな話を疑うリアリズムを身につけていない。
だから物語をあっさりと信じてしまい、裏切られると本気で憤る。私自身は
この仮説を「真実だ」と結論づけるだけの証拠は持っていませんが、貴重な
示唆を与えてくれると思います。 いずれにせよ、挫折がない、それゆえに
自らの欲望と現実社会の折り合いをどうつけるかという筋道がはっきりしない
という問題は、現代に固有の危機だと思います。それぞれの時代で、常に
本質的な危機がある。若い世代が中心になってその筋道をつかみ、しっかりと
表現することが、文化の大きな役割だと考えています。》
▼ 私たちの高度成長期の頃の「夢はかなう」は、当然のことであった。
 しかし、国家が衰退し始めた現在、大多数の者にとって夢の実現が考え
られなくなった反面、挫折も希薄になっている。 小保方氏や、佐村河内氏の
成功物語の崩壊も、また新たなる物語になる。私たちは、高度成長の経験と、
バブルの破裂、右下がりの経験をしてきたが、団塊世代の子息以下の世代は、
高度成長やバブルを知らない。だから、夢も挫折も、おのずから小さくなる。
また、物語もミニになる。青年期から成年期の間には、夢と挫折が、大きは
節目をつくる。 それが希薄化するのだから、気の毒といえば気の毒。
 私の事業の最後は、倒産という挫折?で終わったが、傷は少ない。準備期間
15年を含めた45年の物語が、行蔵として、心の底に残っているため、諦めと
同時に達成感がある。だから、毎日を、淡々と過ごすことが出来ている。
実際のところ、「希望が持てないほど辛いことはない」のだろう。現代の若者
は、その意味で、非常に辛いのである。で、仲間内の闘いの中で、相手を倒し、
馬乗りになることで満足をするしかない、きめ細かい差別化の時代の到来!
・・・・・・
4425, 閑話小題 ー今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
2013年04月28日(日)
   * 今時のプレハブ住宅は二ヶ月で建つ
 5年程前に裏隣の古い貸家が壊され二軒の住宅が建った。そして三軒目の
プレハブの着工が、この4月10日に始まった。その知らせに、完成が二ヶ月
後のの6月10日とあった。以前は、住宅は最短で半年から一年だったが、
今時のプレハブは工期が二ヶ月とは驚き。 まず基礎工事に二週間。次に外壁
工事で、周囲に足場をつくり、柱を建てていく。この連休が終わるころまでに
外壁まで完成し、内装に一ヶ月かけて完成のようだ。 最初の二軒は貸家で、
その借り手は両方とも既に居なくなり、一軒は空いたまま。表通りの方は
小さな小物雑貨店だったが、夜逃げ。その後、ファッション衣料店だが、私の
感覚では、この入り込んだ立地で商売が成り立つのかさっぱり分からない。
で、三軒目の住宅の着工。子供の頃近くに建前があると父に手を繋がれ見に
行ったもの。それより、2〜3歳にかけて実家の店兼住宅のビル建設の最中に
あった。住んでいる家を近くにあった300m先の公会堂の前に曳いていき、
空いたところにビルを建設をしたが、幼児ながら、毎日、父と建設現場に
行ったときのトキメキが、今でも忘れられない。その幼児体験が、ビル建設
マニアになったのだろう。 新築は夢があってよい。
  * 目的に合わせて人集めをするのではなく
 もう十数年経つが、ドキッとした言葉があった。《起業では、何かを
しようと適材を集めるのでなくて、優秀な人材を確保してから、何をするか、
どうするかを考えるべし》 まず有志が集まって、何の事業を始めるところから
考えるのが理想なのだろうが。 創業というと、一人の強力な個性が必要になる。 
黒澤監督の「7人の侍」は、盗賊から村を守るため、かき集められた浪人が、
圧倒的多数の盗賊と闘う。これは目的に合わせた人集めの典型。このことは、
教養についてもいえる。何かのために知識を得るのではなく、知識のための
知識のベースが、まず必要。それが教養である。大学も4年のうちの二年間が
一般教養、あとの二年間が専門課程になっている。人生を振り返ると、本当に
必要な知識は、哲学、文学、倫理とか、経済の基礎知識であった。教養課程は、
その導入知識を広く教えてくれる。大都会と地方の差は、そういう人材が
身近にいるか、いないか。40数年の独学では限界があった。 
「限界は誰でも到達するが、問題は、その先!」の意味を実感する日々。
・・・・・・
4051, シングルイン、31年間の総括 ー10
2012年04月28日(土)
   * つれづれに ー あれから一年
 去年の3月30日17時に会社を閉鎖して一年余りになる。激しく落ち込むと
覚悟はしていたが、思いのほか平静の日々を過ごすせた。会社経営から開放され
現在でも宙に浮いたようで、長年、重荷を背負っていたことに改めて気づいた
次第。日が経つにつれて、前倒しの決断をして本当に良かったと実感している。 
しかし世界も日本も国債と株価も何とか持ち堪えている。 早ければ、去年の
11月、遅くとも今年末と思っていた 辛うじて4月末現在、何とか維持し現在
に至っている。 世界の銀行と政府、企業の金庫の中に六千兆円の十倍の6京円
の不良債権が塩漬けになっている。何時、それが表面化するか時間の問題。
 一番早く表面化しそうなのが欧州だが、日本も、中国も、何が起こっても
不思議でない。日本は福島原発事故も解決したわけでなし、かつ原子炉54基
すべてが、止まったままである。更に政変含みの状態。 年末の米国と韓国の
大統領選挙まで持ちこたえるのか。会社名義のホテルと駐車場抵当物件の処分が
終わり、個人住宅も家内が買い取って全て終了した。ホテルも今までのホテル名で
再稼働を始めたという。有難いことである。 普段の生活が、もう少し手持ち
無沙汰で暇を持て余すと思いきや、全く、それはない。反面、倒産は倒産、
犯罪者に近い目で蔑視される事実に驚いた。一般債権は、ほぼゼロ。社員への
退職金の満額支払いは出来なかったが、国の一部たて替えを含めると平均八割
近く支払ったが、残債は残った。 一般債務分で補填すべきだったか? 
30年間、経理事務所の担当が言うには、「本当にキツイのはこれから」という。 
その意味が、まだ分からないが、差別?蔑視からくる世間様の何なのだろうが・・ 
今のところ「シラミ!」の10回の呪文で、気持ちの処理が可能。 自分を含め
シラミはシラミ。 スポーツジムと、iPad、シネマ通いと、図書館の御蔭で
何とか精神を保っている。好きなことだけが出来るからである。アウトサイダー
に徹してきたのも、結果として良かった。小さな襞(地域)の中で、煩わしい
因縁社会に組み込まれない生き方が、ここにくると楽。一歩、年金生活に入ると
景気とか社会に対する温感が鈍くなる。景気は最悪の筈だが、悲鳴が聞こえない。
・・・・・・
3685、 自己を見つめる −9
2011年04月28日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 孤独については、これまで何度も書いてきた。結局、人間は独りでは
生きられないのである。しかし孤独は、世間とかいうのがある限り必要である。
私の出身校の「長岡高校」の校是が「和同」の精神である。 和して同ぜず。 
和せ、同じになるな!である。これは、それぞれが孤独を守る中から生じる。
ここで孤独について、ニーチェの体験を指摘している。 孤独の素晴らしさを
「私の故郷」の良さに譬えているのは言いえて妙。
  ーまずは、その部分をー
【 ー孤独の大切さー ニーチェはかつて、孤独を「私の故郷」と呼んで、
 その至福にみちた優しさを讃えた。孤独が終わるところ、そこに「市場」
が始まり、世間の大人物や大俳優たちの騒々しさが耳を圧し、毒をもった
蝿たちのうなりが聞こえ、小人物たちの刺が私たちを突き刺す。そうした
騒がしい市場を離れ、海辺に出て、高い品位をもって沈黙し、岩陰にそびえ
立つ大きな樹木を見よう、とニーチェは誘う。その樹木のように、静かに耳を
澄ましながら、存在の声を聞こう、とニーチェは促す。そのとき、ニーチェは、
「孤独」の素晴らしさを、「私の故郷」と呼んで、その声が、なんと優しく、
また至福にみちて、自分に語りかけてくるか、ということを打ち明ける。
ニーチェは、そのとき、あらゆる「存在」が、「言葉」となって自分に開かれ
てくると言い、存在の内奥の秘密を宿した言葉の小箱が、一気に開かれ、
ありとあらゆる生々流転が、その秘儀を語り始めようととするかのようだ。 
このニーチェの体験は、すべての人間の体験だと言ってよい。言い換えれば、
孤独とは、そこで私たちが本当の自分を取り戻し、改めて純粋に、自分自身と
世界の人間のすべてを見直し、存在の真相に触れ直す瞬間なのである。実際、
私たちは、物事のほんとうの姿が何であるのかをよく熟慮しようとするときは、
世間や俗事の雑音を一旦は遮断しなければならないことをよく心得ている。
たとえば、他の人々と大勢で、がやがやわいわい騒いでいるときには、
私たちは、ほんとうに自分らしく純粋に物事を見直し、考え直し、正しく
事態を把握する余裕や冷静さを持つことができない。 人間は、それほど
までに非力なのである。 】
▼ 世間や俗事の雑音を一旦、遮断するため孤独になるために、古典などの
 世界に浸ることが最も手短である。それか、一度自分の住んでいるところ
から外に出て、純粋に物事を考え直し、冷静さを保つことが必要である。
宇宙の塵でしかない己を自覚すること、しかし、その塵の素晴らしい存在
である一度だけの人生を自覚するためにも。 


5521,閑話小題 〜「しないこと」を決めることが先決

2016年04月27日(水)

   * 「しないこと」を決めることが先決
 政策についてのテーマで、以前、取上げたことがあったが、
 デル創業者/マイケル・デルの言葉、《「すること」それを決めることは
簡単である。難しいのは「しないこと」を決めることだ。》がある。
 日常の多くは、優先順序の低いこと、しないでよい事に、手をとられている
ことが大部分。すべきことに集中するには、しないでよいことから、切り捨てる
ことを明確にしておくべきということ。 これは、人生についてもいえること。
 それを明確にするには、死際を想定すること。それが無理だとしたら、死に際
から生還してきた人の死生観の本から学べばよい。そこには、人生で、しなくて
いいことが、列記してある。その結果、残ったことを優先順位をつければよい。
 それを先にしないと、あの世間様に、人生を食散らされてしまう。そういえば、
家訓も、「しないこと」が多い。 経営セミナーの経営計画の立て方で、
政策セミナーで、聞いた、【政策とは、「すること」より、「しないこと」を、
まず先決すること】の教えに驚いたことを、憶えている。で、何故か、しない
でよいことばかりをして、このザマ。人生も、何事も、すべからく同じ。
   * ノコギリヤシ
 新聞広告で、【1万人に抽選でノコギリヤシを無料進呈】にひかれて、
ネットで申し込んだものが、送られてきた。一日、三錠、一ヶ月分で5千円は
高過ぎるのでは? と、年齢から考えて、まず二錠を飲んでみて暫く経つと、
何か身体に精力が漲るような感覚が湧き出てきた。初回性もあるのだろうが、
とにかく一ヶ月間、飲み続けることにした。これを無料提供も、肯ける。
   * なに、これ!
 東京オリンピックのエンブレム、朝顔のエンブレムが、てっきり決まると
思っていたが、最も良くないと評価をした「なに、これ?」が決定した。
地味オリンピックには、これが丁度よいのか? 決定するに、広告代理店の
一線の人の意見を重視すれば、こんな葬式みたいなエンブレムを選ばない。
 柔道の山下氏が出てきて発表すること自体が変。決まったとしても、変は
変。チョッと否定的過ぎるか、動乱の世情からみて、東京オリンピックの
開催からして疑問が残るが、こういう時勢だからこそ、やるべきか? 

・・・・・・
5156,閑話小題 〜地球規模で、天変地異が
2015年04月27日(月)
   * つれづれに 〜地球規模で天変地異が
・ネパールで大地震があったが、太平洋岸で次々と起きている 大地震の一連? 
 それと、イルカが最近、太平洋岸に迷い込んだのも関連しているのか。
 それとチリの大噴火も、先年の大地震の関連。そうこうみると、三陸沖地震が、
 そう遠くない時期に起きても不思議ではない。
 ――
・自宅の極近くのSC内にある喫茶店チェーンのコメダコーヒー。今月になって
 二度行ったが、一人客が意外と多い。数ヶ月前、9枚綴りの回数券を買ったが、
 あと一枚残っている。近所のため、一人で行きづらいが、気分転換に良さそうだ。
 ――
・首相官邸の屋上に、ヘリコプターのクローンが着陸、発見されたのが二週間後
 というから国辱もの。ハッキリいえば、テロから逃れること自体が不可能。
 ネット上で、一気に100人が打ち合わせをして飛ばしたら、どうなる? 
 「原子炉の上空をクローンが飛んでいるのを何度か見た」と報じていたが、
 恐ろしい時代に入った。人類は22世紀を無事迎えられないという説がある。
 ――
・小学生の頃から超大物といわれた高1の野球選手が注目を浴びてきた。
 ラグビー元日本代表の清宮克幸の息子。成るほど、それだけの器のようだ。
 少年相撲にも、それクラスのがいるというが。
 ――
・幸福優位7つの法則ー幸福と成功の意外な関係】ショーン・エイカー著―
 の感想文を、書いたが、フト、真逆の「不幸不利7つの法則〜不幸と失敗の
 意外な感想」をテーマに思いついて、数日前から下書きを書き始めた。
 幸福優位と、不幸不利性が、あい絡まっているのが人生。その二つを意識して
 コントロールするしかないが・・ 傍から見たら、私など不幸不利の典型に
 思われているのだろう。不幸不利に思える人を多く見かけるが、両親から
 引継がれているとしか思えない。 身近な人をみていると、連合いとの
 相性もある。神様は、一番相性の悪いのをわざわざお選びになった?
・・・・・・
4791,「消費される物語」 ー1
2014年04月27日(日)
        ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)よりー
 * 「消費される物語」 ー憧れをかみ殺す  
  ー「夢はかなう」を引きずるロマン 竹田青嗣ーより
 毎日、随想日記をネットに載せてから、まる13年になる。これも、ミニ物語
になるが、先日の朝日新聞の耕論「消費される物語」が考えさせられる。 
 ーまずは、竹田青ほぼ全文を抜粋ー
《 「どんな物語が杜会で受け入れられるか」ということは、「人々の間で
 広く共有されて一般化している欲望とは何か」ということに強く影響されます。
近代社会のかっての一般的な欲望は「自由」でした。職業選択の自由、思想信条
の自由、そして自由恋愛。だが、これらの自由への欲望は、先進諸国では20世紀
半ばまでに実現してしまった。それに代わり、現代社会で一般化しているのが
「承認」への欲望です。 そもそも人間の欲望には、それが他者から承認され
ないと実現できない、という特質があります。赤ちゃんがお乳を吸おうとする
ことさえ、母親の「あなたは私の子ども」という承認がなければ実現できない。
人間社会では、どんな欲望も承認を経て初めて実現する以上、快楽への欲望が
「みんなから認められたい」「祝福されたい」という承認への欲望へと移行して
いくのは、自然なことです。佐村河内さんの物語も、小保方一さんの物語も、
「不幸な境遇にある人や一見平凡に見える人が、がんばって成功し、多くの
人々から承認を得る」という基本的な枠組みは共通している。最近公闘された
英国の映画「ワンチャンス」も、携帯電話の販売員がテレビ(オーディション
番組で優勝し、塒界的なオペラ歌手になる、とり実話を描いた作品でした。
   □ 憧れをかみ殺す
 だが、ここで問題になるのは資本主義社会における「承認を巡る競争」
はゼロサムゲームで、勝者は常に少数派、です。「そこそこ満足」という人まで
勝者に含めても、6〜7割の人は最終的に挫折感や敗北感を抱くのではないか。
実現不可能な一般的な欲望に縛られ続けると、人間は不幸になるだけです。
(略)・・・ 挫折自体は決して悪いことではない。実現不能な欲望や憧れを
かみ殺し、強い忍耐で現実世との調停を試み、自らの生き方を確立する契機に
なるからです。・・欲望をすべて実現したいという「極端なロマン主義」、理想
がかなうことなど決してあり得ないという泥のようなリアズム、そのどちらかに
真理があるではない。両方の引き合いので、より深く生きられる「微妙な場所」
を探し当てることこそが必要なのです。私にとっては井上陽水の歌や、
フッサール、へーゲルの哲学が、そうした場所を見いたすための道しるべ
となってくれました。 ・・ ーつづく  》
▼ 現実にぶつかり、破壊された挫折経験の中で、「微妙な場所、そして立場」
 で、生きている我身にとって、自分にとって、都合の良い「物語」をつくる
しかない。それが、珍妙で、哀しく、痛面白いのである。逆に言えば、イドラ
(真実を覆っている嘘)世界にドップリ浸かっている人たちが鮮明に見えてくる。 
だから、この結果も悪くはないのである。イドラの言葉から、世間を読み解くと
面白い! 其の辺の、市場で聞いた噂を、信じて、小さな殻の中で、情念で
生きているのが一般である。ほぼ、世の中は、嘘と妄想で出来ているのが、
気づかない人たちの総称を「世間」。日本人の大多数にとっての宗教が、
この「世間教」。で、信者の群れが数多、屯する。それを、学生時代のゼミの
「ケース・スタディ」で、徹底的に議論の中で教わった。現象の中に隠された
真理、道理を冷静に捉える知識の必要性である。釈尊の遺言に「すべてのものは
移り変わる、怠らず努め励めよ」とある。変化する時代の中で、ロマン主義と、
泥のようなリアリズムの引き合いの中でこそ、怠り務めることだ!(-ノ-)/Ωチーン
・・・・・・
4424, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー8
2013年04月27日(土)
      「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」橘玲著
  * 私たちが何故不幸か、進化心理学が教えてくれる
 チンパンジーからして、実は平等も格差も遺伝子に刻印されている。
この矛盾が、人間を不幸にしている。能力も、女性の容姿も、生まれながら
大きな差がある。それを克服するには、一生を要するが、それを失うには数年、
いや、数ヶ月で済む。女性が連れ合いの選択にシビアになるのは当然、それで
人生の大半が決まってしまうため。だから二段階上の相手を必死に探す。
それをシンデレラコンプレックスという。しかし殆どが夢幻の幻想で終わる。
だから神様は、男の性欲を過剰に与えて、仮装の相手に惑わさせるようにした。
で、男は一生、その付けを払わされる。平等欲求と格差の遺伝子を同時に与え、
不幸になるように創られたのは、神様の仕業。だから幸福など気の迷い。
「不幸なのは人類の宿命で、私や貴方だけでない!」と割り切るしかない。
 ーその辺りから抜粋ー 
≪ 二頭のチンパンジを真中をゴフス窓で仕切った部屋に入れ、片方にキュウリ
を与えるとすごくおいしそうに食べる。ところがもう一方のチンパンジーに
バナナが与えられると、いきなり怒り出し、手にしていたキュウリを壁に投げ
つける。さっきまであんなにうれしそろだったのに。霊長類学者ドゥ・ヴァール
は、こうした観察結果から極めて重要な発見をした。平等はチンパンジーに
とって、けっして譲ることのできない「基本的猿権」なのだ。 ぼくたち人間も、
「平等」に強いこだわりをもっている、人種差別で沢山の血が流れるのも、
バックパッカーがぼったくられたことに延々と文句をいうのも、同じ人間として
平等に扱われていないと感じるからだ。でも平等が遺伝子に刻み込まれた生得的
な価値観でなぜ世の中は格差社会になるのだろうそれは、「格差」もまたぼく
たちの遺伝子に刻印されているからだ。 初対面の二頭のチンパンジを四角い
机に座らせ、どちらにも手が届くところにリンゴを置くと先へと互い取り合う。
負けけがつづと威嚇の表情を見せるが、喧嘩にはならない。互いに先取者に
所有権があることを認めているからだ。ところが同じことを何度も繰り返すうち、
どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。からだの大きさなどさまざまな特徴
から二頭の間で自然に序列が生まれ、いちど階層が決まると、下位のチンパンジー
は上位者にエサを譲るようになる。保育園や幼稚園でも、子どもたちを集団で
遊ばせるとごく自然に階層が生まれ、リーダーが決まる(とくに男の子の場合、
この傾向は明瞭だ)。サルやヒトには、相手と自分の関係を測り、無意識のうちに
支配したり従ったりする強力なちからが働く。 人間の耳には、五〇〇ヘルツ
より低い周波数は意味のないハミング音としか聴こえない。ところがぼくたちが
会話をすると、最初はハミング音の高さがひとによってまちまちだが、そのうち
全員が同じ高さにそろう。ひとは無意識のうちに、支配する側にハミング音を
合わせるのだ。 声の周波数分析は、アメリカ大統領選挙のテレビ討論でも
行なわれている。一九六〇年から二〇〇〇年までの大統領選挙では、有権者は
一貫してハミング音を変えなかった(すなわち相手を支配した)候補者を常に選んで
きた。わざわざ選挙などやらなくても、討論のハミング音を計測するだけでどちら
が勝つかはわかってしまうのだ(ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル』) ≫
▼ 誰もが不幸になるよう設計されていると思えば、少々の怒りや悩みは解消
 される。だいたい幸・不幸は一時的感情。だから格差を容認するため「公平」
という考え方を作り上げた。ここでチンパンジーに平等の意識が「基本的猿権」
 としてあるのに驚いた。数十、数百万年かけてつくられたのだろう。小・中・
高校、大学に進学する度に選択されていく。上に進むたびに格差された自分の上下
左右が鮮明に見えてくる。平等、自由、博愛、これは理念、現実は逆ということも!
・・・・・・
4050, 一時停止 ー8
2012年04月27日(金)                
 * 「好き」という言葉が好きだ     
          「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ ・・ぼくは生きる上でいちばん大切なのは、好きになる気持ちだと思って
 いるんだ。好きになるのに理由はない。「好き」はじぶんのからだとこころ
のもっとも深いところからわいてくる。 むりして好きになるわけじゃない、自然
に好きになる。好きになる気持ちは人間に、そしてほかの生きものにも、はじめ
からそなわったすばらしい能力だと思う。何かを、誰かを好きになること、じぶん
が生きているこの世界を(それがときにどんなに苦しく悲しいものであれ)好きに
なること、そしてこれがけっこうむずかしいんだけど、じぶんじしんを好きに
なること。じぶんがきらいじゃ、ほかの人を好きになれないし、生きているのが
つらくなる。はじめきらいだと思っていたものや人が、知っていくにつれて
だんだん好きになるってことだってある。ぼくは「好き」ということばが好きだ。    
                  (母のひろば482号一 二〇〇四年) ≫
▼ 人生の早い段階で好きなことを見つけ、続けることは大事なことだが、
 それぞれの年代ごとに、蛇の脱皮のように、好きなことを変えることも必要。
それは男女の出会いに対していえること。節目ごとに好きな対象が変化するものと、
一貫して好きを貫くか、である。「好きと嫌いじゃ どれほど違う 命ただやる 
ほど違う」という都々逸があるが、それほど好みは根源から湧き出るもの。 
反面、「好きになるまで取り組んだことを突き詰めれば、奥底好きになれる」
こともある。好きという言葉は、人生の鍵を握っているようだ。現在の自分が
好きになれるか?特に人生の晩秋に差し掛かった時期の自分が、どうだろうか?
 「日々、面白い!」と思えるかどうかが目安。ここまでくれば、
「突き抜けた自分を好きと思うしかないか!」自嘲的自己肯定か、最期は。
   ・・・・・・・
3684, 自己を見つめる −8
2011年04月27日(水)          
  * 仕事について     「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 第二の人生に入って一ヶ月足らずになる。 今月から仕事・事業人生から
無職のリタイアの人生に入った。人生の大部分を仕事を通して幸福・不幸の
波の中で泳いできた。仕事は人生の核であることは間違いない。社会の中の存在
意義が仕事を通して証明される。そこで表現した中に自分が見えてくる。仕事、
趣味、そして学びは人生の三本柱。人生のプロセスで、その重心が変わって
くるが、男は家族を作り、養っていかなければならない。だから仕事の比重は
のしかかってくる。とはいえ、三本柱の一つだが・・・
  ーこの本の中の仕事に関する部分を抜粋して考えてみるー
【 したがって、社会に応えてなんらかの役割を果たし、世間に寄与することが
 できるということは、人間の自己意識にとっては、自己の存在の意味を確認
することのできる最も直接的な答えであり、また喜びであることは、疑いようの
ないことだからである。もちろん、そうした仕事における労苦のうちには、
失敗や挫折、困難や事故、予期せぬ妨害や災害、さらには競争や不運など、
実にさまざまな心労の種が含まれていて、人生の現実が容易ならぬものである
ことが、誰にでも、ひしひしと実感されてくる。人生における懐疑や煩悶、
疑心暗鬼や気欝は、多くの場合、仕事をめぐるトラブルや、そこに絡んでくる
陰湿な人間関係に起因するものであることは、否定することができない。
けれども、そうした暗欝な影にもめげずに、自分の関与する仕事の有意義性を
確信して、少しでも前進し、実りある人生行路を切り開こうとする人にとって、
やはり、仕事を措いて、人生の実質上の道程は考えられないことになるであろう。
そして、もしもその人が、強い信念の持ち主として、どんな障害にも屈服せずに、
この世界では善が勝ち、道徳的な世界秩序が実現してゆくはずだと確信する
ことができるならば、たしかにヒルティも述べたように、その人にとっては、
仕事を通じた人生の意味と幸福が、力強く確認され、労働の喜びが増すであろう。】
▼ 「人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼は、仕事をめぐるトラブルや、
 それに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する。」 しかし、それを乗り越えて
仕事を成し遂げることこそ、その醍醐味がある。とはいえ、経済震災や、自然震災
は、その全てを飲み込んでしまう。これほど大激震だと諦めがつくが。
これも人生。人生の多くを事業を通して多く学び、楽しんだことも確か。
 まあ、面白かった! 
 ・・・・・・・・
3319, 理性の「理」は、理由の「理」
2010年04月27日(火)
   『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著
 学生時代に理念、理性の「理」の意味は何だろうと疑問に思い、ゼミの人たち
に聞いてみたが、納得する答えがなかった。そこで字づらから、王の里で、真理
の大元と一人合点をした。ところが、先日図書館で借りてきた『カントはこう
考えたー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著に、カントの
「純粋理性批判」中の「理」が解りやすい。
《 理性の「理」は、実は理由の「理」にほかならない、と述べている。 
 欧州の古典語であるラテン語で「理性」を意味する「ラテオ」は、同時に
「理由」を意味する。理由とは、「なぜならば〜」と表現されるもので、物事の
「根拠」、物事を「根拠付ける」働きを意味する。さしずめ「なぜならば」と
答える能力が理性であると言ってよい。20世紀のハイデッガーは、理性と理由、
理性と根拠が同一であることを際だたせて、次のように述べている。
「理性とはラチオのことであり、すなわち根拠の能力。理性は物事を基礎づける
根拠である。根拠は純粋理性の理性的根拠以外にない」 ところで、この
「なぜならば」といきなり、切り出すものはいない。それを誘導するものがある。
それは「なぜ?」という問いである。「なぜ?」と問われて、はじめて
「なぜならば」が発せらるのである。・・・ 》
▼ 以上だが、理性的とは「なぜならば」と答える能力である。と同時に
「なぜ?」と、問う能力である。分かっているようで、分かってなかったようだ。
そうすると、常に「なぜならば」と「なぜ?」を、考えている人が理性的という
ことになる。人は「なぜ『なぜ』と問うのか?の答えは、「人は根拠となる
物事の基礎を把握したいため」である。「なぜ?」「なぜならば」と、言っている
限りは、理性を使っていることになる。 ということは、根拠=原因を知りたくなる
根本的な探究心のため何か驚いたり、知らない現象に出会うと、その背後にある
原因を探したくなり、「なぜ」と問うのである。認識に経験論と合理論があるが、
合理の理性から物ごとを認識をするという場合、経験が直接的に認識するのに対し、
 合理の理性で把握するのは間接的に認識する、ということになる。 −つづく


5520,閑話小題 〜寺院消滅が止まらない!

2016年04月26日(火)

   * 寺院消滅が止まらない!
 葬式といえば、今では節約対象の一番の対象で、地味葬が求められる。
葬式業者に頼んで、坊様への謝礼は、一番、削る対象になる。これまで
続いてきた葬式に対する習慣が一変し始めた。 あるレポートに、
「寺院消滅が止まらない!」があった。〜その概要とは〜
≪ 団塊世代も死期に入り、葬式、法要が増えてきたが、以前ほど、49日法要、
一周忌法要、三回忌法要、七回忌法要など言わなくなった。大都会に集中し、
地方の過疎化と、家制度の崩壊が背景にある。あと10数年もしないうちに、
寺院の三分の一が住職不在になるという。 江戸時代に、戸籍管理を委託され、
それを良いことに、好き放題に搾取してきたことに檀家が、気づき、離れて
いった歴史がある。で、今では半数近く住職の収入が300万前後。
2040年までに人口に占める若年女性人口(20歳〜39)の割合が、
現在よりも50%減少する自治体を「消滅可能とし」として全国の自治体の
将来人口を推計した。人口が減れば当然、寺も減る。
 日本の寺院の役割は大きく二つある。「寺=信仰」、「墓=供養」である。
鹿児島県では、明治初期に、全国で吹荒れた廃仏毀釈により1066の寺院が
すべて消滅、現在では490まで戻した。それでも寺院が少ないのが目立つが、
寺院の存在意義を、団塊世代以下の人たちが、見出さなくなったことが大きい。≫
▼ 寺院が食べていける「檀家」数が、最低で200軒。これでは、地方の寺院
 が消滅化は当然の流れ。何ゆえ死を恐れるかといえば、人生を充分に生きて
こなかった結果、やり残したことへの無念と、死んだら、生臭い永遠の中に、
消え去る不安からくる恐怖。更に、身近な人の葬式で、彼岸に見送る儀式をし、
重油で焼かれた骨を墓に収めて終わり!とする共同幻想の儀式。で、後は、
法要で、生きている人たちが、世間向けに亡き人の思い出話。これは形を
変えた昔のレジャー、それはそれで、残された人たちの魂の慰めになる上に、
当人の慰霊になっていた。でも、これは、別に法要をしなくとも、仏壇の前で、
心を篭めれば、毎朝、出来る習慣。お墓は、死後の世界を信じる人の祖先様の
共同住宅という幻想の場。そう思えば、心が休まる。
 後記)書き終えた後、以前、似たテーマで書いたのではと、ブログ内検索で
調べてみると、二回も書いていた。で、「没にしようか」迷ったが、これは
これで載せることにした。戦前までは大方を占めた、情報不足の人にとって、
その法話は、有難たい心の洗濯、人生を考えさせられる内容だったが、今では
TV、ネットで一般人の方が数多の知識がある。法難は、寺院に吹き荒れる。

・・・・・・
2015/10/09
寺院経営の惨状とは
  * 貧困は寺院経営に顕著に現れ出る
 寺院の年間収入50万円以下が2割、100万円以下が3割の数字に目を疑った。
その3割の大方(9割)が生活困窮状態?という。 一年ほど前に親戚の
法事に参列したが、その宴席の隣席が午前様。 何気ない会話の中で、
『由緒ありそうなお寺のようですが、墓は幾つあるのですか?』と若い跡継ぎ
の午前様に聞くと、顔色がサッと変わり、『それは、言えません!』と答えた。
後で、「寺院経営の窮状を悟られたくないためか」と、気づいた・・ 
葬式や法事で聞く法話も、情報化の中で、『成るほど!』と心に残る内容は
今では皆無。 ネットで調べた内容は、衝撃的でさえある。
≪ 今年4月、『生活困窮者自立支援法』が施行。生活保護に至る前の自立
 支援が狙いだ。背景には、深刻な生活困窮者の増加がある。6月、厚生労働省
は「今年3月時点での生活保護受給者が217万4331人と過去最高を更新」と発表。
受給世帯数も、前月比3773世帯増の162万2458世帯と、こちらも過去最高。
増加に転じた平成7年時の受給者数は88万2229人。この20年で約2.4倍増えた。
増加の要因は、就労に依る自立困難な高齢者世帯の増加、更にリーマン
ショックや経済低迷の影響となれば、今後も増加傾向は容易に変わらない。
日本の高齢化は進む一方であり、6月19日に衆譲院を通過した労慟者派遣法
改正案は、労働者側からすれば生活を一層不安定にすると懸念されているから。
 ところで、この生活保護を受けられる最低ラインの生活扶助基準とは、
どれくらいか? 世帯数や地域でも変わるが、両親と就学前児童1人の3人家族
の場合では、最も高い東京23区で凡そ月16万円という。年収約200万円だ。
これに住宅扶助等の諸々が加えられる。
 では、この額に比してお寺の現状はどうなのか? 曹洞宗が10年に1度
おこなっている宗勢総合調査(平成17年)の寺院の年間収入は如何だろう? 
 先ず、年間収入50万円以下が何と2割を占め、100万円以下が3割。
確実に最低生活水準を満たしていない寺院が3割もあるのだ。平成21年に
浄土真宗本願寺派が行った宗勢調査の結果だが、こちらも2割近くが年収
100万円未満なのだ。当然、この年収では、いや、全体の半数を占める
300万円未満でも生活は厳しい。現に、本願寺派では300万円未満の寺院の
9割が「全く生活できない」「かなり切り詰めないと生活が成り立たない」
と回答。一般家庭と異なり、寺院には様々な維持管理費が必要。
布教の為の教化費もいる。収入の全てを生活費に充てる訳にはいかない。
実際、同派で300万円未満の寺院の7割が「兼業収入を寺院護持に使っている」
と答えている。 (略)・・・
 過疎や高齢化・家制度の揺らぎ・仏事に対する意識の薄れ等、お寺を取り巻く
環境の変化に依る今後の見通しは極めて厳しい。どの地域にあっても他人事では
ないことは明らかだ。そんな中、檀家の少ないお寺を継ぐことは極論すれば、
将来に“負債”を抱えるようなものという見方もあろう。現に、過疎地寺院の
後継者難が、どの宗派においても深刻な問題になっている。しかし、それでも
実は寺院数が激減していないのは、檀家は勿論、住職や寺族が物心両面で
お寺を支えているからに違いない。・・・ ≫
▼ お寺でも、その規模などによる経営格差がしているようだ。
 大都市一極化、少子化、家制度の激変の中で、仏事に対する考えも変化。
それに伴い収入も激減し、寺院経営は大きな岐路に立たされている。
「長い歴史で、情報基地の役割を果たしてきた寺院のシステムが、情報化
社会の変化に立ち遅れた結果」ということになる。特に過疎地は酷いようだ。

・・・・・・
2011/03/04
3630, 岐路に立つお寺
 3月1日のNHKのクローズアップ現代の「岐路に立つお寺」に驚かされた。
恐らく全国の寺の多くが追い詰められていると思ってはいたが、ここまで葬式
仏教への反感が強いとは! 法話も今さら何をという内容ばかり、その程度の
話はTVで聞く仏教学者の二番煎じでしかない。聞く方が、人生と死をより
深く知っている逆転現象もある。 NHKのHPより、概要を見てみよう。
≪  〜問われる宗教の役割〜
「葬式仏教」と批判されて久しい日本の寺が追い詰められている。都市への
人口流出と檀家の減少、「直葬」に代表される宗教離れよって、衰退してきた
寺が経営難に陥り、数億円の負債を抱えるケースも出てきている。
原因は“墓ビジネス”の失敗だ。葬儀会社に「葬式」さえも奪わつつある寺が、
存続をかけてビル型納骨堂や巨大霊園を建設したものの売れ残ってしまった。
一方、危機的状況のなかで、信者の心の苦しみに寄り添う宗教の本分に立ち
返ろうと、自殺や高齢者の孤立の問題に向き合う僧侶も現れている。岐路に
立たされるお寺の現状を見つめ、宗教の役割と可能性について改めて考える。≫

 以上だが、番組中、仏教に対して良いイメージを持っている人90%、
お寺には25%、僧侶に対してはなんと10%、とあった。いかに、坊様に対する
不信感が強いかが出ている数字である。 現在の私の気持ちが、そのまま、
数字に出ていたのに驚かされた。私が厳しいのかと思っていたが、この数字を
知ってホッとした。 まとも?な坊様なら愕然としただろう。葬式時の御経代
の高さに、心の底では怒り心頭ということが見えないのである。霊園に墓を
移す流れは、もう止められない。江戸時代から特権階級の立場を利用して庶民
から貪りとってきたシステムに若い人たちは気づいてきたのが、この隠れテーマ。
コンビニの二倍も寺院があるというから、いかに庶民から搾取してきたかが、
窺い知れる。

・・・・・・
5155,理性と感性と悟性
2015年04月26日(日)
   * 理性とは何か
 学生時代のゼミで何気なく私が発した言葉が。「理性とは何ですか?」
あまりに唐突だったので、誰もがポカンとしていたが、それを簡潔に解釈した
内容を47年後にネットで見つけた! ネットと暇な時間は便利である・・
≪ カントやヘーゲルによって展開された「ドイツ観念論」を理解するためには、
 まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。
 主体としての人間が対象に働きかける仕方である。
・「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。
(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)
な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件
として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは
何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。
・「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、
「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、
「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。
その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。
(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、
実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)
・これに対して、「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、
推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という
媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を
総合したものである。英語でいうと、リーズン。つまり、「理由」「根拠」
「道理」を意味するのが「理性」である。なぜ?と問いかけたとき、
「なぜなら〜だからだ」と答える力が理性になる。≫
▼ 「感性」は直感能力、「悟性」は理解能力、「理性」は「高次の推理能力」、
 つまり高次の理由づけ、根拠づけになる。世間の噂話レベルは、身近な世界
の空間・時間が先行するため、一般的には「あの世界」に埋没する。
理性の真逆の世界。理性を高めるには、「ぼんやり時間」を意識的に持たねば
ならない。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子になっている状態。その5文字は
1、「闇」―蛍と星とダークマター
2、「独」―独りでいること
3、「閑」―逆茂木に囲まれて
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢
5、「懶」―心の余白 である。
 いっけん、理性の世界とは真逆のようだが、この状況から、感性も、
 悟性も、理性も研ぎ澄まされる。高次の道理の追求ということ!
・・・・・・・
4790,閑話小題 ー父親のこと
2014年04月26日(土)
   * 父親のこと
 これまで母親について語ってきたが、父親について殆ど書いてなかった。
父親が42歳時の時に8人の末っ子として生まれた為、父親が孫のように特別扱い
され育った。それもあって、直ぐ上の兄に陰湿に虐められてもいた。 御陰で、
気が強く、常に自分の身を守ることに、人一倍の知恵が身についていた。
今回の一連も含めた危機管理などの用心深い性格は、この辺りからきている。
 大家族の中、父親が絶対的存在で、母親も、兄姉たちも、常に緊張の中で
父の顔色を伺っていた家庭環境であった。父親は骨董商の二代目。祖母が
婿取りで、母が結婚した時には、当時の資産で七万ほどあったと、母の晩年に
なって語っていた。母が結婚当時、父に「うちは金持ちなの?」と、聞いた
ところ、「金持の目安が10万で、どうだろう?」と答えたというが、その後、
数倍に増やしたというから、資産家の部類だったようだ。プチブルレベル?
 太平洋戦争前まで、当時のトップセールスを思い立ち、津上製作所社長や、
野本互尊など上客を持って、年に数回の取引で、かなりの利益を上げていた。
そして、大戦の勃発で、骨董は売れなくなり、地元からも多くの戦死者が
出ていた。その中、仏壇販売で戦中の生活を凌いでいた。それも終戦を向え、
次に考えたのが古着販売。食えなくなった人の古着を他より高い値で買取り、
欲しい人に、安い値で販売することを思いつく。それが拡大したのが、
衣料量販店である。これも、問屋からの仕入れでは安く売れないため、岐阜、
名古屋、岡山、広島などの生産地に直接行き、仕入れることを考えついて、
繁盛店として、全国的に知られるようになった。商売人の基礎の質実剛健を
モットーに、明治気質の、真面目な人であった。顔つきも、性格も、私が、
そのまま、受け継いだが、酒は、殆ど飲まないところが、私とは違う。 
趣味は、旅行と、骨董収集と、茶道と、住宅の建設。自宅や、姉たちの新築
建設に金も口も出して、そのプロセスを楽しんでいた。家も、店でも、チリ一つ
でも落ちているのを嫌い、徹底的に掃除をさせていた。学歴コンプレックスが
強く、自然に娘婿には高学歴の人がなっていた。 友人の持てない人で、
株屋や、保険屋の営業などしか、傍には寄せ付けなかった。兄姉も、怖れて
近づかない中、末っ子の私だけが何時も父の傍にいて、何かペットのような
存在であった。法事などは、何時も私だけが出席をしていた。父親は、太平洋
戦争を挟んだ激動期を、乗り切ったが、私は、結局は、飲み込まれてしまった
甘い三代目になる。 この随想日記も〈売り家と唐様で書く三代目〉の
‘唐様で書いた’で、しかないのか。 ゙(。ノω<。)ァチャ- (-_-)ウツタ
【(後記)これを書いて、分類の<堀井誠作・シマ ワールド>を開いた
 ところ、父親の命日などに、多く取り上げていた。今さら、我ながら
 驚いてしまった! 結局、父親は私の大きな後楯の人だった、ということ。
 それにしても! 呆けか 】


閑話小題 〜馬の腹中で一夜を過ごす

2016年04月25日(月)

   * 馬の腹中で一夜を過ごす
 先週のシネマ、『レヴェナント』の中で、追手に追詰められて、断崖から馬
もろ共、落ちた主人公のデイカプリオが、林の木と馬がクッションになって、
何とか助かるが、その前に熊に襲われた重症の身で、激寒の中で、一晩を
過ごすが、その時、死んだ馬の内臓を抉り出し、素っ裸になって腹の中に
潜りこむ。息子の復讐のための執念が、一瞬、それをさせたが、朝、腹の中
から血だらけで出てくる姿は圧巻。これでデイカプリオはアカデミー賞の主演
男優賞を貰ったが、さもありなん。
 以前、読んだ慧海の『チベット旅行記』で、ヒマラヤ超えの山中で、雪の中
で、連れていた二匹の羊の間で何とか一晩を過ごす場面に驚いたが、これは
馬の生肉の腹の中! こういう話は実際に、あるのだろう!
 とこで、40数年前に、居酒屋・養老の滝のFCを、建てたばかりの飲食
ビルで始めた数ヵ月後に、近くの肉屋の人が来て、「朝、潰したばかりの豚肉
のツナギのルートがある」というので、見せてもらったのが、舌から大腸まで
繋がった内臓一式。思わず吐きそうになるほど生々しい。これを自ら捌いて、
串に刺して焼いて売ったのが、戦後、何もなかった下町の飲食店と屋台。
 必死さが、それも平気で捌いてしまう。事業の出だしとして、私にはベスト
の経験になった。それと飲食店のカウンターの内側と外側の大きな段差の違い。
要は、腹を括れば何でもできる。時にサラリーマンが、「屋台をひいても、
自分で商売をしたい」とか言うが、腹を本当に括れるかどうか。 括れない
人が、腹を括った結果を痛烈に批判する。気持ちは分らないでもないが・・

・・・・・・
5154,知の逆転 〜⑪
2015年04月25日(土)
           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * ユングとフロイト
 ユングとフロイトについてミンスキーはフロイト寄りの論だが、説得力がある。
私自身、ユングのいう、「意味ある偶然の一致」=シンクロニシティ(共時性)
の体質?が少しあるので、ユングに傾倒していたが、違う論も面白い。 
  ーその辺りを抜粋 〜P195
≪ ーあなたは人工知能に関連して心理学の分野も研究されるわけですが、
 以前「カール・ユングの人気は全くおかしい」とおっしやっておられました。
 なぜそのように考えておられるのでしょうかー
ミンスキー: カール・ユングは科学分野からとうの昔に消え去ってるでしょう。
  ーそれに異論がありませんが、フロイトはどうでしょうー
ミンスキー: ジークムント・フロイトはなかなか興味深い人物です。
 たくさんの新しいアイディアを持っていましたが、あまりに時代に先駆ていた。
たとえば、神経系の中をいかに情報が伝わっていくかについての理論を、早く
から論文にしていたけれども、一九五〇年になるまで活字にならなかった。
神経細胞がどのように情報を伝達するか、それが経験によっていかに変わって
いくかなど、さまざまなアイディアが入っていたのですが、あまりにも当時の
他の理論と異なっていたために、なかなか出版されなかったのです。
フロイトの学生だったユングは、面白い理論を構築し始めます。その過程で、
異なるいろいろな文化が実は同じようなアイディアを持っていたことに気づく
わけです。たとえば、それぞれの文化の伝説や神話がやたら似ているとー。
 悪い行いをすると神様が出てきてその行いをこらしめるといった話ですね。
だからユングは、全ての人々の心は、何かテレパシーのような神秘的な方法で
コミュニケートしているんじゃないか、と考えたわけです。これに対して
フロイトが怒って、以来、二人は二度と口も利かないようになった。
互い相手の主張がばかげていると思ったんですね。ばかげていたのは明らかに
ユングのほうでしょう。でも、いまだに多くの人々が、彼の説を良しとして、
意味のある心理学だと思っているようです。・・・ ≫
▼ 改めて、フロイトとユングの違いをダイジェスト的に論じているが、
 色いろ相まって人間の心は構成されているため、フロイトの考えだけでは
限界があるし、ユング的霊性も限界がある。ネット社会で、共時性が如何に
意味を成していくか、失っていくのか? 対談者とインタビュアーは、後者
のようだ。ネットが共時性そのものに、なったため、それが如何した?
レベルになった? 生物、人間が進化してきた過程で膨大な経験がある。
・・・・・・
4789,葬式は、要らない ー2
2014年04月25日(金)
           「葬式は、要らない」島田裕己著
   ーアマゾンのレビューよりー
《 過激なタイトルだが、葬式が「要らない」のではなく、そんなに
 金をかけるものでは無い、と言いたいのだ。「高い高い」と言われても、
何もお寺が強要してる訳でもなく、また業者も商売なので多少の出費は仕方ない。
人が嫌がる、または面倒な事をお願いするのだから。また諸外国と(金額の)
比較をし、日本が異様に高いというが、国柄や文化がそれぞれ違うのであまり
参考にはならない。要は個人個人が思うようにすればいいだけの話。
 でも日本人はそれができない。冠婚葬祭に関しては世間体やら周りの目を
気にする体質ですから。ある意味、日本に住んでる以上葬式にお金がかかるのは
仕方の無い事かも。日本人は世間体を絶ず気にする。それがあらわれるのが葬式。
布施や香典は行う側の気持ちによるとされてはいるものの重視されるのは、自分
がいくら出したい・出せるかではなく、他人がいくら出しているのか、である。
こうした感覚が日本人のなかに育まれる上で重要な働きをしたのが村落共同体の
成立である。江戸時代に入って寺請制度が導入されたのは大きな意味をもった。
すべての村人は村内にある寺の檀家になることを強制された。よって村人は
必ず仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。
 仏典は膨大な数が存在するが戒名についての説明はない。仏教が広まった
地域のなかで戒名という制度が存在するのは日本だけ。初期の仏教はインドで
生まれ主に東南アジアの国々に広がった。その後生まれた大乗仏教はインドから
中国に伝わった後、朝鮮半島や日本に伝えられた。最後に生まれた後期密教は
チベットに伝わった。 出家した僧侶がその証に戒名を授かる点は日本も他の
仏教国と同じだが、一般の在家の信者でも死後に戒名を授かるのは日本にしか
ない制度だ。しかも日本は出家であるはずの僧侶が妻帯し戒律を蔑ろにしている。
破戒の道をたどっている僧侶が授戒を行い矛盾している。多くの宗教にも出家の
制度は存在しない。あるのは仏教とキリスト教のカトリック、東方教会だけ。
仏教でも本来、出家した人間に僧侶としての名前が与えられるのであって、
俗人にそれが与えられることはない。が、日本では禅宗で在家の信者の葬式の
作法が確立され、その際、いったん出家のかたちをとらせたため戒名が授け
られることになった。寺にとって財政を支えてくれる檀信徒の存在は不可欠で、
寄進された土地や田畑は寺領として寺の維持に貢献した。が、明治に入り寺請
制度は廃止され、寺領は召し上げられた。奈良の寺々は葬式仏教の前の時代に
創建されており境内に墓地を持たず檀家も存在しない。寺領没収後は他の収入の
道を確保せねばならなかった。境内に墓地を持ち地域の住民を檀家として
かかえる一般の寺院は葬式仏教の道を歩むことで生き延びることができた。
寺は檀家の布施がなければ寺は成立しない。戒名料が高騰するのは戒名の本質
死後の勲章だからであり、立派な戒名が葬式を贅沢なものにしていく。
が、戒名のあり方や戒名料への批判はあっても改革が行われないのは寺院経営
の問題が深くかかわっているからである。寺は宗教法人であり、檀家は法人を
構成するメンバー、つまりは信者である。・・・ 》
▼ 上記の内容は、この情報化では一般的に周知のこと。ますます、お寺は
 衰退し、墓参り仏教も、変化する。戒名など、いらないし、年内に自分で
つけた戒名の位牌をネットで注文しようか、そんな必要もないか?
私の場合、家族葬で20人ぐらいで、葬儀社の指定した僧侶にお経をあげて
もらって、それで御終い! それを、むしろ願っている。死んでしまえば、
それまでよ! である。 墓は、このブログで充分!
・・・・・
4422, 糞袋の内と外
2013年04月25日(木)
              「糞袋の内と外」石黒 浩 (著)
「世界の中の自分は時に不自由であるが、世界を飲み飲んだ自分は自由
なのである」という新聞広告にひかれて、アマゾンで、この本の内容紹介を
読んでみた。まだ発刊して間もないこともあり、レビューも何もない。
パソコンとネットの機能から、逆に人間の脳の機能を逆照射した哲学を読んだ
ことがある。 ロボット工学者が、人間の形を持ったロボットの視点から人間
を見つめると、また違った何が見えてくる。 まずは ー内容紹介ーより
≪ 人間は感覚器が集まった糞袋。しかしその糞袋は、自分が自分である
 ということを確認する手段を持たない。CNNの「世界を変える8人の天才」
のひとりに選出されたロボット工学者、石黒浩。最先端のテクノロジー開発
を通し人間の本質を見つめる中で、「生きるとはどういうことか?」
「人間とは何か?」という問題を常に問い続けている。【人間を「糞袋」
と捉えることで、どのような答えが浮かび上がるのだろうか? 】約2年間に
わたって発信してきたツイートをもとに考察を深め、いま本当に伝えたい
メッセージを丁寧に綴った、渾身のエッセイ。≫
▼「人間は感覚器が集まった糞袋」と「世界を飲込んだ自分は自由なのである」
 という意味について考えてみる。まず「人間は感覚器が集まった糞袋」を、
「人間は考える製糞器」であると言い替えると、動物とロボットと際立って
違うところは、動くエネルギーが動植物系と電気かガソリンの違いになる。
人間の燃えカスは、一度、糞袋に溜められて排出される。人間は世界を飲み
込んで(環境を直感して主体的に)動くところが違う。それも自由度が高い
ほど人間度が高い、ことになる。自由こそ人間たる要素である。
世界を知り、そこで方向を探し出し、常に環境の変化に対応し、殻を破り
 続ける糞袋が人間の本来の姿。だから、身近に飛行機、自動車、自転車、
パソコンなどの身に合ったツールやシステムを使いこなし、自由度を高める
ことが必要。優秀なロボットを創ることで逆照射をして、人間の本質を探る
切り口は新鮮。人間の肉体を内と外面をシビアに捉え完成に近づける過程
から見えてくる姿は、哲学でいうところの「他者」と「自分」の関係を
考える上で面白い。この工学者は、自分の姿のロボットをつくり、生身の
自分から見つめている。第三者が触ったり、殴ったりした時に何かを感じる
はず。これは自己承認や、他者承認の問題に似ている。ロボットから見たら
糞袋に過ぎない人間の肉体。ロボットのように、第三者からの指示や
プログラムでしか動けない哀れな糞袋が、あまりに多い。そういう私の貧弱な
プログラムこそ最も稚拙!後悔先に立たず。自分を腹から笑えるだけ、
まだましか。
 ・・・・・・・
4048, 一時停止 ー6
2012年04月25日(水)
  * 人間は大文字で書かれた矛盾     
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 唐突なようだが・シモーヌ・ヴェイユのことばを孫引きさせてもらう。
(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在するものであり、
実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは必然性の
如何を試すものである)(存在の奥深くまで体験された矛盾、それは我々の
身も心も引き裂く。それが十字架である)自己弁護のためにひくにしては、
これらのことばがあまりに痛切であることは感じてもらえるだろう。
私は十字架にまで到達できる人間ではないけれども、せめて矛盾をかいま
見る地点にまでは行きたいと思う。矛盾の一方に身を置けば、たしかに
そこにも悲劇は待っていよう。作家の自殺のいくつかはそうした場所で
行われたのではないかと私は想像する。だが矛盾そのものを生きることは
―それは私には想像もつかない。ヴエイユの言う矛盾は、いわば大文字で
書かれた矛盾であり、人間そのものと言っていいと思うが、そのことが、
つまり究極には矛盾しかないのだということが、私に勇気を与える。
私の出会うもろもろの小さな矛盾も、最終的な矛盾と構造的に結ばれている
に違いない。ひとつの矛盾を解決し得たと思うとき、それがすでにもう
ひとつの矛盾のはじまりになっている。その無限地獄にこそあるいは
書くことに第一原因がひそんでいるのかもしれない。―その辺でやめておけ。
おまえにはそんなことまで論ずる資格はありはしない。どうしてそんなに
大仰でこわばった口しかきけないのだ。 おまえの内なる自然の荒廃は
その口のききかたからもあきらかだよ。見栄をはって、もっともらしい
愚痴を人に聞かせる暇はもうないそ。 (一九七二年) ≫
▼【 ヴェイユの(精神がつきあたるもろもろの矛盾、それらのみが実在
であり、実在性の基準である。想像上のものには矛盾はない。矛盾とは
必然性の如何を試すものである)】が良い。人生を総括すると矛盾の塊である。
しかし、その矛盾こそ実在であると知れば、人生を、そのまま受け取ることが
出来る。「矛盾は人間そのもの」とすれば、自分だけでなく他人を受け入れる
ことも出来よう。激しく生きるほど矛盾は大きくり、その重圧に潰されながら
生きていくことこそ人生の味わいを深くする。人間は矛盾だらけか〜
 ・・・・・・
3682, 節目どきに ー10
2011年04月25日(月)
  * スポーツジムなど行ってみるまでは別世界だったが!
スポーツジムに通いだして三週間になる。行くまでは別世界と思っていたが、
今では生活に組まれた日常になってしまった。ジムのシステムで、色々な
プログラムがあって自分にあったものに参加出来る。 その一つに
「イージーライン」がある。6つの機器を円座になって12人のメンバーが
参加、輪の真ん中にインストラクターが音楽に合わせて全員を誘導していく。 
一つ置きにステップ台があって、大手を振って上がったり降りたりして息抜き
をする。25分間一コースだが、これをベースにして、ランニングマシーンや、
他の機器を使う。最後は小さな暗い部屋に6台ある電動マッサージの一つで
30分ぐらい疲れをとる。 他にもプールや風呂もある。 私の場合は滞在
時間は90分である。 そこに行ってきただけで、気晴らしになる。
私が選択したのは「金曜日が休日、日祭日は参加できないコースで、
時間帯は10〜17時。その時間帯なら、何時間もいてもよい。30坪位の
サロンもある。 金曜と日祭日は、車で5分ほどの近くの市営スポーツ施設
に行っている。ここは三ヶ月で1800円。昼時には数人しかいないのがよい。
とにかく健全な日常を維持しないと! 
  * ウォーカーの数が激減
 晴れている日には早朝、毎日、信濃川の土手にサイクリングに行っているが、
散歩の数が激減している。初めは気のせいかと思っていたが、そうでもない。 
原発事故による放射能に対する警戒のためだろうか。ウォーキングでこれだから、
行楽が大打撃になるのは仕方がない。ホテルは、どの業態も惨憺たるで、私も
早々見切って倒産した。特に温泉街が酷いとTVで騒いでいる。あの草津温泉
では95パーセントがキャンセルで、死活問題になっているとか・・
「新潟の月岡温泉の一番大きいホテルは二棟のうち一棟が休館。
オープンしている棟も、一番上の階しか電気がついてない」とか、
「長岡の奥座敷の蓬平温泉街は、客がほぼゼロ」、という噂が漏れ聞こえてくる。
日本国家始って以来の危機の一現象である。まだピンときてないのが日本の
平和ボケした大部分の人だけ。まだ、他人事としてしか受け取ってない?


5518,閑話小題 〜‘つれづれに’哲学について ー①

2016年04月24日(日)

世界を席捲してきた米国もピークを過ぎようとしているが、まだまだ
その力は侮れない。その文化風土の中で生まれた実用主義たるプラグマティズム
とは、如何なるものか、改めて調べてみた。{参考:「山川哲学」小寺聡編集}
   * プラグマティズムの成立
《 プラグマティズム(実用主義・有用主義)は「行為」「行動」を意味する
 ギリシア語pragmaに由来する。19世紀後半から20世紀にかけて,資本主義を
確立し,工業生産力を急速に増大させつつあった米国の文化風土のもとに
形成されしべんた哲学。
 従来の形而上学的・思弁的哲学に反対し,思想と日常生活とを密接に関連
させる経験論の伝統を受け継いだ米国的な哲学である。この立場は,具体的
経験の中に科学的方法を生かし,知識や観念を行動のもたらす結果によって
絶えず検証しようとする点に特徴がある。当時の発展するアメリカ社会の
雰囲気を反映して,人間生活の未来への楽天的信頼感を基礎にもつ。
この思想の代表者は,米国のデューイ,イギリスのシラーなどである。
パースは,すべての観念の源泉は行動にあるとして,その立場をプラグマ
ティズムと名づけた。》
  まずはでデューイの根本思想から
:道具主義: デューイの哲学の根本思想。学問や知識は,人間が行動する時
 にその行動に役立つ道具である,という考え方。デューイによれば,知識・
 概念・理論は,人間の生活実践から離れて実在する永遠不変のものではなく,
 生活過程での矛盾や困難を解決するための「道具」にほかならない。
 したがって,知識や理論などは使用することを通じて絶えず改善されるべき
「仮説」としての性格をもつ。ある知識・理論の価値は,他の道具と同様,それ
 自体の中にあるのではなく,実際に使用された場合の結果の有用性にあるという。
:創造的知性: (実験的知性)デューイの重視した知性のあり方。
 人間が日常生活の中で様々な困難にぶつかる場合,はっきりとした見通しを
 たて問題解決を図り,未来を展望する能力。人間は,この知性の働きによって,
 過去の習慣の修正を遂行し,新たな人間性を発展させていく,とされている。
:デューイの言葉: 概念・理論・思想体系は,道具である。すべての道具の
 場合と同じように,その価値はそれ自身の内にあるのではなく,それを使用
 した結果にあらわれる作業能力の内、にある。『哲学の改造』 
▼「概念・思想・思想体系は道具」とは、プラグマティズムを一言で言い
 表している。創造的知性の背景に、実用主義があったとは。 日本人が、
プラグマティズムに大きく影響されていたことを改めて知った。経済、
経営とは、そもそも、そういうものだとしても。ドラッガーの思想は、その
典型。デューイの課題は、個人の自由・平等・幸福を最高の価値とする
自由民主主義を、時代の要請に合わせて立直すことにあった。その点は、
日本国内の政党も同じだが。問題は、それを実現する能力の格差。
 米国大統領選のトランプ候補の発言を聞いていて、プラグマティズムの
限界が、そのまま現われ出ているようだ。 面白には面白いが・・

・・・・・・
5153,知の逆転 〜⑩
2015年04月24日(金)
           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * 感情とは思考の単純形だ ー感情機械としての人間
 感情で動く多くの人からみたら、元もと感情が単純形と思うのは当然。
逆に、心理学者や哲学者からみれば、感情は複雑で底がしれない泥沼の
ようなものと考えているため、改めて考えることになる。考えつくした
末の感情であれば、決して単純形ではないが・・ 〜その辺り〜より
≪ ミンスキー: 何干年もの間、人々は、「思考」すなわち理性的で論理的
 で機械的なものと、「感情」すなわち自然で論理的でないもの、というふう
に区別してきたわけです。従来の心理学は、自然な行動というものは二種類に
分けられるという考え方に基づいていました。 ちなみに私に言わせれば、
何にせよ世界や物事を二つに分けようとする試みは、大きな間違いです。
そうすると、全てを「これ」か「あれ」であると言わなければならず、両者の
間に位置するものに対して、橋をかけられない。私の発見の大半は、少なく
とも三つの事柄があるという考え方に基づいたものです。ですから、「ここ」
から「あそこ」へ行うとしたときに、障害(三つ目のことがら)があれば、
それを迂回するという考えが出てくる。 
 本来「思考」と「感情」を分けて考えるべきではないと思います。「思考」
というのは非常に複雑で、われわれは実に多様な物事の理解の仕方をする。
一方、わずか10〜20くらいの別のやり方でも物事を理解していて、これらを
「感情」と呼んでいるわけです。従来、「思考」というのはシンプルで論理的
であるのに対し、感情は非常に複雑で強力で神秘的だと考えられてきたわけ
ですが、これが大間違いなんですね。
 「感情」というのは非常に単純な動物でも持っている。ある状態では
とてもお腹がすいているから、食物がほしいと思ってそれが行動を独占する。
別の状態では危険を感じる、だから即逃げる。そしてまた別の状態では――
というふうに、単純な動物は、こういった反応の仕方をするわけです。
 これに対して、哺乳類や鳥類の一部、タコなどの複雑な動物は、状況に応じて
実にさまざまな反応の仕方をするわけで、これらを「思考」と呼んでいるのです。
従来の考え方とは逆に、「感情」というのは単純かつ機械的であり、「思考」は
実にさまざまな状況の判断や反応の仕方をするものだというふうに、見方を変える
必要があると思います。・・・(略) P194 ≫
 ▼ 「思考」が単純で論理的プロセスであると考えるのは全くの間違えで、
単純で、機械的なのは、怒っているとか、恋をしているとか、腹が減っている
とかの「感情」の方であるという。感情的になって事業停止をしたのではなく、
考えつくした上で、決断する。あくまで、感情は思考の単純形というのは、
自分の経験からみて至極当たり前のこと。一時的恋愛感情だけで結婚、その結果、
冷静に互いを見つめて、考えた結果の離婚の多さが、それを物語る。 熱病に
でもなければ結婚など出来ないが! まずは一息、入れろ!さらに、もう一息!
・・・・・・
4788,「道徳」を疑え! 〜2
2014年04月24日(木)
       「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜        
 * 自分の頭で考えるための哲学講義 ー大抵のことは嘘を見抜くこと
   ーまずは、その辺りを抜粋ー
《 哲学の第一歩は疑うことである。なぜ本質や真理に到達するために疑う
 ことが必要かというと、本当のことは常に隠れているからです。私たちは
ついつい人から聞いたことや、実際に見たものをそのまま本当のことと信じ
込んでしまいがちです。でも、たいてい、それは嘘なのです。これには人間の
弱さや未熟さが関係しています。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、
それを「イドラ」と呼びました。本当のことを隠してしまう臆見(おっけん)
のことです。 彼によると、人間には四つのイドラがあるといいます。
・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じます。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できないのです。
・二つ目は「洞窟のイドラ」です。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んで
 しまったかのように、個人の狭い事情により生じる思い込みです。
 その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い
 考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込み。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いもの。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。あたかも劇場で観たものに強い影響を受ける
 ように、すでに完成した塊のストーリーを目の前に提示されると、人は容易に
 信じてしまうものです。バトルゲームに影響されて犯罪に走る若者がいるように。
 このように、人間は弱い存在であることから、なかなか本当のことが見えなく
 なってしまっているのです。したがって、本当のことを知るにはあえて
 見たまま、聞いたままのものを疑うことが必要になってきます。
 しかもそれを根源にまでさかのぼって徹底してやらなければなりません。
 そうして初めて、答えに到達することができるというわけです。批判的・
 根源的に考える哲学という学問が、出来合いの「正しさ」を植えつけよう
 とする現行の「道徳」とは正反対の営みだということが、これでご理解
 いただけましたでしょうか。・・・ 》
▼ 私が40歳過ぎから還暦まで年に二回以上、秘境・異郷を中心にした
 ツアーに参加して気づいたのが、逆照射の視線である。極北のアイスランド
の地から見れば、日本は極東である。アフリカの最南端のケープタウンから
みても同じで、日本で思いつくのは、空手、忍者、侍、ソニーぐらい。
そこからみた、常識とか、道徳を分解すると、上記の四つのイドラになる。
地球を象に例えると、我々は、その皮膚のヒダに棲むダニかシラミになる。
その視線が行く回数を重ねる度に、強くなっていった。装置産業もあって、
あまり人と接する必要もなかったため、強固な小さな視線しか持ち得ない人
との接点を最小に保つことが出来たことが、人生最良の環境と思っている。
 他人からみたら、変人そのものだろう。それも、人間関係工学(造語?)
を40年以上も独学を続けているのだから、やはりオカシな人間だろう。
おまけに、創業を20歳の時点で決心したため、視線が現状、現象の先を
見つめることが優先となれば、言動は誰から見ても変? それでも変な
創業事業者という隠れ蓑があったが、それが無くなった今!?
・・・・・・
4421, さっさと不況を終わらせろ
2013年04月24日(水)         
 * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!  
    「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と
思うのは私だけでないはず。国力が無い国が、これを実行したらハイパー
インフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、
世界共通言語、農業などが出揃っている)のアメリカとは立ち居地が違うと
懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への
最終解答!  リーマンショック以降、いまだに好転の兆しを見せない世界経済。
では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
(本書「訳者解説」より)ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック
 以後の不景気が続いていて回復していない。そして失業者の技能や労働市場で
の価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的被害になりつつある。
だから景気回復策をきちんとやろうということだ。そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。
 赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。そして中央銀行はそれを
金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、
悪しき固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのような
かわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。以上のきわめてシンプル
な主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の
 愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。かなり手遅れとはいえ、
復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして
予算つけるだけでなく、ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい
基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けをもっと
認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、
日本の人々のことももっと考えてよ。そして増税なんて今やることじゃない
でしょうに! そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば─ 
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。
それでも、一人でもそうしたごく基本的な部分を理解できる人が増えることで、
日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。報われない
信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことが
あれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に!ハイパーインフレになった時、
 銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは分かっている。現状がすでに待った
なしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして
通用するのか? そのツケは、社会的弱者にまわってくるので、現在の
選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。
ということは、ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理だが。
顔色だけは良い麻薬漬患者?あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた
 精神が魂(AME)というものである」と定義した。同じフランスの現代の
前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たち
もいるらしい。彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、
細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、魂という言葉
はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように
使われる精神という言葉とちがって、魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。
精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって
伝えられてゆく。だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って
宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆく
というような歌だった。自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分が
たかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間
はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることができないそんな疑問に、
精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分に
こだわるより、むしろ我を忘れて自分を超えた他人の世界にかかわってゆく
ことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・≫
▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」
 という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、「魂は人間の不滅の本質
であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、
「心は毎日変わるが、魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した
幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。秘境の大自然の中で
何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭した
ときに魂が現れ出てくる。
・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」
を試してみると、考え方の幅が広がってくる。とはいえ、逆説を正面から
考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。学生時代のゼミの
教授が、中根千恵の「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、
「横社会=資格社会」という説を立てられた。「日本社会には武家社会の
影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、
という資格社会ではないか。蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価
されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。それを切欠に、
逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を
 言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、
 結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス。
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、
 その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。
 逆理。パラドックス。  ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反している
 ように見えるがよく吟味すれば真理である説」。逆説といえばマックス
 ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、
 マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は「禁欲」「勤勉」の
 基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム」
 は「勤勉さ」を旨とする「合理的」生活態度を形成した結果、
「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、
 逆説は資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する
 確信で考える入口になればよい。考えるための一番の近道だが、正論を
 把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 


5517,閑話小題 〜「ここはロドスだ、ここで跳べ」

2016年04月23日(土)

   * 「ここはロドスだ、ここで跳べ!」
 ロジックだけで、論理を実行のプロセスに移せない人に対する言葉が、これ。
時どき面白い男を紹介されるのが、「夢や構想は立派だが、何故か手順に落と
せず、どの社会でも浮いている一人」。よくよく話を聞くと、他者の影の批判
から出発した夢でしかない。要するに熟成された構想でない。そこまでは、
誰もが考えるが、問題は熟成。「ほら」も、時として必要としても・・
  〜ネット検索より〜
≪ イソップ寓話に収められた「ほら吹き男」の話に出てくる言葉。
 古代競技のある選手が、遠征先から帰ってきて自慢話をし、
「おれはロドス島では、五輪選手も及ばないような大跳躍をした。
皆がロドス島へ行くことがあれば、その大跳躍を見た観客が快く証言して
くれるだろう」、と言ったところ、それを聞いていた一人が、
「そんな証言は要らない。君が大跳躍をしたと言うなら、ここがロドスだ、
ここで跳べ」と言った、という逸話。 この寓話からどんな教訓を読みとるか
についてはさまざまな解釈があるようで、最も素直な読み方は、「手っ取り早い
方法で証明できることについてくどくどと論じる必要はない」ということで、
「論より証拠」に近い意味になるでしょうか。また、「実力を出さなければ
ならない場面で出せないのは、真の実力ではない」といった教訓を読みとる
のも一般的なようです。ヘーゲルやマルクスは、それぞれの自著の中で
上記のイソップ寓話からこの言葉を引用しています。 ≫
▼ 「私に任せてくれたら、機会に恵まれたら、と目を他に向ける前に、
 まず現在、取組んでいることに専念すること」を示している。何処かに
理想郷を求めるのではなく、実現された仕組みを足場に、自分の能力を発揮
すべしということ。「今、ここで、私」が跳ばないで何時、跳べるのか。
で、跳ばないまま、留まり、初老性鬱病になった挙句、流離うゾンビの群れに
加わり毒を吐く。これも、立派な人生だが、遅くない、そこから跳びなさい!
「エッ、それ、誰のこと?」「いや、全ての人です! 安心してください?」

・・・・・・
5152,閑話小題 〜常識とは
2015年04月23日(木)
  * 常識とは何か
 アインシュタインの言葉に、『常識とは、18歳までに仕入れたもろもろの
先入観のコレクションである』がある。人生を振返ってみると、まさに先入観
の破壊の連続。 地方の田舎から上京をして、右も左も分からず、多くの壁に
ぶつかり、その都度、先入観の壁が一つずつ叩き壊れていった。
 あれだけ必死に挑んだにもかかわらず失敗と挫折の連続。 何故だろう?
そこで考えたのが、己のの無知、無能の自覚である。実際に多くの挫折を経験
をすれば、認めるしかない。その底から立上り、一歩を踏出すためには膨大な
エネルギーを使った末の知恵を絞り出すしかない。バカの壁の認識と、破壊
である。挫折とは創造前の破壊になる。21歳の夏の‘欧州一ヶ月間の旅行’で、
自分を取囲んでいた壁が粉々に崩壊された。そこで見たのは、西欧文化の深さ。
その西欧からみえた「極東の黄色人種の私」という存在。日本すら知らない、
自分すら知らない私の自覚。あの経験はプラス・マイナス両面で大きな節目。
経験と知識と、それから捻り出す知恵が、人生にとって、最も大事な要素で
あることを実感した。それぞれの国と地域には、そこの常識がある。
それは、そこの常識だが、一歩、二歩離れると、それは非常識でしかない。
常識が悪いというのではない。常識は必要条件であって、絶対条件ではない
ことの自覚を常に持ち続けることが必要ということ。
18歳までに仕入れたもろもろの先入観のコレクションこそが、人生の壁に
なっていることを、早々、気づく必要があるということ。そういう常識の
持ち主の人たちの中で、一生を終えるのも人生。鳥瞰するのも人生である。
・・・・・・
4787,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜�
2014年04月23日(水)
    * 綺麗に止めたい、のですが! 
 実際に自分が当事者になって感じたことは、自分もそうだったが、
他人の卑下の視線と、いい加減さ。地場の中で単一価値観しか持ち得ぬ人の
「上から目線」が、漫画的で面白いといえば面白いが、経験する前の自分は、
こんなもの。倒産といえば、【夜逃げ、自殺、家庭不和による離婚、計画倒産、
連鎖倒産、社会的抹殺】などが思い当たる。娑婆からみれば、良い倒産、
悪い倒産など関係なく、差別対象で、成るほど!と、実感する日々!
弁護士に依頼したことは「30年間、会社取引は綺麗にしてきたので
『立つ鳥跡を濁さずで』終えたい!」に対し、「倒産に綺麗も汚いもない。
あるのは、良い倒産と悪い倒産だけ。今の状態は、それは可能。点数でいえば、
100点はあり得ない。せいぜいで70点!その手伝いをするのが弁護士の役割」と。
「ならば、その70点でお願いします!」で、方針が決まった。 結果は概ね
70〜80点と自己評価。弁護士も、その方針とおり動いてくれ、事業物件の、
全ての買い手がついた。 自宅も、家内が購入を希望し、名義が家内に移って、
現在に至って、今では使用人扱い! 抵当などのの弁済平均が全国平均11%に
対して、40%弱の弁済で、無事終了。一般債権も、労働債権もほぼゼロ。
役員と社員の退職金も規定の7〜8割は支払うことが出来た。  
 中小企業は、万一に備えて事業主の連れ合いに給与を支払い、厚生年金と
健康保険をかけて、残りを本人名義の預金にする。これが「間接保険」になる。 
特に、長期の設備投資には必要条件というより絶対条件になるが、これが
装置事業でないと、その備えをしていない。それと妻など家族に、連帯保証人
にしないのも長年の知恵。 私の場合、40年近く、給与の一割を目安に家内の
給与にしていた。これが、今では、命綱になっている。孫子の攻守の鶴翼の
構えである。 思わぬ震災クラスの社会変動を、家系として経験してきたから
こそ出来たこと。更に保険に入る代わりに、家内名義の預金を40年近く続けて
いたが、塵も積もれば(小)山。 ケセラセラでは、生きられないが、これを
もって計画倒産と巷の噂! 弁護士に、「私の場合でも計画倒産?」と聞いた
ところ、「倒産には、計画倒産と計画的倒産があり、長年にわたり備えるのは、
それ以前の体質の話。『金持父さん、貧乏父さん』という本があったが、
もじって『良い父さん(倒産)、悪い父さん』が基準の言葉。 世間的には、
それを同じに見ているが、似て、非なるもの」との解りやすい回答。 
それを前提に、あの卑しい目線の底の浅さが見え、それが気持ちを大きく支える。 
成るほど、人間は自分の範囲でしか事象を解釈できない。そういう自分自身も
同じことだが。日頃から教養、特に哲学、歴史を学んでいないと、こうなる。

・・・・・・
4420, 暴走老人!  −3
2013年04月23日(火)
   * 孤立化する空間      「暴走老人! 」藤原 智美 (著)
 近所をみても一人住まい老人の家が目立っている。去年には孤独死の老婆が
死後発見された。二年前には、その隣の老夫婦の奥さんが自死。独り住まいの
弧族が目立って多い。そういう我家も何時、いずれ弧族になる? 近くに
スーパーや、コンビ二があるので、不便はないのだろうが・・ スマート
フォンの普及は便利な反面、人と人との係わりを最小にする。また、年寄りは
情報機器を使いこなせるかどうかで二分される。使いこなせない人の疎外感は、
より大きく膨らむ。とはいえ、孤立した老人が不幸か?というと、これだけは
当人しか分からない。大家族の中の孤立の方が不幸のケースもある。
現在、毎日、書斎に4ー5時間はパソコンか読書をしている。それを孤立とは
言わない。問題は、孤立した空間で楽しめるか。≪ かつて農漁村、都市の
商店街のような場所には、仕事や土地(地域)を通じた共同性が存在した。
一方、郊外住宅地に仕事を基盤とした共同性を求めることは不可能だ。
そこは仕事場とは切り離された、文字通り「ペツドタウン」である。
しかも長い時聞をかけて発展した町ではない。そのほとんどが、計画的に一気
に造られたきわめて人工的な町である。当然、造成地という白いキャンバスには、
地域社会の秩序となる規範など存在しなかった。数世代、数十世代にわたって
造られていった町のように、受け渡される土地に根ざした約束事もない。
郊外に暮らし始めた人々は、同質性(家族構成、年齢、収入は似たり寄ったりの
ある家をそなえていた。 彼ら核家族は、古い家父長制や地域共同体の縛りから
自由な新しい家族像、核家族を中心としたマイホーム主義を実践した。
だがそれは一方で、地域社会の力を極端に弱める結果になった。それぞれの
核家族が均質な力をもった存在として、新たな土地で生活をスタートさせる。
彼らを束ねる地域の「権威」もなく、関係の秩序が成立していないその時点で、
互いが強い主張を始める生活はきわめて不安定化する。住みにくい、ストレス
な場所になるだろう。その状況で新住人たちが選択したのは、なるだけ隣人と
かかわらないことだった。互い干渉しないことで、新興住宅地はかろうじで
暮らしの場所となったのだ。(略)・・ 鳥瞰してみると、そこにあるのは
各戸に孤立して存在する家庭群落だった。群れていても、関係しないという
どこか矛盾した場所が郊外である。やがて明らかになったのは、孤立する家が
内部では個室によっでさらに分節化され、家族もまた個人として孤立している
という像だった。新興住宅地は二重に分節化され、最後は個人に行き着く。
それが「孤独な郊外」の本質。だが地域社会が衰弱、家族が孤立する構図は
郊外だけにあるのでない。都市近郊の団地からスタートした「孤独な郊外」は、
都心部の集合住宅にもおよび、今では農村地帯も孤独な郊外化は進んでいる。
こうして日本中の住宅地から地域社会はしだいに姿を消していった。
そして非地域社会化をいち早くスタートさせた郊外住宅地は、現在著しい
疲弊の姿をさらしている。多くは「ふるさと化」が失敗し、二代、三代と
住みつづけ、新しい規範を生みだすこともなかった。最近では大都市圏で、
都心回帰がさらに郊外住宅地の疲弊を早めている。住まいから次世代が
消えた老人世帯は、家そのものが個室化した。・・・≫
▼ 平櫛田中の言葉「子供しかるな来た道じゃ、年より笑うな行く道じゃ・
 行く道・来る道一人道・これから通る今日の道。今やれねば誰がやる・
わしがやらねば誰が やる」がある。これは【「子供叱るな来た道だもの、
年寄り笑うな行く道だもの、来た道行く道二人旅、これから通る今日の道、
通り直しのできぬ道」作者不詳。妙好人(=浄土宗の信徒の誰か)】を、 
言い換えたものと思われる。この位の意志がなければ、生きてはいけない。
そういう私も何時の間に、その年寄りの仲間入り。年齢に気持ちが
追いついていけない日々を孤立化した書斎で、過ごしている! 
・・・・・・ 
4046, 閑話小題 ー癲癇について
2012年04月23日(月)
  * 癲癇とは
 先日、京都で癲癇持病の交通事故で多くの死傷者が出た。発作時には
気を失うというから恐ろしい。 以前も似た事故があった。持病を持った人
にとって働く範囲が決まってくるため本人にとって大変な病。 国内に
120に一人、100万人が患者というから、身近にもいたはずだが何故か
具体的に知らない。10年ほど前のこと。突然、バスの後部座席で後ろの人に
両手で全力で肩を掴まれた。 その時に何が起きたか理解できず、前屈みに
立ち上がり、その手を払いのけた。そして振り返り怒ろうとしたが硬直している。
何かの発作が起きたと判断して騒ぎにはしなかった。次のバスステーションで、
その中年女性が何事もなかったように降りていった。それが癲癇ではないか?
と、思うに数日ほどかかった。今回、100万人も存在していることに驚いた。
100人万といえば、リウマチ患者と同じ。患者本人は人前に出ず可能の限り
隠すので表面化していないという。 
  * 悲しきかな、人生は!
 先日、連帯保証をしている関係で自宅は家内の物件になり、私は宿六に。
弁護士曰く、「爪を切らた貰われてきた飼い猫のように大人しく従順に生き
延びるしかない!」と辛辣。 無理? とすると!
  * フランス大統領が交代?
 フランス大統領選挙でサルコジが落選の様相である。5月6日で決選投票で
交代にでもなったら、ユーロ危機が大きく再燃する。世界経済は毎日がスリル
とサスペンスの日々である。 時の権力者がギリシャ、イタリア、スペイン
などPIIGSを救いざるを得ないのは解る!日米欧の、どこもかしこも際どい状況。 
中国も首脳交代で怪しげな権力闘争が表面化してきた。年末の韓国とアメリカ
の大統領選挙もある。
・・・・・・
3680, 節目どきに ー9
2011年04月23日(土)
  * ふと、思うこと
 まだ何が自分に起きていることが、分かってないのかもしれない。 
廃業、倒産と慌しく現象だけは移り変わっていくが、何か他人様から
「奇妙なもの」に見られているような、これまでの視線とは全く違うような・・ 
それはそれで仕方がない。経済震災・自然震災としても、倒産は倒産。 
それでも、新潟・長岡と職・住が別だったので半分は助かってはいるが。
これから起こる経済動乱を考えると、一年だろう。銀行債権以外の一般債権
などは、ほぼ迷惑をかけないで済んだが、一般の人は、そのことを知らない。 
家内も含め、二人とも厚生年金に40年以上入っていたので、今日明日の生活
の心配はない。弁護士がいうに、「現時点で3割が終了、債権の9割9分以上が
銀行債権で、一般債権を、ほぼ完済しているので、これまでは順調。手続きから
して二年が目安。」 それにしても私自身に、自分の立場に何の疚しさと、
暗さがないのが問題。「これだけは、経済震災と自然震災で、私の力の及ぶ
ことでない」という思いがあるし、実際に、そうだ。 あんまりケロッとして
いるので、30年来の税理事務所の担当に「貴方は、自分の置かれた立場が
全く分かってない!」と注意された。それも分かるが、「じゃあ、どうすれば
良かったのですか?」という内語が、何処かで沸いてくる。 それらしく、
していろ! ということか。しかし時間の経過と同時に、気持ちがジワジワと
追い詰められていくのが分かる。自然災害も含め、それぞれ全国民の問題だが。
・・・・・・・
3315, アポリアと空とぼけ
2010年04月23日(金)
「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 *アポリアと空とぼけ  P−36
対話によって突き落とされるこの困惑の状態は<アポリア>と呼ばれる。
それは、どこにも進むことができない行き詰まり、途(アポロ)のないあり様を
意味する。ソクラテスの吟味にさらされ、アポリアに落いった者は、対話相手
メノンが告白するよるように、あたかも「痺れエイ」に刺されたように感ずる。 
対話相手は心も口もしびれて何も言えなくなってしまう。このような対話に
おいてソクラテスは、問いかけ、議論を導く主導者の役割をはたす。しかし
ソクラテスは、対話をかわしながら、自らはその事柄について「知らない」、
つまり、自らもアポリアにあると主張する。その一方で、対話によってアポリア
へと追いやられ、無知を突きつけられた人は、言葉によって鋭く矛盾をついて
論駁するソクラテスが、その問いの答えを実ははじめから知っているのでは
ないかと推測する。さもなかったら、どうしてこれほど鮮やかに、相手の無知を
あばき出すことができるのであろう? しかし、そうしたなかであくまで
「自分もあなたと同じように、知らない」と言いはるソクラテスに、やりこめ
られた相手は、しばしば怒りをぶつける。 ソクラテスは本当は知って質問
しているのに、しらばくれてわざと知らないふりをし、意地悪にも人々の無知を
あばき立てよろこんでいるのであると。 人々はこうして、ソクラテスを
「空とぼけ」の人と呼んだ。「空とぼけ」が、対話するソクラテスの謎を
あらわす言葉となったのである。 だが、ソクラテスの対話を空とぼけ、つまり、
本当は知っているのに知らないふりをしているとみなすのは、対話する相手や
対話を見ている人であり、ソクラテス自身は空とぼけているわけではない。
▼ 学生時代の卒業の年に人事関連のゼミと出会い、そこでの学びの中で、
 自分は何にも知らないという事実を突きつけられ、呆然自失状態。
「学生時代にモット知識を得ておくべきだった!」と、頭がグチャグチャ状態。 
その結果、悩み苦しんだ結論として、死ぬまで学び続けること。 
何があっても、一日ニ時間の読書を自分に課せることだった。しかし、
最近気づいたことだが、「グチャグチャと、学び続ける決心」そのことが学生
時代の一番の学習効果だったこと。ゼミの教授の方針に乗ってしまった
ことになる。「自分は何も知らない」という思い込みが「アポリア」として
プラトン、いやソクラテスが2500年も前に看破していたのである。
15人のゼミの人たちの議論から、「何も知らない自分を一年かけ知った
ことになった。」  本当に有難いことである。 で、このザマ? 
人は人、我は我。 「全て人生は無知の馬鹿踊り」と思えば、楽なもの。 
自分は違う? 貴方だけはね!
・・・・・・・
2940,レーシック専門眼科医院 ー2
 2009年04月23日(木)
視力の矯正方法には、メガネ、コンタクトレンズ、の他に、
レザー手術、有水晶体眼内レンズ、オルソケラトロジーがある。
・レザー手術は、レザーで角膜の形を変えてしまうもの
・有水晶体眼内レンズは、角膜と水晶体の間に、コンタクト・レンズ
 を入れて矯正する方法。
・オルソケラトロジーは、寝ている間にハードコンタクトを入れ角膜に
 クセをつけてしまう方法である。レザーや、有水晶眼内レンズを入れたり
 すると、ドライアイになりやすい欠点もあるという。
 今回の短い先生との会話を再現してみよう。
・私の質問、  レザーや、有水晶体眼内レンズの失敗確率は?
  先生の答え、 数千分の一
・質問、 失敗したり、上手くいかなかった時は、どうなるんですか?
  答え  出血をしたり、レンズがずれたり、黴菌が入って炎症が
     起きたりするケースがあります。
・質問  もしも初期の白内障を取ってもらって、レザーで矯正をしたときの
     中期的なマイナスは何ですか。
  答え  早ければ早いほど、次の段階、緑内障に移行する時期が
     早まることになります。
・質問  私の今の段階での手術は、先生は勧めますか?
  答え  私は元々、手術は最後の手段で、本来はすべきでないというのが
     持論です。今回の場合は、手術は勧めません!何を選ぶかは本人次第。
・質問  もし、手術をしたときに眼の度数が進んだり、
     白内障が再度出るのですか。
  答え  もちろん、度数は同じく進み、白内障も出てきます。
     更に緑内障になる可能性も早くなります。
・質問  近視の進行を止める薬が開発されたと聞きましたが、実際に、どう?
  答え  あれは、過大評価で、殆ど効きません。出しても良いですが、
     効かないものを出すこともないでしょう。
▼ 以上であったが、それにしても良心的な先生であった。身近な二人の経験者
 が同じような忠告をしてくれていたが、「緑内障への移行が早くなる」と、
「貴方の体質は極力、手術をしない方がよい」が、今回の断念の決め手である。


5516,閑話小題 〜トランプ・マニヤ

2016年04月22日(金)

   * 道化師の泡沫候補の鼻息
 「トランプの暴言集」とネット検索をした結果の一つに以下の内容があった。
典型的な泡沫候補が、共和党候補になる勢いだが、保守白人の本音がこれ!
共和党内の支持者の91%が白人、「移民が米国民の雇用や医療保険を
剥奪している」と考える人が83%、「黒人が貧しいのは本人の責任だ」と
考える人が93%だった。男性のトランプ支持が女性の倍。つまり、弱者への
優遇に不満を持つ白人がトランプの暴言に溜飲を下げている。末恐ろしが、
これがアメリカ白人の本音。 〜「トランプの暴言」で検索すると〜
【 1年前は“道化師”とからかわれたドナルド・トランプ候補(69)だが、
 今や大衆に強く支持されて共和党候補のトップを走っている。
 その理由は全身をポピュリズムで武装しているからだ。
・「ポピュリズム、いわゆる大衆迎合主義というのは支持基盤がもろいので、
 トランプブームは一過性というシナリオも描いておく必要がある。ただ、
8年前にオバマ大統領が『チェンジ』を掲げ、彗星のごとく登場したときの
ように、既存の政治と政治家に対する不満を一手に引き受け、国民に夢を
抱かせるような候補者がトランプ氏以外に見当たらないのも事実です」
(在米日本人ジャーナリスト)
 トランプ候補は、いわば民衆の“怒り”のはけ口となっているのだ。
しかし、陣営には政策担当者がいない。それもあって、誰もトランプ氏の
暴言・失言を止められないでいる。暴言を幾つか拾うと、
・まずは【移民、難民、イスラム教徒、女性蔑視】について。
「メキシコ人は強姦犯だ」
「(不法移民を締め出すために)国境に万里の長城を築く。
 ただし費用はメキシコ持ちだ」「移民なんかクソくらえ」
高卒の保守層労働者にとって、メキシコ移民は自分たちの仕事を横取り
する存在だ。暴言には違いないが、労働者は怨念を晴らしてくれたと
拍手喝采を送った。とはいえ難民、不法移民は米国に1400万人もいる。
彼らはすでに既得権益化し、強力なロビー活動を頻繁に行っており、
簡単には解決できない。
「すべてのイスラム教徒の入国を拒否すべきだ」
 この発言には与野党一体となっての非難の大合唱。イスラム教徒や
メキシコ人排撃は、ポピュリズムの極端なアピールだが、そもそも移民の
連邦国家がアメリカであって、WASP主流(白人エリート支配)という考え方が
成り立つはずもない。
 また、女性蔑視発言は大の得意技。特に強烈な2つを紹介しよう。
まずは同じ共和党唯一の女性候補だったフィオリーナ氏について。
「あの顔を見てみろよ。誰があんな顔の奴に投票するってんだ?」
 民主党ヒラリー・クリントン候補にはこんな一言。
「夫を満足させられないヒラリーが、アメリカを満足させられると思うか?」】
▼ まあ、いくら本音といえ、こういう人物が、共和党候補になること自体が
 アメリカのジレンマが現れ出ている。これはモンロー主義そのものになる。
世界にとって他山の石でない。それだけ、世界は動乱期に入ったということ。

・・・・・・
5151,知の逆転 〜⑨
2015年04月22日(水)
           ー知の逆転ー  対談相手 オリバー・サックス
   * 人間特有の能力とは
 人間特有の能力とは、「文法」と「読む能力」という説。これは50年近くの
読書習慣と、一日一文章の作成から実感するが、少年期に読書週間がなかった
ことがハンデになって現在に至っている。それでも、読書習慣で助けられた。
文法こそが、多くの意味をもたらすが、技量をつけるには量をこなすしかない。
≪ ・多くの動物や猿が、40もの異なる危険を知らせる音を持っていること
 が知られていますが、これらはどちらかというと記号のようなものです。
人間の言語では、チョムスキーの言うような意味での「文法」というものが
不可欠になります。文法こそが言語に限りなく多くの意味というものを生み出す
ことを可能にし、言語をクリエイティブなものにします。単に情報交換を目的と
したコミュニケーションのためだけでなく、われわれ自身そのものを表現する
手段としての言語というのは、人間に特有のものでしょう。
音楽もそうです。録音機を持って50万年前に戻れたらいいのですが。
・言語の一側面である「読む能力」というものは、強力で人間に特有なもの。
しかしこの能力は進化の直接の産物ではありません。環境の視覚認識のために
使われていた能力を利用したものです。類人猿では個々の記号を認識するところ
まではできても、テキストを読むというのは無理で、これは人類に固有の能力で
あろうと思います。この能力は、限られた知能しかない場合も含め、おしなべて
人類に共通する能力なのです。 〜p153 ≫
▼ これを人間の能力にも言えること。その力量に比例して「文法」と
「読む能力」が身についていく。「文法」は、話す能力、書く能力。
「読む能力」は、相手の、社会の発信する知識・情報を受止める能力になる。
14年間、これを続けてきたのは、この努力の効果と、その蓄積からくる醗酵の
効果が実感できるため。 ネットによる「文法」の意味とは、<広義の文法は
言語能力であると考え、音声や意味から独立した自律的 な構造を想定し、
それを特に文法と呼んでいる。> 言語能力こそ人間たる思考能力になる。
読め読め読め、聞け聞け聞け、書け書け書け、そして黙れ!ということか。
・・・・・・
4786,自分の頭で考えるための哲学講義
2014年04月22日(火)
         「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、
と、色いろと変化をしていく。そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、
人生を大きく左右する決断が突きつけられる。その中で、大きは危機が
体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴
に落ち込んでしまう。精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業
とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、価値感である。
その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる
 価値の明確化を援助する方式をとる。従って確定した知識を権威として教師
中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・ アメリカの教育学には、
二つの大きな流れとして本質主義と進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校には
それを次世代に伝達するという、社会から依託された任務があることを強調
するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重
して活動意欲を引き出すことを重視する」と。 そして、本質主義に基づき
価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判される
につれ、進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が
主張されるようになったといいます。そして現在では、両者の統合が課題に
なっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、
ラス、ハーミン、サイモンらが『道徳教育の革新』のなかで主張した
「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観
をもつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を
確立する手法を明確化しようとしました。 それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
     ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが
 経典に従い、自主独立で、前向きに生きなさい」という事だが、更にマトメル
と、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、大切に、肯定的に、
選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 
価値観は、それぞれの年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続け
なければならないことになる。まずは両親など家族からの価値観から脱皮する
には、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が
必要条件になる!三年前の【3679, 自己を見つめる−6 2011年04月22日
「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!
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4419, この結果に感謝している!
2013年04月22日(月)
 一昨年の倒産劇から数ヶ月あたりから、
「この結末が私の人生にとってベスト?」という思いが心の片隅に生じていた。
他人に言うべきことでもないし、失業させてしまった社員や役員に対しても、
こんなことは口が裂けてもいえないこと。2001年の9・11テロ以来、10年間、
右下がり傾向が続き、リーマンショックで売上げが三分の一まで落ち込んでいた。
経営は死に体に近づき、真剣に止め時を探っていた矢先の東北大震災。もう駄目!
と早めの決断をした。その事業物件の買手が直ぐに見つかり、同じホテル名で
新経営者の下で現在、営業が続いている。一般債権もほぼゼロで、金融債権以外
は思惑通りの清算ができた。会社借り入れの個人保証もあって普通なら個人破産
しかないが、物件の処分が順調だったこともあり、何とか破産なしの無傷で
済ますつもり。担保に入っていた自宅も、家内が買い取ることで確保。 何とか
今までとおり生活をしている。 順調に誰かに経営を渡すのと、この結果の
どちらが良かったか、勿論、前者と思うが、こと私の人生という面からみると、
この方が良かったとも考えられる。 全てがベストに動いてきたから、人類も、
自分もいる。 先日の高校の同級会で、半年前に老舗の会社を倒産させた人が
隣でシミジミと、「この結果で終わったことに感謝している。こんな気持ちに
なるとは思ってなかった」と、現在の私の心情と同じことを、そのまま語り
かけてきた。 これは実際に経験した者でしか言えない言葉。無念で、情けない
自分と、周囲の好奇の視線の中、独りで日々、悶えた結果、この現実をそのまま
受け入れるしかない中で、実はこれがベストの結果だと気づく。「この苦しみを
与えているのは、神(自然)が、何かの意味を気づかせようとしているのでは
ないか」という、フランクルの問いかけである。その時に自然に出てきたのは、
「この経験で私は、やっと半人前になったが、貴方は以前の不幸分を加えると、
半人前から一人前になった」で、ある。互いの心奥の葛藤と、その思いは同じ。
過去を振り返ると、何度かのどん底の青春期の日々にこそ、人生の味があった。
思い出すのは絶頂の浮かれていた日々でなく、瀬戸際で呆然と過ごしていた
日々である。あの時、何かが変わろうとしていた。それと同じ心情が、
「この結果(状況)に感謝!」の言葉に集約されている。底に下りてしまえば、
不安感など消滅。結果を素直に受け入れれば、そのまま安心立命の境地に到達
できるのが人生。実際に倒れ、孤立し、そこで人生を俯瞰すると、全く違う
目線を得ることが出来る。その視線から、これまでの人生を振り返ると、
何とつまらない自分が見えてくる。だから、「この結果に感謝している!」
の言葉になる。なかなか人生は味があり、面白い。
それを味わうのが、これからの人生。 
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4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
 私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、
互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。4〜10歳までは1Fが店舗、
2Fが倉庫と事務所、3Fが住居、4Fには住込みの女子従業員7〜8人が住む。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7〜8分離れたところに
住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで遊ぶしかなかった。末っ子は
親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に
周囲の顔色を窺がう性格になっていた。特に父親が店と家族と親戚を束ねていた
絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。そのため?末っ子
の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、
常に親や兄弟から許されてきた。それが今でも直らず、失敗をしても許される
だろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを
聞いて、「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。家族間では絶対に
互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを殆んど聞いたことがない。 
児童心理学では、家族は5人以上が必要という。一人っ子は同年代の心の内を知る
機会が少なく、孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいない
ため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、性格が形成されるのは自然
の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。
7歳年上の姉が勉強の仕方とか、自分の夢をイメージ化する重要性などを、
節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。末っ子は、
末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  
両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。
「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。確かにそうだ。特に両親にとって、
ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。そして遺言も財産に
関しても、不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常に
お手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。末っ子の特権を充分享受した。 
それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。後年になって
長姉がいうには、いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。
ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は事業の立ち
上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。
それぞれの性格はその時代の背景と、血液型と家族関係と両親の年齢などによって、
微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント
手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、その次女がひねて非行に走る
ケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は
上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。常に気を張って
いなくてはならないのがその宿命。食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、
早食いが癖になっていた。多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 
他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。それと結婚の相手は長女が
いいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。そういえば過去に惹かれた
女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。また末っ子は口が堅くなく
てはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。しかし万一
告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会。
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3679, 自己を見つめる −6
2011年04月22日(金)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、
「少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 
この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
  ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に
 貢献した人々はみな、その生涯において、自己決定の稀な瞬間を生きとおして、
 それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。もちろん、際立った、選り
抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、
自己の人生と運命を生き抜き、そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、
自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、
多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、意に満たない、悲運のなかで
一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、
運命として肯定しながら、この世に別れを告る覚悟で人生を生きるものである。
そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が一回限りの形で生起し、
代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、
永遠の闇から闇へかき消え、あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、
少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。 】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要
条件を満たして生きるということにほかならない。また、人間が社会的存在と
して、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間
の存在の必要条件を満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけ
では、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が 満たされた
ということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、
なんらかの社会的環境のなかに置かれて生きるということならば、誰もがやって
いることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは
比較的恵まれた環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。
けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかにただ置き入れられて、
それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、
ほんとうには、まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、
   それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。


5515,閑話小題 〜「はてな」のブログ、100万人超え

2016年04月21日(木)

    * 「はてな」のブログ、100万人を超えた!
「はてな」ブログのビュアーの数が、昨日で延べで100万人を超えた。
開設以来、9年4ヶ月、一日あたり300弱になる。現在も、月当たり
を均すと、同じ300人になる。 月の4分の3が、250前後だが、
月に一週間ほど、その2〜5倍のウネリがある。なぜか、内容に力が入った
ときにビュアーが増える。
 当初からの個人HP「えんぴつ」が、ちょうど丸15年。この「えんぴつ」
のブログは一日40人前後。当初から増えも減りもしない。旧来からの知人を
中心にしたビュアーが見ているようだ。 内容が「はてな」と同じため、二つ
とも見る人もいないから、合計で一日330人が見ていることになる。
 一つにしないのは、万一の炎上したときのリスク分散のため。 
それにしても100万人とは驚き。それと15年と、9年4ヶ月も。
  * ああ、お金ですか
 誰かの言葉に、『 人々は、お金では貴いものは買えないという。
そういうきまり文句こそ、貧乏を経験したことのない何よりの証拠なのだ 』
がある。学生時代から社会に出だしの頃、自分のお金が手元になかった。
誰ものことだが、金が無いと、希望も夢も、遥か彼方にしか見えてこない。
そして10年、20年経ち、それなりの金額が、資本として見えてきた時、
自分の言葉と、目の前の具体的な夢と自信が見えてきた。貴いものも、貴く
ないものも、具体的な自由を現前に現してくれるのが、お金。問題は、それを
生き金か、死に金にするかである。 それもこれも妄想でしかないなら、
持った上で妄想をみたいもの。

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5150,知の逆転 〜⑧
2015年04月21日(火)
         ー知の逆転ー 対談相手 オリバー・サックス
   * 没頭している「平和の時間」こそが
 午前中、4〜5時間、仏間にある書斎コーナーで、本を読んだり、パソコン
に向かっているが、その時間はアットという間に過ぎてしまう。集中している
ためだろう。ネガティブになりがちな身の上?に、老齢化が重なっているため、
落込みへの解毒剤になっている。冬場を除いて、朝方の自転車散歩も加えて、
何とかポジティブ3にネガティブ1の比率を維持している。
 ここで、<没頭している「平和の時間」が、最も望ましい>というが・・
この随想日記の習慣の効用である。没頭には、長年の継続が必要である。
 ーその箇所を抜粋ー p149 
≪ ・・私自身も、書き物をしたり考えたりすることに没頭しているとき、
 あるいはピアノを弾ひたいたり音楽に浸っているとき、神経症やうつ病が
消えて、時間というものを意識しないで平和な時を過ごすことができます。
われわれは誰もがそういう時間を必要としているのです。フロイトの精神分析
では、楽しいことに没頭しているときの平和な時間という部分が看過されて
いると思います。彼の精神分析では、生は緊張として捉えられ、緊張が解ける
と何もない状態になると解釈されているわけです。しかし、ポジティブな
平和な時間というものは芸術や科学の基盤であり、最も望ましい状態では
ないでしょうか。≫
▼ 「平和の時間」は、外界の喧騒から隔絶出来て、気持ちが集中、脳も、
 心もシンプルでいられる。週一のシネマも、ポタリング(自転車散歩)も
「平和の時間」。リタイア直後に立てたプログラムは、まず、ストレスによる
自己崩壊を避けるためだったが、結果として「平和の時間」の維持の効用に
なっていた。今までは会社の維持に向けられたエネルギーが、「平和の時間」
に向けられるから、悪いわけがないが、だがストレスは生半端ではない。
それが当り前だが! 知恵を使って、見方、支点を変えれば、逆境さま様!
ものは考えよう、面白いもの。 偶然だが、以下の内容が、丁度良く続く。
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4785,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜②
2014年04月21日(月)
   * 倒産よもやま話(三年目の実感) 〜②
「その直後、気持ちを落ち着かせるため、東京周辺に一週間ほど出たい」と、
弁護士に相談すると、「一番、大事な時。それは問題に対し後ろ向きになる。
苦しいが今は、直面し続けるしかない!」と一喝。そのことは以前から体感して
いた為、納得。問題の中心点を凝視し、立ち向かい続ければ、時間が解決する。
この経験で、身近の経験者のことが、解っているようで実は何も解ってなかった
ことに気づいた。実は、「犯罪者が捕まり、ホッとした気分は、こんなもの?」
という風な、変な安堵感もあった。 現時点では、『人が死ぬって悪いこと?』
と、ほぼ重なる。 バブル崩壊、9・11、9・15、3・11で、時代が根こそぎ
変わってしまった。現在時点の、良い悪いは、表面的な現象。
10年前から、現在に至るまで何が起こった? 身近の天変事変では、中越地震、
柏崎沖地震、東北震災。 世界では、数万規模の死者が出た、幾つかの大地震。 
経済では200年に一度といわれるリーマンショック。そして、今後10年で、
その数倍規模?の自然災害、経済災害が、間違いなく起こる可能性が高い現在、
「倒産、廃業が悪」の図式・考えを捨てるべきではないか?というのも、
排除してはならない。その辺は、自分の自頭で考え、判断すべきである。
 その上に、飛躍的なパソコンの携帯の進化で、これまでの現実社会をネット
社会が覆ってしまった。そしてアメリカのルールに習え、のグローバル化。
これが、良くいえば創造的破壊という美名の元に始まっている。
その最たるものがTPPである。経済的な日本併合である。それにしても、
国家戦略ゼロの日本の思考能力に暗澹たる気持ちになる。この節目は、やはり
明治維新、太平洋戦争の敗戦に匹敵するか、それ以上の事態。それに、呆気無く、
飲み込まれてしまったのが、この一連から、鮮明に見えている。私のケースは、
事業からの私自身のリストラであり、経済社会からの完全リタイア、排除である。
で、近く避難先で、町を見下ろしている。  
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4418, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー7
2013年04月21日(日)                
 * 幸福とは何か ー大富豪とマサイ族   
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著
 幸福とお金の関係は、なかなか難しい。幸福の必要条件の一つにお金があるが、
十分条件では決してない。その辺りを、以下で大富豪とマサイ族を比較して
分かりやすく説明している。
≪ アメリカでは一九八○年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが
 行なわれている。これは厳密に科学的なものではないが、様々な調査によって、
統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏著『幸せを科学する』)。 
ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカのビジネス誌
『フォーブス』に載った大富豪たちの満足度の平均は五・八だった。彼らは
資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど望む
ものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。 アフリカのマサイ族は、
ケニアとタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮し
をしている。同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった。目の眩むような
大金は、ひとをたった○・四ポイントしか幸福にはしてくれないのだ。
もちろんこれには様々な解釈が可能だが、大富豪がマサイ族の村に行ったと
したら幸福だと思うだろう。マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、
極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。幸福感は相対的なものだからだ。
マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで
暮らしているからだ。それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、
その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなる。 
 でも彼の人生は、まだマシな方だ。この調査によれば、世界でもっとも
不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きているホームレスだ。
彼ら貨幣空間の敗残者は富も人間関係もすべて失ってしまい、自分たちより
過酷な生活をしているインドのスラム街の人たちよりはるかに幸福度が低い。
もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。お金が幸福の必要条件
ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。ぼくたちがお金に
こだわるのは、それが「安心」「安全」という大切な価値と結びついているから。
ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件
のひとつだ。そして市場経済においては、この安心はお金で買うしかない。
日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になった
ことで、この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの年金に頼って
いたひとが、安心を奪われてしまったのだ。 でも単純な経済問題だから、
お金により解決できる。財政破綻で年金の大幅減が実行されても、宝くじで
一億円当たったら、どうだってよいと思うだろう。(当たらないと思うが) 
幸福のためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動。ところが皮肉なこと
に、宝くじの当せん者を追跡調査をすると、実はあまり幸福のなっていない。
買物や豪遊で賞金を使い果たすころには、自分には何も残ってないことに
気づくのだ。 ・・・ ≫
▼ ー我われがお金に拘るのは、「安心」「安全」という価値に結びついて
 いるためーというのは分かる。ならば、日本は世界一の「安全」で、「安心」
して暮らせる国で、万一のことがあっても、生活保護がある。しかし自殺は
先進国の中でトップクラスにあるし、国民は幸せそうでない。何故なら国の
先行きが見えないためである。先行きなど、かつても見えなかった。
中途半端な幸せを長年続けてきた結果、激変の最中、動揺しているのである。
東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見て
もらったが、殆どコメントをしないで帰った。彼らにしたら何をか言わんである。
豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを
見れば分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?
でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。先行きの不安感は、
今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」
など感じようもない。
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4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長
に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。その精神的成長とは
どういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、
考える力が増すことーいろいろな面から考えることが可能だろうが、そのどれも
が結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから
私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と同等な〈個〉、
すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と
同時にその制限をも意味している。言葉をかえると、他人と出会ことによって、
子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、
いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。もちろん人間にとって
最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんど
の子どもにおいては、母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人
として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむね
あてはまるだろう。 ≫
▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。
 その時の面々が、その時の自らの分である。それは、自分の広がりでもある。
それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと
暖かさの差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、
その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。自分を意識する前に
見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠が
でき、それが自分になる。それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡
となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
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3678, 自己を見つめる −5
2011年04月21日(木)
  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  ー 境遇 ー
【人生においては、私たちは、それぞれの境遇で、様々な経験をしながら、
 自己自身の人生の有意義性を目指して、日々努力を重ね、永い人生行路の
 過程を踏み、自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的
 歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。
 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール
 (旅する人)」だと語られる。しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何で
 あろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに
 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・
  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。
 格言に言われるように、可愛い子供には旅をさせねばならず、異境に出て、
 他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、
 私たちの人格は、大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の
 過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて見守らねば。
 こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、
 裏切ることのない、誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みの
 すべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、貴重な人間的
 経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる
 人間にとっての、最も崇高な、道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】
▼ 神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型
 である。それは、自分の魂にとっても同じこと。異質なものとの出会い、
そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に
出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ
初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、人格は
大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは
異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。
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3313, 対話について
2010年04月21日(水)
  「プラトンー哲学者とは何か」 納富信留著
 * 対話について
 プラトンの「対話篇」を分かりやすく噛み砕いてある内容である。
以下は、そのエッセンスの部分である。プラトンと、ソクラテスの立場を
簡潔に分かりやすく述べている。 ーまずは、その部分から (p28)
ソクラテスはつねに「対話」において人々と語り、プラトンはそれを「対話篇」
として書いた。ソクラテスとプラトンとの出会いは、また、言葉を語ることと
書くことのへだたりと「対」として現れる。ここに、哲学成立の秘密がある。 
対話とは、人と人との出会い、言葉をつうじて何かを追求し明らかにしていく
営みである。それは、顔をもつ生きたひとりの人間と人間のあいだにかわされる、
一度かぎりのやりとりである。 対話は、それがかわされる特定の生きた状況、
時と場を離れてはありえない。会うのは心と心であり、ぶつかりあう言葉と
言葉が吟味により明るみに出し対話する人の生そのものである。そして、人と
状況は、その対話を通じて変化していく。対話を交わした人のあり方は、もはや
以前のものではありえない。 人が形つくる対話の言葉は、また、その人を
形作るものである。そして、対話は、二度とくりかえさることはない。 
これに対してブラトンは、語られる言葉を書かれた言葉にして残した一度しか
起こりえない対話を書き物に結晶させた時、それは時を越えて反復可能なものと
なった。書かれた対話は、うつろいゆく言葉を文字に留め、それを読むことが
対話を反復させる。私たちの心には、思りという新たな対話が生み出される。 
そうして書かれた対話篇において、対話は対話者たち、さらに、著者プラトンの
手を離れて、私たち読み手のものとなる。 一時の対話を永遠へとつなぎとめる
著者と、それを再び時間においてくり返す対話者。対話篇を読む私とは、
そのようなもうひとりの対話者なのである。しかし、ソクラテズが従事する
生きた対話と、それを書きあらわした対話篇とのあいだに根源的な隔たりがある。
このギャップは、「パイドロス」で、エジプトの神々の対話という形をかりて
語られる、「書かれた言葉」への批判に現れる。文字が記憶と知恵のための
すぐれた発明であると自慢するテウトに対して、王神クムゥスけこう批判しる。
書かれたものを信頼することは記像力の訓練をなおざりにする想起の秘けつに
すぎず、それが与えるものは真の知ではなくその見かけにすざないと。 
書かれた言葉は、問いかけても何答えない。
 〜〜
 対話について、これだけ分かりやすく書かれているのものも珍しい。 
学生時代にプラトンの「ソクラテスの弁明」を読んでいたが、何を理解して
いたのだろうか。 字づらだけを見て、知ったつもりでいただけではないか?。
 反面、学生時代に寮にいたことや、ゼミや、クラブの人たちなど色いろな人と
一度限りの対話があった。その蓄積が人生の大きな基盤になっていた。そして
自分の壁を破壊してくれていた。現在、ツイッターが爆発的に広まっているが、
あれは会話?でしかないのか。それとも、人によっては対話になりえるのか? 
ブログでは対話が成立していると思うが!議論すること、書き留めること! 
その青さを持ち続けること!  チロリチロリだけでは、だめか?


5514,恐竜と人類どっちが凄いか ー②

2016年04月20日(水)

 「人間の人生は豊かとは」を何をもって言うのか? の問題が残るが、
私が生きてきた実感は、人間は、他の動物から比べ豊かといえる。
それは、人間は雑食者で、利己主義に加えて利他的であり、人生に意義を求め、
豊かさを実現しようとする言語手段と、その記録方法を早くから身につけて
いたからである。その人生を楽しまなくて、何のための人生ぞや。
  * 人間の人生は豊か
≪ 人類の中でも人間とはいかなる存在か、人類ばいつどのように人間に
 なったのかを、探るのが、人類学の重要なミッション。〜主な事項を拾うと〜
・まず人間は、驚異的な雑食者。霊長類は基本的に植物食だがが、人間は各種
植物に加え、鳥獣肉から魚介類まで手を出す。人類進化史でそのような選択を
迫られるきっかけがあったらしいのだが、ここまでメニューを広げられたのは、
陸.海.空の資源を利用する技術発達があってのこと。不安定な自然環境下では、
雑食者は偏食者より有利である。その利点に加えて、高い食料調達技術を持つ
ようになった人類が結果的に成功したのは、理解しやすい。
・人間にも、他の動物と同様に利己的な側面がある。しかし仲間を思いやり、
仲間と通じ合いたいとする感情が一段と強いのも、人間である。血縁のない相手
とも積極的に食物を分け合ったり、他人に教えてあげたりする行動が、人間に
独特であることをご存知だろうか? 例えば集まって会食している人間以外の
動物など、見たことはないだろう。野生動物界ではふつう、採食=争奪である。
外敵から隠れてひっそりしている、あるいは暇があったら寝ているというような
通常の野生動物たちに比べ、人生は楽しみに溢れている。前出の会食のみならず、
スポーツや音楽や芸術があるし、旅行や読書や勉強だって楽しい。他の生物の
生き方を否定しようとは思わないし、恐竜の生き方に至っては実態がよく
わからないが、「人生に意義を見出そう」という発想があること自体が、
何とも素晴らしいではないか。人間は、生きるということを豊かにした
生き物なのであると私は思う。 ≫
   * 人間の共通の祖先は既に凄かった
≪ 一昔前には進化は漸進的に生じると考えられていたので、例えば3万年前の
祖先ともなれば現代人よりかなり知的に劣っていると、決めつけられていた。
しかし世界各地の現代人が共有している種々の能力は、言語力にせよ芸術を
生み出す創造性にせよ、アフリカにいた現代人の共通祖先に既に備わっていた
可能性が高い。4万年前頃に日本列島にやってきた人々も、その例外ではない。
例えば種子島や富士・箱根地域には、3万年以上前から、狩りのための落し穴が
作られていた。これは、罠という動物行動を先読みした高度な狩猟法の、世界
最古の直接的証拠として、たいへん貴重。新石器時代になって世界に普及する
磨製石器の技術も、日本とオーストラリアには2万5000年も前からあった。 
さらに面白いことに、琉球列島や伊豆諸島においても、相当にチャレンジング
な海洋渡航が太古の昔から行われていたらしく、さらなる探求の価値がある。
人類学とは人間の凄さ・面白さを知れる学問なのだと、研究を20年積み重ねた
最近になって、ようやくわかってきた。 ≫
▼ 人類は、言語手段と記録方法を身に付け、探求し、生きることを楽しむ
ことが、人類の人生を豊かにしてきた。これを、そのまま、個人に当てはめる
と、人間、如何に生きるべきか、「良く遊び、良く働き、良く学ぶ」を、実践
して積み上げた分、豊かな人生を過ごしたことになる。問題は「良く」!「欲」
に何時の間に変質するから困ったもの。で、このザマ! お後が宜しいようで
・・・・・・
5149,閑話小題 〜家族という病
2015年04月20日(月)
  * 家族という病
 NHKアナウンサーだった下重暁子が『家族という病』という本を出した。
家族も、国家同様、共同幻想とみることも出来るが、「欺瞞を信じること」
が問題と、いう。 〜アマゾンの内容紹介から〜
≪ 日本人の多くが「一家団欒」という言葉にあこがれ、そうあらねばならない
 という呪縛にとらわれている。しかし、そもそも「家族」とは、それほど
すばらしいものなのか。実際には、家族がらみの事件やトラブルを挙げれば
キリがない。なのになぜ、日本で「家族」は美化されるのか。 一方で、
「家族」という幻想に取り憑かれ、口を開けば家族の話しかしない人もいる。
そんな人達を著者は「家族のことしか話題がない人はつまらない」「家族写真
入りの年賀状は幸せの押し売り」と一刀両断。家族の実態をえぐりつつ、
「家族とは何か」を提起する一冊。≫
  〜ビュアーからの投稿より(アマゾン)
【 世の中には口にすること自体タブーとされる領域がいくつかある。
 出生、能力、死、犯罪歴、宗教、遺伝、国籍などである。
本書は「家族はすばらしい」は欺瞞である、という斬新な切り口から
家族観における1つのタブーに挑んでいる。これまでにないテーマだけに
読後感は様々だろう。本書の主旨、提言などと全く無縁なまま一生を終える人は
ある意味安泰で幸福な人生かもしれない。しかし家族の中にも修復不能となる
アクシデントがなかなかの頻度で発生するものだ。配偶者との離別は無論、
血縁者間でも家族内崩壊は起きる時には簡単に起きてしまう。
 一家団欒を無邪気に肯定するのも悪くないが、ある種の読後感の悪さを
犠牲にしても筆者の視点に一度触れておく効用もあろう。読み進むと上記の
保険的効用だけでなく筆者のより普遍的な家族観を垣間見ることができる。
いかに生きるかは正しい死生観が前提となるように正しい家族観には
本書の主旨の理解が前提になるのかもしれない】
▼ 家族のあり方は、時代により変化していく。TVのインタビューや、
上記の内容を見る限り、納得する部分と、違和感を感じる部分がある。
国家幻想論を、その構成要素の一つの家族に当てはめると、これまた共同幻想
でしかないことが分かる。その家族の形態が情報化の時代の中で、大きく変化
を始めてきた現在、そのあり方を根こそぎ否定してみる必要がある。
 殺人事件の過半数以上が家族内殺人という現実がある。 商家の大家族の
末っ子の環境で、下目目線で家族を見てきた経験から、また両親から孫の
ように扱われたため、その温みが今でも残っている。それもあって、著者の論
は、あくまで一面でしかないことも見て取れる。 私の家族は、戦前、戦中、
戦後と、生き抜く中で、全員が病というより、戦傷の深い痛手を受けていた。
誰一人として、家族が素晴らしい!など思ったことはなかった。ただ自分ひとり
を守り、生きていくだけで精一杯。 この時代は誰もそうだったのだろう。
家族は素晴らしくあらねばは、占領国アメリカの洗脳の一つでしかない。
確かに家族は病であるが、魂の故郷でもある!家族が病と割切って良いものか?
・・・・・・
4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜①
2014年04月20日(日)
  * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、
相談にのっていたのが予備知識になっていた。お陰で、右往左往することなく
比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通
する点が、弁護士などの代理人をたてること。そのための資金を必ず確保する
ことを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理
事務所の合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけて
いたので、内情を知っていたこともあり、順調に手順が進んでいった。 
無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 
過酷というより、「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、
思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。 2011年3月30日
午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち
三人の役員が起立をして礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。
その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。その時から、二人の役員
は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。と同時に、私は倒産会社の
前社長。翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。
午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。その後は、取引先からの問い
合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業
人生の緊張感が切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、
取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、一週間経ってから、
マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡み
もあってか、日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から
自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は解っていたので、迷わず
断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模
から見て、当方が最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 
振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」など、とんでも
ない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない
典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウト
にした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に着いているのをビデオで何度も
流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。
恐らく、ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校
野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な子供の心を傷つける
ことになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。
ビデオの方が人間の目より明らかに優れている。その結果の現象だが・・試合が
流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。これと同じことが、
政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが
出来ない。私利私欲や党略で、正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。このところ
二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。別に好きでやっているわけでないが、
大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回
以上は仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに
徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、いつも、「宴会ととも
にあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。
 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴とも饗宴ともいう。
また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。
一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、
年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、
人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で
宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開くケースが多いという。小・中学校、
高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが
実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。
本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、旅に出ずに複製しか
見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかった
かもしれない。現代の進歩した印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに
小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりは
ないという絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる
絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、越え
がたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 
あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。本物を見ても、複製を見たのと
同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。
そういう形で感動した絵は実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見た
フェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということに
しかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。その沈黙の中に、
無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、
少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。沈黙はもっと深く、ことばにならぬ
ことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは
謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、絵の美しさにほんの
少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で
立ちすくし、身動きが出来なくなる。ダビンチのモナリザ、サンピエトロの
ミケランジェロ作ピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホの
ヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、10分間ほど、釘つけになって
しまった。出会いである。そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
・・・・・・・
3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に
直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが指摘している。 その限界状況に
「人生の不条理」に突き当たる。その時、それまで隠されていた真実が現れ出る。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。
正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ
出され、置き入れられて、人生の途上にある。その私たちの無に貫通された
現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが
刻印されている。ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、
どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。限界状況とは、
それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越る
ことの不可能な壁に直面した状況を言う。そうした限界状況に面座して、
私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の
根源的事実に突き当たる。しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとう
の「実存」が目覚めてくる。実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、
その拒否できない現実のあり方のことである。自己の実存を自覚し、それにも
とついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ
出されと「被投的」存在である。その「現事実性」を引き受けて生きて
いかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければ
ならない辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させよう
という気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、好んで受け
入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いもの
ということを骨身で知っている。その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を
予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
  自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、
言われると、挫折体験を振り返ることになる。その意味で、挫折体験の中には
  多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが
 人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
 ・・・・・・・
3312, ゴールドマンを訴追
2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。何か不思議な感がして
いたが、やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。アメリカは金融
マフィアが仕切る国でも、歴史に残る犯罪を、見逃すことは歴史が許さない。
以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。
例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
・・・・・・
2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」
という。知人の何人かが経験者、聞いてみると「白内障の手術時にレンズを
入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、
去年の半ばに、春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎよう
としているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、何と自宅から
数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た
(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな医院があったが、まさか、そこが気に
していたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと
見えてこないものである。(字数制限のためカット 2012年4月20日)


5513,閑話小題 〜老人漂流の闇

2016年04月19日(火)

    * 団塊世代の老人漂流問題
  先日の、放送のNHKTVの、シリーズの
「老人漂流社会」の【団塊世代に忍び寄る老後破産】の内容が、シリアス。
このシリーズは毎回、見ているが、続いているのは、誰にとっても他人事では
ないため。「毎月の家計の赤字が10万。2百万の預金が無くなる2年後、
どうなるのか」の真剣な悲痛などが、次々と映し出される。家内が、「駅前の
ヨーカ堂は、年寄りばっかし!」と帰って早々、愚痴るが、そういう当人も、
団塊世代で、あと一月あまりで66歳。当人、年金支給日の銀行の窓口の年寄り
の殺気立つ、あの空気を知らない。それでも、まだ貧困者に向けた炊出しの行列
がないだけ、良しとしなければ。  〜NHKのHPによると、 
< 超高齢社会の課題を伝えてきたシリーズ「老人漂流社会」。
今回は日本の屋台骨を支えてきた「団塊世代」に忍び寄る老後破産の現実を
伝える。終身雇用制に守られ、経済的に余裕があると思われてきた世代だが、
長寿化した親の介護負担が重くのしかかる上に、不安定就労の割合が高い団塊
ジュニアを支えていることが分かった。番組では、親も子も支える「板挟み」
に直面する団塊世代のリスクを密着ルポとデータ分析で明らかにする >とある。
▼ 私も現役と比較すると決して楽ではないが、夫婦して厚生年金と、家内名義
 の預金の取崩しで、何とか人並みの生活が出来ている。 同級会で、真剣な
眼差しで、『こういう会費を、そのつど、奥さんから貰っているの?』と、
聞かれた時、『そのたび、土下座してもらっている』とのジョーク?の替りに、
思わず、『桁の違うお金ぐらいは持っているよ!』と見栄をきっていた。
で、後で、「桁の違う金とは、幾らだろう?10万、百万、一千万、一億?」と、
想定してみたが・・ ここまで来れば、一桁二桁の違いは同じ? 「老いたら、
金が無くとも、有るふりをしろ!」と、聞いていたが、「なるほど!」。
「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる」を捩って、
「老いてきて 腰の痛みに涙して 人の心の奥ぞ知らるる」となる。

・・・・・・
5148,閑話小題 〜原監督の休養
2015年04月19日(日)
   〜つれづれに ー原監督の休養
 巨人の原監督がインフルエンザで休んでから、俄然、巨人が負けなくなった。
これを知ったとき、「少し休ませろ!」と球団から命令があったと直感したが・・
監督本人に挫折経験が少ないため、中途半端な負けが、開き直りが出来ない、
そのことが選手の動揺を抑えることができないため。 捩れの要素として、
・安部を一塁専任し、キャッチに戻すことはないと断言したことが、彼にとって
 負担になったこと。その動揺が、他の選手にも大きく影響をしてしまった。
 またキューバの有名選手の不振も、これに呼応した。
・問題は原監督の耐用年数を超えてしまったことにある。元に戻って、
 監督を続けることになるが、これで今期で退くことになるのが決定的? 
・さらに毎年、各球団の良い選手を次々と入団してくるため、既存の選手が萎縮、
 監督。コーチに対し異常なほど神経質になるのは自然の理。特に負けが込むと、
 「二軍に落とされるのでは?」と、萎縮の連鎖が全体を覆うパターンである。
 村田、片岡、井畑、今年は金城、相川という名だたる選手が、次々と入団
 すれば、既存選手の出場機会が、それだけ減っていく。大田、矢野、中井など
 他球団に行けば間違いなく、即、レギュラーになれる選手が燻る病である。
とはいえ、この現象は、巨人の例年のパターン。交流戦を終えた頃には、何事も
なかったように、その地力が表立ってくる。病も時には必要である。
 さて、悠久山の花見でもいってきますか!
・・・・・・
4783,葬式は、要らない ー1
2014年04月19日(土)
          「葬式は、要らない」島田裕己著  
 葬式の希望を書きおく時期になってきた。現時点での希望の大枠は、
《 会場が3百メートル先のセレモニーホールで、直葬に近い家族葬。
 ごく身近な人たちだけにし、遺骨は実家の墓に。戒名は自作のものを
 仏壇の引き出しに。その後は、「墓参り仏教」に従うことなく、命日に
 それぞれが仏壇に手を合わせてくれれば充分。》 これだけ!
  内容(アマゾンより)
{ 日本人の葬儀費用は平均231万円。これはイギリスの12万円、韓国の37万円
 と比較して格段に高い。浪費の国アメリカでさえ44万円だ。実際、欧米の映画
等で見る葬式はシンプルで、金をかけているように見えない。対して我が国と
いえば巨大な祭壇、生花、高額の戒名だが、いつからかくも豪華になったのか。
どんな意味があるのか。古代から現代に至る葬儀様式を鑑みて日本人の死生観の
変遷をたどりつつ、いま激しく変わる最新事情から、葬式無用の効用までを考察。
葬式に金をかけられない時代の画期的な1冊。
  ーアマゾン読者のレビューよりー
・日本の法律で葬式が義務となっているわけではない。医師に死亡診断書を
 書いてもらい、役所に行って死亡届を提出、埋葬許可をもらう。決まって
 いるのはそこまで。遺体の処理については墓埋法で、
1.死亡後、24時間経たなければ、埋葬も火葬も行ってはならない、
2.火葬は火葬場以外で行ってはならない、
3.埋葬は墓地以外で行ってはならない、とされるのみだ。
 焼いた遺骨をどこかに撒くのなら、葬式もいらなければ、墓もいらない。
 宇宙葬の費用ですら100万円である。もっとも現実には葬式を行わない
 ケースは少ない。人は誰かかかわりあった人が亡くなれば、その死を確認して
 けじめをつけたい。葬式への参列ほど明確なけじめの機会はない。ただし
 葬式を出すことと、葬式に多額の費用をかけることとは直結しない。
・家族葬は近親者だけで行う規模の小さい葬式全般を指す。以前は密葬と
 呼ばれていた。通常なら通夜と葬儀・告別式で二日かかるところを、一日に
 まとめたワンデーセレモニーという形式も生まれている。もともと通夜は
 近親者だけで営むものという感覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・
 告別式のほうだった。結婚同様に、葬式も組織の儀式から個人儀式へと変化
 してきた。昔は商家も農家も家は生産や経済活動の単位であり継続が不可欠
 だったが、サラリーマン化が進むことで、養子をとったり婚外子を作って
 まで家を存続させる必要がなくなった。 自営業の場合なら家の存続が重要で、
 伝統的な祖先崇拝の信仰を取り入れる傾向が強く、喪主になるのは後継者
 であり、葬式は後継者を披露する場ともなる。 が、サラリーマン家庭の場合
 は家は生活の場でしかない。永代供養墓は跡継ぎのない家が増えたことで
 生まれた供養形態。墓を求める際に永代供養料として一定金額を払うことで、
 墓守となる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を続けてくれる。
・直葬は密葬、家族葬の一番簡略化された形態だ。現在、東京では20%が直葬。
 直葬では、故人の遺体を寝台車に乗せ、自宅や葬儀社が用意する一時的な安置
 場所に搬送し、とりあえずそこに安置。そこで納棺し近親者だけで通夜をする。
 会葬者は呼ばない。翌日、霊柩車で火葬場へ出棺する。そして、やはり近親者
 だけで故人に別れを告げ、遺体は荼毘に付す。最後に、収骨、骨あげをして
 葬式は終わる。直葬の費用は多くとも30万円ほどで、僧侶に読経を頼んでも
 50万円以内でできる。もっとも簡素な形式を選んで近親者だけが集い、
 会食もしなければ10万円程度で済む。
▼ ますます直葬、家族葬が増えることになるが、長く続いてきた家族中心から
 個人中心主義になる御時世では当然の流れ。これが不景気になるほど、簡易な
葬式が増えてくる。直葬、密葬を宣言してしまえば、残された者は楽。
私の墓は、このブログ。閲覧は墓参りのようなもの。 
時どきの墓参り、本当に有難うございます。
・・・・・・
4416, ふしぎなお金
2013年04月19日(金)
                 「ふしぎなお金」 赤瀬川原平著
 子供用の絵本だが、人は当たり前のように使っているお金について、あまり
考えない。お金は自由の、エネルギーの、塊。日本人は金を不浄なものと考え
がちだが、お金は血液のようなもので、人間にとって非常に大事である。 
人を生かし、また殺してしまう力を持っている。 子供に諭しながら、実は
大人に語りかけている。 ーまずは、印象的な部分を抜粋ー
≪ *「冬のバーやレストランで、席につく前に、「コートお預かりします」 と
 いわれて、なんなドッキリとしないだろうか。だってコートの内ポケットには
 拳銃が入っている。それをそのまま預けて大丈夫なのか。というほど錯覚を持つ
 ほど財布は拳銃に似ている。だから「貴重品はよろしいですか」といわれると、
 何だかもっていかれるかと思って、その護身用の拳銃みたいな財布を、身近な
 ポケットに移し替える。でも移し替えながら、どことなく後ろめたい、とうより、
 どことなく情けない気になる。「お前はそんなに相手が信用できないのか。
 そんなに拳銃なしで丸腰に、なるのが怖いのか、という`声が追いかけてくる。 
 そういえぱ、昔の西部劇映画には、ガンペルトそのものを外す場面があった。
 宿について、あるいは自分の家に戻って、外敵なし、大丈夫、という状態で
 はじめてガンペルトを外して椅子の背に掛ける。ガンマンがくつろぐ一瞬。
 ところであのガンペルトとは、実はむき出しの現金を装着したベルトなのだと、
 そんな感じがしないだろうか。ガンマンはその現金でいつも勝負している。
*「日本の場合は刀の大小だ。明治以前、武士はみんな刀を差していた。
 男子、一歩外に出れば七人の敵、といわれるくらいで、刀の大小を肌身離さず
 持ち歩いていた。刀は護身用であり、権威でもあるところは、やはりいまの
 お金に似ている。武士の世界の文化の一つに茶の湯があった。招かれて行く
 お茶室には、小さな躍り口が設けてある。あそこを入るには腰の大小を外して、
 外の刀がけに欠けねばならない。武士はみな一瞬、躊躇したのではないか。
 財布は刀やピストルと違って、人を殺める道具ではないのではあるが、人は
 金のために人を殺したり、金のために自分の首を吊ったりして、金はやはり
 隠然たる凶器の光を忍ばせている。拳銃も財布も、緊張の物件である。
 いざとなると拳銃をぶっ放すように、札びらを切る。でも「いざ」とならない
 ときは、それはそっとボケットに仕舞われている。昔よりも落ち着いた現代
 社会では、さらに奥深くの内ポケットに移行している。」
*「足元にお札が落ちている。それを見たとたんにハッとする。千円札の四つ
 折りにしたわずかな面が見えているだけでも、何か異様にハッとするのは何故
 だろうか。足元に血が垂れている。それを見たとたんにハッとする。ちょっと
 した赤い液体なのに、何か異様にハッとする。見てはいけないような、
 一歩踏み込んだ秘密を見てしまったような、緊張感が走る。」
*「人間の血はだいたいみんなと同じで、成分にほとんど違いはないが、
 自分の血は自分のもので、自分の体内に密閉されている。でも場合によっては
 人助けで献血をする。場合によっては寄付したり、プレゼントしたり、投資で
 失くしたりする。」 
*「お金も血も、命にかかわるエネルギーの源である。流体である。
 生臭いものである。でも、輝いている。いきなり見せられるとドキリとする。
 プライベートでありながら、共有のものでもあるところが不思議な関係。」 
▼ 財布を拳銃に、そして刀に喩える切り口がよい。撃たれ、切られたとき、
 血が吹き出る。それからみて金はエネルギーと同じ。一万は一万の、一千万は
 一千万、一億は一億のエネルギーがある。無駄を廃し、使うべきときは使う、
 それが金の効用。
・・・・・・
4042, 世界の旅行記101 ー3
2012年04月19日(木)
   * 旅行記は、旅人により再構築された言説
≪ 旅行という行為や、そこでえられた環境や状況についての情報は、言説
 として再構成されている。おもいもかけない発見や探索、あるいはそれに
出会った旅人の心象や思考は、旅行記という形態に定着させられるときに、
一定の文スタイルやデザインを採用する。 文章のかたちをとるという点から
みれば、「文体」といいかえてもよい。見聞され体験された隔遠の地における
非日常の事実は、旅人の言語に変換され、日常の世界に発話される。著者と
読者とが共有する表現と読解のルールにもとづいて旅行記は書きおろされる
「言説」といったのはそうした意味においてである。 旅行記は、旅の事件記録
性を検証するよりもまえに、言説そのものの解読作業がほどこされねばならない。
旅程のすべてを記載できるわけではない。見聞された事象すべてが、偏りなく
叙述説うるわけでもない。しかも、だれにとってもひとしく共有される述法の
ルールにしたがって。 そうではなくて、旅行記は、旅人が旅先について投射
した特定の視線が、対象のうちに読みとった文脈にかんする言説である。 
使用される語彙もシンタックスも、そしていますこしふみこんでいうならば
価値感覚も、言説として独自の完結を実現している。別のいいかたをすれば、
中世ヨーロッパ人と近代アメリカ人、古代中国人と現代日本人は、それぞれに
採用する言説の方式はことなっている。いや、著作者の身分、出自、性別、教養
のちがいによって、同一物にいての言説は別個のものになりうる。 ≫
▼ 旅先の情報を言説として再構築したのを旅行記とすると、書き手の特定の
 視点こそ注目すべきである。それが旅行記の特性であり、面白さになる。
だから、この101の旅行記は、101人の特異体験を記した事件簿として垣間
見ると分かりやすい。それぞれのクロス・エンカウンター(因縁)が現れ出る
から面白い。人生の記録も、それぞれの特異点の旅行記に酷似している。
 ・・・・・・・
3676, 自己を見つめる −3
2011年04月19日(火)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 「時間」は簡単のようで、難しい。心の中は、時空をこえた多くの思いで
満ちている。特に多くを経験した熟年期に差し掛かると、思いは過去に向かう。  
そこには現在の知覚と直感で彩られた抽象画としてたち現れてくる。
豊かな経験なら豊かに、逆なら逆として! 生きてきたとおり、人生は自分に、
その姿を突きつけてくる。  ー 第二章 時間 ーより
【(p45) 私たちの心は、アウグスティヌスが言ったように、たえず
 なんらかの出来事を記憶し、知覚し、期待するという働きを、本質的に
具有している。記憶は、過去の出来事に関わり、知覚は、現在の出来事に関係し、
期待は将来の出来事に向けられ、しかも、それら三つが別々にあるのではなく、
むしろ、私たちの心のなかに、それら三つのものがすべて取り集められる。
 したがって、「過去のものの現在が、記憶であり、現在のものの現在が、
直観であり、将来のものの現在が、期待である」とアウグスティヌスは言った。 
いわば心という大きな現在のなかに、過去の追憶と、現在の印象と、将来の
予期とが、すべて取り集められているわけである。たえず現存し続ける
その大きな心が、うしろを振り返って追憶に浸るときに、過去が浮かび上がり、
いま周囲を注意深く見回すときに、現在が印象深く迫ってき、行く末を思って
期待や予期に心を震わせるとき、将来が思い描かれるのである。 時間とは、
このように、振り返ったり、見回したり、行く末を思ったりする心の働き、
 すなわち記憶や追憶、知覚や直観、期待や予期といった心の作用に由来する
わけである。逆に言えば、大きく静かで揺らぐことない「立ち止まる今」と
いう現在の心の場、いわばそうした明鏡止水の心眼という現在の鏡のなかに、
さまざまな過去と現在と将来の出来事が映し出されてきて、それらが追憶され、
知覚され、予期されるとき、そこに、それらの出来事が、過ぎ去り、現れ、
到来する時間の諸相において意識されてくると言えるであろう。】
▼ 現在置かれている、この節目どきに、これまでの記憶と追憶と、現在立た
 たれている分岐点、そして、これから予期されること、その三つが、心の中で
濁流のように渦巻いている。この自分の中に、多くの節目があって、それが
現在という幅のある時間の中で自分という確かな存在が見えてくる。これは
晩年期に差し掛かった人間に共通しているが、心が、これほど激しいものと。
人は生きてきた、そのままに老いるとは、その意味である。 現在は、
その「立ち止まる今」である。 それでも時間は止まらない。
・・・・・・・
3311, 笑われ力  −3
2010年04月19日(月)
「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  ー次に、なるほどと合点した箇所を抜粋し考えてみる!ー
*「笑われ上手」に「背伸び」禁物
 ・まずは「私は凡人」とみとめる。
 ・「みんなをリスペクト(敬う)する。
  そう思えば、自分の中の良い部分も見えてくる。
 ・笑ってもらえたら「笑ってくれてありがとう」という気持ちを
  持つこと。この一歩下がった気持ちが必要となる。
*「笑われ上手」の下ごしらえ、をつくっておく
 ・「ダメな自分物語」を多くつくっておく。出来るだけ短くまとめておく。
  失敗したその場でつくる。
 ・もったいぶらないで、いきなりクライマックスの話を話題に出す。
 ・キーワードを決めておく
 ・一度、物語を用意したら、あとは白紙の状態にしておく
▼ 20年前から10年前にかけて、かなり遊び人の不動産屋の社長と古町を、
 飲み歩いたことがあった。小料理屋や、スナックなどで、話術の巧さに驚き、
花柳の世界を垣間見た。芸者を相手の粋な遊びは今では夢のようである。
あれから10年も経ってしまった。彼には、ここに書いてあることは、ほぼ
身につけていた。決して他人の悪口や話題をしないのは、当たり前。
自分の昔話も成功談が一割、失敗談が九割。芸者に三味線を弾かせて
都都逸など一ひねりなど、粋な遊び方等など。話術も自分を嫌味なく下座に
おき笑わせておいて、実は笑わせている妙は場数のなせる技(業)こういう
時代になればこそ、「やれる時にやれる事をやっておいて、良かった」と実感!
(逆に遊び過ぎ?もあったか)「ダメな自分は、嫌な自分ではない」、これが
笑われ上手のポイントと著者がいう。 笑われ力は、自分の中のダメな部分や
矛盾を笑ってもらう力であり、相手のタイミングで「笑われネタを」提供する。
それが受けたからと言って、もっと笑わせてやろうとか背伸びするのは厳禁。 
あくまで相手と場のタイミングに合わせるのだ。
  その「笑われ力」のきほんステップとは
1、「ダメな自分」を見つける 2、「笑える部分」を特定する 
3、自分で笑い飛ばしてみる 4、笑顔で他人に話す     
5、その結果「心地良い笑い」が生まれる 
 落語の「まくら」では、名人の域に達した人ほど、上手い。
「駄目な私」のネタなら膨大な蓄積がある! ったく。カミサンに耳にたこが
出来るほど指摘されている。 大きな経営者大会で講演者が「女房は亭主をバカ
にする動物である」と言った時、会場が異常な爆笑があった。大きな会社の立場
の人ほど家ではバカにされているのだろう!良いように出来ている。


5512,人類史上最大のバブルが弾ける時 〜②

2016年04月18日(月)

      〜【中国とどう付き合うか】人類史上最大のバブルが弾ける時
               熊谷亮丸『大和総研』チーフエコノミスト
   * 中国の成長モデルは賞味期限切れ
 隣りの中国は、今や世界恐慌をもたらすかもしれない火薬庫でもある。
経済の失敗を覆い隠すために、戦争を仕掛ける可能性もあり、その時期が、
3〜5年先かもしれないというから、尋常の話でない。日本は、大地震と
大噴火、そして異常な国債過剰などを抱え、中国経済の問題は、他山の石
ではない。現役だったら、その危機感は想像を超えたものだろう。特に、
地方は、激流の波の被害を一番早く受けることになる。問題は、その後の、
日本への難民の処遇問題になる。 グローバル化とは、こういうこと!
≪ 中国の成長モデルは最早、賞味期限切れが近付いている。
 構造問題が山積しており、経済的・社会的な矛盾が臨界点を超えつつある。
経済面では、政府との癒着が続く中、国有企業の改革は遅々として進まず、
労働生産性が低迷している。 国有企業は利益を配当として政府に還元する
ことなく、非効率な事業への再投資を続けている。経済の牽引役は依然として
“箱物”中心のインフラ投資で、経済のサービス化も遅れている。
結果として民業は圧迫され、規制緩和等を通じた民間企業のイノベーションは
進展していない。社会構造の面では格差が拡大・固定化し、低賃金労働者の不満
が溜まっている。社会保障・教育・医療等のセーフティーネットの整備が不十分
であることも、消費低迷を助長している。
 中国には“ネズミ族”という、地下の明かりの無いところで共同生活を送る
貧困層が100万人以上存在すると言われる。その多くが地方からの出稼ぎ労働者
(農民工)だ。彼らの部屋に窓は無い。その暮らし振りは、宛ら洞窟で生活する
ような印象だ。 これらの構造問題を根本的に解決しない限り、中国がどれだけ
公共投資等のカンフル剤を打っても、それは問題の先送りに過ぎない。
将来的には、より一層膨張した“バブル”が弾けるという最悪のシナリオが
不可避となるだろう。
 ここで、中国で“バブル”が崩壊した場合の潜在的なマグニチュードを定量化
しておきたい。 筆者のシミュレーションに依れば、
〔資本ストック調整が本格化する“メルトダウンシナリオ”では、中国の潜在
成長率は1.6%まで低下し、実際の経済成長率は大幅なマイナスに陥る。〕 
 勿論、一般論として言えば、世界経済のドライバーは依然としてアメリカで
あり、決して中国ではない。仮に中国経済が少々減速した場合でも、日本経済に
与える影響は軽微なものに留まろう。しかし、中国経済が“メルトダウン”する
場合には、全く別次元の話となる。その影響は、〔世界経済を奈落の底に叩き
落とす程の強烈なインパクトを持つ〕ことになりかねない。中国の政策当局には、
自らが置かれた状況を的確に認識した上で、中長期的な構造改革と、短期的な
カンフル剤に依る景気刺激策をバランスよく講じて、何とか中国経済を
“ソフトランディング”に導くことを切に期待したい。尚、中国での“バブル”
崩壊に伴う日本への悪影響は、主に中国向け輸出の低迷と、消去法的な
円高進行を受けた他地域向けの輸出低迷という2つのルートから生じる。
中国人に依る“爆買い”の消失を懸念する向きもあるが、2014年のデータでは、
日本の対中輸出は13.3兆円程度と、訪日中国人の日本での消費額(5600億円程度)
の24倍に達する。つまり、中国向けの輸出は中国人に依る爆買いよりも、日本
経済に与えるインパクトが遥かに大きい。中国経済の減速に備えて、我が国の
政策当局は何をなすべきか? “Do your homework.(自分の宿題をやれ)”と
いう言葉があるが、日本政府は自らの積残した課題に粛々と取り組むべきだ。
現時点では、当初のアべノミクスの3本の矢の中で、“第1の矢”(金融政策)
に過度な負担が集中しており、構造改革は若干遅れ気味である。今後は、
①農業・医療・介護といった分野における所謂“岩盤規制”の緩和
②社会保障制度の抜本的な改革を通じた財政規律の維持等の国民にとって
 耳の痛い構造改革を断行することが、最大の課題となるだろう。≫
▼ 今回の熊本地震、まさか九州の中部で大地震が起こるとは思っても
 いなかったようだ。そして、いざ災害になると、その準備態勢が如何に
甘いか知ることになる。これは、中国のメルトダウンに対しても言えること。
問題は、弱者ほど、その対応が不十分ということ。「弱者だから準備ができ
なかったからではなく、準備をしてないから弱者」 とも言えることになる。
「南海トラフト地震が本陣とすると、その一部の部隊が動いた一現象」か!
東北大震災が本陣とすると、中越地震、刈羽沖地震、一連の東北地区の地震が、
熊本大地震にあたる。 直近でないとしても、本陣が控えていることは事実。

・・・・・・
5147,1%による1%のための勝利戦略 ー②
2015年04月18日(土)
      【金持ちが確実に世界を支配する方法】スーザン・ジョージ著   
 ー内容紹介ー 
   〜ネットにあった概要の後編より
≪・本書の前半では、「第1回報告」(これも架空)を振り返り、社会、経済、
 環境問題の展開を検証する。後半では、「階級闘争必勝戦略」の提言を行う。
「階級闘争必勝戦略」は、投資家で世界第三位の大富豪ウォーレン・バフェット
の2006年の発言、「階級闘争があると言いたいなら、そう言ってもいい。しかし
戦いを仕掛けているのはわれわれの階級、金持ち階級のほうで、勝利は目前だ」
から取られたものであり、1%の野望をはずかしげなく洩らしている。
・本書によれば、リーマンショックにもかかわらず、1%への富の集中は進んで
いるので、彼らが仕掛けた階級闘争は順調。彼らの「必勝戦略」は、ひたすら
99%を洗脳する事と、言い変えると「文化的乗っ取り」あるいは「メディア戦略」。
「民主主義をお払い箱に」にし、人権を縮小し、自由競争や自己責任の言葉の
連発で、新自由主義に洗脳することが、1%層の宿願である。
・本書の架空の作業部会が、日本の採点をするとしたら、世界の優等生として
褒めてもらえそうである。福祉(医療、年金、生活保護)の切り下げ、消費税に
よる99%層への収奪、一方では大企業への減税の大盤振る舞い、経済格差の進展、
実所得の低下、子どもの貧困率のさらなる悪化、東電福島原発事故の発生と
その被害者の切捨て、秘密保護法の制定、集団的自衛権行使への動きとそれに
伴う軍需産業の動き、国民を犠牲にしても自由貿易を拡大しようとするTPP推進、
ますます政府の広報機関と化している新聞・テレビなど、日本で進行中の動きは、
本書が暴き出した「1%による99%支配の強化」の日本版と読替えれば、すべて
納得がいく。本書は、日本での動きが、世界を席巻するグローバリズム
(新自由主義化)の一環であることを改めて教える。
・本書の性格上、99%による1%への対抗戦略は書かれていない。1%が何を考え、
そのためにどのような手段を使っているか、を寓話形式で知らしめることが
目的だからである。99%が明日からでも実行可能な、1%への対抗戦略については、
ジーン・シャープ著『独裁体制から民主主義へ』がある。≫
▼ この政策を実行するに、3つのS戦略が重要としている。 スピード
(すばやく)、セクレシイ(知らせず)、ステルス(水面下)である。これに
サプライズも加えることができるという。中国は、彼らと同じ体質を持っている。
この傾向は、短期間で達成している。地中海クラブに住む劣等国民には、憎悪
すら感じている。彼らは身に合わない生活をしてきたため、債権は、他の国が
払うべきと信じて疑わないが、これも時間の問題。アフリカ、中近東は、彼ら
の手先の一部王族が、天然資源を独占、営利を貪っている。それがIS国として
大きなウネリとして支持を得ている。世界は、1%の人たちのためにあるようだ。
・・・・・・
4782,大不況には本を読む
2014年04月18日(金)
  * 「本書のまとめ」      「大不況には本を読む」橋本治著
 今さらだが、時代を鳥瞰するにクリアーで解りやすい。 ー(P183)
《【十八世紀の後半に起こった産業革命は、それまでの世界のあり方を変えて
しまった。その新しくなった"世界秩序"が日本にやって来て、日本は150年前に
開国した。開国した日本は、その時の世界秩序にのっかって、見事に成功した。
成功して行き過ぎて、第二次世界大戦とバブル経済という二度の破綻を経験した。
成績トップになった優等生の日本は、それゆえに"見事な破綻"を経験するが、
その他の国はまだそこまで行っていないので、相変わらず"産業革命以後の体制"
は健在だったが、今度はアメリカが新たな破綻にぶつかった。産業革命以降の
体制は、アクセル全開の自由貿易主義だったが、そのこと自体にブレーキが
かかってしまった以上、改め"ブレーキをかけることの意味"を理解した方がいい。
 そんな世界的なあり方は、″会社の仕事に追い回されて、自分及び自分の家族
やその周辺のあり方を省みない゜という日本人のあり方にシンクロする。自分の
あり方を省みるために、もう一度‘本を読む’というところに立ち戻ったらいい】
 この考え方をエコノミスト的に裁断すると、私は「保護主義のイデオローグ」
ということにもなるが、私はエコノミストではない「人間のあり方に立脚する」
文芸関係者なので、「そりゃお門違いだろう」ということにしかなりません。
 バブル経済へ向かって進行する中で、いくつもの誤解は生まれましたが、
「経済が分からないのはバカだ。物事は経済的見地’にのっとって見なければ
ならない」ということになってしまったのも、その一つです。 経済の方で
「保護主義的」と言われるものは、「人間のあり方に立脚する」立場からすれば、
「人が生きて行くために押さえておかなければならない基本」でもあって、
だからこそ私は、経済の方では「保護主義的」と言われるものを「自立」と
関連づけるのです。「金儲け」のことをあまり考えない、その能力があるとも
思えない文学や思想、哲学といったもの ーつまり「文学」「その他」は、
「働いて金を稼ぐ」に代表される現実生活のことを、ともすれば忘却しがちです。
 ・・・ 2008年秋以降の・金融危機・経済危機はそれで、「破綻してよかった」
でもあります。しかし、でありながらも「世界」の方は「豊かさの達成は進行中」
という前提に立って、相変わらずの「富の均質化」を求めます。だから、輸出量
や輸入量の調整は求められるのですが、この「調整」の向う方向は、一つです。
「豊かである国の、既に達成された豊かさを目標にして、世界中を均す」です。
既に経済危機で「豊かな国の豊かさの基準」はぐらついているのですが、世界が
「豊かさの達成はなおも進行中のはず」という前提に立っている以上、目標と
される基準値は「豊かな国の豊かさ」です。そしてこれは、「工業に追い抜かれ、
工業にすがりついて追いつこうとする農業の哀れさ」と同じ質のものなのです。》
▼ 大きな節目時に、読書をして行間を読むしかない、ということ。
 特に、アメリカの露ばらいをさせられた日本こそ、新たな解決をしなければ
ならない。「経済の自立=保護主義的になりざるをえない、という基本を押さえて
おくこと」には、考えさせられる。日本は明らかに衰退の道を歩き始めた。
しかし、現実をみると、誰も直視しない。そのツケは、株価と国債の暴落という
突然の崩壊で生じることになる。日本は近い将来、豊かさとは、かけ離れた国の
悲哀を味わうことになる。150年の間の政治経済のマクロの流れを振り返り、
今後の方向性を見つけることは至難の業だが、それでも見つけ出すしかない。
「普通の国」が、キーポイントだが、地政学的に見て、日本は中国とアメリカ
の間にある海洋国家。その辺りが鍵になる。今後10年間は、これまでの10年間
より遥かに厳しい事態になる。この20年間の変化が、10年間に圧縮して襲い
かかるとしたら、考えただけでも身震いがするが、興味もそそられる。
気の毒なのは、若い人たちである。
・・・・・・
4415, 余生を過ごす場所は?
2013年04月18日(木)
  * 今の場所で快適に過ごす工夫を!  「知的余生の方法」渡部昇一
 余生を過ごす場所は、生れ故郷か、はたまた別荘地か、海外か、そのまま現在
住んでいる場所か、迷うところ。著者は、現在住んでいる場所こそ「ふるさと」
と思い、別荘地など考えずクーラーでも入れ快適にするなど工夫すべきという。
「住めば都」で、心地よく住んでいるところが、いなかと諭す。ーその辺りよりー
≪ P・94 英語では一般的に「ふるさと」は単にホームという。イギリス民謡の
『埴生の宿』の原題は‘Home,SweetHome’だが、このホームがそうだ。ホームは
単なる「住み家」「生まれた場所」という意味に過ぎない。そこから懐かしさを
伴って、「ふるさと」をあらわすようになり、「家庭」を意味するようになった。
だから、「ふるさと」と「家庭」が相通じ、切り離せない関係にあるといえる。
そこには父や母がいて、昔の日本の田舎でいえば、囲炉裏を囲んで話をする風景。
そのホームも、今では崩れつつあるようだ。 ローマ時代からの諺に
「自分がうまく生活しているところ、そこがホーム、つまり自分の「ふるさと」
「故国」という意味である。これは言い得て妙で、都会暮らしの生活者にとって、
救いになる言葉である。田舎から東京に出てこようが、海外に移住しようが、
そこで成功し、そこで良い暮らしをしていれば、その土地こそ「ふるさと」である。
都会でうまく生活しているなら、都会こそ自分の「ふるさと」と腹をくくるべき。≫
▼ 思い切り移住するのも悪くないが、そのまま居座るのが自然。私のように、
 ブラックスワンの御蔭で、肩身が狭くても、「平気で死ぬのが悟りでなく、
平気で生きてこそ悟り」と、自分に言い聞かせ、割り切れば別に何とことはない。
 ソフト・ランディングだったこともある。しかし、5億、10億の現金があれば、
軽井沢のマンションか、ハワイを考える。としても、現在と大して変わりはない。
いや、違うか! 天使の様に、肩に羽をつけ、浮いたように生きればよいだけ。
 フワフワ生活するのはお手の物。いずれにしても死んでしまうのだから、
今を楽しむしかない。場所は二の次? 改善でよい。
・・・・・・
4041, 世界の旅行記101 ー2
2012年04月18日(水)
  * 旅行記は事件簿でもある
 はじめにー旅行記を読むということーの冒頭が、旅行記の本質をついている
≪ 古今東西、旅をする人たち、旅を愛する人たちは無数に存在した。そして
 無数の旅行記、紀行文が書かれた。どうも旅という非日常の行動は、文章の
起草をはげしくうながすものらしい。いろいろの旅行記がある。任務をもって
旅したものであれば、復命書を。さだめなき漂泊の旅にでたものであれば、遍歴
の跡をしるす随筆を。どれも当の本人にとっては、記録としての重みは、ひとしい
だろう。だが、旅行記を読む側からすれば、自から興趣には軽重の差がある。
「読み甲斐」のある旅行記とはどんなものであろうか。まず考えられるのは、
旅そのものが、冒険や危険にみちている場合。 安穏として、ほとんど日常の
域を出ない旅とはちがい、未知の領域や未踏の領野をゆく旅は、つねに発見と
遊遁にみちている。ドキドキ、ワクワクの連続は、旅する本人とともに読者をも、
不安と興奮にまきこむ。探検記、踏査記が長らく愛読されてきた由縁である。
 旅は始点と終点とがある事件であるとすれば、旅行記は事件簿でもある。
そこにふくまれる小事件のつながりが、どれだけ起伏にみち、意外性にあふれて
いるかによって読者へのアピールはことなる。実際には、みずからその事件に
参画することは困難だが、そのアピールをうけいれ、旅行記とともに旅という
事件を追体験する。おそらくは、なにがしかの潤色がほどこされるではあろうが、
旅は現実に存在した事件であるだけに、迫真の体験が身にしみる。アームチェア
で葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に読みふけるものも、
旅行記から、かの体験をうけとるだろう。ときには、身にうずきを感じ誘われる
かのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、じつに広く深い。≫
▼ この事件簿は大事件の膨大な資料が詰まった代物。それぞれのダイジェスト
 は50数人が書いたのを編集したもので、紀元前から近代まで至っている。
2〜3ページに纏められているので、軽く読めるし飛ばし読みもできる。
2千数百年にわたる時代の世界各地を、それぞれの目線を通したフィールドワーク
を編集しているから、面白いはず。とはいえ、ダイジェストはダイジェストだから、
これを手引書として各書を読むと良い。旅という非日常から、旅先の日常を垣間
見るのも面白い。 私たちの生きている世界が、いかに極小で、特異ということ
にも気づかされる。 私たちは最高の特異の時代に生きてきた!のである。
・・・・・・・
3675, 節目どきに ー8
2011年04月18日(月)
  * 体重が減り始めてきた!
 毎朝のウォーキング(サイクリング)を20数年間続けてきたためか
体重は標準である。ところが、ここでスポーツジムに通いだしたため? 
半月で学生時代の体重まで落ちてきた。心労もあるかもしれないが、これは
明らかに運動効果である。入会時にジムの人に計ってもらった肉体年齢が私の
肉体年齢より11歳も若かったのに驚いた(54歳)。長年の早朝のウォーキング
の蓄積が肉体年齢を若くしていたようだ。 肉体的には健康的な日々だが、
精神的には、どうだろう。
  * CTスキャンは大量の放射能を?
 CTスキャンの被爆量が胸部レントゲン写真300倍に匹敵し、数十年後に
がん発症リスクは被爆で高くなるという。私など毎年の検診で20年近く
CT検査をしているので、大量の被爆をしていることになる。そろそろ被爆の
結果が出てくる頃。知らないことは恐ろしいことである。チャンとした説明を
受けていれば、三年に一度位に減らしていた。 しかし適当な被爆なら、
細胞が活性化して、むしろ健康によいとも言うが。
  * 今でも、私にとって3月11日が止まっている
 TVの画面で、被災地の中年女性の言葉が印象的だった。 
「私にとって3月11日がそのまま止まっている。毎日が、そのまま3月11日の
繰り返しで続いている」と。 そうだろう、被災者にとっては、あまりにも、
その日の出来事は大変事で、その日をもって生活環境が一変してしまった。 
被災者の一人が、「ここにいる殆どの人たちには、生死の境目にいて、九死に
一生を得たドラマがある」と朴訥とした言葉で話していた。現在進行中の原発
事故が、今だに、この災害が終わってないことを告げている。我々が自覚して
いるより、遥かに危険な状態の置かれているが、まだ、序曲。 
そういう私も、震災ショックによる何の被害者である。


5511,閑話小題 〜二年で円の通貨量が二倍になったが 〜②

2016年04月17日(日)

 去年の[2015年04月12日(日)}に以下のテーマで書いた文章が、数日前、
目にとまった。そういえば一ヶ月前、「通貨量が三倍になった」との
ニュースが流れたから、この一年で、1・5倍の通貨量になったことになる。 
問題は、通貨量を三年で三倍にしても、デフレも景気も浮上しないこと。
預金総額が1700兆円に増加したが、それは平均であって、一般大衆の預金が
増加したのではなく、あくまで一部の富裕層だけ。
 〜まず、去年のコピーから〜
【  * 二年間で円の通貨量が二倍に!
 二年前、日銀の黒田総裁が、「2012年末に138兆円だった資金供給量を14年末
には約2倍の270兆円に拡大。長期国債の購入量も2年で190兆円と2倍強にして、
上場投資信託などリスク性資産の購入も増やす。インフレターゲットは2%。」
と発表した。ところが、先日のニュースで、「2年間で円の通貨量が2倍に
なったが、インフレ目標の2%はゼロのままと、日銀が公表」と報じた。
 リーマンショック後、米国は数ヶ月で二倍、現在は三倍以上にドルを増刷、
為替相場が3分の1になったかといえば、7年前と同じ。 
日本の供給量は2年で二倍。しかし為替相場は3分の2。株価は安倍首相が
就任した2012年12月26日の終値は1万0230円36銭だから、2倍になった。
日本も米国も通貨量を2倍にしたにも関わらず、インフレにならないところが
摩訶不思議。アベノミクスは中長期的にみて明らかな失政が見てとれるが、
保守本流の頭脳は膨張以外、考えが至らない。「後は野となれ山となれ」である。
 現在は太平洋戦争突入の数年前の様相と似ている。家内を見ていると、物価の
値上げに対する反応に敏感だが、これは一般主婦の趨勢。スタグフレーションの
様相を示している。保守本流は、アメリカの忠実なポチ。強者に優しく、弱者に
厳しい。先日、図書館で借りてきた、『金持ちが確実に世界を支配する方法』
の「1%による1%のための勝利戦略」が、まさに現在の政権と酷似している。
とって付けの、政策など、直ぐに、その正体を現れ出るが、その前に衆議院選挙
を昨年末に断行した安部も、強かである。この国民をして、この政府。
とはいえ、激動期には保守本流で中心を固めないと、学芸会のような政治
ごっこの政党に、国は荒らされる! まだ、マシ? 】
▼「通貨量が三倍に増加」のニュースが何故か消えてしまった。聞き違いの 
 可能性があるため、この文章を書くのを控えようか迷ったが、記憶を辿って
みても、間違いない? そこでネット検索でやっと見つけたのが、
【マネタリーベースは12年末の138兆円から昨年末は365兆円と2.6倍
に膨らんだものの、15年平均の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)は2%
目標には程遠い前年比0.5%増。誰が見ても「黒田バズーカ」は失敗】
があった。 とすると現在の三倍のニュースは、間違いない。これからみても、
アベノミクスは間違っており、この失敗は、次世代の弱者に更なる負になる。
その札束は、そのまま富裕層に移動する。〜で、これも偶然で、以下につづく。
・・・・・・
5146,1%による1%のための勝利戦略 ー①
2015年04月17日(金)
      【金持ちが確実に世界を支配する方法】スーザン・ジョージ著
  まずは〜内容紹介〜より
< 世界中の富裕層のみなさん、お喜びください。完全勝利は目前です。
 ただ少々、問題がございます――。世界金融危機で痛手を被ったかに
見えた1%の富裕層。再び立ち上がり、さらなる富を手にした彼らは、
一体どのような手段を取ったのか。『なぜ世界の半分が飢えるのか』の著者
が「報告書」という形をとって、グローバル化された収奪のシステムを暴く。>
 ネットに、概要を簡潔にまとめた内容があった。
≪ ・ 多国籍企業が国境を越えて自由貿易および市場主義経済を拡大させる、
 グローバリズムの動きがますます急である。これに伴い、世界中で上位1%
への富の集中が著しい。最近は1%どころか、さらに最上位0.1%へ富が集中して、
アメリカの場合には2012年で、純資産が2000万ドル(約20億円)を超える富裕
層上位0.1%の人々の家計に、米国全体の富の23.5%が集中したという。
各国の福祉は切り詰められ、99%の窮乏化は進む一方。誰が一体、
このような事態を引き起こしているのか。
・ 本書は、反グローバリズムの旗手である著者が、1%が委託した、ある架空
の作業部会が作成した架空報告書(今回は2回目の報告書)という寓話形式で、
鋭い皮肉と風刺を用いて、支配している権力者の思考方法と支配メカニズムを
暴き出したもの。架空とはいっても、支配者の論理を知り尽くした著者が、
実証データを駆使し書き上げたものであり、「陰謀論」の批判は全く当たらない。
「スイスの某リゾート地で毎年開かれる1%層のための経済フォーラムが、
秘密部会を設けて世界情勢を分析した内容」とでも想定すればイメージが
ピッタリである。・・ 〜つづく ≫
▼ ここで、「階級闘争があると言いたいなら、そういっていい。しかし戦い
 を仕掛けているのは我々の階級、金持ち階級のほうで、勝利は目前だ。」と、
ウォーレン・パフェット(世界三位の大富豪)が述べている。たとえば、世界
の85人の手に、世界人口の半数、約35億人分と同じ富が握られている。
仮説の委嘱委員のような人たちは、自分には今もっているものを持つ権利が
あり、他人に恩義を感じる必要がない、貧乏人は事業自得だ、民間セクターは、
公的サービスより常に望ましいと考えているようだ。著者が、「本書は、
事実に基づくフィクションで、信頼おける確実な情報源によるが、実際の
『作業部会』は、存在しない。だから、綺麗ごとを並びたてる必要がないため、
内容は辛らつで、核心をついている。何度も書くが、自民の保守本流はポチ!
・・・・・・
4781,閑話小題 ー怒りの取り扱い方
2014年04月17日(木)
   * 怒りの取り扱い方
 一昨日こと。家内に「同級会の席や二次会などで、誰かに見られているかも
しれないから気をつけて!」と言われて出かけたが、案の定、二次会のスナック
でハイになっている中、銀行OBと思われる男に「誰かに見られているぞ!」と、
通りすがりに声をかけられた。「うるさい、人のことより自分をみてろ」と、
言えないし。軽さが、そのまま出ていたが。他人ごとではないか?スポーツジム
でも、露骨なイヤミな視線を数ヶ月に一度は感じる。で、悟りが深くなる。
ー悟りとは、平気で死ぬのではなく、平気で生きることーというが、何事も慣れ。 
最近、腹が立つとすることがあるが、書くのはやめておく。
 ヒト指先で人をさすとき、親指は上(道理)、他の三本は、自分を指している。
哲学でいう認識である。他人の指摘は自分の世界観を言っているに過ぎない、
という自覚がない。ネズミ集団=世間の戯言ネタに、一々怒ってもいられない! 
世間教の下世話ネタが、ネズミたちの集団念仏。気の毒といえば、気の毒だが、
こんな??のことを書いている私こそ遥かに気の毒? そのために、ぼんやりの
時間を持たなければ、せっかくの人生は台無しになってしまう。それにしても、
バカなことを書いている、自分に驚いているが。で、ぼんやりする時間が必要。
[・現実の背景にある膨大な漆黒の闇を意識する。・その為に独りの世界を大切
にする。・その時空をつくる為に、閑居の世界を身近に持つ。・働いてばかり
いないで、怠けること。・その中での心の余白を良しとする懶惰の気持ちが鍵] 。
ぼんやり時間のエネルギーこそ、己を包み込む。 怒りは、エネルギーの源。
大事に扱うべきだが、因われないことも重要。・・人生は、面白い玩具で一杯。 
老いも、喜怒哀楽も、楽しか! 目を本質から逸らさなければだが。
長岡という出生の地に飲み込まれない知恵こそ、今こそ必要だが、老いは、
その知恵を弱らせる。私の人生は、50歳辺りから二毛作目と思っていたが、
二期作でしかない?(二期作は、同じ農作物。二毛作は、違った作物) 
それとも、50歳から三年前まで、二期作目で、その後が、二毛作目?
・・・・・
4414, ボストン爆弾テロについて
2013年04月17日(水)
  * この結末は、どうなる? 
 ボストン爆発テロ、北朝鮮の関与を誰もが思い浮かべただろう。
アメリカの反政府の団体という仮説も立つが、平城でマラソンが行われた直後、
ボストンのゴールのカメラの多い中で、二つも爆発させたのは脅しの効果として
抜群。他に二つの爆弾が発見されたというから、明らかに何かの警告。
 刑事ドラマのシリーズ「相棒」で、東京マラソンを狙った爆弾テロを阻止する
ストーリーがあったが、手口は同じ。とすると近くの国の??と連想するのは
私だけでないはず。 ボストンマラソンといえば、世界で有数の権威ある大会。
そのゴールを狙うとは大胆。それもケリー国務大臣の因縁あるボストンで・・ 
ミサイル実験の前のデモンストレーション、としては危険すぎる? 
今のところ、誰も北の関与を口に出さない。だから恐ろしい。タイミングから
して確率は高い。アメリカが黙って見過ごすか、全面戦争の切り口になるか? 
関与していなければ、北朝鮮は震え上がっているはず。これだけ全面戦争と
騒いでいた最中、タイミングが合いすぎ。 覚悟があってだろうがまずは、
この数日が境目だが、数ヶ月後には、全面戦争?が現実味を帯びてきた。
まさかと思っていたが、やはり! その最中、ミサイル発射実験、やるか、
やらないか、見もの。 これで軍事的に一触即発になった。しかしアメリカも
軍事産業立国の要素が強く、得体の知れない国家。さらにシリアもイランも、
アメリカの矛先を北に向けたい思惑もある。またCIAが北の仕業にした先制攻撃
の口実作りも考えられるし、アルカイダがビンラディン殺害の復讐のため、
北朝鮮と見せかけ、全面戦争の‘けしかけ’の可能性もある。どの切り口も
前面戦争の方向。その最中のシナリオ、あの坊やの考えそうなこと。危ない!
アメリカは金がない、中国も新体制が整ってない、欧州危機は深刻だし、
日本は衰弱。 最初のブラックスワンは何から?
・・・・・・
4040, 汚れつちまつた悲しみに ー3
2012年04月17日(火)
 7年前の同月同日に若い時分の挫折体験について、次のような文章が書いて
あった。傍からみた現在の私は、このようだろう。ところが今回の挫折体験の
心の傷は、これほどでもない。逆にいえば、茫然自失まで至ってないためか、
若さを失ったためか。青年期の幾度の挫折体験で、よくぞ狂わなかったものと
思うほど心の傷は深かったが、今回は、魂まで切っ先が届いてない。
長年の読書と、経験、人間関係の構築のベースがあったためである。 
特に若い時分の挫折体験と、長年の読書の蓄積が大きい。それとも悲しみを
遥かに超えた多くの体験のためだろうか。それにしても、真似た文体としても、
血だらけの挫折体験が、そのまま出ている。書くということ、書き残した自分
の文章を改めて読み返すことの意味(価値)を、この文章で知らされた。 
【 1475, 汚れつちまつた悲しみに ー2  2005年04月17日(日) 】
 「汚れつちまつた悲しみに」の「汚れ」を「倒れ(挫折)」にして、
「倒れてしまった悲しみに」という詩を書いてみた。昔の何度かの挫折を
 思い出しながら。 ー作成時、2005年4月16日 20時20分
ー倒れてしまった悲しみにー
倒れてしまった悲しみに 今日も涙の雨が降りかかる
倒れてしまった悲しみに 今日も嵐が吹き荒れる
倒れたしまった悲しみは たとえば樹氷のように突き刺さる
倒れてしまった悲しみは たとえば黒い血海のよう
倒れてしまった悲しみは たとえば虚空の空飛ぶ蜻蛉よ
倒れてしまった悲しみは あなたの愛に気づくとき
倒れてしまった悲しみは 夢みた昔を懐かしみ
倒れたしまった悲しみは 倒した人を思いだす
倒れてしまった悲しみは 光りの日々が走馬灯
倒れてしまった悲しみは 独りの自分に出会うとき
倒れてしまった悲しみは 悲しい悲しい悲しみよ 悲しい悲しい悲しみよ
倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは
▼ 悲しむべき時には、悲しむが良い。 本当の悲しみが出てくるのは、
 数年先になるのだろう。まだ、悲しむだけの余裕がないのかもしれない。
 ・・・・・・・
3674, 自己を見つめる −2
2011年04月17日(日)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 私たちは人生の現実を経験を介して初めて知られてくる、経験をして
みなければ分からないのである。人生は、経験を通してその深みと広さを増す。 
自分とは、経験してきた全てである。人生は様々な過去の追憶を返し、暖め
なおすことしか、事実上何処にも存在をしない。良質な経験の積み重ねこそ、
人生を豊かに、実りあるものにする。
   ー 第一章 経験 の中より ー
  哲学者・ダガマーは経験について3つの点をしてきした。
・まず第一に、それが誰も予見できず、見通せない仕方で生じてくる点である。
 したがって、経験は常に新しさを含んでおり、経験がもたらす内実を、
 まったく予測することができない。
・次に第二に、そうした経験の過程は、いつも否定的過程であって、実際に経験
 するまでは、当の事柄を知ってなかったことを痛感させられるわけである。
 つまり私たちは徹底的に、浅見や独断を捨て去らねばならないことを教えられる、
 とガダマーは断じる。
・さらに第三に、それゆえに経験とは、本質的に、辛い不快なもの、期待の
 幻滅を伴うものである。かつてギリシアの悲劇作家アイスキュロスが語った
 ように、人間は、「苦しみをとおして学ぶ」のである。それが経験ということ
 であり、こうして初めて人間は、真の洞察と自己認識を獲得するのだ、という。 
  要するに、経験をとおして、私たちは、あらゆる予見の限界と、すべての
 計画の不確かさと、人間の非力さと有限性を、徹底的に思い知らされるわけ。 
 実際、こうした労苦にみちた経験を介して、私たちは、ほかならぬ自己自身の
 人生の実相のただなかに立つことになる。そしてそれ以外に、どこにも人生
 というものはない。私たちは、経験において初めて、自己自身と宿命的に向き
 合うことになる。 経験のなかにこそ、自己自身があると言いうるゆえんである。
▼ 人生を振りかってみて、経験の中こそ、自分があると、つくづくと思い知る。 
 その境界が自分の限界であった。だから迷ったら、とにかく、一歩踏み出して
行動することが、自分を広く深くする。「自分を見つめる」とは、自分の経験を
見つめることと同じである。 経験して初めて、知るが、それは否定的過程を
踏む事であり幻滅を伴なう。 とはいえ、落語の与太郎では? 
 ・・・・・・・
3309, 笑われ力  −1
2010年04月17日(土)
   「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
 図書館で、この本を見つけた時に、「面白い!」と、直ぐに借りた。
「自分の失敗や欠点を笑い飛ばしなさい。それで既に自分を客観的に見下ろして
いることになる。」とは癒しの真髄であり、これまで「フン、この程度モノさ!」
と自分を笑い飛ばしてきた。 しかし、それを一冊の本として真正面から取組む
とは。お笑いのサンマやタモリが、この名人である。 実に上手に自分の失敗談
を取上げて、周囲の共感と笑いをとる。タモリが「電車で、もようして? 
有名人なのでトイレに入りづらく、失禁直前に家にたどりついて、ホッとして、
ところが大爆音のガス一発だけ! あの1時間の苦労はなんだった? 」で、
場内、爆笑だったが、「笑われ」の典型的事例。誰も一度や二度は経験のある?。
私の知人でも、「笑われ力」を駆使して世渡りをしている人が何人かいる。
実に自分の欠点、失敗を披瀝をし、周囲の苦笑と共感を誘っている。自分より
知識や、経験の少ない人の前では可能だだろうが、同じレベル?の人の前では、
躊躇をしてしまう。 素の自分を曝け出し、相手を笑わせようというのだから、
基盤がないと出来るものでない。
  まずは、アマゾンの ー内容紹介よりー ≪石原壮一郎≫
≪「心地良い人間関係」に「笑い」が不可欠なのは言うまでもないでしょう。
 しかし、ウケを狙えば狙うほど、スベりやすくなるものです。まして、
人をバカにして笑っても「心地良い人間関係」は生まれません。そこで
「笑われ力」の登場です。 笑わせようとするのではなく、笑われる意識、
人をネタにするのではなく、自分をネタにするスタンスです。 お笑い芸人
のような爆発的な「笑い」が、笑わせることを目的にしているのに対し、
「笑われ力」が生む自然な「笑い」は「心地良い人間関係」を築くための
プロセスに過ぎません。大爆笑は不要です。 自然で心地良い「笑い」を
プロデュースする方法をゆる?く紹介します。≫
▼ 「まえがき」の冒頭に、「いきなりですが、おめでとうございまう!
 あなたが、こうして『笑われ力』に出会ったことは、あなたの人生にとって、
大きな意味を持つでしょう。きっと日ごろの行いがいい方に違いありません」
とあり、最後の方には「大人力の77パーセントは「笑われ力」でできています。
残り23パーは、さほど気にしていただく必要はありません。」とある。
この随想日記やブログも早くいえば「笑い」というより自嘲の披瀝。そうでも
思わないと、毎日、アクセクして書いていられない。ある意味、癒しになって
いる。 読み続けている人はご存知のとおり、最後の一行に捻りを入れるよう
にしている。それも共感を得るような自嘲気味の捻りで締めるように。決して、
この本を読んだぞ!でなく、やっと読みおえた!でないと続かない。
この本の内容は簡単明瞭。 嫌味なく自分をダシに笑いをとれれば、悩みや、
怒り、悲しみの絶対量は激減する、ということ。 そういえばオカマバーの方々、
実にオカマの世界を自嘲気味に話し笑いをとっている。笑われてナンボの世界か、
珍獣?の世界は。10年以上は行ってないが、歳のせいか気持ち悪いが先にたつ。


5510,閑話小題 〜魂の致命的な敵は、毎日の消耗である

2016年04月16日(土)

   * 『魂の致命的な敵は、毎日の消耗である』
 ロマンローラン『ジャン・クリストフ』の言葉である。 
リタイア後の最大の収穫は、毎日の消耗が大きく減ったこと。
何も期待されないし、誰にも気を使うことがない気楽さが、こんなに
よいとは思いもしなかった。WOWOWの「ドラマW」枠の「双葉荘の友人」
の中で、主人公の妻が、職場の御産で退社する上司の仕事を受継いだ後、
訪ねていった時の先輩の言葉、『辞めて、家事専門になって慣れると、
思いの外、これがいい』である。 これと同じ感覚を5年前から実感して
いた。 仕事のプレッシャーの累積は、実は魂の致命傷になっていた。
 いや、逆に 魂の消耗の果ててこそが人生じゃないか?  もある。
   * 負いかた一つで、重荷も軽い
 『負いかた一つで、重荷も軽い』 こんな、言葉があった。
傍からみたら、現在の自分が、重い荷物を負っていると見えるだろうが、
何故か羽根が生えているかのように軽い。 私より、一ランク上?の
人種の24時間のスケジュールをたて、こなしていることが、重荷?を軽く
している。これをこなしている限り、重荷になるはずの状況(環境)下で、
重荷も?軽くなって当然と実感。気を強く持ち、日々を真正面に過ごせば、
気持ちの揺らぎも、一時的で終わる。 生老病死などの四苦八苦の重荷は、
老いるほど肩に食いこんでくる。「負いかた」を「老いかた」と置き換えて、
『老いかた一つで、重荷も軽い』にしたいもの。
ルソーがエミールの中で、『もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を
生きた人でなく、もっとも「よく」人生を体験した人だ』と語っている。
「人生の重荷の負いかた」を知り、可能な限り、遊ぶ、学び、働くこと、
特に、遊びは、その重荷を軽くする。これでも、まだまだ、遊び足りない? 
 さて、今日は、何をして楽しみ、遊ぼうか?  

・・・・・・
5145,閑話小題 〜漫画本を読む感覚でシネマを観る
2015年04月16日(木)
   * シネマは、漫画本を読む感覚で・・
 明日の金曜日は、所要でシネマに行けないので、昨日、前編に続いて
『ソロモンの秘密ー後編』を観てきたが、期待に反しない重厚な内容。映画館
で、シネマを観ると何か充実感が残る。大きな館内で、大型スクリーンで、
大音響で、数多の映画の中で選んで、独りで行って、観るからこそ没頭出来て、
その世界の幻想世界に入り込むことが出来る。平日の昼前後は、10〜30人
位しか観客がいないところも良い。この3年間、年に数度は休むが、ほぼ毎週
金曜日のシネマ通いを欠かさない。面白いから続いているが、デジタル技術の
進化で、迫力が日々、増しており、コスト対ストレス解消効果はネットに
劣らない。あれだけの幻覚の別世界に誘って、千百円は価値がある。 
平静を装っているが、ストレスは沈殿して、少しのことでも動揺は起こる? 
そこでTVや、ネットなどで、自動発生するマイナスの情念を日々、解消する。
そのため面白、可笑しく、気持ちをフレッシュにしバウンドしている。
ハピネス・アドバンテージ(幸福優位性)を維持するためには、マイナス感情
の3倍の楽しみを持つ必要がある。慣れてしまえば、結構、ネタはある。
この文章を書く習慣も、その一つ。 
 20年になるが、母親が痴呆症になって5年半、そのストレスは尋常では
なかった。そこで、本能的に好きな年二回の秘境ツアーに行くことにした。
そうでもしなければ、ストレスの短期間解消が出来なかった。  あれは、
恐怖心を乗り越えるゲーム。帰路の機内では、ストレスが見事に消えていた。
その代りがシネマ通い。月4〜5回で4〜5千円が高いかどうかだが、居酒屋
や、スナックの一軒分からみれば、価値は充分。問題は、これも続けること。
 デジタルの映像漫画を、大スクリーンで、観ると思えばよい。所詮、人生、
振返れば幻覚の悲喜劇の世界。せめて、小さな世界から一時だけでも、
ドロップするのも好い。面白いことに、館内から出た瞬間、全てを忘れる。
人生と同じ。何せ幻想世界であるからだ。それを現実と思うから、変になる!
・・・・・・
4780,ぼんやりの時間 ー9
2014年04月16日(水)
               「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
  * ぼんやり時間について ーつれづれに
 10年前に、この本を読んでいたら、どうだったろう? 
まだ娑婆っけが強かった年齢。人生の余白を埋めることに全力をあげていた
真っ只中で、ぼんやりなど程遠い生活であった。 
 ー‘あとがき’の次の箇所が最後のマトメによいー
《ところで、「ぼんやり」という言葉は、辞書ではどう説明されているのか。
 何冊かを調べてみて、予想以上に評判が芳しくないことを改めて知った。
「①気がきかないさま。②利発でないさま。③どこか元気がなく、気持ちが
集中しない様子。④間が抜けているさま。⑤呆然としていたり、うかつで
あったりする状態。」 多くの辞書では、「ぼんやり」という言葉は否定的な
意味で説明されているし、世間の人ぴとのぼんやり観も、たぶん、同じように
否定的なものだと思う。たしかに、横断歩道のところで呆然とした状態で
ふらふらと車道に歩み出れば、これはもう危険な場所、不適切な場所での
ぼんやりは困りものだ、ということについて、私としては異議もなく、異論も
ない。そういうことは承知の上で、串田孫一は「ぼんやりしているのは人間に
とって非常に大切な貴い時間である」と書いたのだと思う。
 私は、串田の文章に共鳴するものだが、それでも、ぼんやりの否定面を
忘れることはなかった。ぼんやりの否定面を仮に「ぼんやりH」といい、
ぼんやりの肯定面は「ぼんやりK」ということにしよう。この本で繰り返し
説いてきたのは、主にこのぼんやりKのことである。「これは、ぼんやりKの
場合です」といちいち断ってはいないが、いままでこの本で書きつらねてきた
のは、ほかでもない、主にぼんやりKのことである。世の中の支配的な風潮に
対して否定的な考え方を示すことは、難しいことではあるが、ある意味では
実に大切なことだと思っている。ぼんやりということを考えるとき、
「ぼんやりH」的な思いが支配的な風潮であるならば、一方で、「ぼんやりK」
的なもの、つまり、ぼんやりには、脳の働きをいきいきさせるものがあり、
生命力をよみがえらせてくれるものがあると主張することは、ことのほか
大切なことではないか。そんな思いが私にはある。私たちは「光」の恵みを
考えるならば、同時に「闇」の恵みにも思いをいたす必要がある。
「陽」の力を思うときは、同時に「陰」の力を思う必要がある。「動」や
「働」や「がんばり」が大切だと考えるときは、「静」や「休」や「ぼんやり」
もまた、いかに大切であるかを考えねばならぬ。日常の暮らしのなかで、
私たちはあまりにも「働」や「緊張」や「がんばり」に力点をおきすぎて、
「休」や「やわらぎ」や「ぼんやり」の効能を片隅に追いやっているのでは
ないか。ぼんやりは「呆然としていること」であり、「間が抜けているさま」
であるということとは別に、「ぼんやりすることは貴い」「ぼんやりする
ことで、なにかが貯えられる」「ぼんやりは活力を生む」という場合もある。
ときおり、ぼんやりした時間をもつことは、生気、活力をよみがえらせる
ためにも必要なのだ。》
▼ 人生には「よく働き、よく学び、よく遊ぶ」ことが核になる。それを、
 いつも意識をし、分類し、バランスをとってきた。その他に、もう一つ、
背景に広がる空白も意識してきた。働くでなし、学ぶでなし、遊ぶでない、
ボーとした時間である。これは幾つかの挫折体験などから、否応なしに誰もが
経験すること。 そこでの、ぼんやりの時間も飽きてくると、そこから
エネルギー、気力が湧き出ることを、である。ツアーで、独自で行けない
秘境・異郷に行くのをライフワークにしてきた。そこでは、旅の企画と手配と
案内は全て代理店と添乗員がしてくれる。その大部分が、移動の飛行機か、
バスの中。そこの「ぼんやりの時間」が良いのである。慣れるまでは苦痛
だったが、回数を重ねる度に、その高速移動空間で、ただただ、ボ〜っと
する時空の魅力に気づくようになった。何か、痴呆症の勧めのようだが・・ 
・・・・・・
4413, 早起きの話
2013年04月16日(火)
 早朝の読書習慣は事業を立上げた27歳の頃から現在まで40年になる。
父も早寝早起きで、夜は9時前に寝ていた。一日、二時間は読書をすると
決めていた為、創業の忙しさの中で読書環境は静かな早朝しかなかった。
40年にわたる早朝の読書時間は私の独学塾。その蓄積で、もう少し読書
の質が上がって良いさそうなものだが、独学もあり壁を破れなかった。
それもあって夜は9時就寝に自然となっていた。 晩酌をすることもあり
就寝と同時に4〜5時間は爆睡するが、深夜1時〜2時頃に目が覚める。
その30分は頭が冴え渡る。事業で何か大きな決断をするとき、2時半を
目安にして判断をする。その後、半覚半睡の状態で二時間ほど過ごし4時〜
4時半に起床、書斎に入る。そして6時頃からポタリングに出る。
早朝時間の活用をしている人は意外と少ない。 時間帯として、
「20対80の法則」「6対94の法則」でいう、この時間の読書と散歩か
ミニ・サイクリングは私にとって重要事項。カレルが「物理的に過ぎ行く
時間の他に『内的時間』が別にある」というが、早朝の時間は、その内的時間
に入る。内的時間の芯といえば純化した心のゾーン。名著などに没我しきった
時間の、それである。ところで日本は戦中・終戦直後まで人口の過半数以上が
農林漁業に従事していた。そのため、朝早く起き、夜早く寝る習慣になっていた。 
朝の陽光が生命の源。朝の語源は、天が開いて明るくなる「明ける」からきた
という説がある。英語のモーニングもドイツ語のモルゲンも、太陽の光を
思わせるイメージがある。仕事により朝方かどうかが変わってくるが。
早起きの効果は、長年続けなければ出てこない。部屋で、土手で、早朝、
独りで物思いにふける時間は至福である。
・・・・・
4039, 世界の旅行記101  ー1
2012年04月16日(月)
  ー 内容(アマゾンより)ー    「世界の旅行記101」 樺山 紘一著
 アームチェアで葉巻をくゆらせながら読むものも、通勤の電車内で文庫本に
読みふけるものも、旅行記から、迫真の体験をうけとるだろう。ときには、身に
うずきを感じ誘われるかのように、みずから旅への計画にむかうこともあろう。
旅行記の効用は、実に広く深い。ヘロドトスの「歴史」からイブンバットゥータ
の旅行記、ぺルリ提督日本遠征記、はたまた永井荷風の「あめりか物語」・・ 
異文化への遭遇と驚き、喜びを満載した古今内外の代表的な旅行記101冊の
歴史的な意味と、意義、概略をコンパクトにまとめている。自宅でくつろぎ
ながら、旅行記の魅力に浸れます。
この中から興味を持った本を図書館に行って借り、読むのも一興。
  ◎ アマゾン読者感想 
≪ 読書と旅が好きな者にとって、旅行記は興味この上なく深い。しかし、
 世の中には旅行記なる書物は山のように存在する。その中からその時の関心の
在処に応じて何か良いものを探し出そうとする時、手引きとなる情報があると
助かる。 旅に出る時、ガイドブックとは別にその地をめぐった先輩の書き物
に教えを請おうとする時、適切な本を探索する手引きとなる情報があると助かる。
また、仕事を終えた夜のつれづれに、何か旅の本に想いをいたそうとした時に、
そんな本の梗概を記した手軽な本があると愉しい。私は、数年来、この本を
そんな風に使ってきた。先日、タヒチを訪ねるにあたって、モームやゴーギャン
の作品などとともに、ブーガンヴィル、クック、ダーウィンという探検の時代の
旅行記の関係部分に目を通した。その時、この本が彼らの旅行記を推薦した。
そして、私のタヒチ旅行はいっそう内容豊かになった。この本には、紀元前から
現代までの代表的旅行記が外国から日本まで101件、原則2頁で、時に地図や
写真を付けて紹介されている。各文末には、入手可能翻訳本を記している。
関連年表、索引もやや詳しい。目次は、書名のみ、著者・解題者付書名、執筆
年代順書名という3種が付されている。ハンドブックとして工夫次第で利用勝手
は拡がる。旅が好きな読書子には常備して価値のある本であろう。理想を言えば、
併せて、古今東西の旅行記・紀行文を網羅したリストを座右におけば、
精粗あわせて情報が得られて良いのだが・・・ ≫
▼ 10年ほど前に買った本だが、数編を読んだまま蔵書になっていたもの。
 どのページを開いても、生々しい事件に満ちている。編者の「旅行記は事件簿
でもある」という見方こそ、面白い切り口である。旅行は事件なのである。
そこには、それぞれの人生の全てトラブルが現れ出ていて、生々しい記述で満ち
ている。それと、自分の人生の様々な場面と合わせ鏡にすると万華鏡のようである。 
  次回から、目に止まった面白い旅行記の逸話を抜粋する。
 ・・・・・・
3673, 自己を見つめる −1
2011年04月16日(土)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 ここまで人生を生きてきたら、要は「生きてきた過去をどのように
受けとめるか?」になる。それは生きてきた「自己を見つめる」になる。 
その「自己とは、そもそも何か?」色々な場面で、多くの判断をし、決断を
してきた、その時々の主体が節目ときの自己になる。それらの自己の総合体が
自分になる。 先日、何気なく図書館で借りてきた10冊の本を流し読みを
していたら、思わない拾物をしたのが、この本。現在は、その「節目どき」。 
自分を見つめ直す機会である。 まずは、−アマゾンの説明書きよりー
《 放送大学の空前の人気授業といわれたテキストを叢書化。ニーチェや
 ハイデッガーのことばをまじえながら、崩れ落ちそうになる気持ちを支え引き
締めてくれる。「この授業、このテキストがあったから、いまの私の人生がある」
と語りつがれる哲学の名著。 日本を代表する哲学者が「自己」「仕事」「孤独」
「世間」「運命」「不幸」など 15章のテーマで語る人生の真髄。  
  ― 次に、アマゾンの感想文の中の抜粋をコピーしてみた ―
* 「生き甲斐は、根本的に重い運命愛の意識に担われた、死場所への覚悟と
  いうものと深く関係している。しかし、他方では、それは、ときにはそれを
  忘却した、放念と遊戯と飛翔のうちで、自己の快癒を図る悦楽の解放感とも
  接続していることは確実である。この大きな振幅のなかで、私たちの生の
  営みは展開している」 (「生き甲斐」)
* 「愛とは……問題となっているものを、深く大切に思い、それを慈しみ、
  人生の大事と考えて、その尊厳を守ろうとする、控え目ながらも持続的で
  強い根源意欲ないし生命意欲に関係するものであり、また、そのことに伴う
  あらゆる憂いと悲しさの 情念のすべてであり、自己としての生きる人間の
  根源に関わる根本問題なのである」 (「愛」)
* 「幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる
  失われた桃源郷である」 (「不幸」)
* 「老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと
  気づかないうちに、自分に忍び寄ってきて、自分を支配することに至った
  ことを理解する。自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、
  ようやく分かるのは、老年になってからである」 (「老い」)
* 「人は、多くの場合、無言のまま、誰にも相談することのできない、
  こうした人生の重大問題を抱えて、悩みながら生きている。私が、本書
  『自己を見つめる』において、語りかけたいと思っている読者は、そうした
  優しく敏感で、傷つきやすい、心豊かな人、慰めもなく、苦しみながら、
  しかし立派に生きる務めを果たそうとしている人である」(「まえがき」より)
 [目次]  まえがき  
  第一章  経験  第二章  時間  第三章  境遇  第四章  遍歴  
  第五章  自己  第六章  生き甲斐  第七章  仕事  第八章  孤独  
  第九章  愛  第十章  他者  第十一章 世間  十二章 運命 
  第十三 不幸  第十四章 老い  第十五章 死
▼ これを図書館から借りてきて、直ぐにアマゾンで、姉妹書の「人生の哲学」
 と共に注文をした。老年に差し掛かってきた現在、自分の歩んできた人生を
振り返り、己を見つめ、考える時期に来ている。それが「節目を打つ」こと。
青年期の挫折時には、これをチャンとしていたから、躓きの石を踏み台の
石にすることができた? 内省も面白いものだ。
・・・・・・・
3308, 万田酵素
 2010年04月16日(金)
 新聞広告で、「万田酵素、無料キャンペーン」の見出しがあった。 
前から新聞広告やドラッグストアで見かけていたが、一万円前後。無料キャン
ペーンはお試し用の6パックで1200円。10日前に届いたので、試飲をしてみた。 
で、二日間、一パックを飲んだところ、二日酔いのような赤ら顔になった。 
何かニンニクエキスを飲んで、一日中逆上せているような感じ。そこで、小さな
パックだが、半分にして飲んだところ、丁度良い。酵素といえば、もう25年来、
玄米酵素を飲みつづけている。これも一日一パックを飲んでいるが、続いている
から身体に適応しているのだろう。 酵素といえば新潟産業博で年一度、小さな
コーナーで「酵素源」のデモ販売をしている。そこで三度ほど買ったことがある。
ただ7千円もするので、一瓶を数ヶ月かけて飲んだ。確かに身体全体に活力が
出たが、電話で取り寄せるほどではなかった。無料の試しパックは一パック
2百円と高い感がする。 しかし飲んでみると、全身から活力がみなぎ出る感じ。
通勤途上にある「マツキヨ」の健康食品のコーナーをみたら、全く同じものが
一瓶9800円である。これなら少しずつ飲めば三ヶ月は持ちそうである。 
で、ネットに「格安 万田酵素」と入れたところ、何と3600円。ネットでは、
3000円半ばの販売価格に集中していたから、「マツキヨ」のバイヤーもネットで
チェックしているはず。それでも、この価格で販売しているのだから、ネットで
チェックしない客を狙っているのか。ネットの世界=情報化は、ドラックストア
さえ中抜きにしてしまう。 バイアグラとしても、使える?代物。 
バイアグラ以外では、これが一番?  今さら、大して用がないか!


5509,閑話小題 〜今年の桜の総括

2016年04月15日(金)

   * 今年の桜の総括
 毎年、恒例になっている福島江と悠久山の早朝の花見に、この時節になると、
飽きもせず行くが、当り年の桜は何度見ても感動する。早朝の桜の花は、朝日の
こぼれ陽が冷気と相まり、神秘的な空気を漂わせる。特に悠久山の通称、
「瓢箪池」を取囲んだ桜が絶品。 子供の頃には、長岡駅から悠久山へ玩具の
ような小さな電車が通っていて、悠久山の花見は長岡花火と共に、市民の二大
イベントになっていた。 しかし、それもとうの昔に無くなり、今では、自動車
で行くのが大勢。元の悠久山駅前から、1キロ近い石畳の参道の両側に桜並木に
なっていた。毎年、家族で行く花見が楽しみで、大きな広場の後ろの高台の
『団子茶屋』で、団子を食べるのが市民の楽しみであった。その参道の石灯籠の
裏側に、江戸時代に献上した、人の名前が記され、生きた証が残っているのは、
そこだけしかないが、確かに生きていた人の確かな証が記されている。
なるほど、名前は小さな物語。冬期間には、子供の丁度よいスキーのゲレンデ
になっていた。 で、今年の桜の咲具合は、上の下=80点辺りか。それでも、
週初めの天気の良かった早朝の桜は絶品に近かった。大当たりは十数年ないが、
この40年間で、数回かあった。

・・・・・・
2003/04/21
散る桜残る桜も散る桜ー2

 ー雨中の花見
 昨日、散歩がてらの悠久山の花見に行ってきた。
毎年のこの時期の恒例の一人花見である。もう十年以上続いている。
他の場所はどうか解らないが、長岡は4~5年に1度があたり年になる。
季節の微妙なバランスが影響しているのだろう。今年は例年並であったが、
満開時期に雨が続いたという点で外れの年と言ってよいだろう。
 午後一番に悠久山に向かって出発したが、小雨がダンダン大粒の雨に
なり、丁度悠久山の参道に到着したと同時に大雨になってしまった。
いまさら帰るわけにもいかないし、とりあえず瓢箪池に行く。
それでも、いろいろな団体がテントの中で「やけ花見?」をしていた。

 雨が桜にとっての天敵ということが散歩をしていて解った。
それまでは大風と思っていたが、雨も桜の花を叩き落してしまう。
最近の桜では6年位前に2~3年に大当たりが続いた。その時に早朝、
悠久山で写真を撮っていると、中年の男の人が話しかけてきた。
「自分はこの近くに住んでいるが、これだけの桜は初めてだ!」
という。それだけすばらしい桜だったのを憶えている。
 ここで桜を見ていると、子供の頃家族で夜きたことを思い出す。
参道の両側に多くの屋台がならんで華やかな雰囲気であった。
もう50年も前のことだ。
 
 花見こそ一期一会である。
吉野とか京都の名所のあたり年の桜は、魂を吸い取ってしまうのだろう。

・・・・・・
2003/04/19
 「散る桜、残る桜は散る桜」
 「散る桜、残る桜は散る桜」は人間の死を一言でいっている。
他人の死も、すぐに自分の死になる人生の無常を喩えている。
この季節の桜の花を見ていると、ものの哀れをつくづく感じる。
桜は生臭い死の臭いがする。
人生の縮図を桜の花に感じるのは歳のせいか?

 今年の桜は[あたり年ではなかった?]が、例年並だった。
2~3日前が近所の桜の福島江の桜が満開だった。
「悠久山の桜」は今日あたりが満開だろう。
悠久山の桜も絶品だ!
5〜6年に一回はあたり年になるが、雪などの季節の要素が微妙に
関係してくる。
 桜は毎年思うことだが、自分の生死を考えさせられる。
以前、桜の精の女に迷って死んでいく侍の映画をみた事を思い出した。
ゾクッとする日本的エロチックの内容であった。

 また7~8年前に近くの従兄が桜とともに自殺をした。
多くの写真を撮り残して。
新潟は桜とともに春が来るという感覚である。

・・・・・・
2005年04月22日(金)
1480, 桜咲くーつれづれに

昨日か今日あたりが長岡の平地では満開である。
もう散りかけてもきている所もある。
近くの山は大よそ一週間おくれになる。

何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。
満開で散りかけも良いが、何か心さびしいものがある。

近くに福島江という桜の名所があり、この時期の楽しみになっている。
車で10分ほどの悠久山の桜も良い。特に豪雪の年は良い桜が咲く。

家内は如何いうわけか「桜が好きでない」という。
「どうして?」と聞いても解らないと言う。
「すぐ散るからじゃないか」と言ったら、
「恐らくそうじゃない」と答えた。
私は、すぐ散るから気にいっているのだが。

10年に一度位は大当たりになる。
悠久山などで早朝に見ると、思わず息を呑むような神秘的な
光景を目にすることが何度かあった。
一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。

全国的にみたら、無数に名所があるのだろう。
サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。
現場で見る桜は、写真では表現できないほどの濃艶な妖精が
無数に漂っているのだろう。

先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、
吹かずともと言う文章を書いていた。
桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。
ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー

今週の長岡は、桜の週である。

庭の梅の花も散り始めてきた。

近くの川に鴨の姿がチラホラ見えてきた。
本格的な散歩が、この時期から始まる。

・・・・・・
2006/04/20
1843, 桜の話
               才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)

近くの福島江の桜は昨日・今日が満開である。
「花」と言えば桜を意味するくらい、桜は日本人にとって特別な花である。
今年の花便りだと桜の当たり年のようだ。
私のHPに投稿してくれる井上さんのHPも、
桜の花が多い。

     長岡にも幾つかの桜の名所がある。
     自宅から数分のところにある、福島江の桜と、悠久山の桜だ。
     毎年、開花を楽しみにしている。
     5年に一度は大当たりの年になるが、
     今年はその年か如何か?

桜をぬきにして日本人の自然観や人生観を語ることは出来ない。
文学・能・歌舞伎・絵画のどれをとってみても、
桜は大事な役割を果たしている。
日本人の考え方や生き方を表しているとも言える。
春になると「桜前線」が、天気予報のように、
(今どこが満開かと)放送される位だ。

     十数年前の話になるが、私の近くに住んでいた従兄弟が、
     桜の散り際を待っていたように「自死」をした。
     その納棺の儀式の時、桜吹雪が部屋の中に吹き込んできた。
     ゾクッとするような不思議な体験であった。
     5月3日に、その法事に行くことになっている。

               (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?
               
ー幾つかの花に関する和歌・俳句を
   HPからコピーしてみた。


世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし
                    在原業平

ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
                    細川ガラシャ

人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂いける
                     紀 貫之
こえぬ間は 吉野の山のさくら花 人ずてにのみ ききわたるかな
                      紀 貫之

みよしのの 山辺に咲けるさくら花 雪かとのぞみあやまたれける
                      紀 友則

色見えでうつろうものは世の中の人の心の花ぞありける
                     古今和歌集

願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ
                         西行
吉野山 こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき
                         西行
浮世には 留め置おかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり
                         西行
仏には 桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば
                         西行

吉野山 梢の花の色々に おどろかれぬる 雪のあけぼの
                     太閤秀吉

咲く花を ちらさじと思うみ吉野は 心あるべき春の山嵐
                     徳川家康

花咲くと 心にかけず 吉野山 またこむ春を 思いやるにも
                      前田利家

花にねて よしのや吉野の吉水の 枕の下に石走る音
                     後醍醐天皇

吉野山 陵ちかくなりぬらん ちりゆく花も うちしめりたる
                     昭憲皇太后

まだ咲かぬ 花のあかりや 蔵王堂     芭蕉
                 
古寺に 誰が植え捨てし 花一本
                     芭蕉

妹が垣根 三味線草の 花咲きぬ
                     蕪村
そのくせに 花はくれない 人は武士
                    古川柳

難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花
                     古今集

こち吹かば 想いおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ
                     菅原道真

さくら さくら やよいの空は 見渡す かぎり
    かすみか くもか におぞ いずる
          いざや いざや 見に ゆかん

 ーー
 桜は死の匂いがする。
 一瞬にして咲いて散るからである。
 それが、また良い! 
今朝は強風が吹いている。
 こういう日の強風は、
 何か腹立たしくなるものだ。               
                 ε(´',_c')зβyё☆βyё

・・・・・・
2005/04/22
1480, 桜咲くーつれづれに


昨日か今日あたりが長岡の平地では満開である。
もう散りかけてもきている所もある。
近くの山は大よそ一週間おくれになる。

何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。
満開で散りかけも良いが、何か心さびしいものがある。

近くに福島江という桜の名所があり、この時期の楽しみになっている。
車で10分ほどの悠久山の桜も良い。
特に豪雪の年は良い桜が咲く。

家内は如何いうわけか「桜が好きでない」という。
「どうして?」と聞いても解らないと言う。
「すぐ散るからじゃないか」と言ったら、
「恐らくそうじゃない」と答えた。
私は、すぐ散るから気にいっているのだが。

10年に一度位は大当たりになる。
悠久山などで早朝に見ると、思わず息を呑むような神秘的な
光景を目にすることが何度かあった。
一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。

全国的にみたら、無数に名所があるのだろう。
サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。
現場で見る桜は、写真では表現できないほどの濃艶な妖精が
無数に漂っているのだろう。

先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、
吹かずともと言う文章を書いていた。
桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。
ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー

今週の長岡は、桜の週である。

庭の梅の花も散り始めてきた。

近くの川に鴨の姿がチラホラ見えてきた。
本格的な散歩が、この時期から始まる。

・・・・・・
2567, 閑話小題
2008年04月14日(月)
  *桜咲く
 今日現在、桜が満開である。三分咲き、六分咲き、七分咲き、そして満開と
自分の人生を開花の中にみる。毎年、同じ桜でも気持ちが新たになる。短時間
に咲いて散るから心を打つのである。一日ごとに、それぞれの姿を見せてくれる。
そして今日あたりから一日一日と散っていく。通勤途中だから、それがよく
見える。散るのもまた良しの気持ちにはどうしてもなれない。 


5508,人類史上最大のバブルが弾ける時 〜①

2016年04月14日(木)

     〜【中国とどう付き合うか】人類史上最大のバブルが弾ける時
            熊谷亮丸『大和総研』チーフエコノミスト
 アメリカ、欧州、日本、中国、そしてロシアも、政治経済の行き詰まりを
見せている。その中で、経済で中国が最も危ないことは誰の眼にも明らか。
短期的に力で押さえつけても、市場は中長期的には、何処かで火がつく。
  〜以下のレポートが解りやすい。
≪ 2015年の夏場以降、中国における“バブル”崩壊の懸念が急速に強まった。
 中国が突如、人民元の切り下げに踏み切ったことをきっかけに、グローバルな
金融市場は激震に見舞われた。我々は、中国経済が抱えるリスクをどのように
捉えればよいのだろうか?  筆者の中国に対する見方を一言で述べれば、
“短期=楽観”“中長期=悲観”である。中国は所詮“社会主義”の国なので、
公共投資を中心とするカンフル剤を打てば、問題を1〜2年程度先送りすることは
可能。しかし、向こう3〜5年程度の時間軸で見れば、中国では“バブル”崩壊の
リスクが高まると見ている。
 最初に、現在の中国には膨大な2つの過剰が存在することを指摘しておきたい。
・第1の過剰は、金融面での過剰融資である。中国における過剰融資の総額は
1000兆円以上と推定される。将来的に、 この内の何割かが焦げ付く場合、
数百兆円規模の不良債権が発生することが懸念される。我が国の“バブル”
崩壊に伴う不良債権額が100兆円規模であったことを勘案すると、文字通り
“人類史上最大のバブル”と言っても過言ではない。
・第2の過剰は、工場や機械といった所謂“資本ストック”の過剰である。
その総額は400兆円以上と推定される。外資を自転車操業的に呼び込んで、
資本ストックを増やすことに依って成長する中国の経済成長モデルは、大きな
曲がり角に差し掛かっている。これに対し、中国の財政出動余地はどの程度か?
「中国が諸外国並みにストックベースの債務残高を拡大する」という前提の下
では、600兆〜800兆円規模の財政出動が可能だと推定される。つまり、現在の
中国経済を取り巻く状況を極めて単純化すれば、
「“1000兆円以上の過剰融資”“400兆円以上の過剰資本ストック”に対して、
中国政府が600兆〜800兆円規模の財政資金で立ち向かう」という構図である。
中長期的に見て、中国経済は決して楽観視できない。仮に、政府が大型の財政
出動を行ったとしても、中国が抱える本質的な構造問題は解決しないからだ。≫
▼ 中国の混乱の影響は、欧州に飛火、シリア・アフガン難民を抱えている
 欧州経済の混乱は計りしれない。そこで、日本は、表向きは目先のリオと、
4年後の東京オリンピックに向くが、その間に、世界情勢は一変している。
特に、中国の経済難民の問題が、今後、大問題として表立ってくる。

・・・・・・
5143,知の逆転 〜�
2015年04月14日(火)
             ー知の逆転ー
  * 5万年の間、人間の認識能力は進化してない
                 対談相手 〜ノーム。チョムスキー
 フランス、スペインに多くの洞窟壁画が、近年発見されたが、発見当時は、
プロの画家や学者は、3〜4万年前に、これほど高度技術の壁画の存在を認めず、
最近、いたずらで描かれたと譲らなかった。ラスコーの壁画は、霊媒師のような
存在の人が、百数十年にわたり書き加えていたという。
≪ ・わかっていることとしては、約五万年前、ごく小さなグループの人間が
 東アフリカを出て、急速に全世界に広がっていったということ。それ以来、
知る限りにおいて、認識能力の進化は起こっていない。 つまり、たとえば
アフリカを出てから全く他の人種との接触のなかったパプア・ニューギニアや
アマゾンの原住民の子供たちと、われわれの子供たちとは、認識能力に全く差が
ないということです。当時の原住民の子供をボストンに連れてきて育てれば、
私の孫たちとなんら変わらないはず。種族間の遺伝的な差異は見つかりません。
同じ種族の中での差異はありますよ。たとえば、病理学上の違いとか。
でも基本的には認識能力に差はない。ですから、過去五万年の間に、進化上の
変化は全くなかったと言っていい。たとえば髪の毛の色といった表層的な
変化はありましたが、認識能力上の変化は起こっていない。
・考古学上の資料によれば、約5万年から10万年くらいの周期で、重要な
創造力の爆発があるといいます。ですからそれくらい前に人類学者が「大躍進」
と呼ぶような何かが起こったらしい。その頃、記号を使った行動や表記が始まり、
天体の記録や複雑な社会構造が生まれ、考古学上の記録だけでも、人間能力の
突然の進化や向上が見られるわけです。それ以前にも進化はあったけれども、
この頃に急激な変化が起った。 
・カンブリア紀の生命爆発の頃に、生物の基本的なパターンというものが
整ってからは、生物の発達というのはみなほとんど同じなのです。
遺伝子の保存についても十分にわかってきている。多様な生物は、実は一種類が
非常に長い時間をかけてわずかずつ変化してきた結果であるとする論文も発表
されているくらいです。しかしそれらとは違って、言語を含む人間のさまざまな
能力は、非常にごく最近、突然現れたものなのです。・・ ≫
▼ 「5〜10万年の周期で、創造力の爆発がある」というが、まさに現在の
 ネットの世界的普及が、これに当る。認識能力が、このネットで飛躍的に
伸びることになる。ハッキリいえば、最近、同年代の人を二つに分けている。
「パソコンをどのように使ってますか?」「ネットサーフィンしてますか?」
 人類にとって、これは有益かどうか?など、考える必要はない。奈良時代に
ヘリが空から舞降りてきて、誰でも使えるようになったようなもの。こんな
面白いものを使えないのは、知らないから。認識の飛躍的拡大が可能のマシーン
が、各自が手にしたのである。 人類にとって、断絶の時代である。
・・・・・・
4778,閑話小題 ー 二度のポタリングの試み
2014年04月14日(月)
  * 先週から、一日二回のポタリングを開始
 先週から、早朝に加え午後の一時間のポタリングを加えた。
午後はスポーツジムを早めに切上げ同じコースを走る。健康もあるが、
グライダーで空中遊泳をしているようで気持ちが晴れるからだ。
音楽を聴きながらの土手の時間は特上。
 NHK・BS/TVで、朝食時に日本各地を火野正平が撮影チーム4人と自転車で
駆け抜ける番組を放映している。数ヶ月先のコースを予告して、視聴者が、
どの道を走って欲しいかの便りを元に走る内容である。朝ドラの直後もあって
か、視聴率が高いという。平凡な毎朝の、私の定番だが、ツーリストの
自転車目線が好き。 その一つの便りに、「先年、亡くなった父親が生前、
行き先は何も言わないで早朝から夜遅くまで、出かけていた。ところが最近、
父親の日記帳を見たところ、自転車でお寺や名所廻りの行先の記録があった。
その一つの寺院のコースをまわって欲しい」とあり、そのコースを辿っていた。
「早朝から夜まで、自転車に乗って、独り、何処かに行っていた」という
言葉が妙に引っかかった。 私の自転車歴は4年半だが、その人は、一日中、
どんな気持ちで走っていた? チャリダー? ポタリスト? 私の命名は、
「一日ツーリスト」。 少なくとも、家でゴロゴロしているより遥かに良い。 
 そこで「現在、一時間のポタリングも、2〜3時間にしたら?」と思いたち、
先週から二回目を挑んでいる。で、私は、「一時間ポタリスト」というところ。 
ただ、自転車は危険なこと、この上ない。それもあって、土手と、バイパス
脇の道路以外は、避けている。最近、始めたのが、ある本をヒントに、
ベンチで「ぼんやり時間」を持つこと。これが、なかなか、難しい。
自転車があるので、道の傍のベンチに座るが、ウォーカーが通ると、
何か落ち着かない。ボ〜っとした自分の姿を他人に見られたくない気持ちが
動くのだ。 まだまだ「ぼんやり道」の初心者でしかない。
   * 面白い公園
 ツアーで、世界中を旅行していると、行先の都市の美術館、博物館、寺院
などの観光の中に、公園がある。公園は、その国の文化が、そのまま現れ出る。
その中に、ノルウェーのオスロの彫刻家のヴィーゲランの作品をテーマにした
公園がある。 幼児期から老人期、そして死、愛、感情など、一生の出来事を
テーマに、人生を考えさせられる像が、様々なテーマごとに並んでいる哲学的
空間である。初めて、その空間に入った時の驚きは、今でも憶えている。
人生をテーマに国をあげて公園をつくる、そのセンスの奇抜さに・・
 一日がかりで、それぞれのコーナーで、自分の人生と重ね合わせると、
記憶が生々しく立ち上がるのだろう。
・・・・・・
4411, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −8
2013年04月14日(日)
   * 心清く、よく遊びよく遊べ ーつれづれに
 老後を考える上で、なかなか面白い本である。何事にも自然体で、拘りを
持たず、自由に気楽に生きることがベース。人間は、それぞれ固いバイアスに
囲われている。それを一枚一枚、そぎ落としていくのが人生。老いるにつれ
何事も面倒になり、過去に目を向けて、周囲の現象には上から目線になりがちに。
両親の晩期を供に生活をし、冷静に身辺整理をした父の姿を見ることが出来た。
母からは何事にもチャレンジする姿を見た。「始める前に、あるレベルまで
到達できるかどうか見極めること。決心をしたら、先生を見つけ集中すること。
ライバルを見つけること」と、教えてくれた。道を極めようと一心不乱で
日々過ごすと、心が純化されていく姿が見て取れた。「心の純化」こそ極意。 
以前「何かに集中していると、あるゾーンに入る瞬間がある」と書いたが、
それは心の純化の状態。 何事も純化の心から生まれ出てくる。「童心に帰り、
純化の心で、遊べ遊べ!」である。人生を振返ると、その時々、面白く遊んだ
ことが思い出される。 事業も、遊びも、何でも、遊びになるまで対象に入り
込まないと。それは楽しむことから始まる。楽しみになるまで対象に同化する
こと。「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり」 
これは高杉晋作の言葉だが、その心は純化した心。 論語の雍也第六に
『子曰。知之者不如好之者。好之者不如樂之者』がある。「師曰く、真理を
知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は真理を楽しむ者に及ばない」
という意味である。真面目に学べば「知ること」ができる。 しかし、知った
ことは、よく忘れる。だが、好きでやったことは身に付くから忘れることも
少ない。更に良いのは「楽しむ」こと。・・・更に、楽しみを遊びにしていく
ことである。遊びは、現代風にいうと、ゲーム化することになる。
ゲームは仮想世界の競争である。人生を夢幻として、難関を乗り越えて
いくことになる。人生のゲーム化。 夢幻の劇場で自作自演の役割を演じ、
それを味わい楽しむことである。心清く、遊んでいれば、その役をこなすこと
が出来る。 「うれし、たのし、おもしろし」の世界を、持つこと。ただし、
節度を持ってである。だから、そこに「良く」がなければならない。
その辺りに少し気を使いながら。
・・・・・・
4037, 閑話小題 
2012年04月14日(土)
  * スマトラ沖でM8・7クラスの大地震
 先日のスマトラ沖地震は、2004年のスマトラ沖大地震の余震とみられる。
前回のような断層の縦移動でなく、横に移動したもので、M8・7の大地震に
しては大津波は発生しなかった。地震学者は、「これは東日本大震災も震源地の
隣接地域で10年、20年単位で誘発地震が起きる可能性を示唆しているもので、
注意が必要。」と、忠告している。東海、東南海、南海地震と、首都圏直下型
地震の可能性を示している。 地球規模の地殻変動期の渦中にいるのである。 
日本は、その地震帯が重ねっている地震大国。 そこに原発が54もあれば、
危険極まりない事態。
  * ポタリングを再開
 早朝のミニ・サイクリング(ポタリング)を再開した。冬期間を除いた4
月〜11月の間、一時間かけ信濃川の二つの大橋を一周する。6時過ぎから
7時過ぎにかけての時間帯だが、何とも清々しい。電動アシスト自転車の効能で、
午後の二時間のスポーツジムを加えると、三時間も運動している。平坦な習慣の
組み合わせのためかアッという間に一週間が経ってしまう。電動アシスト自転車
の使用目安を5年と決めているので、半分使え終えたことになる。電動自転車は、
お薦めである。手段(自転車)が、目的(朝の運動)を変えてしまう
(ウォーキングからポタリングへ)典型的事例になる。これからはスマート
フォンとタブレットPCの普及が、ビジネスや生活パターンを根こそぎ変え
始めているが、手段の進化は、人間生活を間違いなく良くしてくれる。
  * チョッと騒ぎすぎでないのか?
 打上げ失敗で、よかったものの、北朝鮮のミサイルの打上げ少し騒ぎすぎ。
また、おどおどした防衛大臣の巡り合わせも悪い。北朝鮮の存在で一番、都合が
良いのは中国。極端に時代がかった漫画的国家を存在させておくのは、米国の
属国、日本と韓国の国境の緩衝地帯として地政学的に見ても必要である。 
まだ韓国が存在しているから他人事のように勘違いしているが、危険極まりない。
更に、やっかいなのは日本。充てがわれた憲法をたてに、軍隊の存在を認めず、
国境を侵犯されても他国への攻撃は相成らぬという、呪縛にとらわれている。 
その結果が、国家の体をなしてない有様。この十年で、残った体力を使い切る
ことになる。
  ・・・・・・・
3671, 節目どきに ー6
2011年04月14日(木)
  * 都知事選の結果をみて
 一度、不出馬を表明していた石原慎太郎が一転、出馬をして当選をした。
東国原とかいうお笑いタレントが石原が不出馬の場合に、当選する可能性が
あったからという。お笑いタレントを首都東京に選出するなど論外だが、
この国ではありうること。都民の大部分は以前、タレントの青島で大失敗を
したことを知らない。 この時期に人材が存在しないのは、悲しむこと。政治は
言葉で方向性を常に発し導くことである。石原を除いた他の候補は、論外も論外。
  * 本州壊滅は本当だったのだろうか?
 この原発事故が発生した数日後、あるところから、これは「本州壊滅の惨事」
と聞き及んでいた。ここでも何度か書いてきたが、その直後から外国人が列を
なして帰国をしていった。去年の三月にオープンした、東京駅に隣接している
シャンブリアホテルの支配人やシェフが、逃げ出して運営が出来なくなり、
事故後10日もしないうちに、休業に入ってしまった。(昨日に、営業再開の
ニュースがあったが・・)ところが数日前になって、チェルノブイリ級の最悪
レベル7に引き上げられた。事故直後は、危険レベルが4だったが、実際は7と
いうことを外国人は知っていたのである。知らないのは日本人だけだったのが、
ここで裏づけられたことになる。風評に気をつけろでなく、政府の発表と風評、
両方とも疑ってかからないと、大きなリスクを負う。
  * ホテル・飲食・サービス業界の悲鳴
 一足先に、事業を清算したが、同業の悲鳴がグッサと刺さってくる。
前年比で全国平均で三割減、首都圏で6割減、東北・北陸で八割減。それも、
リーマンショックで売上げが半減し体力を消耗した上で、これである。地元の
リゾート地や、佐渡など壊滅的と漏れ聞こえる。「過度の自粛を控えなさい」
というが、この世情の中で、生活防衛に入りざるを得ないのは当然のこと。
だから、あまり費用のかからないスポーツジムが大流行になる。
気の毒なのは料理屋、居酒屋である。 酒のツマミには魚料理である。
その魚に不信感を持ってしまえば、足が遠ざかる。最近、居酒屋の刺身が、
いやに美味しい。高級魚が売れないため、居酒屋に安く流れてくるためである。  
 ・・・・・・・
3306, 日本破綻 −1
 2010年04月14日(水)
 ー 「日本破綻ー株・債券・円のトリプル安が襲うー」藤巻 健史 (著)
 また恐慌本だが、近未来の津波のひとつの形が株・債券・円のトリプル安
と分かりやすい。現在の世界経済と国内経済も異常事態だが、何か茹で蛙と
いうのか、諦めムードというか、危機感がいまひとつ。津波がきたところで、
今さら如何にもならないこともある。それに加えて政治の混乱である。 
最悪の政党がやっと瓦解し、溶解しかけているが、それに劣らない時代遅れ
の社会主義政権になってしまい滅茶苦茶な空理空論の政策を始めた。
それが、とんでもない破滅型政策とくれば「株・債権・円」のトリプル安は
早まること必定。  まずはー 内容(amazn)から
《 バブル崩壊を上回る市場の反乱が日本を襲う財政の極度の悪化が招く
 「日本売り」が迫る。市場経済を無視し続けた代償として「トリプル安」
 による未曾有の大混乱が迫る。惨事を回避する策は果たしてあるのか?
 〜 本文の印象的な部分を抜粋しながら考えると、現状の深刻さに凍りつく。
*「市場の反乱」が起こると、人はそれを市場の暴力といいます。しかし、
 それは違います。日本でも株価が4000円を割り、円は200円まで
 暴落をし、失業率30パーセントが日本を襲う可能性がある。しかし、
 それは『市場』の自動調整機能を封印し、「計画経済」「管理経済」政策を
 長い間とってきたことの‘ツケ’なのです。
*2008年の54兆円の税収が、リーマンショックで44兆円まで
 落ち込んでしまった。この44兆円の内訳は、法人税が10兆円、所得税が
 15兆円、消費税が10兆円、その他が9兆円。その結果、33兆円の赤字
 を出してしまった。法人税は、これで世界で一番高い税率である。ところが、
 2009年度では10兆円だった法人税が「5〜6兆円」に減ってしまった。
 それは民主党がいっていたマニフェスト「子供手当て」とホボ同額。
 法人税は日本の三大税収のひとつだが、そのひとつ分を「子ども手当て」
 として、すべてばら撒こうという。その結果、53兆円の赤字国債を発行
 して、更に金を借りようとしているから驚きである。
*ハイパーインフレは「合法的徳政令」= 以上のことから、過剰なトリプル
 安が起こった結果としてハイパーインフレになった結果としては、貨幣の
 価値が大幅に低下する。その結果、政府の872兆円の借入れは、どんどん
 小さくなる。国債も紙くずになるということ。こうなると政府も簡単に借金
 をへらすことができる。私が、これを「合法的徳政令」政策と呼ぶ理由はここ
 にあります。 ・・しかし、ハイパーインフレは大きな格差を生むことになる。
 株式や不動産を持っている人は良いが、持たざる人や、
 給料の低い経済弱者が酷いめにあう。
  〜〜
 結局、何時の世も弱者が最大の被害者に成りざるを得ないのである。 
 問題は、これが何時、始るかである。


5507,恐竜と人類どっちが凄いか ー①

2016年04月13日(水)

            〜文芸春秋オピニオン。2016年の論点100〜
              〔国立科学博物館 海部洋介〕より
 人類誕生からの人類史について、ここでも何度か書いてきた。
以下は、その復習であり、簡略にまとめてある内容。その一端として私の
70年の人生を生きたが、生命史からみれば、僅かな一端でしかない微小の
己の立ち居地を垣間見ることが出来る。20億年の生命と、700万年の
人類の生命の歴史の上に、我々は存在している。
  * 地球全体に広がり人生を謳歌する人類は凄い 
≪・人類の未来というと、どうしてもネガティブな話になりがちだ。
 現代社会には、終わらない紛争、貧困、環境破壊と暗い話題がいくらでも
あるから無理はない。しかし人類が現在の繁栄に至った道を、文明史を
越えて進化の次元で辿ると、我々のとてつもない過去が見えてくる。
・人類は誕生から700万年の歴史しか持たない、自然界の新参者だ。
恐竜からみれば、この数字はまったくとるに足らないだろう。しかし
数字の大きさが全てだとは、私は思わない。
・初期の人類は、アフリカにしかいなかった。誕生から500万年もの間、そうで
あった。やがて185万年前以降に、原人や旧人のグループがユーラシアの低〜中
緯度地域に広がったが、5万年前まではそこが限界だった。
・激変が起こったのは、それからだ。アフリカで進化したホモ・サピエンス、
つまり我々の種が、大拡散を開始したのである。一部のグループは、海を越え
無人のオーストラリア大陸へ辿り着いた。 別のグループは、冬期の気温が
マイナス30度を下回るシベリア奥地に人類として初めて進出。やがてアラスカ
へ渡る陸橋をみつけて、無人のアメリカ大陸へ広がった。もう少し時代が下る
と太平洋へ乗り出す者が現れ、この広大な海洋世界に散在するほぼ全ての島が
植民された。体格や体力でみれば決して自然界の強者ではない人類が、こんな
ことを成し遂げたのである。生物進化史の尺度からみれば、一瞬とも言えるほど
の短期間で。その旅路には、恐竜が経験しなか三酷寒の地、海、砂漠、高山など
様々な自然障壁が待ち受けていたが、彼らはそれを越えた。
・そのとき人類は、身体が新慨境に適応進化するのを待つのでなく、他の生物
がやったことのない新戦略をとった。技術を創造し、継承.発展させたのである。
衣服、住居、移動手段としての舟などを生み出し、火の管理や食料心存法を
開発・改良する行動的柔軟性がホモ・サピエンスの大拡散を可能にした。
・かつての世界には、ジャワ原人、フローレス原人、ネアンデルタール人など
の異なる人類が共存していた。その多様性は今では失われ、現在いるのは
ホモ・サピエンスだけとなった。しかしその幅が、世界中にいる。
世界のどこに行っても、我々のなかまに会える。当たり前すぎて気づかない
かもしれないが、これは自然界の常識からかけ離れた、異様な状態なのである。
私はこの異様さこそが逆に人間の凄さであると思う。≫
▼ 生物は己を環境の変化に合わせて変えてきたが、人間は、環境を己に
 合わせて変えてきた。牧畜と農業と住居。そして村と都市。それを統率する
権力者と、その同調者たちと、その奴隷化され搾取される3分の2の従属者。
権力者3%、同調者30%、従属者67%の比率は、ギリシャの時代も、現代
のアメリカ社会と全く変わってない。表立ってないのは、ただ、オブラートに
包まれているだけのこと。とはいえ、この環境を人間に合わせて作り変える
仕組みも、そう長くは続かないことがハッキリしてきた。で、偶然だが、
以下につづく。

・・・・・・
5142,知の逆転 〜⑤
2015年04月13日(月)
                ー知の逆転ー
  * 帝国主義の終わり ーC  (民主主義の限界と、ネット)
              対談相手 〜ノーム。チョムスキー
 帝国主義の限界が見え始めてきたが、まだ当分の間は続いていく。
新しい時代に入り世界の枠組みが激変を始めた現在、民主主義も
限界にあるようだ。  〜インタビュアーの質問に
≪ ー侵略者はいつだって、気高い志に燃えているー
 もしブッシュをインタビューして、真実についてどう考えるかと聞いたら、
おそらく真実は素晴らしいもので、自分は真実というものに挺身するつもりと
いうでしょう。ヒョッとしたらヒトラーも同じように・・ 
アメリカ南部の奴隷所有者たちも実際かなり的を得た論理を重ねていた。
  ー民主主義の限界ー
 アメリカは世界中で最も自由な国のはずだが、国内に力の不均衡がある。
情報システム、メディア、広告などが、ほんの一部の手に集中している。
巨大な力を持つアメリカの企業は、地球温暖化というのは根拠のない仮設
に過ぎないと、大衆の説得を試みていて、しかも成功しつつある。
人為的な理由による地球温暖化を信じているのは人口の3分の1にすぎない。
先の(2010年)中間選挙で当選した共和党の大部分は、温暖化を否定。
共和党の主要委員会の若いリーダーは、「そんなことを神が許すわけがない。
神が許すわけがないことは存在しない」と言ったのです。
  ーインターネットなどの垂れ流しの情報は、情報がないのと同じー
 生物学者が、ハーバード大学の図書館にある全ての論文を読んだところで、
ほとんど何の役にはたたない。 生物学でノーベル賞をとるような人は、
論文を片っ端から読むような人でなく、何を探すべきか、何が大事か、
ということがわかっている人です。だから、こちらで大事なことを拾い、
あちらで大事なことを拾うという風に働く。・・・
 世界事情も同じで、何が必要か知っておく必要がある。そのために、
理解あるいは解釈の枠組みというものをシッカリと持っていなければ
ならない。これを個人で獲得するのは大変で、機能している教育制度や
組織が必要だし、他の人たちとの交流が必要になる。ちょうど科学分野の
大学院のようなものです。≫
▼ 世界の富の半分は、およそ80人が所有するという。グローバル化が、
 そのために大きな力に働いている。イスラム国は、それに対する抵抗
勢力とみると、その意味の一端が見える。アラブやアフリカの国は、
欧米の都合によってつくられた人工的国家であり、元首はポチと見做す
のも、一理ある。そして、日本の保守本流も、そう見ると肯ける。

・・・・・・
4777, 閑話小題 ー消費税3%値上げの実感
2014年04月13日(日)
   * スタップ細胞の真偽について
 世紀の発見といわれたスタップ細胞の存在の真偽問題で、小保方リーダー
の記者会見がライブでTV放映をされた。理化学研究所のトカゲの尻尾切りで
終わらせようとした目論見は失敗。冷静にみれば、やはり小保方氏に問題が
あったとみるしかない。200回もつくったなら、期限を決めて201回目を専門家
を総動員してやればよい。共同研究者の上司が降りたことからみても、疑われて
仕方がない。世界的な大問題になった中での、彼女の会見の受答えには驚いた。
本人が撒いた種としても、問題が表沙汰になってからは地獄だったろうに。
彼女が醸し出ている怪しげな雰囲気が、ドラマ仕立てに妙にピッタリである。
「傷口が膿んだ後に皮膚が再生するのだから、それらしき何かがあって
然るべき」という専門家がいたが、いやに納得させられた。
   * 消費税3%値上げの実感
 毎週、木曜日のスーパーのシルバーディに酒とツマミなど一週間分を
買い込む。で、先日の値上げの実感といえば、思いの他、大きいというのが
実感。他の値上げを加えた家計は、これでは大きく響くはずだ。私にとっては
酒を控えるチャンスにもなる。ウィスキーの水割りと黒ビールの二本を、
350mlのノンアルコールビールと、黒ビールの二本にすればよいが。つい売場
で、他に日本酒かウィスキーのボトルに手がいってしまう。この値上で、電化
商品とか車などの売上が、駆け込み需要の反動で激減しているが、ファミレス
とかコンビニは、影響が少なそうだ。 年金だけが収入の我家。家内の買物
行動をみていても、異常なくらいシビアになってきたが、何かゲームを楽しん
でいるふう?これでは当分は、さらなる消費の落ち込みになる!それと価格に
転嫁の難しい中小企業も、厳しい事態である。世界的株価の暴落の可能性も
膨らんでいる現在、危険な日々が続くことになる。「10年前から今日まで、
何が起こった?」そして、「今後10年間で、同じレベルか、それ以上のことが
今後起こるとしたら、それ何?」とすると? それより我身の存在?
・・・・・・
4410, 夫源病と妻源病
2013年04月13日(土)
 昼のワイドショーで、ゲストの医者が「最近の病の原因が夫婦間のイザコザ
が多い」という。それについて何人かの主婦や、夫に街頭で互いの不満について
インタビューをしていたが、その殆どが我が身に当てはまる内容。驚いたのは、
「それでも旦那を愛していますか?」という質問に、イエスと答えたのが20人
いた番組の参加者の僅か5名。キャスターは唖然。そんなものだろう、夫婦は! 
  ーそこでネット検索で「夫源病」を調べるとー
≪ 最近の病の原因を探ると、妻は主人への不満を語り出し「夫源病」と診断
 されるケースが多い。夫の言葉や行動に対する不平や不満がストレスになり、
妻の身体に更年期のような症状がでてしまう。まずはコミュニケ不足と家庭内の
役割分担がうまくいっていないことが問題、と言われる。家庭の主婦がおこす
病名として、大阪大学大学院医学研究科の准教授・石倉文信先生が名付けた病名。 
夫源病の症状として、原因不明の不定愁訴や強い耳鳴り、横揺れのめまい、
激しい頭痛、のぼせ、ひどい肩こり、全身の痛み、動悸、息切れ、呼吸困難、
不眠などがある。妻の置かれた状況を察しない夫への日々の小さな不平や不満
が、脳の視床下部(自律神経やホルモンのバランスを司る部位)にストレスを
かけ続け、次第に自律神経がバランスを失い暴走し、色々な症状をおこす、
と考えられる。その夫源病の対策として、感情を爆発させる、秘密を持つ、
プチ家出をする、などがある。≫ 
▼ 夫も同じで、モンスターワイフのストレスの「妻源病」が増えている。
 以前からあったが、こういう病名が付けられると、互いに我慢していた夫婦
の亀裂が更に大きくなる。 中国で巣立った後の家庭を「空巣家庭」という。
また英語には、「Empty nester」という言葉がある。ヒナ鳥が巣立った後の
「空っぽの巣」 を守る親鳥に喩えて子供が育った後の親の事を指す。日本中、
団塊の世代が定年を向かえ、空の巣で「妻源病」「夫源病」が向き合い、互い
の首輪の紐を持ち合い、引っ張り締め付けあう。とはいえ、状況からして
今さら離婚も無理。さらにリタイアによる収入激減が、不満に火をそそぐ。
多かれ少なかれ、何処の空巣でもバトルがある。
で、やはり強いのは大方は御夫人の方? 
・・・・・・
4036, 一時停止 ー2
2012年04月13日(金)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 昼と夜  ー ある感受性のプログラム 1955年5月 ー より
≪ 私「それで、あなたは、昼と夜とのどちらをお選びになるのですか。」 
 詩人は目を地に落としたまま答えた。「私は両方を選ばねばなりません。
私は詩人ですから。しかしあなたは昼を選ばなければいけない。あなたは
詩人ではないのだから。あなたは夜、眠ることが出来るのです。そうです、
人間はみんな夜、眠らなければいけないのです。眠りこそ最も知恵深い
行いなのです。」 私「あなたは昼も夜も眠らないのですね。」
詩人は答えなかった。 私は詩人の深い孤独を思わずにいられなかった。 
その私の気持を見ぬいたかのように詩人はいった。「しかしそれが運命なら
詩人はそれを不幸とは呼ばないでしょう。どんな不幸であろうと、それが
言葉になった時、詩人は幸せなのです。その時彼は人間になれるのです
「だから。詩人の本当に怖れるのは言葉になり得ない不幸なのです。」
その時、すべての夜が詩人の中に集ったかのようであった。 私たちは
黙って立ち上り、歩き出した。夕暮が近づいていた。詩人「こんな日は、
ぼくはかえって気楽なんです。どうも曇りの方が晴れよりも人間的な
ところがありますね。 ぼくは天を見ずにすみます。だからぼくは人間
の中にいられます。ほんとうに雲ってやつは、大気や水が無ければ出来ない
んだから、それだけでもどこかわれわれに親しいような感じがしますね。」 
私「で、あなたは今、昼を選んでいらっしゃるというわけですか。」 
私の問は半ば冗談だったのだが、彼の顔は生真面目であった。 
詩人「そうもいえるかもしれません。 しかし詩人は昼を選んでいる
ように見えている時でも、決して夜をあきらめてしまっているわけでは
ありません。また逆に夜を選んでいるように見える時でも、決して昼を
諦めているわけではないのです。」≫
▼「どんな不幸であろうと、それが言葉になった時、詩人は幸せなのです。
 その時彼は人間になれるのです。だから詩人の本当に怖れるのは言葉に
なり得ない不幸なのです。」 言葉になり得ない不幸が夜という言葉に滲んで
いる。谷川のいう言葉は、言霊である。「不幸も言霊になった時、それも
夜半の闇の中で熟成して生まれ出ると、不幸が不幸でなくなる」のである。 
夜半に目がさめ、色いろ考えが吹き出てくる。それはマイナスが多い。 
詩人は、そこで多くの想いの中で、葛藤し言霊を生み出すのである。
 ・・・・・・
3670, 節目どきに ー5
2011年04月13日(水)
  * 娑婆には知らないことばかり
 先日、最近できたSC内のスポーツジムの施設を見学に行ったところ、
10時のオープンに50人位の行列。「プール関連の新しいサービスが開始
されるため」というが、今どきに、あの熱気は凄い。館内設備の案内をして
もらっていたら早速、小中学校時代の同級生に声をかけられた。
「よう、八ちゃん、入れって!」だと! 時が時だけに「まずい!」と
思ったが・・ 何を今さらと気を持ち直して一時間ぐらい見学をしたが、
成るほど人が殺到するわけである。ここは契約時間内なら何時間いてもよい。
家内の新潟在住の知人は駅南のスポーツジムに、日中5時間も行っていると
聞いていたが、成るほど合点がいった。家内の、別の新潟の友人は、二つのジム
に入っていて、交互に行っているとか。家にいるより快適で、金がかからない
上に、主婦にとって癒しの場。漫画喫茶のパソコンとTVの替わりに、
ウォーキングマシーンなどを入れかえたスポーツ用レジャー施設である。
平均年齢が女性の方が5歳以上も多いのが分かる。 風呂・プール関連、
ウォーキングマシーン・サイクリングマシーン、エアロビックスのプログラム、
そしてマッサージ機の4本が柱になっている。考えた末に、10〜17時の
平日コース(金、日、祭日 休み)に入ることにした。 月15回行くとして、
一回につき400円なら価値は充分にある。 これと市営の福祉センター内の
運動ジムと、図書館が当面の日中の外部空間になる。考える時間が多く
なった分、身体を動かさないと! 
・・・・・・・
3305, 金の価格は談合で決まる!って本当 ? ー2
2010年04月13日(火)
 ハイパーインフレへの対策は、少しは金でヘッジをすべきと思っていた。
前回のレポートからみて、投機、投資の世界は、私たちの窺い知れない世界。 
金融シンジケートの手中にあるようだ。そのうえ、国家が金を吸い上げようと
思えば、朝飯前。利益に8割でも9割でも税金を賦課すればよい。その結果、
金売りが殺到し暴落する。その後、政府が買い上げた上、その法律を元に戻す。 
一般の国民は、一時的の収益があっても中長期の利益を上げ続けることなど
不可能である。アメリカの金融占領国の日本は、そのコントロールから抜け
出すことは出来ないのが現実。近々に為替か株式かで、乱高下が起こるはず。
金は世界共通通貨である。ネズミ溝システムの米英通貨体制とすると、
ドル体制を守るために金の価格をコントロール下におくのは当然。金が真実で、
ドルを虚偽と仮説すると、ドルを発行するアメリカは、金の価格を可能な限り
下げておく必要があった。 しかし借金棒引きために、数十年かけて静かに
買い集めたゴールドを、今度は暴騰させドルの価値を下げる必要性が出てきた
のである。ドルの下げはアメリカの対外債務が大きく減額される。1〜2年か
遅くても3〜5年後には金の暴騰を中国などと組んで仕掛けてくる。と同時に
デノミなどを世界中が一斉に実施するだろう。その前に金融シンジケートは
何度かは大きな株や債権の上げ下げをしながら、売りだされた金などの現物
商品を買いに入る。だから、5〜10年スパンの長期保有の覚悟があるなら、
金は買い。「世界は、ごく一部の人たちによってコントロールされていて、
99パーセントの人たちは、彼らに搾取されている」という、眉唾的な本を
度々見かけるが、一連の恐慌謀略説など、あれは本当だったのかと考えざるを
得なくなる。G7の首脳を動かしている力の存在は、当然、存在している
はずである。今更何をいっているかだが!


5506,閑話小題 〜最近のTVは、面白いのが多い

2016年04月12日(火)

   * 最近のTVは、実に面白いのが多い。
 その時どきのウェーブがあるが、最近のTVは、面白いのが多い。
『Youは何しに日本へ?』『家、ついて行ってイイですか?』『世界街歩き』
『火野正平 こころ旅』など、軽い目線で、街や村の道路で声をかけたり、
街歩きをする番組などである。チョッとした旅行をしたいが、面倒だったり、
通りすがりの人の私生活や人生を生(なま)で覗いてみたい気持ちを代行
して、ズカズカと入っていく面白さは格別。
 『家、ついて行ってイイですか? 』を検索すると、以下の内容説明があった。
< 終電を逃した人に「タクシー代を出すので家について行ってイイですか?」
と声をかけ、家を見せてもらいインタビューをおこなう。 深夜、急に訪れる
片づけられていない素のお宅は、その人の人生ドラマが 散りばめられた宝箱。
そして誰しもが、一見フツーでも 、ぜんぜんフツーじゃない 人生ドラマを
持っている! そんな素敵な市井の方々の人生譚を覗いていきます。>
 一昨日見たキャバクラ嬢や、美容師の変態ギャルのキャラクターと実態に、
お笑い5人のスタッフが、呆然と声を失う。 最近、見始めたばかりなので、
過去分を動画のYoutubeで見ると、あるある面白い人生が。
 『YOUは何しに日本へ?』の検索には、
< 空港に居合わせた外国人(永住・帰化した人物なども含む)に
「YOUは何しに日本へ?(Why did you come to Japan?)」と問いかけその返答
の様子や、気になる返答をした人に密着取材を依頼し来日した目的を果たす様子
を放送する。番組内では性別・年齢問わず名前ではなく外国人はすべて"YOU"
(複数ではYOUたち)と呼称するが、密着時には混同を避ける意味もあり個人名
も使われる。基本的には半日から数日間の密着であり放送も一度限りだが、
長期の旅行や研修に密着する場合、放送回をまたいだり、しばらくしてから
後日談が放送されたりするケースがある。基本的に密着時はYOUの日程に合わ
せて行動するため、出先の店舗や施設ではその場で撮影交渉を行うことが
ほとんど。> 
 それぞれの分霊に、これまで生きてきた触媒が取囲んで自分を形成している
姿が浮き上がる。死ねば、その分霊ともども消滅する。その分霊は、これまで
も、今後に、人類が存続する限り浮かび上がってくる。人生は、その触媒の
質量で形成されるが、そこには両親の格差で、大きく左右されるが、可能な
限り、そこからアップスケールし続けるかどうかもある。その触媒で、一番、
手軽なのが、書籍と、TV、友人、ネットなどがあるが、自然との触合いも
欠かすことが出来ない。情報化の時代、暇と少々のお金こそ財産になる。

・・・・・・
5141,閑話小題 〜二年で円の通貨量が二倍になったが
2015年04月12日(日)
  * 二年間で円の通貨量が二倍に!
 二年前、日銀の黒田総裁が、「2012年末に138兆円だった資金供給量を14年末
には約2倍の270兆円に拡大。長期国債の購入量も2年で190兆円と2倍強に、
上場投資信託などリスク性資産の購入も増やす。インフレターゲットは2%。」
と発表した。ところが、先日のニュースで、「2年間で円の通貨量が
2倍になったが、インフレ目標の2%はゼロのままと、日銀が公表」と報じた。
 リーマンショック後、米国は数ヶ月で二倍、現在は三倍以上にドルを増刷、
為替相場が3分の1になったかといえば、7年前と同じ。日本の供給量は
2年で二倍。しかし為替相場は3分の2。株価は安倍首相が就任した2012年
12月26日の終値は1万0230円36銭だから、2倍になった。日本も米国も通貨量を
2〜3倍にしたにも関わらず、インフレにならないところが摩訶不思議。
アベノミクスは中長期的にみて明らかな失政が見てとれるが、保守本流の
頭脳は膨張以外、考えが至らない。「後は野となれ山となれ」である。太平洋
戦争突入の数年前の様相と似てきている。家内を見ていると、物価の値上げに
対する反応に敏感だが、これは一般主婦の趨勢。スタグフレーションの様相を
示している。保守本流は、早くいえばアメリカの忠実なポチ。強者に優しく、
弱者には厳しい。先日、図書館で借りてきた、『金持ちが確実に世界を支配
する方法』の「1%による1%のための勝利戦略」が、まさに現在の政権と
酷似している。とって付けの、政策など、直ぐに、その正体を現れ出るが、
その前に衆議院選挙を昨年末に断行した安部も、強かである。この国民を
して、この政府。とはいえ、激動期には保守本流で中心を固めないと、
学芸会のような政治ごっこの政党に、国は荒らされる! まだ、マシ?

・・・・・・
4776,閑話小題 ー痴呆症を持った家族の物語
2014年04月12日(土)
   * サクラサク ー昨日みたシネマ  評ー85点
 ストーリーは、《 大手家電メーカーに勤める大崎俊介は、部下からの
信頼も厚く、将来を嘱望される会社員だ。重役への出世も目前で、生活は順風
満帆なように思えた。しかし気付けばその家庭は多くの問題を抱えていた。
妻・昭子との関係は冷え切り、息子の大介は大学受験に失敗してからは
アルバイトを転々とし帰宅後も部屋に閉じこもる。娘・咲子は高校生だが毎晩
帰りが遅く、俊介の忠告も聞かず何を考えているかわからない。周りを見つめる
きっかけは、父・俊太郎が老人性認知症を患ったことだった。大雨の夜、俊太郎
は徘徊しているところを警察に保護され、この日を境に変な行動が増えていく。
苦しむ俊太郎を見ても家族は見て見ぬふりで、一切助けようとはしなかった。
薄情な家族に俊介は大きく失望し、孤独な父を守ろうと奮闘する。
しかし実は、息子が人知れず俊太郎を介護していたことを知り… 》
▼ 40歳半ばから50歳までの5年半の間、母親の認知症と付き合った。
 映画は息子と娘、私の場合は、息子2人と、少し状況は違うが、家内も同じ頃。 
家庭内や、4人の実姉達との関係は崩壊寸前。他にも大きな問題を抱えていて、
人生の大きは危機の時期であった。実の母親のシモの失敗の始末は、なかなか
出来るものでないが、思わぬことが起きた。長男がみかねて、率先して面倒を
みてくれるようになっていた。しかし次男は、素知らぬふり。ところが、その
長男が進学で上京をしたと同時に、自分の順番とばかりに、負けないぐらいに
世話をするようになった。それぞれの立場があったのである。それにしても
一番だらしないのが自分。それでも毎日の早朝、車で20数分先にある、長岡
ニュータウンの散歩道で三十分の間、神秘的時間を過ごしていた。この映画の
ストーリーはハッピーエンドだったが、実態は、そう甘くはない。経験者に
とっては、物足りない感が残るのでは?現在、非力な自分への後悔の念が残る。 
その時は無我夢中だったが、よくぞ家族で乗越えたものと改めて、家内と
子供に感謝の念が湧いている。そして今度は自分の順番が、さほど長くない
先に控えている! やはり死ぬべき時に死ぬが良い!それまで一日一日を
味わい尽くすしかない。母親は下の失敗は最小で済んでいたが、呆けても
プライドが、そうさせていた。 御陰で、この5年半の経験がバネになって、
50歳代の10年間で20年〜30年分の人生を燃焼することが出来た!

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4409,隠居大学ーよく遊びよく遊べ −7
2013年04月12日(金)
 第六時限「遊行の旅に出よう」ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 安野光雅
    * いのち短し恋せよ 人生は! 
 御隠居には自由気ままで何事も楽しめる特権がある。桜は咲き誇った時だけ
でなく、桜絨毯にも何ともいえない美しさがある。散った花も花である。人生は
二度なし、その時どき、すべきことをしておくべき。しない後悔より、してみた
後悔がよい。「いのち短し恋せよ 人生」である。今でも遅くない、
自分のバイアスに気づき取り払うこと。それが、御隠居の残された最後のお勤め。
今までの枠を超え楽しまなくては、長生きの甲斐がない。
どちらにしても先は長くはないのだから。
≪ 天野: 落葉の風情なんてまるで意味のないものと思われていますよね。
 安野: あのね、わたしの家の近くには桜並木があって、春には窓から
  花見ができる借景なんです。この前、ある人が近所に引っ越してきて、
 その人も最初はキレイな桜を見て「素晴らしい、素晴らしい」って喜んで
 いたの。ところが、秋になって落ち葉が家に入ってくるようになうたら、
 こりゃ住めたもんじゃないっていって、引っ越しちゃった。花も落葉もある
 いいところなのに。落葉は風が吹くと竜巻ぎみたいになって、クルクル
 回ったりしてね、いいなって思うんだけど。
天野: 落葉のそういう風情を楽しむのは、遊び心の一つなんですよね。
 機能的なことだげ考えたら、そんなのないほうがいいってことになっちゃう。
 だけど、そういう、なんとなく無駄なようだけど風情があることの中に、
 何かこう人生を感じたり面白味があったりするなあと思うんですよ・・(略)
安野: ・・・いまの現代の文明が昔を超えたかというと、超えていないわけ
 ですよ。ミケランジェロみたいな絵を描けっていわれても描けない。
 ミケランジェロはおろか、まだ人間以前のクロマニヨン人が描いたラスコー
 の壁画だって描けませんよ。電気もない、真っ暗な洞窟の壁に、あんなもの
 どうやって描いたんだろうと思うけど。文明は進化したかもしれんけど、
 文化はさほど進化していない。だから、古いものだからって、
 バカにするのは違うんですよ。
天野: 人間は技術文明の上では巨人になっても、文化や芸術の面では木偶の坊
 になったっていう人がいるんだけど、同感だね。せめて現代の隠居は、落葉の
 風情の楽しみ方みたいなものを次の世代に伝えていけたらいいと思います。
安野:『即興詩人』に憧れてイタリア全土を周遊するなんて若いころの話で、
 今では、仕事だから、仕方がないから行っているものも多いんです。
 私は言葉が分からなくても行くからね。そういうと、言葉とか、食事は
 どうするか聞かれる。高学歴の人に多いね。でも、困ることなどない。
 宿屋に行けば、「部屋探しに来たんだな」って思われるし、八百屋に行けば、
「野菜を買いに来た」と思われる。レストランなどでは上から三つ目にしている。
 たいてい食べられるものが出てくる。 一度、とんでもないものが出てきた
 ことがあったけどね。(笑い)  
天野: 隠居生活は、遊行の旅のようなもの。日々気ままに、
 好きなほうに歩いていけばよい。面倒なことをしないで。
安野: そう、なんでも、自分の思いのまま、楽しんでやってみたらいい。
 言葉など必要ない。いのち短し恋せよ少女、ですよ。≫
▼ 何ごとも楽しむ人生を過ごせたので、あまり人生に後悔はない。
 いい時代、いい家庭に恵まれたことを感謝している。あとは、過去の思い出と、
現在の楽しみを味わい尽くすことである。死んでしまえば、それまで。生きて
いるうち。 それにしてもバイアスが邪魔をする。「ハミングしながら
スキップ気分で何事にも触れること」は分かっているが、いま一つ。

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4035, パチンコに日本人は20年で540兆円使った
2012年04月12日(木)
  「パチンコに日本人は20年で540兆円使った」 (幻冬舎新書) 若宮 健(著)
 以前にも、同じ著者の本を取り上げ、パチンコが日本に大きなマイナスを
与えている実態の驚いた。先日、図書館で、その続刊の最新書を見つけ読んで、
改めて、その被害?の大きさに驚いてしまった。
 ー内容紹介ー
≪ あっという間に1万円が消えるパチンコに日本人は多くのカネと時間を
奪われてきた。この既得権益を貪る人間、依存症に苦しむ人々。20年で540兆円
―日本人が「失われた20年」でパチンコに費やしたカネは、2011年の国家予算
(92兆円)の約6倍、GDP(479兆円)を凌駕。多くの人々の労働・消費意欲を
奪い、また精神疾患であるパチンコ依存症者の数は450万を超える。ものの30分
で1万円以上を失うパチンコが、カネと人間性を奪ってきた。なぜ韓国には
できた「パチンコ全廃」が日本ではできないのか。依存症の実態とそれを誘発
するメーカー、蜜に群がる利権政治家、警察、マスコミの現状を徹底糾弾。
◎ パチンコ業界の売り上げは、『レジャー白書2011』によると、2010年は
 19兆3800億円。これは日本独自の市場。ギャンブル依存症は世界保健機関も
認める精神疾患近年は通常の病気と同様、健康保険の適用を受けられるように
なった。否認の病気と言われ、嘘・借金・お金を盗む・うつ・失踪などが症状
で、進行性の病気である。厚生労働省が2009年に行った研究調査の結果によると、
 日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.4%がギャンブル依存症であるという。 
2009年の成人人口から単純計算すると、男性は483万人、女性は76万人で、
合わせて559万人という驚くべき数。そのうち8割程度がパチンコ、
パチスロによるものと言われる。
◎ テレビ、映画で禁じられるサブリミナル効果がパチンコの特許に特許
3029562の発明。大当たりの図柄を暗示銘柄にし、遊戯者が認識できない短い
時間、挿入している。潜在意識に働きかけ、遊戯を続行させる手段として
用いているようだ。≫
▼ 私の感覚では20年で540兆円、年平均27兆円も使ったとは信じられない
 額である。コンビニの総売り上げが8兆円。スーパーの売上総額が20兆円。
書籍の2011年総売り上げが1兆1千億というから、その20倍の売上高。
それに対してパチンコの売上総額が20〜30兆円。しかも愛好者が1600万人、
中毒者が500万人。数多あるコンビニの二倍以上の売上高?信じられないので
何度見直しても、そうある。 事実としてみると、これは亡国の事態。
韓国は、その社会的大きさに、国家として廃止してしまった。
しかし日本には、それを実行するだけの自己修正力は無くなっている。
◆ パチンコ店が何故、廃止にならないのか ? −2 2012/02/28
 パチンコの売り上げ、10年前に30兆円、現在では20兆円という。ギャンブル
総額が30兆というから、大部分がパチンコ・スロットの売上げが占めている。
子供を含めて一人あたり15万円にもなる。これは明らかに賭博であるが、
どういう訳か廃止論が出て来ない。この国は、政界、警察、広告、メディアが
パチンコ業界と癒着?の実態がある。それがあって当然というのも異常。 
チョットした市の郊外には必ずパチンコ屋がある。ギャンブルと見なされて
ない遊びの文化のようで何の規制もない。 受験が終わって、友人と初めて
行ったのがスロットマシーンとパチンコ屋。 やっと大人を感じる時である。 
人がギャンブルに嵌りこむのは、大損しても、稀に勝った快感の記憶が残り、
その味を求めて繰り返す仕掛けがある。業者の方は、勝った際の高揚感や
恍惚感を高める工夫をする。パチンコ店の音楽やパチンコの光と音など。 
そして勝つための技術が必要と錯覚させる仕掛けをつくる。負けたのは、
勝つための技術料金と錯覚させる。もう一つ巧妙なのは、ニアミスの仕掛け。
スロットの場合、AAAが当たりの場合、ABAや、AABが出ると、
「当たり損ねた」と考える。 しかし、外れは外れでしかない。その辺の
気持ちを逆用するようゲームは出来ている。ギャンブル依存症の人は、
脳内に勝った時に出るドパーミンが長年の間に多くなっている。それは麻薬
中毒の似ている。iPadを購入して以来、パソコンゲームに嵌っている。 
あるゲームの場合、達成すると、音楽と金色の星が三つでる。失敗すると、
グフフ!とバカにしたような笑い声と軽蔑の絵が出てくる。 それも、
あと一歩のところで達成できないようになっている。金を賭けている訳でも
ないのに、やり始めたら、止めるタイミングが無くなりトイレさえ行けない
ほど熱中する。難しい本を読んだ直後には非常に効果的である。私の周辺の
人でパチンコが趣味というのは一人もいないため、20〜30兆円がピンと
こないが、この金額は国民の何割の人は中毒に近いと伺わせる。韓国は、
悲惨な悲劇の続出で禁止されてしまった。この不景気で、業界は壊滅的打撃
を受けているはずだが、何故か倒産の話は聞こえてこない。

・・・・・・・
3669, 節目どきに ー4
2011年04月12日(火)
 こういう時にこそ、これまでの付き合いの真の姿が見えてくる。
私の人間関係は長年?の友人が多い。その節目どきに、真かどうか見えてくる。 
具体的の話は、まあ・・止めておこう。立場が変われば、これまでの関係が
変わるのは当然。それを取り上げること自体がおかしい。その中で一番身近な
家内が、このところ上機嫌である。立場が逆転するからである。
今後を考えただけで恐ろしい。早々に粗大ゴミにされてしまう恐れがある。
彼女も含め、手の裏を返す人の共通点は、プライド?の高い、底の浅い?
修羅場経験の少ない人?等、共通がある。しかし何処か憎めない性格。
前向きな人生を生きていなかった? それぞれの人生が、境目から見えてくる。
これは私の歪みの目。それでは御前は何じゃい! と言われると返す言葉がない。
年齢からして「節目どき」というより「夕暮れどき」か? 65歳なら、それも
仕方がないか。 大体が人間の付き合いは立場における力のバランスの上で
成り立っている。その力が変化をすればバランスが崩れて当然と割り切れば
よいのは分かっているが。 ところで昨夜、学生時代の友人が当時のクラブを
代表して東京から見舞い?に来てくれ新潟駅南で一献を傾けた。
(当人の会社の仕事が偶然あったこともあるが)有難いことである。 
そうこうして落ち着いた二ヶ月後に落ち込みが来ると、何の?先輩の実兄が先日、
電話で教えてくれた。 この体験の中で、ここでは書けない聞くに値する?
話しは幾らである。いや、この数年間は、その宝の山だろう。特に銀行筋の
手順の中には・・・ それと、世間様レベルの人々の視線を、そのまま書く
ことになるだろうが、面白そうだ。「家内が、先日、前の町内会長婦人とあった
ので、挨拶をしたら無視された」レベルの話しである。こういうのを重ねて、
ジワジワ追い詰められていくのだろうが、アウトサイダーの長年の実績が、
こういうのを茶化して楽しむ術がある。人は言葉よ、言葉!それも心の奥底の
絶対言明!より深く本を読む節目の時節到来か。
 


5505,下流老人 ー③

2016年04月11日(月)

 『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 』で、「下流老人」の用語を
提示をした藤田孝典 が、その定義を、「生活保護基準相当で暮らす高齢者、
およびその恐れのある高齢者」とした。 既に貧困老人は700万人に及んで
おり、相対的貧困率は22%、高齢者の4〜5人に1人の割合だが、
その少し多めの人を入れると、3人に1人となる。お金は天下のまわりもの
だが、愚痴を言いたいのも分かる。  〜著者のレポートによると、
<・2014年の高齢社会白書によると、3千万円以上の預金を持っている
 高齢者は25%もいるが、蓄えが十分と答えた人は、わずかに3・4%しか
いなかった。既に一割が安心して暮らせる水準だが、あとの9割は不安定の
状態におかれている。
・例えば、自営業で働いてきた夫婦の場合、二人の国民年金は、13万円。
税金などを引かれて10万そこそこなら、生活保護並みか、それ以下になる。
 生涯平均年齢400万のサラリーマンをみると、厚生年金が16万、妻が
国民年金として、その加算が22万として、手取18〜9万では、ほぼ生活
保護並み。夫が、ガン等の病になれば、即、困窮生活に入る危険がある。
・その上に、子供が失業をして実家に頼ってきた場合も、困窮理由になる。>
▼ 4人に1人が3000万の預金とは驚き。老人の貧富の格差があまりに大きい。
 NHKや、民放のTVで、下流老人の厳しさの実態事例を放送しているが、
これは何処にも見られる話。 周辺を見渡すと、比較的豊かな人が多いが、
3分の1か、4分の1は、瀬戸際にあり、傍でみても、非常に厳しいのが分かる。
貧困老人問題が関心が持たれるのは、老後の貧困が、特殊な人ではなく、
平均的サラリーマン生活を送って来た人にも、近い将来現実になりつつある
ことがわかってきたため。 去年の6月30日に起きた71歳の老人による
新幹線車内でガソリンをかぶっての焼身自殺を図った焼身事件。 当人は、
その月から年金だけの生活になって、改めて受給額の少なさを実感し、不満を
周囲に漏らし、自殺をほのめかしていたことが事件後に、明らかになった。
 その年金受給額は月12万円。居住していた杉並区の生活保護基準は14万
4千円。 年金受給額が生活保護基準を下回っていた。それまで清掃業の仕事
をしていたが、仕事がなくなり、年金だけの生活。もっと少ないと生活保護を
申請するケースが多いが、12万は、生活保護基準を下回るが、極端にひどく
はなく、普通の勤め人生活を送ってきた人が、年金暮しで単身生活を送る
標準的なケースという。 この老人は、将来を悲観してしまったのだろうが、
特殊なケースではないとか。老いてからの貧乏は身に染みるが、9割が、
その淵とは・・ 老いた夫婦の場合、「先に逝ったもの勝ち」も、あながち? 

―――
2015/08/03
下流老人 ー①
 去年になるが、NHKスペシャル、ー老後破産:長寿という悪夢ー
をみて衝撃を受けた。夫婦とも厚生年金のため、何とか人並みの生活は出来て
いるが、リタイア前とは違う。先日の新聞の雑誌広告で、『下流老人』という
言葉が目に入ったたので、ネット検索をすると、以下の厳しい内容が出てきた。
≪ ・ ー下流老人とは、
1、収入がない、2、資産がない、3、社会的ネットワークがない老人をいう。
 総務省の家計調査や、所得統計から貧困ラインから下流範囲を推測するが、
生命保険会社や金融機関では、老後生活の費用は最低ラインで20万円、ゆとり
ある暮らしには30万円超が必要という。ほとんどの老人世帯は最低ラインで、
ゆとりある老人世帯は一握り。(これは金融商品や保険を売るため使われる。)
・2014年の我が国における65歳以上の高齢者人口は3300万人、総人口に占める
割合は25.9%と、共に過去最高を記録しているが、大づかみに言って、そのうち
600〜700万人が「下流老人」と見なされている。内閣府の調査でも(2010年)、
65歳以上の高齢者世帯の「相対的貧困率」が22.0%となっていることから、
この推計は大きく的を外してはいない。老人と若者の間の「世代間格差」
が問題となっているが、老人の間の「世代内格差」も凄まじいものがある。≫
▼ 10年、20年スパンでみると、9割?の老人が「下流老人化」するという。
 老いれば、金を使う場面も少ないから、さほどの問題ではない?と、たかを
括っていられない。死ぬまでは金が要るが、死んだ瞬間から、生活費がゼロ
になるので、当人にとっての持ち金は微妙な問題でもある。 それでも
総世帯の15%が「下流」、老人世帯が22%というから、老人の立場は弱い。 
 本格的な国家衰退が始まってきたが、シワ寄せは、まず弱者に襲いかかる。
ギリシャが問題になっているが、それより、日本の財政は遥かに深刻。
ひたすら直視しないで、先送りしか手立てがないだけ。その限界の年が、
今年から来年。その矛先が、まずは老人と、母子家族。何がオリンピック?
目先を凌ぐ、末期患者のリンゲルと同じ。その責任は、選んだ国民にあり。
政権奪取には目先の甘い公約が必要。その繰り返しの結果がこのありさま。
―――
2015/10/02
下流老人 ー②  〜下流老人への転落
 この数年来、団塊世代が年金生活に入ったこともあり、マスコミに扱われる
ことが多くなった。更に新幹線内で年金制度に対する抗議の焼身自殺もある。
今では、週に1〜2度は、TVで極貧の『下流老人』をレポートをしている。 
多くの人にとって、他人事ではない問題。私の場合が一歩間違えれば・・
準備期間を入れると45年間心血をそそいだ事業が思いもよらないリーマン
ショックで成立たなくなった。 それでも事業設計の段階から万一の備えを
組みこんでいたこともあり、何とか人並みの生活が維持している。ところで、
ブログ内検索で調べてみたら、二ヶ月前、「下流老人」のテーマで扱っていた。
(後にコピー)  〜最近みたTVでのアンケート〜では、
・病気などで、大金の思わない支出
・離婚で、財産が消滅
・転職の失敗(思い上がり)
・頼れる家族がいないか、その家族がギリギリの年金に頼っている
・手持ちがあったが、気前良く使っているうち底をついてしまった
  などなどの事例を生々しく映しだしている。
 手持資金が底をついたが、あてが国民年金の一人暮らしで6〜7万円では、
家賃で大半が消えてしまう。数ヶ月前に、中学校の「古希」の会があった。
会場が県境の湯沢で、二万円近くの会費のため、出席できる人は、限られる
ため、貯蓄、収入の余裕ある人が中心。そのため実態は見えないが、身近を
知る限り甘くはない。 TVで誰もが口を揃えて、「まさか自分が!」という。 
私のケースでも、夫婦のどちらかが欠ければ、この大きな屋敷の一人住まいは
難しく、小さな家への住替えか、施設の入居の問題が出てくる。
 団塊の世代は、終戦直後の最低の環境から、バブル崩壊まで35年間、
地球史上、稀なる7%の経済成長を続けた。これは奇跡中の奇跡の恵まれた
環境の中、そこで育った人生は幸せだったが、末路の気の毒な結果が、
『下流老人』。もっと気の毒なのが、その子供と孫。親の介護に、職も
全財産を注込んで呆然とする姿が、戦後世代間の全て問題を象徴する。

・・・・・・
5140,閑話小題 〜北陸新幹線開通1ヶ月
2015年04月11日(土)
  * 北陸新幹線開通1ヶ月
 北陸新幹線が開通して1月。ゴールデンウィーク辺りから、福井、石川、
富山の北陸三県の観光地が脚光を浴びる。金沢は加賀百万石の文化が営々と
引継がれている。20歳代半ばの頃、1年半、金沢の地で勤務したが、現在
でも鮮明な記憶として残っている。休日、日帰りバスツアーで能登半島を
一周したり、半日市内観光をしたり、金沢港でキス釣りをしたり、茶道に
習いにいったりした。 加賀百万石の文化は何とも風情のある。
特に、老舗の居酒屋が良い。北陸三県と隣接した地区の観光資源は豊富。
その背景に三大都市圏の観光需要があるのが大きい。そこに新幹線で二時間半
で行けるのだから、女性にとってうってつけ!『日帰り能登一周コース』を
つくれば良い。 逆にストロー効果で、地元民が東京に取られる可能性も大。 
 ところで金沢滞在の一年半で、姉や友人が三人、訪ねてきた。更に、実家の
会社の慰安会で近くの温泉にバスで来て、私もそこに招かれ、泊まって騒いだ
こともあった。勤務先の会社上げての慰安会が、泊まり込みで片山津温泉。
高度成長経済の真只中時代だった。今では隔世の感がある! 
金沢・能登は一人旅に、うってつけ、お勧めである。
   * ジヌ(銭)よさらば! ーシネマ評
ハリウッドか邦画か、翌日放映の‘ソロモンの偽証(下巻)’にするか
 迷ったが、上記の内容を読んで、こういう風変わりも「良いか」で、
これにした。80点だが、不満も残らない内容。観客は10人あまり。
《 田舎の小さな村“かむろば村”に、大荷物で降り立った1人の青年。
彼の名は通称・タケ。一見どこにでもいる若者だが、実はこの男…お金を
“さわれない、使えない、欲しくない”の三拍子がそろった“お金恐怖症”
になってしまった元銀行マン。現金にさわるだけで、とたんに激しいめまいに
襲われ失神してしまうという筋金入りだ。「1円もお金を使わない!」
と悲壮な決意を固め、かむろば村へやって来たタケは、どこか田舎の自給
自足ライフを甘く見ているフシもあり度々命の危険にさらされるが、憎め
ない天然キャラに救われ、村人たちに度々助けられるのだった。・・(略)
クセ者なのはタケだけではない。彼がやって来たかむろば村こそ、一見
どこにでもある寒村ながら、ユニークというには濃すぎる村人たちが生息
していたのだ。学校はないけれど、異常に世話焼きな村長がいる。銀行も
ないけれど、写真好きで目が光ったりする神様がいる。病院なんてもちろん
ないけれど、色っぽい美人が(多少)いる。そんなキャラクターの濃い村人
たちのお蔭もあり、危なっかしいながらも奇蹟的に1円も使わない生活を
続けるタケ。最初はタケの無知と無鉄砲さに半分あきれていた村人たちも、
タケの存在を優しく受け入れてゆく。そんな矢先、穏やかだったかむろば村
に不穏な風が吹き始める。村長の過去を知る不気味な男の出現、同時に迫り
くる村長選挙をめぐる陰謀が発覚!村に来て間もないタケも、知らず知らず
のうちに騒動の渦中へ…。タケの生活は思わぬ方向へ向かいだす…! 》
▼ 少し、いや非常に甘い主人公と、その物語の設定だが、それでも、
 何時の間にか、‘かむろば村’の世界に引きこまれてしまうには、
主人公の松田龍平の周りに、松尾スズキ、松たか子、西田敏行などが、
脇を固めているため。「ぼんやり」と息を抜くには丁度良い。以下に続く!

・・・・・・
4775,ぼんやりの時間 ー8
2014年04月11日(金)              
  * 「懶」 ー心の余白    「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地に休んじ、楽しむことを気取ることが
懶惰」というらしいが、これが、この年齢で、少しは分かってきたようである。
事業を立上げ、軌道に乗せて暫くの間、何もすることが無い日々の別天地を
知っればこそ、この懶惰の味わいが分る。振返ると、あの退屈の懶惰こそ、
お宝だった。その合間の、読書や、秘境ツワーなども、それだ。
《 谷崎潤一郎は、1930年に『懶惰の説』という随筆を書いている。西洋の
 人々がいかに活動的であり、精力的であるかを例示し、これに対し東洋の
人々がいかにものぐさで、面倒くさかり屋であるかを対照的に書いている。
懶惰の代表者は誰か。物語のなかでの人物ではあるが、物臭太郎(三年寝太郎)
の名をあげている。 さて、瀬惰とはなんだ?.
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地のあることを知り、それに安んじ、
それをなつかしみ、楽しみ、或る場合にはそう云う境地を見えや気取りにするか
の如き傾向の存すること」 瀬惰心という言葉があるとすれば、この谷崎の
定義はその一面を言い当てている。むろん、西洋人にも瀬惰心の人がいるし、
東洋人にも活動的な人がいるのはいうまでもないが、あるていど類型化
しないと、論旨がはっきりしない。瀬惰をよしとする人は、年中あくせくして
きりきり働く人を冷笑、ときには俗物扱いにする。朝から晩までせかせかと
動き回る人を嗤う傾向がある。一方、瀬惰心に批判的な西洋人は、浮世を
捨てて山の中に隠遁し、独り瞑想にふけっているような人物を聖人とは
思わない。高潔の士とも思わず「一種のエゴイスト」にすぎないと切り捨てる。
 谷崎自身は、瀬惰心というものに、一定の共感をもっていたことはたしかだ。
「とにかくこの『物臭さ』『億劫がり』は東洋人の特色であって、私は仮りに
これを『東洋的瀬惰』と名づける、というとき、自分にもまた、その東洋的
瀬惰なるものの血が流れているという自覚があっただろう。 》
▼ 事業を目指し、準備15年間、立上げ、最後は、津波で流され終わった
 私の事業人生。それを全面否定され、あざ笑われているような内容である。
それも、あと一年で古希になろうとして気づいた底浅い己には、この結果が
似つかわしいと独り納得させられる。 こういう視点もあると割り切っては
いても、気になることは確かである。心の余白など埋めぬがよい! 
いや、埋めようがない!

・・・・・・
4408, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −6
2013年04月11日(木)
    第五時限「うふふ力を磨こう」ー「隠居大学」天野祐吉、
  * 俳句はゲーム感覚で楽しむ     お相手 坪内捻典
 母が50歳の頃、それまでの苦労のため重症のウツ病になり、数年かけ独り
立ち上がったが、子供なりに壮絶さを垣間見た。88歳で老衰で亡くなったが、
医師の要請による解剖で心臓の四分の一が壊死していた。第二の人生の40年
近くは、趣味の世界に徹底していた。舞踊、謡い、茶道、写真、短歌、どれも
これも負けず嫌いで、ある領域まで達していた。
 晩年、母親に、「一番、極めたのは何?」と訊ねたところ、
短歌という。 老年の趣味といえば、短歌と俳句と川柳がある。
  ー 次の箇所は、短歌と俳句の違いを端的に示している ー
≪ 坪内:俳句的人間と短歌的人間って呼んでいるんですよ。ぼくの中では、
 つぶあんは俳句的人間、こしあんは短歌的人間。天野 どういうところが、
俳句的、短歌的なんでしょう。坪内 そうですね、まず、俳句は、自分の言い
たいことを言わないんです。これは、つくるときにも意識しておくといいと
思うんだけど、いちばん言いたいことを言わないのが、俳句がうまくなる
コツですよ。よく「わたしのこの俳句は こんなところがこんなにいいんです」
と、自分で一生懸命説明する人がいるんだけど、そういう人はあまりうまく
ならない。自分の俳句についてしゃべらなくて、人の意見を聞いている人が、
うまくなるっていうか、俳句向きだと思います。
天野 主体性のない人がいいんですね。
坪内 そうです。無責任で主体性がないんでいいんです、できるだけ(笑)。
天野 自分ってものを、強調したがるような人は……。
坪内 それはもう、あきらかに短歌の人です。短歌は最後の七七で、
 自分の言いたいことが言えるんですよ。俳句には、その七七を言わない
 醍醐味というのがあります。
天野 そうか。これは短歌じゃなくて狂歌ですが、「世の中に金と女は仇なり
 早く仇にめぐり会いたい」というのがありますよね、これも、言いたいことは
 最後の七七ですもんね。
坪内 俳句だったら、最後の七七はいりません。  ・・・(略)
天野 言いたいこと言わないなんて、欲求不満になりませんか。
坪内 そう思うのが、こしあんの人の特色なんじゃないですか(笑)。
 俳句的つぶあんは、言いたいことを言う欲求より、自分の言葉を他人が
 どう読むか、っていうほうに欲求や興味がいくわけです。
天野 じゃあ俳句は、こう見て欲しい、感じて欲しい、こう解釈して欲しいって
 いうのは、表には出しちゃいけないんだ。
坪内 いけないってことはないけど、出さないほうが俳句らしいでしょうね。
天野 お話を聞いているうちに、「三月の甘納豆のうふふふふ」がなんだか、
 これまでとは違うふうに思えてぎました。 なるほどねえ。今日、帰ったら
 さっそく俳句、つくってみようかな。・・・ ≫
▼ 「俳句は、ひとりきりで捻っていく人はうまくならない。それは自分を
 読者にしていまうから」に、ドキッとした。句会では、たいてい作者名を隠す。
それで非難され恥ずかしいと思ったら句会に入れない。恥をかくから上手くなる。
この随想日記、だから公開しているが、あくまで自分中心。毎日、書き続けて
いると、誰かの嘲笑を独り感じる。そこで、馬鹿丸出しを曝してよいものか?
迷いが出る。しかし、人間には露悪趣味が心の隅にある。露悪とエゴと無知を
偽善で包んでいるのが人間の本来の姿と思って開き直るしかない。私が短歌を
書いたら、ほぼ狂歌だろう! 
 母の短歌より :窓の下 逆巻く波のはげしくて わが生涯の縮図の如し
  :大仕掛け 空を焦がして彩どれば 中天の月いろを失ふ
  :若き僧 煙草の吸いがら 投げ捨てぬ 早朝のホーム 一点のしみ
  :青き田の水に浮かべる没つ日を 絵心あらば 描かむものを
  :ものかなし 豆腐屋の鈴流れきて 秋の夕暮足はやに来ぬ
・・・・・・
4034, 幸福になるための五箇条
2012年04月11日(水)
          「幸福になるためのソフト」の五項目 ー中川昌蔵
  「今日一日 親切にしようと想う。」
  「今日一日 明るく朗らかにしようと想う。」
  「今日一日 謙虚にしようと想う。」
  「今日一日 素直になろうと想う。」
  「今日一日 感謝しようと想う。」
「以上のことを、実行してはだめです。意識して実行すると失敗します」。
意識するとエゴがでてしまいます。そういう想いが、いつも体の中にある人間に
なるのが一番いい。 潜在意識に刷り込むのが良い。
▼ 老齢とは、この逆になっていくことをいう。
「しようと想う;なろうと想う」が良い。パソコンかトイレに貼っておくと良い。
「今日一日、しん(親切)、めい(明るく)、にかけ、謙虚に、素直に、感謝
 しようと想う」と憶えればよい。


5504,愛と孤独   ―池田晶子の言葉 〜⑦

2016年04月10日(日)

     『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著),

   * 疑わなければ、信じられない
《 人間は、まず自分を信じていなければ、他人を信じることはできません。
 自分の中の普遍的なものを見出すことで、自分を信じると同じに他人を
信じることができるのです。普遍的なもの、つまり、誰にも共通のその真実
を見出すためには、人は考えなければなりません。 考えるということは、
疑うということです。自分の、他人の、あらゆる言動や心の動きを、
これは何か、本当か、真実はどこにあるのかと、徹底的に疑うことで、
真実は初めて見出されるのです。だから人は、疑わなければ、信じられない。
そして、信じていなければ、疑えないのです。》  〜『私とは何か』
☆ 「信じるものは救われる」でなく、「疑うものは救われる」、いや、
 一度、「信じなければ、疑えない」ということ。疑うこともなく、
信じることもなく、百まで生きた人の一生。 これも人生である。
会社整理から5年経過、そこで見えてきたのが、自分と他人の浅い底。
自分の人生を中途半端に生きてきた蟠りの対象にもってこいの対象になる。
それが逆照射で炙り出てくるのは、それぞれの人の、そして自分の歪な姿。
――
   * わかる力は愛である
《「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。
 わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的
努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。愛のない人にはわからない、
愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。
なぜなら、最初から、わかる気がないからである。わかる気のない人に、
なぜわかるわけがあるか。愛していないものを、なぜわかる気になれるか。
わかる力は、愛である。えてして人は気づいていない、真の知力とは、
愛する力であることを。》         〜『残酷人生論』
☆ 「真の知力とは、愛する力である」とは・・ 愛する人のことを知り
 たがるのは分かるが、逆に嫌いな人は、生理的に遮断して、脳から消して
しまう傾向が私には強くある。愛するには訓練を要するが、必要な訓練である。
「哲学とは、知を愛すること」というが、わかろうとする力こそ、愛の産物。
成るほど、親の愛とは、いや万人の愛は、理解する力、本源である。
――
  * 愛とは、
《 内に引き籠もるほど、外へ開ける完結することで、底が抜ける自分と
 他人を分けられないのは、他人と自分だからである。愛とは、つまり
こういうことである。 》     〜『リマーク』
☆ 書くとは、文章化するとは、物語化するとは、一時的に、自分の内に
 引き篭もることである。それが深いほど、気持ちが入るほど、外に開ける
ことになるため、自分の底が割れることになる。それが同調すれば、自分も
他者もなくなる。 だから、この随想日記が15年も続いた。

・・・・・・
5139,閑話小題 〜元校長の買春、12600人切り!
2015年04月10日(金)
   * 12600人切り、それも元校長の・・
 にわかに信じがたい下世話なニュースが入ってきた。〜まず、その内容から
≪ 1975年に教員採用された高島容疑者が、マニラの日本人学校に赴任したのは、
およそ25年前。3年間、理科を教えていた。高島は、マニラ時代のことを
コラムに「経済的理由で、学校に行くことができない子どもたちが多いこと。
明日をも知れぬ子どもたちが街にあふれているのだ」と書いていた。
高島は、このマニラへの赴任中に、少女などの買春を始めたという。
高島は「買春の快楽を覚えた」と供述している。日本に帰国したあとも、
学校の夏休みなどを利用して、フィリピンに65回ほど渡航。およそ25年間で、
13歳から70歳くらいまでの女性1万2,600人以上と買春したという。・・・
 警察が高島容疑者の自宅から押収したものの中には、複数のカメラやDVD、
児童ポルノの漫画のほか、買春した少女らの写真を保存したアルバムが410冊。
写真には、通し番号が振られ、その数は、1万2,600人以上に及んでいた。≫
▼ 過って聞いたことがない話。 巷の話としては、こんなものだろう。
< 65回×10日+αとして、仮に千日。 赴任期間の千日を加えて二千日。
一日に6人の買春とすると可能だが、としても信じがたい。たまたま精力絶倫
の男の職業が校長だったため問題になったが。こういう人種が存在する具体例
のニュースとして面白い。「少女の清潔感が・・」は、経験者でこその言葉。 
それにしても12600人とは! 一度きりの人生、「??まくるのも人生か」 
その辺の誰かより、マシ? 巷の男にとって、ニヤと笑って本音は? が、
これだけはタブー。スケベの女性版では、かの国の元王女を思い出す!
最後は謎の死だったが・・ せめて10人、いや1人でも・・ > 
 大よそ、はな金の居酒屋かスナックの酔払いの話は、こんなもの。
こんなことを、朝っぱらから書いている私も私!だが。
・・・・・・
4774,ぼんやりの時間 ー7
2014年04月10日(木)
                「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
   * 「怠」―「1日四時間労働」の夢
「怠」肯定の論など、それもラッセルというから驚いた。ーその辺りからー
《 英国の哲学者であり数学者であったバートランド.ラッセルは、一九三二年
『怠惰への讃歌』という論文を雑誌に発表。怠けることは「いいことなのだ」と
いえば、昔はむろん、いまでもかなりの反発を買うことになるだろう。
 お前は怠け者の味方をするのか、この世に怠け者が横行すればマジメに働く
ものは損をする、働くことをおろそかにする世の中なんかおしまいだ、など
など非難のツブテはつきないだろう。怠けることは大切なことだと主張した
ラッセルでさえ、「何もしないで怠けているものに、悪魔がいたずらをする」
という子どものころに聞いた格言を紹介し、怠けることを恐れるあまり、いま
まで一生懸命に働きつづけてきたと回想する。 それでもなお、ラッセルは
「仕事はよいものだ」という信念こそ、恐ろしく多くの害をひきおこしている
と主張する。 ラッセルはなぜ「仕事はよいものだ」という世問一般の常識を
批判し、「怠惰はよいものひぽだ」という主張をしたのか。
 人びとが生きるうえで大切なのは「閑」である、という思いがラッセルの
主張の根幹にある。勤労は神聖であり、働くことはすばらしいものだという
考え方は、支配者、富裕階級が、働くものにそう思いこませるためにいい
つづけ、その企みが一般にもひろまったとラッセルは考える。 
 少数の特権階級は、他人の労働のおかげで多くの閑な時間を享受している。
自分たちの快適な閑を守るためにも、特権階級は働く人に向かい、「働くこと
は大事なこと」といいつづけてきた。 「私が本当に腹からいいたいことは、
仕事そのものは立派なものだという信念が、多くの害毒をこの世にもたらして
いるということと、幸福と繁栄に至る道は、組織的に仕事を減らしていくに
あるということである」と、ラッセルは書いている。 文明が起こってから
産業革命まで、人ぴとはせっせと働いてきた。妻も、働ける年齢になった
子ども働いてきた。しかし、最低の生活支える分しか手元には残らず、
食料は支配者階級が管理した。飢饉のときは、余剰物資は支配階級の管理下
にあり、多くの労働者は餓死した。労働者たちは、十分な閑をもつどころで
はない貧しい暮らしをつづけいた。 》
▼「人生で最も大切なことに縁が無くなるのは、暇な時間が無いため」と、
 ラッセルが指摘する。 私の選んだ事業は装置産業だった。 当たりさえ
すれば、当分は何もしないで済む時間が、褒美として差し出される。当初は、
戸惑い、暇を持て余し次の設置に取組んで、最後は、過剰投資でダウンした。
しかし、その間の膨大の時間は、何ものにも代えがたい贈物であった。 
冷静に考えれば、長期装置産業など、この激変の時代に、そぐわないが、
後悔が少ないのは、膨大の「怠」の時間を得ていたため。これは当事者で
なければ理解できない実感。そのため、解放された現在、肩に羽がはえ、
空中を飛んでいる感覚がある。いずれも、同じでしかない、ということ。 
生きるのは、辛く、哀しく、面白く、滑稽な、ことである。立場が変われば、
見方も変わる、ということ! 振返ると、挫折して呆然としていた時に、
人生で一番、必要なことをしていた。聖書を読んだり、講演を聞きに行ったり、
旅をしたり、溢れる言葉の整理とか・・
・・・・・・
4407, 閑話小題 ー自転車の修理
2013年04月10日(水)
  * 自転車の修理
 一昨日はチャリのパンク。で、何時もの自転車屋に持っていくと、
オヤジさん、転んで左手を骨折で修理が出来ないという。「手伝うので直して
ほしい」と言うと、しぶしぶ納得。そこで思ったのが、自分でも可能でないか
ということ。「こんど泊り込みでサイクリングに出たいがパンクが不安。
で、見ていて私でも直せそう」というと、「問題は修理道具だが、二本の
専用ヘラがあれば、タイヤ外しと装着が手軽に出来る。HCにはパンク部分は
ゴムのノリ付シールがついたパンク修理セットが売られている」という。
一寸した靴の修理と同じである。 靴も自転車も専門家が直すもの、という
バイアスがかかっているだけのこと。それか千二百円を割り切って払うか? 
次回、考えてみようか!
   * 絆とは
 絆は家畜などをつなぎとめる綱の意味。言葉の通じない人間と家畜が、互い
に生きていくため、鼻や首につけられる綱が転じて義理や人情の喩えになった。
互いが、その綱だけで繋がっている危うい関係をいう。そのため、震災での助け
合いの繋がりに使うのに無理がある。阿部首相が米国との絆を強調したが、
毎日新聞に「日本は米国の家畜と受け止められる」と批判されたのが、記憶に
新しい。絆という言葉に何か危うさ弱さを感じるのは私だけでないはず。
とはいえ、身内や自宅や共同体を失って路頭に迷った時、頼れるのは親戚縁者と
共同体の繋がりしかないのも事実。いまだ避難民が20万世帯もいると思うと、
「絆の批判」など、とんでもないこと。人と人の間で生きているから、人間。
その繋がりが絆ということか。
   * ネットラジオ
 書斎コーナーのBGMはネットラジオを聴いている。iTunesで、
世界中の千局のテーマ別スタジオから音楽を聴ける。思いもよらぬ曲が次々と
飛び込んでくるが、これが新鮮で良い。人は、思いもよらぬ仮想の中で気持ちが
解放される。それは未知の音楽の中に近道があるようだ。こういう音楽を気楽に
聴けるようになったのは、バイアスがとれたため。ジャズ、ソウル、カントリー
などジャンル別だったり、70 /80/90年代のヒット曲別だったり、分類も豊富。
音楽好きだったら、たまらないはず。少し目をネット上に向けると、こういう
のが無制限に手に入れることが出来る時代、それを如何に楽しめるかどうか? 
そのため若い人の間に居ないと。バイアスが外れる度、外は広く、内は深くなる!
・・・・・・
4033, シングルイン、31年間の総括 ー9
2012年04月10日(火)
   * つれづれに ー9割がた終了
 抵当に入っていた自宅は家内が買い取ることになり、新潟駅前の物件5つを
加え、すべて決着。 弁護士曰く、「あれから一年、世の中はグチャグチャ。 
この環境下、見切り千両というより、見切り万両といってよい。これだけの物件
で金融関係が全く異議をいってこないのは、初めて。」という訳で、9割方終了。 
一瞬早い決断は、問題を数分の一にしてしまう。あとは個人保証債権を
サービッサーと交渉して家内が買いとるか、破産するか一年がかりになる。
これが残りの一割。 「この時世の中、全ての物件が一年で処分できたことに
逆に銀行に感謝された!」と弁護士。これで現時点で、絵に描いたような撤収。 
これも一連の事業の範疇。経理担当Oさんの管理が完璧だったことが背後にある。  
夜逃げ、首吊りか、合理的撤収になるかは一瞬の決断の間合い。それでも心の傷
が癒えるに数年はかかる。これは、時間の経過と、問題の中心点に気持ちを集中
し続けるしか、解決はできない。多くの要素が絡んだ原因と結果でもあるからだ。 
 一度、社会から身をひくと、経済と社会の流れに鈍感になる。表立ってないが、
深く景気の悪化が進んでいるようだ。起こってしまった東北大震災と、今後予測
される大震災を、連日マスコミで流されれば、住宅関連、車、家電など買う気が
なくなる。その中で運良く全ての物件が売れてくれた。ホテルの装置は稼働して
いないと、内臓(ボイラー、配管)が時間とともに腐り、買い手がいなくなる。 
最悪の場合、建物撤去が必要になり、価値が暴落することを銀行は知っている。
その結果、個人保証に厳しい姿勢になる。 破産をすれば、それで終わるが、
拗れると個人破産にも異議が出る。しかし生きたままの債権移動は、買い手も、
銀行も、債務者も良い「三方両得」になる。目安が3〜5年先と思っていた
ので、歴史的異常時の中、有難い結果である。
  ・・・・・・・
3667, 節目どきに ー2
2011年04月10日(日)
 今回の ? を当事者の目線で現状分析すると、
・ 9・11、9・15、の経済震災と、3・11の自然震災の直撃で、事業としての
  立ち居地が悪かったこと! 五割が、これ。
・ 三割がネットなど情報化の影響が直撃、そこにビジネス客の首都圏より
  二時間圏内の日帰りの徹底が地方都市駅前ホテルを衰退を招いたこと。
  グローバル化で、特に、この10年地方経済が衰退したことがある。
・ 最後の二割が、鉄とセメントの装置産業で身動きが取れなかったことと、
  部屋在庫を多く持ちすぎたことである。
・ さらに当方として30年という事業年齢の満期にきたこともある。 
  これらを読めなかった能力不足が全てといえば、その通り。しかし、
 (これを読めというのか?)という内なる声。 結果からすれば、創業後
  10年辺りの最盛期に事業転換をすべきだったが、これはあと講釈。 
  この3つの経済震災と自然震災の結果について、震災は震災として割り切る
  しかない。その辺の、したり顔の下司講釈など・・ 宮城の震災地の真只中で、
  「こんなところで事業をしている御前が悪い」とか言う輩はいないが
  (いや何は何処にもいるか?)、経済震災になると、その辺の類推がでない
  人が大部分だろう・・・。 今回の災害そのものを大地震とすると、恐慌
  という大津波が何波も、もう、そこにきているのに、情報コントロール下
  のため?か、大部分の国民は、分かってない? 今年は2012年の前年。
  この三年は10〜20メートル・クラスの経済破壊の大津波と、放射能
  汚染などのパニックが起こってくる。 たとえとして、ソ連解体直後の
  ロシアの大混乱?や、中国の文化大革命(推定3〜7千万人の??)
  に匹敵する混乱を日本に想定すればイメージがわいてくる。
  リーマンショックが日本経済を直撃している最中に、日本史、いや世界史
  に残る、大震災に直面するとは! 東日本のリゾートホテル・旅館は、
  客が5分の1、10分の1という。長岡の奥座敷といわれるホテル街は、
  ほぼ客がゼロとか。 中越地震で立ち直りかけた矢先に豪雪と、これ。 
  青色吐息でなく、黒色吐息。 それにしても、原発事故の行方がサッパリ
  みえない暗い日日が続く。このままでは経済の先行きは真っ暗。
  この原発事故の汚染が、このまま収まるとは思えない。農業、漁業、土木、
  建設、第三次、第四次産業も、輸出産業など、どれをみても・・
  どうなるのだろうか? 何をかいても曳かれし者の戯言 か、これは。
  ・・・・・・・
3302, ブログ向けビデオカメラ
 2010年04月10日(土)
新聞で、ブログ用に特化したデジカメを二種類を比較対照した記事があった。
発売当初から両方とも興味があったので早速、近くの家電量販店に行ってみた。
たまたま、真剣に見ていたためだろう、女店員が来て詳しく説明をしてくれが、
なるほど実物は思ったよりズット良かった。衝動買いは必ず後悔することを
経験上知っているので、パンフレットだけを貰ってきた。ネットで調べて
迷ったあげく、結局はアマゾンで買ってしまった。ヨドバシカメラの値段より、
25パーセントはやすい。16GBのSDカードを別口に注文をして3万1千。
ちなみにヨドバシは、カード込みで4万弱だった。一方のソニーのものと
最後まで迷ったが、5千円高い方の、これにした。シンプルだが、非常に使い
かってがよい。5年前なら軽く20万はしただろう。デジカメとして800万
画素もあるので、デジカメにビデオが付いているという感覚である。
(字数制限のためカット 2012年4月10日)
 ・・・・・・・・
2927,中沢新一の『三位一体モデル』 −6
 2009年04月10日(金)
 *「三位一体モデル」を使った演習  ー �
「三位一体モデル」を実際の知人の仕事を当てはめて演習をしてみたが、
考えさせられる。実際に丸を重ね合わせて三つ書いて、その一つの「子」の
円に、職業を書き込んで、次ぎに「父」、そして「子」の順に書き込んでいく。 
それが、なかなか面白いのである。 その前に、我われの生存ベースである
幻想としての「国家」、「国民」、そして「家族」から考えてみる。
* まずはー「国家」ーから
 子=  国家
 親=  国家成り立ちの神話 日本なら「天皇神話」から、
     これまでの歴史と、これからの方向を示す羅針盤。
 精霊= 文化、文明(国家としての教養)。国民と、その民度。
     国家としての政治・経済・軍事力・警察力。
* 次に、ー「国民」ー
 子=  国民
 親=  国家憲法、法律、それを維持する暴力装置
     (対外的には軍隊、対内的に警察)。これに愛国心。
 精霊= 公共施設(道路、河川、鉄道、公園、学校 etc)、都市、
     街、村、故郷、政治家、芸術家、経済力、など・・
* 国家のベースとしてのー「家庭」ーとは
 子=  家族
 親=  血統、家柄。家訓、家そのもの。
 精霊= 子孫、盆暮れの集まり。家族の団欒。家族旅行。 
国家は、共同幻想の典型と言われるが、長い歴史に裏付けられた蓄積がある。
日本では天皇制度である。人間の「なすべき基準、価値観のベース」は、国家
のために何をすべきかに行き着く。我われの安全を最後に守るのは国家である。
それが軍隊であり、警察という暴力装置である。現在の憲法は、明らかに
アメリカ庇護を前提として作られている。庇護は建前で実態は隷属である。
この憲法である限り、日本は衰退するしかない。右翼みたいなことを言うが、
グローバル化になればなるほど、ベースとしての国家の強固の基盤が必要。 
無理だろうが・・          つづく
 ・・・・・・・・・・
2563, ディープ・スロート
2008年04月10日(木)
『ディープ・スロート 』ー大統領を葬った男  ボブ・ウッドワード著    
これも図書館で見つけた本である。これが出版されていたことは知っていたが、
買うほどではないと、判断していた。あまりに奇抜で、生々しいから目をそむけた
のだろう。まずは、アマゾンの紹介文からして、面白い。
 ー内容
 ニクソン大統領を辞任に追い込んだ「ウォーターゲート事件」から33年。
新米記者ボブ・ウッドワードに地下駐車場で極秘情報をリークしていた
人物が名乗りを上げた。当時のFBI副長官マーク・フェルトだった。
フェルトが死ぬまで秘密を守り抜く覚悟でいたウッドワードが、その告白を
受けて初めて明かす、フェルトとの出会い、情報源秘匿のエピソード、
その後の二人の関係…。  (字数制限のためカット 2010年4月10日)


5503,エヴェレスト 神々の山嶺 ―映画感想

2016年04月09日(土)

 「山岳遭難もの」は、苦手だが、『映画道』という言葉があるなら、
この『エヴェレスト 神々の山嶺』を避けてはなるまいと、シネマの日も
あって、昨日の昼ごろ、心を奮い立てみてきたが、これが思いのほか、面白い。
私の邦画の評価で95点は上の上。 人間の極限状況は、そのまま、人生道
にも通じるところがある。  〜まずは、内容紹介より
《 日本のエヴェレスト遠征チームに参加していたカメラマンの深町誠は、
 滑落事故で仲間を失い、登頂は中止になってしまう。
行き場を失い、ネパールの首都・カトマンズを彷徨っている中、骨董屋で
ある古いカメラを発見する。それは、1924年6月8日、エヴェレスト登頂に挑み
ながらも行方不明となったイギリスの登山家ジョージ・マロニーのカメラと
思われるものだった。 マロリーがエヴェレスト初登頂に成功したかどうかと
いう登攀史上最大の謎に魅せられた深町は、証拠となるカメラを追い、
一人の男に辿り着く。消息不明だった伝説のクライマー、羽生(はぶ)丈二。
彼はなぜ日本から姿を消したのか?その男がなぜカトマンズにいるのか?
「天才クライマー」と呼ばれながら、無謀で他人を顧みない彼の孤立した
過去を調べるうちに、深町はその生き様にのみ込まれていく。そして、羽生に
人生を翻弄されながらも、彼を愛し続ける女性・涼子と出会う・・・。
二人の男と、一人の女。それぞれの想いが交錯する中、己の人生を賭け、
世界最高峰の“神々の領域”へと足を踏み入れる男たちの挑戦が始まるーー。
                  岡田准一、阿部寛、尾野真千子、》
 〜登山家の[羽生丈二]の言葉が良い。
――

足が動かなければ手であるけ
てがうごかなければゆびでいけ
ゆびがうごかなければ
歯で雪をゆきをかみながらあるけ
はもだめなら
目であるけ
目でゆけ
目でゆくんだ
めでにらみつけながらゆけ
めでもだめだったら
それでもなんでもかんでも
どうしようもなくなったら
ほんとうにほんとうに
ほんとうのほんとうの
どうしようもなくなったら
もうほんとうに
こんかぎり あるこうとしても
だめだったら

思え
ありったけの
こころで思え

―想え。           [羽生丈二] 
――

そこに山があるからじゃない。ここにおれがいるからだ。
ここにおれがいるから、山に登るんだよ。
               [羽生丈二]
――
▼ 魂から絞り出た言葉が、これか、と思わせる内容。お勧めである。

・・・・・・
5138,閑話小題 〜二人の旅路
2015年04月09日(木)
  前日に続いて見た、プレミアムアーカイブスHV特集
『二人の旅路〜日中 激動を生きた京劇夫婦〜』も重厚な内容。
 日本人の父と、中国人の母と、中国人の夫を持つ、「事実は小説より
 奇なり」を地でいく日本女性の壮大な物語。 〜その概略から
≪ 中国・京劇のスターだった夫婦、梁嘉禾さんと柴田真理さん。
 およそ20年前、残留孤児の妻と日本に移住。そのとき、夫は中国京劇の
 最高峰・国家一級俳優の座を捨てた。妻は「夫のすべてを奪ってしまった」
 と悔いるが、夫は「あなたといる今が一番幸せだ」と語る。
 日中戦争後の中国、文革などの激動の時代を生き抜いた二人。2010年秋、
 逆境を乗越えた末、夫は20年ぶりの舞台に立つ。〜2011年放送。 ≫
  〜ネットに、心のこもった投稿があった〜
《 このTVを観た後、一夜興奮して眠れなかった。涙がとめどもなく流れ、
枕をぬらした。1945年8月6日、麻里さんの両親は敗戦直前の上海で結婚した。
父は東京大学卒業、三菱商事武漢に勤めるエリート社員、母は裕福な20歳の
中国人美女、しかし7日後日本の敗戦、1946年父は強制収容そして日本へ強制
送還、その後は消息不明、中国人の母も日本人と結婚した罪で2年間の投獄、
柴田麻里さんが10歳になった時、母は人々から素性を隠し中国東北部の
貧農へ再婚、その後、麻里は柴麻里と中国名に改名し、京劇女優になった。
しかし、文化大革命の真っ只中、麻里は日本人の子であることが暴かれ 
いじめられ、傷つけられ、紅衛兵にも選ばれる事はなかった。そんな苦しみ
の中、京劇名優梁さんと出会い 恋愛・結婚。しかし、2人は一緒に住む事も
許されず、3年間の別居。再び、麻里は素性を隠すように、西の果て、遼寧省
に移り 夫婦で京劇に徹する。夫 梁さんは 国家1級演劇家として、将来を
期待されたが、日中国交回復後、中国残留孤児として妻の麻里さんは、京劇
仲間から「日本に帰れ」と、苛められ 激しい追い出し環境に耐え切れず、
2人は日本に住む事になる。そんな中、父はウルグアイで亡くなったと知る。
もう日本での親族発見も叶わず、福岡市の残留孤児仲間と一緒に住むうち、
柴田麻里さんは身体を壊し、始めた中華料理店も閉店に追い込まれ、日本政府
の僅かな援助金で、貧しい2人の生活は続く。そして昨年、麻里さんの母親は
亡くなり、母の散骨と、梁さんの京劇記念講演の為、再び遼寧省に向う。
2人の長い、辛い人生を象徴する、大地を走る列車の窓から見る夕焼けの空は
遠く霞んでいた。あの日中激動の下に、押しつぶされていった2人の人生、
哀しい人生だ、しかし誠実な夫と、美しい妻の愛情は今も、2人の人生を 
格調高く 結びつけている。美しい2人の後姿はいつまでも忘れられない。》
▼ 家内と、互いに見つめあうリタイア後からの生活の中で、生きること、
 老いること、夫婦とは、愛とは、厳しさ、優しさとは何かを考えてきた。
その答えが、この物語にあるような気がした。苦難は人生に付きもの。
それに日々、前向きに立向かうしかない。 一日一生の覚悟。
・・・・・・
4773,ぼんやりの時間 ー6
2014年04月09日(水)
                「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
  * 「閑」ー逆茂木に囲まれて
 森の生活(世俗)を抜け出て、ご隠居(サバンナ)の世界に入った現在が、
まさに逆茂木の「閑」の世界である。閑の字は、門の中の一本の木がある。
それが、ぼんやりの世界である。 ーその部分を抜粋し、考えてみるー
《 さかもぎの刺のある木の枝をならべて積み、垣にしたものを逆茂木という。
 トゲトゲの垣を周囲にめぐらせておけば、「邪魔者はたやすく突破できない。
逆茂木の内側では、人はのんびりと過ごすことができるし、閑をたのしむこと
もできる。それが閑という字の意味だ。 およそ、そんな意味の文章が
『閑適のうたー中華愛諦詩選』の冒頭にあった。・・ 
 だれにも知られてない宿でぼおーっとして過ごすとか、めったに人の来ない
尾根道で二時間も三時間もぼんやりしたときをもつとか、そういうのが逆茂木
に囲まれた「閑」の状態というのだろう。閑は時間であり、空間である。 
それはときに逆茂木の内側という空間を表し、同時に逆茂木の内側に坐り
つづける時間を表す。そして、「閑」と「ぼんやり」は表裏の関係にあると
いってもいい。現代人にとっては、隠れ家を逆茂木で囲むには、それなりの
工夫が必要になる。 白居易の詩『閑適の詩』に、こんなくだりがあった。
   心足る(みちたる) すなわち 富(とめる)なり
   身暇なり(からだひまなり) すなわち貴(とうとき)なり 
(中略)・・ やがて吉井勇は、こんな歌をうたうようになる。
目を閉ぢて半珈を組みて或る夜半はほのぼのとして涅槃おもふも苦しみ、
楽しみながらたどりついた一つの境地が、この歌にはある。
(中略)・・旅をすること、自然度の高いところに隠ること、日々、
散歩をすること、温泉に入ること、閑をもつこと、独りになること、
雑事から解放されたこと、すばらしい土地の人びとに会えたこと、そして
たっぷりとぼんやりする時間に恵まれたこと、勇は、高知の猪野沢温泉で、
そういうぼんやり道の骨子になる部分の実践をしたことになる。
そのよみがえりは偶然のことではなかった。》
▼ 「せめてミニ書斎を持て!」とは、この閑の独りだけの時空を持て、
 ということになる。現に、この二m四方の、この空間は私だけの世界で、
BGMが流れ、2台のパソコンからは、欲しい情報、知識の殆どを手に入る。
今では、タブレットなどのモバイルPCという優れものもあり、何処へにも
持ち出し可能である。とはいえ、やはり自分の空間も必要である。雪もとけ、
自転車散歩(ポタリング)を再開したが、信濃川の土手の休憩で「ぼんやり」
を意識的に始めたが、これがなかなか良いが、難しい。先を急ぐ気持ちが、
勝ってしまい、直ぐに立上がってしまう。木の下や、ベンチで30分でも
一時間でも、小春日和の中、寝転べば良いのが分かっていても、気が競ぐ。
・・・・・・
4406, 大丈夫、なんとかなるさ
2013年04月09日(火)          
  * よい先生、わるい先生  ー「大丈夫、なんとかなるさ」近藤勝重著 
 著者は毎日新聞の論説委員をしており、「文章をうまく書く秘訣」などの
レポートを読んだことがある。「随想は想いを書くもの。その想いを書くとは
思い出を書くこと。多くの経験の中で、記憶として残っているのは、その人に
とって大きなインパクトのあったこと、それを書きなさい」という論に、
ハッとした。 これは、毎日新聞の夕刊に「しあわせトンボ」に5年前から
二年半の間、連載されたエッセー。なかなか味わいがある。 
  ーまずは、心に響いたものから、取り上げてみる。
≪ 司馬遼太郎さんが学校嫌いで図書館が好きだったことは有名だ。
 それは中学一年の英語リーダーで先生にニューヨークの、地名の意昧を質問
したことからはじまる。なんと先生は「地名に意味があるか」と怒声を上げた
という。司馬さんは帰り道、市立図書館に寄ってニューヨークの意味を知る。
独学癖がつくようになるそもそもだが、一方で「いい先生につくに越したことは
ない」とエッセーで言い添えている。 いい先生というと、アメリカのある学校
で数学を教えていた先生の話を思い出す。その先生は数学を教えることが自分の
仕事だと思っていたが、ある日、「私の仕事は子供を教えることである」
と思い直す。つまり科目「数学」から科目「子ども」へのチェンジである。
「数学」を教えていれば子どもに完全な答えを求める。しかし「子ども」
を教えるのだとなると、それは最終の目標ではなくなる。やがで子どもたちも
変わってきて、成績がぐんぐん伸びたエディという子はこう答える。
「先生に習うようになっでから、自分が好きになったんです」 
「こころのチキンスープ」で知った話だが、・・・ ≫
▼「数学を教えるのではなく、子供を教えるのが仕事」は、さすが。 
 この随想日記、「自分のために、同調したこと、心に響いたこと、記憶に
残したいことなどの雑記帳・記録帳」と割り切っている。忘却のためのメモ帳
ということ。そう割り切ってしまえば恥も外聞も何もない。「偉そうなことを
書いている割に全然、成長の跡などみえないじゃないか」と言われれば、
「全く、その通り!」である。未来の自分は、現在、そして過去の自分の
子供と想定。 その子供のために書き残すと思えば、逆に手が抜けなくなる。
「未来の自分は、現在と、過去の子供」という言葉、我ながら言い得て妙。
  とすると、過去の自分は現在の親になる。あまり良い父親ではない? 
まあ、いい、この子(私)を見れば、仕方がない! 
・・・・・・
4032, 「人生の知恵」ノート ー4
2012年04月09日(月)                    
   ー 人生を成功に導く言葉ノートより ー
* 先延ばしは命どり
 「仕事で失敗する理由で一番多いのが先延ばし。一度やりはじめれば
 意外と簡単に片付く。とにかく先取りで問題を解決すること。
* 尊敬など、されようと思うな
 孤高の姿が敬意を呼ぶ。無理に尊敬されようとしないこと。
* ツキを見極める
 新しい事を始めるときは、運の風向きに敏感になり、
 好機を待つ間に準備を進めよう。
* 引き際を見極める
 勇敢な攻撃と同時に退くこともたたえれるべき。引き際のタイミングが大事。
 幸運の女神は、その頂点が高いほど、期間が短くなる。絶頂期を見定めたら、
 引き際を考えるべきだ。
* 欠点を直すこと
 人は他人の欠点を見逃さない。あなたの実力を点検した上で、
 欠点だけに注目、悪し様に言い立て、他の長所をかすませる。
* 二回目の挑戦を必ずする
 一度失敗しても、必ず二回目の挑戦をすること。一回目の失敗を取り戻せる。
 成功より失敗の方が多いが、二回目に成功する確率は一回目より遥かに高い。
 多くの挑戦は二回目に成功が多いという真理を知っておくべきだ。
* 現実的に生きるべし
 賢者は思ったふうに生きられないとしても、できる限りのことをする。
 運命が与えてくれないものを惜しむのをやめ、運命が与えてくれたものを
 大切にすべきだ。現実が理想を支えることを知ろう。現実の土台が弱ければ、
 理想は単なる重石となる。未来の理想の自分を明確にしたうえで、現在すべき
 ことを確実に実行する。賢人は現実で未来をコントロールする術を知っている。
* 忘れるべきは忘れる
 「人が一番良く覚えているのは、忘れた方がいいことである。」
 嫌な記憶は楽しい思い出で吹き飛ばせばよい。反省をしたら、次へ。
▼ 引き際は、最も大事な決断。最高値の引き際は無理だったが、
  最後の最後は断崖絶壁での引き際。 いや、どうだか? 
  ・・・・・・・
3666,  節目どきに
2011年04月09日(土)
 先月末から一週間、この30年来と違った生活に入った。リタイアになる。 
以前もそうだったが、それまでの生活と全く変わってしまったが、抵抗感はない。 
肩の荷がおりたためか、何か地から浮いているような、ふわふわした気分である、
独りになったためか縛りがなくなり、まずは足が軽くなり、直感的に新しい習慣
つくりを始めている自分に驚いている。30年、40数年前の自分に戻ってしまった
ようである。 装置産業の装置に縛られていた、それからの開放ということか。
今は興奮状態だが、2〜3ヶ月たつと「より戻し」がくるようだ。 
問題は、これまでのエネルギーを、どの方向に向けるかである。  
 同じ一日なら、充実した時間を過ごさないと! で、イメージとして
・市営の福祉センター1Fにあるスポーツジムと、
 初心者向スポーツジムに入会。平日、この二つを隔日に使い分ける。 
 今まで通り図書館通いと、信濃川沿岸の早朝のサイクリングとウォーキング。 
 さらに月に一回のシネマの通いと、月1〜2度、居酒屋でクダをまく?。 
 更に、これから探すが、何かのカルチャー・センター通い。
 その立場にたつと、新しい世界が開けるもの。 とはいえ、当分は謹慎の身で
 あることは事実。 元もとアウトサイダーを自認してきたので、こういう
 切り替えには抵抗感がない。 それと世間様とやらの何は今さらである。 
 マイナーの方々の暗示にさえ乗らなければ落ち込むことはない。 
 居間に中村天風本を手元に置いておくか。  ー つづく
・・・・・・・
3301, 日本経済は死ぬのか
 2010年04月09日(金)
 先日の週刊現代の新聞広告の見出しを見て、つい買ってしまった。 
週刊誌の見出し以上の内容が無いのは知っているが、それでも何か目新しい
ことが?と ・・で、あるわけないがジックリ恐慌本を読む機会のない人には
ダイジェストとして丁度良い。その中で、野口悠紀雄が、「もはや日本経済は
死に近づきあることは間違いありません。まず、日本経済の落ち込みの原因を
「米国の金融危機」と考えていますが、それは正しくありません。悪化原因は
米国にあるのではなく、極端に外需に依存してきた日本の産業構造にある。
戦後最長といわれた2002年から08年の日本の好景気は、米国のバブルに乗った
ものです。米国の住宅価格のバブルによって、結果として日本の輸出が伸びたと
いう現象が起こっていたのです。当時の米国では3パーの物価が上昇していたが、
日本では0パーセントことが円安に拍車をかけていた。・・そのバブルが弾けて
しまったのだから2002年前の水準に戻るのが当然。数字で言えばピーク時の07年
度に対し輸出で20パー、GDPで10%減になる。09年の2月の輸出額は3兆5300億、
これは1984年度3月と、殆んど同じ。この事態に、政府はエコポイントで家電や
自動車などの購入を支援している。これは今の製造業が、政府の支援にしがみ
ついて生きている状態。これも期間が終了をした時には反動として跳ね返える。
それは時限爆弾になる。 日本の潜在的失業率は14パーセントというが、これが
打ち切られれば、失業率が10パーセントを越える可能性が高くなる」等々、
刺激的内容である。彼の著書「世界経済危機ー日本の罪と罰」をダイジェスト
とし述べているといってよい。欧米の失業率が10パーセントに対し、これだけ
悪化している日本が5パーセントは、明らかに変である。それが一挙に二倍、
三倍になると、どうなるか考えただけで恐ろしくなる。他人事では決してない。
まだ日本の消費税を5パーセントに抑えてあるから、少しは救いがある。
これが、既に欧州並みの20パーセントで、これだけの赤字なら救いがない。 
したがって早めに政界再編成をして、消費税のアップが必要である。
ただし国民を納得する上にも国会議員、地方議員も定数を半数か、三分の二に
しなくてはならない。スマトラ沖地震の津波の映像で、向うから大津波が
来ているのに、浜辺で海水浴をしている観光客を思い浮かぶが。


5502,一切は君の自由だ ―池田晶子の言葉 〜⑤

2016年04月08日(金)

       『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 』池田 晶子(著),
   * 一切は君の自由だ
《 もしも私が教育者の立場なら、子供や生徒に、「好きにしろ」と教える
 だろう。世の中には善いことも悪いこともないのだから、自身が善いと感じ、
自身が悪いと感じる、そのことにのみ従って行為せよ。一切は君の自由だ、と。
「売春がなぜ悪い。私の自由だ」と言う女子高生に、大人が反論できなくて
困っているのだそうだ。
「なぜ悪い」と問われれば、こう答えてやればいい。
善悪を知らないというそのことが悪い。知らないということが悪いことだと
知らないことが悪い。それは誰にとっても悪くないが、お前にとってだけは
大いに悪い。                 『残酷人生論』
☆ 人生を振返り、様ざまな過去の記憶がフラッシュのように湧き出る。
 その中で、マイナスの記憶をみると、無知が起因することが多い。
ここで、「一切は自由だ。世の中で善いも悪いもない。自分が何も知らない
ことを知らないことが悪い」と、ソクラテスの「無知の知」を引合いに出す。
哲学の第一歩が、何も知らない自分を前提に、他者との対話、そして書籍を
通した触媒から知識を積み重ねることである。「一切は君の自由だ」とは、
恐ろしい言葉でもある。何故なら、何も知らないことが解ってないからだ。 
 ――
   * 金では手に入らないもの
 人は、金によってよいものが手に入ることに慣れてくると、金それ自体
をよいものと思うようになる。手段と目的とが同一になったのだね。
困ったことはだね、このとき人々は、よいものは金で手に入るものという
考え方に慣れすぎていて、金では手に入らないよいもの、すなわち、「善」
という価植の欲し方がわからないということなのだ。いくらた金を積んでも、
金を貯めても、善だけは手に入らないのだ。なぜなら、いいかね、善は、
タダだからだ。                『無敵のソクラテス』
☆ タダなら、限りなく善行をすればよいが、金で手に入らない善こそ、
価値があることを知らない。 「金で手に入らない善とは何か?」を、
考えたことがあっただろうか。まずは、「迷惑をかけないよう己を律する」
「目先のことを後回しにしない」「困った人に手助けをする」など、自分の
規範の中で実行をしているつもりだが・・ 「金では手に入らぬ善行」を
改めて考えると、「無心な心」「純粋な愛情」「感謝の心」「感激できる魂」
「感動できる心の張り」「毎日の最善の習慣」。 それでは、金で手に入る
「もの、こと」とは何だろう。 想像しただけでもゾクゾクしてくる。
たかが金、されど金だが、感謝、感激、感動する魂が分母あればこそ。
とはいえ、何があればこそ、魂の振動に近づける機会が多くなる。
振動しないで錆付いている自分に気づいていないで、最期の最期に・・

・・・・・・
5137,閑話小題 〜定年・夫婦で走った40日
2015年04月08日(水)
    * 定年・夫婦で走った40日
 昨日のアーカイブの番組が現在の自分を考えるのに丁度良い内容。
平日の朝9時のプレミアムアーカイブスを、隔週に一回位はみるが、
今回の『定年・夫婦で走った40日』が考えさせられた。恐らく旅行代理店
の企画だろうが、全ての車が乗用車に牽引するキャンピングカー。
48台が連なって走るのは西部に向かう幌馬車隊を髣髴させ、壮観。
  〜まず、NHKの番組案内より
≪ アメリカのテキサス州から中米のパナマまで、24台の車が連なって
 5000キロの旅に出た。旅をするのは夫婦で第二の人生を走り始めた
中高年夫婦たち。子どもが独立した夫婦。伴侶に先立たれ再婚同士の夫婦。
伴侶の思い出を抱きながら単身参加する男性。さまざまな夫婦がメキシコ
と中米6ヶ国を訪ね、向き合い、これからの人生を見つめた40日の
心の旅日記。 〜2001年放送分 ≫
▼ 47人の平均年齢が67歳、年齢は50〜70歳半ばまで。
 とすると、私と家内の平均と同じ。それぞれ夫婦の道中の会話で、人生を
振返り、語り合う。それまでの子育てと、それぞれの仕事のため、24時間、
向き合うことが無かった二人が、様々なトラブルの中で、協力し乗越えていく。
二人参加の旅は、夫婦関係にとって、非常に危険を伴う。普段、隠蔽?
されていたトラブルが、圧縮された移動空間で、噴火する。だから、成田離婚の
悲喜劇が起こる。ツアーで、百回以上の参加経験者がいても、夫婦の参加者の
10回以上は今までなかった。多くて7〜8回。 24組の参加者で、一組の
脱落者が出なかったことに驚かされた。夫が『二度、殺したくなった』に、
妻が『寝ているときでしょう。解っていたわ』は、何とも迫真があった。
ところで、キャンプ地の料金は、平均10ドル。帰りは同じ道を辿る。
「ぼんやり!時どき旅」が理想か。それとも「旅をしながら、ぼんやり」か。
・・・・・・
4772,ぼんやりの時間 ー5
2014年04月08日(火)
               「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
  * 「独」―独りでいること  ーぼんやり道
「ぼんやりの時間」は独りでいる時である。人間は生まれてくるときも、
死ぬときも独り。宇宙の一点に独りおかれた存在で、その背後には暗黒が
無限に広がっている。だから、自分という存在と、親しい人の存在が大事。
  ー以下の部分に納得するー
《 アン・モロウ・リンドバーグは1955年に『海からの贈りもの』を刊行
 している。この本には、多くの心に残る言葉がある。 たとえば
「今日、わたしたちは、ひとりになることを恐れるあまり、ひとりになる
ことができなくなっている」という言葉。いつもだれかとつるんでいたい、
群れていたいという習性になじんでくると、人はしだいに「独りになること」
が怖くなる。仲間はずれにされるのが恐ろしくなる。群れてみたからといって、
心が満たされるものでもないのだが、独りっきりになるよりはましだという
気持ちになり、人は群れようとする。A・M・リンドバーグはこうも書いている。
「わたしたちは、ひとりの時間を求めなければならない。ひとりで静かに
過ごす時間。ゆっくりと考える時間。祈りの時間。音楽、読書、そのほか
何かの勉強でも、仕事でも、自分を自分の内部に向かわせて、わたしたちを
分断しようとする各種の遠心的な力に抵抗しなければならない。」
 なぜ独りになるのか。独りでいることによって、人は「静かに過ごす時間」
というものを味わうことができるからだ。「ゆっくり考える時間しを過ごす
ことができるし「自分の内部」に思いを向ける時間をもつことができるからだ。
「空想にふける」時間も生まれる。『孤独の空間に自分の夢の花を咲かせる」
ことだってできるのだ。そして、独りでいることと、ぼんやりすることとは
かなり重なっている、と私は思う。・・(略)
「寄せては返す波。松林を吹き抜ける風。砂丘をゆったりとはばたきながら
飛んでいく都鶏。そんなものが、あわただしい都会の暮らし、時間割りや計画
のざわめきを消してくれる。そうして、ただそこに横になったままのわたしを、
あるがままでいさせてくれる。横になったわたしは、波で平らになった浜辺と
ひとつになる」。「ぼんやり道」というものがもしあるとすれば、このあたり
の文章はまさに「ぼんやり道の奥義」、といっていいだろう。
ただそこに横になっている。あるがままの自分がそこにいる。・・
 リンドバーグは、さらにこの本で、「孤独の力」といったことについて、
重要なことを書いている。「ひとりでいる時間は、一生のうちでもきわめて
重要な時間である。ある種の原動力は、わたしたちがひとりでいる時にだけ
湧いてくる。芸術家は創造するために、作家は考えを深めるために、音楽家は
作曲するために、そして聖者は祈るために、ひとりにならなければならない
ことを知っている」 独りでいる。独りでいることで、心安らかにぼんやり
することができる。ぼんやりしながら、いつか自分の内面と向き合っている。
謙虚な気持ちで、内面と向き合っている。・・・ 》
▼ 午前中の5時間は、ミニ書斎でブログの下書きと、修正、読書、ネット
 サーフィンのいずれかをしている。この時間帯は時間感覚が無くなって、
完全孤立の壺の中。没頭ないし、ぼんやりの世界という方が正確だろう。
 そこで生じた内容を公開していることもあり、日常の生活でも、孤立感とか、
孤独感が全くない。毎夜、4時間の爆睡後、うとうとしたり、夢をみたり、
急に頭が冴えわたったり、またぼんやりしている時の漆黒時間帯がある。
この孤独の3時間は、何ともいえぬ味がする。潜在意識と、顕在意識の際が
混濁した時間帯で、時空を超えたフラッシュが現れ出てくるが、決して
楽しくない。老いとは、この時間帯の感覚が、昼夜続く孤独な老人になって
いくこと。とすると!
・・・・・・
4405, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −5
2013年04月08日(月)
    四時限 宇宙人を目指そう  『隠居大学』 天野祐吉
 * 隠居をすると自由になれるー宇宙人を目指そうーお相手 谷川俊太郎
 ここで、「人生はカマボコ形グラフ」とあるが、そうかもしれない。
右下がりは以前、還暦だったのだろうが、今は古希か。体力からみると、
私は古希が目安。リタイアーをした後、スポーツジムに連日通いだしてから
足腰は寧ろ、強くなってきた。知能も、バイアスが取れてきた分、
これも良くなった?ようだ。とに角、面白い。 
≪ 谷川:うん、それもあるし、ぼくは幼児に戻れるというふうに思って
 います。われわれ世代は高度成長の時期と重なっているからか、人生に
ついても右肩上がりのグラフで考えるくせがついていたんですよね。
けれど、やはり母の介護を経て、「老い」ということを身近に考えるよう
になって、鶴見俊輔さんらがいうような「人生はカマボコ形グラフ」なんて
ことが、実感としてすごくよくわかるようになった。ある程度上がったら、
下がっていくのが自然なんですよ。それはさっき言ったように自由になったり、
解放されたりすることも含めて。
 天野:下降ということは、嘆くばかりのことではない。
 谷川:そう、人間の加齢を考えるとき、樹木の年輪にたとえて考えるのが
わかりやすいと思っています。中心に0歳の自分がいて、一歳、五歳……と
だんだん経験とともに年輪が増えていき、いちぽん外側に現在の自分がいる。
だから、どんな年齢の老人のなかにも、0歳や三歳の幼児がいる。
これは心理学でもそういう考えがあると思うんです。そして、働き盛りの
中年期を経ったら、今度は積み重ねてきた年輪が一枚一枚、はがれていく。
つまり年をとればとるほど、中にもともといた自分、幼児の自分に戻れる
のではないかというのが、持論です。
 天野: なるほど。年輪となる厚い木の皮は、たんに経験ではなく、
社会的な制約というようなものでもあるんだ。
 谷川: 中年期のひとだって、本当は幼児の自分を持っているわけです。
そしてその部分は、本当はもっと自由になりたいといつも思っているはず
なんですよ。われわれのように詩を書くような人間は比較的自由に幼児の
部分を出せますが、会社組織のなかにいると、そうもいかないでしょう。
だから会社が終わって飲み屋さんに行って、ママさんに甘えるという
かたちで幼児性を解放しているんじゃないかと、そうにらんでいます。
 天野: なるほど(笑)。つまり幼児化、宇宙人化は、もともとできたこと
が下降したり変質したりするわけではなく、むしろ、 自然な姿に戻って
いるということですね。≫
▼ 「加齢を樹木の年輪にたとえて考えるのがわかりやすい」というのが
 言いえて妙。一番外の厚い皮が社会的制約、も面白い。その樹皮を外し
てやるのが御隠居の第一歩。一度外すと「遠き日は 年とるごとに 近くなり」
になっていく。振りかえると、してしまった後悔と、しなかった後悔がある。
後悔あとに立たず、だが・・ 解放され自由になるのは良いが、それを
楽しめないと重荷になってくる。 私の知る限り3分の2。
何故解る?顔に出ているもの。せめて楽しいふりをしたら。
・・・・・
4031,「人生の知恵」ノート ー3
2012年04月08日(日)
 ー 品格と、自分を高める言葉のノートより � ー
  * 人間的側面見せすぎない
あまりに人間的と見られれば、軽く見られ尊敬を失う。グラシアンは、
「中身が少々足りなくても、重々しい雰囲気を出せれば尊敬を集めやすい」
という。軽々しさは尊敬を失う。人は浅はかな者ほど人をバカにしたがる。
バカに隙をみせるな。
  * 余計な関わりは最小に
「人に干渉しないだけではダメで、人からも干渉されないこと」が原則。
そのために「余計な関わりは最小に」。
   * 人との距離を一定に保つ
 苦境に陥ったときは同伴者がいることが大きな慰めになる。
溺れる人を助けようとして、自分まで溺れることはない。
「星は空高く輝いているからこそ、まばゆい存在。 非凡であるには、
節度が必要。なれなれしくしないことだ。
   * 賢者ならどうするか?
「幸運を選び、不運を避けよう。不運はたいてい愚かさの罰として与えられる。
どんな小さな災いにもドアを開いてはいけない。もっと大きな災いが忍び込んで
くる。」 判断に迷ったら、賢者ならどうするかを考えよ。 現状を冷静に
見ることができ、的確な選択が可能になる。これが知識から知恵への転換に。 
これは独りになりきることで可能になる。
   * 品格を備える
 品格は勇気、分別、賢明さ、王者の威厳にさえ勝る。何かを成し遂げるため
の近道であり、困難からたやすく逃げる道である。「品格は言葉や行動の要。
品格がなくては美は精彩を欠き、優しさは形ばかりになる。
▼ ここまで生きてきて、品性、品格について考えさせらることが多い。
 家内に何時も「あなたは品がない」と、暗示をかけられていた。
ところが数年前に「国家の品格」とかいう本で「品格」の付いた本がブーム
になった。「女性の品格」に「品格」の定義があった。それが思いもよらず、
殆どクリアーをしていたが、家内は??。自主独立、陰口を控える、趣味を
持つ、信念の確立の有無などで、自己の確立が出来ているかが品性の土台の説。
一般人は表面的にしか捉えない・・ それにしても品性のない人が多い。
・・・・・・・
3665, 関係性が問題
2011年04月08日(金)
 カーラジオで「夫婦間のトラブル」について、その道の専門家が「夫婦間の
問題は関係性にあって、一方的に相手が良い悪いとか、自分が良い悪いという
問題でない」と論じていたのが、いやに説得力があった。要は相性と、互いの
立場のバランスなどの関係に問題が存在する。それでは夫婦間の関係性とは、
そもそも何か! 二世帯同居の嫁姑の立場とか、マザコン夫とファザコン妻の
組み合わせだったり、長女の嫁と末子の夫の関係だったり(これは私だが・・)
色いろある。 互いが相手のマイナスを見つめあうのでなく、互いの置かれた
立場と条件を理解するしか手立てはない。恋人同士の関係は良かったが、夫婦
関係になったら、破局をするケースが多い。そして別れたと同時に、関係が良好
になって、結婚と離婚を繰り返す芸能人が多く見かけられる。リズとバートン
とか! 無知からくるのだろうが・・ 関係が重なるとネットになっていく。
ネットといえば、網目。それぞれ結び目で出来ている。
その結び目が関係性である。 
 ー ネットで、関係の意味を調べてみると ー
【関係】1 二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、
     そのかかわり合い。「前後の―から判断する」「事件に―する」
   2 あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響。
   「気圧の―で耳鳴りがする」「国の将来に―する問題」
  3 人と人との間柄。また、縁故。「あの人とはどういう―ですか」
  「友好―を結ぶ」「父親の―で入社する」
 4 男女間の性的交渉。また、それをもつこと。「妻子のある男性と―する」
5 (他の名詞の下に付いて)その方面。そういう領域。「音楽―の仕事」
▼ 何ごとも、関係性の中で成立している。触媒の中でこそ、自己は成立。
 ・・・・・・・
3300, 平山郁夫の教養世界
2010年04月08日(木)
 先日、何気なくTVをまわすと平山郁夫の絵と、彼の原爆体験などの逸話
などを取上げていた。原爆後遺症で一時は死も覚悟したなかで玄奘三蔵をテーマ
とした『仏教伝来』を描きあげ院展に入選した平山郁夫の作品には仏教をテーマ
としたものが多く、それがインドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで
伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへとつながっていった。 
彼は東京芸大教授、そして学長になるが、何ともいえない風貌に教養の深さを
感じ取ることができる。この番組で、彼の逸話が印象に残った。「ある先生に、
人の真似をしないこと、と教わった。そのためには独自の世界を創り、それを
表現すること。独自の世界を創るには、はば広い教養が必要である」と教えられ、
痛感。それから宗教、哲学、歴史など幅広い分野にわたり猛勉強をした。
その裏づけがあるから、あのような絵が描けるのである。この齢になって幅広い
教養のベースが、その人なりであると、つくづくと感じ入ったため、なお納得。
先日、TVを通して400年前の画家・長谷川等伯の絵を見たが、その中にある
幽玄な世界に、等伯の魂を数百年の時空を超えて感じとれた。絵の中に彼の
独自の精神世界が全て込められている。独自の世界をつくり、その世界を表現
することが最も重要なこと。 そのために幅広い知性と教養が必要といわれると
納得できる。その結果、真・善・美という価値が自然に現れ出ることになる。 
経験、そして知性を裏づけとした教養を考えると、何か心寂しい己に寒気がする
此の頃。良い学校に行き、良い師に出会い、良い友人と語らう中で、
教養のベースができるということか。


5501, 愛と孤独 ~池田晶子の言葉 〜

2016年04月07日(木)

     『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著),  
  < 孤独の味わい方 >

   * 不自由なのは誰のせいか
《 人が、自分の自由に気づこうとしないのは、ほんとは自由なんか欲しく
 ないからである。ほんとのところは、自由になんかなりたくないのである。
なぜなら、自由になったら、何もかも自分でしなければならないから、
そのことをほんとは知っているからである。
生きるも死ぬも、私の自由だ
ああ素晴らしき哉、絶対自由、この絶対自由が、しかし人は深いところで
怖いのである。生きるも死ぬも自分の自由だなんてそんな怖い自由はイヤ、
それで、生きるも死ぬも考えるのも、社会やら国家やらにまかせて不自由と
言いつつ、じつは安心していたいのである。》    〜『残酷人生論』
 ☆ 自由とは「生き方の幅」で、その幅が大きいほど、より自由といえる。
自由は、「〜からの自由」と、「自らに由る選択肢の自由」がある。
むしろ、不自由の中にこそ自由を見出せることがある。羊は羊、囚人の不自由
の中の自由も、そこにある。所詮は、その人の妄想でしかないのが自由である。
一時なりとも解放された感動、感激の一瞬の自由の味わい、至高体験のそれ!
  * 他人の悪口が気になる人へ
《 人間には、自分の中の気になるものを、自分の外に見つけ出すという妙な
 癖があります。自分の中のそれが気になるからこそ、他人の中のそれが気に
なるのですね。よくあるでしょう、誰かの悪口を言っているその人が、
自分が悪口を言っているその人にそっくりだということが。つまり、人間は、
自分の中にあるものだけを他人の中に見る。裏返せば、人間は、自分の中にない
ものを、他人の中に見ることはできない。当然ですよね、だって、ないものは、
ないんだから。ないものは、気になるはずがないんだから。 》〜『人生は愉快』
 ☆ 時間薬の効果で言えることだが、5年前の会社清算の一連が、当事者と
しての内なる、記者としても目線でみえてきた現象の面白さは格別である。
プラモデルの趣味の人に、それが壊れたとて、喪失感は少ない。それは、
楽しんだ結果でしかないからだ。所詮、悪口とは、その人間そのものの影!

・・・・・・
5136,知の逆転 〜
2015年04月07日(火)
                ー知の逆転ー
  * 帝国主義の終わり ーB
            対談相手 〜ノーム。チョムスキー
 アメリカのいう核抑止は、実は「核支配」。核が存在する限り、遅かれ
早かれ核戦争は避けられない。キューバ危機、インド・パキスタン危機など、
非常に際どい瀬戸際に立たされたが、アメリカが考えているのは、「核抑止」
ではなく「核支配」。 前者が偽善で、後者が真実になる。
  ー真実と偽善ーの小テーマで、その本質を指摘する。
≪ ・・「真実を好んで偽善を嫌う」ということについてで、最初に
 あなたの政治的な視点というものに触れた折、自分の知っている世界が
 全く違って見えたショックをまだはっきりと覚えています。
 あなたのコメントからいくつか引用しますと、
・「偽善者とは自分に課す基準と他人に課す基準が違う人のことだ」、
・「エリート大学は最も従順な生徒を選択し、体制順応者を生産する」
・「東京裁判は単なる茶番だ」あるいはマーチン・ファン・クレフエルト
  (イスラエルの最右翼の軍事歴史家)を引用して、
・「イラクに何が起こったかを目撃したあとで、もしイランが核兵器を
 開発しないとしたら、彼らはまともじゃない」
・「アイゼンハワー、ケネディ、ブッシュ、レーガン、クリントン、みな
 ミロシェビッチやスハルトと同じ犯罪者だ」 
  そして、ちょうどバートランド・ラッセルが言ったように、
・「偏ったイデオロギーをくり返す代わりに、それを解体して真実を探し、
 真実を語りなさい」と。 ・・いつでも何が偽善でどこに真実があるか
 を、徹底して探ろうとするわけ・・ 
・オバマは言い方が上手なだけ。政権の政策は以前と少し変わったが、
 本質的には同じ。彼はまさに民主党中道派で、それに尽きるが、
 業績で目覚しいことは何もない。 ≫
▼ 米政府の冷戦後の戦略政策についての文章に「核兵器を維持することが
 重要である。非核保有国を含むあらゆる国に対し、核兵器使用優先権を
維持すべき」があると、チョムスキーが指摘。核保有で従来の兵器使用の
枠組みが決まってくると・・ だから、アフリカ、中東でも、非核武装地帯
を実現しないのは、アメリカが、阻止をしているため。 それは中東も、
南太平洋も同じ。アメリカの軍事費は、世界の他のそれを合計とほぼ同じで、
破壊能力と性能において、他の追随を許さず、世界中に700〜800の軍事基地
をもっているという。それも数十年もしないうちに、凋落が予測されている。
しかし、アメリカの負債(国債)は、主軸通貨国にとって幻想に過ぎない。
リーマンショックの前年度からドルの供給量が3倍になったが、ドル相場は
殆ど変わっていない。そして、世界中にばら撒いたドルをアメリカ国債と
交換すればよいだけ。それでは国債が暴落をするかといえば、してない。
 といえ、これまでの流れからして、数十年?は、そのまま流れるが、
その先は凋落をする。その時、いや、10年?もしないうち日本は?
・・・・・・
4771,ぼんやりの時間 ー4
2014年04月07日(月)
             「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
  * 「ぼんやり」と響き合う一文字 ー�
 響き合う一文字で、言葉の意味を考える方法もあるのだ。
そして、以下の5文字がよい。その最初が闇とは・・ 
闇は人を思索の世界に誘う。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子に
なっている状態なのか。 その5文字は
1、「闇」―蛍と星とダークマター
2、「独」―独りでいること
3、「閑」―逆茂木に囲まれて
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢
5、「懶」―心の余白 である。
   ☆ まずは「闇」から
《 消えてはまた光って飛びつづけている。お前さんは、眠るのを忘れて
 しまったのか、恋人が見つけられず、そうやってふらふらしていたのか、
いつまで舞いつづけるつもりなのか、とらちもないことを思って見守って
いるうちに、蛍の光はふっと消えた。力を出し尽くしてくたびれてしまった
のかもしれないし、劇的なめぐりあいがあったのかもしれない・・
崖の上に何本かの椎の木が闇につつまれている。その梢の間に光るものがあり、
一瞬、それもまた蛍かと思ったが、星だった。蛍の光とは違って、星の光は
ずっと小さく、冷たい感じだった。 夜空の闇の広さを見ながら、宇宙では
やはり闇が主役なのだという思いがわいた。ごく感覚的にいえば、
銀河の壮麗さは、澄みきった大気に包まれた闇があってはじめて私たちの
視界に入るのだろうし、月を見る楽しさも透明な闇の濃さに左右されるはず。
花火の豪華けん麗さをひきたてるのも真の闇で、真の闇を失えぱ、花火は
いくら塀を競っても人をひきつけない。蛍だって、闇があるからこそ光を
放つことの意味が出てくる。夜の景色の基調は、なんといっても闇なのだ。 
・・ いや、本音をいえば、私は光より闇、陽より陰、実よりも虚、
緊より緩、作為より無為、色よりも空などが、よほど、この世の仕組みを
つくっているのに大切な役割を果たしているはずと思っている。・・ 》
▼ ここで、宇宙を支配しているダークマター、ダークエネルギーを引合に
 だし、宇宙を本当の主役は暗黒物質とその エネルギーとして、考えると
闇の大切が、人生論で「ぼんやりのたいせつさが」が、重なりみえてくる。
そうである、もっともっとボ〜っとするべきである。
・・・・・・
4404, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −4
2013年04月07日(日)
  * 第三時限 いい加減にしなさい 
           ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 赤瀬川原平 
「遠き日は 年とるごとに 近くなり」 という句があるが、最近、特に
感じているのは私だけでないだろう。御隠居は日々この感慨を持ちながら
人生を振りかえ鳥瞰し、残された一日一日を噛み締め味わう楽しみがある。
隠居生活は娑婆(雑多な日常)から隠れることであって、人生からの御隠れ
ではない。起承転結の「転結」を「転々」に変え、転がりながら最期を
迎えること。 それもこれも、どうでもよいこと! ーその辺りを抜粋ー
≪ 天野: 力を抜いて自分をコントロールする上で、老人力は非常に重要な
 要素じゃないですか。前回のゲストの外山滋比古さんは、忘れるということ
 がいかに重要かという話をしてくれたんです。第二の人生で定年まで、
 一生懸命詰め込んだような知識は、第二の人生で自由に生きるというとき
 には何の役にも立たない。そんなものは、思いっきりきれいに忘れて
 しまったほうがいい、というふうに。
赤瀬川: いらないものを捨てたら、キャパが広がりますしね。
天野: そう。頭の容積は決まっているわけだから、サラ地にして、
 新しい作物をつくりましょうという話をしていただいてね。
 そのときにも赤瀬川さんの『老人力』のお話を思い出していたんです。
 老人は忘れっぽいということで世の中はいけないことのように思っている
 けれど、そうではないんだと。たとえば、若い人は失恋なんかしたら大変で、
 その苦しみや悲しみを忘れることができなくていつまでもメソメソ悩む。
 でも老人は「忘却力」を身につけているから、すぐに忘れてしまう。
赤瀬川: ええ、強い忘却力を持っていますね。
天野: そう、これまでマイナスイメージでしかなかった「忘れっぽさ」
 をそんな悪いもんじゃない、というふうに書かれていた。あの本は、
 ものすごいベストセラーになったけれども、どういうつもりで買ったので
 しょうね。老人はまだ社会に役に立つとでも思ったのでしょうね。実際は
 違うのに。・・ ボケたとかモウロクしたのが、老人力がついたとか
 ポジティブに書かれて悪い気がしないですよね。≫
▼ 「神様(自然)は、老いの苦悩苦痛を和らげるため、忘却と鈍感さを
 与えて下さった」という解釈がある。老いて今さら気ばんでも致しかたが
 ないし、運命に従うしかない。忘却といえば、この随想日記。書き上げ
 アップロードをした瞬間、内容は勿論、テーマすら綺麗さっぱり忘れて、
 頭は翌日のテーマと内容になる。直後から次回分の書き直しを始めるからだ。
 だから数時間後でも、その文に対し第三者になっている。この最大の収穫は、
 過去に書いた同月同日分12年分の文章に出会うこと。時空を超えた自分に
 毎朝出会うのも良いもの。また「(自)己の分」の限界も見えてくる。
 それを第三者に曝すのも自虐だが「所詮こんなもの」という諦観が出来る。
 「いい加減にしろ、先は短いのだから娑婆気を減らせ」ということ。
・・・・・・
4030, 一時停止  ー谷川俊太郎ー自選散文
2012年04月07日(土)
        「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
 図書館で借りてきたが、直ぐにアマゾンで購入した。谷川俊太郎の詩集や
特集の雑誌を何冊か、読んできた。その散文集なら面白くないわけがない。
谷川の詩も文章も、ストンと心に落ちて振動する。青年期に、谷川の著書を
読んでいたら、人生は変わってはず。 言葉を仕事にしている詩人の書いた
文章は、分かりやすい。読み手の目線を常に意識しているためだ。
  * 「青年という獣」1957年 ーより
≪・・生きているということと、生活しているということとの相違をもっとも
 てっと早やく云えば、前者を非人間的、後者を人間的と云って 差しつかい
ないだろうとぼくは思う。生きるとは、コスモスの中に生きることだが、生活
するとは、人間の社会の中に生きることだ。現代ではこの違いを理解する人は
少ない。下手をすると、コスモスなどという言葉は野暮な言葉で、悪くすると
危険な言葉にされかねない。青年は意識的、無意識的にかかわらず、これに
抗議する。青年は生きようとするものであって、生活しようとするのではない。
一見如何にソシアルに見える彼の行為も、その意味では本当にソシアルになり
得ないものだとぼくは思う。何故なら、人間以外のものになることを、いやいや
ながらでもあきらめてこそ、始めて人は人間になれるものだからだ。
人間は生活という唯一の現実によって人間になる。青年は生活以外のすべての
夢によって青年になる。青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を
喰って生きる位の非人間的な強さをもつていなければならぬ。
倦怠はおそかれはやかれ彼を襲うのだ。その前に彼の肉体がまだ新しいうちに、
青年は彼の役割を果さねばならぬ。ビリイ・ザ・キッドは若かつた。
彼は太陽や風や、残酷な青空や、愛らしい女を知つていた。彼はコスモスと
その中の生命に気づいていた。彼は人間や、その生活などを知りはしなかった。
彼が強かつたのはそのためだ。彼は死のもつ非人間的な意味だけに気づいていた。
死のもつ人間的な意味などに気をとられなかつた。彼の手が震えなかつたのは
そのためだ。そのためにこそ、彼は人間としても偉かった。彼は人間を代表して、
コスモスの真只中に立つてひるまなかつた。彼は人聞を殺すことで、
コスモスと戦った。 ≫
▼ 創業は、全く経験のない思い込みの未知の生命体を創り上げること。
 それは「生きる」分野にある。それは創業という獣的行為。生活のためで
あっても、それを創るには人間性を、普通の生活者の考えを、根こそぎ捨てて
かからなければならない。ここで、「青年は生活以外のすべての夢によって
青年になる。青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を喰って生きる
くらいの非人間的な強さをもつていなければならぬ。倦怠はおそかれはやかれ
彼を襲うのだ。その前に彼の肉体がまだ新しいうちに、青年は彼の役割を
果さねばならぬ。」とある。新たな事業を始めよう決心した瞬間から、非人間的
になる。獣にならなくては創業など不可能。何時の間に獣から普通の生活者に
なっていた。地元の生活者の中の創業は獣の姿を曝すことになる。 
本当の生活者になるのは、これから。 
  ・・・・・・
3664, 閑話小題
2011年04月07日(木)
  * 駅やSC内のATMが閉鎖は
 今だに駅やSC内のATMが節電を名目に閉鎖されたままである。
これは間接的、現金引き出しの窓口規制そのもの。支店、営業所内の
ATMは開かれているが数は僅か、不便そのもの。経済的側面からみたら、
大震災と原発事故全体を大地震とすると、大津波は本格的経済恐慌で襲いくる。
電力と節約の呼びかけは、消費を冷やす効果は充分にある。
  * スポーツクラブだけは盛況
 家内がスポーツクラブに10年以上も行っているので、同行してみた。
驚いたのは平日の午前に関わらず、中高年の人たちで満杯だったこと。
100人位に人たちがマシーンと共に無言でひたすら運動していたことである。
雰囲気は開放的で明るい。分かっていたら、前から通っていただろう。
「平日の10時から17時までの時間帯コース」の会費が大よそ6千円、
10〜22時のフルコースだと8千円。週に4日×4=16日が平均とすると、
一日400円〜500円。 施設からみてそう高い感じはしない。
それより、歩いて15分のところに、公営施設の中に、大きなジムがある。
これは、一回300円、3月で1800円。以前、入会しそうになったが、
止めたことがあった。早朝のウォーキングか、サイクリングをしていたが・・ 
 ・・・・・・・
3299,金融世界大戦 という捉え方
2010年04月07日(水)
 * 軍事戦争から金融戦争へ(兵器から債権へ)
 経済評論家の田中宇が「金融世界大戦」という造語で、現在の金融恐慌の本質
を説明している。さらに「金融兵器」という恐ろしい言葉が加わったのである。
これをアメリカ国内だけでなく、世界中に時限爆弾入り兵器という危ないやつ。 
何処かで爆発をすると、それは繋がっていて連鎖爆発をする危険なシロモノ。
「世界的な軍事戦争が出来なくなった代わりに、金融による世界覇権をめざした
米英が、破壊兵器=金融債権を武器に世界制覇を狙ったが、それが敢え無く破綻、
世界を恐慌に導いてしまった。一時、世界経済を米英を親とした「ねずみ講」
をつくり上げ、世界中のものを紙切れで買い漁っていた実態が崩壊した。 
これで世界中の貨幣制度の根底に大きなヒビが入ってしまった、しかし大元の
アメリカは破壊した金融機関やGMなどを国有化し、何とか体裁を保っている
ドルを注入し、立ち直りを図っている。詐欺師は元もとの金や資源を温存して
いるから、ドルや債権の価値を徹底的に下げてしまえば、傷は最小で済む。
しかし被害者は輪転機を持っているわけでない、その負債を負わされ国家破綻、
すなわちハイパーインフレで国民の金融財産の大部分が消滅する。
 世界の国々はアメリカの、こうしたネズミ講の危なさを知らずにアメリカ国債
や、アメリカの銀行が発行するCDOやCDSを見境なく買ってしまった。 
現在、各国が何とか金融破壊兵器を爆発させないように持ちこたえているが、
これも時間の問題。 ユーロ圏か、アメリカか、中国から、その爆発が始るのは
防ぐことは不可能である。 破壊兵器(債権)は、世界中にばら撒かれ、連鎖
して世界中を破壊する。それはデフレスパイラルから、ハイパーインフレへの
転換期に始る。日本はアメリカの金融占領国の悲哀を株価暴落か、(一時的な
円高の後?に)円安という形で日本を襲ってくる。「気がつきゃホームでゴロ寝」
で、IMFの管理国家として裸同然の国に落ちぶれることになる。アメリカは
第二次大戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、冷戦、ソ連の崩壊後は、アフガン、
イラク戦争と戦い続けている。ところがソ連が弱体化を始めた1980年頃から、
米英は軍事から金融戦争に軸を変え始めたのである。その一つがプラザ合意
から始る日本のバブルと、破綻である。(字数制限のためカット2012年4月7日)


5500,閑話小題 〜『男って、定年になったらいらないのよね!』〜③

2016年04月06日(水)

          『老いかたレッスン』渡辺淳一著 より
   * 70歳代、特に後半は、すざましい!
「70歳代、特に後半は、すざましい!」は、医師である著者からみて、私の
同世代からみて、充分に頷ける。 数ヶ月前に70歳代になって感じたことは、
「(3年を見据えた)一年単位でしか、人生計画を立てられない」という実感。
後方から迫ってきた己の死が、真正面から迫りくるような感覚は、やはり60歳代
とは、全く違う。 人生の峠から見えてきた風景も、寒々としてきた。 
  〜その辺りから〜  
≪ 六十代で運動して、体力をつけるのも悪くはないが、外に出てさまざまな
 人と触れ合い、話し合うのは、それ以上に明るく、若返らせるはずである。
 そして七十代、これはなってみて改めてわかるが、すさまじい世代である。
すさまじいとはなにか。これをあえて具体的にいうと、日々、確実に老いて
弱っていく年代、とでもいおうか。
 その前、六十代は老いるとはいえ、まだ鍛えようによっては伸びる、
強くなる余地もないわけではなかった。しかし、七十代はすべて下るだけ。
あれ、こんなことができなくなった、これも無理かと、不可能なことが増える
ばかり。といって、努力しても無駄。 かくして、ここからは「諦めの時代」、
老いてやがて死ぬ、そのための準備期間といえなくもない。
 こう書くと、人生の末期、暗いだけの時代、と思うかもしれないが、
そうともいいきれない。 このすべて終わりに向かって傾き出す、このときに、
とてつもない発想にとりつかれ、動き出すことがある。 たとえば、突然、
動物や植物に異様に熱中したり、今迄と全然、別の仕事に全力を注ぎこんだり、
激しい恋に溺れたり。
 七十代の高齢者とは思えぬ、激しい行為に熱中する人が少なくない。
そう、わたしも七十代後半になって、突然、自らの不能、インポテンツに
ついて書こうと、思いついたけど。これも、七十代の狂気かも。
賀寿のなかで、七十七歳を喜寿としているが、なにをやらかすか知れない、
狂寿としたらどうだろう。とにかく人生、長く生きてみるとそれなりに
妙味に富み、面白いものですよ。 ≫
▼ 夜半に目が覚めて、フッと自分の死を考えることがあるが、ここにきて、
 それが、リアルなフラッシュの塊と、生きてきた人生が小さな丸=(。)
に凝縮して、それが更に点(.)になり、無限の極小になり、消滅していく
イメージが出てくる。 そして我に返ると、その微小の人生が愛しく思える。
その点の中には、両親、亡くなった兄姉、因縁のあった知人たち、恩師が
リアルに生きている。そして行蔵が詰まっている。 我が人生、万歳。
我が両親、万歳。我が恩師、万歳。我が因縁在りし恩人たち、万歳。
残された人生に、万歳。 考えてみれば、『人生はそのものが狂寿』である。
「誰の?」「すべての!」 だったら、せめて心の底で、狂喜乱舞したら?
考えたことが無かった? なら、考えてみたら! 考えている? 本当に?
バカバカしい? バカになってみてから言ってみたら! で、『男はつらいよ』
を見たら!「泣いても笑っても、同じ空」。「狂っても正気でも、同じ空」。
「エライコッチャ、エライコッチャ、同じアフォなら踊らな、ソンソン」か。
それが面倒だから、ウタタネ寝をしている。それもありか! で、残された
時間を、どうしようか? うたた寝で、心の中で狂喜乱舞か、これまでの
人生で培った材料を駆使して、燃焼するか? それもこれも、今さらか。

・・・・・・
5135,知の逆転 〜�
2015年04月06日(月)
              ー知の逆転ー
   * 帝国主義の終わり ーA
             対談相手 〜ノーム。チョムスキー
  名前は聞いたことがあるが、成るほど面白く、鋭い。
 〜まず、チョムスキーの人なりと、学説から
≪・ノーム・チョムスキーは、プラトン、フロイト、聖書と並んで、最も引用
 回数の多い著者であり、「生きている人の中でおそらく最重要な知識人」
(ニューヨーク・タイムズ)と形容される、MITエ科大学の言語学教授にして、
哲学者、政治活動家。 著作は200冊を越え、50ヶ国語に翻訳。
・全ての言語にはその深層に共通する文法が存在し、そこからさまざまな表層
構造が生成されるのであり、人間は言語の基本文法を生得的器官として持って
生まれ、不十分なインプットで十分な言語能力が発揮されるような脳の仕組み
になっているとする。この「普遍文法」の提唱(1955年、57年)は、言語学分野に
革命をもたらした。
・1960年代のベトナム反戦演説を皮切りに、反戦、反暴力の姿勢を貫いて、
アメリカが「デモクラシーを広める」という名目のもとに行っている、自分の
言うことを聞く抑圧的な政府(チリのピノシエやニカラグアのコントラなど)を
支援して民主主義を阻止するというような他国への軍事ならびに経済介入は
テロリズムそのものだ。そのお先棒を担いでプロパガンダを煽っているのが
アメリカのマスメディアであり、特にエリートは常に提灯体制の提灯持ちに
なりやすいと、アメリカの覇権主義を厳しく批判する活動を続けている。
・また、広島と長崎への原爆投下は人類史上最もひどい犯罪の一つであると
明言すると同時に、第二次世界大戦における日本帝国主義の犯罪も厳しく糾弾。
・さらに、世界経済は多様化したほうがショックに強くなる一種の存続と同じ、
多様性を保つことが社会全体の体力を強くする。・・
・細々とした講演活動を地道に続けて少しずつ人々の目を事実に向けていき、
いまでは時代がチョムスキーに追いついてきて、講演は常に人があふれて、
世界中からのインタビュー依頼がひきもきらない。≫
▼ 「資本主義の将来は、市場原理主義だけでは必ず破綻するとし、民間
 ビジネスは、強い政府によって守られることを望んでいる。」という。
中国のような大国で、流砂の民といわれ、個人主義の強い人民の国では、
特に、中央の統制が強くなければ体制が維持できない。それは、アメリカの
市場経済主義も同じ。
・・・・・・
4770,ぼんやりの時間 ー3
2014年04月06日(日)
           「ぼんやりの時間」辰濃 和男(著) 
  * ぼんやりと過ごすために ―その時間と空間
次の問いかけー「むだな時間」はむだか?ーの問いが考えさせられる。 
  まずはーアマゾンのレビューよりー
《 ミヒャエル・エンデの傑作「モモ」の主人公は「ぼんやりしている時間」
 を大切にする少女だ。・・ エンデの作品は、時間泥棒の「灰色の紳士たち」
が、人々から「時間」を奪っていく物語だ。むだだと思われる時間を奪われた
人々の暮らしはどうなるか。それが「モモ」の主題だ。ぼやーっとしている
時間はそれこそ、むだそのものだ。効率至上主義者はそう言うだろう。
むだな時間を幾ら重ねても何の稼ぎにもならない。灰色の紳士たち、つまり
時間泥棒たちは、人々の心に忍び込んでは「むだな時間」を節約し、その分を
『時間貯蓄銀行』に預けなさい」と誘う。銀行に預けられた時間は、すべて
灰色の紳士たちが生存するために使われてしまう。いわば詐欺そのものなの
だが、人々は詐欺とは気がつかず、せっせとむだな時間を削っては、その分、
自分たちの生活を貧しくしてゆく。モモは何処からかふらりとその地にやって
きた少女だった。土地の人たちの好意で、古い円形劇場跡の一角に住まわせて
もらう。少女は、夜空を眺め、夜空の発する「荘厳なしずけさ」をひたすら
聴くのが好きだった。モモにとっては、このぼんやりの時間はけしてむだな
時間ではない。宇宙の静寂の中で時を過ごすと言うのは、モモがモモらしく
生きるための、大切な時間だった。夜空を眺める時間を持つことで、モモは
「荘厳なしずけさ」を感ずることが出来たし、何よりもそういう時間を持つ
ことで、曇りのない目を持つことが出来、灰色の紳士たちのインチキを見破る
ことが出来るのだった。かなしいことに、私たち現代人は、夜空をしみじみと
仰ぐ習性からしだいに遠ざかっている。利潤、効率、管理、豪華さ、スピード
とか、そういうものを生活の拠所とする人々が増え、夜空を眺めるなんて
無駄なことだ、と思う人が増えてきた。しかし、そのむだは本当にむだなこと
なのか。そういうむだがあるからこそ、生活はむしろ、ゆたかなものになって
いるのではないかとエンデは問いかける。》
▼「モモ」の時間が、何か日本人の預金のように感じられる。それを狙った
 偽札が、米国と日本の国債の紙切れ。国内に不安を押し付け、さほど多く
ない収入から、年金をかけさせ、預金をさせ、それと国債を交換するシステム。
その国債の価値の上げ下げの決定権も当然、彼らが持っている。金融工学など
の言葉は詐欺工学と言い換えてよい。おちおちしていると全てを失ってしまう。
豊かさには、お金など資産と、知識と、品性と、時間などがある。
その中で、一番に大事なことが、それぞれ平等に与えられた時間である。
だから、ぼんやりすべきか?、ぼんやりしてないで、有効に使うか? 
その人により違ってくる。ぼんやりの時間は、自然瞑想に近い心の状態では
ないか。『よく働き、よく学び、よく遊べ、しかし時どき、ボ〜ッとした
時間を持って、それを味わいなさい!』ということ。
・・・・・・
4403, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −3
2013年04月06日(土)
        『 隠居大学ーよく遊びよく遊べ 』天野祐吉、お相手
* 第二時限 「ゆっくり急げ」 外山滋比古講師
   ー人生二毛作の進めー
 二期作と二毛作の違い、「二毛作は、ひとつの耕地で、一年で種類のちがう
作物を二度栽培すること。二期作は同じ作物を二度栽培をすること。
人生においては、二毛作をすべし!」と、「ゆっくり急げ」が御隠居の要。
 そのために、これまた長年かけた準備が必要になる。土壌は今さら変える
ことは無理。ならば移住するか、その土壌に合った新しい作物を長年かけて
用意しておかなければならない。  ーその辺りを抜粋するー
≪ 外山:わたしもそうですが、長いこと組織の従業員をやってきた
 サラリーマンの場合はですね、それまでの価値観を、いっぺんひっくり
返さないといけません。前半の人生ではだれかに仕えていた人も、後半の人生
は自分が自分の大将になり、自力で道を歩むための新しい志をかかげなければ。
そういう意味で、この隠居大学というのは、たいへん面白い試みですね。
天野:あまり実践的でない大学ですが、気楽におしゃべりで、いろいろな
隠居の楽しみ方を紹介する遊び場になればいいと思っているんですよ。
ところで、外山さんの『「人生二毛作」のすすめ』、すごく面白く読ませて
もらいました。二毛作っていうのは、ひとつの耕地で、種類のちがう作物を
二度栽培することですよね。たとえば、春から夏にかけて稲をつくったら、
二回目は大豆や麦なんかをつくる心つまり隠居の楽しみというのは二毛作目の
ようなものであって、前半の人生と同じものをつくったんじゃ面白みがないと。
外山:そうそう。人生も折り返し地点に来ると、価値観というものがおおむね
 逆になります。そもそも、前半で立てた志というのは、学校出て就職したら
ある程度の方向が決まってしまうようないいかげんな志です。わたし自身も
そうでしたが、いちどエスカレしターに乗ったら、自分の力で歩かなくても
成長しているような気になって、それでは本当に生きてきたといえるかどうか。
天野:もし二毛作にチャレンジしなかったら、どうなるんでしょう。二期作と
 いうのかな。前半の人生と同じものをつくる。たとえば、定年を迎えたけれど、
嘱託社員として会社に残って、空いた時間で好きなことをするというような・・
世の中には、そういう隠居スタイルの人もいると思うんですけど。 
外山:いや、それはエセ隠居です。高級官僚の天下りがいい例です。二毛作目
 をやるのは面倒くさいし、自信がないから、とにかく一毛作の延長で行こう
としがみつく。そんな甘い考えではいい年寄りになれません。といってもわたし
もね、少々まわり道をしたんですよ。大学で教師をしていたんですが、最初の
勤め先を定年退職後、もう一度別の学校に勤めに出たが、がよくなかった。≫
▼ 私の長年の友人は、ほぼ二毛作の人生を過ごし三毛作の人もいる。
 転進すべき節目時に決断している。情報を持っていたのである。逆に一毛作
でハッピーエンドだったら、小さな畑で隣の田畑と比べるだけの水平の人生も、
それもご愛嬌。 価値観の転換など関係のないのも、これも人生。
死んで三日も経てば、みな同じ。あるのは?永遠の虚空だけ!
・・・・・・
4029, 「人生の知恵」ノート ー2
2012年04月06日(金)
     ー 品格と、自分を高める言葉のノートより ー
  * 情報や知識が少ない場面では
「何をするにしても、勝手が分からないこをやる時は安全な方を選ぼう。
手堅いことは独創であることよりも大切である。」これも人生を振り返ると、
骨身に感じること。情報不足の時は、奇をてらえば、必ず失敗をする。
  * あえて敵をほめること
 敵を褒め、親切にすること。特に復讐のチャンスの時ほど、逆に寛容に
すべき。その品格が求心力を生む。ボクシングの勝者は観客を意識し敗者に
対し、「良い選手だ」と必ず褒め称える。ファン対策のためだ。
 人生は、闘争である。まともに生きていれば、罵られ、足を引っ張られる。
しかし、決して愚弄してはならない。憎い相手ほど、冷静に褒める。
それが品格を高めることになり、敵を少なくし、求心力を生む。
  * 放っておく術を知る
 人間関係の諸問題は、さまざまな感情の暴風雨を引き起こす。そんな時、
港に退避し、碇(怒り)を下ろして乗り切ること。殆んど時間が解決する。
複雑な問題を解決できるのは「時間」か、強い権力だけと知るべき。
「低俗の人たちが起こす問題の嵐を静めるには、何も手を出さず、自然に
収まるのを待つこと。一度、退くことがベスト。
  * 見かけも重視すべし
 信用は金を出しても買えないが、外見は僅かな投資で整えられる。 
正義でさえ、正義に見えなければ、それにふさわしい敬意を受けられない。
きちっと見抜ける人は、見かけで騙される人よりずっと少ない。清潔な服装
を着るだけでなく、時計も靴にも高級感のあるものを選んで、いつも磨きを
かけることが必要。話す言葉も、少し保守的に、謙虚さを装うべきである。
第一印象は僅かな投資で良くすることができる。それが信用の土台になる。
  * 感情の波を乗り越える
 感情は、常に理性を踏み越える。常に冷静な態度を保てる賢明な仲介者を
間に入れれば良い。激情にかられたらその場を離れる。
  * 失うもののない人と争わない
 人物を選ぶこと。危ない人は、いつの間にか悪い情報のタネにする。 
  * 言葉はやわらかく、態度はやさしく
「言葉を使えばたいていのものは買うことができ、不可能を可能にできる」
言葉の力と恐ろしさを知って、用心深く、やさしく使うことが、品格を作る。
▼ このブログの公開が恐くなってきた。「本当のことは休み休みに言え」
 が、社会。この箴言は現在の私への諌めの内容ばかり・・
・・・・・・・
3663, 9・11、9・15、それをしのぐ3・15 −2
2011年04月06日(水)
 この大震災と原発事故の3・11が、9・11と9・15を超える歴史的事件の仮説
の上で、この今後の行末を考えてみる。それだけ大きな事象なら、これから
生じる問題は想像するだけで恐ろしい。
 * 9・11の結果、アメリカのアフガンへの攻撃、イラクのフセインへの
 攻撃で数十万人を殺害し、新しい政権を確立をした。このテロは、白
(白人系宗教)対、赤(アラブ系イスラム教)の対立が表面化した事件で、
 文明の衝突である。
* 9・15は米英の金融支配の崩壊であり、世界経済を根底から破壊を始めた
 ばかり、それだけでない500年の欧米的価値観を根底から変える歴史的
 大転換の大事件である。。
* これに対し3・11は、東北の太平洋岸で100年来の最大規模の地震と大津波
 が発生し、沿岸の原発に直撃。その結果、放射能汚染が日本の国そのものを
 崩壊するかどうかの瀬戸際に陥っている。その上に、世界に汚染を拡大させる
 可能性もある。 さらに世界の原発推進の流れを根底から変えようとしている。
 事実には、真実と虚偽が混ざる。TVで「風評に気をつけて下さい!」と、
 政府筋がコマーシャルを流している。
しかし政府の流してきた情報こそが虚偽?で信用ならないことを国民は熟知
している。 ネットで、政府より国民の方が情報を素早く得ているのである。
政府が「原発は絶対大丈夫!」といい続け、それを信じてきた純朴の住民が
最大の被害者。あの歴代の保守系の政治家と官僚の連中に騙された結果が、
この様である。それを今さら「風評に気をつけてくだい!」といわれても、
誰が信じるかである。 地震発生と原発事故の発生して数日後に「本州全滅!」
と、ある筋から聞いたときは、それでも心の何処かで「まさかだろう」
と思っていた。しかし日々刻々、入ってくるニュースを見ていると、
「もしかしたら?」でなく、その仮説?の上で、原発事故の行き着く先を
考えなければならない。「首都圏の官僚の子弟は、遠くの親戚に疎開を始めて
いる」とかが、決して風評で軽々しい、とは思えない事態。「外国人が、早々、
列をなして国外に逃亡した行為と、大多数の人たちが、風評として見逃している
情報の方が正しい」という仮説を立てて自分の中で立てておくべきである。 
  私たちの年代は、充分生きたが、若い人、子供は気の毒である!
 ・・・・・・・
3298, 一年の重み
 2010年04月06日(火)
図書館で小林正観の「人生を楽しむための30法則」を見つけ借りてきた。
例の「ありがとう」教の本を書いた人。それで一番ありがたかったのは、
彼だろう。それはいいとして、何げなく目を通していると、以下のような
面白い内容があった。(字数制限のためカット 2012年4月6日)


5499,閑話小題 〜『男って、定年になったらいらないのよね!』〜②

2016年04月05日(火)

            『老いかたレッスン』渡辺淳一著 より
   * 出かけようにも、何処に? 
 『男って、定年になったらいらないのよね!』 リタイア後に、
こんな言葉を投げかけられたら夫は、グサッとくる。これに近い言葉を
週一は投げかけられているが、長年かけられたら生きる気力がなくなる。
 著者は私より12歳年上。この本を発行した2年後に80歳で亡くなった。
私にとって、70歳代を生きる道標のような内容。75歳からの後期高齢期は、
右下がり一方で厳しいらしい。 教訓として、『あと5年間、捨身で生きろ!』
  〜世田谷区内の高齢者10万人のデーターによると、
・65歳以上の高齢者の4人に3人は、自宅内から一歩も外に出ない。
・近所付き合いは、「ほとんど付き合いがない」「挨拶をする程度」が6割弱。
都会の高齢者、特に男性は家に篭りきりで、外には滅多に出かけないため、
急速にボケるらしい。外に出かけようとしても、何処に行っていいか分からない
上に、手持ちの金が少なく、足腰が痛んだりして外出が億劫になる。
 それに比べ女性のキャリアが長いため、日々を楽しんでいる。
 ここで、著者は妻の禁句として、『どこかに出かけたら』の言葉。
これを言われると、すべての夫は居たたまらなくなり、「うるさい!」と、
言いたいが、その気力もなくなり、それが痴呆化を促す。だから、人生設計に
ライフワークを長年かけてつくっておく必要がある。 そこで、『自伝』の作成
を勧める。誰のための自叙伝でなく、自分のための自叙伝と割切ってしまえば、
過去の思い出は、次々と湧き出てくる。
 独立独歩で生きてきたので、リタイア以後の生活に全く戸惑うことはないし、
部下を介して何かをするのより、一長一短があっても、自分の手足でする方が、
物事がはかどる。 以前から実行してストレス解消になっているのが、週一の
酒とツマミと飲料の買い物。買物症候群という精神質症があるが、私のは小さな
ストレス解消。それと嫌なことがあった時の「百均」の買物。一時間で、7〜8個も
買えば、心が晴れる。  高齢期は特に、
『おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり』の高杉晋作
の言葉のように生きるしかない。 目を凝らすと、面白いこと、楽しいこと、知りたい
ことが、あまりに多い。 如何に馬鹿の壁のため、それに気づかなかった? か。
 「犬も歩けば 棒にあたる」と、成るほど、昔の人は良いことをいった。

・・・・・・
5134,知の逆転 〜文明の崩壊 
2015年04月05日(日)
   ー知の逆転ー 対談相手 〜ジャレド・ダイアモンド
  *  文明の崩壊                
 ― まずは、『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンド ―
 条件と原因は、ほぼ同じ。環境条件が、そのまま、文明や、人間そのものに
当てはまるだけ。人生に意味など求めるなど愚の骨頂、条件次第でしかない。 
現実世界の上に、ネット社会が出来上がり、グローバル化が進んでしまった
世界は根底から激変している!しかし、一般は、その辺りの認識が甘い!
  〜その幾つか抜粋してみる
・西欧の発展は、そこに住む民族が他より優れていたわけでなく、たまたま地の
 利がよかったことと、農業を可能にする動物・植物が、その地域にまとまって
 生息していただけのことであり、文明はわずかな決断の誤りでもろくも崩壊
 すると見抜いてみせた。要は、地理的条件が文明の発展を決めていた。
・現在のように消費量の格差がある限り、世界は不安定なまま。だから 安定
 した世界が生まれるためには、生活水準がほぼ均一に向かう必要がある。
 たとえば日本がモザンビークよりも100倍も豊かな国であるということが
 なくなり、全体の消費量が現在より下がる必要がある。(p30) ・・(略)
 国家間格差がある限り、紛争は無くならない。ということは、国際紛争は
 永遠に続いていく。概していうと、欧米と日本の生活水準は下がっていき、
 中国、インド、アフリカ、南アメリカの生活水準は上がる。
・たとえば日本は三分の二が森林に覆われているが、使われている材木は輸入
 されたもの。その意味で、日本は結果として森林資源を守っている。(p33)
・人類が成功をしたのは言語のせいと考えられる。言語を獲得すれば、発明も、
 思索も、道具を作り出すことも、知識を後世に伝えることができる。
 だから、直立歩行と脳の肥大化に加えて、人間の言語の発達が、人間進化上、
 最も重要なステップだったのでしょう。(p38)
・「人生の意味」というのを問うことに、何の意味も見出しません。
 人生というのは、星や岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在すると
 いうだけのことであって、意味というのを持ち合わせていない。(p56)
・アメリカの産業のリーダーたちが環境に関心を示すようになる大きな理由の
 一つは、彼らの12歳の娘や息子が、パパやママが会社でいったいどんなことを
 しているのか、環境のために会社は何をしているのかを聞いたときに、CEOが
 「環境問題なんて取るにたらない、あんなのはデタラメだ」などと一蹴しよう
 ものなら、「パパ(ママ)大嫌い、サイテー、二度と口をききたくない!」と
 大泣されてしまいます。これが実は、信じられないくらい効果的です。(p59)
・大よそ5500年前に初めて大社会が出現するまで、世界の全ての社会は、
 小さなものでした。過去700万年にわたる、われわれの社会の進化の過程を
 考えるうえでは、小さな社会が最も適したモデルだと思います。大社会は、
 ここ数千年で出現したもので、ごく新しいまとまりであるからです。(p61)
▼ 『銃・病原菌・鉄』の、銃はテクノロジー、病原菌は家畜化された動物から
 移った細菌によって免疫力がついて、新大陸征服時に、この3つが威力を発揮
した。ここで、宗教は支配階級を維持するための強力な道具であったと指摘。
支配するものには、これほど都合の良いものはない。天皇制も一種の宗教制度。
島国での統治には必然だったかも? そのミニ化したのが世間様、娑婆(O皿O;)。
・・・・・・
4769,閑話小題 ー高速道路のサービスエリアで高額品が売れる訳
2014年04月05日(土)
    * 高速道路のサービスエリアで高額品が売れる訳
 先日のTVで、「何故、高速道路のサービスエリアで高額品が売れる?」
をテーマにしていた。これは長距離移動で車中に束縛された反動で、ストレス
を発散しようとする無意識のはたらき?を二組の男女学生5人で試みるもの。 
まず一組目に郊外で散歩させ、その後、寿司屋で自前で、寿司の松竹梅を注文
させたところ、一人だけが松を選び、他の4人は竹と梅を選んでいた。
もう一組には、目だけ空いた仮面を被って同じように散歩をさせ、同じ寿司屋
で注文をさせたところ、全員が松を注文をしていた。この結果、ストレスが
高額品を選ばせる証明と結論づけていた。10年ほど前の話だが、新潟の、
ある親睦会で、知人が大きは手術後、暫くし出席をしたおりに、「退院して、
何が無性にしたくなったか、分かりますか?」と、全員に問いかけてきた。
「驚いたのは、買物!とにかく何か買いたくなる衝動には、驚いた」と。
成るほど、ストレス解消には買物が良いようだ。女無頼作家の中村うさぎは、
重度の買物症候群をネタをエッセイ風に書いている。殆どが買ったままの袋詰
状態で、家に置いたままと宣う。 それが高額のブランド品のため、借金地獄。
その実録の迫力の吸引力はすざましい。以前からムシャクシャすると、スーパー
か、百円ショップで買物をするが、お陰で机周りと居間は、得体の知れない
小物が溢れている。成るほど、百均はミニ・レジャーランドである。
   * ローリングストーンに苔ははえない
「転がる石には苔が生えぬ」とは、同じ場所にとどまらない石には、苔も
生えない事象を肯定的にとられている。私は今まで、頭も身体を動かしていれば
病にならないなど、マイナスにとらえていた。 本来は英国の諺で
「A rolling stone gathers no moss.」で、「職業や住まいを転々とする人は
成功できない」という意味で使われるが、米国では「活動的にいつも動き回って
いる人は能力を錆びつかせない」という意味で用いられる。 この違いは、
イギリスは保守的、アメリカは改革的な考え方をするためである。類義語では、
「度々植えかえる木は根が張らない/使っている鍬は光る/転石苔を生ぜず/
流れる水は腐らず」などある。30年前からは、身体と脳をフル回転させて、
ウツ病とか、ガンの予防対策にしていたが・・ 
・・・・・・
4402, 自分の世界の自覚  ー世界内存在
2013年04月05日(金)
  * 象の皮膚の皺につく寄生虫  「知的余生の方法」渡部昇一
10年位前に、何か哲学書の中で、象の皺を全世界、そこにつく寄生虫を
人に喩えた「世界内存在」の説を知った。寄生虫は、全体の象の姿を知ること
が出来ない。だから旅行や小説などで時空を超えて象の皺から出てみないと・・
この随想日記でも度々、世間とかいう枠組の批判に、この喩えを使ってきた。
 ーその出所が、ここに詳しくあった。 
≪ 象の皮膚の皺につく寄生虫は、自分がくっついているその皺だけが
 自分の全世界で、象がどのような形をしている動物かも知らないー
というようなことを言ったのは仏の哲学者ルコン・デュ・ニュイユイ。
このように虫の立場から見る世界とか、鳥の立場から見る世界とか、人間以外
の動物の目から見る世界という「視点の転換」を教えたのはJ・J・ユクスキュル
というドイツの動物学者。哲学史でどう取り扱われているか詳しくは知らないが、
人間の思考法を大転換させる業績だと思う。・・・(略)
 ここから類推すると「人間は世界内存在である」という場合の「世界」は、
人間の五官が認知できる世界ということになる。縦、横、深さの他に時間を
入れてもせいぜい四次元の世界である。五次元や六次元の世界がどのような
ものであるかは想像もつかない。音も光も人間が五官で羅できる周波数の範囲は
限られている。それは象の皮膚の皺の中の寄生虫には星が存在せず、梅の香りが
存在しないようなものでないか。人間は五官の世界内に閉じ込められている。
これから逃れる方法がない。この状況を「人間の世界内脱出不可能性」という
らしい。・・・(略) 人間は、象の皮膚の皺の中に住む寄生虫とは違う。
人間は自分が五官の世界内に存在していることを知りながら、そこから脱出
しようという努力をしたり、脱出することを祈ったりするからである。
そしてそれに成功している人もあると主張する人もいる。それがオカルト。
オカルトとは、つまり五官と時間の囲い込みを超越しているという意味である。
どの宗教の神様も人間の世界内に閉じ込められてはいない存在だ。だから
有難いのである。神様とはいかないまでも、超能力があるという人もある。
ある宗教家には私の前世がわかるという。私の霊魂は在原業平とベンジャミン・
フランクリンのそれだったという。二人とも私が好きな人であり尊敬する人でも
あるから悪い気はしないので、それを信ずるわけでないが、有難く承っている。
こういう認識の仕方は、人間の世界内存在の状況を完全に超越している
普通の人間は、解剖学的制限の下にある。これが哲学的に言えば「世界内存在」
の実体である。だから解剖学者はオカルトの世界を認めない人が多い。人間は
いくら解剖をし、すぐれた顕微鏡や検査法を用いても、その存在は認めらない。≫
▼ カントが同じようなことをいっていた。人は5感の範囲でしか、経験の
 範囲内でしか認識できない。認識できた範囲を、対象に貼り付けているだけ。
「知っている範囲しか、知り得ない!」当たり前のことだが。これが自覚
できないのが問題。カナダのロッキー、テーブルマウンテン、ケニアの大草原、
カラコルムハイウェーなどなど、どれもこれも、想像を遥かに超えた世界。
問題は、帰国し日常に帰った時、象の皺の世界が逆照射し、元に戻れないこと。
・・・・・・
4028, シングルイン、31年間の総括 ー8
2012年04月05日(木)
   * 3・4の法則
 あるコンサルタントの先生から教わった「へ」の字の「3・4の法則」。
「上手くいった新店でも、そのままだと3年上りで、下り4年になる。
4年目から右上がりを続けるためには、二年から新たなへの字=革新を
つくり続けないと4年目から下りに入り7年で死に体になる。この法則から
すると、ホテルの場合は長期物件もあり12年上りで、下り18年とみると、
確かに、その通り。 事業とは時流の先取りを事業化をしてバブリ、最盛期
から空気の抜けたように萎んでいくのが自然の姿。新潟駅前シリーズの事業も
創業10年目にソ連・東欧の崩壊と、日本経済のバブルが崩壊した。
それからするとバブル崩壊の数年以内にホテル事業を売却すべきだった? 
終戦直後に生まれ、右上がりの時代に少年・青年期を過ごした体質からして
無理か。 バブル崩壊が日本にとって、衰退期へ大断層だったのを読みとく
ことが出来なかったのである。偉そうに書いているが、これが私の限界。 
バブル崩壊時に郊外型ビジネスホテルを考えたが、実際は、駅前の280室を
500室に増加の戦略ミスの選択をした。 それが18年の下り坂の節目。 
1985年のプラザ合意で米国にバブル政策を強いられ、その結果のバブル
崩壊で日本は致命的打撃を受けた上に、2001年の9・11テロと、
2008年のリーマンショックである。私の事業も日本経済と全く同じ運命を
推移してきた。 人生も7年か8年で一節。 前半上りで、後半下りである。 
その辺りを人生計画に嵌め込めば良いが・・ 女が7年、男8年というが、
振り返ると、大方あてはまる。同じ体質を保つに不断の改革が必要というのが、
「3・4の法則」だが、失敗するには、それなりの理由がある。
・・・・・・
3662, 閑話小題
2011年04月05日(火)
  * 大相撲の八百長処分
 大相撲の八百長処分が発表され、23人の力士と親方が事実上、角界から追求。
幕内6人、十両9人というから、影響は大きい。私が知る限り現親方も含めて9割
が日常的に八百長が行われていたみるのが順当。 「今さら何が八百長?、
何で自分だけが」と追放された力士は合点がいかないのは当然のこと。
まだまだもめるはず。日本的談合社会の縮図が、そのまま現れた事件。 
結果からいうと、情報化が、それを許されなっていたことを察知して談合
システムを変えるべきだったが、伝統を重んじる古い体質が、それについて
いけなかったことになる。今後も大相撲が続く限り、この問題は続くはず。
伝統芸能の一環として、目くじらを立てすぎるのも問題あり。
  * 都知事選挙TV討論をみて
 日曜の朝7時半の「新報道2001」をみて、現知事と他候補のレベル差に驚いた。
一同に集め議論をさせると、その差異から、それぞれの質が見えてくる。 
石原慎太郎が良いということでなく、他が東京都知事としての素質がないのが、
議論の中身から感じ取ることができた。恐らく、石原がたたなかったら、
あの方々の一人が、選出されると都政は滅茶苦茶になると危機感を持った
フィクサーが、石原の引退をとどめたのだろう。この大震災の中で、他の誰に
都政が任せられるというのか? 一応、日本の首都の首長を考えると・・・
・・・・・・
3297, 不思議現象の正体を見破る ー2
2010年04月05日(月)
 * 手品師 ユリゲラーの超能力
 ユリゲラーも、当時からマスコミに、その正体が暴露されていた。
それは後として、イスラエルのユリの経歴に興味をそそられた。
1946年12月30日、テルアビブに生まれた。少年期に両親が離婚、キブツに
入れられ、色いろあって、15歳でスパイ組織に加わり2年間の訓練を受ける。
そして21歳の1967年にイスラエル兵として第三次中東戦争に従軍し、
戦場で負傷してリハビリのキャンプに送られて療養生活に入るが、そこで、
シュトラング(通称シュト)と知り合い、本格的なマジックの練習を取り組み、
初めは友人の誕生パーティーなどで演じていたが、後には、クラブのショーなど
に出るようになる。得意な演目は「ツゥー・パースン・テレパシー」と呼ばれる
もので、目隠しをしたユリ・ゲラーに悟られぬように一人の観客が黒板に数字を
書き、全員が確認したところで跡形もなく消してしまう。すると、ユリ・ゲラー
がおもむろに目隠しを外して、観客に数字のイメージを念じるように要請する。
つまり観客が念波をユリ・ゲラーがとらえて当てようというわけ。そこで、客に
念じ方が足りないとか、色いろけしかける。やがて、おもむろに「5でしょう」
などと、当てる。 何とことはない、観客席に居るシピが「はなを触ったらと
いった暗号に基づいて信号を送っていただけの話。あまりに単純のため劇場の
支配人にまで見破られたが、それでも止めようとしないので、裁判沙汰まで
なっている。 有罪の判決で、営業停止になったが、今度はアメリカから
プハーリクなる超心理学者がきて、ユリのショーを見て「超能力」と信じ込んで
しまった。 さあ、これが大変な切っ掛けとなった。 彼はユリをアメリカに
連れ帰って、スタンフォード研究所でテストを受けたが、これが、いかに杜撰
だったようである。相棒のシュトが、明らかに巧妙に信号を送ったかが、
その結果からして窺える。 その実験は中途半端で中止された。
 しばらくはスプーン曲げなどで世間を、アッといわせたが、アメリカの
TV局も考え始めた。プロのマジシャンと相談してカメラ・ワークを緻密に設定、
ユリ・ゲラーの側にマジシャンを監視役に立てたところ、彼の売り物の超能力は
全く起きなかった。これは英国と同じ結果となった。 ユリは成功すると、
サスガ超能力者、失敗すると、体調次第で念の集中が上手くいかないこともある、
とされるようになった。 アバタもエクボである。ユリが1974年に日本に上陸、
TVに出演した。(私も、その番組を見ていたが・・)まずはスプーン曲げで
仰天させた。当時のマジックにはスプーン曲げなどの演目がなかったので、
日本人もすっかり騙された。 その後、日本の少年Sも、その超能力があると、
一世を風靡したが、後に週刊誌のストロボ撮影を通じて、トリックが暴かれた。
何とことはない、投げる瞬間にスプーンを絨毯に押し当てて曲げてから
投げていたのである。 ー つづく


5498,閑話小題 〜『男って、定年になったらいらないのよね!』〜①

2016年04月04日(月)

           『老いかたレッスン』渡辺淳一著 より
   * 産業廃棄物の末路
 第二の人生の準備のない人の末路は哀れである。
この言葉は、著者の淳一が、老後の生き方の講演で、聞こえてきた言葉。
リタイア後、邪魔者扱いされている団塊世代の夫に対する、奥方の、
『男って、定年になったらいらないのよね!』が、耳に聞こえてくるようだ。
私自身が、その一人だからこそ身にしみる。ただ、少し離れた仏間に、書斎・
兼パソコン・コーナーをつくって棲み分けて、何とかバランスがとれている。 
また日中は、互いに違ったスポーツ・ジムや図書館に行ったり、別行動が多く、
それで丁度良い間隔が出来ている。 一般的に、夫は妻より7〜8年も早死に
するが、これも長年の仕事からくる磨耗の結果。
 雄ライオンも、支配下の群れを、何時か、より強いのに敗れて乗っ取られた
後は、離れライオンとしての野垂れ死が待っている。先日、旅行帰り立寄った
居酒屋で、何処かのOBらしきグループ7〜8人が、不在の元同僚の悪口が、
襖を隔て聞こえてきた。退職後も、会社の首輪と紐を付けたまま集まって、
昔の傷口を舐めあっている姿が、痛ましい、というより何とも哀れ。
定年後の寂しさを紛らしているようだが、せっかく解放されて、自由を謳歌
できるのに、今さら何だろう? 飼い主の家が全世界で、それも仕方がない
といえば、ないが。 こういう人が、四六時中、家でゴロゴロしていたら
連れあいは、地獄。そういう私も大同小異。 それでも一日単位では、
スポーツジム、図書館、早朝の一時間のミニ・サイクリングに。週単位で、
シネマと、月単位では、何処かの飲み会に。年単位は、家内の鞄持ちの旅行と、
何とかバランスを保っているだけ。
 一般的に、夫が驚くのが妻の外出の多様さという。何せ、長年の主婦歴と、
横に繋がる人間関係が幅が違う。『あの人は、息子の小学校時代の友達の母親
で気が合うの』とか、『今日は大学の同郷OB会の幹事の打ち合わせ』とか、
地元密着型。 ところが、男は縦社会の他動型ロボットで、指示をされないと、
動けない。 「自由の不自由」で、自失呆然。 家に篭るが、妻から家から、
追い出されて、午前は図書館か、公設のSJ辺り。午後からはSCのベンチで、
人通りを眺める日々。これが慣れると悪くないらしい。
そこで、小遣い格差と教養格差がシリアスに出てくる。   ーつづく
   
・・・・・・
5133,知の逆転 〜①
2015年04月04日(土)
   「知の逆転」〜ジャレド・ダイアモンド , ノーム・チョムスキー&他
 * まずは概要から
                〜 内容(アマゾンより)
< 「二重らせん」構造を解明したワトソン、「普遍文法」を提唱し言語学に
革命をもたらしたチョムスキー…限りなく真実を追い求め、学問の常識を逆転
させた叡智6人。彼らはいま、人類の未来をどう予見しているのか。
「科学に何ができる?」「人工知能の可能性は?」「情報社会のゆくえは?」
 ―現代最高の知性が最も知りたいテーマについて語る興奮の書。>
  〜ビュアーの書込みが、概要を簡潔に言い表している。
《 本書は、元NHKのディレクターのサイエンスライターによる、知の巨人たち
への質の高いインタビュー集だが、ピックアップされた知の巨人たちが豪華。 
・名著『銃・病原菌・鉄』の著者ジャレド・ダイアモンド。
・生成文法理論で言語学・哲学にパラダイムシフトを起したノーム・チョムスキー。
・映画にもなった『レナードの朝』の著者・神経学者のオリバー・サックス、
・人工知能の父と称されるマービン・ミンスキー、
・アカマイ創業者・数学者のトム・レイトン、
・DNAの二重らせん構造を明らかにしたノーベル賞のジェームズ・ワトソン。
 インタビュー集なので、個々の情報はそれほど深くはないが、それでも、
知の巨人たちによるこの世界の解釈には、何度もうならされました。・・(略)
 文学も音楽も芸術も、思い込みと想像と誤解に支えられてきたけれど、
たくさんの情報がそれぞれ本来の姿をよく映し出すようになると、思い込みと
想像と誤解が減った分、それらの世界が必要以上に大きく見えることもなく
なってしまった。中東紛争はじめ、インターネットを通して世界中の様々な
人間の生きざまを目のあたりにすると、この生は仮のもの、この世にあるもの
全ては悲しいものという、『方丈記』の意識が、時代精神となってくる。
いきおい深いかかわりを避け、食べるものも着るものも住む処も、そして人に
さえ、こだわりを持つことを避けるようになる。生物として自分をアピールする
ために、他の人間と少しは違っていたいけれど、こだわるほどの、つきつめる
ほどのことはない、とー。潤沢な情報は、かくしてロマンを奪い去りつつある。
唯一ロマンが残っているとすれば、それは人と人・人と物・人と雰囲気との
ケミストリー、波長と言ってもいいかもしれない。波長が合うかどうか、人は
まだほとんど制御できないものだから。人生は出会いが全てかもしれない。
人や動物や物との出会い、色彩音楽や一文との出会い。この世で生きるのは難儀
だが、わずかでも強く心に残る出会いがあれば、それでけっこうやっていける。》
▼ インタビュアーの質問が、鋭く、その返答そのままが、読者にとって
 理解しやすい。特に私が知りたかった、「情報社会のゆくえは?」は、面白い。
学問の常識を逆転させた彼らの視線は、私の常識を根こそぎ破壊してくれる。
この年齢での常識の破壊こそが日々を面白くする! 我が内なる常識の壁。
「あとがき」の6人に対する評がよい。 「ダイヤモンドは静謐にして鋭い室内楽、
チョムスキーは鮮明にして華やかなオペラ序曲、サックスはカラフルで心地よい
ジャズ、ミンスキーは一つのテーマにクールに焦点を当てたソナタ、レイトンは
ドキドキするほど生きのいいロック、そしてワトソンはサイエンスを基にした
コンチェルト、といった感じでしょう。」  私には書けない言い得て妙の評。
・・・・・・
4768,ぼんやりの時間 ー2
2014年04月04日(金)
     * 「ぼんやり」礼讃    『ぼんやりの時間』辰濃 和男 (著) 
 受験期に「ぼんやり」していたら、一生を棒にふることになるし、弱肉強食の
世界では生きていけない。逆に、ひたすら人生を戦いにくれるのも、問題が残る。
時代が世界的大不況に入って、ひと握りの人たち以外は、決して物質的に豊かに
なれない時代。だからこそ大部分の者にとっては、「のんびり」生きる方が良い。 
ここで、リタイアーを向かえた人は、思い切って舵を変えなければならない。
これまで否定的だった「のんびり」こそ礼讃するに値する時節到来ということ。
 ーその辺りから
《 ・・なにはともあれ、自分でぼんやりしてみるのがいちばんだと思う。
 小さな公園のベンチでもいい。コーヒー店でもいい。鎮守の杜の木洩れ日の
なかでもいい。外に出るのが面倒なら、家のなかでもいい。とにかく、ぼんやり
を体験してみること、まずはそこから始めたい。一番いいのは風の吹き抜ける
静かな場所に坐り、背を伸ばし、肩の力を抜いてみることだろう。
深呼吸をする。坐っていても、立っていても、深呼吸のやり方は変わらない。
深呼吸は息を吐くことに重きをおく。吐いて、吐いて、さらに吐く。細く長く
吐ききるまで吐く。あなたのからだはまだまだ硬い。ゆったりした気分になり、
さらに肩の力を抜いてみる。下腹たんでんの丹田を意識する。
 深い呼吸をしながらぼんやりしていることが、あなたにとって快い状態に
なればしめたものだ。ときには、静寂が皮膚にしみこむのを体感することが
できるかもしれない。静寂のなかでぼんやりするとの気持ちよさを味わう
ことができれば、それは至福への道の一歩になる。近所に、緑のゆたかな
大きな公園があれば、なおさらいい。そういうところは、きっとあなたの好き
な木が何本かあるはずで、好きな木の前に立ってぼんやりする時間をもちたい。
「ぼんやり」という言葉と「貴い」という言葉は、ふつうあまり結びつかない。
しかし串田は、それを手品師のように鮮やかに結びつけている。
その結びつけ方があまりにも鮮やかで、あまりにも自然なので、私はすんなり
と合点した。よく考えてみれば「ぼんやり」と「貴い」を結びつけるのは、
相当の力技かもしれない。串田の数々の文章を読み、それらはみな、長い黙想の
なかで湧き水のように流れでてきたもの、という感じを私はもっている・・ 》
▼ ヤフーのブログに、現在、ネットで拾ったフィジーの写真を載せている。 
 地域柄、何ごともおおらか。挨拶がハワイの『アロハ』のように『ポレポレ』。
こんちは、さよなら、ありがとうなど、全て、この一言で済む。大柄で、スロー
テンポで、陽気で、こころ優しくぼんやりしている。先進国が優れている!が、
戯言と、直ぐに教えてくれる。自然の豊かさと思いやりが人間の貴品をつくる。
3月半ばの15時からポタリングを再開した。途中で5分ほど信濃川の土手で
休憩しているが、早速、10分間に延長、「ぼんやり」してみたが、なるほど、
気分は良い。が、5分過ぎると、そわそわ、その後の5分が長く感じた。
今度は、バスタオルを持って、ベンチで延び延び寝てみたい。信濃川の土手で
春うららの中の転寝は、気持ちが良い。他人様の転寝を見ていたが、自分に
置き換える知恵が全く無かっただけ。 スポーツジムのマッサージルームで毎日、
20分間、ボッケっとしているが、確かにリラックスする。生きているうち、
元気なうち、ぼんやりできるうち、である。 最後は、痴呆症でぼんやり?
・・・・・・
4401,フランクル ーつれづれに
2013年04月04日(木)
   * フランクル
 昨日、何気なく昼、NHK/Eテレをまわすと、≪フランクル“夜と霧”
−終−第4回「苦悩の先にこそ光がある」≫を放送していた。フランクルの
著書は何冊か読できたが、いずれも大きな感銘を受けた。 
  ーNHKのブログによると、
【 フランクルは、生きる意味は自ら発見するものであり、苦しみは真実への
 案内役だと説いた。最終回では、フランクルの言葉に支えられながら生きて
きたという、姜尚中さんをスペシャルゲストとして招く。姜さんは「与えられた
運命を引き受け、それをバネにすることで成長が生まれる」と言う。先行きの
見えない不安が広がっている今、わたしたちは生きる希望をどのように見いだす
べきなのだろうか。「夜と霧」から考える。】とあった。
メモを取ってなかったので、少し文言は変わるが、
《 ◎ 成功、失敗は左右の水平軸に分けられるが、縦線の上に意味、
  下には絶望・苦悩を置いて縦横の立体で捉えるべき。
 ◎ 砂時計で上の砂が真ん中の細い管を通って落ちて、下に溜まる。
  上の部分が未来、細い管の部分が現在、下が過去になる。私たちは
  下の過去に重きをおかないが、苦悩などを含め必死に生きた管(現在)
  を過ごした過去は、充分に価値があり、その人そのものになる。 
 ◎ 苦悩とは、人間を成熟させて真実の自分を呼び覚まし、
  生きる意味を成就させるチャンスそのものになる。
 ◎ 人生に期待するのでなく、人生の方が私たちに期待している。》が印象的。
 フランクルといえばー自己超越のための3つの意味(価値)ーが、挙げられる。
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・意味=
  極限状況の中での尊厳ある態度。また、ー人生には発見されるべき価値や
  意味があるーとして
1・意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
2・意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
3・人生の意味  (創造・体験・態度など生きる姿勢の中に意味を見出す) 
 の3つを上げている。フランクルは、「生きるとは価値判断(学習)と選択の
連続である」という信念が一貫してある。よく遊び、よく学び、よく働くことだ。
それに私の考えを加えれば、喜怒哀楽を開放してやることだ。
・・・・・・
4027, シングルイン、31年間の総括 ー7
2012年04月04日(水)
   * デフレの直撃
 ホテル物件は直ぐに相場の半値八掛で買い手が現れ、ホテル名をそのまま
引き継ぎたいというので快諾した。せめて名前が残れば有難いこと。結果と
してはオーナーのリストラ。 ある人が、「ホテルの買い手がいるんですか?」
と聞いてきたので、「‘やれる’と、‘やれると思う’は別物」と答えた。 
「この30年の数字と経験から無借金でプラマイゼロ」と思っても、「やれる!」
と思う人が現に出てきた。三年間持ちこたえるかが目安だが、道路買収の時期
が問題。無借金なら、面白い?私なら絶対に手がけない。これも「私の思い」。 
経営環境が厳しくなると長所にも想えた4棟分割が合理化の妨げになっていた。 
分かれている長所は、在庫過剰になった時に棟ごとの業態変更が可能。
現に長期滞在型への業態変更と、二棟の1F部分のテナント化は思惑どうり。
しかし棟が分かれ中途半端の規模は、総人件費の削減と、諸経費削減に不利に
なっていた。 デフレも、資産デフレの直撃が大きい。土地の相場が、30年前
の3分の一以下、土地購入値の3〜4分の一は、厳しい。インフレであれば、
半分も返せば8割以上返済したようなもの。今回の資産暴落は、返済総額より
遥かに実質借入が増加の結果となった。この物件を半値八掛で買った新しい
事業者が更に絞り込んだコストで、既存のホテルに対抗するために更に価格を
下げて、市場に挑んでくれば、一段のデフレが進む。資産も半値八掛で資産
デフレの材料になる上に、価格の下げ圧力になる。デフレスパイラルである。
しかし光熱費は原油高で二倍、人件費も高騰、金利高なら、スタグフレーション
になりざるを得ない。 恐ろしい限りである。何度も書いているが、本当に
恐ろしいのは,その後のハイパーインフレ。これが恐慌の本体である。
その境目が、今年になる。
 ・・・・・・・
3661, 9・11、9・15、それをしのぐか3・11
2011年04月04日(月)
 この3・11災害は、2001年のイスラム教徒によるテロの9・11、そして現在も
進行中の2008年の9・15をしのぐ歴史的出来事である。地球温暖化の中で原子力
発電が容認され、世界中が原発建設を競争するように計画・建設されている潮流
での惨事である。思いもよらない「震度7、マグネチュード9の大地震と大津波、
そして原発事故と放射能汚染」である。リーマンショックで既に日本経済は
崩壊を始めていた上に、これ。今年から来年にかけて経済動乱が予測されたが、
3・11の衝撃で、日本の存続の根底を揺るがすだけでなく、地球規模の危機に
なってしまった。 10年前の9・11事件は、欧米とアラブの文明の衝突が露出し、
それ以降、世界が変わっていった。そして2008年9月15日のリーマンショックは、
米英の金融支配の構図を根本から破壊してしまった。今年から来年にかけて、
世界規模の経済動乱に入りかけていた矢先に、こともあろうか、日本発の歴史的
大惨事である。 これは人類史上に残る歴史的大事件であり、これまで人類が
営々と積み重ねてきた文明を否定する象徴的事態である。それも66年前に
日米戦争で原爆を二回も落とされた国で起こった惨事である。20年前に経済
バブルがはじけ、右下がりが続いて、去年になて経済力を中国に抜かれ世界
第三位に落ちてしまった。 今世紀に入って僅か10年の間で大事件が三回も
起こっている。9・11、9・15、そして3・11の惨事である。これは9・11、
9・15の歴史的大事件をしのぐ大惨事が日本で起ったのである。
当然ながら国内は情報コントロールをされているが、日本人は無防備に、
そのコントロール下にある。入手できる範囲の情報で、あとは自分の勘を頼る
しかない。そして、その勘にしたがって、判断をするしかない。原発事故と
放射能汚染は、日々一刻と進んでいる。その結果は? この国は大震災の日
をもって、それ以前、以降といわれるほど、根底が変わってしまったのである。
被災民は、全国民!
 ・・・・・・・
3296, 不思議現象の正体を見破る ー1
2010年04月04日(日)
            「不思議現象の正体を見破る」安斎 育郎 (著) 
―超能力や心霊現象に、人はなぜ騙されるのかー 
   ー内容ー(アマゾンより・・・)
 現在までに報道されたり紹介されてきた不思議現象(超能力、超常現象、
予言など)のトリックと、それを鵜呑みにしてしまう心理状態を解説した書。
同氏の他の著作と重複する事例・内容も多いが、本書では、不思議現象が存在
するという根拠にたいし、そのトリックを説明することで、それらすべてが
いかに信憑性がないか(あるという証明になっていないか)を示している。 
世界的に有名な事例を紹介しており、それらがすべて単純なトリックである
ことに改めて驚く。圧巻は、漠然とした詩が、大事件と簡単に符合し、
いかにも予言であるかのように曲解して読み取ることが可能かを示した点。
例として、枕草子の記述を深読みすると、一文一語が普賢岳噴火にぴったりと
符合する!このことからも、ノストラダムスの詩が後世の歴史的事実と多少
符合しても、それが偶然以外の何ものでもないことを暗示している。 
現に、世紀末には何も起こっていない。
▼ ユリゲラー、イギリスのミステリーサークル、コックリサン、念写など、
 その嘘を一つずつ解明している。 ユリゲラーも、ミステリーサークルも、
念写などをTVで取上げなくなった。これはブログなどの情報化のため。
もし、信じていると言えば誰かが知っているカラクリを教えてくれる。
それだけでない、TV局そのものが問題視され、ディレクターは外される。
この本で知ったが、イギリスのミステリーサークルも真実が明らかになった。
<二人の老いた絵描きが、「夜中に麦畑のキャンパスに描いた作品」だった
と白状していた。二人はL字型の棒を持って、実際にデモンストレーション
もやってみせた。いやにイギリスの麦畑ばかり、という理由が、これである。
この現象をプラズマ物理学の立場から研究したミーデンは真面目に、この現象
は世界各国に出現したと主張、彼だけでなく色いろな人が多くの原因を唱えた>
 彼らは二人の老人に騙されたのである。こんな調子に、過去の不思議現象の
正体を暴いているから、読んでいて飽きない。次回は、あのマジシャンの
ユリゲラーを。今さらだが、オサライをしてみよう。 彼はマジックを
超常現象としてショーアップしていただけだが、注目されればされるほど、
その稚拙な手法がコミック的。


5497,幸福 ーあなたはなぜ満たされないか ―池田晶子の言葉 〜③

2016年04月03日(日)

     『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著),                
 〈 幸福 ーあなたはなぜ満たされないか 〉
   
   * 人は何ゆえに満たされないのか?
《 幸福」の名で、反射的に、人は「暮らし」もしくは「暮らしぶり」と
 思ってしまう習性それ自体が、実は見事に不幸を示している。幸福の言葉で、
あれこれ中身を考える人の不幸は、そこに比べる心があるからだ。自分の幸福
に完結している魂が、どういう理由があって、他人のそれを気にするのだろう 》
 ☆「暮らしぶり」とは、生活水準や、その満足感をいうが、それは幸不幸に
 関係ない。要するに、充実感を持ちえるかどうか? 振返ってみて、どん底
と思っていた、正に、その時が、実は一番充実していた。どん底と思うという
ことは、その下がないから、底を蹴り上げることが可能になる。
 ――
   * 人を愛せないと悩む人へ
《 愛する人がいないから幸福になれない、と思い込んでいるから、
あなたは不幸なのです。どうして他人がいなければ、あなたは幸福に
なれませんか。他人がいなければ幸福になれないというまさにそのことが、
「愛する能力に欠けている」というそのことなのです。だって、
自分を愛することができない人が、どうして他人を愛することができますか。
愛のない人が、どうして愛することができますか。すべては順序が逆だった
ということに、気がつくことが、始まりですね。》  『人生は愉快だ』
 ☆ 学生時代から50年、早朝の読書が私にとってベストの習慣だったと、
 実感する。最後に残ったのは、読書を含めた行蔵と、習慣だけ。人は、
知っている範囲しか知りえない。そして、知っている他者の知識については
知りえないため、誤解する。それが小さく、浅いほど、その分厚いレンズは
歪んでいる。他者との触媒は必要だが、それは読書でも可能。身近に、
「友人が出来ない。孤独だ!」と、愚痴をいっている人が多い。読書の深読み
が出来てない。そのこと自体が、友人が近寄いてこない理由に気づかない。
 ――
   * どんな困難に出合っても
《 どんな生活、どんな職業であっても、生きている限り、不幸は必ずやって
 くる。つらくて苦しくて、自分はなんて不幸なんだろう、そういう時は誰に
でも必ずやってくる。だけど、不幸は、いかにそれが外からやってくるものの
ように見えても、やはりどこまでも自分の心が作り出しているものなんだ。
不幸だと思うその心が不幸なんだ。幸福だと思うその心が幸福なんだ。
幸福も不幸も自分の心のありようなのだということを忘れさえしなければ、
これからの人生、どんな困難に出合っても、君は幸福になることをあきらめず
にいられるはずだ。》              『14歳の君へ』
 ☆「 ポジティブ3に、ネガティブ1の割合が、幸福の状態。逆に、
 ネガティブ3に、ポジティブ1の状態が不幸の状態」と割り切って、幸福の
状態におく幸・不幸管理をすれば、どんな困難にも立向かえる? これは生活
習慣のデザインから始めなければならない。そして、一つずつ積上げなければ
ならない。そう簡単に人は前向きになれはしない。

・・・・・・
5132,閑話小題 〜奇跡的二打席連続本塁打に続いて、翌日は
2015年04月03日(金)
  * 奇跡的二打席連続本塁打に続いて
 高校野球には魔物がいるというが、幸運の神様もいるようだ。
 〜ネット上の記事によると、
《大阪桐蔭との決勝戦で、同点で迎えた八回、試合を決めたのはまたしても
 背番号17の松本哲幣。前日の2打席連続満塁弾に続く決勝2点本塁打で甲子園
 のヒーローとなった。・・》
準レギュラーの全く無名の選手が、準決勝、決勝戦で、2打席連続満塁打と、
勝越しの2点本塁打を打って一躍、ヒーローに・・ 昨年秋から右翼ポジション
争いに敗れ、背番号「17」に甘んじていた男が、その素質を一気に開花させた
場面である。これまで、数多の試合を観てきたが、無名選手が、これほどの劇的
活躍を目の当りをしたのは初めて。満塁本塁打の後、再び満塁の打席に立つこと
自体が出来すぎ。更に翌日、決勝の勝越し打を打ったから驚き。 記録として、
1試合8打点も史上最多。当時星稜の松井、PL学園桑田らがマークした
7打点を上回った。プロ野球では2006年に巨人二岡が史上初の2打席連続
満塁本塁打を記録しているが、元々、それだけの実績のあった選手である。
 この場面の巡りあわせに、日ごろの練習で培われた才能が爆発をしたもの。
因縁とは、因が直接原因、縁が間接原因とすると、その二つがタイミング良く
巡りあったことになる。平沼というピッチャーが、いたため、野手に転向した、
右翼ポジションの争いにも敗れた控え選手だからこそ光り輝く。
高校野球史に残る快挙の物語として残る。 それより、両親が喜んだろうに! 
たまたま億以上の宝くじが、三度続けて当たったような? いや、それ以上。
 ところで、スカウトの経験からして、こういう選手?の扱いは、冷ややか?
・・・・・・
4767,閑話小題 ーさあ、ミニ書斎をつくろう!
2014年04月03日(木)
  * 書斎は、自分の壺中!
 3年前のリタイアで、まず考えたのが自分の居場所。それまで仏間の一角に
本棚と机を置いていたが、ほぼ座ることはなかった。家では、早朝に起きて、
本を読むか、ノート型パソコンでブログを書いていた。仏間の一角は、あくまで、
そのための予備コーナーの場でしかなかった。また通勤の新幹線の往復一時間の
座席も、大事な読書空間。高速の移動空間は、脳にとって最適だが、この様。 
更に会社の事務所も、訪れる人も少なく、ここも書斎空間になっていた。
しかし、リーマンショックで、リタイア時期が三年早く到来してしまった。
 一挙に失われた会社の事務所と新幹線の時空間が必要になって、倉庫と仏間の
一角に移動することになる。もともとあった机と書棚に、サイドテーブルを設置、
事務所のパソコンと、ミニコンポ小型書棚を移動した結果、そこは私の最適空間に
なっている。今では早朝に2〜3時間、午前9時半〜12時まで、5時間はいる。
ここは心の落ち着く自由空間で、我ながら気にいっている。音楽をBGにて、
自由気ままに、読書をし、ブログを書き、ネットサーフィンをし、瞑想をしたり。
男には趣味に没頭できる空間が必要。先日、図書館で文庫本のコーナーで偶然、
『ミニ書斎をつくろう』杉浦 伝宗 (著)を見つけた。立読みだったが、
「書斎が無理なら、ミニ書斎をつくりなさい」には、全く同感である。
私の空間は、仏間の半分の、2m四方の4平米だが、著者の目安は1・3m四方。 
私の一歳下の団塊世代が、一斉に停年になって家に入っているが、問題が居場所。 
著者は狭小住宅を手がける建築家で、1畳・1万円の予算から、階段下や寝室の
一部などの空きスペースを書斎化するアイデアを提示している。 流し読みで、
面白いと思ったのが、「ミニ書斎は壺空間」。自分独りのシェルターの確保こそ、
粗大ゴミと蔑まれる我身の守るため必要なことである。もう一つ、電子書斎が
あれば、その空間は更に良いものになる。オタクもいいところだが!
「大不況には本を読む」(橋本治著)を、借りてきた。ネットの検索に、
「ミニ書斎 写真」と入れたら、面白いものが多くあった。私のミニ書斎
と共に、ヤフーブログに載せたが、理想的な良いものが多くある。 
・・・・・・
4400, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −2
2013年04月03日(水)
      『隠居大学ーよく遊びよく遊べ』天野祐吉、お相手 横尾忠則
  * 第一時限 ー猫の自由に学ぼう 横尾忠則
 横尾の『猫の自由に遊ぼう』が面白い! 気の向くまま、飼主に気兼ねする
こともなく、自由気ままに時間を過ごす。これを御隠居と二重合わせにしている。
専業主婦の家庭は、亭主が犬型で、主婦が猫型に自然になっている。家内を
みると、つくづくと猫の生き方を見て取れる。亭主は会社で赤くなったり青く
なったり。しかし、猫型の主婦は、給料を持ち帰ってくれれば、我関せず。 
亭主は、リタイアー後も猫になりきれず、切れた首輪をつけたまま外をうろつく。 
元何某の肩書きなど何にもならない。リタイアをして新しい環境に直ぐに適応
するために、長年かけた準備が必要になる。〜以下の対話は、なかなか面白い!
≪ 天野: 猫型人間とか犬型人間とかいうが、誰にでも心の中に両方を養って
 いるじゃないかと。子供の頃は、だいたい猫型の方が偉そうにしているが、
 大人になって組織の中で働くようになると犬の方が成長していく。
横尾: 猫は、僕にとってアーティストの見本です。猫は妥協しないし、
 犬みたいに尾っぽを振らない。自分に忠実で、他人に忠実でない。
 アーティストは自分以外に忠実になっていけないのです。
天野: ぼくの場合ですと、二〇年前にふっと気がつい。自分の内側を
 のぞいてみたら犬ばかり肥大していて、猫は息も絶え絶えになっていった。
 動物虐待もいいところだなあと思って、それから犬的部分の猫に栄養を
 与えるようにして。そして猫が元気を取り戻してきたら次第に、「なんで
 真面目に働いでばかりいたんだう。こんなことのたために生れてきたのか?」
 という思いがどんどん強くなってきたんですね。そして、これって、多くの
 隠居候補の人に気持ちに近いと思う。世の中のルールに従うことも、あるいは
 働くことも大切なんだけど、でも隠居生活を送る上では、猫の自由をもう
 一度学びなおす必要もあってよいんじゃないか。それで『猫の自由に学ぼう』
 を隠居大学の校訓その一にしたいと思ったんです。≫
▼ 私の中の犬猫は、首輪をつけたままの野良犬と野良猫。一応、自由に
 放飼いをしていたが、何時も喧嘩ばかりで、札付きの嫌な奴である。
どうも酒を飲むと、表立って出てくるから困ったもの。青年期までの猫、
成年期の犬、そして老年期に猫に戻るという説が何とも珍妙である。
両者とも野生動物を人間に都合の良いよう改良されたもの。「犬は家につき、
猫は人につく」というが、今さら男は新しい人間関係の構築は難しい。
縦社会で生きてきた男達は、横社会には向いていない。家では嫌われ、
紐のきれた首輪をしたまま街中を彷徨うか、猫を被るしかない。誰?それ!
・・・・・・
4026, 「人生の知恵」ノート
2012年04月03日(火)
 4年前に、図書館からグラシアンの「賢人の知恵」という本を借りてきて、
ここで書き始めたが、一回限りで終わっていた。少し読んで、いま一つピンと
こなかったので途中で止めていた。ところが先日、図書館でー本当に役立つ
「人生の智恵」ノートーというグラシアンの他の訳書を見つけて読んだ。 
今回は、言葉の一言一言が納得出来た。 現役を退いたこともあるのだろう。 
グラシアンの経歴は、『雄弁な伝道師として圧倒的な名声を得るが、1657年、
サラゴサでの聖書学の教授の地位を追われる。逮捕され、追放されたタラソナ
という村で一年後に没した。』とある。これで、この人物の処世術が生くさ
すぎることが分かるが、内容は、現在も納得するものが多い。“善人が損を
するのは善良だからではなく、世間を見る目が甘いからだ。”など、
伝道師にしてはシビア。人間は、真面目に生きているわりに、次から次へと、
問題が生じてくる。 何故だろうか、智恵が足りないのである。グラシアンは、
「高邁な知識だけで人生は乗り越えられない。日常生活に適応するのが重要
とまではいわないが、最も必要。使えない知識より、今日使える術こそ
真の知識。」という。 ここで人生と事業を振り返ると、多くのことが
改めて見えてくる。 ー 以下は、人間関係を良くする言葉のノート ー
 1 愚か者とはつきあわないー愚か者ほど優秀と思っている。
   指導するだけ徒労。ー互いに思っているからすくわれる?
 2 誠実になりすぎない ー蛇の悪知恵と、鳩の誠実さを使い分けよう。
   自分が騙したことがないから、直ぐ騙される。
 3 第一印象にとらわれない ー人の心は多面的。一面だけで判断しない。
 4  口に合わない料理をすすめない ー相手の好みを知ること。
   自分の好みは相手の好みとは限らない。
 5 突飛なふるまいをしない ー突飛な振る舞いは、欠点として相手はみる。
 6 もろい人間とつきあわない ーもろい人間は自分勝手な心が強い。
   被害者意識が強く、人は悪意の塊と思う。
 7  不幸な人ともつきあわない ー走り続ける成功者は不幸な人と
                 関わる余分な時間はない。
 8 他人の欠点に慣れる訓練をする ーこれは訓練で慣れる。
 9  多数派とともにある賢者たれ 
  ー周囲に合わせるのは良いが、品位を忘れない。少数派の愚者もいるが。
 10 友人であり続ける努力をする ー長く付き合える友人は見定めること。
 11 賢者を見つけ助言を求める  
         ー相手を見定め、助言を求めるのは、思慮深さの証である。
 12 認められなくてもがっかりしない ー必要なのは厳しい自己評価。
 13 会話は慎重に、そして楽しく ー会話は雄弁さより慎重さが大事。
                  相手に合わせよ。
 14 親切をおまけにつける  ー親切は費用対効果が高い。
                 相手より先にするのが技。
 15 相手の急所を見つける  ー殆どの人が求めているのは快楽。
                 その急所を見つけよ。
▼ 品位のない人間は最後の裏切りの切り口で、本姓が分かる。 
  見上げても見下げても、全て自分の範疇。
    ・・・・・・・
3660,音信不通だった友人から連絡が!
2011年04月03日(日)
 * 5分の差で助かった
 学生時代の友人の奥野和夫さんから、昨日の午後に電話が入った。
安否を知るために、宮城県亘理町の住所先に葉書を出していた。
それが昨日になって本人の手元に届き、電話をくれたのである。
  彼の話の概要とは! 
≪ 妻が病院に行くのに付き添った後、自宅に帰ってきて、たまたまTVを
 見ていたら、激しい地震が襲ってきた。それが長い時間にわたり続いたが、
急にTVの画面が変わって6メートルの津波が押し寄せるという緊急の内容。
直ぐに6Mより10Mに変わったのをみて、着のみ着のままで自動車で高台の
方面に向かった。しかし、道路は渋滞で前に進まない。そこで機転をきかせ
農道に回ったが、そこも渋滞。その間に余震が激しく前に進めないほど。
それでも何とか高台に辿り着いた後の5分後に大津波が襲ってきたという。 
その後、避難所に行ったところ数百人の先客がいて寝れる状態ではない。
そこで車中で一晩過ごしたが、着の身着のままのため、寒がきつい。 
暖房もガソリンが無くなるので、一晩中、5分ごとにエンジンをつけたり、
止めたりして過ごした。朝までの時間が非常に長く感じた。水洗トイレは、
ボランティアの中高学生が水を近くの川から次々と運んでいた。
命は助かったが・・ 妻が病のため、避難所では悪化の可能性がある。 
ふと30分の所に前の会社の先輩が住んでいるのを思い出し、そこに9日間、
避難させてもらった。そのうちに群馬の実家の兄に連絡がつき、車でガソリン
を新潟県経由で持ってきてもらい、何とか兄のいる実家にたどり着いた。
最近になって道路が復旧してきたので、自宅を見てきたが、1Fが海水の泥で
滅茶苦茶のため、廃材処理の手続きをしてきた。命一つでも助かっただけ充分! 
火災保険に入っていたが、地震保険には入ってなかった。 ≫
 ー以上が、彼の15分間の電話内容。一つ判断を間違えれば助からなかった。
住所の亘町荒浜は仙台飛行場の南下に位置し、阿武隈川の河口にある。
終の住処を、そこに選んだことに羨ましさを感じていた。それが、まさか・・
それでも命が助かっただけでも喜ばなければなるまい。
他人ことではない、まさかまさかの日々。
・・・・・・・・
3295, 果たして、日本は財政危機が訪れるか?
2010年04月03日(土)
 昨日の朝日新聞の ーキーパーソンーのみずほ証券の高田創氏への
「先進国最悪の借金、財政危機は起きますか?」のインタビュー形式の内容が、
時が時だけに注目して読んでみた。 ーその内容を私の主観でマトメテみたー
日本の国債残高が2010年度で637兆円に達する見通しだが、「先進国で
最悪の借金体質」といわれる中で、国債発行余力を探った。  
 (字数の関係でカット2012年4月03日)
・・・・・
2920,私は嘘しか言いません
2009年04月03日(金)
 ー養老孟司が、対談で次のようなことを述べていていた。
《 数年前に亡くなったユングなどの研究者の河合隼雄が真面目な話をする時に
 「私は嘘しか言いません」と言っていたそうです。これは考えてみたら
シミジミと効いてくるセリフです。つまり「私は嘘しか言いません」という
のが本当だと既に嘘をついている。河合さんは、この言葉に「言葉など当てに
なりませんよ」という意味を込めていられるのだと思いますよ。》
 なるほど面白い。哲学に似た問題提起があった。「クレタ人の嘘」である。
ー『クレタ人は嘘つきだ』が真なら,クレタ人が発した『クレタ人は嘘つきだ』
自体が嘘で,クレタ人は嘘をつかないことになり,『クレタ人は嘘つきだ』が
真という仮定と矛盾する。もし、『クレタ人は嘘つきだ』が偽ならば、クレタ人
は嘘をつかないことになる。つまり、『クレタ人は嘘つきだ』が真となって
しまい,『クレタ人は嘘つきだ』が偽という仮定と矛盾する。
『クレタ人は嘘つきだ』の真偽がいずれであると仮定しても、矛盾が起こるー
言葉の何とも妙なところだが・・ 「私は嘘をいいません、信じてください!」
の口癖の人がいた。これほど好い加減な言葉はないが、言うほうも言うほう、
騙される方も騙されるほうだ。騙している方も騙されている方も、ボケ漫才の
ように気づかないから始末が悪い。なら「私は嘘しか言いません」の方が良い。
それも哲学的ときているから面白い。しかし、それでは世界が回らない。
詐欺師は「嘘しか言わない」からこそ、その奥にある言葉の意味を知っている。
言葉は共同幻想、そして仮想を創りあげる。それに己が気づかないから問題は
拗れるのである。「私は嘘を言いません」と真面目に言う人がいるが、
「私は嘘しか言いません」を悪用するとどうなるか?「私は嘘を言わないように
心がけている。嘘を言った分、何倍も自分に跳ね返ってくるし、自分の中に残る」
これは、私の基本だが、一般も同じだろうか? 嘘も方便だが・・・
冗談のつもりの嘘で何度も大失敗をしたが。ところで本当(真実)って何?


5496,閑話小題 〜高齢者とは何歳からか?

2016年04月02日(土)

   * 四月バカに騙された
 昨日の朝のモーニングショーで、「ソニーが幽霊バスターの開発に成功、
製品化にこぎつけた。そして、その商品と、捕まえた幽霊の映像を紹介します」
と真面目な顔で報じた。何の抵抗もなく「ああ、そうか、それも在りか」と見て
いると、何も知らない一人のキャスターに、メインのキャスターが、『今日は、
何の日かご存知ですか?』と、笑って聞いた。 私も、その時に初めて、それが
四月バカに気づいたしだい。学生時代の寮で、後輩に、『おーいブーちゃん、
母屋から、電話がきているって言ってるよ!』と、騙したことを数十年ぶりに
思い出した。そういえば、嬉しそうな足音が、いやにリアルだった。
  
   * 高齢者とは何歳からか?
 医師であり、作家の、先年、亡くなった渡辺淳一著の『老いかたレッスン』
の中の ー高齢者とは何歳からかー が、現在70歳の私に参考になる内容。
実感として、高齢を自覚する日々である。   〜要約すると、
< 自分が70歳半ばを超えた実感からして、75歳が妥当。この頃から
 急速に弱りだし、手足もいうことがきかなくなり、内臓などの疾患が出始め、
当然、病院に行き、治療を受けることが多くなるが、医療を75歳から後期
高齢者として分けたのは、まさしく妥当の分類。この意見は、医者仲間からも
賛同を受けている。75歳から高齢者と言われても、元気な期間が短いため、
5〜6年は、そういわれても、元気でいたい、ということからして、70歳
から上を高齢者というのが、もっとも妥当。>
 70歳代になりたての実感として、この内容と同じ。何か75歳が、寿命
のような気がしたため、一度、そこに、「この世の終わり」と設定を数年前に
したが、その時から、何かが変わったような? こと足腰、内臓の具合から
して、65歳が一つの目安で、年々、弱っている。(ちなみに性欲は55歳)
今年、70歳になって以来、『生きている、元気なだけでも儲けもの!』
と、実感するようになったが、これも高齢のなせるわざか。

・・・・・・
5131,失業率9割の国、ナウル共和国 〜3
2015年04月02日(木)
  * 日本にとってのリン鉱石とは?
 ナウルのリン鉱石、日本にとって何だろか考えてみた結論が、戦後から、
この方コツコツと貯めてきた預貯金。しかし、リン鉱石と同様、その多くが
日本国債と米国国債に替わっている! 総預金と、国債などの負債が同額に
なるのが今年。 そこに、5年後にオリンピックの開催とは何ぞや・・ 
 わずか4年前に、千年に一度の大地震と津波で、大きく痛んで復興半ば。
今だ福島原発では溶解が進行中。このクラスの大地震の10年以内後には必ず、
それに匹敵する地震か火山の大爆発が起きている。これらが複合し、近未来に、
国民の弱者に皺寄せが大きく直撃をする。「現状さえ良ければそれで良し、
未来は未来!」の、‘いいじゃないか’騒ぎ! 〜その辺りから〜
≪・ナウル人は、Buada Lagoonで捕れた魚や、ココナッツやパンダーヌスを好む。
 しかし、現在、ほとんどの食料は輸入に頼っていて90%は輸入で、ほとんどは
缶詰。そこにはたっぷりと保存料が入っている。その食料が不足している上に、
ナウルに入る航空便も頼りに出来ない。それはスカスカの店の棚を見ればわかる。
ナウル人の平均寿命は男性で58才、女性で64才。日本より20歳は早死になる。
・ナウルの状況はダイヤモンド著の『文明崩壊』で語られるイースター島の
崩壊の物語を彷彿とさせる。ナウルと同じ太平洋の小島イースター島は、無計画
な開発と環境破壊を続けた結果、ついに資源を消費し尽くして文明が消滅して
しまい、島民の生活は石器時代に戻った。両者の大きな違いは、イースター島は
他の文明と隔絶され閉鎖された空間に存在し、また森林破壊等が国土に与える
影響を科学的に分析・理解できる時代ではなかったのに対して、ナウルは
地理的にはイースター島と同じく世界の果てに位置するにせよ、他文明と
隔絶するどころかむしろ積極的にグローバリゼーションの波に乗って行き、
それに飲み込まれた結果として崩壊に向って行っている点・・ ≫
▼ ナウル人も、日本人も、公務員、金融関係者と、一部の上層階級は、
 万一に備えた準備が完了してあるという。リン鉱石(預貯金)を
 掘り尽くしてしまった日本、現象面では、国債と株式と円相場の暴落で、
 その正体が現れてくる。 ナウルは、そのまま露出されているだけ。 
 私も似たようなものだが! 裏山の中腹から外海が見えるからこそ、
 断言できること。刻々と時は進んでいく。 老化の戯言であればよいが!
・・・・・・
4766,ぼんやりの時間 ー1
2014年04月02日(水)
                ぼんやりの時間  辰濃 和男 (著) 
 リタイア以降、時間が有り余り、ぼんやりの時間が増えたかというと、
そうでない。ウツ病に陥らないために、早朝から寝るまでのスケジュールを
決め、ただ淡々とこなしているからだ。 3年経った今、良いタイミングに、
 この書に出あった。平坦な一日がアッという間に過ぎていく。
それはそれで良いが、ぼんやり時間が少なすぎる?
   ーまずアマゾンの内容紹介ー
《 常に時間に追われ、効率を追い求める生き方が、現代人の心を破壊し
 つつある。今こそ、ぼんやりと過ごす時間の価値が見直されてよいのでは。
では、そうした時間を充実させるために何が必要であり、そこにどんな豊かさ
が生まれるか。さまざまな書物にヒントを求め、自らの体験もまじえながら
つづる思索的エッセイ。 》
   ーカスタマーレビューよりー
【「ぼんやり」と生きるライオンやサンマは生存していないのであろう、
 だから、人間にも本来、「ぼんやり」は許されないのだ。幼い時から、
悪臭や異音に鋭く反応しつつ成長し、身を守って生きている。このような
絶え間のない外界との緊張関係は、必然的に対極の「ぼんやり」へ憧憬を生む。
すなわち、「ぼんやり」は人間に生来備わった自然感情や心のあり方と見る
よりも、生物として必須条件である「対外緊張」を運命付けられた人間に
根差した”解放願望”として捉えられるべきであろう。
従って「木と共に過ごす」串田孫一、「湖畔の小屋を建て、畑を耕す」ソロー、
「隅田川の川面を眺めているうちに、あっという間に2時間過ぎた」池波正太郎、
「珊瑚や熱帯魚を求めてダイビングに浸る」玉三郎、「夏の夕暮れ時の樫の木々
に映える日の光に心を満たされた」ミッテランなど、どの登場人物も眩く輝いて
いる。彼らのどのエピソードも懐かしい幻想のように温かで、ユートピアの
ように心和ませるものがある。しかし「ぼーっとしながら生きる」のが好きと
いう深沢七郎の背後には片目失明の不自由をこらえて右翼暴力から逃げ惑った
日々が刻印されており、「林に入り黙座す」と「武蔵野」で詠んだ国木田独歩
には、帰れば妻との確執の絶えない実生活が待っていた筈である。
著者は自らの体験も含め、こういう人間の現実の生活を冷静に観察した上で、
「ぼんやりの時間」を持つことは実際には口で言うほど簡単なものではないこと
を熟知するが故に、だから敢えて「ぼんやりの時間」を人間にとってかけがえ
のない、貴重なものと見ている。本書に見られる「ぼんやり賛歌」は、大抵
の生身の人間には実現困難だという著者の苦い現実認識と、それでも尚、
人間らしく生きる上で我々が忘れてはならない理想願望がベースになって
いることを見逃してはなるまい。 】
▼ 欧米人のバカンスはリゾート地で、かけ替えのない貴重な時間をのんびり
 過ごす。 日常を離れた自然の中で、ボ〜っとするのが、最高のレジャー。
日本には温泉宿で湯治で身体を休めるレジャーがあった。私のネックになって
いるのが、この随想日記と、ネットサーフィン。誰に頼まれた訳でもないのに、
毎日、これで自己達成をした気分にとらわれている。そうでもしないと自分を
支えていられない状況もある。偶然だが、去年の今日(4月2日)の文章は、
ノンビリしないで遊べ遊べというのから、この内容の意図に反している?
「自分の限界としても、還暦までに、やりたいことをやった!」という思いが、
ある。この時節も、ぼんやりなど、してはなかった。時節があるのだろう。
どの道、死んでしまうまでの精神のあり方の問題でしかない。
・・・・・・
4399, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ ー1
2013年04月02日(火)
    『隠居大学ーよく遊びよく遊べ』天野祐吉、お相手 御隠居
 御隠居生活に予定より三年早く、二年前の65歳をもって入った。
しかし振り返ってみると、51歳から実質的御隠居生活に一歩踏み込んでいた。 
同居していた母親が痴呆症になって5年半後に亡くなった後、数ヶ月間は呆然と
していたが、「今までの延長は捨て、50歳代に、その後の余生の全てを
遣り尽そう」という思いが湧き上がった。そして残り30年分の人生を圧縮して
生きようと決心をして、「思い浮かぶ限りの遣り残した事を迷わず優先的にする」
ことにした。 50代で秘境ツアーを中心に24回の旅行。美味い酒を飲む。
当時、まだブログが無かったので、パソコン教室に通い、個人HPを立上げて、
全エネルギーをかけ思い浮かぶことを毎日「随想日記」として書き続け現在に
至っている、これである。これが私の隠居生活の移行で、それを私自身も
気づかなかった。どれもこれも面白く、楽しくなければ続かない。
この経験から学んだことは、「御隠居は覚悟が無ければ出来ない」ということ。
傍からみたらつまらないこと?でも、遊び気分で全エネルギーで取り組んでこそ
道楽。これも毎日、よくぞ真面目くさって書いている。でも、私にとって面白い。
だから道楽である。 御隠居は道楽をもっているかどうか。たっぷりある時間を
遊べるかどうかである。   まずはー内容紹介ー     
【こんな時代こそ「隠居」を見直そう!原始、「隠居」は遊びの達人だった。
 若いモンの憧れだった。目指すは、自由で洒脱な遊びの達人。横尾忠則、
外山滋比古、赤瀬川原平、谷川俊太郎、安野光雅、坪内稔典の豪年を取るって、
いいもんだなァ。 豪華講師陣を迎え、ここに隠居養成大学がオープン。
オモシロキビシク、いい加減精神の真髄を語り明かす。】
老いは、生老病死のマイナス面が表立ってくる時期。その時、失われつつある
喜怒哀楽を道楽の中に求める必要性がある。考えてみれば「良く遊ぶ」のは
非常に難しい!次回は、一時限目の「横尾忠則 対 御相手の天野祐吉」より
 ・・・・・・
4025, シングルイン、31年間の総括 ー6
2012年04月02日(月)
  * リストラは、どうだったか ?
 2001年の9・11テロの翌月から売上が毎年続けて一割以上減少、
三年間で3分の2まで減少していった。それに対し、ボーナスの半額カット
(年間給与の一割相当)、私は5割以上、役員は4割カットをして対応したが、
キャッシュフローからの返済は1億3千万から4千万まで激減してしまった。 
それまでの正社員と役員20数名のうち、三分の一まで減らし、パート・
アルバイトに切りかえた。 次に、二つのホテルの1階部分の客室を飲食店用
のテナントスペースに切り替え貸店舗にした。さらに第三シングルインを長期
滞在型ホテルに切り替えた。 二つの客室の壁を取り去り、一つにして自動車
学校や、企業の長期滞在として貸し出した。 それも数年で軌道に乗りかけ、
目処がたった矢先のリーマンショック。これも2割以上の売上減が三年目に
入っても続いた結果、事業断念に至った。新潟駅再開発も大幅に遅れ、二つの
ホテルが道路拡張計画上にあって説明会が開かれていたが、そのプロセスで
規模縮小か移転の想定も当てが外れていた。そのリーマンショック以来、政府の
緊急政策の御陰で資金繰りは何とか予備資金を使うことなく持ちこたえていたが、
売上が三分の一まで落ち込み、事業存続の先行きを考え出した矢先に東北大震災。 
これで最後の踏ん切りがついたが、直接原因はリーマンショック。事業構造の
転換も身を切るほど厳しいが、事業経営の真髄が発揮される場面。もちろん
返済額の減額交渉に、リストラ策と、その実施と、経過報告が義務つけられ、
その効果が出始め目処がたった矢先のこれ。十年間、やれることはやった
思いがあるので、後悔は全くない。シングルインというホテル名と建物は、
他の事業主が引き継いだので、ここで経営のリストラが断行されたことになる。
6年先の道路買収まで維持できるかどうかだが、あまりにリスク要因が大きい。 
長期装置産業の恐ろしさを知らないようだが、世界は楽観と悲観で成り立って
いる一事例。
 ・・・・・・・
3659, つれづれに
2011年04月02日(土)
  * 原発事故の深刻さ
 原発がもたらす影響は、今後どのようになっていくのだろうか? 
経済は大きく落ち込むのは目に見えて明らかである。業界格差は明らかに
出てくるだろうが、飲食、ホテル、レジャー関連、タクシーなど三次産業から
深刻度が深くなっている。東北、関東地区の農水産も壊滅状態、米の生産者も、
今年の作付けに入ってよいものか、思案をしているのだろう。伝え聞くところ
によると、長岡の奥座敷といわれているリゾートホテルは、お客がほぼゼロの
状態が続いているとか。この冬は豪雪で惨憺ものだったが、さて春が来たという
時に、地震と原発事故である。特に原発事故の成り行きを世界中が、固唾を
のんで見守っているのは、死の灰が地球規模に広がる可能性があるからである。 
毎日毎日、TVでこのニュースである。消費マインドが冷え込むのは自然の
成り行き。 株と国債の暴落をきっかけに、ハイパーインフレになるのが、
一番考えられる道筋である。その時、「新円切り替え」が実行されるはず。
日本の危機といえば、元寇、明治維新、日清戦争、日米戦争である。
それ以上の危機になっていくのだろうか? 東京では、一部の子供たちの疎開
が、静かに行われているようだが・・
・・・・・・・
3294, エッ何!
2010年04月02日(金)
 * 次年度からの予算財源はこれ?
 ドサクサに紛れ一瞬で郵貯の預け限度金額が2倍の2千万円に決定した。
閣内対立を演出して、仕方なく鳩山首相が原案通りに決定したカタチをとった
のは筋書きどおり。23年度以降の予算が、このままでは組めなくなるのを
見越し郵貯の限度額を上げて、郵貯残高を増やそうという目論見。
穿った見方をすれば、中小・零細金融機関が更に危なくなるのを見越して、
その受け皿をつくっておくメリットもある。3人だけの政党の亀井を金融
大臣に据えて泥亀の捨石として最大限に利用している。もちろん本人も、
それを承知、それが政治。先日のTVのモーニング・ショーで金融機関の
破綻時の国家補償を1千万から2千万に引き上げてもよい」
と述べていた。 
(以上、字数制限のためカット 2012年4月2日)
 ・・・・・・・・
2919,寝入る瞬間を経験したことがあるか? ー3
2009年04月02日(木)
 マギーの「哲学人」の中に、次ぎのような文章を見つけた。
ー私は寝入る瞬間について大いに頭を悩ませていたが、ウィトゲンシュタイン
は死に関して、それと同じような瞬間を扱っていた。その瞬間を経験しようと
しても無理であると彼は述べていた。 なぜなら、明らかにその瞬間に意識が
なくなるため、それを意識できないからなのだと。ー
 これによると、その瞬間は意識がないのだから、ない意識が、それを経験
できないというのだ。「もし哲学者が考えるとしたら?」と私が考えた内容と
酷似はしている。しかし私の実体験とは違っている。「あっ!」という数百分の
一秒の感覚を、寝入る瞬間に直感したのである。実際にスット意識を失う刹那
(瞬間)を感じたのである。「その瞬間の感覚は、寝入る瞬間の直前であり、
寝入る瞬間ではない」と反論されそうだ。しかし「それが寝入る瞬間だろう」と、
 反論も可能である。それに対して「意識が無意識の世界への移行の瞬間を
如何して感じ取るというのか、論理からみて疑問である。その直前の刹那が
果たして経験できると言うのか?」 と言うだろう。しかし私は、その刹那を
感じたのだから、何を言おうが事実は事実である。「それでは証明しろ」
と言われれば 証明のしようがない。
 この書で寝入る瞬間を経験することは、ほぼ不可能で私は特異経験をした
ことが分かった。寝入ったアチラの物語の夢について、ここでも多く書いて
きたが、気楽に内容を言葉としてノートに書き出すと面白い。このテーマとは
関係ないか! ところで寝入る瞬間の体験って、そんなに大事なこと?って。 
ある哲学の本を読んでから、ほぼ皆無というなら、私にとって大事なことです! 
毎晩、何度も目がさめる者にとって、一度は経験してみたいもの。
それを経験したのだから。


5495,女子漂流

2016年04月01日(金)

        〔女子漂流 ーうさぎとしをんのないしょのはなし〕
             中村 うさぎ (著), 三浦 しをん (著)
   * 女子は漂流し続ける
 中村うさぎの著書は、図書館にある限り読んでいる。4人の姉の中で、
揉まれたこともあって、うさぎのリアルな話も、免疫があればこそ、
面白く読むことが出来る。それにしても、『ズリネタ』とか、
『女性器の構造の生々しい話』などは、夢も希望もなくなる。
 以下は、女目線の世間のありようを、シリアスに語りあっている。
≪ うさぎ: あたしは女子校時代から、女子力まっただ中みたいな環境に
 生きてきて、40歳を過ぎて、整形をはじめ、エロス権力をいかに長引かせる
 かに 力を入れてる。同じ女子校出身なのに、真逆の人生を歩んできたよね。
 だけど『根底の女子力に対する考え方は、似ているところがあるような』 
しをん: 2人とも、岸からだいぶ離れちゃったところは似てますね。
うさぎ: あたしは派手なグループの島にいて、いかに男にモテるか考えて、
 女子力まっただ中を歩んできたつもりだったのに、いつのまにか岸から離れ
 ちゃって(笑)。
しをん: 私は地味なグループの島で、漫画に没頭していたら、いつのまにか
 岸から雛れちゃって(笑)。
うさぎ: まさに漂流だよ。女子がいかに王道を生きょうとも離れ小島で
 生きようとしても、どっちみち漂流してしまう。じゃあ、漂流しなかった
 女子って誰なの?
しをん: 私も今、考えてたんですけど、沖から大陸に向かって「おーい!」
 って手を振ってみるものの、実はそこには誰もいないんじゃないかと。
うさぎ: 無人の大陸なのか。
しをん: そうなんですよ。つまり、海の上に、大小さまざまな無数の島が
 ぷかぷか浮いてて、そこだけで女子は生息しているのかもしれないですよね。
 それで、たまに別々の島の住人が、ガラスの瓶に近況報告をしたためた手紙
 を入れて送り合っている。だけど、大陸には女子はいないんです。
うさぎ: 大陸には、男がいるんですか?
しをん: 男たちは……、海中でモゴモゴしてるのかな、海藻みたいに(笑)。
うさぎ: 男たちも、それぞれの小島で生息してるかもしれないよね。そう
 考えたら、大陸に人がたくさんいるかもしれないって思うのは、幻想かも。
 大陸という世間体があると思うから、生きづらい。
しをん: そうですよ。上陸許可を得たいと思って、必死で大陸の岸に向かう
 んだけど、いざ着いたら無人なわけですからね。
うさぎ: その岸にマジョリティーがいるって信じているから、生きづらさが
 生まれるけど、そこに誰もいないと分かれば、急に楽になるね。
しをん: そうですね。岸についたものの、生息しているのは見たことのない
 新種の動物だけ(笑)。そう思えば、女子力があろうが、なかろうが、別に
 どっちだっていいんだって割り切れそう。
うさぎ: 本当ですよ。っていうか、女子力って言うあたしって、
 その時点でどうかと思うよ(笑〉。≫
▼ 世間教徒が大半を占める島国日本。舟を自分に例えれば、その舟ベタに
カキの貝殻をつけたままでは、動けなくなるか、沈んでしまう。世間も、妄想・
幻想とみれば、目くじらを立てることもない。あるのは、その後、どんどん
生まれてきている見たこともない新種だけ。アレラは世間とかいう幻覚に取込
まれた群れと見ると、事実そうである。女流無頼漢作家の視線からみれば、
アウトサイダーと自認している私など、世間の垢に塗れた凡人だろうが・・
そりゃそうだ。特殊だから面白おかしいのだから。特殊で無くなったら亡国?

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2015年04月01日(水)
失業率9割の国、ナウル共和国 〜2
   * ナウル共和国の現状
≪ ・最盛期には年間200万トンの鉱石を輸出していたナウルも資源枯渇が進み、
 2002年時点で数万トン、2004年時点で数千トン規模にまで採掘量は減少した。
リン鉱石は島の真ん中に集まっていたが、リン鉱石が掘り尽くされた今、ナウル
の8割の地表はめちゃくちゃだ。かっては森で覆われていた地表は、石灰石が
転がる灰色の大地になってしまった。海外からの資金流入と国際金融業の参入を
狙って、ほぼすべての規制を廃したが、マネーロンダリングの抜け穴になること
を理由としてアメリカ合衆国から批判を浴び、頓挫!
・そこで、アフガニスタン難民を受け入れる事と引換えにオーストラリアから
援助を受け取る事にした。が、難民は国民の2割程度まで増加。政局は混乱し、
難民の管理どころでは無くなり、難民たちから「オーストラリアの方がいい!」
と言われる始末。当然これも失敗した
・リン鉱石枯渇を見越して、その利益を他の事業に振り分ける開発グループが
存在したが、ハワイやメルボルンにホテル建設などを行なうものの、こちらも
外国人任せの経営で利益は出ず、失敗に終わっている。
・2003/01/19-下旬: ナウル大統領官邸がナウル国民の暴動により焼失。
海外と繋がっていた唯一の電話回線が不通に。電力供給も滞り,国民の生活
も麻痺状態に。大統領が各国に緊急支援を求める声明を発表するも,電話回線
不通のためか外部に届いたのは3週間後。地表を覆っていたリン鉱石がナウル
の富の源で、1960年代、1970年代には世界でもっとも豊かな国の一つだった
ナウルはこのリンの生産に国の全事業を投資し、リンが取れなくなった現在、
経済が破綻した。 ≫
▼ 童話のような物語だが、残酷といえば残酷。 現大統領も超肥満体だが、
 歴代の大統領は、糖尿で次々と亡くなっていたというから、笑うに笑えない。
この話、何故か現在の日本に重なるところがないだろうか。国家収入の二倍
の予算を削る意欲もなく、世界恐慌が迫る中、オリンピックの開催に向かって
お祭り騒ぎ。反対の論は国賊扱い。そのツケの全ては、10〜20年後の若者へ
引継がれるが、誰も、目を背けている。このナウル国の現状が、未来に・・
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4765,閑話小題 ー感動の書換え
2014年04月01日(火)
   * 感動の追体験
 以前、少し書いたが再び。 現在、ヤフーのブログ‘バードウォッチ’
に、以前に行った先をネットでひろった写真を載せている。これが面白い! 
現地で思いもよらない光景に出あった感動は心の大きな財産だが、その瞬間は
決して写真や映像では残せはしない。対象と同化し振動しているからで 夏の
花火と同じである。ところが、デジカメの進化もあって、ネット上には違う
視覚の感動の瞬間(写真)が溢れているのを最近、知った。実際の感動の方が
遥かによいのは当然だが、ネット上の写真を見ていて、<ああ、これだ!>
と感じた瞬間に、その時の感動が再度、浮び上がるから不思議。 エーゲ海
クルージングで、寝椅子に寝転がってエーゲ海の美しさの中、リラックスする
心地よさは、何ものにもかえがたい。一期一会の自分だけの至福の時である! 
今では、誰でも、そのTPOSの光景をカメラやビデオで撮って、ネット上に
公開するようになった。その御陰で、その瞬間と似た体験をした者にとって、
手軽に感動の追体験?が可能になっている。カメラ目線が違っても、その瞬間
の感動は同じ。それは記憶の復習効果、書換えにもなる。 所詮は、全ては
幻想である。カメラ性能が格段にアップし、誰もが気楽に撮れるため、ネット
上には素晴らしいのが多い。豊かな気持ちは感動の質量の掛け合わせに比例する。
  * 猪瀬の贈収賄、不逮捕されないの? 
 何ゆえに、猪瀬が逮捕されない? 次の東京オリンピックの汚点にしたく
ないため? とすると、支離滅裂。ここまで真実(汚職)が露呈しているのに、
この結末はない!上記の御二人の、御意向か? 何が東京オリンピック? 
江戸末期打ち壊しの「ええじゃないか、ええじゃなかい」の騒ぎに酷似。 
同じアフォ(アフォのミクス)なら踊らな損!と笑ってられない。最も地政的
に危険な立ち位置にいるのが日本なのに!20世紀前半に酷似している。
  * アベノミクスで生温かい風が吹いているが  
        ー偶然、去年の今日に似たタイトルがあったー
 何かが変なのは分かってはいるが、それでも?首を傾げることが多い。
それと6年後の東京オリンピックも。「デフレ脱却のため、無制限まで通貨を
増やしましょう、後は野となれ山となれ!そのため注意をオリンピックに
向けましょう」」ということ。それも、日本の財政破綻の責任者だった二人の
元首相が、現首相と副首相に居座り、更に悪化に向けた舵きりをするのだから! 
電気光熱費と、消費税の値上げは、一般の消費者と、中小企業に大きな負担
になる。それと、欧米も、新興国の経済も波乱要素が大きい。
恐ろしいのは、突然の世界同時株安である。
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4398, 閑話小題 ー 円滑法が4月から期限切れになるが
2013年04月01日(月)
   * 要は、アベノミクスとは!
 アベノミクスと浮かれているが、少し考えれば、こういうこと。
「小泉の中期政権後、毎年、首相が変わってきた。その二人が偶発的に首相と
副首相になって、似たような失敗の拡大版を始めようとしている。再び失敗した
ところで、政敵に殺されたり、刑務所に入れられたりしない。大盤振る舞いの
付けは、国民の負担になるだけ。幾ら金を発行しても、銀行を通して国債を
買わせることで周りまわって戻ってくる。一度、ハイパーインフレにし、銀行
閉鎖するなどの荒治療した方が、デフレスパイラルが続く現状より良策。世界は
通貨安比べ、その中で紙幣の供給を増やし銀行閉鎖も含め、一より出直しすべし」
ということ。その中で大部分の国民に物価高という負担が架ってくる。そして、
責任を取って辞任。そのパターンが繰り返される。
   * 同級会の幹事
 毎年行われている高校の次回の幹事になった。この10年近くの会の半分近くは、
私とコンビのM君二人がしている。二人とも飲み会の幹事は手馴れたためである。
名簿を振り分けメンバーに連絡をすると、それぞれの様子が直に伝わってくる。
ここで多くがリタイア、年金生活に入ったか、事業整理か倒産とか、その一歩
手前など色いろあるようだ。それと、名簿に横棒で消された亡くなった名前が
目に入る。あと10年もすれば、横棒が半分になる。
   * 円滑法が4月から期限切れになるが
 円滑法案が延長されていたが、4月から期限切れになる。一昨年、整理をした
事業の実情からして、この打ち切りは厳しい。今から4年前に施行され、その
御蔭で運転資金のマイナス分を、これと、雇用調整助成金・中小企業緊急雇用
安定助成金をプラスした分で二年間を持ちこたえた。そして限度にきた時に、
3・11の東北震災が起き、迷わず事業整理に入った。その円滑法が切れるという
から弱体化した中小・零細は破綻が増えと見るべき。それもありマスコミが
騒ぎ出した。特に首都圏から離れた地方ほど、不景気の影響が大きい。
それでも参院選挙までは何とか持たせるが、問題は、その後。
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4024, 事業生活39年の、独り語り ー7
2012年04月01日(日)
 11年前に、千城台ビル内で創めたベーカリーについて書いていた。  
   ―まず、そのコピーからー
≪ [103] センチュリーベーカリー 〜昭和50年3月ー8月31日(2001/08/09)
 他人に話した事が殆んどないが、焼きたてベーカリを立ち上げた事がある。
千葉千城台のビルと養老の滝1122号店を立上げ一年、空きビルを埋めるべく
何がいいか考えた時、当時団地では全くなっかった‘焼きたてのベーカリー’
に目をつけた。冷凍生地を主体とした焼き立てパン屋である。商社の東レの
子会社の蝶理という商社が、このフランチャイズをやるという新聞記事をみて、
ホテル・レストランショーで実際にみて、早速やることにした。
東十条にある関連のベーカリーに朝4時に起き通う。そして二カ月後にオープン!
 例のとうりパニックそしてーーー。 素人は初めは良いがある時期がくると、
応用が利かない弱点が出る。その時期に長岡の実家で問題が発生。 
このタイミングを狙われたのである。そこで第三者に経営委託をして急遽
長岡へUターン。恐らくあのままやっていたら数年で行き詰まったと思われる
ほど、実際は難しい商売。 振り返ってみると‘開発型委託経営ビル’を
造った事になった。 考えてみれば、ジャスコ、いとはん(北陸ジャスコ)、
ビル開発(飲食フランチャイズ+ベーカリー立上げ)、実家の衣料デスカウント・
ハウスと、12年近く、全く未経験の分野への自己配転をしていたことになる 。≫
▼ このビルは、建設の7年後にテナントが埋まったこともあり総投資の二倍の
 一億で売却した。 当時、5つのテナント部分は、養老の滝のオープン以来
一年数ヶ月経っても空いたまま。養老の滝も、軌道に乗り、サブだった人に任せ、
空きテナント部分で新しい店を考えた。そこでホテル・レストランショーで
見つけた、テイクオフのベーカリー。ジャスコでも、金沢の「いとはん」でも、
数ヶ月単位で担当売り場を変え責任を持たせる。キャリアを積ませるのである。
配送サンター、寝具、靴売り場、子供服、日用品、など次々に任される。
品種変われど、商品管理の本筋は同じ。居酒屋も、ベーカリーもシステムを把握
して全力で取り組めば、何でも可能ということを知っていた。そのため実家の
仕事を引き継いでも、ビジネスホテルを立ち上げるにしても全然、抵抗感がない。 
 何事も、表面が違っても、本質は同じである。
・・・・・・
3658, 価値とは思い込み
2011年04月01日(金)
 価値観の価値は「思い込み」とすると、その意味がストレートに伝わる。
価値は意味に非常に近いと解釈をしていたが、「思い込み」とすると、より
分かりやすい。人間は、それぞれの思い込みの中で生きている。その思い込みは
子供の頃からの周囲の刷り込みがベースになる。その刷り込みから脱皮していく
経験と知識の蓄積が教養になる。大きな挫折をすると、思い込みが破壊される。 
創造と破壊は裏腹であるが、思い込み(価値観)の破壊も重要である。それが
節目の切欠になる。「互いの価値観が違う」というが、「互いの思い込み違う」
ことでしかないのが分かる。まずは自分が何を思い込んでいるかを知ることが、
第一歩。 それも、思い込みになるかもしれない。価値、意味、思い込みを、
絡めて一文をつくると「価値、価値観と難しいそうにいうけど、そんなことは
思い込みという意味でしかない」
・・・・・・・
2010年04月01日(木)
3293, 人みな骨になるならば ー9
  * なぜ簡単に(エゴ)捨てられないのか
「なぜ簡単に人間はエゴを捨てられないのか」が、理路整然と書かれている。
 ー まずは、その部分を抜粋して考えてみる ー
試みに、街を歩きながらエゴの武装解除をしていき、「すべてはブラフマンの
現われである。あの広告塔も、こなたの酔っ払いも、私と同根のものだと実感
する修行を続けてみるがよい。 その結果、わかることは、目の前にある山川
草木、鳥獣虫魚はもちろんのこと広告塔や塵芥とさえ、つながっている感覚を
わずかに持つことができる。一番難しいのは、むしろ他の人間と通底している
という実感である。これは予想外のことだ。人間は他の人間との差異に対して
最も敏感である。もちろん修行などしなくても、抽象的な「人類」や「同国民」
と連帯しているような感覚を持つことができる。われわれはスローガンとしての
連帯や仲間意識は大好きなのである。しかし、通底体験というのは、そうした
観念上のものではなく、目の前の太ったオバちゃん、向こうからやってくる
ダラシない若者との瞑想的な一体感なのである。 これが実は難しい。
 このことは、おそらく自我の意識というものが、主として社会集団において
自己と他の具体的な成員と区別をするために発生したのではないかと疑わせる。
人間らしさの殆んどの特質が、他の人間との生存競争を通じて進化してきたと
主張する学者が多い。人の容姿はもとより言語や知略も、たぶんサーベル
タイガーやマンモス相手に開発されたものではない。異性や仲間との付合い上、
是非とも必要だったのだろう。自我もまた水辺やサバンナでの生計とか氷河期の
気候とかに適応するためでなく、狡猾な同族であるヒト相手の社会生活を
生き抜くために必要だったからだ。
▼ 映画の「2012」でも、世界の滅亡に、世界各国が協力しあう場面が、
 これを読んで浮かんできた。人の差異は、外敵に対してでなく、社会集団に
おける自己と他者との生存競争を通じて進化してきた!というのが、鋭い指摘。 
40年前の学生闘争の嵐の中で、田舎出の教条主義の「あれ等」は、同じ方向の
分派達との争いの方が、残酷な死闘になっていった。 殺人の過半数以上が
家庭・親族という事実と同じである。人間の遺伝子の性格は利己主義という。 
それを抑えるのではなく、他者の迷惑にならないようにすることと、社会の
有益な何かに向けることが、人から人間になることだろうが、それは建前と
割り切るのではなく、エゴを野獣、いや野性と看做、コントロールすることが
教養か? 酒を飲むと、それがね〜 鵺?
 ・・・・・・・・
2918,「無趣味のすすめ」という問題提起 ー1
2009年04月01日(水)
 新聞広告のー「無趣味のすすめ」村上龍著ーの説明文である。
ーわたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画製作も、キューバ音楽の
プロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が
発生する「仕事」だ。 趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、
人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンド
するような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストと
危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
それらは私たちの「仕事」の中にしかない。 ー 思い切った問題提起である。
「人生は仕事だけではない」ことは今さらだが、中途半端な仕事をしながら、
趣味の世界に生きる人間に対する一撃。しかし仕事一筋できた男が挫折した時に、
趣味の世界を持っていたために救われることがある。 仕事のできる男ほど、
それと同じぐらいの趣味の世界を持っていて それが仕事をプラスへ導く。 
しかし、仕事を達成するには多大なコストと危険を伴い、常に失意や絶望という
底知れない荒海が舟板一枚下にある。趣味だ娯楽など、余所見をしている暇など
ないのも事実。 読書を趣味としてきたものにとって、いや酒が好きで居酒屋
通いをしてきたものとし、秘境・異郷ツアーが好きで世界中を巡ったものとし、
そこには失望も歓喜も興奮が満ちていた。そこは熱帯雨林のように豊穣な世界が
存在をしていた。 しかし、言われてみれば過去の事業を振り返れば、その数倍
の豊穣な世界があったことも事実である。要は、「力、愛、知」の「力」の
部分に力点を置くべし、ということだろう。少し、趣味に力を入れすぎたか? 
そうでもないか? 新聞広告に列挙していた内容を次回に書き出してみる。
その一つが  ー効率化とゆとりー 
「農耕と国家が生まれてから、ゆとりを持って生きることができた人は
全体の一%もいない。」が、面白いが、そうでもないんじゃないかとも
思われるが、如何だろうか?  身近では、一人も存在していないが、
いや、ごく身近に一人居る? いや、そう見えているだけ?
 (字数制限のためカット 2012年4月01日)

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