堀井On-Line



5555,閑話小題 〜『ルーム』

2016年05月31日(火)

   * シネマ、『ルーム』    http://gaga.ne.jp/room/
 先週、観てきたシネマの『ルーム』。ネットの評価は高い。内容はスリラー
の恐怖ものでもなし、地味だが、考えさせられる内容だった。17歳で誘拐され
7年になる若い母親。監禁されていた納戸から、誘拐犯のタネの5歳の子供を
脱出させた結果、解放される。それまで、子供は、部屋以外の世界はTVと天窓
の光しか知らない。 映画の後半は、新しい世界を次々と知っていく子供の姿と、
犠牲になった母親の人生に対する葛藤が物語として続く。子供は、母親と二人で
過ごした納戸が懐かしなり訪ねるが、子供は、その狭さを改めて知る。
外を知らないのも人生だが。子供にとって、誘拐犯の父親に対しての思いは、
まさに、<母と子供にとって「その父の存在自体が悪」になる。評価、85点。
  〜ネット上の映画解説〜
≪・映画「ルーム」が描く、ブリー・ラーソン演じる若い母親ジョイと5歳の
 息子の物語は、設定だけを聞けば随分エキセントリックに思えるかも知れない。
ある日突然誘拐され、7年間監禁され続けた悲劇の女性ジョイ。そして監禁部屋
で生まれ、外の世界を知らないまま5歳になったジャック。そんな母子がついに
解放されるのだが、目の前にあらわれた現実の世界は2人を困惑させてしまう…。
・年にわたる拉致監禁、誘拐犯との間に生まれた息子、命を懸けた脱出劇と世間
からの好奇の目。数あるゴシップ的要素にも関わらず、レニー・アブラハムソン
監督は地に足を付けた演出で奇妙な環境で普通に生きようとする葛藤を等身大
に描き出す。

・狭い監禁部屋から出たことがないジャックは、テレビを通じてだけ外の世界を
覗いてきた。しかし息子に〈閉じ込められている〉と感じて欲しくないジョイは、
部屋の中が〈本物=現実〉で、画面の中の出来事は〈偽物=フィクション〉
だと教え込む。2人がいる部屋の外には空っぽの宇宙しかなく、出ると死んで
しまうとウソをつくのだ。
・ところが監禁部屋からの脱出によって母子の世界は一変する。実は部屋の
外には無限ともいえるリアルが広がっていて、ジャックは培ってきた認識や
アイデンティティをすべてリセットしなくてはならなくなる。

・一方、ジョイが帰還を切望した外の世界は、一度解き放たれると皮肉にも
精神的牢獄になってしまう。2人だけで完結していた監禁部屋にいる限り、
社会という膨大な関係性の集積から無縁でいられたからだ。失われた7年の
重みと他者の存在が次第にジョイを追い詰めていく……。
・結果としてジョイもジャックも生きるべき世界をゼロから発見し直さなくて
はならない。痛みも喜びも伴うが、未知の物への期待感と新鮮な刺激は一歩
ずつでも前に進むことを後押してくれる。

・実はこの物語、驚くほどにわれわれが「映画を観る」感覚と似てはいないか。
われわれは映画のスクリーンと向き合い、未知の世界を探索することで世界観
を押し広げ、時に内面を見つめ直し、やがて自分自身の物語を見出す。
その〈発見〉こそが映画を観る大きな悦びだとは言えないだろうか?
・幼いジャックはさまざまな障壁にぶつかりながらも、常に世界を五感で感じ、
吸収することをやめない。その瑞々しさと観客の感覚とがピッタリ重なった
瞬間、魂に触れる小さな奇跡を起こす。≫
――――ー

▼ 観ていて直ぐに、閉じ込められた小さな納戸が、何故か、地元の城下町に
 重なって見えていた。新潟駅前の事業場と、出身地の城下町を寝ぐらに31年
を過ごしたが、これは首都圏のサラリーマンの生活形態と同じ。どうしても、
寝ぐらの狭さを感じていたが、住居は住居と割切れていた。 
 ところが5年前より、寝ぐら生活がメインとなる。これも、自分の厳格な?
生活習慣を守り、周りにスケジュールの壁を囲むことで、日々、生活して
いるが、これも慣れれば悪くはない。 何処も住めば都になっていく。

・・・・・・
2015年05月31日(日)
5190,閑話小題 〜チャーチルのジョーク
 チャーチルは、その風貌とおりのウィットにとんだジョークと名言を残した。
 毒の含んだ言葉でもウィットに富んでいれば、場を和ませることが出来る。
   * チャーチルのジョーク 
・ 民主主義は最悪の政治形態らしい。
 ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。
・ 女性議員が皮肉を言いました。
「もし私があなたの妻だったら、あなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」
 するとチャーチルは、平然と答えました。
「もし私があなたの夫だったら、喜んでその紅茶を飲むでしょう」と。
・ チャーチルに仮装舞踏会にはどんな衣装で出るのがいいかと聞かれた、
 そのライバル女性議員(例の『毒を盛る』発言の彼史)のコメント。
 「しらふで出るというのはどうでしょう」
(チャーチルは酒好きで、国会にも酔っぱらって出てくることしばしば)
・「期待される政治家とは「明日なにが起きるか」を、国民に予告できなくては
 ならない。そして次の日「何故自分の予言通りにならなかったか」を国民に
 納得させる能力がなくてはならない。」
・ ある政治家を評して 「彼は羊の皮をかぶった羊」
・ 国会の答弁にて、エリザベス女王の戴冠式の準備に際し
「行進にはありとあらゆる労働者の代表を加えるべきです!」
 と主張した労働党のある議員に、NOと返答したときのコメント。
「見物客の気持ちを考えねばなりません」
・ 完全主義では、何もできない。
・ 極めつけは! 当時獣医は社会的に低く見られていた。チャーチルが
 獣医をしていたという噂があった。野党議員が議会でそのことを質問した。
「もしそうならまず初めに貴方をみてあげますよ!」議会は大爆笑だったとか。
・・・・・・
2014年05月31日(土)
4825,Quirt <内向型人間の時代> ー4
              <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
   * 自分の「スイートスボット」をさがそう
 この三年間の節目時、ストレスを溜めないことを第一に、一日、一週間、
一ヶ月、一年単位のスケジュールをたてて、ひたすら気持ちが落ち込まない
ことを目指してきた。そのため、スイートスポット(最適な覚醒レベル)を、
要所要所に配置したスケジュールをたて、改善をしてきた。 
 4時過ぎに起床し、直ぐに前日書いた随想日記の添削と、ネットのアップ。
この時間帯が、第一のスイートスポット。6時過ぎに、ポタリングで信濃川の
大手大橋をヒキチャリ・ウォーキングが次。そして、午前中の読書と、ネット
サーフィンの時間帯。そして、午後がスポーツセンター、そして・・ とつづく。
森の生活(現役)から、サバンナの生活(御隠居)に移動して一番良かったのが、
このスポットを自由に謳歌できること。 もちろん、数年、数十年単位の
ライフワークがあればこそだが・・・ ーその辺りからー
《 内向性と外向性はそれぞれ特定のレベルの刺激を好むと理解すれば、
 自分の性格が好むレベルに自分自身を置くようにすることができる。
つまり、自分にとって覚醒の活性が高すぎも低すぎもしない、退屈も不安も
感じない状況に。心理学者が言うところの「最適な覚醒レベル」―私はこれを
「スイートスポット」と呼んでいる―を知れば、今よりもっとエネルギッシで
生き生きした人生を送れる。あなたのスイートスポットは、あなたが最適の
刺激をえられるところだ。素晴らしい本を手にして、満ち足りた気分で
ハンモックに横たわっている姿を想像してみよう。それがスイートスポットだ。
だが、気づくと、同じ場所を何回も読んでいることに気づく。それは覚醒が
低い証拠だ。そこで、あなたは友人に電話をし、朝昼兼用の食事に出かけ
―言い換えれば、刺激レベルを一段上げて―ブルーベリーパンケーキを食べ
ながら噂話をしたり、笑ったりしたりすると、ありがたいことに、あなたは
スイートスポットへ戻れる。 けれど、より高い刺激レベルを求める外交型の
友人に説き伏せられて、パーティに出かけると、あなたにとっての心地よい
時間は終わりを告げる。・・・ 》
▼ スイートスポットに似ているのが、至高体験。人生観が変わるほどの最高の
 感激・感動体験をいう。この体験は「求めよ!さらば与えられん!」で、自ら
求める者に、求めただけ与えられる。この絶対量が多いほど、人生が豊かさに
なっていく。秘異郷旅行の体験記を書いたり、写真を見たり、旅先のTV放送
などを楽しむことが、私のスイートスポットになっている。他に映画鑑賞、
秘境・異郷ツアー、ネットサーフィン、ブログの下書き、読書、TVの
スポーツドラマやスポーツ観戦などがある。 当然のように一生を通して、
徹底して貫いたプロフェッショナルが、私の連れ合い。これが蓄積されると、
スイートスポットの方が、本人を呼び寄せる。至高体験も、同じ!
で、三桁、四桁は経験済み? 時々、「世の人の大分の人は、あんたの現状を
知ったら、怒り出すぞ!」というと、「あんたみたいな気短と一緒となら、
誰も怒らないわ!」と宣う。 その辺の固定観念の牢獄のシタリ顔の老人、
何のことか、理解すら出来ない? それも人生だが・・・ で、どうした? 
どうもしません! そういうこと。
・・・・・・
2013年05月31日(金)
4458, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー5
          『 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 』ー番場浩之著
 * 2日目 "足腰を軽快に
A・膝を回す体位……54            
 基本体位=仰向けに寝て、両手を膝を包み込んで、肘を伸ばし、
  膝と手が離れないようにする。
1、「静かな一息」「軽く一息」を入れた後、息を出しながら、足の甲を
 伸ばして、両膝を手前に引き寄せる
2、さらに、息を出しながら、肘を伸ばして、膝・股関節を開いていき、
 膝と股関節を充分に開く。顎を引いてうなじを伸ばし、息を出し切る。
3、同時につま先を充分に伸ばして、「つま先ー>腰椎ー>胸椎ー>頚椎」
 の順に「大地のアパーナ気」を引き上げる。
4、息を入れながら膝を閉じていき「基本体位」に戻す。
 1〜4を、計三回行った後、「軽く一息」。
5、ここから逆回転で、合計三回する。
▼ ポイントは、全身にくまなく「気血」が流れるように行う実践。
 つま先はしっかり伸ばし「気」を引き上げて背筋を活性化すること。
 呼吸は「入息1、出息2の割合で、呼吸と身体の動きが一致するよう行う。
 全身の血液の三分の一が脚にあるといわれるが、この還流がうまくいって
 いるとは限らない。相対的に血液が脚に滞ると、浮腫みや、逆に脳などの
 血液が足りなくなる。そのため膝の屈伸や指の活性化が必要といわれる。
 要するに「呼吸をしながら、仰向けになり両脚を曲げ抱え込んで両手で広げる」
B・膝を伸ばして、足の指を活性化する体位:
 基本体位=仰向けになり、膝の裏で手を組み、足の力を抜いてお腹で
 ゆったり呼吸をする。
1、「軽く一息」して、「深く一息」を入れながら、膝から足先まで
 一直線に伸ばした状態で脚を上げていく。 肘も膝裏もできるだけ伸ばす。
2、以下の足指の動作を、順々に行う。
 「足指を左右に開く」−>「親指を手前(下)、他の4本の足指を向こう側
 (上)へー>足指を握る 最後に、「軽く一息」−>「静かな一息」ー>
 「各自の一息」に戻り、息を整える。
▼ 足指も、この体位だけでなく、普段でも広げたり、反らす訓練は身体によい。
 毎朝の簡単ヨガを始めて気づいたが、実際に始めると考えが出てくる。週二回
のヨガで、これは初日、これは二日目と分かる。ヨガのポーズは3千〜4千あり、
スポーツジムでは、その中の100種類に絞っているという。同じポーズでも、
その時の体調で感じ方が違う。それにしても、生まれてこの方、これだけ、
足腰を伸ばしたり捻ったりするのは始めて。精神的にも雑念を泡として
分断してくれる作用もある。
・・・・・・
2012年05月31日(木)
4084, 老いの見本帳ーダークサイト −6
     「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)
  * 孤島としての老い  
≪ それにしても、独りぼっちになってしまった「おじいさん」の孤独感とは、
 どれほど辛いものであったのだろうか。気まずさ、寂しさ、自己嫌悪、その
ようなものに苛まれつつ彼は残りの入生を送っていかねばならなかっただろう。
どうしてそんな目に遭わねばならないのか。 基本的に、世の中は弱り目に
崇り目、弱者はそのことでなお追い詰められ、不幸は不幸を呼び寄せる
ーそのような意地の悪い仕組みになっているといった認識がわたしにはある。
すくなくとも医師として様々な形の不運や不幸を見てくると、今述べたような
感想を抱かずにはいられない。不遇であることは、それを帳消しにするような
出来事が不意に訪れる可能性よりは、なおさら足を引っ張るような「思いも
掛けない無情なエピソード」に絡め取られる危険のほうが遥かに高い。 
だからわたしは負けたり失敗したりすることが嫌なのである。たとえ些細な
敗北や過ちであろうと、それが運命に「付け入る隙」を与えることになりそうで
怖いのである(おかげで人生は疲れることこの上ない)。そして老いることもまた、
悪意に満ちた運命が付け入る隙のひとつとなり得るように思われて、意気消沈
してしまうのである。しょぼくれた老人であればそれに相応しい不遇が訪れる
であろうし、無理に若さに執着するような老人にはそれを嘲笑するかのような
不幸が駆け寄ってきそうな気がしてならないのである。 ・・老いを孤島に
なぞらえることは適切なのだろうか。いや、人間は誰もが孤島のような存在
だと主張することもできよう。だがおじいさんとおばあさんの二人暮らしなどを
見ると、あたかも融合してひとつの島であるように映りつつも、潮の干満に
よっていつの間にか二つの別々の島になっていたりするものである。
その微妙な加減が興味深い。いつしか片方の島は水没し、まさに絶海の孤島
となってしまったとき、むしろ老女のほうが淡々としかし粘り強く生きていく
ようである。「ええなあ」とのんびりした口調で羨んでみたり、妄想に生きて
みたり超然としたり、とにかく生き抜く。老女の独り暮らしというものには、
わたしが漠然と思っている以上に精神の働きの多様性が示されているらしい。≫
▼ 老い、弱り目になると、祟り目が嫌でも待ち構えている。
 それなら、一日一生の思ひで、一日を消化するしかない。だから何ごとも
一期一会ので生きるしかない。 最近特に気まずさ、自己嫌悪が強くなって
きている。問題は、その毒を貯めないよう、日ごと処理しなければならない。
現在、一日三時間の運動と、TVやシネマで映画を一本はみている。それでも
フラッシュのように、色いろの後悔する記憶が次々と浮かんでくる。
なる程、老化とはこういうことなのである。孤立というより、孤島にただ独り
という実感が老いの寂しさになるだろう。生まれてくるときも、死ぬときも、
ただ一人。 まだ背後から死が追いかけてくるような感覚が、あと数年も
しないうちに、目の前から死がジワジワと忍び寄ってくる感覚になってくる。 
それにしても暗い顔をした老人が多い。
 ・・・・・・
2011年05月31日(火)
3718, 閑話小題
   △ 現時点の関東大震災と、今回の震災の比較は?
 現時点で、1923年の関東大震災と、今回の大震災、どちらが日本にとって
打撃が大きいのだろうか? 関東大震災は東京が、二次災害の火災で10数万人が
亡くなった。死者の数は、あまりに多かったため、混乱が生じて、確かな数値は、
推定しかないようだ。首都東京が壊滅的にやられたのだから、大打撃だったはず。 
更に、その数年後には世界恐慌にも巻き込まれている。今回はまだ原発の事故が
収束に至ってない。今後どれほど日本にとって大きな影響をもたらすか、まだ
未知数。 したがって関東大震災ほどでないとは、いいきれない。 首都圏に
近い上に、本州壊滅の可能性も充分にある。失われた20年という長期的不況に
見舞われ、その上にリーマンショックである。日本経済は深刻な事態の上の、
これである。決して、楽観視は出来ない状況である。そうこう考えると、
現時点の判断は、10年スパンで考えると、今回の方が遥かに大きい震災と
考えてよいのでは。 変な民主主義が蔓延っているから、なお深刻である。
  △ ジャズは、早朝のサイクリング(でiPodで聞く)によい!
 二年近く冬期間をのぞき、信濃川に早朝、サイクリングに行っている。
これまでサイクリングでiPodでクラシックなどを聴いていたが、最近、
ジャズを聴いている。ジャストいえば、夜の喫茶店か、スナックのイメージだが、
朝の土手のジャズが意外とよい。2ビートが、早朝の心と身体にリズムをつける。 
鳥の鳴き声や海やせせらぎの波の録音などアルファー波が自然と出る単調な
リズムのものを聴いてきたが、ジャズを早朝とは・・
 ジャズといえば、ルーツは黒人の霊歌で、明るさと暗さの境目が、その背後に
あるため、夜明けにあっているためである。その上にスポーツ・ジムでも
iPodでジャズを聴いている。 これも運動に2ビートがあっている。
「聴覚を人はもっと活用すべき」というが、そのとおりである。ジャズはリズム
とテンポというが、運動に本来あっている。にわかジャズファンの誕生だが、
これまではクラシックファンだったが、これは中途半端。演歌に、クラシックに、
ロックに、カントリーに、何でも好きだが、これは!というのがなかった。 
そこで1200曲がiPodに入ったからジャズに絞るか? というのも、
何か軽すぎる? しかし、軽くて結構。門前で拒否するより遥かによい。 
特に、こういう落ち込みやすい時期には。


5554,閑話小題 〜父親の43周期に

2016年05月30日(月)

   * 父親の44周期に
 私も、父親の亡くなった年齢まで、あと一年になる。その一年前に胃癌の
大手術を受けて、余命一年と宣告されていた。現在の私の年齢で、余命一年の
宣告を受けたことになる。手術直後、急遽、金沢から帰ってきて、千葉市郊外
の千城台ビルの建設計画に着手することになる。父親から直接、創業ノウハウ
を受継ぐ貴重な経験になっていた。
 父親は、年末年始と法事以外は、酒を一切に口にしなかった。大酒飲みの
私からして、いつ、癌の余命宣言を受けても不思議ではない。新潟での事業を
立ち上げた頃の営業関係の多くが飲酒過剰?で倒れ、既に亡くなっている。 
で、私の死期を75歳にラインを引いたのは、あながち間違いでもない?
 毎年、飽きもせず、父親のことを書いているが、これが私の供養。父親が、
ハッキリした具体的行動指標になってくれたのが、私のアドバンテージになって
いたようだ。 事業も、最悪の想定を課して、平常から長年かけた準備をして
おくことの必要性も学ぶことが出来た。数十年ぶり学生時代の友人が、
『お前は、用心深かった。それと、曲がりそうになるが、直ぐに元に戻る!』
という。 用心深い両親は学歴が無かった分、必死に基礎教養を日常生活から
求めていた。趣味も、しかり。早寝、早起きも同じ。連合いへの別立て給与
の支給と別口座預金も、実家からの継続習慣。今回の事業整理の決断も、
本能的に幼児体験と、両親の教えのベースが働いたため。その辺の下衆の
想定とは? 違っている。父親にとっての太平洋戦争と、敗戦は、それまでの
価値観が根本から変わった一大イベント。 日本人は軍人が230万人、
一般人が80万人死亡したが、東北大震災の死者の150倍である。
 それでも、資産管理は、手堅くしており、何とか戦中、戦後の混乱期を、
何とか乗り越えていた。その幼児体験を、そのまま書けば、これほど面白い
舞台と物語はないはず。「すざましい!」の一言。 父親は二代目だが、私の、
この随想日記は、まさに悲しいかな、<売り家と唐様で書く三代目>の現代版
と自覚をしているが、実家文化のお陰で、何とか軟着陸をすることが出来た。
しかし、人生を十分に楽しんだことだけは、両親に負けてない。これ、負け犬
の遠吠えか! 45年の事業人生を十二分に楽しんだのだから、両親も許す?
「日々、是、口実」ということ! そういえば、母親に晩年に聞いた逸話。
<父親が徴兵されたが、肋膜で、除隊をされた。今さら、地元に帰れなく、
 東京の同業者の一間に、一年間、居候していたことがあった> という。
父は一切、その話をしなかったが、他人には言えない話は、誰にもある。
父親に魂を通して『これ、話してよいか』聞いたところ、
『娑婆のことは、娑婆で判断して良い。死んでしまえば、そこまで、
此方は、此方の世界がある。』という。そう悪いところではなさそうだ。
それも、これも妄想でしかないが。 さて、花を買って墓参りだ。

・・・・・・
5189,閑話小題 〜父親の42周期に
2015年05月30日(土)
   * 父親の42周期に
 毎年、父への想いを書いた内容を読み返すと、年齢ごとの思いを書くこと、
書き残しておくことの秘儀の意味が見えてくる。父親の亡くなった年齢に、
あと二年でなる。 余命が少ないことを悟って死ぬまでの生き様、死にざまを
通して多くのことを学ぶことが出来た。 死んでしまえば、いっさい無。
物や金を残したところで、あの世に持っていけるわけでなし、あるのは暗黒の
死の不安と、人生の後悔。死を前にすると、世間とかいう壁がうき上がってくる。
そして、それが如何に、他愛がないものと思えてくる。 あの超保守的な父が、
何を思ったか、『赤旗』をとって読み始めて、自民党批判を始めていた。
それと、死に関する予備知識の絶対量が必要ということも痛感した。しかし、
誰も『自分が死ぬ!』とは思わない。『他人は先、我はあと』と確信している。
あの時の父の激しい生への希求が直接伝わって、「当りまえの、先ある人生が
いかに素晴らしいことか」を思い知った。亡くなる直前に、『良い人生だった。
全く同じ人生を、もう一度生れ変って生きたい!』と母親に話したという。
考えつくした上での人生賛歌の総括をしたのである。 で、死に際の苦痛は例外
なく悲惨そのものだった。私のような大酒飲みは、リンゲルの効きが悪いそうな。
晩酌に缶ビール5本飲んでいた友人が先年、亡くなったが、それは酷かったとか。
                           さて、墓参りだ! 
  * 久々のジョーク
・「おい、見てみろ、日本の総理大臣が共食いしてるぞ!」
 「はぁ? 中国人じゃあるまいし、何を食ってるんだ?」
 「アメリカンドッグさ。」
・なぜ手術室から逃げたのか、お話しいただけますか? 
 病院の理事が患者に尋ねた。 なぜって、看護婦が
『大丈夫、盲腸の手術はとても簡単なのよ!』って言い聞かせたんです。
 それで… 「彼女はね、それを先生に向かって言ってたんですよ!!」
・・・・・・
4824,閑話小題 ー今日は、父親の41周期
2014年05月30日(金)
    * 今日は父親の41周期
 5月30日は父親の命日で、毎年、ここで思い出を書いてきたが、年々、
似ていることを繰返し偲ぶことになる。歳を重ねるほどに、父親に顔も性格も、
ますます似てきているが、父親を知る人は、もう周囲には殆ど居ない。 
人生を振返ると、父親の大きな影響の中で生きてきたことが思いやられる。
その父の亡くなった年齢に、あと二年でなる。 三年前の会社整理もあって、
父親を乗越えることが出来なったが、私にとって、父の視線が、常について
まわっていた。内語で、大事な決断時に「オヤジ、どうしよう」の自問自答を
繰り返していた。その内なる対話が、知恵の原泉である。父親が42歳時の末っ子
のため、溺愛に近い状態で育ってきた。 この温もりが心の奥にあればこそ、
多くの難関を乗り越えることが出来たようだ。いざとなると、折れてしまう人は、
両親の温もりが少ない人が多いようだ。 親の温もりが、その人の温もりになり、
それが、生きていく大きな力になる。良い時代に、良い両親に、良い人に
恵まれたことが、私の大きな財産になっている。特に、父親の愛情と恩恵は、
何ものにも代えがたい。
  * 内省の日々
 数日前から、ー「事業人生を決心して45年」の語り直しーのテーマで
書き出しているが、ここで気づいたことは、これは内省そのものということ。
それをそのまま公開するとは、自分は何だろうと疑問がわいている。 
父の命日の想いも、内省になる。いま現在、命日の朝4時、父の魂と自分が向い
合っていると、背後の数メートルから、「なんてザマだ!」と、一喝されて
いるよう。父親が私にもとめたのは、「人生、社会の規制にとらわれず、事業も
趣味も最大限に生きろ!」ということ。 しかし、この程度しか生きることが
できなかった反省と、後悔がある。酒癖の悪さで、多くのチャンスを自ら潰し、
世界を小さくしてきた自分を省みることも、内省である。 それからみて、
この結果が私にとって‘ベスト’では? と・・ これは自己鎮撫になるか。
来し方を振返ると、何とも浅ましい己の姿が浮かび上がってくる。
このような人生を自嘲した歌謡曲があったが・・ 老いていくと、真面目に
なりざるを得ない。その視点で、過去を後悔するのは、所詮は老人性欝症の
なせる業ではと、内なる声もするが・・さて、これをアップして、
父親の墓参りに行くことにするが、この随日も、私の法事になる。
・・・・・・
4457, 今日は父親の命日 ー40周年
2013年05月30日(木)
 今日は父親の命日、亡くなって40年になる。ここで毎年のように父の思い出を
書いてきたが、父も本望だろう。私も父の亡くなった71歳に、あと3年半で到達、
目先の目標に近づいてきた。私の早寝早起は、父親の生活習慣を見習ったこと。
亡くなった当時は高度成長期真っ只中に、石油ショックが起きて日本中が青く
なっていた。それから日本も世界も動乱が続いた。私にとって父の死と、半年後
の千葉での創業と、結婚は、大きな分岐点で、父の死を引きずり悲しんでいる
暇は無かった。何事も直接跳ね返ってくる事業人生が始まったからである。
「親の死は子供に対する最大の贈物」という言葉のとおり、父の庇護が無くなり、
それから全ての責任が直接被さってきた。全てが未経験で、分からないこと
だらけ、そこで亡くなった父親を心の底で呼び出し、「どうする親父?」と一緒に
考えていた。 次から次への難問が押し寄せ、判断、決断が迫られる。
頼れるのは、浅い経験と知識。それと「親父なら如何する?」の仮説の自問自答。
あの時からの40年の歳月は、やはり長い。世界も日本も、そして私も変わって
しまった。情報化社会の本格的到来と、ソビエト・東欧の崩壊、中国の共産主義
の放棄が、大きく世界を変える要因になった。
 心の底で父に、「ここまで激しい変化、親父も信じられないのでは?」と問い
かけると、「私の想像を遥かに超えている。しかし、羨ましい限り。世界の果て
も気楽に見れるし、知識情報も簡単に入手できるし・・ 混乱期としても豊かさ
の範疇。少し先読みをし、変化を受け入れ自分が変われるかどうかだ」との返事。
過去の命日に、その時点の思い書いてきた。読み返えしてみると、成るほど思い
は残るもの。私が書いているというより、父本人が書いてと思える位だ。
両親から生まれでて、両親の元に帰っていくイメージがあるだけで充分幸せ。
父を通して多くのことを学んだ。何があったとしても、両親の御蔭で、よい人生
を過ごせたと感謝している。さて、お参りだ! そういえば、母親の命日に、
このような文章を書いてない。もっと世話になったのに。
時々、夢にリアルに出てくるためか?
・・・・・・
4083, 父の命日 ー39周忌
2012年05月30日(水)
 5月30日には、毎年のように供養も含めて同じようなことを書いている。
39年といえばアッという感より、遥か古い昔に感じる。父が亡くなって5ヶ月後
に千葉で千城台ビルをオープン、その一ヶ月後に結婚をした。亡くなった直後は、
ショックで茫然自失だったが、数ヶ月もしないうちに激務が待っていた。
そのため父の死を悲しんでいる余裕も無くなっていた。その激務の中、ただ真正面
にぶつかっていくしかない日々。そこで精神的、肉体的体力は、そのプロセスから
ついてくることを知った。人間にはイザとなると、信じられない力が潜んでいる。
極限に自分を置いて真正面からぶつかれば、何とかなるものである。 私にとって
生まれてこのかた、父の存在と影響があまりに大きかった。亡くなって気づいたが、
常に父を意識して、物事を判断してきていた。だから、その時に父が亡くなった
タイミングは私にとってベストの贈り物だった。父の死と、事業の立ち上げと、
結婚と、私にとって初めて独り立ちであった。全ての計画、判断、実践を自分
がして、結果がストレートに帰ってくるのである。それが慣れるまでは、
「自由の不自由性」に戸惑ったが、一度慣れると、これほど面白いものはないと
感じるようになった。 全てが自分一人の判断しか頼りにならない。とはいえ
決断しようにも自信がない。そこで自然と「自分が父だったらどうしただろう?」
の自問自答になる。そう考えると、幼児の頃から父は直接、間接的に多くの
ことを教えてくれていた。経営学とかの理論は、実践の場で直接役に立たない。
頼れるのは場当たりの直感だけである。事業を始めてから現在まで、子供の頃
からの両親の教訓が役にたったことか計り知れない。しかし終わってしまえば、
それまでだが、自分がやりたいことが創業ビジネスだったので、現在の結果は、
殆んど後悔はない。創業を幾つか楽しんだ結果、三つの経済災害で終わったが、
と本心から思えるから有難い。失う哀しみは、いずれ味わう時期がくる。
順調に後継者に引き継いでもである。それなら綺麗さっぱり、根こそぎ洗い
流されてしまえば諦めがつくというもの。この結果は、ワーストでもなく、
ベターでもなく、ベストだったのかもしれない?。 世界恐慌の直前もあり、
ベスト? 父が生きていて私を批判するなら、「調子に乗りすぎて、天合を
欠いたな!」。 新潟駅前で500室は過剰だったかもしれない。
それでも父は、「その結果に押しつぶされる方が大問題。撤収は、正解!」
と言うはず。 世界も、日本も、この異常事態なら当然。
・・・・・・・               
3717、閑話小題
2011年05月30日(月)
  * 今日は父親の38周忌
 父親が亡くなって38周年。私には生前の父親の存在があまりに大きかった
ので、亡くなった日が、第二の自分の誕生日と思うほど。その時が精神的自立
の時だったようである。毎年のように同じようなことを書いているが、八人
兄姉の末っ子で、父親は特別に私を大事にしてくれていた。その意味で、私の
人生は当たりと信じている。両親の愛情の分量が、自分という存在に対して、
肯定的になれるかどうかの境目になる。父が亡くなって38年という歳月は、長く、
刺激的な日々であった。結果として、この事態(倒産)になっても、時代背景
に飲み込まれたと諦めがついている。 父から学んだことは、金銭哲学である。
『死に金を使うな、普段の生活を節制し、使うべき時は使うこと。事業を通して
人生を楽しむこと。趣味は大事にすること。』 大筋は、こんなものだが、
人生の何たることか、両親の生き様を通して学べたことは、本当に良かったと
思っている。この事態でも、両親の子供のころ見てきた苦労からすれば、数分一
でしかない。だから、平然?としていられる。事業を起こし、維持し、そして、
消滅させる物語は、そう甘い要素で成り立つ訳がない。その前提を知っている
から、その辺の輩の批判、罵倒は無視出来る。それにしても、自分の息子に毎年、
このような追悼の文章を書いて貰える父も幸せ?である。これが私の供養である。
   * 地震保険について
・・・・・・
3352, 父の命日(37周年)
2010年05月30日(日)
 毎年、父の命日に思い出や人となりを書いていると、多くのことが記憶の
彼方から思い出される。思い出し、書くことが父にとっての供養と思っている。
「過去の所業と思いが魂」と仮説を立てると、
「両親と子供の頃の思い出は魂の故里」になる。これまで書いてきたが、
父は典型的な明治人で、シャイな性格。 長男で実家の古美術商を引き継ぎ、
第二次世界大戦の戦時中は骨董は売れなくなったため、兵隊の戦死者が多くなり
仏壇と仏具の販売で乗り切った。終戦直後は古着の売買に転進、その後、衣料品
量販店に切り替え、地方では小さいながらも名をなした。古美術商の時代には、
地元出身の山本五十六や、ツガミの津上退助、そして野本互尊などに骨董品を収め、
時代の潮流の情報や薫陶を受けたのが人生をプラスにしたベースになったようだ。 
その結果、「情報の先取りと長期的視野と、転進が、人間の一生を左右する」
というのが持論にあった。それは教養によってベースが築かれることを彼らから
学んだようだ。 学歴コンプレックスも大きかったが、それがバネになった。 
日々の生活を節制するのがベースで、贅沢、慢心、虚栄を忌み嫌い、清潔、
潔癖の明治人の特徴を、そのまま受け継いでいた。朝5時に起き、仏壇で祈り、
新聞を隅々まで読むのが日常だった。その辺は私も同じで、これは家の文化
(ハビトス)か。 また人に妥協するのが大嫌いで、親戚以外は、株屋ぐらい
しか周辺に近づけなかった。酒は年末年始に少し飲むだけで、外食は贅沢と
最小限度しかとらなかった。(当時は、それが一般だったが) 
年に一度の法事と、大晦日の年越しの家族と従業員との宴会が晴れのときで、
その楽しかったことが、そのまま父の思い出となった。 恐らく自分が死ぬ
ときのイメージは両親の手に引かれ、光の中に消えていく光景になるだろう。 
毎年、父のことを書き続けた文章を読み返すと、書き残す不思議を思い知る。
書くことは、その時点では心の記録だが、時間の経過とともに魂の記録になる。
人間の脳の思いなどアテにならないし、思い出もそうだ。しかし書き出し、
それを重ねることで、魂に熟成していくのである。音楽家は音楽で、仏像師は
仏像で、作家は小説で、魂の記録として刻印されるのである。
それも宇宙時間からみれば微小のこと。しかし、微小のことでも、
それに乗っている間は人生である。さて、恒例の墓参り!


5553, 「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとでしよ」」

2016年05月29日(日)

   * 「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとで」
<「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとで」>は、自らの壁を
つくることになることに気づかない。この随想日記を読み返すたびに、
「要するに」が目に付いてしまう。 要約を一度する癖も必要としても、
自分の理解した枠に、せっかくの新しい知識、情報を押し込むために、
次の深化が、そこで止まる。
 最近、老いの一現象か、「面倒くさい」の思いが先立つ。しかし、何事も、
「面倒くさい」先に、面白いこと、楽しいことが待っている。乗り越えてこそ、
面白いのに、「よる年波に勝てず」と、年齢のせいにする。「面倒くさい」を
乗越えるためには、一日、週、月、年単位のスケジュールを予め組むとよい。
 次に、「面白くない」。 これは老化のバロメーターである。以前は、
あれほど面白かったことが、何か詰まらない。「あれは、ああいうこと、
これは、こういうこと」と、小さな自分の範疇に入れてしまう結果である。
何事も、急がしい合間に、無理をしてするから楽しいことが多い。
老いるほど、中村天風の『積極一貫』を心がけなければならない。
「あとで」と後回しにして、多くのチャンスを逸してきた。「あとで」と
後回しにした事の山積みが、あまりに多い。『20秒ルール』と法則があり、
とにかく、20秒以内に、手をつける。投手がキャッチャーからボールを
受取ってから投球に入らなければならない時間を、何事にも当てはめれば
よい。これは、上記は老化現象として、私たちの生活を劣化させる。
・・・・・・
5188,人生相談という気晴らし! 〜
2015年05月29日(金)
            『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
  * 父親とは、息子にとって「存在自体が悪」である
 父と息子の関係は、古代より続く永遠のテーマである。「息子にとって、
存在自体が悪!」とは・・ 私にとっての父親は、最大の理解者で、
独立を一歩、踏出したベストのタイミングで亡くなった。私に必要だった
のは、まず父親からの独立だが、計ったように亡くなっていった。
 人生で一番に恵まれていたのは、父親の直の愛情。その温もりは、
今でも残っている。ただ、私には具体的な指示は一切しなかった。
私から、能動的に具体的な何かを求めてくるまで、何も言わなかった。
≪  Q: 父親とはどういう存在であるべきか?
六十二歳の父親です。三十歳代の息子と娘がいます。私が育った家庭環境は
封建的であり、父を敬う風潮のある時代でした。しかし、その風潮も現在では
古臭いと子供や妻に反感を買うだけです。最近、思うのは私自身が父親として、
どんな存在だったかということです。子供たちは、大学を出たのですが就職
氷河期ということもあり、安定した職につくことなく、社会を彷徨ってますし、
結婚もしていません。私は家族の幸せを考えこれまで働き、経済的な豊かさも
獲得してきたつもりでしたが、これで良かったのかと疑問が残ります。
子供たちに一体何をしてやれたのかと考えるとやりきれない思いに囚われます。
父親の役目を終える時期が近づいているのですが、父親とはどういう存在である
べきかと今頃になって悩んでおります。中島先生はどのようにお考えでしょうか?
  A: 父親は子供から忘れ去られることを望まなければならない
 今回の二つのご質問を読んで、あらためて私は「人生相談」に向いていない
なあと思かました。人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えない
かぎりで、つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな
回答を求めている。あるいは、ちょっと考え方を変えれば「楽になる」そんな
妙薬を求めている。とすると、私にはそういうご期待に答える素質も趣味も
ないからです。人生が何の意味もないことは自明であり、その無意味な人生
の終局は死であって、永遠の無に突入するのでしょう。こうした差し迫った
大問題に比べると、どんな相談も失礼ながらちっぽけなもの、どうでもいい
ものに思われてしまうのです。と厭味を言ったうえで、お答えします。
私も一人の息子の父親ですが、「父親とはどういう存在であるべきか」と悩んだ
ことはまったくない。なぜならば父親とは、とくに男の子にとって三島由紀夫
の言葉なのですがー「それ自体としての存在が悪だ」ということがよくわかって
いるからです。もともと存在が悪なのですから、善人ぶってもすぐに化けの皮が
はがれてしまう。父親は子供に何をしても、いや、何かをするほど嫌われます。
とくに、感謝されよう、尊敬されようとして何かをすることが一番いけない。
とすると、何もしないのが一番いいという結論が直ちに出ます。父親は勝手に
子供を作ったのですから、子供を経済的には二十歳までは支援する義務がある。
子供に生きていくカを授ける義務もあるかもしれない。しかし、それが「義務」
なのですから、何の見返りも期待してはいけない。とくに、「立派な人」に
なること、「幸福になること」を期待することが一番いけない。そんなことは、
(父親という)他人が口出すことではないのです。父親は苦労に苦労を重ねて
子供を育て上げたら、子供から忘れられることを望まなくてはならない。
子供に対する執着を断つこと、子供から独立することです。どうせ、ちょっとで
死んでいくのだから、子供の人生は、子供に任せて、残された人生を自分の
ために使ったらいかがでしょうか?悪人は悪人に徹することです。≫
▼ 父の亡くなった年齢に近づくにつれ、やはり父親が、最大の理解者で
 あったと同時に、教育者だった。いつも、待ってくれていた。傷ついて、
横たわっていた時に、ただ一言『死んでしまえ!』以外、何も言わなかった。
死ぬに死ねないから、ただ、ジッとしていた。そのジッとしている効用こそが
人生にとって大事なことである。  明日は、その父の43回忌になる!
・・・・・・
4823,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー4
2014年05月29日(木)
         「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
   * 万能薬としての「語り直し」
 ー「事業人生の45年」の語り直しーを書き始めたが、何故か心が重い。
 気持ちの中で目的のため、多くを切り捨ててきた部分を違う視点で見ることに
なるからだ。しかし、一つのことを得ようとしたら、それに見合うだけを捨てて
かからないと、何も得ることができない。万能薬として「語り直し」も、劇薬
にもなってしまう。これまでの記憶のありようを現在の主観的経験で変えようと
するのが、「語り直し」である。  ーその辺りから
《 その人の立ち位置によって、同じできごとでも違って解釈できる。だから、
 過去のどんなできごとも、必ず違ってみることができることを、肝に銘じて
賜おくことが必要だ。その上で、ある過去のできごとについて意味づけを変える
ために、そのできごとを、それまでとちがうことばで語り直さなければならない。
世間には「時間が癒す」という言いまわしがある。ここで、見過ごされがちな
ことだが、「時間が癒す」のは、単に時間が過ぎ去るからではない。
時間が過ぎ去る間に、人はそのできごとについて何度も考え、悩み、さらには
新しい経験をする。このことによって、元のできごとの意味づけ、語りかたが
変わるからなのだ。 ・・(中略)
「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけるのは無理なことである。・・(略) 
しかし、―つねにー私たちは、自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の
精神の経過を処理しているわけである。それは、過去とよばれる客観体ではなく、
現在とよばれる主観的経験である。変える必要があるのは、誰か他の人間では
ない。最も大きく影響されているのは、私たち自身である。記憶をぬぐい去る
ことはできないが、記憶の有りようを変えることは可能なことを、私たちは
知っている。」・・ 》
▼ 現在、連続シリーズで書き始めたのは、「語り直し」だが、それより、
 全く忘れていた記憶の書き加えが多くなる。それが、書き直しということだが、
太い幹の記憶から、忘れていた細い幹と小枝と葉っぱ記憶が出てくる。
その記憶が新たな気づきを喚起する役割なってくる。若い時分は、誰も経験も
知識の絶対量が足りなく、ただ漠然と日々を過ごすしかなかった。あるのは、
何とかなるのでは?という、儚い想いだけ。語り直しは内省そのものになる。
・・・・・・
4456, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー4
2013年05月29日(水)                                       
           『一日5分「簡単ヨーガ」健康法』ー番場浩之著   
  * 1日目 "胸を開いて積極的に    
A・完全な呼吸法をする体位……40       
 1、基本体位=仰向けに寝て、脚を少し開く。両手は臍の上に置き、
  親指と一さし指で三角形を作る。「静かな一息」−>「軽く一息」で息を
  出し切りながら、足の甲と膝裏を十分に伸ばす。顎も引いてウナジも伸ばす。
 2、お腹と脚を緩めると自然に息が入る。さらに「深く一息」を入れながら、
  万歳をするように両腕を左右45度に開いて上げ、手指を開いて肘を伸ばす。
  次に、膝裏を伸ばしながら、足先を手前に引っ張るように足裏を反らし、
  足指も充分に開く。この状態を保つ。
 3、ゆっくり息を出しながら、手を元に戻して「基本体位」で「軽く一息」。
 4、もう一回、1〜3を行い、最後に「軽く一息」−>
  「静かに一息」−>「各自の一息」で整える。
B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)……47
 1、基本体位=仰向に寝て両足を揃え、手のひらを上に向けて腕を横に伸ばす。
  次に右手を左の手の平に重ね合わせて左脇を下に横向きになる。次いで右膝
  を曲げて床につけ、足裏を左膝上部にあてがう。右腕を顔前の床に伸ばし、
  左手は右膝にあてがってしっかりつかむ。
 2、「静かな一息」−>「軽く一息」の後、「深く一息」を入れながら
  右腕を垂直に上げ、腰を入れる。このとき、入息に合わせて指先は
  きちんと揃え、肘もまっすぐ伸ばす。
 3、息を出しながら足指を握り、左膝裏を伸ばして腰をしっかり入れて意識
  しながら、右腕を背中側に押し倒して背筋をねじる。ここで、出息に合わ
  せて、足先から手指先までの「大地のアパーナ気」の流れを感じながら行う。
  (膝が床から浮かないように注意し、首もねじって右手先を見ながら行う)
 4、戻すときは、まず息を入れながら腕を垂直に上げて腰を感じ、次に、
  ゆっくりと息を出しながら、丁寧に1の姿勢に戻す。「軽く一息」したら、
  もう二回2〜4を繰り返す。計三回。軽く一息、静かな一息、各自の呼吸で、
  息を整え手、右腕側が終了。
 5、向きを変えて、反対側も、同じことを繰り返す。
▼ 座位で呼吸する他に、仰臥の姿勢で身体を伸ばしたり、捻って呼吸する
 ことで、「大地のアパーナ気」と、「天のアパーナ気」を取り入れるポーズ。
 ヨガの実習は、前屈、反り、ねじり、直立、完全弛緩、座法の姿勢を意識的に
 繰り返す実習で本来の姿に戻すことを目指すもの。特に、一日目の、二つは、
 基本中の基本である。これを身に着ければ、ダイナミックな「気」を引き出す
 ことが出来るはず。そういえば、学生時代の合気道に、ヨガの呼吸法に似た
 ところがある。合気道は相方と呼吸を合わせて気を練る。それに対しヨガは
 あくまで己独りの世界。 合気道の基本技には、「前屈、反り、ねじり、
 直立、完全弛緩、座法の姿勢」の全てが含まれている。ヨガの「大地の
 アパーナ気」と、「天のアパーナ気」を取り入れる行(ポーズ)も、20年位
 前の早朝ウォーキングの途中の橋の上で、天に両手を上げて天の気を取り入れ、
 それを、大地の底(地球の芯)に吸い込ませる呼吸をしていた。ところが、
 暫く休んでいたら、地球の芯が「ひさしぶり!」と反応してきた。
 あくまでも擬人化した対自か即自だが、現在では「球芯様」と名づけて、
 早朝のミニ・サイクリングの自転車上の自己対話の相手にしている。 
・・・・・・
4082, 老いの見本帳ーダークサイト −5
2012年05月29日(火)
    「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)  
  * 老いと勘違い 
 ここで、著者は長いページをさいて、中原文夫の「本郷壱岐坂の家」を
紹介しながら、「老いと勘違い」について書いている。
その概略を紹介しながら、現在の私の心境と、老い、そのものを考えたい。
≪ 主人公は多摩川沿いで大会社でないとしても、180人ほどの会社を持って
 いる会長。 息子が社長で、妻も元気で、事業も順調である。ある日、涼子と
いう20歳の女子社員が給湯室で三人の女子社員から詰られている場面に出くわす。
その時、70年前の記憶がよび戻る。14歳の時に家に家政婦できていた、同じ年代
の中山スズという娘を思い出す。別に女性として意識はしてなかったが、何故か
意地悪をする。その女性に似ていたことと罪滅ぼしの感情もあり、強引に自分の
秘書にする。そして会長職もあり、仕事内容は私用が中心になる。妻とともに、
その女性を身内同様、可愛がっていた。ところが、ある日、会社で火災が発生。
息子の社長の話だと、どうも、涼子が火を放ったらしい。 彼女の話では、
その間接責任は主人公の会長にあるという。 総務部長の自宅に電話をしてきて
「勤務以外の時間に私用で拘束し、休日は自宅に呼びつけ調理をさせたり、
女中代わりに使っていた」という。 すべての好意が歪曲され、悪意で色づけ
されているのに呆然とする。 その彼女から電話が鳴る。罵詈雑言である。
その頃、苛めた中山スズの娘から、一通の手紙を受け取る。スズは既に亡く
なっていたが、死後に、手紙を届けて欲しいと言われていた。その手紙の
内容は、あまり幸せでない生涯だったが、主人公と、その父親に対する深い
感謝の言葉が並んでいた。あの二年間が人生で一番幸せだったと。そこで思う、
「俺はどういう人間なのだろう。思い当たる節もなく、他人から慕われ、
そしてまた、かくも憎まれるということは、これは立派な罪ではないか。 
・・主人公は、これ以上ないおぞましい感情を突き付けられ、縋るように
本郷壱岐坂の家とスズのことへ、思いを寄せる。スズという過去の娘と涼子
という現在の娘、それぞれ互いに感じ考えていたことが全く違っていた皮肉を
綴っている。 ・・・精神科医の立場のコメントは、涼子のような女性は
世間に一定の割合で偏在している。ある種の人格障害には、まぎれもなく彼女
のように「最初は普通に見えたのに、ある時、豹変して相手に憎悪をぶつけ、
今までは耐え忍びつつ演技をしてきたと言い放つ」といった類型が存在をする。
それは往々にして相手に深い精神的ダメージを与える。それによって、
もはや人間そのものを信頼できなくなってしまう。・・・ ≫
▼ 現在の私の置かれた立場は、オセロゲームで、最後のコマが黒になり、
 それまでの白が一挙にクロに変わってしまったようなもの。しかし、いざ、
そこで見据えてみると、自分より、他の人たちの豹変を冷笑し面白がっている
視線がある。人生など、全て勘違いと思い込みで出来ているに過ぎない、
その自明なことが漫画的に現れ出るからである。そういえるのは、リスク管理を
していて、目先の生活に困窮しないで済んでいることもある。事業を立ち上げる
ことは、強力な思い込みを形にすることである。そこには、当然、勘違いも多く
付随するが、消化していくしかない。しかし、最後がクロになると、全ての
出来事は、クロの要素になる。といって、それも物語である。要は、後悔しない
よう務めるしかない。人生は本来、勘違いで成立している。気づきたくないが!

・・・・・・
3716, ジャズについて −10
2011年05月29日(日)
         ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
  □ 黒人アーティストからの反撃  ー「ハード・バッブ」って何 ?
*ソニー・ロリンズ、チャールズ・ミンガスのユニークな活躍
【五〇年代中盤以降、ニューヨーク周辺のビバップの流れをくむ黒人アーティスト
 の間から、クール・ジャズの知的な弱々しさを圧倒するかのような、たいへんに
勢いのある力強くエモーショナルな演奏スタイルが生まれてきた。これを白人
ウエスト・コースト派に対する黒人イースト・コースト派の巻き返しととらえ、
一連の傾向を「ハード・パップ」と呼ぶ。4ビートがより鮮明になり、アフター・
ピートも強調される。ハード・パップ・スタイルの特徴を一言でいえばこうなるで
あろうし、「ファンキー」とか「ソウル・ジャズ」と呼ばれることもあるが、
レッテル貼りはさておき、この時代に活躍したアーティストについて見ていこう。 
一九五六年に有名な三つのアルバムがリリースされた。ソニー・ロリンズの
『サキソフォン.コロッサス』、 セロニアス・モンクの『ブリリアント.
コーナーズ』、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』である。
ソニー.ロリンズ(一九二九〜)はチャーリー・パーカー亡きあと、即興演奏の
可能性をさらに押し広げたテナーサックス奏者である。
『サキソフォン・コロッサス』は日本のファンが「サキコロ」などと呼ぶ定盤中
の定盤。彼の演奏は、豪快でおおらかなトーンの中に時折ユーモアのセンスも
感じさせ、なによりもヒューマンな魅力に満ちあふれていた。
セロニアス・モンク(一九一七〜一九八二)は、ビバップ創始者の天才であるが、
孤高の道を歩む。マイルスとのレコーディングで大喧嘩をしたという逸話が
残っているほど、彼のピアノ・スタイルはずば抜けてユニークであった。
ソロ・アルバムが多いのはそのため。彼は私生活でも時折、意味不明のことを
口走るような変人といわれ、七〇年代はじめに 重病で倒れたあとは、二度と
世間にその姿を見せることはなかった。しかしモンクには好き嫌い抜きで
聴ける「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」「ストレート・ノー・チェイサー」
などの有名な曲もあり、その評価は後年に高まっていくことになる。
(字数制限のためカット 2012年5月29日)


5552,閑話小題 〜反省すれども、後悔せず

2016年05月28日(土)


   * 反省すれども、後悔せず  (源信 往生要集)
 何ごとも、実際にやってみないと判らないし、思いどうりにならない。
だから、その結果に振り回されない様に生きるしかない。反省は経験から得る
ことが出来るが、後悔は変えることが出来ないため、割り切るしかない。
 反省とは、起きたことに対して今後に生かせる点を経験として取り入れて、
同じ失敗をしないようにすることで、それは今に生かせる。
 後悔は、起きてしまったことに対して、別の判断をしていれば別の結果が
得られたと思い悩むこと。変えられないことを思い続けることには意味がない。
思い悩んでいる人に、「その過去に立ちもどって、起こる前の時点に戻し、
あなたの思い通りの今を作り直せるなら、過去に戻りますか?」 
これにイエスと答えられるか? 「過去さえ変えられたらうまくいく」という
強い思いは、これから先に対して、確信など持っていないことになる。
その時点で、考えられるだけ考えていれば、失敗をしても、限界まで努力を
したのだからと割り切れる。何事も最善を尽くし、極限まで、努力をすれば、
不安も最小になる。 後悔は、その地点の、器の小ささ、自己能力の査定の
足りなさの結果に対しての思い。これは、「今の自分は、そのままでは受け
入れられない」と同じことになる。 
 吉川英治が、武蔵に、<われ事において後悔せず>と言わせた。後悔する
なら、初めからしないことだ。命がけでぶつかれば、後悔も反省も無くなる。
 <自分の人生、今さら後悔もあるまい、ご覧のとおり、そのまま結構>
と、割切りざるを得ないと、いうこと。タメ息の「あ〜あ」の「あ〜」は、
諦念の意味という。 で、「あ〜あ!」  何度、口にしただろう。

・・・・・・
5187,世間の捨て方 ー②
2015年05月28日(木)
               『世間の捨て方』ひろさちや著
   * 「がんばればよくなる!」の馬鹿馬鹿しさ
 〜二つの愚問、「生きがいとは何か」「どうすれば幸せになれるのか」〜
この二つの愚問?を真面目に自問自答してきたが、これこそ、「世間の奴隷」
が発する問いかけ、という。「生きがいは、がんばれば出てくる」も似たもの?
我々は「幸せでなければならない」という考え方が、そもそもオカシイとは、
面白い切口である。   〜以下が、考えさせられる (P36)〜
≪ 「永遠のものなどない」が仏教の基本的な考え方です。仏教では、この世
 のすべては常に変化していると考え、どんな世の中も滅びるのは当たり前。
「日本は滅びない」と考えるほうが不自然なんです。『平家物語』の冒頭に
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますが、この「諸行無常」
ということばに、仏教の考え方が端的に表現されています。
「すべてのものは常ではない」、つまり「あらゆるものは永遠の存在ではあり
えない」ということを述べているわけです。「永遠の存在がないとしたら、
この世の中は何なんだ?」と誰もが疑問に思うでしょう。そんな疑問に対して、
聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と述べています。「世間虚仮」の「虚仮」
というのは、字を見て分かる通り、「虚ろであり仮のもの」という意味。
「おれをコケにしやがって」という、あのコケの語源です。早い話が、わたし
たちが生きている世間は「嘘偽り」だというわけです。そして、「唯仏是真」は、
ただ仏だけがまことであるという意味。これが仏教の基本線ですむ世間が虚仮
であるならば、世の中をよくしようなんて、思わないことが大切です。
 ・・「いい世の中にしよう」なんて、仏教の教えに反する行為です。
世間は嘘偽りなんですから、それを良くしようなんて思わないことです。
『法華経』というお経では、この世の中は「火宅」であると記されています。
私たちの住んでいる全世界は火事になっているという。燃えているんだから、
さっさと逃げ出しなさいと『法華経』は教えているんです。「世の中を良く
したい」という人にしてみれば「火宅だったら、それを消してやろう」という
のでしょうが、それは馬鹿げています。大火事なんですから、消火活動なんて
やっていたら焼け死んでしまうじゃありませんか。せっかく『法華経』がいい
ことを教えてくれているのですから、それに従いましょうよ。問題は「自灯明」
です。お釈迦さまは、自分自身を灯明にしなさいと教えられたのです。これは、
自分に自信を持って歩めという意味だとも取れます。しかし、それよりも
「世間の奴隷になってはいけない」と解釈したほうがはっきりとします。
わたしたちはあまりにも世間のことを気にしすぎるきらいがあります。
世間の人の平均や流行に常にとらわれていて、自分が世間でどう評価されている
かが気になって仕方がない。でも、世間なんていい加減なものだということは、
さきほど述べた通りです。「世間の奴隷になっていては、自分というものを
失ってしまうよ」とお釈迦さまはおっしゃりたかったのではないでしょうか。
人間は、つい「生きがいとは何か」「どうすれば幸せになれるのか」と自問
自答しながら暮らしてしまいます。でも、そうしたことを考えること自体、
世間の奴隷になっている証拠です。「幸せ」「生きがい」を求めるのは、
自分で手枷足枷をはめて、進んで奴隷の列に加わるようなものです。
つまらない常識にとらわれることなく、生きたいように生きたらいいんです。
勝ち組になったとか負け組になったというのは、単に世間の物差しで測った
結果に過ぎません。・・・ ≫
▼ TVのコマーシャルや、番組の根にあるのは、コンプレックスの刺激が、
 隠されている。健康食品、美容品、ファッション用品など、『世間では、
こういうのが流行しています。これを使って、カバーしましょう』と!
その手段として、最近ではタブレットPCや、スマートフォンが普及した
ため、逆に世間が、狭くなって、個々への締付けが日々、強くなっている。
世間虚仮も必要だが、その過剰は、世間体コスプレになってしまう。
・・・・・・
4822,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー4
2014年05月28日(水)
   * 産能大学に編入
⑥ ジャスコを辞めるについて、その身勝手さに非常に厳しい(精神的)
 リンチ? 実家に帰った時には首はガチガチで、半病人状態。当然だろう・・
それをみた両親が、四国旅行に連れ出してくれた。親は有難いもので、後先、
両親三人と旅行をしたのは、最初で最後の経験。 坂出でみた瀬戸内海の夕景は
今でも心に焼きついている。その時の印象と心情をメモ帳に書いたが、ホテルの
部屋に忘れてきた。それを見た若い?女性が、感想を書き添えて送り返してくれた
ことが思い出されてきた。 心が傷ついていた反面、それが夕景に共鳴できる
下地になっていた。
⑦ その後、千葉の姉の家から東京の自由が丘にある産能大に通うことになる。
それまでの激務と、今度は何の束縛のない自由の中で、自分で自分を律する日々。
人間は独りでは生きられないが、まず独りになって自分を律する必要がある。
独りになるとは、考えるための第一歩。それが分からないと、集団に埋もれ、
何も考えないで一生を終えてしまう。20歳前半に、その両極端な二年を経験は、
私にとって大きな行蔵になっていた。この一年間は、過っての学生時代の
4年間を凝縮し、学び直すことにもなった。計算外の危機になった精神を
立て直すに、混乱した脳奥から湧き出てくる思いを紙に書き出し、整理する
ことが第一歩になった。50歳半ばから13年間、こ随想日記を書き続けてきた
ベースは、この一年間の独りでの心の血を掬いがあればこそ。文章に変換する
しかなかったお陰である。書かなければ、狂ってしまうから、書くしかなかった
のである。フィールドワーク(現場)の現象の中に隠れている道理を、言語化
する、当時の発想法のKJ法など、情報のカード化に関する書籍を読み、
実行する日々になっていた。経済社会をフィールドワークと見倣し、現象を
大きく分類し、科学するのに、この一年間は、有効に働いた。
⑧ しかし、千葉郊外の「千城台商業用地の売出しの広告記事」を見たことが、
 大きな副産物としてついてきた。それが二年後の千城台ビルの建設用地になる。
これについて、以前にも書いた。千葉県住宅地供給公社が、県の発展のため
住宅地を開発、販売する住宅地で、家付き娘の姉三人の一人が、そこに新築の
家を建て、住んでいた。そこから30分ほどに住む姉二人も、住宅地を購入し、
貸家を建てていた。そこで暇に任せて、購入希望者に対する抽選に応募した
ところ、当選。その後、父親を説得、購入させた。ここの購入条件は二年半
以内に、建設すること。ということは、二年半後に、私が、ここで何かを
始めることを意味していた。その時は、そんなことなど、一切考えず、ただ、
抽選に当選すれば、半値で買える程度にしか考えていた。数年経って気づいた
ことは、予定挫折が、人生で必要ということ。そのプロセスで、必ず副産物が
付いてくるという事を肌身で感じることが出来た。高度成長期も背景にあった
良き時代の真っ只中である。「捨石の節目時節の重要性」ということ! 
決断は独りでこそ。
・・・・・・
4455, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー3
2013年05月28日(火)
        『一日5分「簡単ヨーガ」健康法』ー番場浩之著
 「一週間の実修メニュー」はメニューは以下のとおり。
 シンプルだが、捩れ、反らし、伸ばしなどの要所をおさえてある。
* 1日目 "胸を開いて積極的に
 A・完全な呼吸法をする体位…40 B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)…
* 2日目 "足腰を軽快に
 A・膝を回す体位……54    B・膝を伸ばして、足の指を活性化する体位:
* 3日目 "身体の前後両面と、手指を開く
 A・胸と背中を開き、膝裏を伸ばす体位……66  B・手の指を開く体位ー72
* 4日目と背骨にいきいきと「気」を流す
 A・膝で半円を描く体位……78  B・上体を反らせて、背骨をねじる体位 
* 5日目"胸と脇を開き、首の血行をよくする
 A・胸と脇を開く体位……90      B・首を腕ではさむ体位……96
* 6日目"身体の疲れを癒す      
 A・背骨をねじる体位(腕を大きく回す)… B・上体を反らせる体位(腕を伸ばし)
* 7日目 一週間の疲れを癒し、新しい一週間を迎えるために
▼ ヨガ教室では50分間に、以上を殆ど網羅したポーズをとる。
 他にも椰子の木のポーズ、ワニのポーズとか色々あるが、50人定員のうち、
一〜二人を除けば殆どがリピーターで、回を重ねる度に難度を上げていく。
この本に縛られることもないが、まずは従うつもり。SJでのヨガはエアロビ
感覚で興味本位で参加していたが、これを自宅で実施したら少し本格的。
 30分の早朝座禅は、ほぼヨガの瞑想と同じ。これに一か二つのヨガポーズを
取り入れれば、一寸したヨガの時間帯になる。次回から、上記の具体的な内容を
書きだしてみるが、実際に夜明けに、一人、ヨガを組むのもなかなか良い。 
何気ないそれぞれのポーズに、千年、二千年の積み重ねがある。
問題は続けられるかどうか。ヨガ教室で15ヶ月続けたから自宅でも、
という気になれた。続けると何事も面白くなり、力になっていく。
4時起床で、早朝座禅とヨガね〜!冴え渡るが?
・・・・・・
2012年05月28日(月)
  * 書斎はシェルター
 私の書斎スペースは7畳ほどの仏間の一角である。一角といっても三分二を
占めている。リタイア以降、ここにパソコンを一台置いて、一日4〜5時間は
読書をするか、パソコンで随想日記の下書きを書いているか、iPadに向かって
いる。腰痛持ちのためジッとしているのは一時間が限度、一時間に5分はお茶や
トイレにいったりして節目を作っている。BGMにパソコンに入力した音楽を
ステレオから流している。またネット・ラジオの音楽放送も時々流す。
朝の4時半〜6時、9時〜11時半、夕方1時間の合計5時間は書斎にいる。
途中、廊下をはさんだ前の寝室で寝転んでiPadで遊んだり、TVを見たり、
仮眠をしたりする。居間、書斎、寝室のバランスは丁度良い。外出は早朝の
ポタリング、スポーツジム、図書館、SCが中心になる。書斎といえば、
iPadと、パソコンの中に書斎機能がある。静かに落ち着けるシェルターの
役目が書斎だが、あまり居心地が良すぎると、自閉症になってしまう。
iPadを持ち歩けば何処にいても同じ。小さな生活圏内では何処にいても
自分の居場所ができるのは非常に助かる。
   * ギリシャを合わせ鏡にすると
 ギリシャは西欧哲学の発祥の地。そして現在、世界金融危機の発火点になろう
としている。東の地からギリシャをみると、とんでもない事態に追い込まれて
いるのが分かる。しかしギリシャと大して変わらないほど惨憺たるのが日本。
一年しか持たない首相が改革を錦の旗にして交代するが、いざ就任、実行段階
となると周囲から袋叩きにして、反対勢力が綺麗ごとを旗に権力奪取。
その繰り返しが代々続いている。覚めた目でみれば、その一連を分かってやって
いるから始末が悪い。国民がグローバル化した世の変化を実感できないのが実態。
10年前に決断しておかなければならない国家規模のリストラが出来ないジレンマ
に落ちている。その限界が、あと二年しかないというが、その行き先は、誰も
分からない。ギリシャ国民のユーロ圏に留まりたいが、耐乏生活はしたくない
国民感情は日本も同じ。右上がり経済の再来の幻想に、まだ浸っている。
最後はハイパーが吹き荒れるだろうが。
 ・・・・・・・
3715, 閑話小題 
2011年05月28日(土)
  * フレンドリーの雀はメタボ
 毎朝、信濃川に冬期間を除きサイクリングに行くようになって一年半になる。
10日ほど前に、いつものベンチのところでストレッチをしていると、一メール
ほどのところに雀がきてジッとみている。外国では公園などで何度も人懐こい
雀には出会っているが、日本では珍しい。暫くすると、餌が貰えないと判断した
のか飛んでいった。ところが昨日の早朝に、同じ場所で座って休んでいると、
雀が50センチもしない自転車のハンドルに止まって、こちらを見ている。
ポケットに何かと探したが、クリスクしかない。それを一粒、地面に投げたが、
パンや菓子屑でないと思ったのか、見向きもしない。よく見ると、普通の雀の
二倍近くもありコロコロしている。もしかしたら、雀ではないのでは?と、
見直したが、やはり雀である。恐らく誰かが餌付けをしているうち、他の人
からも餌を貰って太ったのだろう。 親しそうに近くにきて見つめられれば、
何か餌を与えたくなるのが人情。 その結果がメタボである。私も近々に、
餌を与えることになるだろうが。雀と鳩は、世界中、いたるところで見られるが、
その国々で、微妙に違う。餌によるのだろう。ところで最近、本当に雀の数が
少なくなった・・ 餌といえば、アイスランドに行ったときのこと。 
ホテルの近くの公園を散歩をしていた時、野生の大ガンの群れの一羽に
クラッカーを与えたところ、数十羽の群れが、私のところに押し寄せてきた。 
恐ろしくなり無我夢中で逃げたが、その時の恐怖は!早朝の朝靄の中の出来事
が幻想的な思い出として残っている。
  ・・・・・・・・
3350, 新型インフルエンザの総括
 2010年05月28日(金)
 去年の4月に、メキシコで確認され日本に上陸して丁度一年が経ったが、
現在では話題にさえのらない。WHOに入り込んだ製薬会社の連中の煽動に
マスコミが異常に騒ぎすぎた。一年経ってみれば日本だけが過剰反応。
街中の人がマスクをしている姿が異様だったが、それが世界のマスコミに
報じられた。その結果、毎年の冬季に発生する季節性インフルエンザの死者数
より少ない結果になったという、変な結果になってしまった。 医学者で
東京文化短期大学学長の中原英臣が産経の「正論」で、新型インフルエンザ
の総括をしていた。
・新型インフルエンザの想定が鳥インフルエンザに対していた為に、強毒性
 の行動計画に大きく影響された。それが、感染者が一人でも出た時点でも
 都道府県単位で学校を閉鎖をしたり、集会の中止がした。これが過剰反応
 という受け止め方と、逆に、その結果、アメリカの26分の一、カナダの
 10分の一の死亡率に収まった。
・これは、日本政府がインフルエンザの症状があったら、
 直ぐに受診する必要性を国民に訴えたこともきいている。
・さらに日本人の衛生意識の高さが大きく影響している。他人に感染させない
 ためのマスク着用も大きく影響した。「うがいと手洗い」を多くの人が
 積極的に行ったことも影響をした。
▼ 以上だが、この過剰反応、近い将来必ず起きる猛毒性の鳥インフルエンザ
 の予行練習とみれば、決して過剰ともいえなかった。その時の教訓が、この
騒ぎの中に多く含まれている。これは国家の非常事態であり、自衛隊の役割が
大きく求められる。この騒ぎのお陰で30年近く毎年行っていた海外旅行を
急遽キャンセル、結局行かずじまいだった。これで大儲けをしたのは製薬会社。
現在でも、何か?大きな疑問が残っている。当時のマスコミの対応も異常
であった。マスコミも、このことを総括したのだろうか?
  ・・・・・・・・・
 2975, 縁は異なもの
 2009年05月28日(木)
  「縁は異なもの」河合隼雄 白州正子 対談集
河合 日本の芸というのは本当に習うのが大変ですよ。 ずーとやっていて、
 しかも最後がどうなるかわからない。白州 研いで研いで、研ぎ抜いて。
 それで90歳になって精神が現われる・・ 現われないかもしれませんから。
 連載中の本に書いたのですが、読者からありがたい手紙をいただいたのです。
 「よき細工は少し鈍き刀をつかうという」『徒然草』の一節についてで、
 それまで私は「鈍き刀」の意味を「あまり切れすぎる刀では美しいものは
 造れない」というふうに思っていたわけ。でも違ったの。その方は
 「鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎ抜いて、刃が極端に 薄くなり、
 もはや用に立たなくなった頃、はじめての真価が発揮される」という。 
 ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀というんじゃないんですよ。
 本当に鈍い刀を磨いでもだめ。いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロン
 に柔らかくなるんですよ。兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも
 書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は「鈍き刀」じゃ
 ダメなんです。それが良くわかったの。
 ーー
 白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい
言葉の剣先が鋭い。鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて
磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。 
言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。 
芸道や能力のことを言っているのだろうが。


5551, 生きる力ってなんですか?

2016年05月27日(金)

         『生きる力ってなんですか? 』おおたとしまさ(著)
 図書館で、『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?』の第2弾を見つけた。
『生きる力ってなんですか?』のテーマなら、以下の筆者に負けない内容を
書くことが出来るような人生を生てきたつもり。大した事業ではなかったが、
亀のように、準備15年、実業30年、合計45年を生きた経験から言える
言葉がある。何の実態のない得体のしれない事業に、誰一人、助けてくれない。
そこで、まずは、助けてくれる社員を、集めるしかない。何も無いところに、
自分のイメージを計画に落として、それを「カ・タ・チ」に移行していく。
 カ=神のカ、発想、着想。 タ=田圃のタ、枠組みつくり。
チ=血、エネルギーの投入。これを一人、こつこつ、作り上げていく実践が
「生きる力」として作動する。
   〜アマゾンの内容紹介〜
≪ 新学習指導要領のメインテーマ「生きる力」について各界の識者が語る。
「システムが存在しない場に自力でシステムを作り出す」 ・・・内田 樹
「手足がなくて幸運でした。自分の方法を編み出せたから」・・乙武 洋匡
「いやな会社はとっとと辞めろ。女は自分で稼げ」・・・・・・西原理恵子
「正しい生活のためにちょっとの工夫ができること」・・・・・C.W.ニコル
「自分だけじゃなく地球のことも考えられる力」・・・・・・・椎名 誠
「もめごとは肥やし科と異性を学ぶ科へどうぞ」・・・・・・・高濱 正伸
「エベレストに登ったのは生きる力を維持するためです」・・・三浦雄一郎
   (「BOOK」データベースより)
「勉強ができるだけじゃダメ!」「じゃあ、何が必要なの?」「…」答えられない
大人のために、7人の識者が語りました。大人気シリーズ第2弾。親子で読んで
語り合えるように、子ども用のページと大人用のページに分け、ほとんど同じ
内容を、子ども用にはできるだけやさしく、大人用には詳しく書いている。
   (カスタマー・レビュー)
生きる力をとは、最短距離で生き延びるための付け焼き刃のマニュアルを教え
込むことではなく、いかなる咄嗟の危機が差し迫って来た時でも、丸腰の状態
で平然と対処出来る能力のことであると思う。たとえ何度失敗したり遅れを
とっても、その都度その道の先達に衒いもなく教えを請うて絶えず修正しながら、
晩年になってでも再起出来る復元力が必要であると思う。
 政治家や教師が幼児化しているのは、子どもの頃に葛藤を避けたりケンカを
しない様に教えられ、異質なものを受け容れずに大勢に迎合したり、従わない
ものを無視して斬り捨てる教育を受けてきたからであろう。
この本ではそれぞれが小児期から老年期に至るまでの自分の現体験が綴られて
おり、7人とも劣悪な家庭環境や劣等生から如何に人生の師を見つけて立ち直り、
独自路線を切り拓いていったかが簡潔に述べられており、子供よりもこれから
でも教育されるべき大人に読んでいただきたい書である。 ≫
▼ 現在の私の生きる力は、誰に頼まれた訳でもない、毎日の少し厳しい日程を
 こなすこと。どの時間帯も、充実をしているが、そうしないと、精神が大きく
揺らぐ可能性がある。 丸腰で異質なものとケンカをし続けなければならない
のが「生きる力」である。 内田 樹の、「システムが存在しない場に自力で
システムを作り出す」ことこそが、「人生の生きる力」である。そこには、
血と汗と涙がつまっている。

・・・・・・
5186,修羅場の極意
2015年05月27日(水)
                  『修羅場の極意』佐藤優著
  * カネがないのが最大の修羅場
 月末の運転資金が足りないなどの資金繰りの修羅場を経験をしないで事業を
終えることができたのは不幸中の幸いであった。現在、中小・零細の三分一が、
資金繰りに追われる修羅場状態という。身近で、倒産時の修羅場をみてきたが、
正に阿修羅、いや獣のごとく!であった。そのため先年、知人が自殺に至った。
『修羅場の極意』の巻末の西原真理子と、著者との対談がリアル! 
≪ 西原: 夫が病気になって思ったことですが、人間は必ず病気になる。
 病気にならない夫も、潰れない会社に勤めている夫も、浮気しない夫も、
 この世の中には存在しません。そのとき、専業主婦だったら家の中は
 滅茶苦茶になる。夫が倒れて、自分に子どもを養う力がなければ、
 家庭は修羅場になります。専業主婦は極めて危険な仕事です。
 夫を治すために莫大なおカネがかかり、半年後にちゃんと死なせるため
 にも莫大なお金がかかりました。 最大の修羅場はおカネがないこと。
 おカネがないと、たいていの人は獣になってしまいます。おカネがないと
 男の子は泥棒に、女の子は売春婦になる危険性が高くなる。
 自分の娘と息子がそんなことになったら、人生最大の修羅場と考えている。
 それさえ避けられれば、ほとんどのことはどうでもいい。
佐藤: 西原さんの修羅場の対処法を整理すると、まず、最悪の状況を
 シュミレーションをしておく。それで、原因を理性的に分析して、
 危険な芽をつぶしておこうということですね。
西原: 子どもを東大に行かせようなど高望みしない。いい子に育てようと
 いった漠然とした理想も描かない。最悪の危馨理から逆算するのであって、
 上は想定していません。
佐藤: いいじゃないですか。東大を出て超有名企業に勤め上司の顔色ばかり
 うかがって、人間としての誠実さを失っていくようなエリートはいっぱい
 いますが、そんなふうになっても仕方ないのですから。
西原: そうですね。人に好かれる、何か言われてもはね返せる強さが身に
 つけばいいなと思っています。人に好かれるって一番の財産ですよね。
 それと、女の子は他人の中傷とかにすぐへこんだりしがちですが、
 それさえ気にしないで生きていける強度があればいいと思っています。≫
▼ 普通の子女が金に困り売春する金額は世界共通で、その地域の一週間分の
 給料分で、日本では4〜5万円が相場とか。対談相手の漫画家の西原真理子
は、夫の酒乱に悩まされ、末期ガンの夫を見送った手記は、日常生活の修羅場
そのものだったという。私も、事業をしている時、『起こってしまった難題に、
更に最悪を想定し、そこから対策を構築』していた。その積み重ねが、喩えば、
シェルターとか、避難ボートの準備だった。また、事業計画の段階で、最悪を
想定して、逃げ口を念入りに想定した。でも、こんな大津波(情報化社会)が
やってくるとは、思いもよらなかったのが本音である。事業で、お金は、
空気と同じで、きれた瞬間が死(倒産)である。そこから逆算しての
安楽死が事業にはある。安楽死は、自分でしか決断出来ないため、悲喜劇が
繰返される。その三分の一の経験だけは、したくはなかった。父の口癖、
『金がないのは、首がないのと同じ! 万一を想定し、備えを整えるべし』
の実践が最後には救ってくれた。準備があれば、最悪を冷笑する視線が生じる。
『こんな面白いことはない!』という、自虐的な、地底からの視線である。
鼻声で、他人の不幸は蜜の味という何への、侮蔑・汚蔑の視線が面白い。
ところで事業生活45年の、どの部分を切りとっても、修羅場と天国。
商売、事業とは、本来そういうもの。 両方とも楽しむのがコツ。
・・・・・・
4821, 「事業人生を決心して45年」の語り直し ー3
2014年05月27日(火)
  * ジャスコ入社と、新井石龍禅師の一喝!
� ジャスコ岡田屋に入社。幹部候補の特訓のためだが、そこは激烈な仕事量と、
売場と店の急速配転で、疲労困憊の極地。 知らぬが仏とは、このこと。そこは
戦場の真っ只中。自分を鍛えるには絶好の場所だが、実際は、3K、4Kの世界。
悪くいえば、当時の流通業は溜めの世界。それまでのアカデミックの世界とは、
真逆の環境。
まずは、四日市のジャスコ岡田屋本店の配送センターへ。ここが激烈な仕事量。
三ヶ月後には、日用雑貨のカーペットと絨毯売り場へ、その一ヶ月後に、神戸
のジャスコフタギの垂水店へ転勤。合併のための人事交流の尖兵である。
神戸の新興住宅地の駅前店。今度は日用雑貨売場に配転され、まずやらされた
のが新兵を試す瀬戸物の叩き売り。店頭に問屋が持ち込んだ瀬戸物を自分勝手の
売価で売る。あのテキヤの瀬戸物の叩き売りである。 
恥ずかしいのは一時間だけ、これがお客との駆引きが非常に面白い。
安く売れば売上高は上がらない。が、高くすれば売れない。相手が買う値で、
可能な限り売上を上げる。総売上の3割が店のマージンで問屋から入る仕組み。
「男はつらいよ」の寅さんが、露天で売っているのは、この方式。
その二ヶ月後が、これまでフタギに無かった靴売り場の責任者に。 
これが面白いように売れた。嘘のような話だが、数値目標の20倍の売上。
その辺りから、目の回るような配転もあって、これで良いのか、自分が事業を
立ち上げるために、これで良いのだろうか?という疑問が湧き上がる。
そして、原点を見つめ直そうと、学生時代に卒論書きのため通っていた六日町の
禅寺「雲屯庵」に、4日間の休暇をとって坐禅のため行くことにした。
そこには一年前にも司法試験の勉強をしていた高橋さんが、そのままいた。 
 そして、新井石龍禅師との問答。私の『思いの他、世の中が厳しいことが
解りました!』に対し、禅師の『世の中は、いつの時代も変わらない。
厳しいと感じたのは、あんたが甘いだけの話。世の中のせいにしないこと』
の御言葉。ガッツンとやられた上に、たまたま慶應を卒業後にハーバード大の
ビジネススクールに通っていた学生と、そこの修行僧と、高橋さんと私と夜半、
お茶を飲みながらの雑談に、私だけ、彼らの話についていけないのである。
何か根こそぎ、自分が全面否定されているような大きはショックで、迷いが更に
大きくなっていた。そして、今、学び直さないと、一生、後悔するのではと、
ここで退社をして、独りになりきる必要性を感じ、その4ヶ月後に退社を決意する。
しかし、考えてみれば、自分の身勝手で、勤務先など多くの迷惑をかけていた
ことに なる。我ながら脂汗が滲み出てくる。事業創業とは、エゴ丸出し、馬鹿
丸出しのドンキホーテそのもの!漫画といえば漫画だが、何故か、後悔はない!
・・・・・・ 
4454,一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー2
2013年05月27日(月)                                          
   * まず「4つの呼吸」を理解しよう   
 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー番場浩之著 
呼吸も座禅と同じく吸い1に対し、吐きが2。ここでは、呼吸量のコント
ロールを取り入れている。その道の大家が言うのを、心を開いて学ぶのが筋。
スポーツジムのヨガ教室では、まだ、これは教えてない。
 ーまずは、その辺りからー
≪「4つの呼吸」では、呼吸量をコントロールしながら、「意識して行う入息」
→「自然と行われる出息」を繰り返す。普段の生活では、呼吸を意識することも、
腹式呼吸と胸式呼吸を区別して行うこともほとんどないので、まず、お腹で
たっぷりと呼吸することからはじめ、段階的に胸にも息を充たすようにして
いきます。この呼吸がゆったりとなめらかであればあるほど、呼吸の波にゆらぎ
の波動があらわれて、こころとからだの芯にに響くものとなります。
A・静かな呼吸
「静かな呼吸」では、丹田を意識して腹式呼吸をたっぷりと行います。ここでは、
胸の呼吸は行いません。鼻からゆっくりとおなかに入れ、2倍くらいの長さで、
鼻からゆっくりとなめらかに息を出していきます。普段の呼吸の40%位。
B・軽い呼吸
「軽い呼吸」は、「静かな呼吸」の要領でおなかにたっぷりと入れたのち、
胸郭下部を左右に開くようにして、胸にも息をみたします(胸式呼吸)。
胸とおなかをゆるめて、その2倍くらいの長さで鼻からゆっくりとなめらかに
息を出していきます。60%位の呼吸量。
C・深い呼吸
「深い呼吸」は、「静かな呼吸」の要領でおなかにたっぷりと入れたのち、
胸郭全体を上下・左右に開くようにして、ダイナミックに胸にも息をみたします
(胸式呼吸)。胸とおなかをゆるめて、2倍くらいの長さで、鼻からゆっくりと
なめらかに息を出す。 こののち「軽い呼吸」の入息と自然な出息を行い、
続いて、「静かな呼吸」の入息と自然な出息を行います。80%位。
D・各自の呼吸
 最後に、「各自の呼吸」を行います。
「静かな呼吸」「軽い呼吸」「深い呼吸」がしっかりとした意識呼吸であるのに
対して、「各自の呼吸」は、「静かな呼吸」→「軽い呼吸」→「深い呼吸」→
「軽い呼吸」→「静かな呼吸」を行ったあとをおさめる、ゆとりの呼吸のこと。
自然とおなかに入息、ゆっくり鼻からなめらかに出息していく、やすらぎの呼吸。≫
▼「40、60、80、60、40%、フリーの呼吸量を繰り返す」、46864
 と「への字」の形の呼吸と思えばよい。 私の場合は、さざなみ、中波、大波、
中波、さざなみ、引き波をイメージして呼吸量を、それにあわせる。
これなら何処でも練習出来る。22歳の座禅体験から始まり暫く休んで、
ここで早朝座禅、瞑想の再開。 悟りにほど遠いが、面白い。
・・・・・・・
4080, 老いの見本帳ーダークサイト −4
2012年05月27日(日)
      「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)  
  * 鼻白む出来事  
 ここで紹介されていた新宿の百貨店の地下のベーカリーでの出来事が、
どこにでもありそうなエピソードである。品性卑しからずの70歳すぎの老人が、
盆に乗せていた一斤のパンを落としてしまった。不思議なことに誰も、そのこと
に気づいていないようだった。そこで、その老人は素知らぬ顔をして拾い、元に
戻して別のパンを乗せ変えた。著者は呆然と、それを眺めていたが不快感を
持ったという。正直に店員に話せば普通なら店の方も心得ていて、新しいパンを
取り替え、そのパンは奥に引っ込める。それが、外見に相応しくない品のない
行動に老いのイヤラシサを見せつけられてしまった。 私も雨の中、ある駐車場
から一般道に出るとき、溝の鉄板が外れてしまったことがある。大雨が降って
いなければ元に戻すところだったが、誰も居ないことを良いことに、やり過ごした
ことがある。その後の数年間、その近くを通るたびに自己嫌悪に陥った経験がある。 
今回の倒産劇の中でも、そのことだけは注意をしたが、それでも幾つか悔いの
残る部分はあったが、可能な限り自分の良心に従った。もちろん、落城に付き
ものの手の裏を返した身内や友人が数名いた。 後味が悪い切断は、一生ついて
まわる経験則が無いのだろう? 品性もあるが。最後に残るのは自分の良心との
自問自答だけ。後足で砂を蹴った思いほど嫌なものはない。しかし実は返り矢で、
自分で気づいてないのが本当のところだろう。立場変われば、薮の中で、自分の
勝手の解釈を、それぞれがしているにすぎない。老化からくる偏執は、自分の
価値観の歪曲からくる決めつけの起因が多い。老化による精神の弱体の顕在化は、
そのへんから見えてくる。著者は、「老いは、それだけで、その人の在りようを、
偏屈で意地悪で寂しい老人と決めつけられ、それも安っぽい、底が浅い不良少年に
まつわる物語にされてしまう」と述べている。社会的弱者になる、ということ。
だから、早く自覚をすべきということか。静かに、温かみを持って笑い、
独り読書か、音楽を聴いて、目立たない老人も悪くないが、意地悪ばあさん、
じいさんも割り切ってしまえば楽である。 最後は、やはり宗教頼み、
こんな私を神様、お助けください!か。
 ・・・・・・
3714, ジャズについて −9
2011年05月27日(金)
 モダン・ジャズの誕生 ー�    ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
   * マイルス・デイヴィスが生んだ 「クール・ジャズ」とは ?
【 そのチャーリー.パーカーのクインテット(五重奏団)でトランペットを
 吹いていたマイルス・デイヴィス(一九二六〜一九九一)は、四九年から五〇年
にかけて伝説的なレコーディングをする。このレコードの発明(四八)からほどなく
して録音されたこれらの曲を、レコード会社は『クールの誕生』というタイトル
でまとめた。これは、その名の通り「クール・ジャズ」の誕生を告げたアルバム。
クラシックでは馴染みの楽器、チューバとフレンチホルンが加えられたこの
レコード。 ここでのプレイでは、ビバップにはまだ残されていたドライブ感の
あるビートやホットな音色はきれいに消え去り、かわりにビブラートのない繊細
な音色、明瞭で軽快なスウィング調のビートが生かされた。黒人音楽の伝統で
あるブルース的な表現も極力抑えられており、その意味では、クール・ジャズは
ビバップから‘黒っぼさ’を抜いた音楽、ともいえる。事実、その後のクール・
ジャズは、白人中心の展開を見せる。マイルス自身も白人のアレンジャーである
ギル・エヴァンスや白人ピアニストのビル・エヴァンスなどとともに
「マイルス・アヘッド」「マイルストーン」「カインド・オブ・ブルー」など、
歴史に残る名盤を発表している。また、マイルスはそのキャリアを通じて、
モダン・ジャズの歴史に大きな足跡を残すとともに、つねに新しいアイデアを
提供し続けたアーティストであった。 ヘロイン中毒から立ち直った一九五六年
には、クインテットを結成してパートナーにジョン・コルトレーンを迎えている。
この頃のアルバムに「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」がある。
 六〇年代後半には、テナーサックスのウェイン・ショーターやピアノの
ハービー・バンコックらの新進とジャズの枠を飛び出す新しい方向を模索し、
その成果は六九年の「ビッチェズ・ブリュー」で開花することになる。 
エレクトリック・サウンドの導入による、ロックとジャズの融合という果敢な
試みを成功させたこのアルバムは、伝統的なジャズファンの間では賛否両論を
巻き起こしたが、マイルスの名声をさらに高めることになる。七六年には一時
引退し、再びドラッグに手を染めたが、八一年に復活。彼の音楽はより
ポピュラリティを増したものになり、ディスコでもかかるようになった。
日本のCMにも登場するなど、ジャズブァン以外にも広く名前を知られる栄光の
うちに、九一年、六十五歳の生涯を閉じた。なお、四〇年代後半にニューヨーク
においてマイルスによって起こったクール・ジャズは、朝鮮戦争で軍需景気に
沸くロサンジェルスなど西海岸にも飛び火し、ウエスト・コーストジャズなど
と呼ばれるようにもなった。こちらも、中心は白人ジャズメンであった。 】
▼クール・ジャズを要約すると、「ビバップから‘黒っぼさ’を抜いた音楽」
 で、白人中心の展開を見せはじめた。ビバップにはまだ残されていたドライブ
感のあるビートやホットな音色は消え、かわりにビブラートのない繊細な音色、
明瞭で軽快なスウィング調のビートが生かされた。黒人音楽の伝統である
ブルース的な表現も極力抑えられた。この辺になると、ジャズマニアの嗜好の
範疇になる。この辺を意識して、貰った千数百のジャズの曲を改めて聴くと、
それぞれのジャンルを想定しながら聴くと、また違って聞こえてくる。


5550,閑話小題 〜雑念と小猿

2016年05月26日(木)

   * 雑念と小猿
 SJのスタジオ・ヨガ教室に参加して、はや4年3ヶ月になる。
前半の二年は、週2回、後半は週3〜4回、参加しているが、既に
生活習慣の一つで、足腰のセルフ・マッサージにもなっている。
それにしても、50人の集団が一同に会したヨガは、その人数分、
気が集まり、少し疲弊した気を強くする働きがあるような。 
イスラムのドームには、それがあるのでは?
ヨガの目的は、瞑想をしている時の身体と呼吸を整えること。
そこには、どうしても小猿が、彼方此方に飛び回る。ジムののヨガで、
インストラクターが、時どきヨガや瞑想の本質について面白い譬え話をする。 
『内側から次々に出てくる雑念は、自分の身に取り付いた小猿(気)の先。
惑わされないよう、自らを律してください!』という。成るほど、小猿は、
彼方此方飛び回り、ジッとすることなく遊びまわる。思い浮ぶ雑念とは、
小猿(気)が遊び回った先でしかない。猿に惑わされ、本来の自分を
冷静に見つめることが出来ぬまま一生を終えるのが人の常。 
 世には、小猿なら未だしも、大猿になって飼主を支配しているのが多い。
その大猿の群れが、彼方此方で猿芝居をしているのが娑婆世界。
猿は愛嬌があるが、服を着た猿どもは、どうもこうも!
 それより、猿にひかれた私?、貴方?  お後が宜しい様で。
  〜いつもの偶然だが、3年前にヨガについて書いていた。
――――
4453, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー1
2013年05月26日(日)
 スポーツジムのヨガに週二回参加して15ヶ月になるが、家ではやらない。
ジム内のフリースペースで常に数人がヨガやストレッチをしている。
半年前にストレッチマットを買って始めようかと考えていたが、何もしなかった。
丁度良いタイミングに、図書館でこの本を見つけた。100回以上のヨガで、
ここで取り上げているポーズの殆ど経験している。その中で、自宅用として
要約して、「どうですか!」と提示されたよう。 独り部屋でヨガをしている
姿も奇妙といえば奇妙。
  ー著者からの内容紹介ー
動かすだけで、体に自然と力がみなぎり、元気になる!!
1日5分、1週間でマスターできるように、「息の出し入れ」「体の動き」
「気の流れ」の3大要素を、徹底図解。読んでいくだけでも、ヨーガの効果が
体得できてくる!私の師匠が長年提唱し続けてきたヨーガは、インドの伝統に
のっとったうえで、体位法などの形のみに偏らない、呼吸を大切にして
「気の流れ」のあるヨーガでした。しかもそのエッセンス的ヨーガの中に、
伝統的に重要な行法をすべて濃縮した、極めて濃度の濃いものなのです。
本書で説くヨーガも、難解な体位などの実修は含まれていません。
「ヨーガ独得の呼吸法の解説」と、それを通して得られる「生命エネルギー、
気の獲得」そしてなによりも、こうした要素を簡単に
「1日5分、2種類の実修から」始められることが、大きな特徴となっています。
 ●4つの呼吸    ●1日目 胸を開いて   ●2日目 足腰を軽快に  
 ●3日目 身体の前後両面と手指  ●4日目 背骨にいきいきと 
 ●5日目 胸と脇を開き  ●6日目 上体を反らせる 
 ●7日目 1週間の疲れを癒し  
  ●オーダーメイド・ヨーガ   ●症状別のヨーガ    
 次回には、4つの呼吸法を紹介するが、なかなか良い。
 ―
 瞑想は釈迦も取り入れて悟りに至ったが、ヨガとして確立したのは、
後のようだ。 「まえがき」の冒頭で〜
≪ ヨーガは、もともとインドの哲学や宗教のすべてに共通する宗教的な
 実践法でした。仏教も例外ではなく、心を集中し統一するための実践という
意味で、ヨーガ(瑠雌)ということばが使われています。とくにインドの宗教史
のうえでは、グプタ王朝(4〜6世紀頃)の時代に『ヨーガ・スートラ』を根本
聖典とするヨーガ学派が成立し、ごれにもとついてさまざまなヨーガの流派が
出現しました。そのなかでも、12〜13世紀以後に発達した「ハタ・ヨーガ」
と呼ばれるものがもっとも重要で、現在行われているヨーガに直接的に影響を
与えています。「ハタ・ヨーガ」とは、肉体的な修練や呼吸の制御などによって、
心の集中、統一に適する身体と精神力を築き上げる方法です。ヨーガは主と
して健康法として人々に受け入れられていますが、本来は真の意味での
心の安泰、あるいは真実の自分の発見という宗教的な目的をもった
行法であり、瞑想と深いつながりがある。≫
▼「心を集中し統一するための実践法」で、心の安泰と、真実の自己発見が
 ヨガの目指すところ。ヨガの先生が言うには、「私の日常の行為の殆どが
ヨガに繋がっている。歩いても座っても寝ても、靴を履く行為さえも」。
・・・・・・
5185,閑話小題 〜ヤマダ電機、46店舗閉鎖
2015年05月26日(火)
   * ヤマダ電機が5月末に46店舗の閉鎖
≪ ヤマダ電機が5月末に閉鎖する46店舗のうち45店舗は郊外型で、
 需要低迷が目立つ地域で事業を縮小する。一方、今年度の新規出店数は
15店舗と従来の半分程度に抑えつつ、目玉店舗として東京駅・八重洲口側に
新規出店する方針。増加傾向にある訪日外国人の需要を取り込む狙いがある。≫
 というニュースが、先日、突然発表された。
以前も書いたが、郊外型店舗で欲しい商品を見て、実際に購入するのはネット。
確実に二割はお買得になる。ヤマダ電機の総店舗数は国内外あわせて4,401 店舗
もあるから、僅か一%あまりだが、発表後、一週間で閉鎖とは・・
 買ってはないが、目立たない「自転車用ヘルメット」をネットで調べたが、
思いもしなかった帽子に組み込む隠れヘルメットがあった。また、帽子に組み
込まれたヘルメットもあった。それらは、自転車専門チェーン店も販売してない。
 情報化は、あらゆる業態の既存のシステムを根こそぎ破壊している。
   * カースト制度
 インドに行ったときに、まず疑問に感じたことが、『何故、カースト制度が
三千年も存在し続けたのか? 階級間の争いが起きなかったか?』であった。
それに対して、階級が高いアーリア人のガイドが曰く、『それぞれ階級には、
その下の階級が存在しているので、上からの差別を、そのまま下にするため、
バランスが取れている』と、平然と話していた。平等は分かっているが、肌の色、
人種、宗教上からして、アーリア人が、それ以下の人種と混血にさせないため、
つくり上げたヒンズー教。分かってはいても、階級を容認するしかない、という。
考えてみたら、自由、平等、博愛の理念は理想であって、現実は、その逆。
日本のような島国では、実質的なカースト制度が長年かけて構築されている。 
 笑い話?に、『平等の理想が困難なのは、みんなが自分より上位の人間との
平等を願うから!』がある。 なるほど、確かである。その希求は、思いの他に
強いものがある。そのため、下方ほど、他人の粗探しに精を出す「世間びと」
になる。が、それも、差別。『世間虚仮、唯仏是真』というが、せめて、自分も、
「世間びと」の自覚を。ところで、老いるたび、社会の隅に押しのけられていく?
・・・・・・
4820,閑話小題 ー22年ぶりの車選び
2014年05月26日(月)
  * 22年ぶりの車選び
 日常生活の中で、TV、パソコン、車の位置づけは大きい。
この年齢になれば、便利で、面白そうで、実利的であることが第一になる。 
年金生活者ということがあるが、これが最後の車の買物?となると、大いに
迷いが出る。しかし、選定のための中古車センターまわりは、なかなか面白い。
 22年間、乗っソアラの車検の見積で、修理費など30万といわれていた
経費がマフラーの交換が加わり、50万以上の見積になった結果、急遽、買替え
を決め、先週、連日、市内と見附と三条の中古車センターをまわった結果、
メーカー直の販売所に比較的良い車があることを知る。まず、ソアラ・クラスの
三ナンバーの大型車か、普通車のセダンか、スポーツタイプかと判断に迷った。 
まわって思い知ったのは、22年も乗っていた車より、どの車も、遥かに良い!
ということ。「このソアラは当たり!」という思い込みが、過剰に縛られる
ことになっていた。
 日産とトヨタというと、先代のソアラと、その前のコロナを加えると、
35年以上もトヨタ車を乗ってきたため、トヨタ系を選びたくなる。 
また、車は家内名義になるため、どうしても最安の選定に引っ張られる。
こういう時に、偉そうなことをいっても、森の生活とサバンナの年金生活の差
が出てくる。歳からして、あと?年しか乗れないから、可能な限り良いものか、
逆に安いものか、大きな迷いになったが・・ 何の制約もなければ、年齢を
考えても、トヨタのスポーツ車にするが、中古でも結構な値がする。
今更、遠出も、スピードも出さないため、考えた末に止めた。
 で、決めたのが、トヨタの「マークXジオ」、走行距離57千キロの格安
のワゴンタイプ。一応スタイルも気に入った上に、実用的が判断基準。
オーナーは、もちろん家内。で、ますます頭が上がらない。産業廃棄物とは、
よく言ったもの。で、車選定も一歩手前の己と似たのを探し出す!
・・・・・・
4079, 老いの見本帳ーダークサイト −3
2012年05月26日(土)
      「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)   
  * 第一章 孤独な人       
 孤独は、老人に一番、似合っている。老いれば老いるほど、人間は頑固に
なると同時に、愛想がなくなり殻に篭るようになりがちになる。この章で紹介
している老人は、比較的強い人たちで孤独の世界にドップリとつかっている。 
私も長く生きるほどに、この中の誰かに似た人になっていくのだろう。
いや、既にそうか?「長生きはしたいが、歳はとりたくない」という絶対矛盾
が誰の心にもあるのだろう。理想的老人は、孤独でなくてはならないようだ。
社会的にも、経済的にも弱者に追いやられ、孤立せざるをえないのが老人。
≪ 菊蔵は、他人の不幸が嬉しいのではない。まだ自分と無関係にはなり
 きっていないがどんどん遠ざかりつつある「世間」で生じた惨たらしい
出来事が、孤身の自分の気楽さと寄る辺なさとをマゾヒスティックに際立たせて
くれるから、「また、子供が落ちて死んでいないかな」などと思わずには
いられないのである。 そこに孤独な晩年の鬱屈と醍醐味とがある。・・
わたしとしては心の深いところで共感したくなってしまう。わたしはこの章で、
自分の憧れる、あるいは好ましく思う老人たちを紹介してみようとした。
すると、どの老人も孤独な影を携えた人ばかりではないか。 老いに伴って、
心身の能力は衰えていく。もちろん人生経験を踏まえて円熟したり豊かになって
いく要素もある。 が、おしなべて衰えは我々に違和感や困惑を与えてくる。
自分自身がマイナス方向へ変貌していくという実感は、孤独感に通じるだろう。
家族や友人に囲まれていてもなお、ある種の頼りなさや不安、無力感や孤独感
が、多かれ少なかれ付いて回るのではないか。 老人となることは、死に
近づくことでもある。また、馴染み深い人や大切な人がいち早く彼岸へ
旅立ってしまう機会も増えてくるだろう。死とは、おそらく究極の孤独である。
だからこそ恐ろしい。だからこそ祈りが求められる。孤独であっても、淡々と、
あるいは瓢々と、あるいはふてぶてしく生きていく老人たちに興味が向いて
しまう理由には、そのように死への不安が伏在しているからなのかもしれない。
もちろん自身の孤独癖が大きく関与しているからでもあるのだが。≫
▼ 友人や、連れ合いにも先立たれ、誰も見向きもしなくなった頑固一徹の
 老人が長生きの果てに待っている結末か。逆に90歳半ばを超えて元気で、
あと10年は生きると仲間たちと運動している老人も、何か変である。年寄の
愚痴と、悪口、噂話ほど醜いものはないが、それは、孤独を更に際立てる。 
とぼしい行蔵の棚卸も孤独を増すだけ。 人生の終え方は難しい。  
・・・・・・
3713, ジャズについて −8
2011年05月26日(木)
 モダン・ジャズの誕生 ー�    ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
  * ビバップのキーマン、 チャーリー・パーカー
【 四〇年代に出現した、ビバップ・スタイル以後に続く流れを総称して、
 モダン・ジャズという言い方もする。それほど、ビバップ・スタイルの出現
は革命的だったのだ。そのビパップの"スポーグスマン"的役割を担ったのが、
トランペット奏者デイジー・ガレスピー(一九一七〜一九九三年)。
「クレオパトラの夢」で有名なピアニスト、バド・パウエル(一九二四〜
一九六六年)も、のちのジャズメンに多大な影響を与えた
(アルバム『バド・パウエルの芸術』『アメイジング・バド・パウエル』など)。
 だが、最大のキーマンといえば、その飛び抜けた才能を死後になってようやく
正当に評価されたサックス奏者チャーリー・パーカー(一九二〇〜一九五五)
があげられる。 ジャズという音楽において、ペルギー人が発明したとされる
管楽器サックス(サキソフォン)が果たす役割は、他の音楽に対して比較に
ならないほど大きい。バリトン、テナー、アルト、ソプラノと四種類があるが、
いずれもジャズと切り離すことができない大切な楽器である。 このように
ジャズにとって命ともいうべきサックスの演奏家として、あえて代表をあげる
なら、のちに触れるジョン・コルトレーンとカンザス・シティ出身のこの
チャーリー・パーカーをおいてほかはない。サックスを、それこそ自在にはね
回る鳥のごとく縦横無尽に操る早業から、‘バード’名称をミュージシャン仲間
につけられたパーカー。芸術肌のミュージシャンのご多分にもれず、彼は酒と
麻薬に溺れ、34歳の非業の死を遂げるが、ジャズに新し息吹を吹き込んだ
天災であったことは間違いない。 】
▼ それぞれの楽器で、その時代のジャズを特徴づける奏者が出てきてきて
 いた。パーカーはサックスである。モダン・ジャズでのサックスの役割は
大きい。モダン・ジャズは、更にクールジャズへと変っていく。
 ・・・・・・・
3348, 閑話小題 
2010年05月26日(水)
  * 何か凄い夢をみた!
 一昨日の夜半に、変わった夢を二つ立てつづけにみた。これ以上の不愉快が
ない夢をみた。これは不徳のなせること?もう一つが夜空の星雲をみている夢。 
それが壮大なスケールで美しく今だかって見たことのないイメージ。
何かの宇宙映画の映像が頭の隅にあったのだろう。 神の目線のような、
夢でしか経験できない内的な経験である。もっと近づいて見ようとするうちに
夢が終わってしまった。 宇宙に浮いて立体的に星座の星をみている夢は初めて
だが、こんなリアルで壮大な夢をみたのに驚いている。「アバター」や
「2012年」をシアターでみたのもあるか。3Dの映画やTVで、これに近いか、
それ以上の経験もできるのだろうが。脳の奥行きの深さを夢で知らされた
思いである。こんな夢をみるとは、お迎えが近いのかもしれないゾッとする
内的経験であった。内面は宇宙ということ? 
  (字数の関係でカット2011年5月26日)


5549,楽観的人生について

2016年05月25日(水)

 以下の内容は、【楽観的人生 箴言】で検索で探した箴言だが、
どれもこれも、新鮮な内容である。英国元首相のウィルソンの
『私は楽観主義者である。しかし私はレインコートを持っていく楽観主義だ』
など、例え話が分かりやすい。それは、「シェルターを備えた家」「避難ボート
付きヨット」の例えのように、設計段階から考えてあるもの。
 商売人の家では、連合いに別立ての給与を支払い、通帳を別にして、連帯保証
をしない体質にしておく。 銀行の貸金の保全の技の一つに、長期と短期貸出し
の両建てにして、経営が悪化した時に、短期貸出し金に、連れあいの連帯保証
を迫る。そして、次に子供、親類縁者、従業員の連帯保証に魔の手をのばす。
考えてみれば理不尽だが、貸す方からすれば当然のこと。 
≪ ☆ 待っているだけの人達にも何かが起こるかもしれないが、それは努力
   した人達の残り物だけである。
     〜エイブラハム・リンカーン(米国の第16代大統領 / 1809〜1865)
 :結婚も同じようなもの?
☆ 自分の夢に向かって確信を持って歩み、自分が思い描く人生を送ろうと
  努めるならば、きっと思いがけない成功にめぐり合うだろう。
      〜ソロー(米国の作家、詩人、思想家 / 1817〜1862)
☆ 神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。
  ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。
      〜マザー・テレサ(カトリック修道女、/ 1910〜1997)
 :挑戦は、結果として経験と充足感が残る
☆ 安全とは思いこみにすぎない場合が多いのです。現実には安全というもの
  は存在せず、子供たちも、誰一人として安全とは言えません。
  危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。
  人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外には
  ありません。 〜ヘレン・ケラー(米国の教育家、著作家 / 1880〜1968)
☆ 他人の失敗から学びなさい。あなたは全ての失敗ができるほど長くは
  生きられないのだから。 〜エレノア・ルーズベルト(米国のファースト
                   レディ、人権活動家 / 1884〜1962)
☆ 生きるとは呼吸することではない。行動することだ。  
    〜ルソー(スイスのジュネーヴ共和国出身の哲学者 / 1712〜1778)
☆ あなたができると思えばできる。できないと思えばできない。
  どちらにしてもあなたが思ったことは正しい。
    〜ヘンリー・フォード(フォード・モーター創業者 / 1863〜1947)
☆ 人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。
     〜フランシス・ベーコン(英国の哲学者、法学者 / 1561〜1626)
 :悪い道には悪いのが屯している。良い道には良いのが屯している
☆ 危険を冒して前へ進もうとしない人、未知の世界を旅しようとしない人
  には、人生は、ごくわずかな景色しか見せてくれないんだよ。
    〜シドニー・ポワチエ(米国の映画俳優、黒人俳優の先駆者 /1927〜)
☆ 世間からいくら拍手喝采をあびようとも、結局、自分らしく生きていると
  いう実感が得られなければ、何の意味もない。
      〜斎藤茂太(日本の精神科医、随筆家 / 1916〜2006)
☆ 人間には、必ず人生の転機を直感し、的確に判断できるかどうかを試さ
  れる時が何度かある。 〜アントニオ猪木(元プロレスラー / 1943〜)
☆ 人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではありません。それは、その人の
  選択なのです。選択とは、つまるところ、わたしたちの責任なのです。
   〜エレノア・ルーズベルト(米国のファーストレディ /1884〜1962)
☆ 明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。
   〜パブロ・ピカソ(スペイン出身の画家、彫刻家 / 1881〜1973)
▲ 楽観的人生には、長年かけた防御策が必要である。万一の悲観を考え、策を
立ててない楽観など、真の楽観ではない。 思い切った挑戦も、十二分の準備が
あればこそ。それを前提に、以下の箴言を読むと、その深みが見えてくる。 
 考えぬいた末の決断ならよいが、軽率な思い付きでは、それが、のまま直に
跳ね返ってくる。 博打で一番、効率が良いのは、万全の計画の上での創業。
 その当たりは5%辺り。その博打?を、遊びまで高めれば、出来ないことが
出来る。 しかし引き時を誤ると・・ どの道、死んでしまえば同じ泡わわ〜

・・・・・・
5184,世間の捨て方 ー①
2015年05月25日(月)
         『世間の捨て方』ひろさちや著
 常日頃から〈『世間』という妄想と、その害毒〉について何度も論じて
きた。それを、この前書きで、そのまま、理路整然と書いてあった。
 20歳で、創業的人生を選択した時から、悪くいえば「自己中心」の生き方に
徹してきた。大部分の人が、何か得体の知れない模範的良い人を求め、他人の
視線を気にして日常を過ごしていた。そんなものは、転勤か、転職をすれば、
何とことはなく過ぎ去っていく事象でしかない。そして、人生の最終になり、
その妄想に気づいて慌てふためく。いや、気づきもしない人が大部分だろう。
そして、やらなかった後悔、出来なかった後悔に涙する。 以前、取上げた、
ある担任の先生が私に吐露をした、「自分には人生が無かった!両親とも教員で、
自分も教員を半ば強制的に歩んできた。定年になった現在も、90歳になっても
健在だが、何事も無い人生ほど詰まらないものはない!」と、かなり強い
初老性鬱病の前段階。一番身近な親たる「世間」の犠牲者である。
  〜まえがき〜より
≪ 「俺はどんな女も口説き落とせる」と豪語する男がいました。ところが
 彼は、ある女性から肘鉄を食らった。「きみも失敗することがあるんだね」
と言う友人に、彼はこう言いました。「なあに、あれは女じゃなかった」
 こういう人を世間では「自己中心」と呼ぶようです。
では、「自己中心」の反対は何でしょうか? わたしは、それは「世間中心」
だと思います。普段、わたしたちは「世間中心」で生きています。
無意識のうちに世間を気にしているのです。世間に気兼ねをしています。
 子どものころから、わたしたちは、
「そんなことをすると、世間の人から笑われますよ」と・・
「世間の人から褒められる人間になりなさい」「立派な人になりなさい」と
教えられてきた。つまり、世間の「期待」に応えることが求められていたのです。
しんどい生き方ですね。よく考えてみてください。世間の「期待」に応えると
いっても、その「期待」が何なのか、あなたに分かっていますか? 
企業が「期待」する模範社員は、おとなしくて、あまり自分の意見を言わず、
仲間と協調する人間でしょうか? それとも、独断専行的ではあるが、行動力
のある人間でしょうか? 場合によって違っています。とすると、あなたが
企業の「期待」に応えるためには、場合に応じて自分を変えねばなりません。
どう変えればよいのかさっぱり分からないままに、ともかく自分を相手に
合わさねばならないのです。 疲れますよ。そんなことをしていると、
人間失格になってしまいます。だから、世間を捨ててしまいましょう。
世間の「期待」なんかに応えなくていいのです。
 だいたい優等生というのは、相手の「期待」に応えようとして、うじうじ
悩んでいる人間です。いままでの時代は、そんな人間がある程度幅を利かせて
いたかもしれません。でも、これからの時代、世の中がどう変わるか、誰も
予測できません。とすると、優等生的生き方をしていてはだめなんです。
「世間中心」ではなしに、もっと大胆不敵に「自己中心」でいきましょう。
たとえば、学校の試験において、かりにあなたが不合格点をつけられたら、
「あんな問題を出すなんて、教師がまちがっている」と言えるぐらいの人間が
いちばんいいのです。あなたが働きやすい場所でなければ、それは会社が悪い
のです。会社の管理職は、あなたがもっと働きやすい組織形態に会社を変える
必要があります。そう思えるようになるのが「自己中心」の生き方です。
 本当にお先真っ暗な時代です。こんな時代を生きるには、世間に気兼ね
していてはだめですよ。だって、世間のほうがどうしてよいか分からず、
われわれに気兼ねしているのです。わたしは、いまの時代をそのように
読んでいます。本書において、わたしは自己流の時代の読み方に従って、
われわれの今後の生き方を考えてみました。これまで誰も言わなかった
ことですから、きっとあなたの生き方の指針になると思います。・・ ≫
▼ 母親が亡くなった財産分与の話合いの時に、姉四人が、私に
『何で特別に、アナタだけが、学生時代から、何ごとも自由に許されて、
したい放題。私たちは両親の監視下で、何にも出来なかった。あまりに
理不尽過ぎる。特に父親は厳しすぎた。しかし、あなたに甘い』と、
あたかも、私が父親であるかのような怒りをぶつけていた。厳しかった
父の姿を見てきたこともあり、両親を含めた「世間様」とは、心の奥で
一線を隔した内省的な性格になっていた。 で、このザマだが、自由に?
生きられた充実感は、何ものにも勝る。今日は、「ひろさちや」の過去分
の読書日記を、以下にコピーした。 改めて読んでも、納得する内容。
――
2007/02/15
2144, 「狂い」のすすめ −1 
       (~Q~;)  おはよう〜〜ファ〜  サム!
閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・一期は夢 ただ狂え」
を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。
まさに何時も、ここで書いていることである。
私にとって、今ひとつ物足りないところがあるが、団塊の世代の
マニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、丁度良い内容である。
人生に意味など無い、生まれ、飯を喰って、くそをして、死ぬだけだ。
あるのは「いま ここ」だけ! 
   ーまずは、その概要からー       
                     ー読書日記
                  著者:ひろさちや :集英社
 世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。
狂者の自覚を持つことで見えてくることとは…。
人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、
自分を楽しく生きようと呼びかける。
     ー表紙裏の内容紹介ー
 今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。
世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。
そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。
当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、
狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。
そうすれば、かえってまともになれるからです。
人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく
生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術は
ここにあるのです。
 
−面白そうな所を何箇所か抜粋してみた-
*『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』
*「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、
  エコノミック・アニマル、すなわち畜生の生き方をしています。
  日本人は狂っているのです。」
*「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、
  裸足でやせたインドの子どもと、どっちがまともなんでしょうか!?
  そして、どちらが幸せでしょうか!?
  わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」
*「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。
  だから楽なんです。ところがわれわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か
  味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」
*「浄土経典である『大無量寿経』においては、
 《人、世間の愛欲の中に在りて、独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》
  と言われています。この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」
*『わたしたちは、人間を商品価値、機能価値で測ってはいけません。
  機能価値は相対的に変化します。
  勤勉な人間の方が怠け者より機能価値が高いようにおもわれますが、
  その機能価値は他者との縁によって一時的に付加されているものであって
  絶対的なものではありません。
  従って、人間の価値は、「存在価値」で論じられるべきであって、
  その存在価値を測る物差しは、「仏の物差し」「神の物差し」
  でなければなりません。それは目盛のない物差し「測らない物差し」
  なのです。』
= 要約をすると=
 ー大多数である弱者が世間(=強者)の奴隷とならないためには、
  世間(強者)が『常識』としている(それはしばしば強者の都合で変わる)
  ことがらを信用しないことである。
  だがまともに闘おうとしても勝てっこないので、むしろ世間(強者)から
 『狂っている』とみなされるようにすれば、世間(強者)も遠慮してくれるで
  あろう(いつ噛み付かれるか恐れるからだ)。
  今の世間(強者)の方が狂っているのだから、その常識の中で
 『狂っている』ということは逆にまともといえる。ーということだ。  
  
 少し強者でなければ実際は難しいがね!
−今回はこの本の大筋の面白そうなところを書いたが、
 次回は、狂ってみせる対象の世間様からのアップスケールについて、
 主観を込めて書いてみる。世間はバカが多いからね!
 なら、もっとバカになっていればよいだけじゃないかい?
 そのままがバカだから、バカになることもないか!
              つづく ¥(*^_^*)\ バイバイ
―――
2006/02/02
1766, こころの羅針盤(コンパス) −1
                     −読書日記
三十篇の文章を、どれを読んでも深い心の世界に引き込まれる。
「私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。
行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。」
という言葉一つ捉えても、ハッとする内容が次から次へと出てくる。
その幾つかを抜粋してみる。
               (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?
 まずは、
「こころの震えを感じるとき」
 ─まえがきに代えて─      五木寛之
「人生いろいろ」という歌があったが、こころ模様もいろいろである。
「こころの羅針盤」というタイトルヘの感想もまた、各人各様だろう。
「こころ」という言い方がなあ、と苦笑する人もいるだろうし、
「こころ」に羅針盤なんていらねえよ、と、そっぽを向く人もいるにちがいない。
 しかし、本のタイトルなど、本当はどうでもいい事なのだ。
「題名いろいろ」と、歌いとばしてもらっても一向にかまわない。
とりあえずここにギュウギュウづめになっている三十篇の文章を、
どこからでもいい、パッとぺージを開いたところから読みはじめてごらんなさい。

「人間いろいろ」「文章もいろいろ」、こんなに各人各様でいいのかしら、と、
あっけにとられる位に個性的な書き手のオンパレードである。
声に出して笑ったり、ため息をついたり、なるほどなあとうなづいたりと、
私自身、人生を三十回生きたような感じがした。
 才気あり、含蓄あり、厭味あり、教養あり、風格ありと、
活字を読む楽しみこの一冊につきると言えば、
いささか香具師の口上めいてくる。
羅針盤の針は必ずしも一点を指すわけではない。
 実際に磁石を使ってトレッキングしたかたなら経験がおありだろう。
震える針は揺れ動きながらも、最後は落ち着くところに収まる。
この三十篇の文章は、右へ左へと跳びはねながら、
最後は或る一点に読む人を導く。
 それは「こころ」という実体など、じつはどこにもない、
という乾いた真実である。
私たちが「こころ」と信じているものは、存在する人間の影にすぎない。
ひとりひとりの性格や体型が異なるように、
その影も異なったかたちをしている。
 私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。
行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。
ここに集められた文章のすべてに、その確かな意志がひそんでいる。

 そのことが感じられたとき、震える私たちの「こころ」は、
それぞれの一点にむけて収斂するにちがいない。
ここにあるのは、そのような力を秘めた見事な文章ばかりなのである。
                        
ー評ー                        
 作家は、どうしてこのような上手い文章を書けるのか、
その博識に驚かされ、ただ感じ入るだけだ!
                     つづく
――――
2015/02/15
真の友人 ー楽しく生きる一日一話 〜③       
   * 真の友人    【本日「いいかげん」日和 】ひろさちや (著)
 私に真の友人がいただろうか? 学生時代からの友人が存在するし、
仕事での付合いから、気心が知れた人が何人かいる。そういう人は、年に
一度か、数年に一度しか会わないが、それで十分。この随想日記は、一方的
に、友人にトッテオキの情報を知らせる感覚で書いている。 その意味で、
ビュアーは私と会っていると同じ? しかし残念ながら、知人で同じ感覚で
ブログを書いている人はいない。今ではソーシャル・ネットワークもあるが、
何か参加する気になれない。 ー以下のドイツ人の友人観に同感するー
≪  ある日本人がドイツ人に尋ねられた。
 「あなたに友人はどれくらいいますか」
 日本人は、『さあ、百人か二百人くらい……」と答えたが、
 それを聞いてドイツ人は驚いたという。 
  ドイツでは、その人のために自分を犠牲にできる人 
 ――自分が何も言わなくても、自分をわかってくれる人――
 この二つの条件が満たされて、はじめて「友人」と言えるそうだ。
 だとすれば、百人も二百人も友人がいるわけがない。
  ドイツ人が驚くのも無理はない。
 わたしたち日本人は、いささか「友人」を安売りしているのではないか…。
 簡単に友人ができる、友人をつくれる、と思い込んでいる。
 だから、自分に友人がいないとさびしくなる。
  しかし、真の「友人」というものは、一生に一人得られるか否か、
 といった存在なのだ。そう考えると、いま自分に「友人」がいなくても
 悲しむ必要はない。これから死ぬまでのあいだに、真の「友人」に
 めぐりあえぱいいからである。きっとチャンスはあるであろう。 ≫
▼ 以前、トーク番組で、『私には友人がいません!』といってのけ、
 周囲が一瞬、静寂になった、のが印象的だった。これを公然と言放つには
 強さが必要である。20歳時に、両親の後姿から、創業を決意した時から、
 自ら友情を求めない孤独業、一種の自閉症になっていた。といえ、友人は
 存在していたが。 創業を決意して見えるのは、自分の卑小、無能だけ。
 しかし、今さら後には退けない袋小路で、その都度、友人ができていった。


5548,閑話小題 〜都知事の変節

2016年05月24日(火)

   * 都知事の変節
 都知事、公私混同で窮地にたっているが、知事以前の過去分を含めて、
ここまで表だってしまい延命が可能かどうかの瀬戸際まできたようだ。 
バラエティーで、司会が、「たけし」に、<都知事になりませんか>と、
ふると、<俺がなったら、汚職のやり放題> と、両手で懐に向けて放り
込む身振りのジョークが真に迫っていた。 やり直しをしても、たけしの
弟子の、元宮崎県知事が出てきて、間違えなったりするよりマシだが。 
石原慎太郎にしろ、猪瀬にしろ、都知事の絶大な権力は、我身の分際を見失う
力があるようだ。
   * 思いのままに
 大相撲も終わって、今週末から、伊勢志摩サミットが始まる。
オバマ大統領の送別会的サミットだが、オバマを二期させたのが間違い
だと悟ったアメリカ国民は、トランプを、大統領に選ぶ可能性がある。
<世界は既に「大恐慌」と、「欧米のキリスト教と、ISなどイスラムとの
宗教戦争」に既に入ってしまった> と仮説をたてると、アメリカは、
強硬派のトランプを選択、という流れが起きる可能性がある。
 アジアは、<天気晴朗なれど、波高し!> だが。
   * 何かお店が大変みたい!
  家内が言うに、「スーパーとか、ショッピングセンターで、日々、
不況が深刻なっているのを感じる!」という。 今朝の、朝刊の地元版に、
新潟に本社を置く「ウオロク」の社長が心筋梗塞で急死、との記事があった。 
長岡の「原信」と一騎討ちだが、規模、システムから見て、「ウオロク」は、
不利に見えていた。 その中での急死、正しく戦死になる。
 リタイア前から、年金暮らしになると、経済の動きに対して疎くなると、
聞いていた。そして、その立場になって、まる5年になるが、まさに、そう。 
気楽で良いが、週に一度、酒と肴をスーパーで買う以外に、世間との接触が
無い上に、他の買物はネット上で済ませてしまう。 老兵は、静かに、
ひっそり生きるべし! ということか。 それも慣れれば、それでよい。

・・・・・・
5183,TPPを考えるに
2015年05月24日(日)
                『読書脳』立花隆著   
  * TPPは、アメリカが世界の富を吸い上げる戦略の要!
 ここで、反対の立場からのTPP入門書を紹介している。
「TPPこそ、アメリカ主導の、アメリカンルールで囲いこんだ地域経済を
太平洋周辺に作らんとする、ブロック経済そのものの発想。」と談じている。
日本国家として、それを分かっていても、中国との地政学上、その枠外に
出ることは不可能。その上に、現政権は、保守本流で、アメリカのポチなら・・ 
日本は70年前にアメリカに敗戦、現在に至るまで、軍事、経済と間接支配を
されており、そのブロックからの脱出は不可能! =アマゾンの紹介より
≪ 世の中、TPPへの参加をめぐって賛否両論がわきたっているが、もうひとつ
 議論の焦点がよくわからんと思っている人への、最良の入門書が、E・トッド
他十一人の著者による論集『自由貿易という幻想』。 これは賛否両論を要領
よくまとめたどっちつかずの入門書ではなく、「反対」の立場から、なぜ反対
すべきかを、多くの論者がさまざまの論拠から明らかにした党派性ある入門書。
非常に説得力がある。TPP参加を「第三の開国」と唱える人々は、自由貿易を
アプリオリに善とし、保護貿易をアプリオリに悪とする考えにとらわれ、
保護貿易は世界経済をブロック経済化し、世界恐慌に通じる道だとするようだが
それは正しくない。TPPこそ、アメリカ主導の、アメリカンルールで囲いこんだ
地域経済を太平洋周辺に作らんとする、ブロック経済そのものの発想。
その目的は、双児の赤字に悩みつづけ、ドル価値を落してきたアメリカが、
その囲い込みをテコに再浮上をはかろうとすることにある。
 年の大統領一般教書演説で明らかにされたように、「アメリカは、2014年
までに輸出を二倍にし、もって自国の雇用を増やすという戦略」を持つ。
「そのための戦術は、第1に為替の誘導であり、第二に非関税障壁の破壊である。
いずれも、八○年代のプラザ合意や日米構造協議以来、アメリカの伝統的な
経済戦術」。考えてみれば、ドルと金の交換停止(ニクソン・ショック)は、
「史上最大のアメリカによる債務不履行宣言」といってよい。
 その後、世界の通貨制度は、「ドル"準金本位制からドル基軸.変動相場制
に移行した」が、それは、金の裏付けを失ったドルを、「超大国アメリカの
軍事力と消費市場の巨大さを背景に流通させる」というシステム。それに
よって「アメリカは一種の中央銀行としてドルの発行で特権的な利益を享受し、
貿易赤字を気にする必要がなくなったばかりか世界経済を通貨と金融の面で
自由に操作」できるようになった。その後のアメリカは、実体経済の弱さを
「自国に残された唯一最強の商品であるドルを駆使して打開しようとする国」
になってしまった。その結果招かれたものは、「世界経済の金融化」と、金融
資本を国家の壁を越えてスムースに動かすことを可能にする「グローバリ
ゼーション」。その果てに出てきたTPPの推進は、「吸血鬼よろしく、アメリカ
ができる限り世界の富を吸上げて瀕死のドルに輸血するための策」と見てよい≫
▼ 欧州経済共同体(EEC)をなぞった「太平洋経済共同構想」の通貨統一を
 除いた経済圏なら、日本の農林業や、金融業は、更にアメリカ支配が強まる。
 特に、日本の金融資産は骨の髄まで毟り取られることになる。
 韓国の現状が近未来の日本である。国民の7割が国外移住希望という国に!
・・・・・・
4818,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー1
2014年05月24日(土)
 自分史的物語など、都合の要素だけを切り取り、繋げあわせた絵柄。
私の場合、こういう結果だからこそ、歩んできた道筋の要所要所の現象、決断
などの語り直しの絵柄も面白くなる? 実感としては、「この結果こそベスト?」
と、「そう都合良く思うしかない詭弁?」という気持ちを含め、断片的に語って
きた物語の「語り直し」になる。 傍から見れば珍妙な己の姿を、この結果
なればこそ、自覚できる。隠れテーマは「この喜劇の創りかた」あたり。 
ここで書く内容は、今まで書いてきた断片的な事象、内的体験の再編になるが、
視点が変わると新たな記憶が蘇ってくる。そのため殆ど書いてないことに
気づいてきた。語り直しは、あまり気持ちの良くないが、書き続けるうちに、
新しい視点が多く出てきている。自分とは、それぞれの記憶の総合体だが、
その記憶そのものを変える作業は、極度の神経の集中が必要になる。
 < 「事業人生を決心して45年」の語り直し >    
   * 学生時代編 ー前編 
① 事業創業の人生を目指そうと決心し、準備15年、創業から30年の独り
 語りを始める。漠然と自分の将来は、流通業と漠然と考えていた20歳の時、
「キリスト教倫理」の夏休みに、『これからの人生設計』のテーマのレポートが
 宿題に出された。そこで、それまで真剣に考えたことがなかった自分の将来に
 ついて考えてみた。 その内容といえば、『 父親のような創業を幾つか挑戦
 してみたい、過酷としても、事業創業の人生を生きたい! 』と。 
 その時から、人生が変わっていった。そこで当時の授業カリキュラムの内容を
 改めて見直すと、前半二年の教養課程が、人生の土台になる学問。後半二年が、
 そこから選択できる専門課程が整然と組込まれており、これから生きていくため
 のカリキュラムが合理的に組まれていたことを知る。 哲学者エリクソンは、
 学生時代や、病気療養の期間を、「心理・社会的な猶予期間」とし、より自分
 らしい人生を選ぶために必要な時間として前向きにとらえている。
 人生を振り返ってみて、大学の4年間や、その後の放浪が、自分の生きる
 目標を明確にするため必要であったことは、体験上、充分に理解出来る。 
 そのレポート作成で、漫然と生きてきた自分に気づくことになる。
 その時、真剣の考えた分、ノンビリしている同期生より、二年早く将来設計
 に気づいたことになる。卒業半年前になって、慌てている人が過半数?はいた。 
 それから読書も、友達付き合いも全く変わっていった。
 自然と、クラブの合気道と、寮生との距離が離れていった。 
② その頃から、遊び半分、アルバイト半分で、学生寮の先輩が鳩山一族
 の政治団体「友愛」が経営する『友愛山荘』を任されていた軽井沢の山荘に
 手伝いに行くようになっていた。先輩の寮生と二人、そこの手伝いに誘われて
 掃除とか、料理をしながら連休とか夏休みなどに、山荘生活と、軽井沢の世界
 を楽しむようになった。そこは、鬱蒼とした森林の中の別荘地。その世界を
 憧れる若い女性と、金持ちが集まる別天地である。こういう世界の住人になる
 には、それなりの力を持たなければと実感することになる。それにしても、
 早朝の朝靄の小道の散歩は格別! 世界には一部の裕福層と、その他が存在
 することを肌身で知ることになる。それより何が楽しいかといえば、夕食後の
 ミニ・パーティ。紅茶と御菓子で、フォークソングを歌い、踊る。
 それも御客は若い女性ばかり・・
・・・・・・
4451, しまった! ー1
2013年05月24日(金)
    ーしまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン(著)
 人間の認識の甘さは今さらいうまでもない。カントのコペルニクス的転換、
「人の認識は対象に従うのではなく、認識が対象を決める」。それを知識として
知らないため、思い込みに縛られ、人は多くの失敗を重ねてきた。
更に失敗から学ぼうとしないから始末が悪い。その上、失敗に対して
意識的にも無意識的にも話を作りかえる。  
 まずはー内容紹介ーより人間はなぜ、まちがうのか」というテーマについて、
面白くてネタになるトピックを「これでもか」というぐらい集めて分析した本。
たとえば・・・・・・
★ レントゲン技師は、画像に写っていた悪性腫瘍の9割を見落とす?
★ トップレスダンサーの収入は、彼女の月経サイクルに左右されている?
★ 黒いユニフォームのチームは、ペナルティーをとられる可能性が高くなる?
★ 人間は、誤りを犯しそうなときは、むしろ「行動を起こさない」
  という誤りを犯すほうを選ぶ?
★「セックスした相手の数」を、男は女の四倍も多めに答えたがる?
★ 医師の八四%は、同業者がメーカーからの贈与に影響されていると考える。
  だが、自分が影響されていると考える医師はわずか一六%しかいない。
★ 人はなんらかの形で自分が不正をしていないことを証明すると、
  その後の作業でもっと不正をしやすくなる。
★ 映画を「あとで見る」人は高尚な作品を、「いま見たい」人は
  大衆的な作品を選ぶ。
★ キャッシュローンを勧める通知書に女性の写真を載せるだけで、
  利率を五ポイント下げたのと同じ効果が期待できる。
★ 予備選名簿の一番目に載った候補者は、得票に三ポイント上乗せできる。
★ 投資家は、金曜日の経済記事には月曜日の記事ほど注意を向けない。
★ 人間は、印象の操作など特定の目的のためには平気で話をつくり変える。
★ 無意識につくり変えた話でも、二度三度と繰り返すうちに、
  いつしか「記憶」そのものになってしまうことがある。
★ 一般的に、男は自分を持ち上げるために、女は他人を持ち上げるために
  嘘をつくことが多い。
★ 社会的地位や学歴、収入は、全体の幸福度にわずか三%しか占めていない。
★ 人を単純作業に従事させるためには、お金の力がものを言う。
  だが、たいていの行動では、人間は総じて金銭的動機には左右されない。
 (ゆえに、行動経済学はあまり役に立たない?)など、興味深い話がてんこ盛り。
▼ 人は思うほど完全な存在でないが、しかし周囲は人が完全であるかのような
 前提で動いている。私が学生時代のゼミで多くのことを学んだ中の一つに
「会社組織は完全な存在でなく、個人の将来まで考えてくれない。
独自で学び続けなければ知識や能力は得ることが出来ない」ということ。 
キャリアは自身でつくり上げるもので、与えられるものでない。実際のところ、
成功の背後には失敗の累積がある。問題は致命的な失敗をしないこと。
そして、失敗から学び取ること。人生を振り返って、今になって真の失敗は
何だったか気づくことが、あまりに多い。
・・・・・・
4077, 哲学で自分をつくる ー4 (ソクラテス)
2012年05月24日(木)
     「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著)  
 * 魂に磨きをかける    
   第一章 しったかぶりはもうたくさん 〜ソクラテス ー�
≪ 死刑を宣言された際、つまり自分の死に対し、「死を恐れることは、
 死のことがよく分かってないのに分かった気になる」に等しいと、ソクラテス
は考えた。死について何も分かってないのに「死を恐れる」などということは
愚かしい、誰も死を知っている者はいないのに、なぜ恐れるのかと問いを発する。
命がけで期待された弁明の機会もアテネ市民の将来を憂いる。そして死刑判決を
受ける。 ・・無知をハッキリさせることは「汝自身を知れ」に通じる。
自分が何も知らないことを自覚し、より一層真理を追究する態度は、単に、
汝自身を「知る」ことでなく、魂の鍛錬という「実践」であり、自分がよく
生きるための問いである。魂を磨くことは、ただ漠然と、自問自答するので
はなく、他者にかかわる中で、他者に問いかける中で磨かれるものである。 
ソクラテスが探そうとしたのは「真理」であって、ソクラテスらしさでない。
探し出すには、相当の鍛錬、実践が必要とされた。自分の魂を磨くには、
命をかけて真理を追究しなくてはならない。他者が嫌がることでも、問いかけ
を行わなければならない。この対話、営みは「パレーシア」(真実を語ること)
と呼ばれている。彼の対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための
技術ではなく、「相手に問いかけること」そして相手の主張を「聞くこと」
に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この「聞くこと」
のための手法にあった。何かを知っているから語るのではなく、何も知らない
から、分かってないからこそ、相手から引き出そうとする。
 パレーシアの原点は、そこにある。それゆえ、その原点は、密接な一対一の
関係が必要である。この対話は、自分が主役として振舞うのでなく、相手の話を
引き出すように行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分に
ついて語ることになる。重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(論法
と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである・・ ≫
▼「吟味されることのない人生など生きるに値しない」というソクラテスの
 言葉が好きである。要は、味わい尽くしてこそ人生である。対話は他者だけ
でない、自分の経験に対してもおこなうべきである。そのため老後という期間が
人生に与えられている。老後を如何に過ごすか?と問われれば、「それまでの
人生に対しての自己問答を通して、魂に磨きをかけること」が答えになる。
それは死を間近にした真剣勝負である。だから面白いのである。
魂に磨きをかけるとは、そう甘いものではない。
  ・・・・・・・
3711, ジャズについて −6
2011年05月24日(火)
                ー「音楽の本」三枝成彰著より
 ー1935年、2ビートから 4ビートへー「スウィング」の時代ーP192
  * 「スウィング・スタイル」の立役者ぺニー・グッドマン
【 デューク・エリントンに、「スウィングしなけりゃ意味がない」という、
 よく知られたタイトルの曲がある。 一九二九年の金融恐慌に始まった大不況
がようやく回復の兆しを見せてきた三五年頃、ジャズの中心地となっていた
ニューヨークで、スウィング・スタイルのジャズの時代を迎える。スウイング・
スタイルのジャズとは、ビッグ・バンドによる躍動感あふれるダンスのための
ジャズといってもいいだろう。ジャズのリズム的特徴の4ビートにある。従来の
2ビートから4ビートに移行したのも、このスウィング・スタイルの特徴であり、
心地よい揺れるような感じ(スイング感)がこれによって生まれた。
 立役者は白人のペニー・グッドマン(一九〇九〜一九八六)。彼は、一九三四年
に不況のあおりで自分のバンドを解散せざるをえなかったフレッチャー・
ヘンダーソンから、そのビッグ・バンド・スタイルの編曲を丸ごと"買い受け"
たのである。そしてそれに洗練を加えることによってダンス音楽としてのジャズ
に新たな味わいをもたらした。そもそもジャズは、誕生当時からダンスホールや
クラブで演奏されることが多かったように、ダンス音楽の側面を持っていた。
ジャズが鑑賞のための音楽になるのは、その後のことである。
 グッドマンは、より速いテンポ、短いフレーズの繰り返し、軽快で歯切れの
よいタッチの演奏で、それをスウィツグ・ジャズ・スタイルとして確立させた。
グッドマンのあとには、トミー・ドーシー楽団やグレン・ミラー楽団といった
白人ビッグ・バンドが続いた。 やがてこのスウィング・スタイルでのコンポ
(八人くらいまでの小編成楽団)も人気を集めた。彼らはニューヨークの五二番街
に集中していた小ぶりなクラブでもっぱら演奏したので、五二番街は
「スウィング・ストリート」と呼ばれた。スウィングを担ったジャズメンは
白人が多かったものの、だからといって、ジャズが「黒人による不良っぽい
ワイルドな音楽」から「白人による健全でスイーツ音楽」へと変質したわけ
ではない。むしろ、スウィングから次のビバツプの時代を経て、ジャズが黒人
だけの音楽から、白人を含む音楽へと広がりを持ったと認識すべきであろう。】
▼ ここでジャズは、元もとダンス音楽の側面があり、スウィングの流行後に、
 ジャズ音楽鑑賞として進化したとは知らなかった。それも、あのべニー・グッド
マンがスウィング・ジャズの立役者とは。 あの恐慌の半ばで・・・ 
それと、学生時代に持っていた少ないレコードの中にグレン・ミラー楽団と
べニー・グッドがあったことを、この書を読んでいて思い出した。


5547,子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜 ③

2016年05月23日(月)

     『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』
                      おおたとしまさ(著)
 学び続けることとは、コンテンツ(意味、知識)を増やし続けることになる。
情報端末の進化により、誰も簡単にコンテンツを増やすことが可能になって
いるが、問題は知恵を使って人類にどれだけ加工できるかである。 既成の
価値観から、いかにして自由になるかが、学び続けなければならない理由に
なるが、そのために既成の価値観とは如何なるものか、知っておく必要がある。
  〜要点の抜粋〜 (ネットより)
・「お金なんかいらない」という人と,「勉強以外のしかたでお金をかせぐから,
 いいよ」という人たちは、そもそも学校に来る理由がありません。(内田樹)
・特に大切なのは「あいさつすること」「約束を守ること」「ものを大事に
 すること」の3つ。これを忘れていると,どんなにがんばっても
 「クレジット」が失われていくよ。 (藤原和博)
・想像力とは他者に対する思いやりであり,愛です。そして,想像力を身に
 付けるには勉強が必要です。勉強が足りないと愛のない人間になってしまい
 ます。 (瀬戸内寂聴)
・せっかく勉強の機会が豊富にあるのにろくに勉強をせず,心の栄養失調に
 なっているのにその自覚がない人は本当のバカですよ。でも実際,心の
 栄養失調に陥っている人は想像力も向上心もありませんから自分がバカに
 なっていることに気付けません。これは悲劇ですよ。だから子どもの
 うちにしっかり勉強させておいたほうがいい。 (瀬戸内寂聴)
・だいたい成績にこだわるのは親のほうでしょう。勉強していい成績を
 取らないといい学校には入れない。いい学校に入れないといい会社には
 入れない。いい会社に入れないと自分の老後が安心できない。
 全部親のエゴですよ。
・「型破り」をするためにはまず型を自分のものにしなければならない
 ということです。 (板東眞理子)
・脳のクセや周りの人たちが押し付けてくる既成の価値観という束縛から
 逃れることが自由になることであり,そのために勉強しなければならない
 のだと私は考えています。(福岡伸一)
・頭の回転が速いとか臨機応変な対応ができるとか,発想が豊かだとかいう人
 に対して「地頭がいい」という表現がよく使われますが,単に地頭がいい
 だけでは彼らを「教養のある人」とは呼びませんよね。単に多くのことを
 知っている「物知り博士」や「クイズ王」みたいな人も「教養のある人」
 とは呼ばない。「知識の時間軸を持っている人」のことを「教養のある人」
 と呼ぶのだと私は思います。(福岡伸一)
・短絡的な目的のために勉強するより,本質的な勉強をしているほうが,
 結果的に進学の面からも有利であるといえます。(茂木健一郎)
・心理学者のミハイ・チクセントミハイが「フロー理論」の中で提唱する
 考え方も同様です。成功してお金持ちになるという目標を立てている人が,
 その目標を達成したら幸せになれるのかといったらそうでもない。要する
 に「プロセスの中にしか幸せはないんだ」ということです。(茂木健一郎)
・自分の頭で計算することで「数覚」と呼ばれる数に対する感覚が研ぎ澄ま
 されます。「数覚」があるのとないのとでは物事の見え方は絶対に変わって
 くるのです。(茂木健一郎)
・命というのは契約書を書いてどこかからもらってきたものじゃないでしょう。
 気が付いたら生まれていただけのことでしょう。だったらもともと自分の
 ものなんかじゃないはずですよ。(養老孟司)
・自分で考えるクセが付いている子はそういう疑問が浮かんでも親には
 聞かないでしょうね。「あ,これはもう答えのない問題なんだな」って
 直感的にわかるでしょう。(養老孟司)
・人生に正解や目的があって最短距離を歩むのがいいのなら,生まれたら
 すぐに死ねばいいということになる。(養老孟司)
 ――――
▼ <目標を達成したら幸せになれるのかといったらそうでもない。要するに
 「プロセスの中にしか幸せはないんだ」> に共感する。振返ってみて、
創業の準備期間の15年間が、幸せだったか、事業経営の30年間が、幸せだった
というと、「その45年間の全てが幸せだった」が実感。結果がどうであれ、
プラモデルつくりと同じで、そのプロセスを楽しんでいたことが、充実感に
つながっていた。ハイデッガーの世人(責任回避と平均的を疑いも持たず
求める人)の逆を実行していたため、充実感が残ったのである。そのためには、
まず学び続けなければならない。これ、「日々是口実」(日々是好日)ですか。

・・・・・・
5182,人生相談という気晴らし! 〜⑨
2015年05月23日(土)
              『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
  * 悟りが在りや無しや?
 世には、「悟り」を真面目に求める人がいるものだが、私の答えを正直に
いえば、「自分が、つくづくバカを悟ること」「体裁を過剰に求めないこと」
と、「自分に対し、あまり誠実でないと自覚すること」である。それは悟り
の問題というより、「自覚」の問題だが。 世界の果て(秘境)で、想像を
遥かに超えた絶景に出会った感動の瞬間が、悟りに近い? 
これは自分が実感するしかないが。
≪ Q: 「悟り」の世界はただの夢なのでしょうか?
 私は五十六歳の主婦です。三十年ほど前、結婚して心のバランスを崩した
ことがきっかけで、精神世界に関する本を読み漁り、悟りという煩悩に支配
されない境地に憧れるようになりました。それから、さまざまな講演や参禅会に
参加したりしましたが、今でも悟りなどとはほど遠く、つい感情的になったり、
主人に嫌味を言ってしまいます。以前と何一つ変わらず、同じところを堂々廻り
しているような気がします。最近はいっそ、悟りなど無いと言われたほうが
気が楽だとさえ思ったりします。本当に悟りというものはあるのでしょうか。
それとも、元々ない夢を追い求めていたに過ぎないのでしょうか。
何か手がかりをいただけると幸いです。
 A: 〜自分で一生かかつて確かめてみるしかないでしょう〜
  今回の相談も「いらいらする」ものですね。大体、哲学者ごときに
「悟り」が在るか無いかを聞いても、まともな答えが返ってこないことぐらい
わからないのでしょうか? 同じように、神はいるのか、善悪の基準はあるか、
真理はあるのか-…、といった問いに、ハキハキ答えてしまう哲学者は、
正真正銘のニセモノです。では、哲学者はこうした問いに対して何もできない
かというと、そうではない。 哲学特有の領域を指し示すことはできます。
あなたはすでにわかっているかのように「在る」とか「無い」という言葉を
使っていますが、じつはその意味は皆目わからないのだ、ということを
あなたに気づかせることです。「悟り」が「在る」としても、それはコップの
ように、空間のように、数字のように在るわけではない。では、「どのように」
在るのか、もしかしたら「無い」のか、と問えば、まず論理学的法則から決め
られるのでないことは確かです。「悟り」は別にそれ自体として矛盾している
わけではないのですから。また、物理学などの科学を持ち出して決定できる
わけでもない。現代科学のすべての成果をもってしても、意識については
わずかにも説明できない。「見える」ということ、私が私の手を「上げられる」
ことさえまったく説明できません。このことを話すと話が長く(千倍くらい)
なりますので、いまはやめます。疑いなく、「悟り」とは意識に関すること
ですから、科学者をはじめ、その体験をしたことがない人が「外から」アレコレ
詮索しても仕方ないのです。言いかえれば、あなたが本当に確かめたかったら、
実際あなた自身で確認してみるしかないでしょう。あなたがいままでどの
ような修行をなさったのか知りませんが、そんなに気になるのでしたら、
自分で一生かかって確かめてみるしかないのです。しかも、最後まで
わからなくて、そのまま死んでいくかもしれないのです。本当に心の底から
出た問いなら、それでもかまわないはずですし、そもそも他人から「手掛かり」
を得ることでは満足できないはずです。そうしないで、安直に答えを求めて
いるあなたにとっては、悟りなんか「無い」と割り切って「気が楽」になった
ほうがいいのではありませんか? ≫
▼ 悟りとは、現象を、色即是空、空即是色と直感できたような一瞬の感覚?
 ネット辞書によると、《悟り(さとり)とは知らなかったことを知ること、
気がつくこと、感づくことを言い、覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った
真理やその取得をいう。サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」
「通達」などの意味に相当する単語はある。》とある。悟りで、恐ろしいのが
「死期」だろう。それから死ぬまで、生きてきた分の人生を生きるというが。
ということは、「死期を悟り、それを受け入れる葛藤を通して得られる心境?
・・・・・・
4817,いま、一人前の条件
2014年05月23日(金)
 朝日新聞の(耕論)「いま、一人前の条件」=規範ない、寅さんのつらさ」
ノンフィクション作家・高野秀行が面白い。 私が一人前として自立できたと
感じたのは27歳の時。父が亡くなり、最初の事業を千葉で立上げと同時に結婚。
その時、石油ショックが起きて、ただ無我夢中の日々だった。両足に鉄の下駄
を履き(結婚生活)、背中には創業という重い荷物を担ぎ、よろよろと坂道を
登っているような日々だったが、これが私の独り立ちであった。 
以下の内容は、世界における「一人前の条件」だが、やはり結婚が大きな
目安のようだ。  ーその全文をコピーするー
《 早大の探検部以来、外国人が入らないような辺境も含め、世界60カ国
 以上を旅してきました。その経験を踏まえて言えば、
・先進国以外の大部分の地域では、結婚しているかどうかが「一人前」の
 一つの大きな基準。20歳過ぎても独身だと、 何か特別な理由、特殊な
 事情があると思われます。正確には子供が生まれて完全に一人前という
 感じでしょうか。
・かって半年ほど住み込んでいたミャンマーの少数民族の村では、子供が
 できて初めてその人の土地がその人の名を冠した「○○の畑」と呼ばれて
 いました。一人前になることは、財産を含めて地域社会から認知を受ける
 という意味でもあります。
・長年、無政府状態が続いたソマリアの取材を続けていますが、ここでは
 「大人」という言葉に、成人という意味に加え、「偉い人」「長老」という
 意味があります。長老はだいたい50歳以上、10人の集団に2、3人の割。 
 人望や財力、教養があり、何か問題が起きた時に「あの人に相談しないわけ
 にはいかない」というような存在です。氏族内のトラブルや他の氏族との
 争いでは、交渉の窓口になり、決定権や責任を持ちます。前例をもとに
 物事が決まる社会なので、年を重ねることは知識と経験をもつ貴重な
 データベースということになり、尊敬されます。私はいま47歳ですが、
 日本も私が子供の頃はアフリカやアジアの発展途上国のように、結婚して
 家庭をもって初めて一人前扱いされるという感覚が一般的だったと思います。
・最近は日本を含めた先進国で、年寄りの経験値の意味が薄れてきています。
 情報技術を駆使できる若い世代が圧倒的に知識量が多い。従って社会的に
 年寄りが尊敬されることもなければ、年をとるメリットも感じられなく
 なります。何歳から何をすべきだ、この世代はこうあるべきだという
 決めつけがなくなり、多様なライフスタイルが認められるがゆえに、単純に
 一人前とはこういう人といえなくなっています。例えていうなら、今の日本
 は山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズで、社会規範にとらわれず、
 気ままに旅を続ける「フーテンの寅さん」が急増している社会です。 
 寅さんが増えると少子高齢化がさらに進み、社会が回っていかない。
 同時に本人もつらい。規範がない社会では自分でそれを作らなければ
 ならないからです。特に日本人は自分で自分の価値観を作ることが苦手。
 でもいったん自由になると、なかなか過去の価値観には戻れません。
 「一人前とはこうだ」というモデルを強要しない社会は、
 「自由はつらいよ」ともいえるんじゃないでしょうか。  
* 高野秀行 66年生まれ。早大探検部時代にコンゴを探検し
 「幻獣ムベンベを追え」
          でデビュー。》
▼ 私の人間としての一人前は、三年前の節目時。「なるほど、自立する
 とはこういうことか!」という感覚。 家庭持った時点の自立は社会の中の
承認だが、リタイアー後の自立は、社会の束縛?からの、自立になる。(>'A`)>
いや、超越の方が正しい。真の孤独を味わうべき時に、自立できないで
アタフタしている姿がイジマシイ :((゙゚'ω゚')):
・・・・・・
4450, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー10
2013年05月23日(木)
        ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著 
 人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。
脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に行き当たる大問題。
だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、
如何に生きるかの問題でもある。この年齢になると誰も明日にでも突きつけ
られる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い
気持ちで読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。 
 ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー
・切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、
 自我の超越、生死という二項対立の超越だ。
・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代
 なのではないかと思う。もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰
 したいという現代保守主義ではない。もっと前からの日本思想の原点は、
 無我・無私の心、静かな達人の心だ。
・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、
 今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の存在という奇跡を心から
 祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体で
 あることを喜び、それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らない
 ことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。
・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜか
 いったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。
・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。
 「死が怖い」という感じもクオリアだ。「怖さ」のぞっとした感じが心の中
 からわき上がってくる。
・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。
 これを失いたくないということが、死にたくないということと、根本的な
 意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろう
 ことか幻想。本当はないのだ。脳の無意識の計算がやっていることなのだ。
・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが
 生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。何もなかった。
 無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという
 幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから、生きている感じがしている。
・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。
 僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。
 何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、僕たちは知情意のクオリア
 という幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じが
 している。しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。
・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、
 死にたくないと思うのだ。
▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、
 幻想でしかない。実際にそうなのだから、「死ぬのが怖い」というのは
幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ
恐怖を覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かる
はず。間近に迫った死を覚悟した時から死ぬまでの間に、それまで生きてきた
全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。


5546,子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜②

2016年05月22日(日)

     『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』
                     おおたとしまさ(著)
 子供はこんなテーマの本を手にしない。手にするのは親など大人たち。
とすると、[子供偏]だけでなく、親向けの勉強の必要性を説く[大人編]があって、
至極当然である。私のようなリタイア後のシニアに、最後の総仕上げも含めて、
学ぶべきことは数限りなくある。せっかく地球上に、「遊び、学び、働き」に
来たのだから、総括の仕上げが必要である。この歳になっても、相も変わらず、
頼まれもしない、このような文章を書き続けている。しかし、今のところ
止めたいと思わないのは、テーマを探し、文章構想をたて、書上げるプロセスで、
多くの考える時間を得ることが出来るから。「考える」ことが、己を己たらし
めしている実感があるため。死ぬまで学び続ける姿勢そのことが最も大事である。
   [大人編]
 :荒俣 宏
動物だって勉強している/
人間は一人で生きていけないから勉強する/
人間は生き残るために知的欲求を発達させた/
「やってみたい」こそが「コンテンツ」集めの最強の動機/
「コンテンツ」が増えれば勉強はラクになってくる/
マイペースで勉強するのがいちばん身に付く/
親のアドバイスが子どものストレスになるジレンマ
 :瀬戸内寂聴
勉強しないと「心の栄養失調」になる/
子どもの得意なことを見つけてやるのが教育の第一歩/
「先生は尊敬すべき人」と教えるべき/
子どもはテストの点でなく親の顔を気にしている/
1行でも印象に残る文章を見つければ立派な読書/
 :坂東眞理子
「人はパンのみにて生きるにあらず」/
グローバル社会の処世術を身につけるには/
自分が今ここにいるのは自分の努力のおかげだけじゃない/
裾野が広くなければ高い山にはならない/
型を破るためにはまず型を覚える/
 :福岡伸一
「脳の水路付け」から逃れるために/
勉強には人類の文化史が折りたたまれている/
教養とは知識の時間軸を持つこと/
「小さな問い」に一つ一つ答えていく/
大人になれないサルが「大きな問い」を発明した! ?/
「センス・オブ・ワンダー」が人生を豊かにする/
科学と技術は違う。教育と職業訓練は違う
 :藤原和博
成長社会から成熟社会への移行/
情報処理力から情報編集力へ/
勉強と遊びの両方が必要/
クレジットをためれば自由になれる/
クレジットを希少性に投資するリターンは大きくなる/
 :茂木健一郎
知恵を得る以上に価値のあることは存在しない/
「フロー」のサイクルができれば子どもは勝手に勉強する/
知識や教養は高性能な脳内ネットワークを形成する/
今こそ日本の教育のベストシナリオを描くチャンス/
親がすべきは、子どもの「学ぶ本能」が起動するきっかけづくり
 :養老孟司
昔なら「くだらないころ聞くんじゃない! 」でおしまい/
「くだらないころを聞くな」と「そういうもんだ」は違う/
「勉強したくない」というのが本当のメッセージかも/
好きなことを突き詰めればすべての学問に通じる/
山道を登り始めればさらに先が見たくなる/
――――
▼ 世の中には、「心の栄養失調」の病人?の多いのに驚かされる。
 私自身、どうだろう。 倒産という形で事業生活を終えた私の人生は、
<この結果なればこそ、「五目並べ」の白の石目が一挙に黒に変わって
しまったことで、過去の白を黒として問い直せ!>ということになる。 
成るほど、どれもこれもが面白可笑しく、それらの事象が変わってくる。
視点の変化で、「大人は、なぜ勉強しなくてはならないの?」が、そのまま
我が身に突き刺さってくる。人生を洗いなおすために、学び直すために、
この結果はベストだったことになる。 
 福岡伸一氏の《教養とは知識の時間軸を持つこと》からすれば、この随想
日記を書きつらね、同月同日の内容を毎日、読み返す行為は、ベストになる。
15年分の同月同日の時間軸で、自分を省みる勉強になっている。
「シニアになっても、何ゆえに学ばなければならないの?」の答えは、
「あなたの現状そのままが、答えになっている!」  
「自由になるため、心の平安のため、広く深く遊ぶため、後悔しないため!」
 で、これもまた、以下の文章に繋がっていく。
・・・・・・
5181,アウシュビッツの回想
2015年05月22日(金)
                      『読書脳』立花隆著 
   * アウシュビッツの奇跡的幸運(地獄に仏)
 二ヶ月前のNHK/BSのアーカイブで、ある女性の奇跡的生還を扱っていたが、
これも似たケース。奇跡的幸運が重ならないと、この過酷の状況下で生延びる
ことなど出来ようはずがない。
≪「シモーヌ・ヴェーユは驚くべき女性だ」と書くと、日本では社会思想家の
シモーヌ・ヴェーユを思い浮かべる人が多いかもしれないが、私が言及している
のは、もう一人のシモーヌ・ヴエーユだ。フランスで最も有名な女性政治家。
一九七四年シラク内閣で保健大臣になったのを皮切りに、歴代の内閣で保健大臣
をつとめ、フランスに人工妊娠中絶法を導入したことで知られる。一九七九年
には、第一回欧州議会で直接選挙による初代議長に選出されてもいる。
だが彼女を何より有名にしているのは、ドイッがフランスを占領している最中、
ユダヤ人身分証偽造)に問われて、ゲシュタポに逮捕され、アゥシュヴィッツに
送られながら、奇跡の生還をとげたこと。彼女の腕には、いまでも囚人番号の
入れ墨がある。シモータ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ回想録』は自ら筆を
とってその数奇な人生をふり返ったもので、フランスでは〇七年に発売されるや
たちまちベストセラーになった。政治家になってからの話も面白いが、圧巻は
第二章「罠」と第三章「地獄」。逮捕劇とアウシュビッツ時代を語ったくだり。
【アウシュヴィッツに着くとすぐに、その場で囚人の仕分けが行われた。彼女
は十六歳だったが、見知らぬ人の耳打ちで「十八歳」と申告し危くガス室送り
をまぬがれる。子供、老人、身障者など労働に適さないと判定された者は、
その場でガス室送りのトラックに乗せられたのだ。「親や子どもがどこへ
行ってしまったのか(略)カポー(女看守)に尋ねる人がいると、彼女たちが
窓から見える死体焼却炉の煙突とそこから上がる煙を指し示していたことを
私は覚えている。(略)死体焼却炉の煙は休みなく煙をはき出していた。
堪え難い匂いが立ちこめていた】 読んでいくと、彼女が生きながらえたのが
不思議に思えるくらい地獄の生活がつづく。収容所の娼婦あがりの女監督官に
気に入られて「あんた本当にかわいいねえ、ここで死なすにはもったいないよ。
別のところへ行けるようにしてあげる」「でも母と姉が一緒だからいいです」
と断ると、「じゃお母さんとお姉さんも一緒に」と、本当に三人そろって、
アウシュヴィッツから別?収容所に移され、仕事も調理担当に代えてくれる
というウソのような話が本当に実現した。その女監督官がなぜそんな特別の
ことをしてくれたのか、理由はよくわからない。その頃かわいい女囚に同性
愛的サービスを求めて特別の便宜をはかる女看守もいたが、それ的な要求も
なかったという。それから間もな-戦争が終り、女監督官は英国の手で
逮捕され処刑されてしまったので、その理由がいまでもわからないという。
本書には若いときのヴェーユの写真もおさめられているが、確かにガス室で
すぐ殺すには惜しい容貌だ。≫
▼ アウシュビッツといえば、フランクルである。12年前に、彼の本を
 集中して読んだが、人生への絶対的肯定に驚かされた。こういう極限の中で
奇跡的に生延びている人の共通点がある。それは、この状況下から生延びて、
家族か、友人たちと楽しい時間を過ごす具体的イメージを持っている人という。
【人生に何かを求めるのでなく、人生が私に何を求めているかを問うべきだ!】
が、特に印象に残っている。女監督官は、ただヴェーユが可愛いという理由
だけでなく、光る何かを見出したのだろう。そして、その後、彼女は光った
のである。肯定的イメージ化と、信念こそが、人生で最も必要ということか。
――
2003/09/19
《V・E・フランクル》について
 十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生の調度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」
「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』
『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、
フランク心理学では考えている。

特に以下の分析には深く納得をした。
ー自己超越のための3つの意味(価値)ー
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味
          =仕事・子育て・学問・芸術
       ー力への意志
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味
          =自然・芸術・愛
       ー愛への意志 
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで
        得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化
        ※自身が何らかの喜びに満たされていること
       ー知への意志 
人生には発見されるべき価値や意味がある
 (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
 (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
 (3)人生の意味  (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す)
  ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である

ー私が読んだ本は以下であるー
・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録
 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳)  みすず書房  1985年
・「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳)   
  春秋社   1993年

・「宿命を超えて、自己を超えて」
 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳)   
  春秋社   1997年

・「<生きる意味>を求めて 」
  V・E・フランクル  諸富祥彦(監訳)
  上嶋洋一・松岡世利子(訳)   
  春秋社   1999年

・「フランクル回想録:20世紀を生きて」
  V・E・フランクル  山田邦男(訳)  
  春秋社   1998年

・「フランクルに学ぶ 」    
  斉藤啓一 日本教文社  2000年

・「どんな時も、人生に‘YES’と言う
  諸富祥彦
  大和出版
・・・・・・
2003/09/20
《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生丁度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。
 その人は、どこにいるのか」
「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』
『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、
フランク心理学では考えている。
ーー 
  『夜と霧』(みすず書房、1971年新版)
収容所での体験を描写することによって語っているのは
「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛
というのは自ら選ぶことができる」という真実です。精神的自由、すなわち
環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の下においても、
外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は少なくない
のである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは
優しい言葉、あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を
知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ
――彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかもしれないが、
しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の
最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっているの。
「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、
収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。
その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、
自由と尊厳を放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所
囚人に鋳直そうとする環境の力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」
 生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういった
ときに、「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくる
のだと思います。変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を
転嫁して他者を恨むこと、現実逃避のために自暴自棄になることは簡単
だけれども、フランクルは、そういった態度は人間としての自由と尊厳を
放棄した態度だと言っているのだと思います。

「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味を
もっているに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命
も死もそうである。苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。
 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを
自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架
としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況に
あってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が
開かれているのである。」 変えようがない事実そのものをそのまま認識し、
そこから自分はどうするのか、何が出来るのか、といった自らの可能性を考える
態度。それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きて
いこうとする態度。人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることに
よって初めて、その苦悩を乗り越え、自己をさらなる高みに引き上げることが
出来るのだと思います。ここで、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。
 フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値という
のは、他の価値とは次元の違うものであるとしています。彼は、それは如何なる
外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり「不幸」であったり「悲惨」
であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る価値だと述べる。
 このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも
可能なことなのだろう、とわたしは思います。わたしたちの苦悩が収容所での
経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、人間が運命に対して挑む
ことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていくという姿勢
を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。フランクルも本の
中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいたという
事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」
ということの証しとなると述べています。
 わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限(生まれや能力、
容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちですが、
しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れ
ながらも、どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを
内的な成長へと導いてくれるのだとフランクルは言っています。収容所の中で
さえ、そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きる
わたしたちに出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、
それぞれ立っている場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることに
よって、それぞれの意味を見出し、苦しみを乗り越えることが出来るはず。
わたしはそう思っていたりします。「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩する
ことは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される最高の成就であり
業績である。」  (『神経症の理論と治療』より)
-----------
「夜と霧」からの抜粋
ー内面化と内的豊かさー
 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても、
陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい
”内面化への傾向”があったということが述べられなければならない。
元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的
繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛では
あるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。
なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な
豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。”かくして、そしてかくして
のみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人間よりも、収容所生活を
よりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。”
 若干の囚人において現れる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や
自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、
われわれの環境とそのすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。
 〜中略〜 あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、
スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の
仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃せ
まいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。
 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃えあがる雲を眺め、
また幻想的な形と青銅色から真紅色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な
変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の
掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまあだ燃える空が映っていた。
感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に
 「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。
ー運命としての苦悩を受け入れるー
 かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて
成長する機会を与えるものだということを忘れているのである。
収容所の外的な困難さを内的な試練の試みに変える変わりに、彼等は現在の
存在を真面目に受けとらず、それをある重要でないものに貶め、過去の生活に
思いを寄せることによって現在の前では目を閉じるのが最も良いと考える。
ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩のなか
にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。
人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人
一回だけで立っているという意識にまで達せねばならないのである。
何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。
”何人も彼の変わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。
”まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に
 独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。
 ー【フランクルに学ぶ(日本教文社,斉藤啓一】ー
・『 人間など,いくら優秀でも大したことはできない.
   真に偉大な業績は,宇宙の力を借りて行う.』
・『 人間は近くに,神は遠くに幸福を見る.
  【2016年5月22日字数制限のためカット】


5545,子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜①

2016年05月21日(土)

      『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』
                     おおたとしまさ(著)
   * 子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 〜①
 人生の黄昏時に思うことは、<もっと世界のことを知っておきたかった、
もっと様々な経験をしておけば良かった>である。そのベースは、子供の頃に、
つくってこそ、可能になる。 ということは家庭環境の家系も大きく左右する。
 学生時代を終えようとする時、それまでの知識不足に気づき、それから半世紀
近く、読書を続けてきたが、ベースの絶対的質量の不足をカバーできなかった?
ようだ。 「10歳までに、人生が決まってしまっている」というが、図書館で
見つけた、この本。子供向きの本かと思っていたら、熟年向きでもある。
 5年前、会社を早々、整理をした結果、「この男、あまり頭の良くない!」と、
陰口で言われたのだろうが、一番、実感しているのが当の本人。正に10歳まで
に決まっていた。 <子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?>の答えが、
私の人生そのもの。その時点で、人生は既に決定済み。
「事前の一策は、事後の百策に勝る」の「策」が学び(勉強)であり、
事後の百策では、子供の時代の学び不足に追いつかない。ただ、その自覚が
あるだけ少しはまし? 〜まずは、アマゾンの内容紹介の
  [子ども編]より
 ☆ 荒俣 宏
人間は動物よりも多くを勉強して生き残った/
お父さんお母さんが言うことも1つ2つは聞いてみよう/
きらいな勉強は好きなことに無理やり結び付けよう
 ☆ 内田 樹
大人も勉強する理由を本気で考えたことがない/
生き延びる力を身に付ける/
どうやって仲間と支え合うのかを学ばなければ/
勉強するのは「自分のため」じゃない
 ☆ 瀬戸内寂聴
勉強しないと心の栄養失調になる/
テストの点数は気にしなくていい/
得意なことに気付くと勉強が楽しくなる/
本からも「心の栄養」は得られる/
 ☆ 坂東眞理子
子どものころに勉強の習慣と土台をつくろう/
勉強がつまらないなら100点を取ろう/
どうしようもないことをやり過ごすことも学ぼう/
勉強するのはお金のためだけじゃない
 ☆ 福岡伸一
勉強すれば「思いこみ」から自由になれる/
人類の歩んできた道を自分の足でふみしめる/
たった十数年で3000年以上分のおさらいをする/
「大きな問い」は「好きなもの」の形で現れる/
 ☆ 藤原和博
人生とは経験値をためるゲームのようなもの/
「最強装備」は遊びから手に入れる/
「最強装備」があれば「究極の力」が手に入る/
クレジットをためればためるほど自由になれる
 ☆ 茂木健一郎
勉強することとは自分をかがやかせること/
勉強を続けるコツはマイペースを保つこと/
学校を利用する気持ちになれば勉強は楽しくなる
 ☆ 養老孟司
「そんなくだらないことを聞くんじゃない! 」/
勉強とは「山道を登る」みたいなこと/
好きなことを思い切りやれば勉強が必要になる/
「答え」を知ることよりも考えることが大事
――
▼ 一言一言が、どれも身に覚えのあること。幼児なりに、言葉から
 何かを察知する言語能力が必要である。やはり、両親、特に父親の幼児
教育がベースになる。人生の「最強装置」から得た経験値は、遊びにあった。
「もっと稼いでおけば良かった」でなく、「もっと遊んで楽しんでおけば
良かった」が、最後の最後に残る。結局、何か心の底から楽しめるシステム
を、見つけ出しおくことが必要であり、それが子供時代の学びから生じる。

・・・・・・
5180,私はガス室の『特殊任務』をしていた
2015年05月21日(木)
    * ガス室の中の、断末魔の地獄絵   『読書脳』立花隆著
 ー私はガス室の『特殊任務』をしていたーショロモ・ベネツィア著を、
『読書脳』立花隆著で紹介をしていたが、その内容は極めて凄惨である。
ガスを吸った瞬間死ぬのではなく、15〜20分の間、のたうちまわるのだ。
そこで生残った特殊任務部隊員(囚人)の証言が生々しく記されている。
≪「人体組織の抵抗力で目が眼窩から飛びだした人もいました。
 身体じゅう出血している人もいれば、自分や他人の排泄物で汚れている人も
いました。恐怖とガスの効力で、犠牲者は身体のものを全部排出することが
多いのです。(略) みんな苦しんで死んでいました。普通の人は、ガスが注入
され、はい終わりと考えるでしょう。でも、なんという死か!…。よく見ると、
お互いにしがみついて、少しでも空気をと、みんな必死だったんですね。
床に落ちたガスから酸が発散するので、みんな空気がほしくなる。
そのために、最後のひとりが死ぬまでみんな互いの上をよじ登ろうとする」 
その言葉通りまるで運動会の棒倒しのように、天井の空気穴めがけてもがき
あい手足をひっぱりあい重なりあいながら人間ピラミッドを作るようにして
死んでいた。その一体一体が苦悶の表情を浮かべている。ガスの注入から全員
の死亡まで15分〜20分だった。断末魔の悲鳴が徐々に弱くなり、無音になる
のを待って、特殊任務部隊(囚人)が中に入り、からみ合った死体を一体
一体引き離し、焼却炉に運んだ。遺体の口を開き、金歯をしている者からは
金歯を抜いた。ガス室の中に入ることを許されたのは、特殊任務部隊員だけ。
彼ら自身も三ヵ月ごとにガス室で処分され、秘密が保持された。生き残り
数十人だけがガス室の中で起きたことを証言したが、あまりのおぞましさ故に、
その詳しい実情はこれまであまり表に出なかった。 本書は2007年に仏国で
出版されると大ベストセラーになり、世界15ヶ国以上で翻訳されている。
これを読まずにアウシュヴィッツに行っていたら、私も東大生と同じように、
ガス室や焼却炉の残骸を見ても、犠牲者の髪の毛の山や遺品の山を見ても、
本や映画で見たのと同じと思い、ショックを受けなかったかもしれない。≫
▼ 多くが糞尿を垂れ流し、断末魔の苦しみの中で死んでいく姿が、そのまま
 描写している。個々では、どこかの病院の一室で毎日あることだが、それが
集団となると地獄絵そのもの。20世紀は、集団殺戮の世紀で、一億近くの
人たちが抹殺された。21世紀の現在も、北朝鮮や、中近東で、こうした
殺戮が現に行われている。恐ろしいが、これが現実である。ー以下も御覧あれ!
――
2015/03/15
ホロコーストを生き延びて
  * 囚人番号A26188〜ホロコーストを生き延びて〜
          〜15年3月11日 水曜 午後6時〜6時50分〜
 先日、大相撲が終わり何気なくまわしたチャンネルが、この番組。
当時の凄惨な収容所や、殺された人たちの写真と共に淡々と語る老婆
へニアの話に、我を忘れ見入ってしまった。転々としたどの収容所でも、
奇跡的に助かり生き延びた内容は、想像を絶した生き地獄。 途中で、
この番組を数年前に見ていたことに気づいた。 ポーランド、ソ連を
中心に500〜600万人が虐殺されたホロコーストは残酷の極み!何度見ても、
その悲惨さに驚愕をする! 〜NHKのHPの、その紹介記事から〜
≪ 1939年のドイツによるポーランド侵攻は、ある少女の運命を狂わせた。
 靴工場を経営する父と母、3人の兄弟と幸せに暮らしていたヘニアは、
マイダネク強制収容所、「シンドラーのリスト」の舞台として知られる
プワシュフ強制収容所、アウシュビッツ強制収容所、終戦時のベルゲン・
ベルゼン強制収容所と、4つもの収容所を転々とし、偶然と機転、そして
時には他人に助けられて奇跡的に生き残ったのだ。
 現在南アフリカで静かに暮らす彼女は、ホロコーストを知らない若者が
増えていることに危機感を抱き、今まで夫や息子にも話さなかった悲惨な
過去を明らかにすることを決めたという。目の前で日常的に繰り返された
ナチスの残忍な行為の数々、アウシュビッツ解放前に強いられた“死の行進”、
家族の行方―ホロコーストを生き延びた“囚人A26188”ヘニア・ブライヤー
が、壮絶な体験のすべてを語る。≫
▼ 20世紀といえば、スターリン、毛沢東、ヒトラー、ポル・ポトなどが、
 大量殺戮を重ねた世紀。彼らは国内や隣国の人民を1〜2割も殺戮した、
というから、平和ボケした日本では想像すら出来ない事態。 現在も、
北朝鮮が同じような状況にある。社会主義も資本主義も駄目というなら、
何が良いのか? その上、情報機器が飛躍的に進化する中、政治体制が、
それを持った大衆をコントロールするのは至難の業である。その行着く先は
混沌とした世界。そして極端な原理主義が、世を覆い、同じような大量殺戮
の世が再び、生じる可能性が出てきた。人間は本当に進化したのだろうか?
・・・・・・
4815,尊厳死は必要か ー1
2014年05月21日(水)
 尊厳死について、多くの身近な人たちの最期をみて、これは正しい!
という答えが無いことを前提に、司法は可能な限り介入すべきではないと思う。 
回復の見込みがなくなった時に治療の中止を認める、尊厳死法案が検討されて
いるが、これは当然のこと。人生の終わりに、どうすれば尊厳は守られるのか、
当人にとって大問題である。この3月末にとり上げた、
「そんなに長生きしたいですか 1〜7」の内容に通じるところがある。
◆ 深く悩み納得するのが先 ー①   <映画監督・周防正行>  
                 ー朝日新聞 オピニオン〜耕論ーより
《「患者に良かれ」と思い、治療をやめたお医者さんが、告発される。
 一度つけた呼吸器は外せない。そんなことがあるのなら、何らかの法律が
要るんだろうなと漠然と思っていました。でも、2012年に公開した映画
「終(つい)の信託」をつくるため終末期医療を調べるうち、「待てよ」と
感じるようになりました。死の迎え方は、人がどう生きてきたかと同じように、
一律ではない。経済的な理由から治療をやめざるをえない場合もあり、
社会システムの問題でもあると気付いたのです。取材してわかったのは、
食べられなくなった時に栄養を直接いれる胃ろうをつけた家族も、つけな
かった家族も、どちらも「正しかったのか」と悩んでいること。そこに正解
はなく、あんなに考え、話し合って決めたのだから、という思いがせめてもの
救いになるのでは。その質と量によって納得するしかないんですよね。
 今の医療現場では、患者や家族と医師らの間で信頼関係を築きにくい。
お互い忙しく遠慮もあるのでしょう。患者や家族がいつでも、これからの
ことや不安を相談できる人が病院にいる態勢づくりが、大事だと思う。
患者と医師を結びつけてくれる窓口のような存在がいると、患者や家族は
深く考え、きちんと悩めるようになるのです。この人が望む道は何なのか。
共通認識を持ち、それを実現するのが「尊厳ある治療」なんじゃないかな。
まずはそれが大事。良い医療かどうかって、患者や家族がいかに納得できる
かにかかっている。コミュニケーションがうまくとれないとだめなんです。
・・・ つづく 》
▼ 医療現場では、各個人の尊厳死に至るまでのフォローする仕組みなど
出来ていない。あとは、医療経営に有利な延命治療か、家族の都合によって
生かされるか、殺されていく。病院を監獄と看做すと、病室は獄内、身体に
つけられたチューブは鎖、看護婦は刑務官になる。そこでは、拷問のため
生かされた人たちの苦しみの悲鳴が聞こえてくる。チューブを外し、死なす
尊厳死は犯罪として禁じられている。しかし、当人も、家族も、それを望む
なら、拷問のような苦痛の人を死なせることも、必要になる。それを法律で
禁止すること自体に問題がある。縁者の死際では、殆どが医者の手で、呼吸を
止めているが、その前段階に、本人や家族の希望で延命を認めるべきだが、
色いろなケースがあるから一概に断じることが出来ないのが末期医療。
今までは他人事だったが、今では近い将来の問題になってしまった。
・・・・・
4448, 屋根裏に誰かいるんですよ −2
2013年05月21日(火)
   「屋根裏に誰かいるんですよ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著
 「幻の同居人」をネットで検索すると、日本老年精神医学会学会での
「幻の同居人」に関する考察で、医師の深津亮(埼玉医科大学)が講演で、
以下のような発表をしていた。
1.はじめに = 超高齢社会を迎えた我が国の社会構造は劇的な変化が
 もたらされている.高齢者は社会的に孤立を余儀なくされており,このような
孤独な環境は 種々の喪失体験を増悪させ,特有の妄想反応や誤認症候群を生じる
母胎となる.「幻の同居人」もその様な症状の一つであり,「自分の家の中に
だれか知らない人たちが住み込んでいて,さまざまなかたちで自分を苦しめる」
という妄想と定義されている.「幻の同居人」はRowwan EL が1984 年に
「自分の家の中にだれか知らない人が住み込んでいて,さまざまなかたちで
自分を苦しめる」と訴える女性例を報告したことをもって嚆矢とされている.
「幻の同居人」は「天井裏や,床下に住んでいる」,「留守にすると部屋に
入ってきて,いろいろなものに触っていく」などと訴えられる.さらに自分
の行動がその同居人に監視されていると確信していることがある.
Rowan の報告例では,知的機能の低下や感情障害が明らかではなく,思考,
感情,精神運動の障害や退行などの脳器質性障害を示す徴候も認められない
ことから遅発性パラフレニーにみられる被害妄想とされた.
2・「幻の同居人」はどのような精神症状か?=「だれかが自分の家に
侵入して,物を盗んでいく,部屋を汚す,嫌がらせをする」などの住居(家)
に関する被害妄想は遅発性パラフレニー,遅発性統合失調症,接触欠損性妄想症
などにも認められる.高齢者では少なからず見出される.我が国においても,
同様の症例は,報告されている. 精神症状はいかなるものか,幻覚か,
実在性意識か,あるいは想像上の友達などとの鑑別が必要と思われるが,
必ずしも明確でない。
3.「幻の侵入者」か「幻の血縁者」か? = 確かに「幻の同居人」は,
 本邦の高齢者にも稀ならず見出される.Terada S らは前述の「幻の同居人」
の特徴を分析して,「幻 の侵入者」と記載した.我が国では,このほかに
父,母,祖父,祖母,子供などの血縁者が現れることがある.外部から
侵入するのではなく被害的でも敵対的でもないことが多い.
むしろ親密で友 好的協調的な懐かしい血縁者であり,特に小さな子供の場合も
少なくない.これらは「幻の血縁者」と呼ぶことができるかも知れない.
この様なタイ プの同居人が比較的よく見出されることが我が国の特徴のように
思われる.また妄想性誤認症候群,鏡像現象やTV 現象を伴うことも稀ではない.
  4.「幻の同居人」の発現機構 = このような精神症状は加齢による
さまざまな変化や社会文化的背景をもとに出現していると考えられている.
精神機能の解体過程,退行などによ ってゲマインシャフト的世界,しかも
日本的な農村共同体への回帰とみることができよう.「幻の血縁者」に子供が
現れることは,遠野物語のザシキワラシ 伝説とも相通ずることを示唆している.
▼ 以上だが、この「屋根裏に誰かいるんですよ」で、< 身体の一部を
 失っても、脳機能は、それがあたかも存在するように感じ取る働きをする。
それに似た働きに近いのでは>は納得できる。作家の佐藤愛子本人が、色いろな
場所で、これに近い経験をしているが、作家なら、冷静に精神の衰えと看破する
はずだが、どうだろう。知人の夫人の場合は、高齢者の孤立、種種の喪失体験
などによる精神不安定が見て取れる。老化による精神機能の解体過程に出てくる
妄想ということ。私にもサードマンが頭の中に同居しているが、これは自分で
意識的に作りあげた対自。ちょっと違うか。
・・・・・・
4074, 屋根裏に誰かいるんですよ
2012年05月21日(月)
        「幻の同居人」―都市伝説の精神病理  春日 武彦 (著
   ーアマゾン 紹介文ー
 まず、その奇妙なタイトルが目を引く。しかし本書は、そのタイトルから
受けるコミカルな印象とは異なり、精神科医である著者が、現代社会における
さまざまな精神病理を、きわめて冷静に考察したものである。 ある日、
ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に人が入ってきて困る」と訴える。
その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを盗んでいったり、ちょっとだけ
位置をずらしていったりするという。しかし、姿は見えない。まるで、
「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようがない不可解な話を、
老女は真剣に語る。表題となっているこの症例は、「幻の同居人」と呼ばれる。
このような症例は、多数報告例があるらしい。患者たちは、脳に器質的な異常が
認められるわけではなく、精神的にも問題ない場合が多い。「妄想の突飛さと
当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が生じているときには、精神医学は
たちどころに歯切れが悪くなってしまう」と著者は言う。それがこの症例の複雑
さと奇妙さとを物語っている。本書は、現代社会においても、妖怪と出会うと
いったような「非日常」的な現象が、たちあらわれる瞬間があることを示唆する。 
精神科医が語っているだけに、いっそう説得力がある。
▼ ある亡くなった友人の奥さんが数年前、急に事務所に訪ねてきて、世間話の
後に何気なく「最近、家に侵入者が時々入ってくるが、生前、主人が何か言って
ませんでしたか」と言う。「侵入者とはとんでもないこと、どういうこと?」
と吃驚して聞きなおすと、「自宅の屋根裏に侵入者がいて、彼方此方、徘徊して
いる。」という。よくよく聞いた後、「貴女は魔界に一歩踏み込んだようですね。
ご主人からは、それについて聞いたことはありません。」と答えた。
警察に相談して屋根裏を調べてもらった時の写真を何枚か出して、「私には、
侵入者が見えるが,貴方は見えませんか」という。 私には全く見えなかったが、
その辺から、何か精神的に追い詰められているのだろうと思い始めた。
その後、ご主人と共通の複数の知人から彼女の同様の話を聞かされた。
本人には、実際に屋根裏に何かがいるのだろう。彼女は初老で、独り暮らし。
佐藤愛子が、似たような現象を経験している。それと同じかどうか私には
分からない・・・ 


5544,閑話小題 〜悪口は泥棒より悪いって知っていた?

2016年05月20日(金)

      ー「泥棒と悪口と、どちらが悪いか」三浦 綾子(作家)
                 『人間学入門』(致知出版社)より
   * 「泥棒と悪口と、どちらが悪いか」
 以前、この道理を知ったとき、そこまで悪口が罪悪とは思ってなかったこと
もあって、驚いてしまった。大家族の中で育ったためか、本能的に、悪口や、
他人の誹謗中傷を言うことがタブーか知っていた。一番立場の弱い末っ子が、
まず身につけるしかない自己防御のなせる業である。それが、進級、進学に
つれて、育った環境などにより、弱者に対する虐めや、悪口を言う人の比率が
増えていった。 学校、職場、一般社会も、階層があって、そのコントロール
として、誹謗中傷と悪口が、大きな働きをしていた。 それを筆者がズバリ、
泥棒より悪口が、悪いと断じるから・・  〜その辺から
≪・時折、講演で話すんですが、「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。
私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と言われました。
大事にしていたものや、高価なものを取られても、生活を根底から覆される
ような被害でない限り、いつかは忘れます。少しは傷つくかもしれませんが、
泥棒に入られたために自殺した話はあまり聞かない。だけど、人に悪口を
言われて死んだ老人の話や少年少女の話は、時折、聞きます。
「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても三杯も食べる
のよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、その後一切、食べ物を拒否して死んだ、
という話があります。
・それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に強烈なショックを受けた時
に生れる確率が高いと聞いたことがありますが、ある妻は小姑に夫の独身時代
の素行を聞き、 さらに現在愛人のいることを知らされた。
それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、そういうことを言ったのです。
この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、
生まれたのは精神薄弱児だったそうです。 恐ろしい話です。私たちの何気なく
言う悪口は人を死に追いやり、生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。
泥棒のような単純な罪とは違うんです。 それなのに、私たちはいとも楽しげに
人の悪口を言い、 また、聞いています。 そしてああきょうは楽しかった、
と帰っていく。 人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性です。
・もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、怒ったり、くやしがったり、
泣いたりする。 自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口をきかなくなる
のではないでしょうか。 自分がそれほど腹が立つことなら、他の人も同様に腹が
立つはずです。そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話をいとも楽しげに語る。
私たちは自分を罪人だとは思っていない。 罪深いなどと考えたりしない。
「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。 私たちはたいてい
そう思っています。 それは私たちは常に、二つの尺度を持っているからです。≫
▼ これを読んだのは、20年前になる。元もと、噂話や、他人の中傷誹謗に
 興味がなかったが、大家族の中では、第三者の話題はタブーに近かった。
学生時代も、殆ど、批評はすれど、批判をしないのが通り相場。いい大人が、
悪口など、男が廃るという空気があった。しかし、自分が人を使う立場になると、
飴と鞭のムチを、知らず知らず使いだしていた。知人に噂話を売りにした人が
何人か存在するが、耳を塞ぎたくなるほど聞くに堪えない。長年、かかって顔が
暗く澱み、声まで変質している。あれ、万引き常習者になるが、これも悪口か・・ 
――――
2016/04/07
愛と孤独 ―池田晶子の言葉 〜⑤
     『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著)
   < 孤独の味わい方 >
  * 他人の悪口が気になる人へ
《 人間には、自分の中の気になるものを、自分の外に見つけ出すという妙な
 癖があります。自分の中のそれが気になるからこそ、他人の中のそれが気に
なるのですね。 よくあるでしょう、誰かの悪口を言っているその人が、
自分が悪口を言っているその人にそっくりだということが。つまり、人間は、
自分の中にあるものだけを他人の中に見る。裏返せば、人間は、自分の中にない
ものを、他人の中に見ることはできない。当然ですよね、だって、ないものは、
ないんだから。ないものは、気になるはずがないんだから。 》〜『人生は愉快』
 ☆ 時間薬の効果で言えることだが、5年前の会社清算の一連が、当事者と
しての内なる記者の目線でみえた現象の面白さは格別であった。
 プラモデルの趣味の人に、それが壊れたとて、喪失感は少ない。それは、
楽しんだ結果でしかないから。所詮、悪口とは、その人間そのものの影!
――――
2003/11/25
965, 悪口についての一考察
 悪口については、随想日記の中では何回も書いている。
しかしテーマにしたことは無い、一番イヤなテーマであるからだ。
昨日、新聞を見ていたら‘メジャー’ヤンキ−スの松井は中学校二年生以来、
悪口を言ったことがないという。(所詮は勝ち組が言っているから注目
している部分もあるが)
それでは「私の場合は如何だろうか?」と考えてみた。
本音でいうと
 可能な限り言わないようにしている。その為には嫌いな人のいる場には
 極力行かないようにしている。例えば、ライオンズとか商工会議所などである。
 痴呆名士志向の子狐的人間である。  地方で頑張っている人はこういう
 傾向が強いから始末が悪い。自分より肩書きや収入が多い人間には媚び
へつらい、下の人間には尊大な人だ。 仕方ないのは解っているが。
「お前の姿でもある」といえば、そうかもしれない。
  人間にとって自分は善人であり他人は悪人なのである。
 自分を理解しろと必死になるが、嫌な人を理解しようとはしない。
 それは、怠惰という無精者に過ぎないことに気づいていないからだ。
  〜辞典には
 ー悪口は「他人について、劣っていると(事実に反し、また実際以上に)
 いう言葉」とある。
 ー陰口は「その人のいないところで、いう悪口」と書いている。
 悪口とは事実に反してと書いている。
 
 週刊誌などは、それで持っているいるようなものだ。
 大衆の一番弱いところを狙っているのだ。
 辞書のとおりならば、悪口の経験のある人は虚言罪で天国の門は間違っても
 叩かれないことになる。
  ☆ 思いつくまま「悪口」について頭に浮かんだことを書いてみる。
・「悪口はドロボーより悪い!」と曽野綾子の本にあったが、まったく
 曽野(その)とおりである。ドロボーは人を殺さない、しかし悪口は時に
 人を殺す。
・悪口は結局は、自分の事をいっているに過ぎない。
 したがって根は深い。ただ自分で気がついてないのだ。
 悪口はその人の歪んだ心象風景といってよい。
・悪口にも色いろある。
 本人に面と向かっていう悪口と
 陰でいう悪口がある。
・宗親(居酒屋おやじ)「馬鹿野郎!これで俺等居酒屋が、
 商売でもっているんだ!でも酷いもんだよ!
 サラリーマンの悪口は耳を塞ぎたくなるより、
 『その対象の奴より、言っている本人を張り倒したくなるよ!! 
 まあ、そうでもしなくては精神のバランスが保てないのだろうがね』            
                         ー続く
ーーーー
2003/11/26
966, 悪口についての一考察 −2
 どんなに憎んでも、面と向かって言ってはいけない言葉があると。
しかし、悪口は楽しいのである。これが人間の悲しい性である。
4~5年前にある泥酔の高校の同級生二人に呼び出されたことがあった。
片っ端から知人の悪口を言っていたが、私を呼び出す前までは私の悪口を
言っていたのがミエミエであった。そして「人の悪口は楽しい!」といって
いる姿に唖然とした。そう、こう書いているこの文章も、彼らの悪口だが。
 私の場合、こと人間の真髄に関しては何を話しても悪口になってしまう。
虚飾などどうでもよい?見えるのは裸の猿の狂った姿である。
大学のたまたま入った学部が社会学部であった。早くいえば人間学である。
人間関係の網の構造を瞬時に洞察する訓練を受けているから始末が悪い。
さらに、こういう社会学的な本が好きで40年近く読み続けているから
知らないうちに外部化しているのだろう。
表面的な付き合いの人間には、全てが悪口に聞こえるはずだ。
同級生のスナックのママに説教をされたが、その道の専門家いやアマチュア
ということは知らないようだ。
 ところで悪口という概念は、なんの思想も持ち得ない。
ー怒れば、ストレス解消・精神衛生などという隠れみので、自己のプライド
 など微塵もみせず?に罵詈雑言をいい続ける。
ー気分の良い時は調子よく聖句などを持ち出してきて、
「悪口はいけません」とのたまう。
この二面性を持っているのが人間の姿である。
悪口の後で「仕方ないさ、人間だもの」と繰りかえす。
ー悪口をいま思い出せる言葉を羅列してみるとー
「服のセンスが悪い」「だらしがない」「カスが人間をまとっていうような奴」
「子狐のような奴」「屑どもめ」「仕事が出来ない」「気がきかない」
「痴呆迷死」「ミス何々ー失敗ばかりする女」「ダニ」「自民党のような奴」
「たかり」「くそったれ」「共同便所のような女」「東京ガス」
 悪口はまるで無尽蔵である。
嫉妬心・怒り・敵意・ねたみ・憎しみ・優越感・軽薄など心の底に
渦巻いているドブから発するガスである。
 
 ー インターネットで調べた内容をコピー ー
  「悪口をやめよ 」
 ヤコブ4:11〜12
 箴言26:17〜28
 マタイ5:21〜24
  ー皆川尚一牧師ー
 悪口をやめよ!
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、
自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。
もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者である。
しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、
救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、
いったい、何者であるか(ヤコブ4章11〜12節)。
 「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない」(11節)。
 ここで「悪口を言う」(カタラロー)というギリシャ語は「逆らう」(カタ)
という語と「言う」(ラロー)という語が合わさって出来た合成語で、
「逆らって言う」とか「反対して言う」という意味です。
しかし、この語の使い方は、面と向かって相手に逆らって言うのではなくて、
今そこにいない人の悪口を言う場合に使われます。
だから日本語では「陰口をきく」とか「中傷する」とか「ざんげんする」とか
言います。顔と顔を合わせて相手に反対したり、悪口を言ったりする場合には、
相手の人は自分の考えを説明したり、自分のやり方を弁明したり、相手に
反論したりできますから、ある程度公平だと言えるでしょう。しかし、今そこ
にいない人のことを悪く言う場合には、言われる人は弁明できず、反論も
出来ませんから、悪いうわさは毒ガスのように人から人へと伝わります。
二、三人のヒソヒソばなしやいわゆる井戸端会議からゴシップが流され、
話に尾ひれがついて、あること無いことが発展して人の名誉が汚され、信用が
失われ、せっかく築かれかけた良い人間関係が壊れていくのです。だから陰口
ほど質(たち)の悪いものはありません。
  しかし、クリスチャンになってもこの悪い行いは、なかなか改まらない
人が多く、このために教会の親しい交わりが汚されるので、使徒ヤコブは、
特にクリスチャンお互い同士が陰口をきかないで、愛の交わりを育てるのに
心を配って行こうと呼びかけているのです。そこで大切なことは陰口をきく
のは恐ろしい罪だということを認識する必要があります。
それは「神の律法に違反する罪」と「神の大権を犯す罪」の二つです。

・・・・・・
5179,人生相談という気晴らし! 〜⑧
2015年05月20日(水)
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 信念に生きることは割りに合わない!
 信念に生きると、当然、摩擦が起きる。それをバネに信念の芯を強めるか、
修正するしかない。信念を貫いた人生には充実感が残る。
≪ Q: 先の暗い人生でも生きるべきでしょうか?
 私は58歳の零細自営業者です。同世代の先生なら説明する必要はないと
思いますが、学生時代から頑迷に反体制を信条として、就職や年金とは無縁の
生活を送ってきました。そのことに後悔はありませんが、困ったことに働ける
年齢を越えて生きのびそうな予感がするのです。いまさら、官にたよって生活
保護を受けるなんて恥ずかしくて出来ませんし、この歳になって信念を曲げて
まで生きる気もしません。自殺は解決手段ではないと読んだことがありますが、
私はこれから到底よくなるとは思えない苦渋の日々を寿命が尽きるまで生き
なければならないのでしょうか。あるいは、何としても生きるべきでしょうか。
その理由があるのでしたら教えてください。
  A: 「信念」を生きるとは割の合わないものです
 これも同じようなご相談で、一見どう答えていいか難しそうですが、
私の回答は至極簡単です。自分の「美学」があなたにとって何より大切なこと
でしたら、これまでせっかくがんばってきたのですから、国家の面倒を今後も
いっさい辞退して、潔くホームレスになってしまってはいかがでしょうか?
そして、どこまでも自分の美学を全うして死ぬことです。 私が法学部を捨てて
哲学に身をささげようとしたときは、先生から「自殺率は高いですよ」と
言われました。33歳で誰も待つ者のいないウィーンにひとり私費留学した
ときも、ドクター論文が書けなかったら戻ってはこれない、死ぬしかないと
思いました。 たとえ誰もほめてくれなくとも、いやバカだ、アホだ、と罵倒
されても、それがあなたの「生き方」なんですから、それでいいではないですか。
本物の「信念」とはそういうもの、そういう割の合わないものです。
だから(場合によって)感動的なのです。ソクラテスが最後の最後で脱獄して
しまったら(そういう誘いは多かったし、それは可能であった)、弟子のプラトン
はじめ彼のことなどすっかり忘れてしまっていたことでしょう。単なる
「合理的な爺さん」で終わっていたことでしょう。とはいえ、私は自分の信念を
貫き、ついに毒杯を仰いだソクラテス的生き方を賛美し勧めるつもりは毛頭ない。
もうひとつの合理的な爺さん的生き方もなかなかいいのではないか、と思って
います(私だったら迷うことなく脱獄します)。つまり、昨日までの反骨精神など
きっぱり捨てて、たったいまからは国家や政府あるいはボランティア団体から
すべての「援助」を貪欲にむしり取るのです。あらゆることを巧利的かつ合理的
にとらえなおし、「豊かな」老後に備えるのです。あっという間に変身する
生き方も、なかなか颯爽としていいものですよ。こちらは、ソクラテス型に
対して、ホッブズ型とも言えましょう。俺が人々と暗黙の社会契約を結んで
国家を承認したのは、自分にとって利益があるかぎりであるから、国家が俺に
死刑を請求したら、さうさと逃亡するのが当然だ、という考えです。
どうです、なかなかさっぱりしていていいでしょう? ≫
▼ 「功利的、合理的に生きる」という信念もある。サッサと事業断念を
 して「合理的爺さん」で終え、「節目を打った」と独り嘯いても、
「お前さんのそれは『日々是口実』でしかない」「これが私の生き方だから」
という「口実」が湧き出る。こと信念については、独り呟き続けるしかない!
・・・・・・
4814,Quirt <内向型人間の時代> ー3
2014年05月20日(火)
           <内向型人間の時代>スーザン・ケイン著
 * ‘誰からも好かれる人’の興盛
 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、パソコンに明け暮れる日々。
ますます内向的人間になっている。私の年齢と、時代が、そうさせていると
いう実感がある。一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、
内向的か外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれる
タイプは、時代によって大きく変わってくる。特に、現在、何が外交的か、
内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー
《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年の「組織のなかの人間」で、
親や教師がどのようにして内気な子供を矯正しようとしたかについて述べている。
「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、勉強の
ほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。
友達はひとりか二人だけで、どちらかといえばひとりでいるのが好きだそう」 
ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎すると
ホワイトは書いた。「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が
子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」
親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでも
なかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う準備をさせようとした
だけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に
立ちまわらなければならない。大学の入試担当官が求めているのは、特別な
学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学の
ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも
「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。1950年には、
エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想の
エール大生は「しかめ面の専門家ではなく、円満な人間だ」とした。さらに、
ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んで
いると、大学が何を望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が
何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。
『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、
平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に熱心な学生である。』
『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。
この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン
的な性格を持った外交型であることを適確に把握していたわけだ。・・・ 
要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでも
あり、相手に調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。 》
▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の
驚きは、はかり知れないものだった。暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレ
を言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。
ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。
更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。 私の場合、まず
カーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。
1、相手に誠実な関心を寄せる。
2、笑顔を忘れず前向きに。
3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。
4、聞き手に回り、聞き上手になる。
5、自分ではなく相手の関心を話題にする。
6、その人を心から大切に思う気持を伝える。
 これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるように
なった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ止めてしまった。何故、自分を
偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。
人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。
その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。


5543,閑話小題 〜お金に窮したことは一度もなかった

2016年05月19日(木)

  * そういえば、お金に窮したことは一度もなかった!
        〜お金についての考えは人生に対する考えと同じ〜
 用心深い性格もあるが、事業人生の中で、お金に窮したことは一度もない。
両親、特に父親は、お金に対して厳しい人で、見栄や、無駄金、死に金、
小銭の扱いに常に目を光らせていた。普段の生活は徹して節約をし、外食や、
ブランド物趣味には、極端に厳しい姿勢であった。しかし、書籍の購入には、
一切、何もいうことがなかった。 
 学生時代、上京をして寮に住んでいた時の仕送りも、ギリギリの生活費しか
送ってくれなかったが、ヒモジイ思いをすることが無かったのは、節約が
身に付いていたため。当時の学生時代は、家庭環境に関係なく、殆どの人が、
似たようなギリギリの送金。カナダの学生は、それが首相の子供であっても、
アルバイトで生活費を稼ぐのが暗黙の習性という。
 その節約も、21歳の「欧州一周旅行」で、全てパーに。
「使ってこそお金の価値が現出する」と信じるようになっていた。
父が、末期ガンで死期を悟った時に、身近で実感したことは、「お金は、持って
旅たつことが出来ないこと」。 結婚直後からは、「稼いだときに、1〜2割を
別立てをして、残りは、使い切る」と、方針を変えた。それもあって、より遊ん
でおけば良かった、という後悔はない。死んだ瞬間、お金は一切、必要なくなる。
 また、お金が無くて呆然とした経験が一度も無かったことが良いのかどうか。 
健康面を除いた娑婆の苦しみの中で、「金の不自由」が、一番、辛いという。
現在、家内名義の家では少し肩の狭い思いをしているが・・
 他人事ではないが、一般的に、熾烈な事業の中で、万一の場合の用心深さが
あまりに無さ過ぎるのではと思うのは、老いのなせる業か。
<お金について> を書くと、あまりにシリアスになるが、なればこそ、
自分を見つめる合せ鏡になる。そこには、欲が、そのまま露出している。
 それは健康に対していえることだが、70歳を過ぎたから、死を従容と
受け入れたいものだが、現実となると? 
 ―――
 面白いもので、偶然だが,9年前に「お金」について書いてあった。
・・・・・・
2237, お金の正体 −1
2007年05月19日(土)
      「お金の正体」 ー日下公人著
              (((。・-・)从(・-・。)・゜
「生・死」と「金」の話題は尽きることは無い。
特に「金」に関してはもういいや!と思うが、それでも次々面白い道理に出あう。
しかし、どれを読んでも面白いのは、金が欲の集約でもあるからである。
この本を図書館で手に取ったときは、あまり内容のない本に思えたが、
実際読んでみると、面白い本である。
「お金の正体」はつきつめると
「その人が求めている幸せは何ですか?」ということになる。
幸せとは何ですか?は、これも単純で解りきったように思えるが、実は深い問題である。
私が好きな「幸せはアルコールのようなもの」とか、軽く扱われない大きな問題である。

以前にも何度か書いてきたことたが、
父が死を覚悟した時にジッと私の顔をみて、数千万円の数字を紙に書いて
「この数字と銀行預金の同じ数字と何処が違うのだ?」
と深刻な顔をして私に問いかけた。
「事業という楽しみの後に残ったカスがお金である!」が父の口ぐせだったが、
それでは、そのカスも紙に書いた数字でしかないことに気づいたのだ。
「実際に使えないなら現状なら、無いに等しい」といいう言葉を加えた。
しかし両親は、そのカスを更に楽しんで使っていた。
それ以上を求めること自体は、少し求めすぎのように思えたが、
それでも逝く直前に割り切れない何かが心が残った。

その時、何かを伝授してもらった。
「仕事を遊びまで高めること、そして、そのカスとしてのお金を、
仕事とは別の趣味を見つけ楽しむこと。それも楽しんだら、
大らかな気持ちで余韻を楽しむこと」である。

金を哲学的に考察すると、交換手段としてのルール(価値尺度)でしかない。
それでは目的はというと「魂の充足と自由」である。
「金」を通して(物や事で)魂の充足をしているうちに、目的と手段が混同し、
その混同が生き方を誤らせてしまっているのが現代の傾向である。
金という手段で「魂の充足と自由」をやり取りしているうちに、
金が魂と同類に思えてしまったのである。
だから価値尺度の通帳を見てニヤニヤしているうちに死に直面してしまい、
「金」が果して何だったのだろうかと錯乱してしまうのである。

ところで私の父親の迷いは何だったのだろうか?
その謎解きをしてみよう!
事業を楽しんで当時として、地方では財をなした。
そして、以前の家業の骨董屋の因縁で「骨董」の収集と、「国内旅行」を楽しんだ。
更に豪邸をつくった、そしてその8年後のある日突然死を宣告された。
目の前には、当時の数千万の預金と、幾つかの土地屋敷がある。
「それでも残ったこれは(資産)自分にとって何だろうか?」という疑問である。
死を直面して、混乱をしたのである。

父は事業も趣味も充分に楽しんだ。
そう、魂の充足はしたのである。
ところが、何かが欠けていたのである。
それは哲学的思考である。それも、難しい哲学ではない。
それで充分幸せであった!という心の安定を裏づける確信ができなかったのである。
「それでは完全燃焼などあり得るというのか?」という哲学的な答いが
出来なかったのである。

父の姿をみていて「哲学の基礎だけは教養として身につけておかなければならない」
ことを教えてもらったのである。

ー以前、書いた一部を紹介してみるー
ーーーーーーー
H0903  お金について
 誤解を恐れずに、いや覚悟の上に書いてみる。
これほど重要なモノについて誰も直視しない。
触れたがらないのはその本質があまりにも“現金”だからである!。
ズバリお金は“自由の塊”である。
世界の大部分のモノが引換に手に入る!人の心さえも。
それほど強力な魔物である。

それに支配された時、その人の奴隷使いにも変身してしまう。
反対に上手に使えば従順な召使いになる。
父がよくいっていた
“お金がないのは首のないのと同じ位つらい、
その苦労はこの世で一番の苦労だ!。”
“お金で奇麗事を言う奴が一番お金に汚い人だ!”
“生き金は使え、死に金は使うな!”
“お金の楽しみの(うまくいった仕事の)結果のもの。”
“それは使わなくては紙に書いた絵でしかない。”
“金・金・金!!とどのつまるところ、それだ、それ位重要である。
お金に窮してはじめてそれと気ずく。
それを誰も直視しようとしない。
世の中その為に首を吊り、人を殺しもする、盗みもする。
それを認めた上で、それにとらわれるな!
とらわれない為にはお金を貯めろ!”。

父の考え方は決して間違っていないと思うし一つの見方だ。
でもお金に対して奇麗な人であった!
 ーーーーー
ヾ(´Д`、)マタネ
・・・・・・
5178,閑話小題 〜日本の将来に疑問
2015年05月19日(火)
   * 後世への恥さらし 〜歴史的汚点の結果に
・大阪都構想は、僅差で否決され、これで維新の党は消滅をする。
 これは既存政党丸がかりで「維新の党」を潰したと同じ。後々、
この否決は、日本の没落の象徴として位置づけられる。大阪市民がノー
という選択をしたことは、間違いなく、日本の将来に暗雲をもたらす。
本気になって日本を変える気持ちが無いという選択である。
・ある批評家が、ブログで、「大阪市政廃止は、何の合理化にはならない」
と、したり顔で論じていたが、この問題は、「日本を本気で変えていく気が
ありやなしか」の突破口の杭になるかどうかだった。東京オリンピック開催を
選択した上に、この有様。これが日本の現状である。それにしても、日本の
既成政党が、こぞって、反対したとは、何をか言わんである。この結果の、
マイナス効果は、大阪だけでなく日本を痛めつけるだろう。
・私が橋下を代弁すると、『仕方がない、この結果の評価は歴史が証明する。
それにしても、この既成政党の全てが総がかりで反対とは、世も末。
これだけ、内側の市長と、県知事の立場で内部告発をしても、市民、府民が
理解できないとは思いもよらなかった。何が地方再生だ。その前に、大阪を
まな板に上げ、徹底的に合理化をすべきだろうに。 これでは、生活保護の
対象者は大阪に殺到する。彼らは、この甘さを享受したいからだ。
無念だが、仕方がない!』 
・これもそうだが、気持ちの悪い空気が覆い始めている。 こういう時に、
大地震と噴火が得てして起きる。バブル崩壊の数年後に淡路・神戸大地震が、
リーマンショックの4年後に東北大震災が起きた。恐らく近い将来に経済の
クラッシュが起き、その数年後に大震災の可能性が・・(逆もあるが)
 何か、自分の死の不安を重ねている? ようだが。
・・・・・・
4813,閑話小題 ー高齢者の三割が認知症とは
2014年05月19日(月)
   * 高齢者の三割が認知症とは
 先日の朝日新聞の社会面に「認知症徘徊 不明届け一万人」の記事があった。
その中で「65歳以上の高齢者のうち462万人が認知症で、軽度認知障害が
400万人もいると推計される」とあった。高齢者が人口に占める割合が
23〜4%からすると、高齢者が3000万人。その中の862万とすると、
三割が軽度を含めた痴呆症になる。前期と後期高齢者では、二倍以上は違って
くるから、80歳までに4分の1、それを超えると、過半数は認知症になる。 
そして徘徊で不明になるのが年に一万人というから、深刻な問題である。
 それからして、長寿を願うのは実は考えもの。独り住まいの高齢者が増加
している中、本人も周囲も深刻な問題である。「健康診断などしないで自然死も
選択の一つ」も、理解出来る。胃瘻で一度、管につながれると、簡単に取り払う
ことが出来ない。生かして拷問しているようでもある。 死ぬも地獄、生き延びる
も地獄。老いて死ぬのも大仕事である。これを書いたためか、自分が認知症に
なって呆然と佇んでいる夢をみた。脳は面白いものである。その夢とは、
<店頭で、ハンバーガーとコーヒーを注文するが、商品がなかなか来ない。
それを(どういう訳か中年男)の店員に言うが、何も答えない。ところが後で
入ってきた若い男が目の前のチケットを取って、カウンターに並んでいる。
私が店のシステムの要領を得ないで財布を持って勝手に立っていたようだ。
仕方がないので、店から出て、他のテイクオフの店に行くが、店内の座席は、
二人以上でないと座れないという。どうも自分が認知症で、街を彷徨っている
ことに気づいた>ところで、目がさめる。何か恐ろしい夢だが、認知症とは、
こんなものと自分自身に知らしめる内容である。そうこう考えると、可能な
限り医者に行かないで、自然にまかせることも選択の一つである。いざ、余命
一年、半年と告げられると、その恐怖は、はかり知れないのは父親の姿で知った。
傍らに一年いて、その恐怖感が直に伝わってきた。それも、激痛が死にたくなる
ほど激しくなっていく。死にいくのは、簡単なことではない。そのため認知症を
神様が与えた自然の業わいとも言える。マダラボケになるから、本人も、周囲も
地獄になる。 生きているうち、元気なうちである。以下の内容も、その類?
・・・・・・
4446, 屋根裏に誰かいるんですよ
2013年05月19日(日)
    「屋根裏に誰かいるんですよ ―都市伝説の精神病理」春日 武彦著
 数年前になるが、既に亡くなった知人の奥さんが会社の事務所に訪ねてきて
言うに、「誰かが留守に家に入りこみ、困っている」と切り出してきた。
それも会話の中で何気なくである。「ちょっと、待ってください。聞き捨てに
ならない話で、もう一度、本当に侵入していたのですか」と聞きなおすと、
現在も屋根裏に隠れていると、写真を数枚だし、ここですと言う。
私の目には見えなかったが、本人には見えるという。「警官に来てもらい
見たが、何も見つからなかった。が、私には隠れているのが分かる。ところで、
うちの主人が生前、そういう話をしてませんでしたか? 貴方にはシックス
センスがあると聞いてましたが、この現象をどう思いますか?」と真剣な眼差し。
「恐らく貴女は、魔界とか何か違う世界に取りつかれたと考えるしかありません。
そういう話は一度も本人から聞いたこともありません」と答えた。その話を、
その人の共通の知人に話すと、「実は私の家に訪ねてきて、全く同じ話をし
写真を見せてくれたが、何も見えなかった。他にも訪ねてまわっている」
とか。本人は60歳前後で、老女というには、まだ若い。 
  ーアマゾンの内容説明ー
 精神科医である著者が、現代社会におけるさまざまな精神病理を、きわめて
冷静に考察したものである。ある日、ひとりの老女が、「自分の部屋に勝手に
人が入ってきて困る」と訴える。その侵入者は、彼女の部屋にある日用品などを
盗んでいったり、ちょっとだけ位置をずらしていったりするという。しかし、
姿は見えない。まるで、「座敷わらし」などの妖怪のしわざとしか言いようが
ない不可解な話を、老女は真剣に語る。 表題となっているこの症例は、
「幻の同居人」と呼ばれる。このような症例は、多数報告例があるらしい。
患者たちは、脳に器質的な異常が認められるわけではなく、精神的にも問題ない
場合が多い。「妄想の突飛さと当人の穏やかな常識人ぶりとのあいだに乖離が
生じているときには、精神医学はたちどころに歯切れが悪くなってしまう」
と著者は言う。それがこの症例の複雑さと奇妙さとを物語っている。
▼ 当時は、この本の存在を知らなかった。 子供達の巣立った家で、
 当人は深夜怯えているのだろうが・・ 想像しただけで、背筋が寒くなる。
当人にとって感じるのだから!私も一時期、女性の幽霊?を見たり、幽体離脱
をしたり、面白い経験をしたことがあるので、当人が真剣になるのは分かる。
・・・・・・
4072, 南直哉 恐山菩提寺院代の話
2012年05月19日(土)
 昨夜の18日、BSフジ・プライムニュースに恐山菩提寺の南直哉(じきさい)
院代が2時間近く出演し、「生きる」ということ、「死」について、説いていた。
最近、「恐山」出版されたようだ。東北震災で家族を亡くされた人が多く訪れて
くるというが、行方不明の場合、縋る思いで恐山に救いを求めるのは分かる。
院代とキャスターの問答の中で多くの鋭い指摘があった。
・恐山は感情の器。 ・死は観念、生は感覚。 
・「やりすごす」ことの重要性。(なんとかやっていける方法がくるまで待つこと) 
・人間には存在が認められた経験が必要。最初の動力になる。 
 子供の頃に、その基盤を両親がつくるが、それが壊れてしまっている。
・自殺は選択の問題。まず生きることを選択すること。転んでも起き上がる
 ことが大事、自殺したくならないような人生は本来の人生でない。
・あの世があるか?の質問に対し、「その前提に、死後の世界がある、という
 認識がある。」その前提は何か?と逆に問う。
・最近さかんに「心の時代」というが、どんな時代にも、その時代を生きた人
 には心があったのであって、いまさら、この時代だけを「心の時代」と言うのか?
「心の時代」と声高にいう人たちは、そう言うことで、「心の時代」という商品
 を作っているではないか?等々だが、訪問者が色いろの遺物を持ち込んでくる。
 その中に花嫁姿の人形が年に十数持ち込まれる。10年もすれば百以上になるが、
 捨てるに捨てられないという。毎年、その人形に拝みにくる家族がいるからだ。
 その花嫁人形も、特注のものばかり。院代の話の奥行は深い。東北大震災で
 奥さんがお産のため実家に帰っていて、亡くなられたヤンキーっぽい若い人
 の話が、涙を誘う。ただ独りで来たが、哀しみが感じられなかったという。
 哀しむまで心が追いついてないのだ。本当の悲しみは時間とともにやってくる。 
 あっという間の二時間だった。30年前に行った恐山は、強烈な印象である。
 山鳴りと、硫黄の臭いと、老人が多く入っていた硫黄風呂。あちこちに
 置かれていた遺品。そして、イタコと涙ながらに話している人たち。
 目の前に広がる白っぽい小さな湖。哀しみの感情の器である。
・・・・・・・・ 
3706, 自己を見つめる −23
2011年05月19日(木)
   ー 他者について ー     「自己を見つめる 」渡邊二郎(著)   
 幼児の頃から、「自分」は、他者の呼びかけによってカタチづくられていく。
一般的には、「他者」は、自分以外の人や、生物、そして物を総称して呼ばれる。 
二人称の「汝」と「我」の出会いと対話から生じてくるのが他者である。
【(* 対人関係の葛藤の海 ーp186) 二十世紀になって、たとえば
ブーバーなどを中心として、多くの思想家によって二人称の「汝」と向き合った、
「我と汝」の出会いと対話の関係が、人間存在の根本事実として、改めて
強調されるようになったのも当然である。とりわけ、人間関係が稀薄になって
ゆく機械的現代文明社会のなかでは、「我汝関係」の豊かな拡充が緊急の課題
として重視された。ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、
神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に設定するほど。
こうした我汝関係の思想は、十九世紀前半のフォイエルバッハあたりから始まる
とも言えるが、とりわけ現代において強調された重要な問題意識である。
 さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、
鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を行使しようと隙を窺っている、
油断のならない「まなざし」を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、
永遠に自由をもった者同土の「相克」が宿命となる。調和的な共同主観などは
幻想であり、むしろ、個別の体人同士の峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本
事実と見なされるわけである。 ヤスパーも、人間関係において、やはり、
争いを、不可避の個別的限界状況と捉えていたことは、すでに述べた。
・ つまり、一つには、人間関係の根本には生存競争という非情な争いが、
 一皮剥けば、いたるところに隠れ潜んでいることが、すぐに露呈してくる
 からである。実際、人間関係の深刻な極限的状況においては、食うか食われる
 かの、生死を賭けた争いの火花が噴出してくることは、誰もが覚悟している。 
 また、平凡な日常生活の場面においても、いろいろな局面で、先着順や成績順
 や業績順や体力順によって、岐路が分かれ、自他の運不運の差が顕在化して、
 憂き世での浮沈が結果としてくる。
・ さらに二つには、自己と他者は、相互に協力し合いながらも、
 「愛しながらの争い」において、互いにたえず、本心を確かめ合おうとし、
 公明正大さをめぐる人間的吟味の鋭い眼を、相互に向け合う。すなわち、
 自他は互いに、相手が、どれほど誠実であるか否かを、いつも気懸かりの
 種とする。つまり、他者を、その誠意や裏切り、欺朧や正直、傲慢や謙虚、
 忘恩や怠慢などの点で、吟味して、他者が真に信頼の置ける人物であるか否か、
 人は不断に確認しようとする。・・・   】
▼ ソクラテス、デカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所
 にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。しっかりした「自分」
があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、
19世紀初めに生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。
 (字数制限のためカット 2016年5月19日)


5542,閑話小題 〜夢にみる深い闇 

2016年05月18日(水)

   * 夢にみる深い心の闇 
 一昨夜半、虚無的な恐ろしい夢をみた。5年前に遡った新潟駅周辺で、
誰も居なくなってしまった白い空間の中、呆然と立ち尽くして、
『さて、どうしようか?如何したらよいか?』と思案をしている。その直後、
『何で今さら、如何しなければならないのか?今さらどうもしなくてもよい
のに、何をしている?『これ、もしかして夢?』というところで目が覚めた。
当時の時点では、無我夢中で、板一枚の舟下の虚無を垣間見る余裕さえ
無かったのが、現在に至って当時の押隠した不安心理が表出している夢。
それだけ心に余裕?が出てきたか、心の闇は複雑かつ深淵である。
 ――
   * ヨガに88歳が!
 先日、ヨガ・エアロの参加の行列に並んでいると、「いつも、ヨガの先生
の前に座っている人が昭和三年生まれだってさ」という囁きが聞こえてきた。
そこで、改めて見ると、そこに70歳後半?の女性がいた。が、まさか88歳とは
驚いた。 老いには、ヨガは良いことは実感するが、気持ちの若いのが第一。
老いるほど、長年の節制の差が出てくる。気力、体力、社会的条件が揃って、
元気なのだろう。 気持ちが老け込み始めた昨今、まず気持ちの持ちようと、
75歳を寿命の目安にしていたが、80歳に引上げることにした。
 ――
   * 老いの近景    (*´ェ`*)
「きょうだい」6人の生存平均年齢が77歳。連れ合いを入れた12人の中で、
3人の4分の1が亡くなっている。 先日の母方の実家の従兄弟の「49日法要」
に集まった平均年齢が70歳前半。 去年の暮れに、既に亡くなった一番上の
姉の連れあいが86歳で、49日法要の従兄弟は75歳で亡くなった。 日々、
わが身に近づいてきた実感がする。一日でも健康で長生きしたいが、死ぬまで
は生きている。古希をこえれば、チョッと前か、チョッと後の話。生きてきた、
ように、そのまま人は死んでいく。身近な死を目の当たりにすると、少しでも
後がよいと思うが・・ で、これまた丁度よく、以下へと、物語がつづく!
 
・・・・・・
5177,閑話小題 〜ミニマリズム
2015年05月18日(月)
   * あなたの中で何をしているのですか
 イタリア作家のタブッキの、『インド夜想曲』の中で、その「僕」は、
ピントという名前のポルトガル人を探して旅をしているらしい。ポンペイ、
マドラス、ゴアへ。 その中の一文が印象に残った。
≪「漂泊の旅」などといいうが、旅の無意識の目的とは、今までの自分を失くし、
 新しい自分に出会うことなのかもしれない。・・ 深夜の駅で、「僕」と死を
目前にした、「インド人の紳士」が、どこかぎくしゃくとした会話を交わす。
「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしてるのですか」
「これに入って旅をしてるのではないでしょうか」
「なんて言われました?」 「肉体のことです」と僕はいった。
「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいる
 といった」 みずからの影に運ばれるわたしは黒いケースにおさまった
ヴァイオリンそのもの。≫
▼ 死を悟り、「この肉体を与えられ、それを使って、この人生で何をして
 きたのだろう?」と思うとき、「あ〜長い旅をしてきた! しかし、一瞬
だった気がする!」」と思うのだろう。「私たちは地球上に、一回限りの
70〜80年(平均)の旅行にきている」のである。そこで、互いに首輪の
紐を引っぱりあい、世界を見ようとしない人たちを、『世間びと』ともいう。
 で、以下のミニマリズムに繋がっていく。
   * ミニマリズム
 最近、「ミニマリズム」なる言葉を知った。 その意味とは、
<最小限主義で、無駄をそぎ落として最も重要なことにフォーカスること。>
 人生の夕暮時に入り、ミニマリズムを本格的に取り組まなくてはならない
時節ということ。 母親を看送った51歳の節目に、人生のギアを入替えた。
そのコンセプトが、
「還暦までの9年間に、80歳までの30年分を10年に圧縮して生きる」と、
濃厚な日々として過ごした。それが次の事業清算の決断?に繋がっていく。
そして、次の最重要事項が「死に準備」である。この20数年以上にわたり、
「死に関する本」を読んできたが、死ぬときは、七転八倒の苦しみの中で、
漆黒の闇に消滅していくしかない。ただし、その直前までは活ききればよい!
・・・・・・
4812,閑話小題 ーシネマ『それでも夜が明ける』
2014年05月18日(日)
   * シネマ『それでも夜が明ける』 ー評論
 一昨日はシネマの日。今週は『それでも夜が明ける』を、みた。評)90点
暗い内容だが、重厚で、アカデミー賞の作品賞をもらうだけのことはある。
南部の奴隷が動物並みに扱われていた実態は、それは酷い。中南米諸国の
アスリストの身体能力が高いのは、奴隷としてアフリカから運搬船で送られる
船中で、まず淘汰。その後、過酷な肉体労働で生き延びた人たちから、さらに
選び抜かれているため、異常に高い身体能力があるという。当時の南部では、
家畜として見ていたようだ。 インドのカースト制は、三千年前に西の方から
やってきたアーリア人が、ヒンズー教を創りあげ、肌の色で階級をつけた仕組み
で、そのミックスを防ぐのが目的で、現在も、そのまま続いている。 白、赤、
黄色、ねずみ色の順に、見た目だけで階級が判断できる。その上に体格も、
顔つきも、そのまま三千年の歴史が現れ出ている。最下層は、牛以下で、車で
はねても、そのまま立ち去ってしまう。先進国、後進国の格差も、似たような?
 3年前の節目時の日々は、『それでも夜が明ける』そのもの。 
『闘い済んで日が暮れる』である。ただ、面白みと味わいもあったが・・差別?、
軽蔑の視線をモロに受けてみて、「成るほど、こういうものか」という逆視線と、
経験したことのない怒りと、その対処法の知恵も出てくる。いちいち怒って
いられないので、その場でイメージで消去してしまう。それで相手への憎しみも
怒りも、その場限りで不思議なことに消えていく。 消去方法は?企業秘密。
で、再び怒りが出てきたら、その都度、小まめに消去する。10回もすれば、
ほぼ消去。百回なら大病、事故? 何度も書くが、避難先の高台(現状)から、
外海に押し寄せてくる大津波に、ただ、漫然としている人たちの姿が見える。
三分の二は助かるが、三分の一は、間違いなく飲み込まれる。危ない人ほど、
自分は大丈夫とタカをくくっている。 この映画の主人公のように、ある日、
突然騙され南部に売られ自由を失った主人公のように、突然、全てが失われる。
これは、社会的変動だけでなく、誰にでも起こる生老病死の問題もあるが。 
国家としての行き先は、現在の韓国のように、韓国内の企業の株式の8割が
外国所有になって、民度は落ち続け、客船沈没事件とか、得体の知れない宗教
団体の跋扈とか・・ それでも、かの国の夜が明けている。 
色いろ考えさせられた映画である。
・・・・・・
4445、早朝座禅
2013年05月18日(土)
        「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄著
 この本を読んで直ぐに30分早く起きて、早朝座禅を取り入れてみた。
まずは、今月一杯は続けてみるが、どうなるか。今のところ抵抗感も、
異物の習慣といった感もない。もう40年以上も朝起きの習慣化があった
上に、その時間帯での全てがカタチを変えた瞑想みたいなもの。
朝の散歩やミニサイクリングは、移動座禅といってよいほど。何故、今まで
軽い気持ちで早朝座禅か、瞑想を取り入れなかったのが不思議なくらい。
 30年間の新幹線通勤の往復一時間が、瞑想に近いし、夜半の4時間の
爆睡後の一時半から4時半までの三時間は、瞑想に近い状態になるので、
あえてその必要が無かったこともある。しかし姿勢を正し、目を瞑り、
思いに捉われないで、覚醒した気持で正座をするのとは違うのは、
経験して初めて知ったこと。
ーまずは、(内容ーアマゾン)よりー
< 現代ほど「人間関係」の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、
 会社、それぞれにおけるコミュニケーションの大切さが謳われる一方、
疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。
著者は、疲れたときには「群れ」から離れて「ひとり」になってみよ、という。
毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。
季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に
吹かれる。ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間
関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法。凛とした生活を
送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。>
   =概要をマトメルと=
≪ 現代社会にあふれる‘うつ’の現象を分析し、
○過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化。
○宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫。
それが、世の中に不安をもたらすモノノケとなり、うつを蔓延させている。 
回復には、ひとりで静かな中で早朝坐禅をし、モノノケから自由になり、
歩く・泣く・眠るという3原則が大事とのこと。 宗教は非日常性。
教会でもお寺でも、日常の気持ちから離れ、心を改めて参拝します。 
一方、俗人の日常は、非宗教です。宗教者とは違い、生活に宗教性は薄く、
実生活を営んでいきます。著者にとっては、この場は混ざり合っていて縦横に
歩ける無境界地帯のよう。早朝坐禅は、無念無想のために坐るのではなく、
むしろ雑念妄想を吐き出させ、それ以後の1日をスッキリ生活させる為の手段。
またチベットの寺院の真似をして、呼吸さえ密やかにする坐禅中に、茶を喫する
などその自由闊達な動きは著者独自のもの。頭の中に湧いてくる雑念をそのまま
流れに任せ感じ、そのまま受け入れる。嫌な事でもいい事でも想像の中で、
いろいろ出来る。著者は「疲れたときには‘群れ'から離れ‘ひとり'になれ」と。
そして自分の心と向き合って深呼吸をする。人間が自分を不幸だと感じるとき、
それは絶対的な不幸をいうのではなく、「幸福な他人」との比較による相対的な
不幸について言っている。 あらゆる不満は他人と比較で生じると。≫
▼ 創業の第一歩は、「ひとりになること」から始まる。心にイメージした絵に
向かい、ただ独り長年かけ準備をしていく。周囲が現在のことに無我夢中の中で、
一種の宗教のように自分が目指す、創業に向かい一つずつ、パーツを集める。
傍からみたら一種の狂人に近い心の状態。それでも続けていると、カタチが
少しずつ現れてくる。問題は前進を止めないこと。 その中で、心の芯に
「ひとり」を保っていないと、現象に流され、群れに同化してしまう。庭弄り
とか、散歩、一人旅、読書など、「ひとり」になる切り口は幾らでもある。
それでも、モノノケに縛られる。早朝禅か、瞑想の習慣は最も有効だが。 
  さて30分の野狐禅が身につくかどうか? 
・・・・・・
4071, 哲学で自分をつくる ー1
2012年05月18日(金)
     「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著)
 実をいうと、この本、トイレに一年間以上、置いておき毎日読んでいたもの。
これを手に取ると自分の本音を見透かされてようで、切り口が素朴で日常的の
ため面白い。あまり知られてない、こういう掘り出しものが哲学書には数多ある。 
門前で野狐禅みたいなレベルで知識を弄んでいる輩(私)に、噛み砕いて教えを
説かれているようである。
   ー内容ー
 ソクラテス、ニーチェ、ウィトゲンシュタインから、フーコー、ドゥルーズ、
デリダまで、19人の哲学者の思想・人生のエッセンスを、現代に生きるリアルな
問いに置き換え、今を生きぬいていく方法を学ぶ。(読者評価) 19人の哲学者
たちの声に耳を傾けつつ、もう一度自分自身の頭で考えるということから
始めてみよう。確かに悩みや不安を宿命として受け止め肯定的に捉えるのは
容易なことでは無い。しかしそのために考えることを生きていくことの
力とする哲学というものが存在する。もっと哲学という方法を、すなわち自分で
考えるということの強度を信頼しても良いのではないか・・。著者はそうした
問題提起の下、それぞれの哲学者に成り代わって現代の読者との対話を試みる。
しかし本書は哲学者を高みの存在には置かない。また、昨今の入門書のように
デフォルメもしない。あくまでも彼らがそれぞれの時代を生きた一人の人間であり、
一人の生活者であったことに軸足を置いている。このニュートラルな哲学者の位置
づけによって、それぞれの哲学者に瑞々しい生命力が与えられ、彼ら哲学者と
現代に生きる我々との問題意識が決して隔てられたものではないという親近感を
得るのに役立っている。
  ーはじめにー の冒頭が、この著書の特徴と狙いを書いているー
【 あなたには、自分らしくありたい、人に認められたい、自分のことを
 分かってほしい、世の中で成功したい、幸せになりたい、金持ちになりたい、
モテたい、死にたくない、もっと真っ当に生きたい、といった積極的な意欲が
あることだろう。もしくは、とにかくモヤモヤしている、何もかもが信じられない、
人づきあいが面倒、生きるのがつらい、何もしたくない、誰かなんとかして、
といったような、消極的な感情もあるかもしれない。過去の哲学者たちがもし、
今、ここにいて、21世紀に生きる私たちの、そういった悩みや葛藤を聞いたなら、
はたしてどうなるのか。どのように聞きとり、どのようなことを語ろうとするのか。
「街の意見」をぶつけられた哲学者が応えるようなスタイルで本書は書かれている。 
本書は、あなたに「哲学する」ことを勧める。 ここで言う「哲学する」とは、
生きてゆくうえでの「思考の力を磨くこと」である。既存の哲学を単に解釈したり
理解することではない。日常的に哲学的な問いかけを行い、生きることに役立てる
こと、つまり哲学を使って「自分」をつくるということである。】
▼ 我々にとっての疑問、悩みを歴史上の哲学者が答える形式は分かりやすい。
 我々が日常で悩んでいることや考えていることは、全て過去の哲学者が考えて
きた一部の悩みでしかない。19人は哲学者の中でも選りすぐりの人たち。
彼らのいっている真理は現在でも、そのまま通じること。最近、気づいたことは、
私の人生はニーチェに大きく影響されていたようだ。この生活者としての生の
内面の疑問に19名が答える形式は哲学を身近に引き寄せる。
残されて人生、とにかく考え続けるしかない。
  ・・・・・・・
3705, ジャズについて −4
2011年05月18日(水)
              ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 1920年代に「ビッグ・バンド・スタイル(4人位のバンド編成が、
15人を超える大編成)」が受けるようになった。その巨人が、あの
デューク・エリントン。ジャズの世界を知れば知るほど、面白い。
  * ビッグ・バンド・スタイルの流行
【 ジャズの中心がその生誕地ニューオリンズからシカゴに移っていた
 二〇〜三〇年代、ニューヨークやカンザス.シティでは、大編成による
ビッグ・バンド・スタイルのジャズが流行した。トランペット奏者、サックス
奏者、トロンボーン奏者がそれぞれ四人程度、それにピアノ、べース、ドラム、
ギター奏者が一人ずつの編成し、クラシックの楽団には比べるべくもないが、
それでも、一五人を超えるメンバーからなるビッグ・バンドはニュー・
ーオリンズ・ジャズの編成(一般的にはコルネットット、トロンボーン、
バンジョー、ピアノ、ベース、ドラム各一人)に比べればはるかに大規模
だったし、現在でもトリオ(ピアノ、べース、ドラム各一が基本)か、カルテット
(ピアノ、べース、ドラム各一にトランペットかサックスが加わる)がジャズ演奏
の主流であることを考えれば、大編成と呼んでもいいだろう。 
そのビッグ・バンド・スタイルを確立させたのは、フレッチャー・ヘンダーソン
(一八九七〜一九五二)。しかし、ニューヨークの黒人居住区であるハーレムの
ポールルーム(ダンスホール)やクラブを拠点に活躍したビッグ・バンドの巨人
といえぱ、デューク・エリントン(一八九九〜「九七四)をおいていない。 
本名エドワード・ケネディ・エリントン(デュークは公爵という意味のニック
ネーム)は、あとで触れるマイルス・デイビスに、「あらゆるミュージシャンは
彼に感謝を捧げる日を持つべきだ」といわしめ、フランスの作家ポリス・ヴィアン
をして、小説の登場人物に、「かわいい女の子たちとの恋愛と、デューク・
エリントンの音楽。それ以外は消え失せたっていい。醜いんだから」と語らせた
人物である。「A列車で行こう」「黒と茶の幻想」「ソフィスティヶイテッド・
レディ」「サテン・ドール」・・・。ジャズ・ファンならずとも耳にしたことが
ある名曲.名盤を数多く残し、自らもピアン奏者であったが、彼の真の楽器は、
自分の楽団そのものだったといっていい。アーム・ストロングと同じように時代や
国に影響を与えた彼は、アームのソロイストとは対照的に、優れたバンドリーダー
であった。エリントンにとって、バンドのメンバーはさながら絵の具のようであり、
それぞれ個性という色を混ぜ合わせて、最終的には「エリントン風絵画=楽曲」
に仕上げることに長けていた。】
▼ そうこうジャズについて知ると、学生時代に、こういう本があれば、
 もっとジャズ好きになっていた筈である。エリントンの70年の録音された
「ニューオリンズ・スイート」は、その地と縁もゆかりもない彼が、ジャズの
発祥の地に敬意を表したアルバム。アメリカ発の魂の歌と言うことができる。


5541,閑話小題 〜 『ルーシー』

2016年05月17日(火)

     * 『ルーシー』
 先日、『ルーシー』をTVの再放送で観たが、半年に一回位は放映されている。
もう4〜5回はみている。私も微細だが、何か面白い特殊能力がある。誰も、
個々に特殊能力、いや脳力があるが、気づかず見逃しているだけ。この映画、
見る度、その面白さが増していくのも珍しい。それにしても、映画は面白い! 
 〜まずは、その内容から〜 【ストーリー】
≪ マフィアの闇取引に巻き込まれたルーシーは、特殊な薬が入った袋を体に
 埋め込まれ運び屋にされてしまう。しかし、体内で薬が漏れたことで彼女の
脳機能は驚異的に覚醒。脳科学者ノーマン博士が見守る中さまざまな能力が
超人的に目覚める一方、少しずつ人間性が喪失、自ら制御できなくなっていく。
『レオン』や『ニキータ』などクールなヒロイン像を打ち出してきたリュック・
ベッソン監督と、スカーレット・ヨハンソンが初めて組んだアクションスリラー。
体内に埋め込まれた特殊な薬が漏れたことで脳機能が驚異的に覚醒し、
人間離れした能力を発揮し始めるヒロインの暴走を描く。通常は10%程度しか
機能していない脳が、100パーセントへ向かって覚醒していくヒロインを見守る
脳科学者役に、オスカー俳優モーガン・フリーマンがふんする。≫
▼ 西アフリカを南に下っていく道すがら、面白いところがあると立寄った
 数軒のテントの店が全て、呪いに使う小道具だけを扱う店だった。当時は、
民度が低いアフリカの地方の一現象と見ていたが、どうだろう、案外に効果が
あるのかもしれない。変と思われるかもしれないが、この5年間、いや人生の
節目ごと、直接、私の心の傷口を蹴り上げてきた人の8〜9割が人身事故か、
大病か、ごく近い親族が倒れ寝たきりとかになる。あとの1〜2割は、それが
入ってこないだけと思っていたが、その数人が、ごく最近・・? 自分でも
恐ろしい? 元もと不幸な性格の人が、他者の傷口に、自分の傷口の血を擦り
付けるため、それが膿んで、自分の傷口に毒が悪化するため。こんな映画を
数回も見るため、因果をつけた筋書きをしているだけとしても、実際に、何か
あるのでは?と・・ 人を恨ばま、穴二つ、いや無数! 逆に、恨まれている
憶えは数限り? それでも何とか、健康に?生きている。毛沢東、スターリン、
ヒットラーなど、狂い死にしてよいはずだが、そうでもない。とすると、
これは私の創作した馬鹿話! がオチ。 でも不思議だが、娑婆は妄想である。
 
・・・・・・
5176,人生相談という気晴らし! 〜
2015年05月17日(日)
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
 さすがの個人主義の哲学者も、老老介護の相談には歯切れが悪い。
介護の世界は複雑で、根深い。極限の場面で、真実を知ったところで、
せめて、気晴らしになるぐらい。最期の最期は、宗教に頼るしかない?
≪ Q:  〜老老介護から人の〈生〉と〈制度〉を問う〜
 私は七十四歳の女性。以前の「死ぬ作法」の記事を読み考えるところが多く、
質問させていただきます。私は現在、九十五歳の母親の介護をしております。
昔であれば一番上の子供が還暦を迎えるころには親は天に旅立ってゆくもの
でしたが、医療の進歩もあり、寝たきりであっても延命治療が続いております。
世間では後期高齢者医療制度が問題になっていますが、むしろ末期の医療現場を
考えていただきたいと思っています。人が生きるとはどういうことであるのか、
死に近い位置から医療をはじめ生きるということを見直すことが必要ではないか
と思っております。哲学のご見地から、寝たきりとなった高齢者の生、死について
何かご示唆いただきたくお願いします。ちなみに私の兄弟三人は皆、病に倒れ
入院生活を送っています。私が倒れたら、どうすればいいものか不安で一杯です。
  A:  〜われわれは「生きている」ことの意味が分からないのです〜
これは大変難しいご質問です。私も大学でここ十年ほど「生命倫理」の講義を
受け持ちましたが、さまざまな学説を紹介することはできても、自分の意見を
言えといわれると、とたんに分からなくなる状態です。 逃げのようですが、
あなたのご質問に対して「哲学の見地から」何の示唆もできない、と言うほか
ありません。哲学は人を救えないものです。正確に言えば、世界とは、私とは、
時間とは、善悪とは、何か分からなくて悩んでいる人をある程度救えますが、
幸福になりたい人を救う能力は皆無だと確信しています。むしろ、哲学とは
不幸になってもいいから真実を知りたいという欲望をもっている人にのみ
開かれている。真実は必ずしも人々に慰めや、平安や幸福を与えるわけでは
なく、逆に不安や不幸を与えるとしても、あえてそれを追究するのですから、
相当ヘンな欲望ですね。そもそも、われわれは「生きている」ことの意味が
分からないのです。ですから、生きているほうが、死んでいることより「いい」
ことを論証できないのです。哲学は「いかに」生きるか「いかに」死ぬかを
教えることはできず(それを安直に言い出す哲学者はニセモノ)、人間が死ぬ
ことの意味そのものを問い続けることができるだけです。私も人間ですから、
直観的に「人を殺してはいけない」とか、「老人を虐待してはいけない」という
ことは理解できますが、さらに「なぜ?」と問うと途方に暮れてしまいます。
まさに、ここに問題を見出す人のみが哲学に突き進むのであり、そんなことは
何の問題でもない、目の前に苦しんでいる人がいれば助けるのがあたりまえ
ではないか、という考えの人は決して哲学の門にはいらないでしょう。・・ ≫
▼ 難しく、深刻な問題だが、決して他人事ではない。人生の最期は、決して
 不幸から逃れることが出来ない現実がある。それに対し、「南無阿弥陀仏」か、
「南無妙法蓮華経」と唱えるしかない。哲学は、「ことの道理」を追求すること
が出来ても、人を救うことは出来ない。ということは、人生相談に、哲学は
向いてないことになる。だから、逆に質問の内容そのものの甘さを指摘して
納得させるのが、ベストになる。『人の心の問題は、ほっとけ!』と。
・・・・・・
4811, Quirt <内向型人間の時代> ー2
2014年05月17日(土)
               <内向型人間の時代>スーザン・ケイン著
  * 内向型人間は二流の性格特性か?
 外交型人間の代表といえば、特にイタリア、スペインなどの南欧の人たち。
逆に内向的人間の代表はフィンランド人を代表にした北欧の人たちからみて、
季節要因と食料が大きく影響しているのが分る。黒夜の時節、15時になれば
真っ暗になれば自殺率が高いのも当然である。冬期間に雪に閉ざされ、内向き
になる秋田、新潟の自殺率が高いのと似てる。外交型人間を理想とする価値観
の中で、内向型人間は、一段も二段も低く見られるため、どうしても隠したがる。
  ーその辺りから抜粋ー
《 今日、社会が求める性格タイプはごく狭い範囲に設定されている。
 成功するには大胆でなければならない、幸福になるには社交的でなければ
ならないと、教えられる。 私たちはアメリカを外向型人間の国家として見て
いるが、それは必ずしも真実ではない。どの研究を見ても.アメリカ人の三分の一
から二分の一は内向型である。言い換えれば、あなたの周囲の人々のうち二、
三人にひとりは内向型なのだ(アメリカが有数の外向型の国のひとつだとすれば、
世界にはもっと内向型の比率が高い国々がある)。あなた自身が内向型でない
としても、家族や学校や職場に何人か思いあたるだろう。もし三分の一から
二分の一という統計に驚きを感じるのなら、それはたくさんの人が外向的のふり
をしているからだ。隠れ内向型は、学校の運動場や高校のロッカールームや
大企業の廊下に気づかれずに生息している。なかには自分自身までもすっかり
騙していて、なんらかのきっかけで、たとえば、失業、子供の親離れ、遺産が
転り込んで時間を好きに使えるようになったなどで、ふと自分の本来の性格に
気づく人さえいる。この本の内容を友人や知人に話してみれば、思いがけない
人が自分は内向型だと思っているとわかるだろう。 多くの内向型がそれを
自分自身にまで隠しているのには、それなりの理由がある。私たちは、外向型
の人間を理想とする価値観のなかで暮らしている。つまり、社交的で先頭に
立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられる、そんな自己を持つことが
理想だと、多くの人が信じているのだ。典型的な外向型は、熟慮よりも行動を、
用心よりもリスクを冒すことを、疑うよりも確信することを好む。たとえ悪い
結果を招くかもしれないと思っても、すばやい意思決定を優先する。
チーム行動を得意とし、グループ内で社交的にふるまう。私たちは個性を尊重
すると言いながら、ひとつの特定のタイプを賞賛しがちだ。その対象は
「自分の存在を誇示する」のを心地よく感じるタイプなのだ。もちろん、
テクノロジー分野の才能があって自宅のガレージで起業するような人なら、
一匹狼だろうとどんな性格だろうと許されるが、それはあくまでも例外で、
そういう特例として認められるのは大金持ちか、そうなると約束されている
人たちだけだろう。 内向性は、その同類である感受性の鋭さや、生真面目さ、
内気といった性格とともに、現在では二流の性格特性とみなされ、残念な性格
と病的な性格の中間にあると思われている。外向型を理想とする社会で暮らす
内向型の人々は、男性優位世界の女性のようなもので、自分がどんな人間かを
決める核となる性質ゆえに過小評価されてしまう。外向性はたしかに魅力的で
あるがゆえに、押しつけられた基準になってしまっていて、そうあるべきと、
大半の人々が感じている。・・・ 》
▼ 戦国時代の、信長、秀吉、家康を、この性格分類からみると、信長と、
 家康は内向型で、秀吉は外交型になる。家系と、家族と、連れ合いなどの
環境も、大きく左右してくるが、豊かさと、知識も多分に影響してくる。
 学生時代の、ある時期から、面白いように次々と小さな殻が壊れていった。
その一つが、父親が私の牛小屋のような寮に来て、その見窄らしい生活に驚き、
仕送りを二倍にしてくれた頃に、欧州旅行と、ゼミの影響もあって、外交型に
自分が変化していった。当時、仕送りが二倍になるのは、日常が根こそぎ
変わることでもあった。 ーつづく
・・・・・・
4444, 過去の意味は変えられる
2013年05月17日(金)
  * 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる
 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は
変えられる」がある。40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。
所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側面がある。何事も始まりと
終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は
変えられる。それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の
捉え方で変わる。過去の意味(価値)を変えることは、未来と現在に対する
考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、
結果の意味は変えられる」として、人生、事業を総括すると多くの視点が
見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。
全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。
(この宇宙、地球、人間など全てだが)それでは「過去の意味を変える」とは
如何なることか。意味に近い言葉に価値がある、意味=価値として考えてみる。
価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、
何を目指しているかに行きつく。過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって
当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。
意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、
それが真実といわれるケースが殆ど。そこで、真実と意味を辞書で調べると
・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤を
 すべて排したときに明らかにされること。漢字の意味は、事柄の中身を開いて
 見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】
・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)を
 さかのぼる真意、意図、目的。ある現象(行為・言語・その他)に添付される、
 ある種の上位概念。】とある。
真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、
過去は記憶でしかない。その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無い
ようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。
・・・・・・
4070, 主義とは、内に貫く一つの信条
2012年05月17日(木)
  * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物!    
         ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。
その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから最大遺物ということが出来
ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。『それでドウゾ、後世の人が
我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であった
けれども、己の生涯をめいめい持っていた主義のために送って呉たと云われたい
ではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 
▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として
 生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。一度だけの
人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・ 
主義とは言葉の通り、その人の主たる義。内に貫く一つの信条を実践することが
義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。
貫き通せば、勇ましく、高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の
進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。
そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも
必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。
   * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い!
 誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 
死も生も堪える勇気のない人も、抵抗しようとも逃げようともしない人、
こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。ーモンテーニュ『エセー』より
▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。
 悪いことに親から相続しているため直しようがない。現実を全く疑い持たない
一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。
まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、
これまた解釈の仕方ひとつ。不幸の時期ほどベストのことが隠されている。
ベストよりベターが良いと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや自分か?   


5540,ドーキングスのセックス機械論

2016年05月16日(月)

カントを頂点とした欧米の哲学の世で、< 生物の身体は遺伝子(DNA)を
運ぶ箱である>などと主張すれば、袋叩きになって当然の事。人は神様が
おつくりになったと信じて疑わない国柄の米国だから顰蹙をかって当然だが、
ドーキングは、「セックス機械同士が交わった結果、子供が生まれ、子々孫々、
遺伝子が生き繋いでいく」と言い切る。この論からすると、死後の世界とか、
生まれ変わりや、「自己存在とは何だろう?」など、考えることが馬鹿くさく
なる。 たまたま、やばい我々?の身体に、遺伝子が取りついただけ?
         ーエピソードで読む西欧哲学史:堀川哲著ー より
≪  ☆ 利己的遺伝子
1976年、オックスフォード大学の動物行動学の教師、リチャード・ドーキンス
(1941〜)が『利己的な遺伝子』という本を出した。ドーキンス、35歳であった。
この本は現代のダーウィン主義を要約したものであるが、ドーキンスの文才も
あって、センセーショナルな反響を呼び起こした。
 彼は、「神も仏もあるもんか、生物はセックス機械にすぎない」という。
ドーキンスは特に宗教を攻撃して罵倒するものだから、特にアメリカでは
超顰蹙であった。ドーキンスがアメリカで講演しようとすると大変である。
硬派のキリスト教徒たちが「くたばれドーキンス!」と叫んで押し寄せる。
彼の理論自体は単純・明快である。「この本の主張するところは、われわれ
および、その他のあらゆる動物が遺伝子によって創り出された機械にほかなら
ないというものである」。 こうドーキンスは書いている。
生物の身体は遺伝子(DNA)を運ぶ箱である。よーく考えてみよう。
人間は、最初は一個の細胞である。お母さんのお腹の中に、微小な卵として
誕生するのである。 学校の生物の時間に教わったでしょう。
 細胞の核にはDNAという二本鎖がある。DNAは四種の塩基物質で構成される。
四つの記号でプログラムが書かれていると考えればいい。コンピユータ時代
にはそのほうがわかりやすい。DNAはA、T、G、C(塩基物質の名前の頭文字)と
いう四種の記号でプログラムが書かれるのである。
 人間には人間のプログラムがあり、ブタやダニにはそれなりのプログラムが
ある。私が何ものであるかは、このプログラムによって決定されるわけである。
 DNAのプログラムは自分が生き延びるように動く、そういうようにできている。
サバイバルの方法はといえば、それは自己の複製(コピ!)を作り出すこと。
私たち人間は有性生殖の生き物であるから、コピーの作業は異性との性交と
いう行為を通じて実現される。できるだけ多くのコピーを製造すること、これが
DNAの基本的機能である。DNAはそうするように作られている。雨が降るのと同じ。
 そのために、DNAのプログラムは私たちの身体を適当なときに発情させ、複製の
行為と駆り立てるのである。こうしで私たちは異性を追いかけ回すようになる。
人間誰でも年頃になれば、発情するようにプログラムされているということになる。
 ☆ 遺伝子は永遠だ
間違いなくいえることだが、私はいつか死ぬ。私の身体はやがて滅び去る。
しかし、私が子どもを製造する限り、私を製造しているDNAプログラムは
少し書き換えられて、子どもにコピー(複製)される。個体としての私は死ぬが、
私のDNAプログラムは、私の子どもがまた複製を作れば、永遠である。
私にとってはうれしくも悲しくもないけれど、そういうことになっている。
遺伝子DNAは利己的である。だから「利己的遺伝子」である。その意味は、
DNAは自己の複製を極大化するように行為する、そういうようにプログラム
されているということである。≫
▼ 30数年前になるが、犬のブリーダーが、生まれたばかり犬の子、7〜8匹の
 写真を見せてもらった時、それぞれの個性的な顔と姿を見た瞬間、「この子犬
たちは、以前存在した犬の遺伝子が、改めて、この世に現れ出てきた」と、
直感したことを憶えている。 もしかして、分霊の正体は遺伝子? たまたま、
自分とは、それに触媒の積み重ねでカタチつくられた存在に過ぎないのだ。
これを知っておくと、死に際の絶対孤独が和らぐのではなかろうか。同じか?

・・・・・・
5175,人生相談という気晴らし! 〜⑥
2015年05月16日(土)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
  * 老いた人の絶対的孤独との向き合い方は
 ここで、自分のしたいことを誠実に熱心に追及している限り、理解者は
出てくるというが、どうだろう? 今では、ブログなど、ネットで繋がることが
可能なので、ある程度の他者と繋がることが可能だが。
≪ Q: 〜年齢とともに肥大する孤独との向き合い方〜
 六十五歳の男性です。人間、歳を取るとだんだん孤独になるものだとつくづく
実感しています。若い頃は学才に恵まれていた男が、いつのまにか「俺は文化
なんてものには興味はねえ」と野卑な口調で本性をあらわしたり、デリカシーに
欠けていた男の品性がますますひどくなったり。さらには盟友が亡くなったり…。
そんなこんなで、私はこの七〜八年ほどの間に若い頃からの友人をあらかた
失くしてしまいました。孤独であることにもそれなりの味わいはありますが、
しかし、人生、いや歳を取るということは、かくも無漸なものなのでしょうか。
歳を取ることによって生じる、どうしようもない孤独にどう対応したらいいのか?
適切なるご教示をお願いします。
  A: 〜わずかでも心の通じ合える人がいれば絶対的孤独は避けられる〜
 私は「孤独」がそれほど嫌いではなく、「それなりの味わいがある」と思って
いますので、「どう対応したらいいか」に対する直接のお答えにはならないかも
しれません。あなたの問題にされているのは、主に「他人との関係」でしょう。
それにも二つあって、1つは、人間、歳を取ると「品性」がますますひどくなる
こと、そしてもう1つは、親しい他人や愛する他人が次第に自分より先に死んで
いって、だんだん心細くなること。前者については、私も同じ印象を持ってます。
私が同年齢の男女との付き合いをかなり切っているのは、―自分はともかく―
一般的に言って中高年の「醜さ」に耐え難いからかもしれません。それに加えて、
私は「哲学」なんぞに首を突っ込んでしまったので、50や60の「普通に出来
あがった」男たちと話すことは何もないと確信しているせいでしょう。
 この歳で、妙に哲学に擦り寄ってくる老人も嫌いです。大学の教師や研究者、
あるいは物書きをしていて気が晴れることは、若い学生たちや若い研究者たちや
若い編集者たちや若い読者たちとの「交流」が、適当にあることです。
もちろん、彼らの中にも「心の醜い」輩はいますが、私の周りには総じて
「心のきれいな」人が集まります。そう自分が厳選しているからなのですが。
このことは、第二の孤独にも通底しています。私の場合、特殊とも思いますが、
自分と同世代の男女との付き合いをほとんど完全に絶っていますから、という
ことは、小学校から大学までの同級生などとの交際はないので、誰が生き残って
いるのか、誰が死んでいるかさえ(連絡がないので)わかりません。それに、
私は目上の人との付き合いは(どんな恩人でも)苦手で、これもほぼ完全に切り
捨てていますので、目下、誰が死んでもいっさい葬式に行く義務はないのです。
別に老後の孤独に備えてこう準備したわけではありませんが、私はその時々で
一緒にいて心の通じ合える人がわずかにいればそれでいい、という「刹那主義」
に徹しています。どんなに歳を取っても、自分のしたいことを誠実にかつ熱心に
追求している限り、理解者は出てきますし、その限り絶対的孤独は避けられると
思いますが……。≫
▼ 著者から肩書をとったら、「醜悪なクレーマー」と思われる。
 これまでの著書を読んでいると、クレーマーとしての信じがたい内容が
リアルに書いてある。それはそれは・・ 特に街中や電車などの騒音に敏感。
それと、著書を出し、思いを表現していると、孤独感は半減する。中島の口癖、
「いずれ直ぐ死んでしまう!」は、亡くなった友人を自分に置換えると分かる。
『死んでしまえば、それまでよ! そんなことなど死んで3日も経てば・・』
・・・・・・
4810,Quirt <内向型人間の時代> ー1
2014年05月16日(金)
              <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
   * 内向型人間かどうかのチェックリスト
 私は、あまり外交的ではない。だから、事業創業の人生を選んだのである。
この書の冒頭にあった内向型リストで、○✖▽で、チェックしてみた結果、
20のうち、13が○、✖が3、どうだろう?▽が4で、明らかに内向的
人間である。家内は明らかに外交的人間と思っていたが、○が15に、✖が3、
▽が2で内向的人間には驚いた。専業主婦ということもあるが、驚きである。  
 ー以下、左が私、( )が私から見た家内である。
  ーまずはチェックリストからー 
           日本人、特に地方、北国は8〜9割は内向的人間? 
○グループよりも一対一の会話を好む      ○  (▽)
○文章のほうが自分を表現しやすい       ○  (✖)
○ひとりでいる時間を楽しめる         ○  (○)
○周りの人にくらべて、他人の財産や名声や地位にそれほど興味がないほうだ
                       ○  (○)
○内容のない世間話は好きではないが、関心のある話題について深く話合う
 のが好きだ。                ○ (○)
○聞き上手だと言われる            ○   (▽)
○大きなリスクは冒さない           ✖   (○)
○邪魔されずに「没頭できる」仕事が好きだ   ○   (○)
○誕生日はごく親しい友人一人か二人や、家族だけで祝いたい ○(○)
○物静かだ」「落ち着いている」と言われる       ○ (○)

○仕事や作品が完成するまで、他人に見せたり意見を求めない。▽(○)
○他人と衝突するのは嫌いだ              ▽  (○)
○独力での作業で最大限の実力を発揮する        ○  (○)
○考えてから話す傾向がある              ○  (○)
○外出して活動したあとは、たとえそれが楽しい体験であっても消耗したと
 感じる。                      ✖ (✖)
○かかってきた電話をボイスメールに回すことがある。  ✖ (✖)
○忙しすぎる週末よりも、なにもすることがない週末を選ぶ ○ (○)
○一度に複数のことをするのは楽しめない         ▽ (○)
○集中するのは簡単だ。                 ○ (○)
○授業を受けるとき、セミナーよりも講義形式の方が好きだ。▽ (○)
▼ 意外なことに、アメリカ人でさえ、2〜3人に1人は、内向的人間という。
 事業人生を30年以上、たずさわり、人との接触が多い仕事もあって、外交的
部分も多かった?反面、嫌な場面へ行かないで済む、自由もあった。逆に仕事上、
内向的姿勢も求められたこともあった。家内の友人に、極度の内向型人間がいて、
その話を度々、聞くことがあった。内向的にも、暗いのと、明るいのがいる。
冷たいのも、温みがあるのもいる。携帯パソコンが一般に普及した中、情報選択
と決断が重要になっているが、この時代だからこそ内向型人間の時代というのも、
説得力がある。ヨガブームというが、週二回、26ヶ月、参加して、成るほど、
内向き、精神性の時代が、実感できる。 高齢者は、どうであれ、内向きに
なりざるをえない。 ーつづく
・・・・・・
4443, ヨガと座禅の違い
2013年05月16日(木)
 毎週二回、スポーツジムの「ヨガ」に参加して14ヶ月、百回はゆうに
超えているが、回数を重ねるたび、身体も、気持ちも解れていく。学生時代に
野狐禅だが、六日町の雲頓庵で持ち込んだ卒論の種本を読みながら、合間に
広い禅室で独り座禅を組んだことがあった。ただシーンとした中、
「直ぐにでも止めようか」という気持ちと戦いながらのたった独りの座禅は、
永平寺での一瞬気持ちを緩めれば、禅僧に叩かれる状況より辛い。誰もいない
ため、直ぐ止めたい誘惑との闘いになる。ヨガで仰向けになり全身を弛緩する
「死者のポーズ」があるが、これは座禅の禅定に似ている。飛行機内の座席で、
耳栓をして姿勢を正し、次々出てくる思いを泡のように流していると、何かの
ゾーンに入ってしまい、10時間以上の時間がアッという間に過ぎてしまう。
ヨガは、瞑想で心を解すのが目的で、禅は、その状況から仏の悟りに近づく
ことにある。
ーヨガと座禅の違いをネットで調ベた、納得した3つをコピーしてみるー
《 人は疲れたときに目をつぶる事がある。そこで何かを思い浮かべながら
 瞑想にふける。この繰返しがヨガという。 このヨガはもともと
「軛(くびき)」ということで、牛に車を曳かせる腕木を指した。これが
次第に神の力に人間を結びつけることを意味するようになり、その修行法と
して智慧、愛、行、瞑想が重視された。一般にヨガと呼んでいるのは、
このうちの瞑想による神人合一の方法である。このヨガは紀元5世紀ごろ
には「ヨーガ・スートラ」を根本経典としたヨーガ派が独立してさかえ、
完全性をそなえたひとつの霊魂を最高神としてあがめた。このヨガの修行法
が仏教にも広く取り入れられてきた。それが坐禅につながっていく。 》
《 ヨガと坐禅は、まず姿勢を正して、呼吸や五感(眼、耳、鼻、舌、身)
 を整え、誘惑をさけ、精神統一するのはどちらも同じ。ヨガは、これに
よって初めて超自然的な力が得られ、対して禅は「禅定」に深くかかわり、
静けさを求める。禅とは(ジャーナ、禅那)という梵語の音写で、釈尊の
悟りを追体験して”身心脱落”し仏の境地になりきり坐禅をすること。
禅は「無」を標誘し功徳や利益を求めない。ひたすら足を組んで坐禅をする。
ヨガは神人合一して身心の健康を増進させる。 》
《 ヨガは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの
 哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える
事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられた。後に、ヨーガ学派
という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと
言われています。そして仏教においても、このヨガは悟りへの実践方法として
用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽行」
という修行法として確立されました。現代のヨガも、もともとはそのインド
独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、出発点は
同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを
目指す為の方法であり、現代のヨガは、心身の健康維持のためのもの、という
点でしょうか。座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を
盛り込んだ、精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」
つまり精神統一をし、真理を観察することであって、「座禅」は座法や呼吸法を
用いた「禅定」一つの方法ですから、根本的な部分で同じ要素を持つ。 》
▼ ヨガは座禅と出発点が同じ「座法」「呼吸」を盛り込んだ精神統一の方法に
 対し、座禅は精神統一を通して真理を観察するもので、少し意味合いが違う。
腰痛持ちの私にとって、週二回のヨガは腰痛緩和の自己マッサージ治療。
私の腰痛は完治はないが、仲良くするのは可能。その方法がヨガに多くある。
手軽なベストの場が見つかったもの。たまたまー「早朝座禅」山折哲雄著ー
を見つけ読んでいるが、数日前から、30分早く起き、早朝座禅を取り始めたが、
これが良い。4時から7時までは、正にゴールデンタイム。
60年以上溜まった毒出し、矯正の時間でもある。
・・・・・
4069, お金と神 ー2
2012年05月16日(水)
   * 「お金=信用」と、「神=信仰」は同じようなもの  〜�    
           ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
 お金の本質に関して多くの本を読んで考え続けてきた。ここで、お金と神
の本質を同定し分かりやすく書いている。なるほど、人は心情的に多くの金を
持ちたがるはずである。とはいえ、それは心情である。傍に迷惑をかけない
範囲で、自分の好きなことに時間をかけて使うべきである。通帳にあるのは
単なる数字の羅列。その辺りの知識がないと必ず後悔する、それが人生である。 
 ーまずは抜粋ー
≪ 一方、お金はどうか。人は物やサービスという実体を消費し、生活している。
経済は、それらを効率よく手に入れるため発達してきた。多種多様な物欲と技能
を持つ人びとが、それぞれの能力を最大限発揮して、生活を物的に豊かにする
ためには、自分の得意な物を作って、他人が得意とする生産物と交換すればよい。
それによって、自給自足では望めなかった生活永準を実現することができる。
そのための交換の場が市場であり、お金は交換手段として生まれ発達してきた。 
物々交換では自分の欲しい物を相手が持っているとともに、自分も相手の
欲しい物を持っていなければならない。経済学で言う、交換における「欲望の
二重の一致」である。このとき、誰でも普遍的に欲しがる物があれば、交換手段
として最適である。二重の一致が一重で済むようになり、いつでも自分の欲しい
物と交換できるからである。そのため、宗教が雷や山から始まったように、
お金もはじめは、それ自体が安定した実用価値を持つ米や金銀などであった。
しかし、交換機能だけを考えれば実用価値などいらず、信用だけで十分である。
持ち運びや保管には、かえって実体として機能は邪魔になる。 そのため、
金銀の代わりに大銀行の金銀預り証が紙幣としての役割を持ち始め、20世紀
に入ってからは金銀との交換性とも切り離されて、純粋に交換手段の不換紙幣が
定着した。しかし何の価値のない紙幣を流通させるのに、信じ込ませることが
必要である。それが信用である。≫
▼ 金も、社会的価値として信用出来るから流通するのである。
 それ(交換手段としていた金)が、いつの間にか、将来の不安を解消する
手段にすり替わってしまっていることに人は気づかない。金は使うべき時に
使うのが道理ということ。 何で人は、お金を残して死ぬのだろう?
死後に残された金は、あくまで死の不安の遺物。しかし交換手段の額が
大きいほど、自由になる幅が広くなることは確か。が、それも幻想。
 やりたいことをするのが自由である。何がしたのかをハッキリさせて使って
こそ金(自由)の効用が生きてくる。 貯めたは貯めたで、金に未練を持った
まま死んでいく。つくづく、人間は頭が変である。自分の好きなことをして
行蔵として残せばよいものを。100億円遺した人と、100億円使い果た
した人と、どちらが面白かったかをみれば分かること。
人間両手に持てるのは2千万まで!


5539,閑話小題 〜消防士の収入

2016年05月15日(日)

   * 地に足が着いた人生 ー2
 先日の小テーマで、「地に足が着いた人生」を書いた。
そこで地方公務員資格試験は、如何なるものかと、「地方公務員資格試験」と、
「消防士」の二つで検索したところ、消防士の平均収入が700万以上とあった。
 危険な仕事としても? あまりに・・  〜その辺りから〜
≪ 消防士は718万円が平均年収!(地方公務員給与実態調査結果の概要調べ)
 消防士に支払われる給料の平均は36万円が基本で諸手当が65万円で、
民間企業と比較すると非常に高くなっています。 民間企業平均の平均年収は
409万円となっており、消防士はその300万円以上高い年収を得ている事になる。
消防士に割り当てられる諸手当を調べたところ、特殊勤務手当てがあり、
(1) 危険作業手当(2) 不快作業手当(3) 重勤務作業手当
(4) 非常災害業務手当 (6) 消防業務手当などの手当てがつきます。
 現在全国の消防職の職員は15万8000名。
30代の平均年収は600万円、40代になると720万円といわれており、50代では
800万円以上と民間の平均よりも非常に高くなっています。民間の場合は50代
になると年収が減少する傾向が多いのですが、消防士は着実に上昇する。≫
 とあった。成るほど、自信に満ちた彼の受け応えも、こういう背景があった。
   * 「道」という漢字は、「生首」に由来する
 ある本に、「道」という漢字は、「生首」に由来するとあった。
道は「導く」の意味もある。道は血生臭いのである。人生を道に例えると、
納得する。道には血と汗と涙が詰まっている。
≪ ・古代中国では、自分の領地をへいで取り囲み、そこから外へ抜ける道
 には敵の首を埋めて、攻め込まれないように「まじない」をしたとする説。
・敵から討ち取った生首をちょうちんのようにぶら下げ、「まじない」がわり
 にして外に通じる道を進んだとする説。
いずれの説も討ち取った敵方の生首を魔よけや、まじないがわりに使ったこと
が道の漢字の成り立ちに含まれています。
・「行が変化→辶(みち)」、と、「首(シユ/シウ→チウ疇=長く通っている
意味)」。 長く通じている「みち」→「道を行く」「みちびく」の意味。≫
▼ 人生の道を切り開くとは、戦い、血だらけで進み、途中で行倒れて・・
 と解っていても、進むしかない。急ぐのも、ゆっくり行くのも、人生。
 とすると、ゆっくり急ぐのがベストということか。 人によるが。

・・・・・・
5174,人生相談という気晴らし! 〜⑤
2015年05月15日(金)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 個人主義者の覚悟
 自分を、「アウトサイダー」「ソリスト」「個人主義者」と自認している。
老いるということは、孤独の重圧に押し潰されていく過程でもある。だから、
そのスタンスを取ってきたが、それでも、弱気になることがある。
今さら、「世間びと」になれないし、なる気は一切ないが、彼らの破壊兵器も
ただならぬものがある。だから、「自分とは何だろう」と考えるに丁度よい
エネルギーになる。どの道、永遠の彼方に消滅していく。老いは厳しいのです。
≪ Q: 〜個人主義者にとっての老後を生きるヒントは?〜
 現在、53歳既婚、フリーランスで仕事をしている男です。
私は元来、めんどうくさがり屋でわがままで、人付き合いも苦手です。
特に冠婚葬祭、歓迎会、忘年会など、あらゆる会合や行事に出席を拒否。
こんな利己的性格ですから当然、会社組織に馴染めるはずもなく、こうして
一人で事業をし、近隣との人間関係の希薄なマンション生活をしています。
しかし、現在、老後の問題など何となく将来に一抹の不安を感じています
(目の前にある離婚の危機による自信喪失でしょうか)。自分本位な生き方
をしてきたため、義理を欠くことも多く、自ら世間を狭くしているように
感じています。いずれしっぺ返しがくるように思います。
個人主義生活者に「老後を生きるヒント」を教えてください。
 A: 〜「自分とは何か?」という問いを突き詰めて生きることです〜
「個人主義生活者」にと、その「老後を生きるヒント」とい言葉によって、
あなたが何を期待されているのかよくわかりません(そもそも「個人主義」
とう言葉の意味がはっきりしない)。もし、長く世間に背いて自分本位を
貫いてきたが、老境に至り身体もガタが来ているし、このまま一人で生きて
いくのも寂しいし不安だから、どうにかしたい、というのなら、あなたの言う
ところの「個人主義」をきっぱり捨ててしまえぱいいのです。前後左右の
他人の思惑に常に媚び、自分勝手な考えはぐいと抑え込み、厭なことも率先
してなし、「和」を大切にし、これから必死になって「もちつもたれつ」の
人間関係を復元するのです。それはイヤだ、やはり「個人主義」を貫いた
まま安全な老後を迎えたい、と言いたいのなら、そんなムシのいい話はない
と答えましょう。「いずれしっぺ返しが来る」ことを予見もせずに、よくも
「個人主義」などに乗ってきましたねえ。失礼ながら、おめでたいとしか
言いようがありません。わが国民が、「個人主義」を蛇蝎のように嫌っている
ことを知らなかったとは! 漢然と知っていたとしても、その大量破壊兵器級
の威力に対する自覚がなかったとは!あきれ果てます。しかし、もはや手遅れ
ですから、残された老後は、先に言ったように、「個人主義」をできるだけ
「緩和」して、世間との和解策に奔走するか、あるいは潔く居直って、暗く
寂しい老後を迎えるか、のどちらかしかないように思います。そして、ここ
までがんばってきたのですから、できれば「転向」せずに「個人主義」を
貫くことをお勧めします。それには、自分ひとりでできる仕事を見出すことが
絶対に必要です。単なる趣味ではなく、あなたの実存の中核に届く仕事。
例えば、「自分はなんでこうまで人付き合いが苦手なのか、利己的なのか、
自分本位なのか」という問いを、つまり「自分とは何だろう?」という問いを
突き詰めることです。そのためには、絶えず思索しなければならず、これまで
の体験を微細に至るまで想い起こさねばならず、多方面にわたる読書も
しなければならない。つまり、孤独かもしれませんが、ずいぶん充実した
老後をエンジョイできるのではないでしょうか。≫
▼ ほぼ大部分の人の心には、相談者のような恐れを抱えている。老いて、
 弱って、病気になって、疎んじられ、永遠の絶対無に吸取られ消滅するのが
人生である。個人主義を我が国民は蛇蝎のように嫌っているのは、一連の中で、
多いに実感したが、それ自体も幻想でしかない。
・・・・・・
4809,ある明治女性の世界一周日記
2014年05月15日(木)
   「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村みち(著)
 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、
現在の朝のNHKの連ドラの「花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身と
あったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、面白いこと。
ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、
そのまま直に伝わる。  ーAmazonの内容紹介よりー
「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校でキリスト教と
英語という新しい教育を受けた明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、
真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」 ーレビューよりー
《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に
 憧れを持っていたことが書かれていた。その「世界一周」は、1908年3月18日
から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船
会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、
ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、ワシントン、ニューヨーク、英国
ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、
ローマ、ナポリ、ヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、
シベリア鉄道を利用してウラジオストック、敦賀に帰ってくる世界一周旅行。
一行54名、女性3人。筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の
古美術商のサムライ商会を営んでいました。本町通りにあったサムライ商会は
横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな
外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の
写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、文章だけでなく当時のイメージ
が理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも
書いてあり、このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領
との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテの演奏を聞いたことも記され
ています。 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃
さんが25ページにわたって紹介していました。戦後すぐマッカーサーが占領下の
日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。
そのような生き方を貫いた女性であることが分かる書でした。》
▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、
 それは大変だっと思われるが、幕末、明治初期の一女性の目で見た当時の、
外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に
残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その
人の記録が逆に、生々しさとして、後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手
の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど無かったようだが、
そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。ところで、居間の座椅子
の横に、二年以上も「世界の旅行記101」が置いてあり、毎日、数分間、読む。
2〜3ページに要約した101の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。
ところが、どれもこれも、重いため、せいぜい、一日、数分しか読めないが、
それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 
それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 
世界は広く、それぞれ深い!
・・・・・・
4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度
2013年05月15日(水)
  * リタイア後の幸せ度
 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、
三番目が、そのまま再雇用している人、最後は、そのままリタイアした人、
という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。
それも、私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえる
だろうが、複雑な実感である。挫折感より遥かに達成感が強いことは確か。 
自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の幸福度
が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。
「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。後は、解釈になる。収入の関係も
あるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない?
そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、
やはりお金に行き当たるのか。
  * 節目を超えたようだ!
 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分
と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、知らずに独り腹から笑っていた。
これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。
独り万歳! あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。
割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 
心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、
もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ!ということになる。
まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと
取れて好奇心が強くなっている。遊びに対して、まだまだ修行が足りない。 
「節目を打て」というが、なるほどである。
(後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。
    面白いもの。決して傷は浅くないということか!


5538,哲学者は、世間人を、「世人(せじん)」という

2016年05月14日(土)

   * 日常性と非本来的な生き方
 人間は一般的に、規格人間の生き方を良しとし、平均的に、責任を持つこと
なく、生きようとする。世間とは、こういう生き方を良しとし、人と違った
生き方を蛇蝎のごとく嫌う。人生は非日常の中から、新しい世界が広がる。
しかし、人は日常の繰り返しを好しとする。ハイデッガーは、人間の持った、
その習性を真正面に取上げている。 〜ネットで、「世人」を検索すると〜
≪ ハイデガーによると、我々は、常に自分の存在を考えて生きているわけでは
 ない。我々は、仕事やその他の関心事に気を取られ、自分がなぜ存在するのか
を真剣には考えない。我々は、自分が存在することを当然のこととし、その日
その日を他人や物(道具)との関わりの中で生きている。
 ハイデガーは、このような人間の日常的なあり方を「非本来的なあり方」と
呼び、人は自分の存在の意味を問うことなく日常性の中に埋没して生きている
とする。人間は、普段この日常性の中で、他人と同じように行動し他人と同じ
ように物事を考える個性のない平均的な生き方をする。
 ハイデガーは、このように他の人と同じように物事を考え、同じように振る
舞う人を、世人(das Man)を名づけている。世人という語は、固有名詞ではなく、
不特定多数の人々を表す普通名詞として使われている。 世人は、いわば流行を
追っている人である。世人は、皆と同じ服装をし、皆と同じように振る舞う個性
のない人である。このことは、サラリーマンや制服姿の人たちによく当てはまる。
彼らは、ほとんど同じ服を着、いつものように決まった仕事をし、一日を、いや
一生を終えていく。世人は、人並みの人生を生きる。このような世人のあり方は、
ハイデガーの生きていた頃ばかりでなく、今日の社会にも見られよう。
我々は、社会の定めた規格に沿い、同じ言葉を喋り、人並みの着こなしをし、
人並みに振る舞い、人並みの生活をする没個性的な規格人間である。
 世人の特徴は次の二つにまとめられる:
① 平均性 Durchschnittlichkeit
② 免責 Entlastung:この語には、責任免除、責任回避という
 二つの意味が含まれている。
  この二つの特徴をもう少し詳しく述べていよう。
・平均性は、いま述べた通り、皆と同じように考え、同じように振る舞う
 規格人間の状態を指す。
・免責とは、皆が同じことを考え、同じことを行なっているのだから、
 特定の行為に対し、一個人が責任を取る必要はないということを意味する。
 この免責の好例は、おそらく、地球温暖化防止のための自動車の運転の自粛。
 それは一向にはかどらない。その理由は明らか。私ひとりがやめても、どう
 にもならない。皆がやっているから。人は、平均的な考え(偏見)に責任を
 転嫁し、自分の行為に目をつぶる。 ≫
▼ 知性とは、教養とは、規格人間に埋没した己に気づく知識の質量のこと。
 決して、同調するための情報ではない。常々、「世間」を取上げ、埋没して
いる自分を何とか救い上げてはいるが、平均性を求め、責任回避をしている。
『和同の精神』という、長岡高校の精神がある。和すれど、同じない心がけ。
「世人」にも、その属している質もあろうが。情報化社会が、「情報世人」
(いま、私が創った言葉)たる、何も考えられない俗人を生み出している。
しかし、最も格差を生む、情報の質量の格差は大幅に改善されることも事実。
「世間の、どこが悪い」「世人のどこが悪い」というと、小さい世界の中に
閉じ込められている自分に気づかないこと。いや気づかない方が良いのかも。
 で、また偶然だが、丁度よく、以下の内容に続く。

・・・・・・
5173,人生相談という気晴らし! 〜④
2015年05月14日(木)
           『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
  * 周りと同じ「普通」であることが、果たして善か?
「世間びと」の典型事例が<普通の人>である。普通であることが善と信じる
大部分の一人が、この質問者。少し外れた弟を勝手に見下す普通の人である。
無知だから仕方がないとしても、私の姉4人を見る限り、同じような思考範囲。
で、私は最たる愚弟であり、自認している。身辺からしても、当然、異物である。
≪ Q: 〜41歳になる弟が稼げません。将来が心配でなりません〜
 私は53歳の主婦です。私の41歳になる弟のことで相談があります。
弟は大学卒業後、証券会社に入社し、バブルの絶頂期に社内結婚、しかし
バブル崩壊と同時期に離婚、そしてリストラされています。子供はいません。
それ以来、何か気が抜けてしまつたようで、40代になっても独身生活。
社会保険労務士、ファイナンシャル・プランナーなど資格取得にチャレンジし、
その資格を活かして働いているようですが、所得はアルバイト程度で(国民
年金も払えていません)、父親からの援助なしでは暮らしていけないようです。
身内の私が見た限りですが、弟の性格は悪くなく、独身女性にもモテるように
見えるのですが、このままでは弟の未来が心配です。
弟を一人前にするにはどうしたらよいでしょうか。
  A: 〜まず、あなた自身が弟さんを見下す姿勢をやめなさい〜
 回答を裁判の判決形式にしますと「主文、放っておきなさい」となります。
あと判決ではぐだぐだ「判決理由」が続くのですが、今回の場合、何と理由
づけようと(たぶん)五体満足で精神病に陥っているわけでもない41歳の男を
一人前にするために姉が(いや、ほかの誰でも)口を挟むことはありません。
ご相談の内容を仔細に見ても、別に弟さんに何の問題もないじゃありませんか?
むしろ、私はこういう相談をもちかけるあなたのほうに問題があると思います。
世の中には、周りの者(とくに家族)が「普通」でないと、きわめて居心地が悪い
「善人」という名の一群の人々がいますが、あなたもその一人のような気がして
なりません。その「普通」の中心に仕事と結婚がデンと居座っている。
あなたも、弟さんがしっかりした職業についてしっかり金を稼ぎ、しっかりした
家庭を築けば、それでいいのでしょう? しかしーあえて原則論を言いますがー
さまざまな生き方があっていいのではないですか? 現代日本、組織に入らなく
ても食っていける道はいろいろありますし(弟さんはいまそれを模索している
のではないですか?)、結婚しなければならないという規則はありません。
というわけで、自分の弟であっても自分とはまったく別の人格であることを
尊重して、今後弟さんの人生に対してあれこれ干渉するのをいっさいやめる
ことをお勧めします。なお、親が彼を援助するのは勝手です。・・・ ≫
▼ 私が何時も非難する『世間びと』で、世の中の大部分が、善人で普通を
 求める方々で占められている。そういう私も、いざ息子になると、似たような
思考形態から抜けてないことも事実。振返ってみると、弟思いの善人の姉たちに、
いつも、「普通であれ!」と洗脳されていたようだ。見下している世間は、実は
普通の人たちで、普通になれない悪人たる自分が作りあげた幻想でしかない。
逆に、普通こそ据わりが悪いのも確か。「われ、普通を笑う」も、「目くそ鼻くそ
を笑う」の類のこと、ということ!「大変な人」と「普通人」、どうでもよいか!
・・・・・・
 4808,閑話小題 ー年寄りの愚痴
2014年05月14日(水)
   * 年寄りの愚痴
 親戚の法事で、いつも愚痴を言っている一回り少し年上の人がいる。
今回も、前回同様に酒が入ると愚痴が始まった。今回は「昔は良かった!」から
始まり、山本五十六の家系の話から、掛軸の絵の知識の披露と、講釈が続いた。
年を重ねると知らぬ間にクドくなるのは、自分も同じ? 長く生きてきたため
だろうが、これは合せ鏡で、自身を思いやるしかない。酒もまわっていたため、
私も二度「本当に昔が良かったですか?」と、クドく話に割り込んでいた。
 愚痴は、老人性うつ症の特徴の一つの現れ。 そこでネットで検索してみると、
《 65歳以上の高齢者が全人口の23.1%(平成22年)を占める高齢社会になって、
 当然ながら老人性うつ病も増えてきた。高齢者のうつ病には若年層で発症する
のと比べると、いくつか特徴があります。若年期、壮年期に発症する場合には
患者の口数は少なくなり、行動はむしろ不活発にみえますが、高齢者の場合では
逆によくしゃべり落着きのない印象を与える。若年期のうつ病では身体的な症状
を強く訴える場合は、仮面うつ病と診断されますが、同じように老人性うつ病
でも身体の不調を訴える傾向があります。うつ病を発症していなくても老年期
には、個人差はあるにしろ変化を嫌い、意欲を失い、適応力の低下、周囲への
関心の喪失という行動的、心理的な面でいろいろな変化が起きやすい時期です。
特に注意したいのは、老化に伴って性格が変わっていく点です。
一般的傾向をまとめてみますと、
①自己中心的になる  ②疑い深くなる  ③何にでも口や手を出したがる  
④保守的になる ⑤自分の健康を必要以上に心配する  ⑥愚痴が多くなる  
⑦感動しなくなる  ⑧気分や気持ちの切り換えがスムーズにできなくなる 
⑨ストレスにうまく対応できなくなる ・・・》
▼ 肉体的衰えが、精神の衰えを加速し、それがウツ症状をきたす要因になる。
 週に5日は運動ジムに通い、1〜2時間のミニサイクリングをしているので、
何とか落ちこみそうな気持ちを保っているが、この楽しみと、週一の映画館通い
と、自宅のドラマや映画の鑑賞と、この随想日記を書上げる面白味が無ければ、
おそらく、ウツ症になっているはず。先ほどの9つの老人の傾向、どれも
これも、日々、強くなっている現象である。これが連れ合いにも起こり、
その矛先が自分に向かってくるため、二重三重苦になる。で、愚痴が深くなる。
しかし、老いてからの連れ合いの喪失は、それより遥かに厳しくなる。
そして、攻撃先を探し出し・・ 意地悪ばあさん、じんさんになっていく。 
「転がる石には苔がつかない」で、転げまわるしかないのか?
・・・・・・
4441, 四つの時間
2013年05月14日(火)              
 * 四分割の時間割 〜「早朝坐禅―凛とした生活のすすめ 」山折 哲雄(著)
  宗教学者の著者が、この本で勧めている生活が奇しくも私の時間割と酷似
  していて驚いた。
 �デカルトの時間、�イエスの時間、�ブッダの時間、�涅槃の時間、の四分割
だが命名がユニークでよい。( )は、私。�のデカルトの時間は、早朝座禅と
読書や執筆などに充てる時間。(4時半〜6時にブログに掲載する文の添削と
完成、そしてアップ。6時過ぎから7時20分がミニ・サイクリングになる。
そして朝食、新聞、風呂で9時になる)
�のイエスの時間。著者が会社勤めをしていた時は、仕事に集中。
 あたかもゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くような時間。
(9時過ぎから12時近くは書斎で、読書か、翌日のブログに掲載する文章の
下書きなど音楽を聴きながら、独り沈潜する)
�のブッダの時間。午前中に集中した緊張から解放された時間。
 (一時間ほどTVを見ながら昼飯した後、スポーツジムへ。正午から15時が
  目安になる。帰りに図書館かスーパーか蔦屋に立ち寄り15時半位に帰宅)
�の涅槃の時間。仕事も終わり、疲れきってしまい、後は晩酌をしたり野球中継
 をみたり。そして、熟睡。(私の涅槃の時間は16時から21時になるが、
 TVの前で、野球、大相撲、録画のドラマか、書斎で読書、そして晩酌)
早朝、午前、午後、夕刻・夜の四分割になるが、書き出してみると価値の高い
順に坂を下りるように世俗化するのが見てとれる。この四分割、人生にも当て
はめることが出来る。0〜19、20〜39、40〜59、60歳以上の、20年一区切り。 
か、25年一区切り。こうみると、どうも私は��が混同していたようだ。
ゴルゴダの丘も大変だったが。そして、涅槃の時節に御隠居で、納得。
 4分割を更に8分割すると「時間割」になるので、曖昧に二つ分けて
おくと良い。成るほど、老後への長期間の準備が必要だ。
・・・・・・
4067, つれづれに ー悲観的すぎるのか
2012年05月14日(月)
 先日、一年半ぶりに木鶏クラブの会に出席した。この会の何人かは、
私のブログを見てくれているが、自分でも気にしていた、「最近の世界と
日本経済の私の見方が悲観的過ぎるのでは」と指摘をされた。読者の多くは、
「一年前に会社を潰したため、悲観的になっているだろう」と予感をしていたが、
案の定。その指摘に対して、「自分の事業の資産デフレと価格デフレの実情を
実際に見て、右下がりの移動年計グラフを10年間にわたって見てきた裏ずけ
がある。世界の株価の総額が4千兆円というが、その十数倍=6京円の不良債権
が銀行、企業、政府の金庫の中に隠されている。これは、何かのキッカケで現れ
出る日がくる。私の事業に早めに来たので、会社をたたんだが、これから世界
恐慌というカタチで、大荒れになるのは当然の理。決して、悲観的過ぎないと・・
日本政府の財政を見れば分かるはず、この有様をみて、悲観的に思わないほうが
変である。」等々、の話になった。フランスも、ギリシャも、今回の選挙で、
国民は緊縮政策に「ノー」の答えを出した。 綺麗事をいい国民におもねいた
野党の毒入りの饅頭の政策に傾いてしまった。それと現在の民主党と自民党の
一部の連中の、囁きは同じ。10年前、5年前に、現在の事態を予測して、
警告を発した人は、当時は変人扱いをされていた。5年先から現在に戻ってきて、
警告を発したら、私が言い続けてきたことなど、大甘の論になると確信している。
5年後は世界恐慌の渦中にあり、銀行閉鎖とか、食料の配給もありえる話。
5年前、リーマンショックや、東北大震災と原発事故を想像できただろうか。
両者とも、500年とも千年に一度の大事件である。目先の応急処理で平静を
保っているが、株式の大暴落やハイパーインフレなど大クラッシュが起て当然。 
リーマンショックという大地震は起きてしまったのである。その後の津波は
1〜2年以内に押し寄せてくる。ただ、時間の問題でしかない。地方経済は
半値八掛が現実。現場は沈黙しているが。ところで移動統計グラフとは、月単位
とすると、毎月、去年の翌月から今月までの年間の売上合計をとりグラフ化した
もの。それをみると、一年単位の趨勢が見えてくる。この右下がり傾向が10年
以上も続いているのが地方の現状。 それで6〜7割減といえば・・ 
一番先に現れるのが駅周辺のホテル、居酒屋、タクシー業界。 さらに携帯、
パソコンなどの情報化が、消費者のシビアな選択を加速、競争を激化させる。
その結果としてデフレが拍車。この中で供給サイドの体力は大きく削ぎ落と
されている。 悲観的になるわ〜
 ・・・・・・・
3701, ジャズについて −2
2011年05月14日(土)
            ー 三枝成彰著「音楽の本」より
【 * スピリチュアル、ブルース、ラクタイム…ジャズのルーツは黒人音楽。 
 ニューオリンズのブラスバンドだけがジャズの母体となったわけではない。
二百年にわたるアメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から自然に沸き起こってきた
‘魂の歌’の営々たる蓄積が、今世紀初頭にジャズという人種の垣根を超えた
新しい大衆音楽として花開いた、ともいえるだろう。そうした‘魂の歌’が、
ワーク・ソング(労働歌)であり、スピリチュアル(黒人霊歌)であり、ブルース。
ワーク・ソングとは、その名の通り、長く単純な肉体労働の最中、少しでも気を
紛らせるために、あるいは仲間主体となってその苦行を乗り切るために歌った
歌のことである。リーダーが即興で一声うなると、それ応じて全員がコーラスで
応じるスタイルだった。これは、たとえばかって日本の酒つくりで、極寒の
酒造りの中で杜氏たちが作業中に歌った‘元摺り歌"などにも通じるものがある。
 ワーク・ソングはなにも黒人特有のものではなく、世界のいたるところで
かつては見られた労働者の風習だったといえるだろう。スピリチュアルは、
西洋キリスト教の賛美歌などに影響を受けた黒人独特の宗教歌で、これは教会
音楽を経由し、ゴスペルという形で現代に継承されている。
 ブルースについては、他のページでも融れるが、奴蒙の身分から解放された
黒人ひとりひとりが、差別や貧困に苦しむ私生活の哀歓を個人的な感情を込めて
歌ったものといっていいだろう。そして、そのブルースが持っていたミとシの
音撰半音下がる「ブルーノート」と呼ばれる音階構造は、とりわけジャズの
発生に大きな影響を及ぼした。また、黒人とクレオールの融合は、ラグタイム
というリズミカルな音楽を生んだ。ラグクイムはクラシックと同じように楽譜
遍りに演奏されるピアノ音楽で、即興性を大切な要素とするジャズとは直接の
共通点はないが、十九憧紀後半から二十世紀初頭にかけて流行した音楽で、
これもまたジャズの源流となった音楽の一スタイルであることは間達いない。
いずれにせよ、一方には黒人の魂の歌やリズムがあり、他方には、クレオール
からもたらされたといってよいラグタイムとブラスバンドがあった。】
▼ ジャズのルーツはブルースやワーク・ソングなどの二百年にわたる
 アメリカ黒人の悲惨な奴隷生活の中から沸き起こってきた‘魂の歌’の営々
たる蓄積が背景にあると知って聞くと、また違って聞こえてくる。特にブルース
が、ジャズの発生に大きな影響を及ぼしていると、この本で知った。ジャズに
奥底には、黒人の差別と貧困の長年の哀歓がある。その辺を捉えて聴くと、
今まで何気なく聴いていたリズムの奥にあるスピリットを少しは感じる。


5537,閑話小題 〜閑なるままに・・

2016年05月13日(金)

   * 思いのままに
☆ 先日、一年ぶりに弁護士と会ってきた。ということは、一年、債権に関し、
 何も動きが無かったことになる。ところが、債権買取機構の一つが、債権の
買取請求をしてきた。これが終わると、残りは政府系の2つになる。それも、
私が死ねば、それで清算になる。銀行以外に債権は、ほぼゼロのため、債権
処理のトラブルは無いのが当然。弁護士一任の瞬間、問題終了ということ。
☆ 5年前に、『キレイに止めたい!』という弁護士への私の要請に、
『会社整理に、キレイも汚いもない。良くて70点ならオンの字』の答え。
そこで、『その70点で、お願いします!』 と言い換えて、手順を踏んだが、
抵当物件の全てが、呆気なく、一年以内に売却終了。 弁護士いわく、
『今回は見切り千両というより、見切り万両の結果!』と総括。私の実感は、
『70点というより、80点!』。「20日締めの月末払い」の実質現金決済
の体質もあるが・・ 『生きてきたとおり、死ぬ』の言葉とおりに終了。
実際、小さなトラブルも無かった。 だから、拍子抜けのところもある。
そこで見えた誹謗中傷は、それぞれが、その知識経験の中で、思いつきの推測
をした化物話、それもほぼ嘘で固められた、妄想! でしかない。
 固定化された社会には、ガスが蓄積し、まず自分の毒で、自分を殺す。
☆ 数日前のTVレポートで、最近の「冷凍食品の高質化」を取り上げていた。
 ファミリー・レストランと、味が変わらない冷凍食品が、自宅でレンジに
かければ、美味しく食べれる。 数ヶ月前、この随想日記で、その美味さに
ついて取り上げた。 不景気の中、家計が苦しくなる昨今、ファミレス、
専門レストランの料理を自宅で、安く、手軽に食べる時代に変ろうとしている。
 最近、酒と摘みを買うついでに、冷凍食品のコーナーで、スパゲッテーとか、
焼きソバを買って、昼の食事を家内と分けると、これが丁度良い量。週一回の、
酒とツマミと、冷凍食品などの買い物が、ストレス解消にもなっている? 
それと、百均ショップの買物。値段に関わらず、購買は何かの欲求達成になる。
『日々、是、好日』ということか。 時々、傷口が傷まないこともないが・・

・・・・・・
5172,人生相談という気晴らし! 〜③
2015年05月13日(水)
        『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 人生の意味とは何ですか?
 人生の意味は、それぞれあるが、確たる意味など、ある訳が
ないことなど、少し考えれば分かるはずだが。質問者が言うとおり、
この手の本を読み込んでいなかったということか。ニーチェがキリスト教的
偽善を根こそぎ否定してニヒリストと言われたのも、大衆は、実は神など存在
しないと思っているのに、信じたふりをいていただけと看破をしたため。
≪ Q: 人生の意味とは何か? 極楽を説く宗教とは?
 62歳、自営業、仕事はまあまあ、家庭も平穏、健康、毎晩酒を呑み、
週一でゴルフをする典型的な中年オヤジです。しかし、少しは本を読みます。
最近の小説のつまらなさに、学生の頃に夢中で読んだサマセット・モームを
ひっばり出して読みました。そしてガキの時には読み飛ばしていた
「人生に意味などない」(『人間の絆』)という言葉に出会ったのです。
 それ以来、この言葉が頭の中に鳴り続けています。
古今東西の英雄たちの人生さえ無意味だというなら、小生の人生は一体何か?
死がまったく「無」であるなら、天国を云い、極楽を説く宗教とは何か?
哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるようにご教示ください。」
  A: 人生が無意味であることを実感するには覚悟が必要です。
 私は普通の人生相談の回答者と異なり、嘘をついて励ます(慰める)ことは
したくないので、相談者が多少傷ついたとしても、思っていることをそのまま
お話しします。まず「哲学書を一冊も読んだことがない小生にも分かるように
ご教示ください」という要求にあきれ果てています。 お答えは「できません」
というものです。ここで相談を終えてもいいのですが、(私は優しいので)
あえて続けますと、「人生に意味があ るか?」という問いに対して真摯な答えを
与えるのは、とにかく難しい。それは,こう問う多くの人が、人生に意味がない
はずがない、だから何でもいいから都合よく納得できる「意味」を提示して
ほしい、と願っているからです(あなたもその一人?)。モームは哲学者ではない
のですが、多分この問題を一番考え抜いた哲学者は「ニーチェ」でしょう。
 彼は、キリスト教の教えはすべて嘘であり、坊主たちがグルになって二千年間
われわれを騙してきたとみなしました。この世で報われなかった人があの世で
報われるわけでもなく、この世の幸不幸は永遠に清算(最後の審判)されない。
高速道路で飲酒運転のトラックに追突され幼児が焼き殺されたのも、電車が脱線
してビルに激突し、ぐちゃぐちゃになった車体の中で多くの乗客が死んだのも、
その人たちがただ「そこにいた」からです。こうしたとき、われわれは「なぜ、
罪もない幼児が? なぜ、親孝行の息子が?」と問います。古来人々はこう問い、
「われわれには測りしれない目的によって、神が災いを意志したのだ」と解釈
して、心を慰めてきましたが、ニーチェはきっぱりこれを否定する。すべては
ただそうなっただけ。その奥に隠された意味(意志)などまったくないのです。
彼はこの真理を伝えるのに全人生をかけ、ついに発狂しました。人生に何の
意味もないことを全身全霊で実感するのは、それほどきついことなのです。
あなたも、そんなに「人生の意味」を知りたいのなら、あと統計的に死ぬまで
十年ちょっとあるのですから、残りの人生、それを探究することに費やして
みてはいかがでしょうか? それが厭なら、謙虚にただ「わからない」と
眩いて死ぬことをお勧めします。 ・・・≫
▼ 中島の面目躍如の内容である。この20の人生相談の回答に、ことごとく
 私自身の曖昧さが指摘されているようでもある。それと私が忌み嫌っている
我が内なる世間びとへの批判に徹してようである。それだけ、世間という共同
幻想は、人々を縛りつけている。欧米では、その共同幻想がアッラ〜の神。
その名のもとで、互いが殺戮を行っている。ところで、『人生の意味』の意味
を価値に置換えると糸口が見えてくる。 人生に価値がありや、なしや? と。
・・・・・・
4807,閑話小題 ーボケの始まり?
2014年05月13日(火)
   * ボケか?
 先週の土曜日、親戚の法事で駅まで歩いた後、タクシーに乗って寺まで
行ったが、誰もいない。そこで住職の自宅玄関で聞いたところ、翌日の間違い。
その前日、もしかと思い、案内を見直して日曜日と確認したが、その勘違いを
確認したことも忘れてしまっていた。 こういうのが呆けの初期症状? 
家内に厳しい冗談?で、「施設に入れなくては!」と、馬鹿にされ
「他人に言わない方が良いよ」とまで、言われる始末。 それにしても、
ハガキを見直しても、間違えてしまう迂闊さに、我ながら信じられない思い。
帰り道、履き慣れない靴のため靴擦れの脚を引きずりながら、反省のため
30分の道のりを歩いて帰ってきた。 休憩のため駅東のマックに入って
ハンバーガーを食べたが、それが何ともいえない味。緊張感欠如だろうが、
後々考えたとき、これが、ボケの始まりだった、でなければよいが。
   * カラオケは、森の生活だからこそ?
 スナックに行っても、カラオケをほとんど歌わなくなった。
店内に客が連れと二人だけでも、歌う気がしないのである。やはり仕事の
憂さとか、張り合いの中でこそ、歌に張りも気持ちが入るというもの。
ゴルフはやらないが、現役時代のプレーが、定年後より遥かに面白いとか。 
年齢もあるが、秘境ツアーも以前ほど行きたいと思わない。これも、仕事の
合間に何とか都合をつけて、浮世のストレスを秘境旅行のストレスで消す
からこそ張り合いがある。 今は今の楽しみがあるのだから、
それは、それで良いとしなくては。
   * カラスの糞かけ
 またまた偶然の一致だが、法事から帰ってきた玄関で、カラスの糞が、
目の前50センチ前に落ちてきた。これまで、一度は命中、あと一度が、
以下の前年の同月同日に書いたのを含めて、三度目になる。それより、
よりにもよって一年前に書いていたとは面白い偶然である。私には、この
手合いの偶然があまりに多い。その瞬間、「今回は、カラスに狙われた」
と直感したが・・。 最近、一羽のカラスがペットのインコの鳴き声に
惹かれて、自宅の周辺に屯している。何か、法事とか、葬式に、よく起きる
不思議な現象の一つ?だろうか。 ー以下をご覧あれ!ー
・・・・・・
4440, 閑話小題 ーカラスの糞かけ
2013年05月13日(月)
* カラスの糞かけ
 数年前になるが、自宅近くを自転車に乗っていた時、カラスが低空で
私の二mほど先に糞を落としていった。問題は、これは果たして私を狙ったのか
偶然か、毎朝近くを通る度に考えたことがあった。ところが、一昨日の朝日新聞
の朝刊のコラムで、四コマ漫画の「ののチャン」が、専門家に質問する形式で、
「カラスの糞かけは、意図したものかどうか」を取り扱っていた。よくあること
だから、取り上げたのだろう。 答え手は、「あくまで偶然で、カラスにとって
何ら利益にならない」と、ゲーム説や、カラカイ説には否定的だった。
専門家といっても、私のように三十年以上、毎朝、散歩やミニサイクリングで
カラスを観察していた訳でない。で、私はゲーム説である。長岡大橋の手すりで、
カラスが5羽並んで私が自転車の通りすがりで至近距離に近づいても逃げない
「度胸ためしゲーム」をしていたことを、ここで書いたことがあった。
また散歩中の小型犬を、至近距離で、威嚇して遊んでいるのを見たことがある。
犬の飼主も、それを面白がって見ていたが、明らかにバカにして遊んでいた。
 話は変わるが、昨日の午後、帰宅をすると、隣の空地で5羽のカラスが入り
乱れて空中戦をしていた。よくあることだが、昨日は違っていた。その二組が
同時に地上で激しい乱闘を始めたのである。初めは車内で見ていたが、決着が
つかないので、車庫に車を入れてから門の角から隠れてみていたが、その間
7〜8分。鳴き声を聞きつけた他のカラスが数羽が駆けつけ、騒然とした中での
激しい乱闘はなかなか見もの。上下に体勢が入替わり互いの身体をワシヅカミ
してツツキ合っていた。よく再び飛びたてたもの。身体からみて若いカラス同士
の縄張り争い。最近、一羽が我家の庭に度々来ているが、その中の一羽だろう。
・・・・・・
4066, つれづれに ースポーツジム、その後
2012年05月13日(日)
   * スローヨガ
 このところ、スポーツジムのスローヨガに参加している。連続参加が勘違い
で14回で途切れたが、これまで18回参加した。ヨガのポーズは腰と背骨の
矯正に絶好である。大よそ40人が参加しており、火・木曜日の午後の週二日。
平日の午後、これだけの人数が一同、暗闇の教室でヨガをするのも奇妙な感覚
である。慣れるのに7〜8回はかかったが、慣れてしまえばしめたもの。
60×120センチのマットの上で色々のポーズをとるが、ヨガの先生曰く、
「ヨガでは、このシートが全宇宙と思って、自分独りと思って下さい!」  
一回、50分だが、あっという間に、時間が過ぎてしまう。始まると周囲の人が
意識から消えてしまうのがよい。シートの中の自分と先生の世界が、それぞれ
出来てしまう。 ところで、専門のヨガ教室だったら幾ら?と値踏みをしたが、
一回、千円の価値は充分ある。 週二日、月に6回(二回、休む?)として
6千円になる。 これだけでSJの会費の元が取れることになる。
時間帯もあるが、9割が中年女性である。
   * 昨夜は、新潟で飲み会
 あれから一年以上経ち、そろそろ蟄居閉門も明けつつある。とはいえ新潟駅前
で事業をしていた手前、会場は敷居が高い地区。一般債権が無いが、気分的には
近寄り難いことは確か。「あの野郎、沼垂で赤ら顔をして飲んでいた」と、
言われそうだが・・ 27〜8年前に、月刊雑誌「到知」に惚れ込み、新潟市
周辺の愛読者の同好会「木鶏クラブ・新潟支部」を立ち上げた。私自身は12年
ほど前から、会から遠ざかっていたが、現在でも続いているが、有難いことである。
最後に行ったのが一昨年の忘年会、去年は時が時だけに一年の喪?が明けた今回、
参加した。その前に、新潟駅構内にある家電のジョーシンと、ビックカメラに
寄ったが、土曜日もあって客で溢れていた。長岡と新潟の勢いの差は駅に出るが、
あまりに大きい。泊まろうと思ったが、22時半の最終新幹線で帰ってきた。 
昔の仲間との邂逅は良いものだ。
   * 自転車専門大店
 昨日、新潟駅近くのイオン直営の自転車大店に行ってみた。100坪位の
店舗にビッシリ自転車が並んでいたが、やはり電動アシスト自転車が主流。
開店直後で、まだ軌道に乗ってないようだが、時代から見て時間をかければ
良くなるはず。まだ価格帯が10万円あたりだが、4〜5万円が爆発的に売れる
分岐点だろう。店長曰く「電気代が月に20〜30円」。一回分なら分かるが、
こんなに安いとは知らなかった。電動アシスト自転車に乗って二年半になるが、
本当に良いと実感している。道具一つで、自分の生活圏の広さが全く変わって
しまう一事例である。ヨガもそうだが、ポタリングを習慣にしてしまえばよい。
  ・・・・・・・
3700, ジャズについて −1
2011年05月13日(金)
 ジャズ1000曲がパソコンに入ったため、常にBGMとしてジャズが聴こえる。
これに慣れると、もう無しにはいられないから不思議。そこで、ジャズとは、
そもそも何?と知りたくなって本棚をみると、たまたま三枝成彰著「音楽の本」
があった。 そこに丁度、私が知りたいことが、そのまま書いてあった。
【「黒人の民族音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合し、その結果、黒人を
 中心としたブラスバンドから生まれたポピュラーミュージック」
  「遅れて拍子を打つ黒人独特のバック・ビート(四拍子の一拍目、三拍目に
おくアクセントを二拍目・四拍子目にずらして演奏する)をリズムに持ち、即興
演奏を生命とする音楽」 ジャズという音楽を簡単に説明すれば、こういう
ことになるであろう。さて、そのジャズは二十世紀の初頭、アメリカ南部の港町
ニューオリンズで生まれるのだが、ここは十九世紀はじめにアメリカが購入する
まで、スペインとフランスが交互に統治していた地域だ。そこには、フランスや
スペインの白人と、西アフリカをルーツとする奴隷として連れてこられた黒人、
そして、その混血である「クレオール」が生活していた。クレオールはおし
なべて教育水準が高く、ヨーロッパに留学をしたり、ビジネスで成功するなど、
ニューオリンズではエリート層に入っていた。ところが南北戦争を受けて奴隷を
解放せざるを得なくなった南部白人層の不満は、黒人ばかりかクレオ一ルへも
向けられ、クレオールも人種差別の対象となる。
 一方、ニューオリンズの黒人たちは、奴隷解放後、主に音楽に仕事を求めた。
南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を古道具屋で安く手に入れた彼らは、祝祭
パレードや葬儀の行進などで演奏するブラスバンドとして活躍。とりわけ、
葬儀の際のブラスバンド行進は、ニューオリンズ名物として伝説化されている。
埋葬へ向かうときには悲しげな曲を、墓地から戻るときには死者の魂が天国に
迎えられるように明るい曲を。ジャズ史上最も有名な曲の一つ「聖者の行進」は、
そんな時代に生まれた曲だ。こうしたブラスバンドには、どのグループにも
何人かのクレオールがいた。白人社会から締め出された彼らは、同じ被差別層
 黒人たちと一緒に仕事を始めたのである。音楽の素養があるクレオールは、
楽譜の読めない黒人に西洋音楽の技法の手ほどきをする。黒人はアフリカの
祖先から脈々と受け継がれている生来のリズム感覚を持っていた。
それが融合し、ジャズの生まれる下地ができあがったのである。
「ニューオリンズ(ディキシーランド)−>スウィングー>ビパップー>
クールー>ハード・バップー>フリー」 これがクラシックの歴史を振り返ると
「バロックー>古典ー>ロマンー>近・現代」といった流れで見るように、誕生
から百年を経過したジャズのスタイルの変遷も、こうした流れで見るのは一般だ。】
▼「ニューオリオンズ」という地域と「黒人」、そして「クレオール」という
 人種に行き着くのである。20世紀の初めの頃、怪しげな下町の酒場で、即興
として、古道具屋から安く手にいれた黒人たちがバック・ビートのリズムで始った。  
  あのアルカポネの時代に全米に、それが瞬く間に広がっていった。
やはり、その背景を知っているといないとでは・・
 


5536,閑話小題 〜地に足が着いた人生

2016年05月12日(木)


   * ある地に足が着いた人生
 幼児の頃から、両親の勤勉さと仕事と人生に対する飽くなき姿勢をみて、
人生の何たるかを教えられ育ってきた。それは、「凡人だけには陥らないこと、
学び続ける必要性」である。戦前、戦中、戦後の激しい時代の変遷の中で、
10人の家族が生き抜くための生存本能が働いたのだろう。 
 無我夢中で15年間も、この随想日記も書続けてきたのも、50年以上も、
早朝の読書習慣を続いているのも、その幼児体験があったため。
その卑小な自分を、ある人物の人生の合せ鏡でハッとさせられた。
ある酒席で、同年齢位の隣人に、『職業は何やってこられましたか?』と問い
かけると、少し考えた後に語った人生とは、『当時の中卒は、金の卵といわれ、
集団就職で、ある大手メーカーに勤めた。殆どの同期は、仕事の後から、
夜間高校に通い、高卒の資格をとってから地方公務員を目指していた。
自分も同様、夜間高校に通い、地方公務員試験の勉強をして合格、消防士
になって、無事、定年退職し現在に至っている。消防だけでなく、救急も経験、
多くの人生を垣間見ることが出来た・・ 』と言う。
 昭和30年代半ばは、クラスの二割位が中卒で就職をしていったが、
夜間高校から地方公務員になったケースを身近に聞いたのは初めて知った。
「夜間高校出の消防士の平凡な人生が、どうした?」といえば、そうだが。
 その人生から、恵まれた家庭環境に育った自分の境遇に気づかされた次第。 
中学の同級の訃報の半分は中卒の人たち。学歴が上がるにつれて訃報数が
減るのは何故か? その目線から見た私の人生は、大甘もいいところ。当時は
中卒で働かなければならない家庭境遇の生徒が、同級に多くいた。振返りみて、
恵まれていた人生だったと痛感する。 私の一生は、恵まれた列車で、少々、
汗をかいた人生でしかない。 それからして、最後の思いもしなかった挫折は、
私にとって幸運だったといえる? いや、誰にでも最期は死という挫折が待つ。
それぞれに、それぞれの因縁があり、それを如何に楽しむか、志を貫けるか。 
娑婆世界は、面白可笑しく、哀しく、甘塩っぱい味がする! せっかくだから、
もっともっと楽しんで、味わい尽くしてから生前に戻りたいもの! 
 幸せな人は、何があっても幸せであり、不幸の人は、何があっても不幸!
心の奥で、どう折り合いをつけるかどうかだ。 そういうこと!

・・・・・・
5171,閑話小題 〜ボ〜ッとしたデカルトの時間
2015年05月12日(火)
   * ボ〜ッとしたデカルトの時間
 御隠居の生活に入って、早朝からスケジュールとおりに時間を過ごしている。
その時間の中で一番大事なのがボ〜ッとした時間。だが、それが過ごせてない。
ひとつ終わると直ぐ、次のスケジュールに移行するため。 以前もふれた事が
あるが、宗教学者の山折哲雄が、早朝30年続けてきた座禅で、無念無想を諦め、
この時間帯は、デカルトの「ものを考えている」と思いつき、全身が解放された、
という話にハッと何かを感じとった。 最近、パソコンや読書の合間に、何を
するでなし、意識的に弛緩した状態でボ〜ッとしている。考えてみたら、現役
時代は何時もしていたことだが、問題は意識してボ〜ッとすることだった。
 〜その辺りの記述を抜粋〜
≪ 朝3時か4時に起きて、毎朝一時間ぐらい座る。毎日香っている線香一本
 燃えるのにだいたい50分前後。その一本を闇の中でつける。その明りを
見ながら座る。道元が言っている「無念無想」なんてのになれるものならなって
みるか、なんてやっていたけど、ぜんぜん無の境地にはならなかったですね。
雑念、妄想とズ〜ッと戯れている。30年近くこれをやって、「俺はもうダメだ」
と思ったのが50代の終わりぐらい。でも、もう癖になっているからとにかく
朝は座るんです。で、あるときハッと思った。「無念無想になろう」と思うから
いけないのであって、「ものを考えている」と思えばいいじゃないかと。
あっという間に全身が解放されたような気分になってね。「俺は今デカルトを
やっているんだ」と。道元の時間と思っていたからできないのであって、
デカルトの時間と思えばいいと。すると、何を考えてもいいわけです、金、
女性、喧嘩したこと…。「我考える、ゆえに我あり」。道元だって大部分
の時間は無念無想じゃなくて妄想と戯れていたんじゃないかと思ったのね。
それで瞬間的にパッと無の瞬間が訪れる。逆にデカルトだって、考えづめに
考えていて、ときには無念無想の時間に恵まれたことがあるんじゃないかと。
そうすると、道元とデカルトはぜんぜん違う世界の人間じゃなくて、彼らは
同じ時間を共有していたのかもしれない、そう思ったときはうれしかったね。
座禅が終わって五時ぐらい。それから本を読んだりものを書いたり。以前は
夜型だったんだけど、朝一時間は夜の3〜4時間に匹敵する、それがわかって
から夜は仕事をしないことにした。朝2〜3時間仕事をすることが、だいたい
自分のノルマになったかな。 ・・・。 ≫
▼ 数ヶ月前から、ブログを書上げネットにアップした後、それまでは、
 次のプログラムを直ぐに移行するが、その時、ただボ〜ッと全身を弛緩し、
ただ座ることにした。これが意外と難しい。要するに雑念が次々と思い浮ぶが、
その中に思いもよらぬ砂金が含まれていることがある。「我考える」とはいえ、
どうせ、碌なことしか考えてない。それなら、この随想日記のように、まず
禄でもないことから、考えればよい。元もと『禄でない』だから!
早朝の散歩も、ポタリングも、ある瞬間、『無念無想』の瞬間がある。
『エッ!俺、何時もボ〜ッとしている』って? それってバカじゃないか。

それってバカじゃない。
・・・・・・
4806,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー3
2014年05月12日(月)
          「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も、人生も、記憶がつくりあげる
 記憶は、その痕跡として、自分でアレンジすることが出来るため、その蓄積
としての記憶は、その人自身が作り上げた要素が大きく加わっている。その時点
での、自己対話としての内的世界が重要になる。そして、その記憶もである。
時間の経過とともに、その記憶も修正されていく。
《 記憶は自己の同一性の基礎となっており、私たちの性格や生きかたに
 大きな影響を与えている。しかし、たとえそうだとしても大多数の人は、
記憶など自分の過去に起こったできごとの痕跡にすぎないと言うだろう。 
これから未来へ向かって生きていこうというのに、今さらどうしようもない
過去の痕跡にかかずらっている時間はない、と。しかし本当にそうだろうか。
 先ほどのTさんの話の中には、未来に向かって生きるためにもやはり、
記憶が重要なことを示唆する一幕がある。記憶喪失のために八年間の記憶を
すべて失ったTさんは、当初、何とかしてその記憶を取り戻そうと焦っていた。
母親はそんなTさんに、誰もが365日すべての記憶があるわけではないのだから、
過去にこだわるよりは、今から何かを始めればよいと言ったそうだ。しかし、
それに対してTさんは、「今まで何をしようとしていたのかを知らなければ、
前に進むことができない。それを知らなければ生きている意味がない」
と言ったという。 このことに関連して私が思い起こすのは、戦後40年目に
おこなわれた当時の西ドイッのヴァイツゼッカー大統領の演説だ。
ヴァイツゼッカー大統領はこの演説の中で、第二次世界大戦のナチスドイツに
よるユダヤ人虐殺について深く謝罪すると同時に、「過去は神でも変えられぬ」
という台詞で、過去を変えることができないことを強調した。しかし、だから
といって過去を封印しようというのではなく、彼は「過去に亡目になる者は
現在に目を閉じることになる」と続け、過去を知り、それを現在に生かすこと
の大切さを訴えかけたのだ。基本的には、私たちの記憶もこれと同じではない
だろうか。自分の記憶をみつめることで、それを現在に生かすことができ、
記憶は未来への航海へと漕ぎ出す原動力となるのではないだろうか。》
▼ 記憶といえば、日記に書かれていたかどうかで、大きく違ってくる。
 だから、ネットや、日記帳に、書き込んでいる。そして、毎年の同月同日分を
読み返しているが、なるほど、自分の加工が大きく入っている。それが「自分」
ということになる。ということは、それぞれが自分史を生きているのである。
今さら書く事もないが、より足取りを確かにするためには、書いておいた方が良い
のだろう。改めて、何気なく繰り返し思い出している記憶が、実は、自分が大きく
加工したものでしかないとすると、やはり共同幻想、幻覚の中で生きているだけ
ということが、少しは自覚できる。最近、ブログで過って行った先の写真を
ネットからコピーし、ブログに載せているが、これが、当時の記憶を彷彿させる。
 これも、当時の記憶の再生と、再体験になる。行ってなければ、注目もしない
だろうし、どんな写真より、当時の感動の方がはるかに良い。過去の再生と
体験と同時に、新たなる未来のためにも、常に、記憶の手入れが必要になる。
・・・・・・
4439, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー9
2013年05月12日(日)
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 ーこれまでの7つの登山道を更に簡略すると、次になる(後書きより)ー
・ ルート1は、心は幻想だと理解する道。
 脳神経科学の知見から考えると、意識される今は幻想だ。
 今とは、未来や過去が調整されて今だと思わされているに過ぎない。
 自分が主体的に行っているとリアルに感じる意思決定も、そうしていると 
 思い込んでいるだけだ。
 僕たちは「生きていると錯覚しているだけだ」と考えざるを得ない。
・ ルート2は、すぐ死ぬことと、あとで死ぬことの違いを考える道
 所詮はいつか死んでしまう、ということから人生を考えると、今死んでも
 あとで死んでも同じよなものだ。人生は死刑のようなもの。だが、それは、
 悲観的なものではない。生まれてきた奇跡を、この宇宙的ラッキーを、
 ポジティブに捉えようではないか。死ぬことが悲劇なのではなく、
 生きていること自体がすばらしい奇跡なのだ、と。、
・ ルート3は、宇宙サイズの視点に立って、自分の小ささを客観視する道。
 138億年前にできて、直径276億光年のサイズを持つ巨大な宇宙。この宇宙
 スケールから見ると、何て人間は小さいことか。しかも、地球上に70億人も
 うごめいている人間。あなたはその中のたったの一人に過ぎない。全体から
 見ると、あなたが自分の死にこだわることは、極めて部分的些細なこと。
・ ルート4は、主観時間は幻想だと理解する道。
 客観的な時間は、138億年にわたって、一秒ずつ確実に時を刻んできた
 かもしれないが、主観的な時間は、それとは異なる。過去と未来は圧縮され、
 生死のところで長さがゼロになる。しかも、それは幻想だ。あなたの過去は
 記憶にしかないし、あなたの未来は想像上の産物。あなたには今しかない。
 あなたは、今しか感じられないのだ。時間などない。だから、あなたの主観
 時間に、死の入り込む余地はない。
・ ルート5は、自己とは定義の結果だと理解する道。
 自分がいて、生きていて、考え、行動し、いずれは死んでいく。
 そう考えるのは、近代西洋流に、自と他、生と死、主体と客体、能動と受動
 といった二項対立図式でものごとを捉えているからに過ぎない。それが正解
 ではなく、ものごとを考えやすいように、そのように定義しているだけだ。
「自分」を定義するから自分があるかのような認知が行われ、「死」を定義する
 から死を恐れている気がするに過ぎない。もともと、世界は単に全体として
 世界であるだけであって、自分も死もないのだ。
・ ルート6は、幸福学研究からのアプローチ。
 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人の
 目を気にしない傾向。これらを満たすのは、自己を捨て、無我・無私を実践
 できる達人の生きかた。・・ここに到達した人は、持続的な至福を感じる
 ことができる。逆に、持続的な至福を感じられる人は、達人の域に
 到着することができる。・
・ ルート7は、リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ。
 そこには、リラクゼーションからでも座禅からでも、念仏からでも達する
 ことができる。いや、ルート6のいずれからでも到達することができると言う
 べきだ。 何しろ、もともと同じ山を登っていたのだ。 登頂した先は、
 同じところ。死を恐れない境地。それはそのまま、生を満喫出来るところ。
 昔の人は、科学技術の知見がなかったから、仏教哲学によってしかそこに
 到達できなかったのかもしれない。しかし、現代人には科学技術がある。
 脳科学の知見は意識が幻想だという事実を僕たちに突きつける。
▼ <私たちの心は幻想でしかない。137億年の時空の自分は小さな存在、
 そこでの主観時間は幻想。それを感じている己も定義でしかない。そこでは、
他の人との比較に目を奪われることなく、深くリラックスをしていれば良い>
が活きるコツ。ひたすら今を活き活き、楽しめばよい。背中に羽をつけた
天使のようになるに、まだ重い。せっかくサバンナに出てきたのに。
・・・・・・
4065, お金と神 ー1
2012年05月12日(土)
 * 「お金=信用」と「神=信仰」は似ている 〜�      
        ー「お金の執着」が経済を狂わせるー小野善康 より
金とは何だろう?と長年考え続けてきたが、金と神との同定の視点が面白い。
両者ともバーチャルの信頼で成り立っている。一部の支配者が神の信託に、
紙幣の信託の類似性をみて発明したのが金で、両者とも共同幻想の最たるもの。 
 ーまずは、抜粋から。
≪ 金と神は似ている。一般に、金とは汚いもの、神とは聖なるものと言われる。
いずれ実体のないバーチャルなものなのに、人びとの行動に大きな影響を与える。
適度に使えぱ人々に安心と幸せをもたらすが、行きすぎれば人生を狂わせる。
宗教が狂信者を生んで世界を恐怖に陥れるように、現代における金への強い執着
は、人々に購入を控えさせ、不況を生み自分たち自身を失業に追い込んでいる。
◎ 宗教とは、リアルな物欲が生む煩悩から逃れるために、人間が頭の中に
 作ったバーチャルな世界である。それはときとしてリアルな物より人間行動に
強い影響を与える。純粋にバーチャルな神という概念をそこまで高めるのに、
人間は多くの過程を経てきた。はじめ神は嵐や雷、山や川など、自然物や自然
現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、
大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って
人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、
宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。
しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な
快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、
般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、
心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、
バーチャルな観念へと昇華きれる。 
◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫
▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が
 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、
それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で
しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置
の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。
アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ
(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
 ・・・・・・・
3699, 自己を見つめる −20
2011年05月12日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー�       ーP・283
【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実
 へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、あるべき将来を目指し、
現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、
自己と他者と世界と存在のすべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して
生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。それはまた、
人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということ。
したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、こうした死の存在論的
概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、
この世の生存はない。無にさらされたものとしてのこうした人間的自己という
その必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で
死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、それは誰にも分からない。
しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する
死に早晩さらされることを自覚し、自己の無化を心得つつ、終わりある自己の
人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめ
ながら、いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねている。 
こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、虚無の風が吹き上げて
いると言ってよい。そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら
広がっている。自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己が
この世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。
しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、再び自己は、存在の
無のなかに沈み込む。無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、
浮き草のように漂い、必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った
自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。ハイデッガーが言った
ように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が
隠されているとも言える。誰もその奥を覗き込んだ者はいない。さりながら、
かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、
その帳を取り除けることに成功したある人物がそこに見たものは、不思議な
ことに、当の自分自身だったという。へーゲルやノヴァーリスが語るこの意味
深い言い伝えに従えば、存在の深淵を覗き込んで見出されるものは、実は、
当の自分自身である。・・その意味でも、死を含んだ、無としての存在が、
人間の真実であり、それ以外にどこにも存在の真理はないと言わねばならない。】
▼ 最後の章は死である。死は、ドーナツの穴と類推すると、面白い。
 穴はあって、ない。ドーナツの形状が穴を形づくっている。永六輔が
「色即是空の色がドーナツで、真ん中の穴が、空」といみじくも言っていたが、
人間存在を色とすると、自己の存在の根底に潜みこんでいる死は、その穴の
ようなもの。ドーナツを食べてしまえば、その穴も無くなってしまう。
 また、ハイデッガーの「死は、無の柩」も考えさせられる。
無など元もとないのに、それを敢えて柩という著者のセンスが面白い。


5535,魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思

2016年05月11日(水)

    * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思
 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、
<魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 
そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、
魂の進化こそ人間の目的という。
  〜天風の哲学から〜
≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。
【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと
言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に
その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり
減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、
『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。
本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て
直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。
【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】
 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。
教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫
▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、
 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、
この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。
この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、
最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります
ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・
〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。
ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、
結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。

・・・・・・
5170,人生相談という気晴らし! 〜②
2015年05月11日(月)
              『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれ
 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが
手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進まない。
ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め
ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」
にも、覚悟が必要。 正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。
≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜
 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために
仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく
母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。
 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、
真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。
もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。
同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に
なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり
「できていない」人間なのでしょうか?
A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜
 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな
「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に
考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も
いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける
等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を
続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい
でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。
一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが
「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」
が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」
は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって
恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な
結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略)
 あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が
「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、
「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。
そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を
見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」
ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの
おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう
修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え
なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、
そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、
あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、
そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫
▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。
 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との
同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。
で、「ろくでなし」と決め付けられる。 当人は今さら何をか!
私自身を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。
・・・・・・
4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥
2014年05月11日(日)
   * 当事者の隠れた心理とは
 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないこと。
ホテル建設の準備と立上げほど面白い仕事はないのでは? 実感として、その
トータルと、軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった実感がある。
これは事業創業と同じであるが。クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計
から建設まで、造船会社と打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に
難破して命からがら助かったとする。その時、誰かが、「惜しかったですね!」
と言われた気持ち?が、こんなもの。「いや、これだけ楽しんだから、未練も
悔しさもない!海から引退する身にとって、下手に中古品で残っているより、
この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、
難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺り
が周辺の視線とは全く違う。これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら
助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことがない人ほど、
その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難い
ことは知る由もない。人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、
知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。
 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して
初めて知ったこと。両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかも
しれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうことを、子供ながら
学んだ。それにしても、9割以上の何も考えない人たち、何をしているのだろう。
年金生活に入っても、収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をして、
死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、預金を残して
死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、
無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、
目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか?
 
・・・・・
4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8
2013年05月11日(土)
    ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道)
「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り
ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や
お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて
いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと
笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、
深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、
自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから
リラックスの状況を求める。
 −その辺りを抜粋ー
≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く
ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である
身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で
あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう
いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」
する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、
禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、
体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。
体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解
しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、
悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、
実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが
仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」
と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。
欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中
している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 
あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の
安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、
よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー 
あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。
が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教のアメリカ人僧侶は、
悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。
 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって
ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの
人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、
まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
  * その人の思想とは一つの行為である    
           ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
   心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
   ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
   今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
   他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
   掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
   子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
   それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの
   でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテ「ファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう
  人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が
  ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、
  そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という
  ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、
  思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では
  支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに
  言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、
  というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと
  (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの
  全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは
  否認されることで、己というものを知るのだから。≫
▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、
 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化
して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター
チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。
写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、
真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、
自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが
なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと
言われるゆえんである。
   ・・・・・・・
3698, 自己を見つめる −19
2011年05月11日(水)
              「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を
誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。これは万人に言えることだが、
肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの
家制度が崩壊、老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中に
あって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。しかし、
「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 
誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 
  * 老いについて ー�    ーP272
【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、
自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、 哲学的知性を
研ぎ澄ます恰好の時期となる。キケロが言ったように、無分別は青春につきもの
であり、反対に、分別こそは、老熟に伴ってようやく熟成する。およそ、知性を
錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年に
なって恵まれた晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなか
で草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の安らぎを
叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、
精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、時きたってこの世を
去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に
従って、従容と死に赴くのは、人の使命だからである。セネカの説いたように
自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。
心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷
にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、不屈の力をもって、
公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、
善行に励むことのうちに、人生態度の基本が据え置かれねばならないと、
セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間の
あり方に熟慮を傾けて、人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい
生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】
▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。
 他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると!「生まれ活き、老い、
その結果、長く生きている分、多くの病を経験し、死んでいく。これが人生。」
そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたい
は妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。 清く、正しく、美しい
人生もあるのだろうが?これほど詰まらない人生もないだろう。それは私の偏見?


5534,若者よ、外に出よ! ー⑬ 19世紀の芸術に触れろ 〜B

2016年05月10日(火)


               『人生の教科書』なかにし礼著
 ここで、若者に、<海外に出て、自然と、芸術作品に触れ、読書などで
教養を積み、恋愛をしろ>と勧める。これは若者だけでなく、壮年、老年に
も言えること。情報化社会の中で、クラシックをジックリと聴く余裕は少ない。
しかし、今ではアイフォンがあり、何千、何万の音楽を入れておくことが可能。
更に今では、定額のネット配信で好きな音楽を好きな時間に聴くことができる。
そのベースとなる19世紀クラシック音楽鑑賞を趣味にすることを勧める。
  * なぜクラシックを聴くべきなのか
≪ 芸術を学ぶ際、音楽なら、黙ってクラシックを聴くこと。いまだに
クラシックは不滅の音楽なのだから、それを聴くことが趣味になれば最高だ。
たとえ趣味となり得なくても聴くべきである。
 特に、やはり19世紀の音楽。18世紀にはモーツァルトがいるけど、彼の死後、
すぐベートーヴェンへ、19世紀の音楽へと繋がっていく。ベートーヴェンから
始まって、シューベルト・ショパン、ブラームス、ワーグナー、マーラー、
ブルックナー、ベルリオーズ……とにかく19世紀だ。
 ロマン派の時代である19世紀は、前世紀の革命時代が終わり、
「人間は進化する」ことを人類が知った時代である。愛によって人間は死ぬ
こともできるし、愛によって罪を犯すこともできる。そして「人間は進化して
神にもなれる」という思想を、芸術家たちが作品の中に叩き込んだ。
19世紀は人間の可能性のすべてを歌いきった時代なのである。
 文学の世界でも、トルストイ、ドストエフスキー、バルザック・ユーゴ、
アレクサンドル・デュマ、スタンダール、ゲーテ、バイロン、シラー、ボード
レール・ベルレーヌ、ランボー、オスカー・ワイルドなど、大作家が生きた
時代はすべて19世紀である。
 19世紀という時代を常に自分の心の中に持っていようとするには、音楽を聴く
ことを日常の習慣にしてしまうことだ。この頃の作品は、今や不滅の作品群だ。
20世紀になるとそれらはすべて別の音楽になっていってしまうし、言うなれば
19世紀の残骸のようなものだ。19世紀の音楽を楽しめなかったら、その人間の
精神生活はすごく貧弱なものになると思う。 ≫
▼ それでは、絵画はどうだった調べてみると、
【19世紀はもっとも絵画が進化した時代と言っても過言ではない。現代絵画の
巨匠ピカソやマティス、ムンク、シャガールなど全員がその影響を受けている。
16世紀まではイタリアが、18世紀はフランスが芸術の最先端。ゴッホは19世紀
終わりの画家である。・・】とある。その背景には、国力の成熟もあるようだ。
学生時代に、安いステレオを買って、世界の民謡、ジャズ、アメリカン
ポップス、クラシックを独りコーヒーを飲みながら聴くのが楽しみだった。
 大都会の中の孤独は、音楽と読書でまぎらわすのが一番だったが、後から
考えてみると、大都会の中の孤独こそ、一番の環境だったことになる。
早稲田大学近くの寮、今でいう「シェアハウス」の25人の地方出の共同生活
から垣間見た人間観察と、クラブ、ゼミ、世界旅行と、恵まれた経験だった。

・・・・・・
5169,閑話小題 〜どっちに失礼?
2015年05月10日(日)
    * どっちに失礼?
 猿の赤ちゃんの「シャーロット」の名問題で、家内が『私も失礼だと思う!』
と言った時、思わず出たジョークが、『どっちが?』だが、反応はゼロ。
そのジョークを即座に理解出来る玉?ではないらしい。直ぐにブログに取上げ
ようとしたが、その辺の世間びとに配慮して自重した。 獣を軽くみるのは、
人間のエゴの思い上がりである。 朝日の天声人語が、上手い解説である。
≪ イギリス人はユーモアが好きだ。苦しいときほど必要だと考えるらしい。
 第2次大戦中、ロンドンはドイツ軍の空襲を受けた。動物園に爆弾が落ちた
ときは、タイムズ紙が「しかし、猿たちの士気はいささかも衰えていない」
と書いたそうだ ●考えてみると、これは「猿たち」が利いている。
猿山を眺めれば、彼らがわれわれに最も近い動物であるとよく分かる。
ゾウやキリンではあまり面白くない●古びた話を、大分市の高崎山自然動物園の
赤ちゃん猿の命名騒動に思い出した。英王室に誕生した王女と同じシャーロット
と名づけたら、「失礼だ」という批判が山と届いた。これも猿ゆえだろう
●ウサギやカピバラなら、騒動にはならなかったと思われる。ではカバはどうか
と問われると困るけれど、ユーモラスではある。英王室の広報は鷹揚に
「赤ちゃん猿の命名は動物園の自由」と語る。結局、名前はそのままと決まった。
「失礼」を案じた人たちも、先方の対応に少し気が楽になっただろうか
●ロンドン空襲に話を戻せば、半壊したある百貨店は「本日より入り口を
拡張しました」という看板を出したそうだ。やせ我慢で繰り出した泣き笑いの
ユーモアに、お国柄を見る思いがする。そういえばきのうは、英国にとって
対独戦の勝利から70年の日だった●健やかなプリンセスの誕生から世界注視の
総選挙と、英国発のニュースが続く。日本の皇室ともゆかりの深い王室である。
美しい5月の慶事を、遠くより祝福申し上げる。≫
▲ 今回の騒動について、文化人類学者は「人々の深層にある獣に対する
 差別意識が表れた」という。 また「一部の人たちが英王室の王女の名前に
日本の皇室を重ね、敏感に反応したのだろう」と。「(失礼なのは)どっちが?」
のジョークも、我ながら人類への皮肉である。 同じ島国でも歴史が違うと・・
   * 連休での渋滞原因とは
 連休での観光地の車の渋滞原因は、意外なところにある。高速道のトンネルを
抜けたときの陽光に、直ぐに眼が馴染めずスピードを落とす。その小さな積み
かさねが、数百、数千台が積み重なって渋滞になってしまう。その上、登り坂で、
少しスピードが落ちてしまうが、それに気づかないことの積重ねも渋滞原因に
なっている。要は、それぞれの小さな減速の重なりが、原因とか。 
それと、普段、遠出をしたことがないドライバーの不慣れが重なるため。
・・・・・・
4804,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー2
2014年05月10日(土)
       「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * ある逸話
   ー‘あとがき’に、以下のような逸話があった。まず、その抜粋からー
《「サザエさん」の原作者の長谷川町子のマンガで、小学一四年生のときに読み、
 今なお覚えている作品がある。それは、一人の男の人生をめぐる、良い神様と
悪い神様の話だ。何の不自由もない家に、玉のような男の子が生まれた。
これを知った悪い神様は、どうもこれがおもしろくなく、この男の子の人生を
惨たん憺たるものにしようとシナリオを練る。そして、「男の子の身には次々と
不幸が起こり、紆余曲折をへて船乗りとなった挙句に猛烈な嵐に遭遇して、
最後は絶海の孤島に流れ着き、そこで人生を終える」というシナリオをつくり
あげた。はたして、男の子の身に次々に不幸が襲いかかる。しかし、良い神様が
それに気づいて彼を何度も助けたために、彼は幸せな人生を送ることになる。
ところがその臨終の場で、彼は自分の人生を振り返って、本当に不幸な一生
だったと言い出すのである。そして、自分の夢は船乗りになって、どこかの島で
人生を終えることだった、と述懐して息を引きとるのだ。二人の神様は、人間
とはよく分からないものと言って去っていく。これが私の人生の原点である。
幸せな人生とはあくまで本人が決めることであり、まわりがとやかく言う問題
ではない。もとより、記憶のざまざまな性質や、生かしかたを知ったからと
いって、幸せになれるわけではない。もとより、記憶の様々な性質や、その
生かし方を知ったからといって、幸せにはなれない。ただ、知らないよりは、
知っておいたほうが、みすみす損をしないだろうと思われるだけだ。・・ 》
▼ 何か、現在の複雑な気持ちの解釈に、大きなヒントになる内容である。 
 3年前の節目の数ヶ月前までは考えられない、「まさか、自分が!」が、
正直な気持ち。しかし、現在に至って、これが私の物語の終わりには、丁度
良いのでは?とか、こういうのも面白い?とか、何でまた?等、色いろ複雑な
気持ちが入り組んでいる。 絶海の孤島ではないが、結末がハッピーエンド
より、せっかく創業をしたのだから、倒産の終わりの方が、この筋書きとして
面白い?とか、この物語の解釈がある。これが私らしいというか、何だろう? 
要は、30年間、転身しなかった結果でしかないが。ストーリーの面白さは、
これで充分。「ああ、面白かった!」と、言えるだけでも有難い。 
神様は、丁度良いオチをつけたようだ。
・・・・・・
4437, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー7 
2013年05月10日(金)
     ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
  * ルート6 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
《 幸福になるための因子は、自己実現と成長、つながりと感謝、楽観性、他人
の目を気にしない生き方。それを満たすのは、自己を捨て、無我、無私を実現
する達人の生き方。欲にも、生死にも、他人との争いごとに拘らず、達観して
静かに生きる姿勢。ここに達成した人は、持続的至福に達することが出来る》 
これが、幸福学の結論。 現在の状況を冷静にみると、
「これが人生、で、もう一度同じ人生を歩みたい」という現在の心境と同じ。
  ー他人と比較しないことによる幸せこそ、人生の要諦。 その辺りよりー
≪ 幸福学とは、要するに、幸せに効く主観的な要因は何かを明らかにする研究。
 その結果、僕たちの行ったアンケートの範囲では、幸福の要因は大きく
 四つの因子に分けられることがわかった。
・一つ目は、自己実現や自己能力に関する因子。目標を持っているか、直近の目標
  と将来の目標に一貫性があるか、自己統制感が高いか、自尊心が高いか、など。
・二つ目は、つながりに関する因子。他人に対して親切か、様々な出来事に
  感謝しているか、多様な知人がいるか、など。
・三つ目は、楽観因子。楽観的か、ポジティブか。
・四つ目は、他人と自分を比べない因子。他人と自分を比較しない傾向が高いか。
 ここでは、四つ目の因子に注目しよう。 すなわち、「他人と自分を比べない
  ことによる幸福」について。 自分を他人と比較しない人には、長続きする
 幸福が訪れると考えられる。千五百人への調査結果も、それを表している。
つまり、千五百人の回答者のうち、他人と自分を比較しない傾向が強い人は
幸福である比率が高く、他人と自分を比較する
傾向が強い人は不幸である比率が高かったのだ。
 自分と他人を比較しない人々には二つのタイプがあると考えられる。
他人を見ないタイプと、自分を見ないタイプだ。前者は、自分だけを見て他人
を見ないタイプ。周りのことを気にしないマイペースタイプだ。 我が道を
行くから、周りなど関係ない。場合によっては、独りよがりだったり、わがまま
だったりするかもしれない。自分は幸せでも、他人には迷惑をかけている
「自分勝手」タイプかもしれない。後者の自分を見ないタイプは、逆に、
世界は見るが自分を見ないタイプ。何が欲しい、こうなりたい、などの自我の
欲求があまり強くないから、他人と自分を比べることにそもそも興味がない。
悪くいえば向上心や競争心がない。なすがまま、自然のまま、だ。
 たとえば、武道の達人をイメージしてみていただきたい。茶道、華道、座禅
などでもいい。 凛として、姿勢がよい。何かあっても、動じない。静を以て
動を制す。普段は静かだが、実は相手を倒す力を秘めている。無駄に力んだり
せず、相手の力をすっと利用して、自分の思いどおりに世界を動かす。しかし、
私利私欲はない。判断は大局的。全体が見えている緊張感のある空気を醸し
出すが、自分のためには怒らない。思考の対象は常に世界だ。世界のために
行動する包容力。名声を得ていたり、人望が厚かったりするが、決して自慢など
しない。 もちろん、他人と自分の比較などしない。≫
▼ どうも世の中、嫉妬と苛めの糸で哀れなほど。私住む城下町は長年の柵
 で、雁字搦めの蛸壺社会。8割以上が地元出身者で占められ、それが全社会。
学校関係者以外は殆ど付き合いがないが、垣間見えてくる世界は箱庭のようで
面白い。知識を持たない人の無意識の科学は、身近の人との比較しかない。
不幸になって当然。それも私の主観による思い込み。「横を見ないで、縦
(今、ここ、自分)を見て生きる」と割切ってしまえば、良いが。
・・・・・・
4063, 本当は怖い抗うつ剤 ー2
2012年05月10日(木)
  * うつ病になったら、どうしたらいいのか。      
              { 浜松医科大名誉教授 高田明和 }
 倒産の惨劇を身近で見ていたので、二年間は落ち込むのは避けられないと判断。 
最小にするためスポーツジム通いと、打ち込める対象を加えることを考えた。
一つ間違えると欝に伴う暴発か、破滅になっていく。それがiPadとシネマと
 蔵書の再読と、世界の潮流の鳥瞰などを、逆に徹底的に楽しむことであった。
それと、中村天風の「積極一貫」の思想書を、身近に置いて何度も読み返した。
二年にまだ一年あるが、一息ついた後半の方が危ないのかもしれない。
 その私が予防策でとった方法がそのまま、治療法として研究されていた。
運動と、考え方、受け止め方をプラスにすることだ。
≪ うつ病の治療法として確立しているのが「運動」である。体を動かすことが
精神によい影響を与えることは様々な研究で示されている。第二は「ものの考え方」
である。私たちは競争社会に生きている。競争とは相手に勝つことを目的とする。
もし負ければ落伍者になる。一度敗北すると、将来がないように思うのだ。
さらに大事なことは、どのような分野でも自分より勝れた人がいるという事実。
 例えば野球にイチローがいて、ゴルフには石川遼がいるのと同じようなものだ。
努力は大事だが、自分が及ぼないからといって自分を責めていたら人は決して
心の幸せは得られない。・・・堀口大學は自身の『座右の銘』という詩で
「暮らしは分が大事です。気楽が何より薬です そねむ心は自分より 以外の
ものは傷つけぬ」と詠んでいる。自分以外とは社会的ランクのことである。
今の自分のランクを受け入れ、それでよいのだとする以外に心は楽にならない。
禅では「不思善 不思悪」といって、思い出さないことをもって最も尊いとする。
といって、無理のことなら、思い浮かんだら、しばらく放っておいて手を出すな、
必ずその思いは消えると、禅では教えている。 実際に、どのような思いも
5秒で消える。・・・ ≫
▼ 「どんな思いも5秒で消える」は、言いえて妙である。出るのは仕方が
 ないが、なるべく、そこで切るように心がければよい。全ては二年で落着くし、
目先は五秒のフラッシュで出てきた思いの延長を考えないこと。特に寝付けない
布団の中での苦悩の嵐は、訓練で最小にすることが可能。 そのためにiPod
を枕元に置いている。最近は、ほとんど夜半、使うことはないが、音楽は効く。
・・・・・・・
3697, 自己を見つめる −18
2011年05月10日(火)
  * 老いについて ー�    
            〜P270「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【ショーペンハウアーが言ったように、そうした老年の実りが熟するためには、
 まず何よりも、人は、健康と生計の維持に、早くから留意して、みずからの
人生設計を築き上げる努力を怠ってはならない。生計もままならない病気がちの
老年は悲惨の一語に尽きるから。そうではなしに、比較的健康に恵まれ、また、
なにほどかの金銭を蓄えた老年は、少なくとも社会生活全体の安寧が保たれた
条件下では、むしろ静かで、平穏な人生の実りの時期になるであろうと、
ショーペンハゥアーとともに人は言うことができるかもしれない。生の本能の
激しい渇望も静まり、社会的責務もいちおう果たし終えた、比較的自由な老年は、
自己を振り返り、世界を見つめ、知性の働きを純化させて、洞察と実りを結び
うる最良の時期だと、たしかに言えるであろう。しかし、そのためには、人生に
対する過剰な期待や野心に惑乱された、思い込みの激しい混乱した想念から解き
放たれて、冷静にこの世の営為をその真相において見つめる知恵の魂が熟成して
こねぽならない。ショーペンハウアーが言ったように、人生の表側だけでなく、
裏側もすっかりよく眼のなかに入った老境においてこそ、初めて、人生の虚妄と
空しさが会得され、所詮はいかなる人生も五十歩百歩であるという事態が得心
されてくる。 そうした人生の有限性への徹底した悟りが、老境の平静さを
築く基底とならねぼならない。実際、誰しも、老年とともに、そうした悲愁に
みちた諦念を学び取るものであろう。
 老年になって、やっと人は、自分の人生を変えた大きな出来事が、そっと
気づかないうちに自分に忍寄ってきて、自分を支配するに至ったことを理解する。 
自分の周りの人々が、ほんとうは何者であったかが、ようやく分かるのは、
老年になってからである。 老境に至って、ようやく、自分の歩いてきた人生が、
その意味と射程において、誇張も、卑下もなく、ありのままに見つめられ、
自己の人生の限界と特性、その意味と無意味とが、過不足なく凝視される萌芽
が生い育ってくる。この世の中の名誉や名声や栄誉などが当てにならず、他者
の身勝手な憶測に依存した評価に過ぎないことも、すべて見抜かれている。】
▼ 新潟で事業を事業を立ち上げた時、近隣の土地のオーナーの老人に建築確認
 の判を貰うため交渉をしたときに、心底、驚いた。優位の立場を利用して、
自分の人生の鬱憤を晴らしている姿が老醜そのものに思えた。これは沼垂界隈の
特性と当時は思ったが、最近分かったのは、実は老人全般が持っている性癖と
いうことである。内面を見つめる力のない人は、その鬱憤を外に向けるしかない。
それを長年かけて培ってきたため、心の底には、怒りと憤りが底なしの泥沼の
ように深く蓄積され毒ガスのように湧き出ている。そのガスの対象を次々と
探し出し、他虐、そして自虐として爆発を始める。それが老醜である。 
老年は、その道を一歩ずつ歩いていると割り切った方が良い。そうすると、
長生きは、ほどほどということになる。それにしても老醜という奴は、である。


5533,若者よ、外に出よ! ー⑫ 19世紀の芸術に触れろ〜A

2016年05月09日(月)

               『人生の教科書』なかにし礼著
    * 19世紀の芸術に触れろ!〜A
 長年の読書の対象がノンフェクションが中心のため、古典小説は、あまり
読んでなかった。特に欧州の古典的名著は数少ない。数年前から読もうと思って
はいたが、これを機会に19世紀に書かれた名著を中心に読むことにした。
 改めて19世紀の芸術をみると、音楽、小説、画家などに卓越した芸術家が
そろっている。近代から現代への節目のためだろう。19世紀の切口で、芸術群
をみる視点を今になって知るとは、恥ずかしい限り。日本では明治維新があり、
多くの維新の獅子が現れていた。 <死ぬまで勉強>とは、こういうこと。
あまりに固い馬鹿の壁に取囲まれていた。それでも、学生時代に基礎教養の
絶対的値が少ないことに気づき、半世紀以上、学び続けて、このあり様。   
 〜その辺りを抜粋〜              
≪ ★ 『カラマーゾフの兄弟』を読め
・ドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあるか?
 未読の人には声を大にして言いたい。「とにかく今すぐに読み始めろ!」
「そうすれば人生が開けるから」と。・・・(略)
 言わずと知れた世界文学史上に燦然と輝く大作家、ドストエフスキー。
彼は帝政ロシア時代の革新派で、逮捕されて死刑宣告を受けたあと、シベリアへ
流刑となった。結局獄中で殺されることはなかったが、銃殺刑寸前まで追いつめ
られたこともあるという。そんな彼の処刑を前にした心の動きというのはもの
凄いものがあって、思想を、神を、人生の矛盾を、愛を、世界のことを考え
抜いた大作家の知見がつまった本を2週間かけて読むと、ドストエフスキーが
一生かけて学んだ膨大な知識と、喜怒哀楽など、彼の人生の追体験ができること
になる。そうすれば、今自分が悩んでいることがいかに小さいか、人生とは
なんと深いものかということが理解できる。
ドストエフスキーに限らず、本を読むなら19世紀の作品をおすすめする。
なぜ19世紀の本を読むべきかというと、現代の本はそのどれもが真の価値が
定まっていないからだ。どんなにベストセラーになっていても、それはつい
最近書かれたものであり、真の価値はわからない。人々がただそのブームの
中にいるだけにすぎない。しかし、19世紀の芸術には100年経ってもなお人類の
宝として珍重されている作品、時の試練を乗り越えた名作がある。
・読書はまさに人生の勉強であり、作家という人間の勉強でもある。
一人で自己鍛錬をするには読書しか方法がない映画を見てもダメ。
映画は「観るものであり」放っておいても勝手に終わる、いわば受動的なもの。
逆に読書は能動的なものである。自分から積極的に本の中に入っていく努力が
強いられるため、大変な意思力がいる。映画や音楽や絵画も人生を豊かにして
くれるものではあるが、それよりもまず読書である。
 いろいろなことが読書することからスタートする。
ちょっと噛み付いても歯が立たないような、咀囎しても胃にもたれるような、
消化しきれないようなものに挑戦し、乗り越えたという経験が成長するための
起爆剤になる。それをせずに花開くということはあり得ない。大作を読むことは
人生の通過儀礼なのだ。
 物を読んで何かを理解する、そういった根本的なものが育っていないまま、
人生をスタートさせてはならない。そして読み終わって本を閉じたときの快感。
これは悦惚だから味わったほうがいい。≫
▼ 10年位前に読もうと一度、思いたったが読まずしまい。残された人生の
 課題は、19世紀芸術に触れて人生を見直すことなのか。図書館から借りて
読むのではなく、自前で買って読む習慣のなさの甘さの結果が、こうさせた?
米国の統計だが、社会に出てから読書を続ける人の比率が10%という。
思いの外、少ないのは生活におわれて読書習慣が持てないため。で、リタイア後
の有余る時間に読書をしようとしても、受動的生活の習性が、それを許さない。
 仕方がないので、昔の名作映画シリーズをDVDで観ることで良しとしようと
するが、受動の映画鑑賞と、能動の読書の差は、あまりに大きい。で、以下に続く。
・・・・・・
5168,人生相談という気晴らし! 〜①
2015年05月09日(土)
             『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
   * 哲学者への人生相談 
 以前、週刊プレーボーイの人生相談の特集本を読んだが、中でも、今東光の
解答が面白かったが、これに勝るとも劣らない面白い内容。哲学者の中島義道が、
ここで、「人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えないかぎりで、
つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな回答を、
あるいはちょっと考え方を変えれば楽になる、そんな妙薬を求めている」と、
人生相談の「質問の甘さ」を一刀両断。いや、甘いから、相談するのか?
  ー世間人の末路ー
≪ Qー まず、定年後、何をしたらよいのか?
 今年退職した62歳の男です。経済面でゆとりがあるので、家にいます。
妻から『趣味を持て』『友だちはいないのか』など言われるが今さら、趣味も、
友だちもありません、もう何を考え、したらよいかよいか分かりません。
 まず何を考え、何をすべきなのでしょうか?
Aー こういう相談を受けるといらいらします。あなたは多分これまでの人生
 で「安全」を後生大事に守ってこられたのでしょう。とにかく無難にとにかく
失敗のないように、生きてこられたような気がしてなりません。結婚もした、
子供も独立した、仕事も定年で区切りがついた…と、ふとわれに返ってみれば、
あとは「無事」死ぬだけというわけ。その虚しさは腹の底まで知っているのに、
どうしていいかわからない。「私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう」
という問いかけは、失礼ながら、いささか滑稽です。しかし(見方を変えると)、
あなたがいま、こうしてぐだぐだ悩んでいるのは、とてもいい機会と思います。
もっともっと徹底的に悩めばいいと思います。あなたは、趣味を見つけても、
友人を見つけても、散歩をしても、社会に興味を持っても、満足しないでしょう。
もしあなたが、いままで通り自分をごまかし続け、そのつど「気晴らし」を
見つけ、そして「これでいいんだ」と呟いて死んでいくのでない限り。といって、
私は何か人のために有益なことをせよとか、何か情熱をかけることを見つけよ、
と言うつもりは毛頭ない。そんなことをしたって、どうせ、じきに死んで
しまうんですから。むしろ、あとわずかな人生(統計的にはたった15年)
をかけて、ほんとうに自分がしたいこと(したかったこと)を見つけることです。
どんなに反社会的なことでもかまわないから、一度は洗いざらい自分を点検して
みること。そのためには、これまで営々と築き上げてきた「うそ」で固めた城を
崩さねばなりません。恐ろしいから自分の中に見出しても握りつぶしてきたこと、
排除されるのが怖いから、いやいや皆に合わせてきたことを徹底的に崩さねば
ならない。そして、徐々に「自由」になることです。これって、老後の生き方
としてはうってつけですよ。あなたは、会社から定年と、つまり「役立たず」
と公認されたのですから、そしてもうじき死んでしまい、二度と生きることは
ないのですから、最後の最後くらい「自由に」生きてもいいのではないで
しょうか? その自由の中身は、あなた自身が見つけるほかありません。・・≫
▼ 機会あるごとに、心の中で呟いている「いい人」の末路そのままが、
 この20の質問。いずれも少し切り口が変わっているだけ。噂話、世間話を、
そのまま信じ、その枠の中で何も考えずに、他人の揚足をとってきた群れの
人たち(世間人)の末路である。でも、気づいただけ充分マシ。気づかないで
御めでたく、そのまま逝くのが大部分。こういうのが集まったのが「烏合の衆」。
・・・・・・
4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1
2014年05月09日(金)
        「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
  * 自分も人生も、記憶がつくりあげる
 この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)
1496, いま・現在について−4 〉に、記憶について書いたことに気づいた。 
よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー
《「記憶のない男」ーDVDレンタル 
レンタルDVD ノ「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い。
ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を失った中年男の物語ー
 それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。
過去が記憶喪失で失われた場合、その人の「いま」は無いに等しい。
ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。しかし、
その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする
主人公の心を、静かに淡々と映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は
存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。
もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 
青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを悪趣味的に、この随想日記で
露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との
重なりが見えてくる。そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。
それは現在が過去より成立しているためである。過去や、未来より、「いま」
が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画。
 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解り
やすい。手は手としては存在し得ない。手はあくまで身体の一部でしかない。
記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。
身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、
「私」は無いに等しい。[いま]に集中するということは、過去と未来に対して
「楔」を打つことである。楔を打つことは最も重要な行為である。しかし
全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。今上の人生、来世の
ことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか?
「いま」に全てを傾けるべきである!?「どうせ死んでしまう」のだから。》
▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと
 無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。リタイア後は、過去と
向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。問題は、
その過去の解釈、受け止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、
その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。
その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、
面白くないはずがない。  ーつづく
・・・・・・
4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6
2013年05月09日(木)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする
 主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する身体Aという媒介の動作を
モニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿っても
いいのではない。一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになって
いるだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。あなたの心は、
よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を
抜け出したりできるものではなく、脳の計算によって作られた単なる擬似体験
劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要
はない。 ・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。
何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは「あなたの身体」と
呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を
観劇しているだけだ。つまりクオリアAから見ると、身体Aもそれ以外の世界も
同じくクオリアAの観劇対象なのであって、所有物ではない。もはや身体と外界、
自己と他者、主体と客体、という分け方は意味を持たない。意味としてつながり
合って相互作用しているのみ。クオリアAが観劇できる範囲は、身体Aの五感が
情報取得する範囲まで。つまり、身体Aは移動式観測装置だ。これまでの世界で、
あなたと他人の同意とか共感とか呼んでいたものは、身体Aを介した他者の
自己化だ。いや、自己の他者化と言うべきか。自己という概念はないので、
主客合一、自他非分離と言うべきである。≫
≪ ー私とは、仮構された「自己」というシステムでしかないー 
 もちろん、この楽しく生き生きした世界を観劇できなくなることはとても
残念だが、それだけ。「私の死」ではなく「一つの観劇システムの終了」だ。
つまり、仮構された「自己」という概念を解体してみると、「死ぬのが怖い」
という概念は存在できない。「死ぬのが怖い」という概念は、「自己」という
幻想に付随して作り出された幻想に過ぎないのだ。比喩的に言えば、身体Aとは
窓だ。一つの窓を通して世界を見る装置だ。世界は、いろいろな身体を通して
見られていた。また、世界では、それらの身体によるインタラクションも行われ
ていた。これからも今までと同じように、行われていく。おびただしい数の
身体たちによつて。違いは、おびただしい数の身体の中のたった一つである
ところの身体Aが機能を停止した、ということだけだ。それに伴い、役目を
終えた、身体Aを介した世界観測者であるクオリアAもまた役目を終えた。
ただそれだけ。  もう「つ、強調しておくと、身体Aと世界は一体だ。
身体Aは、世界とつながっている。世界は、身体Aとつながっている。つまり、
元来「自分」と呼んでいたものは世界である、世界は「自分」だ。
本来、自己と他者の境界はない。境界を定義するからあるように見えるだけだ。
したがって身体Aの喪失は、世界の一部の喪失に過ぎず、世界から見ると
髪の毛や爪を切るようなものだ。≫
▼ 自己は定義の結果とすると、精一杯生きてきたこと自体が何だった
のだろう?そこで立ち現れた世界が自分になる。ご隠居の身になった現在、
私など死のうが生きていようが、どうでもよいこと。今まで「自分」と呼んで
いたのが実は世界だったということ。入江の洞窟と外海が繋がっていて、洞窟
の周辺を自分と思っていたが、外界を含めた世界が自分と考えると納得する。
己の行蔵を振り返ってみれば、そのことがよく分かる。今の自分も世界という
ことも。そうこう考えると、何?この俺は! になる。ただ気楽に死ねば
よいだけ、プシュと。 ボチボチ気楽にいけばよい。
・・・・・・
4062, 本当は怖い抗うつ剤 ー1
2012年05月09日(水)
 数ヶ月前に抗うつ剤(ハッピードラッグ)の恐ろしさについて書いたが、
ある雑誌に浜松医科大元教授の抗うつ剤からの脱却のレポートがあった。
親戚・縁者にも鬱病に苦しんでいる人を多くいる。青年期に何度か挫折体験を
したが、宗教系や精神論の本で、独りで克服してきた。去年の挫折?は、
早朝のミニサイクリングとスポーツジム通いで運動量を増やし、毒が溜まらない
ようして乗り越えた。iPadにエネルギーを集中したことと、シネマ通いも
効果があった。 また身近な縁者の倒産劇を手助けしたことで、情報を得ていた
こともある。節目は可能な限り綺麗に?を、心がけたことも毒を最小にした。 
私の知人に気楽に精神科の通院を勧めたが、大丈夫だろうか。 抗うつ剤が
多く使われ出した頃から、自殺者が激増し始めた統計がある。要はドラッグ
患者に仕立てられているのでは? という疑問が出ていた矢先の、医学者の
実体験の内容である。 恐ろしい限りである。
  ー 大まかにまとめると ー   {浜松医科大名誉教授 高田明和}
≪ 厚生労省は2013年から、今まで4大疾病として扱われてきた、脳卒中、
 急性心筋梗塞、がん、糖尿病に精神疾患を加えることを決定した。厚労省が
08年に実施した調査によると、精神疾患の患者は323万人と糖尿病の患者数
237万人を上回っている。 自殺者の数は13年運続で3万人を越えている。 
私たち家族は米国における9年の生活を切り上げて、1975年に浜松に帰ってきた。
子どもたちは日本語を話せず、家族ともども激しいカルチャーショックを経験。
それは強度のうつ状態を引き起こした。 その時の体験は、『本当に「うつ」
が治ったマニュアル』に書いた。薬は便わなかったが1年後に、私が言霊療法と
呼んでいる言葉を使い考えを変える方法と、坐禅で劇的にうつから脱却できた。
その後30年くらい何の問題もなかったが、70歳のころ、何度か海外出張後に
時差ボケが治らず、医師に相談すると、睡眠薬と抗うつ剤を処方された。 
最初は眠れたが次第に寝付が悪くなり、これは睡眠薬の依存かと思って中断
したところ、ひどい不安と不眠を体験した。パキシルで不安が解消されたので、
自分がうつ病になり、パキシルが効いたのかなと不安になった。しばらくして
パキシルを中断すると、再度不安と不眠に襲われた。そのころ、欧米でパキシル
の離脱症状(車酔いのような気持ち悪さ、顔の発汗、血の気を引いたような症状)
が問題になっていたので、抗うつ剤から逃れようと、二週間薬なしで済ませた。
自分は病気でないと繰り返して、何とか頑張った。 抗鬱剤は効果より
副作用の方が大きいのではないかと、疑問が生じたのである。 実際には
抗うつ剤の効果はブラシポ効果(暗示)が多いこと、抗うつ剤を一度服用して
しまったら、止めるのが至難である。・・≫ 
▼ 抗うつ剤の恐ろしさは、それは麻薬そのものであること。一度、依存を
 してしまうと、切れると禁断症状が起こることだ。そして服用をしている
うちに段々、強い抗うつ剤でないと効果がなくなる麻薬の禁断症状と同じである。 
初めは、気楽に医者の処方薬を飲んでいるうちに麻薬中毒になってしまうことだ。 
薬のため、精神のバランスを崩した男をみたことがある。狂ったような怒り方は、
狂人そのもの。長年積み重なった鬱憤が麻薬で爆発するから、知らない人は、
呆然となる!  ーつづく


5532,若者よ、外に出よ! ー⑪ 天空のショー

2016年05月08日(日)

               『人生の教科書』なかにし礼著
   * 天空のショー
 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。
自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。
 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、
その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、
「地球は」から、「宇宙は」に変る。 〜ネット検索によると〜
《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱
 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の
爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。
この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、
地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極
の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に
入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生
させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100〜
400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。
これがオーロラの正体である。》 
 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を
現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。
外に出続けた結果、出会えたのが、これである。〜10数年前の文章をコピー
――――
2003/10/14
923, アイスランド旅行記ー3
   2003年10月14日(火)
ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。
その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。
薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ
がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが
無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。
感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。

 そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。
天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。
写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。
 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の
波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。
あとは「 ・・・・・  」である。

 取材できていた共同通信社のカメラマンが、
「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。
「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。
 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」
「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
――――
H1201自然の神秘
−オーロラ−
旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って
いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」
の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。
スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、
豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、
それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。
トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。
帰りに一泊二日でデンマークのコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで
飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない
“夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。

トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが
一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色
と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、
3〜4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ
であった。             (H11.12.10〜12.15)

・・・・・・
写真
https://retrip.jp/articles/10962/
http://keiki-porori.com/archives/7892
http://4travel.jp/travelogue/10633722

録画
https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0

・・・・・・
5167,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜�
2015年05月08日(金)
  * 私たちの心は「判事」や「科学者」ではなく「弁護士」を雇っている
 ネット検索で、「科学者」「弁護士」と入力したら、以下の内容が出てきた。
心の内なる弁護士は、時にご主人様のため、盲目になってしまい暴走、歯止め
がきかなくなる。そこで、科学者や判事も同じ力量を置かないと、極端の個人
主義者になってしまう。 〜まずは、その辺りを抜粋〜
≪ この世に産れ落ちるあなたに、神様から
「二つの人生のどちらかを選択しなさい」と言われる。どちらを選ぶ?
 �生涯究極の正直者を貫き通すが、ならず者だと思われる。
 �常習的な嘘つきなのに、模範的な人物と見なされる。
「徳が高く見えるか?」「実際そうであるか?」は、このように大きな違いだ。
現実として、皆、どちらを選んで生まれただろう? 哲学者グラウコンのように、
大抵「人々は現実よりも見かけや評判に、より大きな注意を払う」 これは長い
歴史の中で、私たち先祖が生存競争に勝利するにあたり、真実と名声のどちら
が重要だったと考えたかを表している。人は人の見えないところでは、正直
とは言えない。少数の腐ったリンゴが倫理社会をダメにしているわけではなく、
人々の大多数がほんの少しずつズルをするからこそ、この世界は危いと言える。
おまけに、始末が悪いというか、ほとんどの人が自分の誠実さを疑わない。
つまり、自分がした行為の正当化に恐ろしく長けているのだ。
 私たちは心に「判事」や「科学者」を雇っているのではない。
 私たちは心に「弁護士」を雇っているというのが、本当のところだ。
だからこそ、グラウゴンは言う。倫理的な社会を築くためには何が重要か? 
「あらゆる人々の評判がつねに皆の目に入るようにし、不正な行為がつねに
悪い結果を生むようにすることだ」と。心の「弁護士」とは「思考」のこと。
思考の中心的な役割は、他人に対して説得的な理由や、いい訳を提示するための
準備を整え、振る舞えるようにすることだ。事実自分がした選択を正当化しよう
とするプロセスはきわめて強力なので、意思決定者は、何かを決めるに際して、
他人の説得のみならず、正しい選択をしたと自分を納得させるためにも有力な
理由を探そうとする。つまり私たちの中の優秀な弁護士は「自分自身をも説得
しようとする」のだ。道徳的な思考は科学者のような真理の探究より、政治家
の票集めにはるかに近いと言える。たとえば、人は論争になると、ほとんど
考えを変えようとしなくなる。心は論争相手から遠ざかろうとし、挑戦を
むきになって論駁しとうとするのだ。とは言え、心は絶対的な独裁者でもない。
もし相手に愛情や敬意を抱いていれば、心はその相手に歩み寄るし、理性は
相手の主張に真理を見いだそうと務めるだろう。・・ ≫
▼ ここで、弁護士とは「思考」というが、判事、科学者、弁護士との
 裁判のやり取りが「思考」だろう。それと、傍聴席の視線の想定も重要。
日本では、�の人を極端に嫌う。尻尾を出していても、�の人を好む。
一神教なら、規範が明示されているが、訳の分からない世間教徒の日本人は、
あいまいな�になるしかない。で、殆どは? 人生の最終晩年に我にかえる。
人生の節目に常習的嘘が暴発し、「まさか、あの人が!」と、正体を現す。
・・・・・・
4802,年金破綻報道の罠 ー�
2014年05月08日(木)
  <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論> 
              ー細野真紘(2014年の論点100)
  * 年金は安心!を、まとめると
 年金は、あくまでも老後生活の補助金。あまり知られてないが、現役世代が
圧倒的に多かった数十年間で、積立金が120兆円もあり、それを取り崩せばよい。 
現在の年金の支払いは、現役世代の年金収入以外にも、税金からも支払われる。
巷で言われている、1970年の20〜65歳年齢対65歳年齢が8・5人対1で、2050年に
1・2人対1としても、今まで計画的に積み立てられてきた年金基金と、税金を
加えればよいことになる。楽観的だが、一理はある。正社員の比率が減る中で、
厚生年金に加入できる人が減っていることが大問題。今後、高度成長も望めず、
国家の体力が弱っていく中で、楽観視は出来ない。しかし、この年金制度が
無かったとしたら、10年、20年先の若者は、大変。最悪の想定で、両親2人と、
その両親の親4人、合計6人の面倒を見るケースも、ありえる。多くの紆余屈折
を経て、それなりのカタチになっていくが、悲観だけをしても何も得ることは
出来ない。ここで取り上げてきた基本的知識を、国民は、あまり知られていない
ようで、より丁寧な教えが必要のようだ。40年以上の厚生年金を夫婦してかけて
きて、手取り25万では、何か釈然としないが、それでも大きは生活の柱である。
逆に、夫婦二人で、国民年金だけの収入で手取り11〜2万では、生活保護にも
満たない。 核家族化の中で、子供からの援助も当にできず、ハイパーインフレ
にでもなれば、アメリカの貧困層のように救済センターに食事のための行列も
現実になりかねない。私も、半年前までは、倒産など、思いもよらなかった。
家内も、私の実家も、堅実な家柄だったので、厚生年金や、万一の備えをして
いたので、何とか生活の質を落とさないでいるが、一つ間違えれば、大変の事態
になるところ。生きていく上で、お金は健康とともに大切である。それから
自由になるには、長年の時間をかけての準備と、蓄積が必要。老いれば尚の事、
たかが年金、されど年金。たかがお金、されどお金。それ以前の知識も・・
 で、120兆の年金基金も、日本国債とアメリカ国債に化けているとしたら、
どうなる? 国家あってこその個人である。
・・・・・・
4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −5
2013年05月08日(水)
 * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道    
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が
 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、
年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。
しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、
「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、
それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、
千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い
がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは
時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を
感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って
いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ
主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。
過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、
エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア
ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。
今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての
時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、
もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは
死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて
いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は
過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に
つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか
死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の
時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫
▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。
 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ
後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去
も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は
奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な
限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを
考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を
考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、
この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか
活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
・・・・・・
4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
 * 我事に於て後悔せず。  宮本武蔵「五輪書』より   
         ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。
一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?
のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に
於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己
批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。
別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ
お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は
語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の
行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう
では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは
できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた
かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ
だと、どうして思うのか。』スタンダール「パルムの僧院」これぞ言葉の中の
言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは
ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること
の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。
 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは
 あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。
 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に
 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に
 たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、
 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、
 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ 
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人
 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就
しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を
押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。  
後悔は、実践の中では後々、害になることもである。


5531,閑話小題 〜たかがプライド、されどプライド

2016年05月07日(土)

   * たかがプライド、されどプライド
 誰も心の奥底にプライドを持っている。それも中途半端な誇り。
それは中途半端に傷ついた経験しかないため。しかし何度も傷つき、立上がる
中で、中途半端な誇りの底が抜けて、虚無に通じていく中で、本物の誇りに
鍛えられる。若い時の誇りは、まだ柔でしかない。
 〜まず、「プライドとは何か?」を格言から考えてみる。
 ―――
☆ 「プライド」と「お金」だけは、何があっても守り抜くのよ
                ー朱子(ベニス)『君が主で執事が俺で』
☆ プライドだとか恥ずかしいとか、そんなつまらないことにこだわらないで、
 仕事も恋愛も、自分からどんどん扉を叩くの。そうすれば、もっともっと
 新しい扉が、開いてくるわよ  ー加賀まりこ
☆ 親はなぜ学校に行け、というかと言うと、行かないと子供の将来に
 かかわると思うから。しかしそういう親には、子供は学校でいじめられて
 死ぬほどつらい気持ちを正直に言えない。子供には、かわいそうなくらい
 プライドがあるから、土壇場になるまで言わない。子供が恥ずかしさを
 忍んで訴えたときは、ほんとうに追い詰められたときです。
 場合によっては、休学、転校してもいいんですよ  ー里中満智
☆ 女の想像をこえて、男はプライドに命をかけるものなの。
 むしろプライドに命をかけられない男は、男じゃないわ 
                   ービアンキ『REBORN!(リボーン)』
☆ 些細なことであっても、オーバーに感動してあげましょう。たった、
 それだけのことでも、相手のプライドや自尊心にかかわる一番の欲求を
 満たすことになるのです       ージョセフ・マーフィー
☆ 自信のない人ほど中途半端なプライドにしがみついて、謝ることができない。
 ここで謝ったら、自分の人格が全部否定されると思込んでいるのですー中谷彰宏
☆ 仕事へのプライドほど貴重な財産はない ーメアリー・パーカー・フォレット
☆ 僕は人の質を決定するのは、その人が自分にプライドを持っているかどうか
 だと考えている。他人に見せるプライドではない。自分自身への誇りである
                    ー連城三紀彦
☆ プライドを捨てるプライドを持て   ー作者不明(格言)
☆ 人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ
 事があります、と言い切れる自覚ではないか    ー太宰治
☆ 女の喜びは、男のプライドを傷つけることである ーバーナード・ショー
☆ 物事は万事「必死に打ち込んだ」経験が必要なんだよ。
 それが人間の誇りを支えてくれるんだ      ーいしぜきひでゆき
☆ 失敗は誇り。それだけリスクを冒したということだから 
                       ーベンジャミン・ローゼン
☆ 人生は決して後戻りできません。進めるのは前だけです。
 人生は一方通行なのですよ         ーアガサ・クリスティ
――
▼ 5年前の会社整理で深く実感したことは、リスクを冒さない人ほど、他者の
 失敗に辛辣になる。特に組織人ほど、それが強い。思いの外、平気だったのは
その大きさに比例した必死な打ち込みをしてきた実感があるため。 だから、
目先の心が折れても?魂までは折れなかったようだ。プラモデルと同じ。
創りあげ、軌道に乗せただけで、元がとれた実感がある。批判者のそれは、
その経験がないから、上っ面の批判になる。成るほど、「失敗は誇り」である。
挫折を重るほど、芯のプライドが強くなるのは、リスクへの恐怖を乗越えたため。
 ところで、軟弱なプライドも、最後の砦の中の拠りどころで必要ではないか!
  で、偶然だが、以下につづく。 成るほど・・
――――
5166,閑話小題 〜心は科学者か弁護士か 〜①
2015年05月07日(木)
   * 心は科学者か弁護士か
 心理学者いわく、《 真理にたどり着く方法は二つある。科学者の方法と、
弁護士の方法だ。科学者は証拠を集め、規則性を探し観察結果を説明できる理論
をつくって、それを検証する。弁護士は、ほかの人たちに納得させたい結論から
スタートし、それを裏づける証拠を探すとともに、それに反する証拠を斥けよう
とする。人間の心は、科学者と弁護士の両方で協力するようにつくられている。
つまり、客観的真理を意識的に探し求める存在であるとともに、信じたい事柄を
無意識に熱を込めて主張する存在でもある。これらの二つの方法論が競い合う
ことで、わたしたちの世界観は形づくられている。》
▼ 科学者が帰納法、弁護士が演繹法、と解りやすい事例で説明したもの。
これから引出されるキーワードが、判事。正・反・合の合である。居酒屋など
での誹謗中傷は、ヤリ玉の対象を酒の肴に、内なる科学者、弁護士、判事が、
掛けあいで肴に談義すること。心の中では、自分を正当化する弁護士が有利だが、
誹謗中傷では、判事が絶対優位に立つ。他愛のないものだが、それが、その連中
のレベルの内容で、そこの子狐の役回りが仕入れたネタに尾ひれはひれをつける。
それらをヘドロという。その意味では、城下町はドブ沼そのもので、そのガスは、
強力な破壊力を持つ。だから、近寄らないで、ここまできた。実は、そのガスで、
自分自身が殺されていることさえ分からないため、断絶の時代の中で、烏合の衆
として生きるしかない。その老いた醜悪が増長し、周囲を悩ます材料になる。
 そういう人たちの初老性鬱病(良い人仮面病)ほど哀れなことはない。何せ、
一生をかけて偽善の仮面を被り生きてきたのだから! 露悪でいくか、偽善か?
・・・・・・
4801,閑話小題 ー朝日新聞デジタル
2014年05月07日(水)
  * 朝日新聞デジタル版
 以前から、迷っていた朝日新聞のデジタルに加入。
現在のキャンペーン中に、申し込めば新聞代プラス500円の追加料金で済む
(平常は、千円)。別にパソコンで見る必要もないと思ったが気になっていた。
最低期間が半年で、月初めなら、その月が無料で7ヶ月間なら、試してみる
価値があると判断した。で、三日経ったが、これが正解。記事の一つを
クリックすると、そこだけがクローズアップする。更にテキスト記事に転換
可能で、スクラップも出来る。間違いなく、新聞紙を手にとって見るより便利。 
これがプラス500円ならお勧め。朝食前後に、一度、全体のページに目を通し、
昼飯か、夕食時に、印象に残ったところを、いま一度、目を通していたが、
スクラップは、ほぼすることはなかったが、これからはする!また、一日単位
でタブレットなどにダウンロード出来るので、ネット環境が無くても、持ち
運び見ることが出来る。 また家庭内の他のパソコンからも、手軽に記事に
目を通すことが可能である。現在の私は、書斎と寝室にいる時間が多いため、
何度も、気楽に、記事に目が通せるところが良い。実感で、読む時間が
今のところ、二倍になっているが、数ヶ月後には3〜4倍にはなるのでは? 
ページ一覧も可能で、一面、社会、政治、経済・マネー、国際、スポーツ、
カルチャー、オピニオン、などから、記事を拾うことが出来る。紙面が、
そのまま、ビジュアル化して見ることも出来る。 その文字の大小も選択
できるところも良い。紙の新聞を見た後に気楽に読むのに最適ということ。
これまで30分読むか読まないかだった、iPadか卓上なら、プラス30分ぐらいは、
読むのでは! 日中、居間と書斎と寝室のTVとパソコンの間を流離う身に
とって、紙聞紙の持ち運びから解放されるのは、大きい。加入を家内に告げると
、まず大きく拒否反応を示したが、これは何時ものコース。一番、これを
読むのは間違いなく、本人になるが、それが分かってない、何時ものコース。
今まで読まなかった、連載小説や、読者の声の、コーナーを早速、読み始めて
いる。新聞社も、紙面+デジタル版のカタチで生き延びようとするのでは。
月刊誌も、店売りの他に、宅配にして、デジタル版を100円+すればよい。
それなら「新潮45」か、「文藝春秋」を購入するだろう。 それにしても
デジタル版は良い! 他に、雑誌の幾つかが読み放題の「ビューン」に
入っているが、これも良い!
・・・・・・
4434, サードマン現象とは
2013年05月07日(火)
 母親が晩年になってから、たびたび「私には守護霊がいる。それは子供の頃
に亡くなった父親。何時も私を見守ってくれ、いざ何かあると、私を良い方向
に導いてくれる」といっていたが、気持ちの問題だろうと聞き流していた。
また先日亡くなった将棋の米長邦雄が講演で、「何時も父親の位牌を布団に
持ち込み、父に話かけていた」というのを聞いたことがある。 
 先日のNHK教育(PM7:00〜7:40地球ドラマチック)で、サードマン現象を
再放映していた 。これはジョン・ガイガー著「奇跡の生還へ導く人ー極限状況
のサードマン現象)をインタビューなどで編集したもの。で、その概要とは・・
◎ 9・11の世界同時多発テロで、ニューヨークのワールドトレードセンター
ビルに旅客機が二機衝突した事故で、最後に脱出した1人は、煙が立ちこめ
瓦礫に阻まれた階段を下りられず、もうダメだと諦めかけた時、どこからとも
なく聞こえた声に従い、突き進んで命を救われたとか。
◎ 多くの登山者を飲み込んできたヒマラヤのナンガパルバットに初めて
 登頂したヘルマン・ブールを危機の中、励ました声。
◎ アメリカ大陸からヨーロッパ大陸へ、人類初めての単独飛行をした
 リンドバーグを支えた声。
◎ アメリカの宇宙士が極度の緊張の合間の休みに神のような何かの存在
 を感じたとか。生命の危険にさらされた苛烈な環境の時、自分を奮い立たせる
 声を聞く能力が備わっているというのが「サードマン現象」といわれ、その
「第三の人物」は、その極限状況を克服するために精神的な助けをしてくれる。 
 この現象は、かつて神や守護天使とか守護霊として受け止められることも
 多かったが、現在、それを人間の生理的・心理的機構が生み出した幻だとも
 いわれる。過酷な極限状態において発動する右脳の原始的?スイッチの感じ。
 知らない誰かや父親、自分自身、守護天使、などがそこに存在する感覚という。
 脳は危機的な状態や生命の危機が起きたり、体験すると「潜在的脳力」が働く。
 私たち人類の先祖は過酷な自然の中で、獲物を狩ったり果実を採取してきた。
 20万年前の人類の先祖は「サバイバル」の極限の中で、恒に「サードマン現象」
 が起きていて、これらの遺伝子が先祖代々受け繋がられ、現代人にも存在して
 いると、考えられる。以前は450年前の先祖の堀井宗親という仮身を、現在は
「地球の中心点」を擬人化した「球芯様」と、両親の霊を話し相手にしている。
 それは自分の魂の仮身である。 この「球芯様」、最近は、ヨガの最中とか、
 夜半のベッドで囁きかけてくる。それが、思いもよらない問いかけをするから、
 面白い。 また、幾つかの創業の時など、極限の状態に自分を置くと、何故か
 異常な力が湧き出てくる。火事場の馬鹿力というか、底知れない力が自分の
 中心から立ち現れくる。原始的、動物的知恵と力で身体も心も浮いたように
 勝手に動き出す。誰にも経験があるはずだ。 以前、家内が世田谷と同じ面積
 のある、ポンペイの遺跡で、迷子になってしまった。それも日が暮れる直前。
 警察は来るは、遺跡のスタッフが総出で捜索に当たるは、現地ガイドと添乗員
 は、青くなって駈けずりまわった中、色々あって本人は一時間先にあるホテル
 に何とか帰りついていた。何かの折に書くが、いざとなると、異常な力が
 湧き出るということ。 サードマンを創って話相手も面白い、是非お勧め!
・・・・・・・
4060, 要は、受け止め方である!
2012年05月07日(月)
 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも
解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生と
脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 
 中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 
人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。 
これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。
受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、
これからの人生の方向を変えることになる。そのために記憶さえ変えるのが
人間の業。 それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の
絶対量が必要になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろう
というもの。「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、
運そのものが意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 
「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果
としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 
知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。
初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の
失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 
おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちる
ように衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。無理?
 ・・・・・・・
3694, 自己を見つめる −16
2011年05月07日(土)
  * 幸福について (不幸について) ー3  
            「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 加えて、そうした無事安全な生活の場の確保に立脚して、更に誰もが、
この世に生まれた以上、自分の生きがいがある。・・略 しかし、そのために、
人は、その自己拡充を念頭において、たえず日夜、精励しなければならないで
あろう。というのも生き甲斐の達成は、いろいろな面で課題や試練や困難や
障碍に出会って、これを克服する努力の連続に置き換えられてゆくから。 
格闘することなしに、人生の実りは結ばないというのが、この世の鉄則である。 
実際、存分に生き抜いたという生き甲斐にみちた幸福感は、それなりの自己
集中や犠牲や断念や労苦の代償のもとでのみ、初めて獲得されるのである。 
けれども、いかに精進したとしても、非力で有限な人間には、完全な意味での
幸福感はけっして与えられえないであろう。考えてみれば、生きているという
ことは、まだなすべきことを残しているということと同義である。
なすべきことがなくなった人生は、死と同義である。生きるということは、
欠如の意識にもとづき、それを充足させるという運動と情熱において成立する。 
その情熱は、充実に向けられている点では、たしかに、憧れにみち、その実現
状態を夢見ていて、幸福感に浸っているであろう。けれども、その意識が、
目下は自分にその充実がいまだ与えられておらず、また、あらゆる意味での
完全な充実が人間には不可能であるという自覚に伴なわれたとき、それは、
そのまま、不幸な意識に転じるであろう。したがって、人間には、生きている
かぎり、終息した絶対的安寧としての幸福感は、与えられず、叶えられず、
許されず、その意味で、人間は、終生、不幸であろう。・・・ 】
▼ 不幸論という本もあるほど、人間の本質は不幸である。最後は死ぬことを、
 二人称の死の経験をして、洗脳されているためである。その人によって大かれ
少なかれ、不平不満、神経質、我執、理屈を言い張る部分を持っている。
それが膨張すると、周辺に諍いをぶつけていくことになる。それが不幸の大きな
要因になる。 そうこう考えると、不幸は体質もある。それは血筋、家系にも
関係してくる。どっちみち、一生の間には谷あり、嵐が襲ってくる。 
それを乗り越えるのが、人生。そのプロセスこそ人生である。そう割り切って
しまわないと、冷静に立ち向かうことができなり、破滅が待っている。  
 ・・・・・・・
3329, 草食系で何が悪い!
2010年05月07日(金)
 昨夜のNHKのゴールデンタイムに「草食系で何が悪い」というテーマで
激論を交わしていた。現代の若者と、社会の一線にたっている人たちの議論。 
見ていて食い違いがあまりに大きい。我が家も含めて、何処の家庭の親子の
食い違いも、こんなものだろう。 現実世界の将来を見出せない若者、現代の
若者にはネットという別世界があり、自己実現がネットの中に存在している
のである。なぜ現実世界の中の価値観に縛られなければならないのか? 
そこでは、明るい未来が抱けない、という彼らの立場もある。とはいえ、
彼らの相手は外国の同じ世代である。 それが現実世界の中で闘っている
人たちには見えている。 アメリカの間接占領による「日本の植民地化政策
による無能化の完成が、彼らの姿」である。 その自覚があるのかないのか。 
アメリカの補佐が実は日教組であり、更にいえば自民党であり、官僚。 
偏差値による選別教育の結果である。 
 ーまずは、NHKのHPから、この番組の紹介をコピーしてみるー
 * 日本の、これから「草食系で何が悪い 若者と語るニッポンの未来」
ー内容ー 車やブランド品、酒、海外旅行離れが進み、大人しくなった、
  内向きになったと言われる最近の若者たち。
  彼らの本音は? 日本の進むべき未来について語り合う市民討論番組。
ー詳細ー かつての若者のあこがれ、車・ブランド品・海外旅行に、興味を
  示さない20代の若者たち。「おとなしくなった」「内向き」
  「草食化した」などといわれ、欲がないように見えることから「悟り世代」
  といわれる。一方でブランドものに頼らない、環境や社会問題に関心が
  深い、地元に愛着を持って昔からの友人と長くつきあうなど、日本が
 「成熟」した証という見方もある。若者たちの本音は? 
  日本の未来について語り合う討論番組。
  ――
 長年かかって完成した現代の草食系若者、そう簡単に動物系には変えることは
不可能である。韓国、中国、ベトナム、インドなどの若者の目の輝きと、日本の
若者の目の輝きの差は、あまりに大きい。彼らは、日本が一番豊かな絶頂期に
生まれたが、大人に育つ過程が失われた20年といわれる時代背景の中で、
希望を持てと言われても、無理なのは分かる。 この数日、大前研一著の 
<「知の衰退」からいかに脱出するか?>の読書日記を書いているが、まさに、
大前研一と若者、の図式が、この番組に出ていた。10年、20年後の日本は暗い!


5530,若者よ、外に出よ! ー⑩ 日本には限界がある

2016年05月06日(金)

               『人生の教科書』なかにし礼著
  * 日本だけでは限界がある
 40歳前半までは、自宅に中・高の二人の息子がいた。そこで、行くところ
といえば国内の自動車旅行が中心だった。その二人が学園生活のため、上京
していったのを機会に、海外ツアー切替わっていた。その非日常の面白さに
惹かれたのが家内もである。一人では躊躇する秘境・異郷でも、家内と一緒だと
何とか行ける。また、非日常の中に家庭の日常を持ち込むのも慣れてしまえば
悪くはない。 夫婦してのホテルのレストランの朝食が何とも豊かな気持ちになる。
 学生時代の昭和42年に、大学の「海外旅行研究会」というクラブが企画した
『世界・30日の旅』の存在を知り、行ってはや、49年になる。当時の海外旅行者
は20万人。信じられない数だが、これがツアー観光の愛好者になる切欠となる。
何もかもが新鮮で、ただただ面白い経験だった。人生観が一変した経験である。
 なかにし礼の、以下の内容には大いに賛同するが、自分では書けない。
書けば上から目線が、露出する。 しかし、事実は事実である。
≪ 旅に出るならば1日でも早いほうがいい。自分の感受性が全部そこで
 晒されて、カメラにたとえるならいろんな映像を受け止めていることになる。
そのインプットは大きいものだ。そのインプットは日本にいてもできない類
のものなのだ。これは賭けてもいい。日本という国には限界がある。
刺激の限界だ。食べものだけ見ても、なんの刺激もない。それが日本の料理
だといえば、それは確かにそうだ。だが世の中の料理はそれだけではない。
「肉じゃがを作れる女性がいい」、とか言う男がいる。こういう人も旅行を
していない男と思う。世界の味を知らないからこうした面白くない発言になる。
 北アイルランドのジャイアンツ・コーズウェイにも肉じゃがはある。
それはスープという形で出てくる。肉じゃがの原型はビーフシチューだが、
これはさらにその原型だと言える。牛肉と芋が入ったこの肉じゃがの原型を、
現地の黒いビールを飲みながら食べる。これがうまい。明らかに元祖の味。
日本の肉じゃがよりも断然おいしい。だから日本は食事にしても、もっと研究
しなければいけないと思う。日本の文化は確かに素晴らしいものがあるが、
そこに踏みとどまって進化をストップしていい理由にはならない。・・(略) 
日本人のいいところはいっぱいある。創意工夫とか、細かいことに関する
こだわりとか・・ しかし、一方では何かにつけて「疑いを持つ」ことが
非常に罪悪視される環境になっている。それで画一的な価値観を植付け
られて、「肉じゃがを作れる女性がいい」などという頭になってしまう。
これではもったいない。
 だから若者よ、疑いを持つために旅をしなさい。
 そしていろんなものを自分にインプットする。
 インプットしたらさらに視野を広げて守備範囲を広げる。
 そうしないとインプットする内容も尽きてしまう。
だから何度も言うように、限りない欲望と探究心、好奇心を持ち続けないと
いけない。それは、夢という非日常の世界を見続けるためである。
寝たときにだけ夢を見るのでは寂しい。目醒めて、そこで夢を見るべきだ。≫
▼ 何度か書いたが、成田へのスカイライナーに乗って暫くすると、
「あ〜帰ってきた!」という妙な感覚になる。そこから非日常の刺激の強い
時空になるため、その蓄積が、磁石となって、旅を誘い、その非日常の世界が、
真なる時空、真実の自己であるような錯覚をもたらす。だから、別腹の
世界を自分の中に持っていて、暇な時間にトリップすることが出来る。
この現実世界に、世間の常識に対し、疑問を持ち続けることが出来る。
<目醒めて、夢をみることができる> 

・・・・・・
5165,閑話小題 〜一昨日で、まる14年になる
2015年05月06日(水)
  * 一昨日で、まる14年になる
 この随想日記を書きはじめて満14年目になる。その頃、通勤途中の長岡駅裏
近くにパソコン教室がオープン、渡りに舟で通うことにした。予め、「私の希望
は個人のHPを開設し、続けることと、ネットサーフィンを楽しみたいこと」
と、ハッキリしていた。丁度、ブログなるものが普及を始めた頃でもあった。
満14年となると、2001年5月で、9・11テロの4ヶ月前である。この頃から、
ブログが普及を始め、携帯電話の高度化も含めて世界が一変を始めた。
毎日毎日、傍からすれば、どうでもよいことを、飽きもせず、書き続けた
ものだが、あれだけ文章化が苦手だったのが、日を追うごとに面白くなって
いった。人間は、誰もが自分の話を聞いてほしいもの。書き始めると、周辺の
人が、毎日のように見てくれるようになった。そのため、力が抜けなくなる、
それが最大の効果と気づいた。それならと、読書日記などを中心としたHPと、
何気ない思いを書連ねるブログに、分けることにした。書き続けていると、
その積み重ねの効果が実感できるのが良い。それと習慣の力を実感する。
月に1〜2度、この数日もそうだが、書くテーマが思い浮かばなくなる。
しかし、習慣の力で、14年も続けていると、その乗り越えかたが、身に
ついていて、馬鹿力が湧き出てきて、普段より面白い文章が書ける。
次の目標は、あと6年の、まる20年間になるが、生きているかどうか?
とすると、まず来年のゴールデンウィークが目標になる。
 毎年、この時期には同じような文章を書いてあるのだろうが!
・・・・・・
4800,年金破綻報道の罠 ー②
2014年05月06日(火)
        <世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論>
                 ー細野真紘 (2014年の論点100)
  * 基礎年金と、厚生年金と、老後の預金
 あくまで年金は老後生活の資金補助の位置づけ、とは知らなかった。
まず、老後の預金に、基礎(国民)年金が加わり、最後に厚生年金が加わる。
これを40年にわたって、かけてきたかどうかで、既に老後格差が、ついて
しまっている。父親の代から、連れ合いに別立てで給与を与え、健康保険と
厚生年金をかけるのが当然のようにいっていた。それは私の知識・知恵ではない。
 ー以下の部分は、年金を分かりやすく要約してあるー
《 ◎ まず国の年金は、大きく2種類があるのです。 1つ目が「自営業者」の
 「国民年金」です。中小業者は定年がないため、60歳以降も収入を得ることが
 できます。そのため、年金をもらうための保険料は(会社員などと比べると)
 安くなっていて、給料を預貯金に回せる割合が多くなっています。その老後
 にもらえる「国民年金」は満額で月6万6千円程度。つまり「自営業者」の
 ための「国民年金」は、「弁当」でいうと保険料を安くして、老後は最低限の
 「お米」だけもらえる位置づけで、「おかず」については60歳以降に働いた
 お金で買ったり、それまでの貯蓄で買ったりできる。
◎ その一方、「会社員」の場合は定年退職のため、定年以降は、収入を得る
 ことが難しくなってしまいます。そのため、会社員の場合は、現役時に(自営
 業者よりは多めに保険料を払うことで、国から「厚生年金」を死亡するまで
 受けとれることになっているわけです。これは「弁当」でいうと、会社員は
 定年があるので、現役時に(自営業者より)多めに保険料を払い、引退後に
 死亡するまで、国から「おかず付の弁当」をもらえるようにするものなのです。
 その「厚生年金」は月16万円程度となっています。合計で22〜3万になる。
 ちなみに、公務員の場合も会社員と同じ定年制になっているため、「共済年金」
 は「厚生年金」と同様に「おかず付の弁当」となっています(厚生年金と共済
 年金は分ける必要性が乏しいため、一元化する方向に向かっています)。
◎ 今では日本は「世界一の高齢化率」で、世界で最も65歳以上の割合が多い国
 となっています。そして、国の年金制度は仕送り方式なので、「将来は年金が
 もらえなくなる」という声がよく聞かれます。そこで、「現在の少子高齢化で、
 年金は破綻する」という論を考えてみましょう。まず、日本も含めて世界の
 先進国では、基本的に国の年金は、個人が自分のため蓄える「積立方式」
 ではなく、現役世代が高齢世代を支える「仕送り方式」です。そのため、
 テレビなどでは図表を使い、もっともらしく"年金破綻論"が展開されている。
 「今の年金制度は仕送り方式で、2010年現在では現役世代2・6人で高齢者1人を
 支えている騎馬戦型が、高齢化のピークの40年後には現役世代1・2人で
 高齢者1人を支える肩車型になる。こんな仕組は破綻する!」 これは一見、
 もっともらしく思えますが、実は単純な「ひっかけ問題」にひっかかってしまう。
 まず、国の年金制度は「仕送り方武」ではあるのですが、この「仕送り方式」
 にも「ひっかけ問題」が潜んでいて、多くの人は「これまでの保険料が、
 すべて高齢者の年金に支払われている」と錯覚している。ただ、現実に、
 そんなことになってなく、かっての現役世代が多かった時の保険料については、
 きちんと今後の年金の支払いに備えて国が「年金積立金」として保有してある
 わけです。そして、なぜ日本ではこのように極端な人ロ構成になっているのか、
 というと、「団塊の世代」の存在などの特殊要因があるためで、そのため
 「年金積立金」も世界一の水準にまでなっているのです。さらに年金の財源は、
 保険料だけではなく、あくまで「国の保険の仕組み」なので、財源として
 「税金」も入っているのです。 》
▼ ネットで積立残高を調べてみると120兆円あったが、問題は多くが日本国債に
 ばけていること。また、年金支払に税金も含まれていることは全く知らなかった。
だから、さほど心配する必要がない? 私の場合、家内も厚生年金に40年近く
入れていたので、合計で税込で350万(税抜きで300万余り)。持出しが
家内の預金から年間で??万になるが、地方もあって生活には不自由はない。
欲しいものや、旅行も、外食も、現役時代に十分、楽しんだため、TV番組で
追体験をしながら見ていれば充分。 中小企業者や個人営業の場合は、別立て
預金は当然のことで、敢えて言うことでもはない!でも、周辺で、してない人が
多い? また、保険屋と証券屋に騙されていたことすら気付いていない? 
他人事ではないが。今さら年金の話題に熱中するようじゃ、B層もいいところ? 
まあ、面白いが!
・・・・・・
4433, 閑話小題ー次のグーグルの新製品が面白い
2013年05月06日(月)
   * 次のグーグルの新製品が面白い
 ニュースでグーグルの次世代端末「グーグルグラス」を紹介していたのを
Youtubeでみたが、これは面白い。メガネのフレームの上部だけの柄に
超小型カメラがつけ、視線が、そのままネットの生中継で世界に配信される。
見知らずの人の視線が、そのままリアルで見れる面白さは格別。これは視覚の
ツイッター。「カメラ、ビデオ」と発音すると、その機能が立ち上がり自動撮影
するという。これをグーグル・アースに繋げると、アフリカや南米のある地域を
クリックし、見たいシーンを打ち込むと、誰かの目線が現れ出てくるのだろう。
ジンバブエのバンジージャンプが見たいといえば、飛び降りる画面を生で見る
ことも可能に? 日本橋三越本店の客か、店員の目線のアクセスも可能になるはず。
日本で売り出されるのは来年辺りだろうが、これが当たり前になるとしたら、
まさにSF世界。 いや現在もそうか。他のメーカーも、こういう類の情報端末
が出してくるはず。情報端末の進化は止まることはない! 良いのか悪いのか?
   * 何歳まで生きたいですか?の質問に
 ある調査で、「あなたは何歳まで生きたいですか?」の質問に、60歳未満が
8・5%、70歳未満が15・1%、80歳未満が31・1%、90歳未満が54・1%、100歳
未満が60・9%、百歳以上が僅かに9・3%という。更に150歳以上は6・5%。
私なら、90歳未満と答えるが、酒の飲み過ぎで無理。それにしても意外な結果。
神様がいたとして、「幾つまで生きたいのですか?希望を重視しますから」と
問われたら、やはり90歳と答える。「寝たきりでも良いですか?」と問われれば、
躊躇する。元気が前提、いや絶対条件になる。死ぬまで10年間は、何らかの形の
介護を要するというから、80半ば?これだけ面白い情報が手軽に入手できる時代、
出来るだけ長生きしたいが、「生老病死」の苦痛を考えるとどうだろう? 
不摂生もあり、せいぜい7〜8年か。
・・・・・・
4059, つれづれに ーネット社会の現在
2012年05月06日(日)
  * 飲食店の漫画の棚 ーデジタル本の世界
 喫茶店や中華料理店のランチの楽しみの一つに、本棚の週刊誌か月刊誌を
読むことがある。 最近、店内に入ると、iPhoneかiPadで、その店が
契約したネット上の本棚にアクセスして色いろの雑誌を読むことが出来るという。
店は一月7000円を業者に支払えば店内のネットで雑誌が見放題になるとか。
よく考えるものである。前回、70冊の蔵書をデジタル化にするため業者に
依頼したが、先日、久々に、そのHPを見たところ、デジタル化した本を
月980円で見放題のサービスを始めていた。 漫画が中心とあったので、
契約はしなかったが、これも面白い企画である。現在、私が契約しているのは、
朝日新聞のデジタル版と、朝日、毎日の週刊誌など数十冊が読めるビューン。
朝日のデジタル版は月1000円の加算。ビューンは月480円。 もちろん
有料でアクセス出来るブログがあるが、写真集のデジタル本に有料でアクセス
出来るのがある。幾つか買ってあるが、次々に更新されているのが良い。
  * スマートフォンと、タブレット
 現在、スマートフォンが爆発的に売れているという。iPhoneが初めて
売り出された時に買ったが、画面が小さすぎて、インプットに戸惑って使いこなす
ことが出来なかった。そこで学んだことは、二代目以降の機種変更になってから
購入すること。それもあってiPadは、二代目のiPad2になってから買う
ことにした。スマートフォンが爆発的普及は、携帯電話が世の中を変えたように、
世の中を更に大きく変えるだろう。 それはゲームや、ブログ、ツイッターなど
書き込みや閲覧の端末にも使える。小ささが逆に便利な場面で有効になる。
電車や、車の移動とか、昼休みに何処にでも持ち歩けるからだ。何ども書いて
いるが、現在、普通の携帯電話とiPadを使い分けている。PCは居間の
TVの前と、仏間の書斎コーナーにiMac一台ずつ、とiPad、合計三台
を使っているが、その使い分けのバランスは非常によい。これに読書とTVと、
ペットのインコとくれば、お宅そのもの。図書館と、スポーツジムと、早朝の
ポタリングと、週二日の近くの店のランチで息抜きをしているのが日課。 
これまでのスリルとサスペンスのストレスが少ないのが、逆にストレスである。 
 ・・・・・・・
3693, 自己を見つめる −15
2011年05月06日(金)
  * 幸福について (不幸について) ー2  
                「 自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【 不幸は、その出来事の客観的説明の当否のいかんを越え、また、その人の
 主観的資質の鋭敏さの度合いのいかんを越えて、その人に、いやおうなく襲い
かかる絶対的事実である。 不幸は、その人の時間的歴史的な人生遍歴の過程の
なかに突如、痛苦を与える刑罰として立ち現れる、不可抗的な不倶戴天の敵。
不幸とは、その人を根底から震憾させる苦悩の化身である。そうした不幸は、
この世の中のいたるところで、不運、事故、災難、災害、病気、心痛、貧困、
労苦、不遇、虐待、軋礫、失敗、挫折、対立、不和、紛争、戦争などの種々
様々な姿において、たえず出現の隙を窺っている悪夢である。したがって、
不幸は、ものの見方を変えることによって、消去したり、転換したりすることの
できるような、たんに主観的な事柄では断じてない。それは、深刻な苦難として、
この世の中に、乗り越えがたい障壁の姿で、厳然と存在する。それゆえに、
こうした不幸においては、何よりも、その出来事が、その人にとって、この上
なく不当で、許し難いものとして感受されるという点が大切である。
なぜ、自分は、このように、辛く、苦しい、耐えがたい悲惨や屈辱や困難を
課せられねばならないのか、どうして、自分は、このように、見捨てられ、
罵倒され、除け者にされ、迫害される憂めに会ねばならないのか、と、いくら
自問しても、その理由が分からず、ただひたすら、苦悶し、絶望するところに、
不幸と苦悩の本質があるのである。そのことは、旧約聖書のヨブ記のなかに
典型的に示されているとおりである。善人のヨブは、あるとき、理由もなく、
身の毛もよだつような苦難と不幸のすべてに襲われ、ついに、ヨブは、神を呪う
ほどの絶望と絶叫のなかに陥ってしまう。こうしたヨブの心境こそは、この世の
不幸と苦難に逢着したすべての人間が抱く感懐であり、苦悶であろう。・・・】
▼人の間で生きている人間は、他者と自分とを比較し、色々憶測する傾向を持つ。 
従って、大小種種の、不平不満、卑下慢心、確執や争いが、あらゆるところに、
絶え間なく起こる。 それは絶えず、出現を窺っている悪夢であるが、一度、
檻から出たら、本人とて抑えることが出来ない猛獣として暴れまわる。それが
他虐になり、次に自虐として、深手を負うことになる。ニーチェが度々引用した
ように「難破しながらも、よく航海したものだ」と授戒することが出来た人なら、
直ぐに次の新たな取り組みをすることができる。 しかし、意志薄弱者は、
ただ恨む対象を探し、そこに執着し前進が出来なくなる。その辺のことが理解
できないのは、それまで生きてきた中で経験を消化してこなかったことに
由来する。不幸は自分で招くこともある。


5529,若者よ、外に出よ! ー⑨ 会話は、プチ礼賛から

2016年05月05日(木)

               『人生の教科書』なかにし礼著
  * 対話ならいいが、どうも会話が苦手で
 リタイア後、、新しい出会いの場が極く稀になった。スポーツジムとか、
数少ない飲み会の場で、話したことがない人との会話が出来ない。
学生時代に、カーネギーの『人を動かす』の <人を動かす三原則>や、
<人に好かれる六原則>などを読み、実践してみたことがあったが、
効果は抜群だった(後でコピー)。年齢とともに、これらを忘れていた。
 その一つが「プチ礼賛」の勧め。これに「ありがとう」の口癖を
加えれば会話導入は効果抜群のはずだが、何時の間にか脱落していた。
 早速、兄弟の49日法要で、久々に会った親戚との会話に「プチ礼賛」を、
応用したところ、会話が捗っていた。要するにリタイア後に、何もかも
メンテをすべきだったのである。 <会話は「プチ礼賛」でうまくいく>を、
ほぼ全文、コピペし、考える。会話は真実より礼賛に重きをおくべし。
対話は真実の交換、掘り下げということ。男は対話、女は会話が似合うが。
≪ 日常会話で必要な会話術とは、自己紹介に始まる。自分のことを、嘘を
 交えてもいいから、面白く話せるかどうか。自己紹介イコール自己表現だし、
相手に自分を理解してもらうのは一番大事なことだと思う。そうすると相手も
自己表現するから、お互いが理解し合える。そしてプチ礼賛をすること。
 パッと会ったときに必ず相手を褒める。これは、日本ではなく、外国の流儀。
外国では当たり前の常識になっている。周りがゴマをすっていると思ったと
しても、そんなことはかまう必要はない。たとえば、服を褒めるとその服を
選んだその人を褒めていることになるわけだから、「素敵ね、これ、いくら?」、
「1900円」、うわ1最高」と褒める。しかし、うわべだけの礼賛だと底が割れて
しまう。真実そう思うように自ら努力することだ。そうすれば顔に嘘は出ない。
なぜかというと、相手を喜ばせなければ話は始まらないから。
中には「服を褒めないで私自身を褒めて」って言う人がいるけど、よっぽど
ヘソ曲がりなんだ、そういう人は。さて、人を褒めるときにほかに何を褒めれば
いいのか。実はなんでも褒められる。背が低ければ低いことを褒めればいいし、
背が高ければ高いことを褒めればいい。出身地を聞いたら、「あそこは大好き
なんですよ」と言えばいい。最初は嘘が混じっていてもいいが、次第にその
気持ちが本当になっていくものだ。だから人に会ったら、なんとなく褒め、
逆に褒められたら褒め返す。これはゴマすりではなくて、会話の糸口なのだ。
会話の小ネタといってもいい。そこから本題に入っていくときに、お互いに
気持ちのいいスタートを切るための潤滑剤だと思えばいい。≫
▼ 褒めるだけでは、ありきたり。そこで、「プチ礼賛」まで、心から褒め
 ないと相手の心は開かない。礼賛すると、みるみる、顔つきが変わっていく。
そうは礼賛されないため、心の奥から褒めると、それが礼賛になっていく。
好かれる前に、まずは人好きにならないと! それにしても、オバちゃんの、
あのフレンドリーは見上げたもの。 まずは褒める、その手際の良さ。
 ――――
  =人に好かれる六原則=
1.誠実な関心を寄せる
2.笑顔を忘れない
3.名前を覚える(名前は、当人にとって、最も快い、
 最も大切な響きを持つ言葉であることを忘れない。)
4.聞き手にまわる
5.関心のありかを見抜く(相手の関心を見抜いて話題にする。)
6.心からほめる(重要感を与える――誠意を込めて。)
 
・・・・・・
5164,パレーシア 〜真実を語ること
2015年05月05日(火)
  * ソクラテスのパレーシア 
            〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 危険を冒しながら真実をかたること。これがパレーシアだが、とはいえ、
社会において、その実行となると難しい。このブログを書き続けていると、
己の程度を曝け出し、多くの人を揶揄し傷つけてきた。気遣っていてもである。
想定の対話の相手を、数年先の自分にしているが、後で読み返し、第三者の
目を想うと冷や汗が出ることしばし。しかし、飾っていたら、長続きをしない
ことを自分が一番知っている。 〜以下の箇所は、哲学の本質を述べている。
≪ ソクラテスにとって最も大事なのは、相手をやりこめることではなく、
 自分の魂を磨くことであった。そのために命懸けで対話を行った。
この営みは「パレーシア」(真実を語ること)と呼ばれている。パレーシアとは、
危険を冒しながら真理を語るという実践を意味するギリシア語。ソグラテスが
裁判の際に立ち向かったやり方が、まさしくこのパレーシアである。
 たとえ心の中で真理が発見されたとしても、「私が思う」だけでは、それは
パレーシアとは無縁なのだ。パレーシアを通じた魂の鍛錬こそ、命のあるかぎり
やめてはならず、見返りを求めることなく、純粋な熱意に発した無償の責務で
あり、かつ、個人の内面的な人生訓にとどまるものではなく、結果的には他者や
共同体にとっても有益なものである、と考えられた。それゆえ、政治家になり、
ポリスを統治し他者の魂を気遣いたい者は、まず自分の魂を気遣うべきである、
とソクラテスは強調する。自分を気遣わない者は統治者としては不適格なのである。
ここには、身の魂の鍛錬に専心することが、他者や共同体を気導つことよりも
優先されるいという揺ぎのない確信が表明されている。 ・・(略)
ソクラテスの対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための(もしくは
認めさせるための)技術ではなく、相手に「問いかけること」、相手の主張を
「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この
「聞くこと」のための手法という点にあったのである。何かを「知っている」
から語るのではなく、何も知らないか、もしくは何ごともよく分かっていない
からこそ相手から何かを引きだそうとする。パレーシアの原点はここにある。
それゆえパレーシアとは「実直に語ること」ではあっても、単に一方的に
「包み隠さず語る」ということではない。ソクラテスのパレーシアは、政治家の
ように多数者に向かって語るものではなく、密接な一対一の関係が必要である。
またこの対話は、自分が主役としてふるまうのではなく、相手の話を引きだす
ようなやり方で行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分自身に
ついて語ることになる。 ここで、注意しなければならないことがある。
率直に語ること、もしくは相手の言葉に耳を傾けることは、後にキリスト教文化
ならびに精神分析においては、「告白」という形態をとって展開され、あたかも
地続きのもののように理解されることがある。だが、この両者は異なる。
パレーシアにとつて重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(つまり
論法と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである。≫
▼ 成るほど、飽きもせず、連日、書き続けているのは、いまここの私が、
 数年先の、いまここの私に向け話している実感があるため。そして、近未来
の自分の感想を想定することで、私自身を見つめることになる。これを公開
するのは、あまりに危険だが。また、公開しないと続かない弱さもある。
・・・・・・
4799,よくもここまで騙したな
2014年05月05日(月)
   「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ!
       ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」
            船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著)
 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている?
あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、医者の世界では、
今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。ー内容紹介ー  
〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている!
◎ がん患者1000人殺して一人前!
◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している
◎ 命を奪う、カネを奪う!  医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師!
◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ
◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療
◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった
  慢性病のときは絶対に関わらない方がいい
◎ 漢方も鍼灸も食事療法や整体療法も弾圧された
◎ マッサージ、カイロプラクティック、サイコセラピー、
  ホメオパシーも弾圧された
◎ 自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジーは
  全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った
◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた
◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィア
  にだけおカネを回すシステム
◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラー
  らに行き当たる
◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい
◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで
◎ 抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料
◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業  
◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界!
◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する
◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、
  利益率は何万%にもなる
◎ 白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという
  白血病の治療薬は、1グラム4800万円
◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ!  
◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!?
◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療
 というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき!
◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」と
 ベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の著者ロバート・メンデルソン
 はいっている!  だから病院が営業停止中には死人が減る!?
▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんな
 ものと気づくはず。医者にすれば、見送りの手助けだが、患者からすれば殺人? 
更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。
先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。
《人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール
199ー>254」「悪玉コレストロール119ー>178」「中性脂肪149ー>196」など、》 
「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。
この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が
見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、一般国民が弄ばれている図式が
透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が
目安と言う。ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。
『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ で、健康センター
で測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値から
すると、私は158が目安。140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。
これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団?
・・・・・・
4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4
2013年05月05日(日)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」
今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、
私は70億分に1。宇宙年齢からすると、人の一生は1億7125分の1の存在。そう
考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も
勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが
理解できるのが最期の最期とくる。そのことが分からないから、
「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー
≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。
 光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、あたかも静かに見える
特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊
な現象であることか。生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 
地球誕生から6億年経った頃。霊長類が誕生したのは、6千5百年前。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。中国その他で
文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。そういわれても、どれも
大きな数字すぎて実感がわかない。そこで試しに、137億年前のビヅグバン
を、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。
つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― 
・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 
・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前
 6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) 
・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 
・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 
・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。宇宙の年齢の、1億
 7125分の1。ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が
 170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの1・44×10
 の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、
 宇宙が経た時の1億7125分の1。時間の差は、空間の差よりもはるかに
 小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さい
 とお思いかもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上に
 ある人間の心の70億分の1に過ぎない。一億7125分の1はそれよりも
 約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでも
 ない。とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒。≫
▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
 可能性があると知って世界観が変わった。上記のことすら、問題にならない。
ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な
宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫、
70億分の1の自分。その象も、この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙
からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち!
・・・・・・
4058, B層の暴走と価値の錯乱
2012年05月05日(土)
 二年前の5月2日にー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー 
という文章を書いていた。(3日前の、ここにある)
 ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」
で、このB層の人たちを取り上げていた。選挙対策として、この層を的にして狙い
打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、
全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を
理路整然と論じた問題提起が以下である。
【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収)産経新聞5月4日
≪ ・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、
 西欧において 価値の根拠とされてきた《神の視点=普遍的真理》を設定する
ことが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や
民主主義といった近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底
にあるのは「神との距離において人間は等価」という信仰だ。近代大衆社会は
こうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 
また、《本当に価値があるもの》《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、
《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。
その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力
をもつようになってしまった。テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリ
タレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が専門外
のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。こうした価値の錯乱の
上に成立するのが《B層文化》だ。前回も述べたように《B層》とは平成17年の
郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに
踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 
この《B層》が現在消費者の主流になっている。そこでは大企業のエリートが
マーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れる
コンテンツを量産している。 ・・ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や
超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」  
畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》
は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。
そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。
ありとあらゆるプロの領域、職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を
導こうと決心する。これこそニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的姿。 
与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全
保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった田中直紀は素人以前の
「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に
進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という
問題が潜んでいる。
▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す
 世論調査がある。世論の大方を占めているのがB層の人たち。彼らは質問で、
どのようにも誘導可能。政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を
駆使する。その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が
「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。
この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた、しかし森林は
面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯する。


5528,若者よ、外に出よ! ー⑦ 大自然との邂逅の衝撃を体験しろ

2016年05月04日(水)

               『人生の教科書』なかにし礼著 
   * 大自然との邂逅の衝撃を体験しろ  
 ーピラミッドという衝撃を体験しろー のテーマから、さらに世界を広めた
ー大自然の神秘の衝撃を体験しろー のテーマが浮かんだ。ピラミッドは人間の
創造物だが、自然の神秘と美しさは、大自然自ら創った作品。その神秘の衝撃は、
魂まで振動が直撃する。 大自然には、山脈、大平原、滝、氷河、大海原、天空
のオーロラなどがある。 世界的遺跡など人間の創造物に驚愕するが、手つかず
の大自然の創造物にも驚かされる。『大自然は、自らの創造物を見たいため、
記録したいため、人間を創られた』というが、成るほど、納得することしばしば。
その幾つかの内の一つがギアナ高地。 〜ネット検索によると〜
【ギアナ高地を形成している岩石は、主に20億年から14億年前の先カンブリア
時代に堆積した砂岩や珪岩からなり、擬似カルストを呈し、巨大な縦穴の存在が
知られている。現在の形になったのは6億年前】とある。生物としての何かの記憶
が蘇るような懐かしい不思議な感覚。それは、現地まで汗し、辿り着いたから
こそ、味わうことが出来る感動である。己は宇宙の微細な地球の、小さな存在で
しかない実感が、その時、現れ出てくる。「現象界」と、「理想界」が、そこで
だぶって存在しているような世界である。「生きてきて良かった!」の実感が、
感動の後に、訪れる瞬間である。山は動かない、自ら汗して山にいけばよい。
――
H0909
ギアナ旅行記

 この数年、秘境の旅に凝っている!
そしてそれが深いほど新しい感激・感慨が大きくなる。
南米大陸の一番上に位置するベネズエラの首都カラカス。
そこより目指すギニア高地の基地、カナイマへ。更にそこから
オリノコ川の最大の支流カロニ川の上流に、秘境ギニア高地が
広がっていた。インディオの操縦で四日間にわたった
「エンゼルフォールを目指すアドベンチャー・ツアー」であった。
コナン・ドイルの“ロスト・ワールド”の空想小説の舞台となった
テーブル・マウンテンは、一〇〇〇m〜三〇〇〇mの垂直に切り立った
絶壁に囲まれた台地がいくつもそびえ立っていた。
そこより落ちる滝は多いときで二〇〇〜三〇〇にもなり、その中で
一番有名なのが、世界最長の落差のエンゼルフォールである。
その長さは一〇〇〇m、山道を一時間以上かけ登り、麓より見上げた
滝の雄大さ、神秘性は言い知れぬ迫力があった。
ここでは生物の生存がほとんど不可能であるという。
ボートでそのテーブルマウンティンの勇姿を見た時、魂を電流がつき抜けて
いったような感動で自然と腰骨がピンと立ち、ただ茫然としていた。
そして涙が自然と流れ出てきていた。
二十億年の大自然の時空を直感できた感動であった。
「これで人生の感動の分岐点を充分越える事ができた!」という言葉が、
フッと脳をよぎった。 原始人が自然に対して“神”を直感するとは、
このような二十億年の時空の中の一瞬の何かを観たのだ!。
この旅行はただテーブル・マウンテンと密林とそこを流れる川、
そして滝だけであった。
ただ高地の間に流れる川をのぼっていくボートツアーでしかない!。
でもそれだけがすばらしいのだ。
そのトレッキングの真髄を初めて経験でき、
新しい世界をかい間見た十日間であった。
(H9.8/23〜9/)

・・・・・・
5163,「現象界」「理想界」とは何
2015年05月04日(月)

   * 「現象界」「理想界」とは何のことだろうか。
              〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 日常にある「現象界」と、頭に浮かぶ「理想界」とは、そもそも何だろう。
その辺りを、『哲学で自分を創る』瀧本行人著に、分かりやすい内容があった。
青年期の理想に燃えた時、現象界そのものが、輝いて見えていたが、現在では
自ずから大きく違って見えている。人生を振り返ると、現実世界は、まんざら
悪くもなかったし、幻滅するほどでもなかった。 〜まずその部分を抜粋
≪・当たり前だが、世界は、ある人間の意のままにはならない。しかし私たちは
 そのような世界を想像することができる。この想像した世界が「理想界」。
 そしてそれを可能にしているのが理性。
・「現象界」とは単純に、日常的に把握できるありようだ。普段見えている
 この世界、感じとり生きている日常、である。
一方、「理想界」は、むしろ日常から離れて空想したり想像したりする。
もう少しカッコよくいえば思索したりする中で現われる想念とでも言おうか。
現象界においては、人それぞれの経験によって認識対象が異なって把握される、
ということは、人種や民族、大人と子ども、男と女によっても、私とあなたに
よっても、それぞれ異なって立ち現われるということである。更には時代も
異なればまた別の様相を持つことになる。だが実際人は、言葉を使って、
いろいろなものを一つにまとめあげ説明することができる。それが経験である。
現象界には直接存在しないものを、言葉、概念、用語、カテゴリーによって
まとめあげることによって、それらはこの世に登場してくる。
カントのこのような認識論は、理想界への言及と平行に走る両輪であった。
実際彼の大学での講義内容は人文地理学や「実用的な見地からの人間学」が主で
あったが、彼は現在ロシア領となっている一商業都市であるケーニヒスベルク
から一歩も外に出ることなく世界の諸現象を語ることができた。そしてカントは、
このとき「理想界」という抽象的なものを打ちたてることによって、人類共通の
普遍道徳のようなものがありうる、という議論をも可能にした。この点が重要な
意味を持ってくる。 いずれにせよ、デカルトやベーコンが人間の理性は
無際限に活用しうると考えていたのと比べると、理性に対するこのようなカント
の線の引き方は、まさしく「批判」であった。つまり、「非難」ではなく、
「限界づけ」なのである。そう考えると、私たちが「敵」と認識する対象は、
それが「敵」であると思うかぎりは、「敵」でしかない。敵という概念にある
人物やあるイメージをあなたが付与した時点で、その敵は、現実にそこにある
対象となると同時に、あなたの想像の産物にもなる。・・ ≫
▼ 「現象世界を、言葉を使って、一つにまとめあがることが、経験」とは、
 分かりやすい。体験を時間の経過をして言葉とイメージを記憶として、残った
のが経験ということ。我われは、どうも現象界と理想界を、混同してしまい
がちになる。しかし、現象界の中での理想界を思い浮かべる視線も必要である。
世界は想像の産物の幻想・幻覚なら、「幻滅界」もあって然るべき。
ところで、秘境ツアーなどで世界の観光でみた光は、これまで経験した、
「理想界」や「現象界」を遥かに超えたものだった。理想世界は、想定内で
しかない。そのことを、まずは実感してみないと!理性、感性より至高体験。

・・・・・
4798,年金破綻報道の罠 ー①
2014年05月04日(日)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論>ー細野真紘(2014年の論点100)
   * 年金の根本的誤解
 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」
というものではなく、あくまで「老後の最低限の 補助」という位置づけ>という。 
そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。我家も、家内の預金
を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった!
 ーその辺りからー
《 年金について、TVで次のような街頭インタビェーが出てきます。記者:
「あなたの年金で生活は十分ですか?」年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃ
全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」
 このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な
「誤解」があると気付いている人はどれほどいるのでしょう? まず、この記者の
質問自体がおかしいが、そもそも年金は、「それだけで老後の生活は十分」と
いうものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけ。
だからこそ昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本
のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。 さらに言うと、
インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言を
しています。それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで
「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。それなのに
「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾
だらけのテレビ報道」に対して、これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? 
これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。つまり、
教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけ。
 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、
日本の年金とは「老後に国から死亡するまでもらえるお弁当」だと捉えて
おくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》
▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、
 老後は飯だけの生活が待っていることになる。ネットで中小企業の数を調べて
みると、【2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、中小企業の
従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の
約2割を占める製造業においても、2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業
付加価値額の約5割を占めている】とある。そうすると、国民の多くの老後に、
決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない
給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。消費税の3%値上げや、
インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと! 

・・・・・・
4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3
2013年05月04日(土)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道
                       (時間的俯瞰思考の道)
 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 
で、悲観的になるか、楽観的になるか。誰もが楽観的の方が良いと思うが、
悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生に、必ず何羽かが舞い降りる。
思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーンや地震多発地帯
の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも組込む必要性がある。
そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 
  ー次の箇所が面白い!ー
≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、
 どう生きればいいのだろうか。 以下の二つの方向性がある。
(1)どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。
(2)人生には定められた意味などないから、人生の足かせを取り去り、むしろ
 自由に人生をデザインし軽やかに生きていこう、とう希望に向かう生き方。 
 (1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ 
あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由
で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、そのお金はなくなる。
これをどう捉える? どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と
絶望するか、たまたま一万円持っていると希望を持つか。これと同じ。あなた
はもともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。
しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志では
なく生まれさせられ、苦しみあえいで生きねばならないから、はかなく悲しい」
と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 
 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、
生きているかのような幻想を一時的に手に入れた。なんてラッキーなことか」 
これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。
ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化
して、人間になった。その中の一人として、何の偶然か、あなたが生まれた。
生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。
これがラッキーでなくて何? あなたにとって、宇宙史上最大のラッキー
の一つ。死刑というより、恵みだ。信じられない、鮮烈な奇跡である。
そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカス
を当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、大いに
楽しもうではないかが、それが、(2)だ。
 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。
その違いが(1)と(2)の違いだ。(1)は、いま一万円を持っていることから出発
しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。
一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の
維持にフォーカスしている。それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に
立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を楽しもう
ではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、
今一万円を持っていると思っているのは、幻想だ。本当は持っていないのだ。
誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。
このラッキーな一万円を、幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 
そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。
もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ 
▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、
 この辺りを理解してないと人生を誤る。それを教えるのが親の務めである。
必要なのが教養。生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。
幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、
34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、特に新潟駅前の時は、500%の成功する
だろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価
を含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。
で、自然考えたのが、上記のこと。「せっかく与えられたチャンス。もし失敗
しても、全てを失っても後悔はしない」と!だから現在、さばさばしている。
  万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、
そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実!

・・・・・・
4057, 随想日記も12周年
2012年05月04日(金)
 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。
旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとにアップしていた。12周年
を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、
ここまで続けることが出来た。内容はともかく、「自分に納得できる文章に
すること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、
手を抜いた文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず
同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。読んでいると、
変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。ここまで書き
ためると自分自身の墓場そのもの。飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。
従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。
言葉の力は大きい。大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象
と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。
「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに
気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、脳から文として出し、
吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し
11年分の自分に出会っているが、そこに自分の小さな歴史をみている。 
もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思う
ことさえある。 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かった
こともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら面白い断片が
数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。
このシリーズは心底では自分に120点。だから逆に書き残さなかったのが
良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・
また人を傷をつけるのか? 毎日、書き出す習慣も慣れるとゲーム感覚になる。 
ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。

・・・・・・
3691, 自己を見つめる −13
2011年05月04日(水)
         「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  * 運命について  ーp226
【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」
 の中に立たされていることになる。私たち人間は、そうした運命的なものの
呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することに
よって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。
 ・・ 自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結び
つけることによって初めて、人間は、自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り
当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における
 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。ハイデッガーによれば、
私たちは、この世の中に生きるときに、予期しえない形で「降りかかってくる」、
さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、
人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではない
ということである。人間は、非力で、無力なのである。 しかし、それでいて、
人間は、自分なりの情熱と威力において、自己の本来的存在の証を立て、それを
刻み残そうとする。そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な困難と
格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、
それに聴従して本来的に実存しようとするのである。ここに、優れた運命思想が
あることはたしかである。 】
ー 
「運命」について、考えさせられる内容である。(存在の真理の「呼び求める促し」
に立たされ、運命的なものの呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に
宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる」
これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとする
ことである。それぞれ天命、宿命、運命がある。その中で、運命は自分で切り
開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようと
することである。そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 
自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが運命に従うこと
になる。それとて、下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。


5527,若者よ、外に出よ! 〜⑥ カースト制のインドを知る

2016年05月03日(火)

 学生時代からインドのカースト制の露骨な差別社会を聞いていた。
で、あまり行きたくない国だったが、ペルーの山中で、軽い高山病になって、
三人が途中でダウン、一時間ほど仲間の帰りを待つ間に、互いに行ってない
旅行先の情報の交換をしたが、その人のお勧めが、インドだった。
『あまり気がすすまない』という私に、『もし、旅行道という言葉があると
すれば、インドだけは欠かしてはならない!』の言葉が、妙に説得力があった。
 当時の会社の取引先に‘一人旅’が好きな人が二人いたが、そろって、
インドの素晴らしさを話していた。「学生時代にガンジス川の日の出をみて
人生観が一変してしまった」話が、妙に頭に残っていたこともあり、インド行き
を決めたが、成るほど、そのとおりだった。妙に懐かしさは仏教国の為だが、
湧き出るような群集と、牛と乞食などが、街中で屯した雑然とした社会の
真っ只中に投げ出された感覚が、これまで経験したことがない世界だった。
 ー まずは、帰国直後の旅行記の幾つかをコピーする。
http://news.sina.com.cn/s/p/2010-08-23/074820954155.shtml
――――
2002/10/30
ある逸話ーインドで見たこと

インドの空港で帰国の時である。修行僧のいでたちの男、杖一本を
つきながらやって来た。素足で身に付けているののはパンツ一枚である。
それで飛行機に乗ろうというらしい。急を聞きつけた警察が数十名が周りを
取り囲んだが誰も手を出せない。空港の制服の女の人が間に立って説明をして
いるが、どうしても折り合わないのだ。パスポートも持たないでパンツ一枚で
国際線に乗ろうとしているのだ。

恐らくカースト制で身分が高いのだろう、素裸の男の態度がでかい。
大声で入国査察官を怒鳴りつけているのだ。状況から、恐らく「神の指示で
乗れといわれたのに何故乗せぬ!」と言って、強引に搭乗しようとしている
ようであった。最後の結末をみないで飛行機に乗ったが、インドの社会を
最後まで見せ付けられた出来事であった。

インドは普通の感覚では考えられない身分社会なのだ。牛が堂々と
街を我が物顔で歩いているのだ。宗教上で神聖な生き物なのだ。

以前にも書いたが、20%のある階級は餞民で人間とみなされない。
交通事故死でも警察が取り合わないという、牛なら騒ぎになるが。
実際その経験談を読んだ事がある。同乗した車が餞民を轢き逃げしたが、
その後新聞でも何も載ってなかったとか。轢いた本人も犬を引いた程度
としか思ってなかったのに驚いた、と書いていた。まあ凄い社会である。
一度はこういう社会を見てみるのも必要な事だ。

*4年前に書いた文章をコピー。
――――
 H1011 インド旅行記 ー私のみた北インド 

“インドとは...”など滞在一週間のツア−では表現できない。
面白いほど多様な国である。まず印象を列記してみよう。
� 汚く、臭く、多種多様な人種、動物が“ごった煮”されている国であった。
映画の“深い河”や二本のTVドキュメント、本は五冊読んで実際行ってみて、
ここまで貧しく、奇異に感じるとは!

� 大部分がバスの異動であったため、点というより線でインドを見れた。
“街の生活”や“田舎の街道”よりみた地域ごとの暮らしが印象に残った。
小さな節穴より垣間見た程度であったとしても沢山の事を見て、
感じ取ることができた。

� ヒンドゥ−教の聖地ベナレス。生まれて初めて見た“美しい日の出”
その日の出がガンジスに反射する陽光!そこでの聖なる沐浴の光景!
三千年前とほぼ変わらぬ宗教的行事という。その岸辺での火葬の情景!
帰りの道すがらの物乞いの一団。ふと気づくとライ病の集団に一人囲まれていた。

� インドの2/3が最下層に属し、ほぼ乞食に近い生活をしているといって
オ−バ−でない。野良犬、野良牛、野羊と全く同じ感覚で一緒に生活している。
日本の80%が中流意識とは対極にあるといってよい。
帰ってきて今でも日本が逆に奇異にさえ見えてきた。
−完璧すぎる平等と潔癖症。そして豊かさが。

� インドはヒンドゥ−教とカ−スト制を抜きでは理解できない。
おおよそ4階級に身分制があり、皮膚の色により白系(一億人)、
赤系(一億人)、黄色(一億人)、黒色(四億人)に分類されている。
我々が街で目にするのは最下層の人たちが主で、動物並みにしか上層の人より
見られておらず、本人達もそう思いこんでいる!
(ヒンドゥ−教の教えがその裏付けされている)。
白色ほど身なりがキチッとしているのは私達でさえ判断できた。
レストラン、ホテルなどそれぞれ決まっており、決して違う層は入れない。

・・・・・・
2007/08/15
2325, ベナレス −1               
                  ー読書日記ー
図書館から何げなく借りてきた本だが、一時間もしないうちに読んでしまった。
写真が半分以上だったこともあるが、死の世界が剥き出しになっている。
この本はTVの放送内容を本にしたもので、TVの映像を切り取った写真と
文章を中心に構成されている。実は数年前に、この番組をみていたのである。
本を読み終わってから思い出したのだから自分でも呆れてしまった。
早く読めたのも、その下地があったからである。
 ーー
著書もTVも、「NHKスペシャル アジア古都物語」
 ―ベナレス 生と死の聖地 ーである。
<その内容の一部を抜粋してみる>
 −−−
インド各地から遺体が運ばれてくるガンジス河中流域、
ヒンドゥーの聖都ベナレスのレポートである。
その中で、ガンジス川で沐浴をする誰もが言う。
「ベナレスで荼毘に付されれば必ず天界に行ける…」と。

全国から車やトラクターで運ばれてきた遺体は、路地を抜けるために
屋根から降ろされ、人びとの手によって担がれ火葬場へと向かう。
「ラーム・ナーム・サティヤ・へー、ラーム・ナーム・サティヤ・ヘー」
(神様だけが真実である、神様だけが真実である…)
担ぎ手たちはこの言葉を繰り返し口にする。こうして冥福を祈られながら、
やがて遺体はマニカルニカー・ガートと呼ばれる火葬場に到着する。

聖地ベナレスでもっとも聖なる場所の一つであるマニカルニカー・ガートは
ガンジス河をのぞみ、街の中心部に位置する。その歴史は数千年におよぶと
伝えられている。河に面して横長に伸び、その広さは五十mx二十mほどで
あろうか。焼き場は何もないスペースがあるだけで、多い時にはここで
十数体の遺体がいちどきに焼かれる。

ベナレスには二つの有名な火葬場があり、
・一つは街の南にあるハリシュチャンドラ・ガートという火葬場で、
・もう一つが、ガートが連なる河岸のちょうど真中あたりに位置する、
 このマニカルニカー・ガートである。
運び込まれてきた遺体は、まず、火葬場の中ほどにあるガンジス河へと
つながる階段を下り、ガンジスの水に浸される。そして組み上げられた
薪の上に安置され、そのたび油が注がれる。茶毘は伝統的な方法で行われる。
亡くなった人にもっとも近い親族の男性が喪主を務め、基本的に女性は
火葬場に立ち入ることはできない。喪主は、マニカルニカー・ガートに
ある床屋で髪の毛やひげをそり、白い装束を身に付け身を清めた後、
自分の父親や母親の亡骸に最初の火を自らの手で灯すのだ。

遺体が燃え尽きるまでの時間は、おおよそ二時間。
その間遺族は、焼かれて行く遺体から五、六メートルほど離れた場所で
肉体が消滅して行く姿をじっと見守り続ける。目の前にはガンジス河が流れ、
煙は何物にも遮られることなく空へと昇って行く。
聞こえてくるのは薪がはぜる音、人びとのささやかな声、
そして、遺体がまた運び込まれたことを告げる
「ラーム・ナーム・サティヤ・へーレ」という声である。

しかし、なぜこの街には、インド各地から遺体が運び込まれてくるのだろうか。
この疑問に対して誰もが"何故、そんなわかりきったことを聞くのだという
ような顔をして「この街で茶毘に付されれば必ず天界にゆける。そう信じて
いるからだ」とこたえてくれた。
ヒンドゥー教では、人生は「生老病死」といった苦しみに満ちていると
考えられ、そして生まれ変わるたびに、その苦しみを味わわなければならない
とされている。この考え方は、仏教にも影響を与えた「輪廻」という思想。
この「輪廻」の輪から抜け出ない限り魂の平安は未来永劫に訪れない。
こうした考えを信じる人びとにとって、ベナレスは生きることの苦しみ
から抜け出させてくれる救いの場所なのである。
遺体が焼かれた後、遺灰は目の前のガンジス河に流される。
最後に喪主の手で残された遺灰にガンジス河の水がかけられる。
こうして死者との別れの儀式は終わる。
ーー
以上のような文章と、写真が半々位で本が成り立っている。
しかし、読んでいても暗さがない。
いや、あるが、その先に明るさを感じるのである。
本の写真に死ぬ直前の人や、死んだ人の顔が次から次と出てきても、
何故か静かに見ることができるのである。
死を、ことさら大げさに見ることの方が寧ろおかしいのである。
                        つづく
・・・・・・
2007/08/17
2327, ベナレス −2
           。っω-)..。oо○(゜+。ぉレ£∋ぅ゜+。)
インドは強烈な印象の国であった。帰路の飛行場に着いたとき、実のところ
ホッとした。聞きしに勝るインドという国の文化に、良きにつけ、悪きにつけ
ショックであった。ヒンズー教とカースト制度、貧しさと豊かさ、タージ・
マハールなどの霊廟や城、ガンジス川とベナレス、そして古代から現代
までが入り混じった社会。日本の日常とは全てちがっていた。

その中でもべナレスの街とガンジス川の沐浴と、舟からみた二ヶ所の火葬場。
ガンジス川からみた日の出。ガンジスの火葬場周辺にいる修行僧の顔と眼。
そして我が物顔で歩いている牛。そしてライ病の集団の物乞い。幼女の乞食。

この本ではベナレスの「死を待つ館」の数家族がありのままを映しだしている。
生死、貧しさも豊かさ、差別も、その全てがリアルにそのまま露出されている。
それが日本とは対照的なのである。
人生の折り返し地点を越えベナレスに引っ越してきた老夫婦や、老齢になった
ことで自らべナレスの僧院などにやってきた人びとなど、死期を間近に感じる
前に移り住む人もいる。

この街は「死を受け入れる街」として永年をかけて奥行きを広げ、
深さを増している。インド各地から運ばれてくる死体は多い時で100体。
また家族や、死者の灰をガンジスに流すために訪れる人も毎日数千人もいる。
なかには郵便で灰が送られてくるケースさえあるという。
ここは死者の為の街であり、その準備の為の街である。

ここの「死を待つ館」の人に、「死ぬのは恐くないですか」と聞いても、
「どうして怖いことがあるのか。ここは寺院もあり、ガンジス川もある。
この街が私を呼んだのだ」と答えて、平然としている。彼らにとって、
ここでの死は誇らしいものであり、ここに連れてこられること、
その家族にとっては、連れてくることが喜びなのである。
 死が喜びとは!素晴らしいではないか!
                   ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・
2007年09月08日
ベナレス−5
  ー多様なるインド世界ー
インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。
これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。
そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。
多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。
古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀
頃に相次いで生まれた。紀元後ほどなくしてキリスト教が伝わり、ハ世紀には
唯神アッラーを信仰するイスラーム教が本格的に到来した。
またヒンドウー教とイスラーム教双方の教義を批判的に融合したスィク教も
十五世紀に興起する。
ヒンドゥー教と仏教は輪廻や解脱の思想を共有する、いわば兄弟のような
ものである。兄たるヒンドゥー教は古来からの儀礼やしきたりを守つてきたが、
そのためさまざまな迷信や俗信をも抱え込むことになった。一方、弟の仏教は
そういう兄を理詰めで批判し、外の世界に広がっていったが、インドでは
十三世紀にイスラーム教徒の仏教僧院破壊を機に、すたれてしまった。
仏教がインドで復活するのは二十世紀半ばのことである。インド亜大陸では
現在でも宗教問の争いが絶えないが、それは主として政治的不安定に起因する。
庶民は心の底から平和を祈っているのである。
ーーーーー
解)それにしても、3千年前にアーリア人がインドを征服した時に、地元民
との混血が、自分達の存在を脅かすと考え創った物語が三千年の時間をかけて
白・赤・黄色・黒の人種の垣根をつくり、それぞれ交わることなく現在に至って
いる。そして、今でも露骨な人種差別ーカースト制度ーが社会を支配している。
人間は平等です? そんなことは有りえない!それはあくまで奇麗事というを、
インドの社会が正直に露出している。考えてみれば平等などあるわけがない。
それを実現しようとした社会主義こそ、そのウソ、建前を知らなかったのである。
優勝劣敗は哀しいことに、世の習いである。

・・・・・・
2007/04/16
2204, ベトナムとインドの「交通戦争」
          おはよう!♪〜 ヽ(´π`)ノ
ーインドの追い越しー
外国に行くと、思わない文化の違いを見ることがある。その一つが交通事情。
インドの都市間をバス移動の時、対向車線の車が追い越しのため、進路から
正面に向かってギリギリのところまで迫ってくるあわや正面衝突!と、
思わず目をそむけてしまうほど危ない。彼らにとってそれが日常のため、
国道沿いには数キロごとに衝突の車を見かける。

慣れていない日本人は見ていて気分が悪くなり、町から町への移動の国道では、
誰も前の席に座りたがらない。沢木耕太郎の「深夜特急」という本の中で、
インドからパキスタンへの移動の高速バスで、その恐怖を書いていた。
実際に自分が体験をしてみて、これほど恐ろしいとは知らなかった。
それと中国のウィグル地区からパキスタンへのカラコルム・ハイウェーの
断崖の砂利道の暴走運転の恐怖を思い出した。
明らかに我われ日本人をカラカッタ運転だった。
その手の話題はいくらでも話題は出てくる。
ーベトナム交通戦争ー       (略)

・・・・・・
2006/08/30
1975, 写真家はインドをめざす
              ー読書日記 \(^▽^*)おは!                     
インドを精通する写真家14人が描いたフォトエッセイが、
この1冊に凝縮してあり、読んでいて魂まで吸い込まれるようだ。
この本、この数年で5〜6回は図書館で借りてきては返している。
読めば読むほどに何とも魅力のある本である。いや本が魅力がある
というより、インドの地と、そこに住む人々の混在した多様性にひかれる。

カルカッタのマザー・テレサの建てた「死を待つ家」。
路傍でまるでゴミのように死んでいく身よりの無い人々が、せめて屋根の
ある家で死んでいけるように建てた家の死を待っている老人達の写真を
冷静に撮ってあるもの。
 ・物乞いのライ病患者や、駅の隅で転がっている少女の死体?
 ・河の辺で焼かれている燃え上がっている死体。

インドをドック・アイの視線でカメラマンの目は鋭く一瞬を抉り撮っている。
白黒の写真が、むしろピッタリである。一人当たり7〜8頁の文章と、
10枚位の白黒写真がその文章の後にある。画家や写真家のエッセイは何故、
ここまで優しく鋭く人の心を捉えるのだろうか? 恐らく、一瞬の被写体
の中にある本質を見抜く感性が私たちの心の奥の共感を呼び起こすからだろう。
この本のトップの日比野宏の出だしの文章から、対象を鮮明に表現する。

チャイ屋で一服するのが、インドの楽しみである。
土蔵のような店の天井に吊り下げられた扇風機が、
湿気の無いヒンヤリした風を送ってくる。何げなく帳場をみると、
ゴキブリが油で揚げた菓子の上を通過し、ネズミが茶碗の周りを這いずり回る。
隣の男が茶碗にハエが入っていると怒ったら、店の主人が平然とした態度で、
スプーンで取り除いた。ハエや蚊は空気の成分と同じだという感覚が、
この土地で生活する条件の一つかも知れない。インドに入国してから
一週間も経ってない私だが、その状況に少しずつ慣れていった。
 −
という具合で、もう自分がインドの茶屋で、
お茶を飲んでいるような錯覚に陥ってしまう。

また7人目の「インドに想う」−鎌澤久也の写真も、文も素晴らしい。

カルカッタといわずインドは楽しかった。人と動物が一体となり、
平等な姿で共存するインド、大通りに牛が寝そべり、交通の妨げに
なっても、決して文句を言わないインド人、ヒンドゥー教においては、
牛は神聖視されているからなのだろう。

しかし、乞食に堂々とした態度で、お金をくれといわれたのには
ビックリ。いまだに残っているカースト制度に起因をしているのだろうが、
君はお金を持っているのだから、持っていない自分にお金をくれる義務
があり、自分は貰う権利がある。確かに理は通っているが、いまひとつ
納得がいかない。・・・それはそうと、ある夜、デリーの安宿で、屋上
から街灯で浮かび上がる街並みや、華やかな通りを眺めていると、
見るからに長期旅行者といった、20代後半の男性から、
「人生とは何でしょうか?」と、突然話しかけられた。
ウ〜ンと私はうなってしまった。
  ーーーー
「写真家はインドをめざす」
         青弓社(共同 著書)
なぜインドを撮るのか。混沌、喧騒、氾濫――。
人々は渦を巻き、聖なる河はすべてのものを飲み込む。
写真家というフィルターを通して切り取った凝縮のインド、悠々の営み。
(カバーのコピーより)
 ▼目次
1 インド合掌  日比野宏
2 旅と写真とその理由  青柳健二
3 インドへ、その向こうへ  富張佳子
4 サドゥ  石川梵
5 マルチサーカス  三浦麻旅子
6 ドッグズ・アイの旅  小野寺誠
7 インドに想う  鎌澤久也
8 ブッダロードに微光を求めて  永橋和雄
9 サドゥとともに  栗脇直子
10 死を待つ家  松本栄一
11 幕のない劇場  武藤滋生
12 「水に祈り、水になる」  伊東恭介
13 インドの宗教空間のなかで  田村仁
14 インドで写真を撮る  山田和
▼著者プロフィール
日比野 宏(ヒビノ ヒロシ)
 ●著…1955年、東京都生まれ。
 最初はファッション写真をめざしていたが、80年代後半より、
 アジアを中心とした旅が始まり、写真と文章の本を出していく。
 ー出版物に
『アジア亜細亜――無限回廊』『同――夢のあとさき』(講談社文庫)、
『エイジアン・ガール』『快!撮!アジア旅の写真術』(新評論)、


5526,若者よ、外に出よ! ー 世界の祭り  

2016年05月02日(月)

             
   * 祭りから世界の楽しさを知る
『若者よ、まず楽しさを経験しろ!』である。「嬉しい、楽しい」という
感情が、人間を突き動かすことになる。ゲームでも、ミニ祭りの飲み会でもよい。
その極地が街レベルで行われる祭り、それも世界的祭りの楽しさを知ること。
 世界最大の祭りといえばクリスマスだが、ど派手な祭りの、ブラジル
の「リオのカーニバル」と、北スペイン「牛追い祭り」を体験してみた。
その熱狂の渦が全ての人を恍惚に誘う。この2週間の北スペインのバスツアー
は、これまでのツアーのベスト5に入れることが出来る。祭りは、原始人の頃
から営なわれていたことは壁絵から推察される。生き抜く苦労と、その憂さ
晴らしは、古代も現代も同じ。祭りには時代の文化が現れ出る。
 大相撲も神事で行われていたのが始りだった。 祭りは実に楽しい! 
が、その背後には、普段の地道な生活が必要である。
≪ ☆ パンプローナの牛追い祭り(2002/09/07 記)
 今朝9時半より、衛星TVで今年のサン・フェルミン祭を放映していた。
もし神様が一日だけもう一度同じ日を与えてくれるといったら、4年前の
この祭りの最終日を間違いなく選ぶだろう。今年は例年になく多くの負傷者
が出たようだ。今日の番組は毎朝の牛追いに絞った8日間の内容の為、毎年
放映される中でも特に迫力があった。初めから最後まで手に汗を握る内容だ。
 この祭りはヘミングウエーの「日はまた昇る」で舞台になり世界に一躍
知られるようになった。
 この期間ー7月上旬の8日間、町中の人が白い服に赤の腰巻の布を巻き、
赤いネッカチーフをつける。パンプローナの出身者の多くが帰ってくる。
毎朝6頭の闘牛とそれを先導する虚勢牛6頭の合計12頭が闘牛場に向かう
街の道路に放たれる。毎日異なるドラマを生みながら熱狂を8日間重ねる。
その6頭の闘牛が毎日おこなわれる。4年前その最終日の闘牛をみたが、
会場が異様な熱狂に包まれていた。 その牛の前を走るエニシエロが、勇気
試しになる。19世紀半ばからこの祭りが始まり、闘牛とか牛追いは途中
からその祭りに加わった。
 ーユーラシア旅行社でいくと、市役所広場の前の4階の部屋から
  最終日のエンデングと牛追いが見れる。
――――
4年前の「北スペインの旅」−より抜粋ー  
 ・・この中で一番のハイライトがパンプローナの“牛追い祭り”であった。
延々8日間にわたって毎夜、闘牛が行われる。その牛を毎朝、市役所から
闘牛場へ、町中を追い上げる。その前を街の若者が走って、度胸試しをする。
死人が出ることがあるという。我々が着いたその日が最終日の為、最高の盛り
上がりであった。夜の闘牛もその為か異常な熱狂を会場にただよわせていた。
これこそ正しくスペインと思われた。
 深夜の十二時に向けたファイナルギャザリングが、一生の思い出になる
感動的場面であった。市役所前に数千の群集がロウソクを手に持って集まり、
ロウソクをかざしながら歌い踊るのだ。 彼らが心の底からパンプローナを
愛しているのがよくわかる。民家の4Fの一室を借りて見たのだが、光の海を
見ているようであった。トランペットやバイオリン・タイコの楽団の演奏に
あわせて歌を全員が歌っている。
 キリスト教で祭りを集団で祝うのはスペインだけといわれている。
イスラムとキリスト教が融合して、神聖かつ感動的・熱狂的なお祭り騒ぎ
なのである。このような宗教的感動的場面に出会ったのは初めての経験。
この場面に出会っただけでもこの旅行は充分の価値があった。
一生の心の財産になった。 ≫
――――
≪ ☆ リオのカーニバル(2003/04/23)
この時期になると例年、NHKハイビジョンでその内容が放映される。
毎年三月の初旬に開かれ,約一月後に放映されている。
何とも派手で陽気で豪華で楽しい!
8年前にいって、その雰囲気を知っているから、観ていても楽しいのだろう。
違うのは音量の大きさと、会場の熱気が直接伝わっていることだ。
 TVを観ていると、会場に行っているような錯覚をしてしまう。
以前にも書いたものを後でコピーしておくが、なかなか奥行きが深い。
ブラジルではTVなどで生中継される全国的な行事なっている。
今回、あるチームの準備などの内幕をドキュメント風に紹介していた。
80分の持ち時間の演技のために一年間の準備をする。
 審査項目が10項目あり、それを細かく説明していた。
・テーマ曲の良し悪し
・打楽器ーバテリアの内容
・テーマの紹介のパフォーマンス
・同じ衣装のダンス隊のダンス
・山車の美しさ、テーマの解りやすさ、迫力
・チームの旗手の踊り
・そのチームの女王の観客へのアピールと反応等々ある。
プロの演出者を雇い、その年のテーマにそって
カーニバルとサンバと山車や音楽や衣装が組み合わされる。
今年もなかなかの出来であった。
数回再放送でやるから、何回もみるつもりである。
ーー以前書いた文章をコピーしておきますーー
H0703  ブラジル旅行記
 “行って吃驚!玉手箱”主観をこめて現地の実感を書いてみる。
カーニバルはリオディジャネロだけでなく、全国津々浦々の都市で
行われており、四日間全国がお祭りの為休みとなる。
その最も有名で世界的に知られているのがリオのそれなのである。
リオのカーニバルのランクがA・B・CとなっておりAランクが9チーム、
Bランクが15〜16チーム、Cランクは数十チームとなっている。
AとBチームが特設スタジオのメーン、ストリー800mを80分の
持時間で踊りながら行進する。そこは六万人の観客席があり、審判席で
厳格に審査され、その年の優勝等順位があらそわれる。

 そのチケットは一般の人はほとんど入手不可能である。我々のTV
新聞等で目にするのはCチームが街頭で行進するものでしかなかった。
チームは四千名が1チームで構成されており、それが約500名×8チームに
細分化され統一のコンセプトのもとに仮装が華やかにつくられている。
音楽も各チームごとに毎年新しいコンセプトのもとに有名作曲家が名誉を
かけてつくる。その作曲も採点の大きなポイントになるという。
一日6〜8チームが夜の七時より翌朝の七時まで延々と踊りの行進が続く。
観客席もその行進曲にあわせて半数以上が踊っている。
音響もすさまじく隣の人の声は全く聞こえない。

 上位数チームが翌週の土曜日に優勝をかけて再び行進がおこなわれて優勝
チームは10億以上の賞金がつき、かつ翌年に向けよいスポンサーが約束される。
その年の山車とか衣装は翌年に持ちこさずすべて破棄するという。
カーニバルをみていて“気”とか“色即是空”とか“禅の悟り”がすべて含まれ
ており、東洋的なこのような言葉が小さくみすばらしくさえ思えるくらいだ。
ブラジルの印象として残ったイメージとしてのキーワードを書くと“サッカーと
“サンバ”(カーニバル)と“森林”と“イグアスの滝”そして
“汚職まみれの国”である。さらに加えるなら“まずしさ”である。≫

――――
▼ 祭りは、普段の質素倹約した単調な生活の憂さ晴らしのための爆発の
『晴れ』を集団で楽しむ娯楽。特に、イタリア、スペインのラテン系の国の
祭りは歴史があって、ど派手。日常からの集団トリップの一端に触れるだけで
充分に価値がある。そこには、セックスと血と死の匂いが、漂っていた。
 リオのカーニバルには、「カーニバル・チルドレン」が、結果として誕生し、
捨てられ、ストリート・チルドレンになるという。

・・・・・・
・・・・・・
5161,不幸不利の7つの法則 〜�
2015年05月02日(土)
   * 不幸不利の法則を具現化した人
 絶対的に不幸な人も、幸福の人も存在しない。それぞれの人生の時節で、
孝不幸の比率が変わる。それと教養レベルでも・・ 不幸不利の法則を、
そのまま具現化したような人を、周辺に直ぐに見つけることができる。
内幕情報屋を売りにした「あの人!」。人の不幸を探し出し、噂話を探し
まわって、転々と人々の間を、尾ひれはひれを加え、舞いまわる人たち。
最近はネットに移行したから、始末が悪い。聞いている方は、その人間の
卑しさに気づいて軽蔑をしても、顔に出さない。情報化や都会化で、人は
表面的には誰とでもフレンドリーだが、実は、彼らは「孤独の群集」で、
他人の内幕を知りたがる。だから、こういう、「内幕情報屋」の存在が
必要となる。学生時代に読んだ、リースマン著『孤独の群集』の中で、
都会化が進むほど、「内幕情報屋」が、多く現れると論証していた。
自分の趣味と、一般教養を持たないと、現象界をそのままを現実、真実
として受入れてしまう。(偶然だが、一年前と4年前の同月同日の内容が、
そのまま書いてあった) 普通の人であれば、噂話も世間話をするし、
敢えて、特徴を取り上げることもなし、ただ無知なだけ!と割切ればよい。 
ところが、実は、その内幕情報屋の流される噂話が、個々人には、
「掟というトリック」が含まれている。それが各人の牢獄をつくり上げる。
これが「絶対不幸」の人たちを作り上げる。その結果、「不幸不利」を
なってしまう。そして、自分の世界を小さく小さくしていく。
「不幸不利」のスパイラルは、強力なマイナス磁力がある。
己の「不幸不利」に気づくには教養のベースか、死線を漂う経験などが
必要になる。小、中、高、大学の同級会に毎年、出席しているが、不幸不利
の人の比率が、進学するにつれ減っている。鬼のような形相のオバサンや、
時代かかった成金は皆無になる。豊かさ貧しさは、置かれた状況でもある。
幸福であれば、他人の不幸には興味が無頓着になる。不幸不利の人は・・
・・・・・・
4796,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜�
2014年05月02日(金)
   * 何かが変?なのは、自分? それとも巷の常識?
 先日取り上げた【「道徳」を疑え!〜自分の頭で考えるための哲学講義
  ー小川仁志著】の中で、イギリスの哲学者 フランシス・ベーコンの
「イドラ(本当のことを隠してしまう臆見)を取り上げていた。
 彼によると、人間には四つのイドラがあるという。
《・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じる。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できない。
・二つ目は「洞窟のイドラ」。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んでしまった
 かのように、個人の狭い事情により生じる思い込み。その人の受けた教育、
 影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込みです。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いものです。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。それぞれの都合の良い物語を疑おうと
 しないで信じてしまうことをいう。》
:この結果、世間とかいう、ほぼ嘘で固められた常識を疑うことなく信じる九割
 以上の人達がつくられ、現に存在する。この方々は、殆どのイドラが全存在。 
 覆い隠されている真実の世界の存在など想像すら出来ないため、厄介そのもの。
 彼らには、「嘘もほどほどにしろ」より、「本当のことは、ほどほどに」と、
 対応するしかない。何故なら、本当のことは、イドラの世界からは見ることが
 出来ないから。本来、人間は共同幻想の中にしか生きることが出来ない存在。
 とすると、変なのは社会と、その中で生きる、私たち(個々人)になる。
 問題は、それを常に自覚できるかどうかが、境目になる。リーマンショック
 から、一段と世の中が変になっている。ところが何故か、それを覆い隠して
 いる何か、恐ろしい力。それが何だろう?「世界恐慌は静かに浸透しているが
 誰も声高に言わない。いや、言えない」のだろう。石ころの大小を言っている
 自分も、その中の砂利でしかない。結論は、「私も、一般常識とも、変!」 
 ということ。
・・・・・・
4429, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか 
2013年05月02日(木)
 * 死の恐怖を克服する七つの登山道とは   
           ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 人生で最大の難関が最期の死。ここで、死の恐怖を克服する著者の椎奨の七つ
の登山道が書かれている。スッと眠るように死にたいが、そうは簡単にいかない。 
長生きすれば「死に損ない」と言われそうだし、癌で、あと一年、数ヶ月と
区切られ悶々と死んでいくのも厳しい。現に父親が、そうであった。一年間、
傍にいたので、直に伝わってきた。砂漠の真只中に置かれたような生の渇望の
乾きは残酷である。実際に、その立場に置かれて経験しないと分からないこと。
死の恐怖の克服法は知らないより、知っていた方が遥かによい。生への渇望の
克服など無理といえば無理。肉体的に精神的にも、のたうちまわって死んでいく
しかないのが実態。だから恐れる。著者が死への登山道は言い得て妙である。 
  ーまずは、7つのルートとはー
ルート1  心が幻想だと理解する道(脳科学の道)
ルート2  すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
ルート3  自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
ルート4  主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケール思考の道)
ルート5  自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
ルート6  幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
ルート7  リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
▼ 次回から、それぞれのルートの要点を書き出してみるが、最近読んだ、
「宇宙は本当にひとつなのか」と「宇宙は何でできているいるのか」(村山斉著)
を読んで、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している可能性がある
と知り、単純だが、自分の人生も、死も、大した問題でないことを改めて知った。
これはルート3の、客観的スケール思考の道になる。この7つのルーツの道を繋ぐと、
≪ 人間の心は、本来幻想。人の一生は宇宙的スケールでみれば、瞬時でしか
 ない、直ぐ死ぬのも後で死ぬのも同じ。また微細な存在。知情意で捉えている
時間も幻覚。自分という枠組も定義で変わるもの。恐怖が幸福の対角にあるとし、
その幸福という感覚も幻覚。ただそれだけのこと。≫ ということになる。
般若心経そのものになる。だから、死に直面すると、写経を始めるのは効果がある。
こう、まとめると、各ルートを歩くのが面倒に思ったが、よく読むと、道筋には
含蓄に満ちた景色がある。目先の死を知ってから、それまでの一生分を生きる
のだから、学び足りないのは当然。


5525,若者よ、外に出よ! 〜ぁ.ぅ好薀┘襦聖

2016年05月01日(日)

              
 文化.文明面の異郷といえは、インドとイスラエルである。それも青年期では、
カルチャーショックは大きいはず。旧約、新約聖書の物語の現場が、そのまま
存在する。現在でも、聖書の内容どおりの新しい発掘があるという。ギリシャと、
イスラエルは欧米社会の原点。旅先の飛行機で隣合せた旅行代理店の社長が、
『とにかくイスラエルが素晴らしい。「山上の垂訓」や、「イエスが十字架を
担いで歩いたゴルゴダの丘と、その道」」や、「生誕の馬小屋」や、処刑の後に、
身体を洗い流した岩」に、次々に辿ることができる。それと、イスラエル兵と、
アラブ人が、エルサレムの街中で一触即発の緊張した空気も知った方がいい。』
と。そして勧めどおり、行ってみたが、その言葉以上の感動の連続であった。
 私自身、大きな挫折を経験するたびに、聖書と、聖書関連の本で、何度も
魂を救われたことがったことも、その感動は振幅させてくれた。
 〜以下は、17年前に書残した文章である。  
   * イスラエル。聖なる旅(H11・05)  よく行ってきたもの。
≪ この旅行は、四千年の旧約・新約聖書に出てくる歴史と出会う旅である。
 四国の面積とほぼ同じ中に、数えきれないほどのドラマがあった。
現地の日本人ガイドのシャワ−のような説明が新鮮かつ面白く驚きと感激の
連続であった。その為、帰ってきて、新約・旧約聖書をじっくり読む事が
できた事が最大の成果となった。関連を含めると十冊を前後二ヶ月たらずで
読んでいた。 考えてみたら私の人生の転機の度に必ず聖書か聖書関連の本
との出会いがあった。人生のより早い段階で、じっくり読むべきであった!。
 旧約は先入観で固く難しそうであったが、読んでみれば何もむずかしくない、
ただただ面白い!内容である。旧約はユダヤとユダヤ民族の歴史の書であった。
また新約は出会い=イエスの心との出会いの書と言ってよかった。
  ー印象の強い順に列記してみるとー
・まずは何といってもエレサレムである。イスラエルがそのまま凝縮されている
といってよい。四千年の昔から神の名と民族の誇りをかけ、数え切れない戦い
の舞台となった。そして現在も続いている。この街を歩く事は世界の歴史の
生き証人と出会い同行することかもしれない。
イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道=ヴィア・ドロロ−サ。
磔刑に処せられたゴルゴダの丘。最後の晩餐の部屋。
イスラム教の重要な寺院=岩のド−ムとアクサ寺院。
ユダヤ教徒にとって最も貴い嘆きの壁と広場、そしてダビデの塔。
旧市街を囲んでいる城壁は四千年の歴史の深さをそのまま物語っている。
・次はモ−ゼの十戒で有名なシナイ半島のシナイ山である。
深夜の二時に三時間かけて登って山頂からのご来光とシナイ山の山並み。
その麓にあるカタリ−ナ修道院と、神の声をきいたという“燃える柴”。
そして帰路にたちよったベトウィンの部落。そして、そこで飲んだ紅茶。 ・
“マサダの要塞”=この旅行までは全く知らなかったが、
キリストが死んだ四十年余り後に、ロ−マ軍に追いつめられた熱心党員の
ユダヤ人九六七名がたてこもった自然要塞。
陥落の前日、そこの指揮者ベン・ヤイルの演説の後、七名を除く九六〇人の
集団自決のあった場所であった。その時の詳しい内容が生き残った者の証言
で残った(ヨセフスの“ユダヤ戦記”に生々しく残っている)。
=「奴隷にされる前に...自由の状態におもむこうではないか。」
=自殺を厳禁しているユダヤ教徒の集団自決であるからその意味が違ってくる。
・イエスの生まれたベツレヘムの岩のほら穴の馬小屋と岩の飼葉桶。
・ユダヤ教エッセネ派の“死海写本”が発見されたクムラン洞穴。1947年、
近くを歩いていたベトウィンの少年が、洞穴で土器に入った巻物を発見。
壷に納められた六〇〇を越える巻物には、イザヤ書全巻や旧約聖書等々が
記されていた。今世紀最大の発見といわれている。ここで他にとんでもない事
が記された文書があった。−イエスキリストが主張された大すじが、その
ずっと昔のこの文書の中にあったという。
“イエスはエッセネ派の指導者の一人でしかなかったのでは?”という疑問
がでてきたのである。そうすると西欧キリスト教の根底が変わってしまう。
・十年後に振り返った時、恐らく今回のイスラエル旅行は私の内的深奥で
一大転機の経験となるのではないだろうか。旅行は外界を訪れるだけでなく
内奥の自分との出会いの機会でもある。
 【別記】この旅行と旧約聖書を読んで今の日本に絶望的気分になった。
四千年間の他民族・他宗教と血と血で争う闘いが現在まで続いている。
六十年前には六〇〇万人ものユダヤ人がナチに殺されている。現在も一歩
間違うと今の国土より追放されかねない緊張感・危機感が全土にあった。
男子は三年、女子は二年の兵役があった。国中どこにいっても機関銃を持った
兵隊がいた。一歩家の中に入ると機関銃が無造作においてあるという。
といってその手の事件は一切ないという。その銃の目的は敵に使うもの、
国を守る為のものというのがはっきりしているからである。 日本の防衛に
対する考え方甘さが対比すると浮き彫りにされた旅行でもあった。  ≫
▼ 長男に、インドとイスラエルに、転職の合間に行かせたが、何を感じて
 きたのだろうか? 日本だけの、自分だけの世界だけ見ているだけでは、
世界の現実を知ることは少ないまま生涯を終えることになる。 ユダヤ、
キリスト、イスラム、ヒンズー教、そして仏教圏が世界に現存し、これまで
血と血を洗う戦いをしてきた。その背景には弱肉強食の厳しい力関係が
働いている。神が存在するか否かではなく、神は存在しなければならない
のが現実社会である。最後は、神様の元に返るイメージが、人間を救う。

――――
2002/03/30
イスラエル
主観であるが、旅行をしたところに事件がおきる。
ペルー、エジプト、イスラエル、そしてフィジー、ケニアと
次々と、ああそれとパキスタンとネパール。
それから考えると、今度はヨルダンかシリアあたりか。
考えてみたらペルーを除けばイスラム教に関係している。
イスラエルに行った時に危ない感じがした。
まずは入国審査の審査は異常なくらい厳しいものだった。
また国内はあちこちで兵士が機関銃を持って歩いていた。
私用の時も身から離さないようだ。あちこちの広場に兵隊が
駐屯していた。市場で兵隊が3人血相を変えて走って行く。
その後を商店主のアラブ人が何事かと走って行く。
これが日常のようであった。
アラブ人地区に入るとやはり民度が落ちるのが解る。
4000年の対立は致し方ないのだろう。
――――
[98] 現地日本人ガイド
イスラエル2001/08/04 17:00
旅行シリーズもそろそろ終わりに近づいてきた。
考えると話題はいくらでもある。現地日本人ガイドのことである。
彼らによって印象が全く違ってくる。添乗員から聞いた話だが、
彼らが言い出さない限りあまり聞かないほうがいいらしい。
彼らは考えてみれば、色々な事情でガイドをやっていて当然である。
でもそれなりに見えてくる。ここで数回に分けて事情を書いてみよう。
  * イスラエルのガイドの話。
63歳の独り者の男性のガイド。イスラエルに来て10年以上とか。
日本の客は本当に少ないらしい。滞在中一回しかシスターの数人連れしか
会わなかった。本人も久しぶりの日本人の為、うれしくて仕方がないらしい。
マイク口からはなさず、喋りっぱなし。
一年前癌の手術をして、放射線にかかっているという。
神学生崩れらしくて、神学のイスラエルの大学を卒業しているという。
旧約聖書にしても、新約聖書にしても博識だ。
ただいつ死がくるかもしれない不安と、外地で虚無になってしまうかも
しれない不安がそのまま伝わってくる。
それがイスラエルの地で聖書の話をすると迫力がありぴったしなのだ。
あまりに面白いのでメモをとりいっぱなしであった。

・・・・・・
5160,知の逆転 〜
2015年05月01日(金)
         ー知の逆転ー 対談相手: ジェームズ・ワトソン
   * 人間は、ロジックより感情に支配される
 人間は考えることが重要である。ところが、人は考えずに、そのまま受け
入れてしまう。そして忙しくしていたいだけ。考えるためには知識と判断力
を身に付けなければならない。それらは個人の中で熟成するしかない。
  〜その辺りが説得力を持って語られている
≪・「より良く知っていれば、より良い決断を下せる」。あることを学ぶという
 ことは、ある別のことを捨てる可能性がある。とすると、何を学ぶことが一番
良いことか。これらの問いかけは、「あなたの文化とはいったい何か」という
問いに繋がります。宗教社会では、聖書だけで十分だということになるが、
新約聖書の多くの部分はパウロによって作られた完全なるおとぎ話ということを
我々は既に知っているにかかわらずです。一般の人も、それを知る必要がある。
それは当然のことだが、でも、人は以前教えられたことを、教えたがるもの。
・ほとんどの人は単に物事を「受け入れ」てしまう。「これが小学校で教える
事柄である」と言っておしまい。常に、「これが最良の方法だろうか」と、
問いかける必要がある。考えることが重要なのです。この能力は記憶を主体
とする教育からは生まれない。
・多くの人はただ「忙しくしていたい」だけ。・・(略)
ある時点で、いまやっている実験は果たして思考を変えることが出来るのか、
と問う必要がある。解きたいと思っている問題の解決になるのかと。
単にできるという理由だけでこれをやっているのであって、それが決定的な
結果をもたらすものではないのではないかと。・・(略)
私が成功したのは、よく考え、よく読み、よく知っていたからだと思います。
ビジネスでも同じことが言えるでしょう。他の人が知らないことを知っていて、
それがいいとわかっているので、利益に繋がる。私の大学院でのモットーは、
「知識と判断をもって勝つ」でした。
・革新的なアイディアは押しなべて個人から出てくる。個人を大事にされる
組織や社会でないと発展は望めない。個人の違いを認め合おうと。そして、
何をするにしても、知識や知性よりも情熱が大事。そして、16歳位までに
人生の方向は大方わかっているはずと。≫
▼ 確かに、多くの人は考えないで、ただ忙しくしているだけ。よく考え、
 よく読み、よく知っていることの重要性は、成るほど実感すること。
その結果、教養がつくのである。考えずに現象を、そのまま受け入れている
人たちの薄っぺらさが、何よりも、その恐ろしさを示している。
・・・・・・
4795,「消費される物語」 ー4
2014年05月01日(木)
             朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
  * 二つの大震災は「自然と文明」の大きな物語に開かれる機会だった!
 人生のテーマは、「創業と事業を遊ぶ」だったが、それもブラック・スワン
(思いもよらない震災クラスの事象)の何羽かの出現で終りを遂げたが、結果に
対して挫折感は殆どない。むしろ、自分の手で息の根を止めることが出来て、
良かったと手前勝手に思っている。で、これも、物語。物語とは手前勝手の
筋書きでしかない。無事にリタイアをして、事業を次に送ったとしたら、
閉じられた一つの物語だが、私の結末は、破壊により開かれた物語になる。
ものは考えよう。しかし、物語には節操が必要である。 ーその辺りからー
《 ー忘れられる節操ー  将来への不安がのしかかってなかで、私たちは
 小さく閉じたきな物語の方向に開かれる身近な物語に癒やされているわけ。
最近は作曲家を話題にするときに、作品と関係のない事柄が全面に出てくる。
女性の研究者の話題でも、メディアは研究の内容関係ないファッションや趣味
などを大きく取り上げる。それが節操のないことだという了解がなくなっている。 
STAP細胞を発見したのが、30歳女性ではなく、さえない中年の男性ならこれほど
社会的な関心を持たれることはなかった。本筋と関係ない過剰物語がつくられる
ことで、スタップ細胞について、よりよく理解できたかというと、そうではない。
 物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じている
ということですが、この閉じた物語をあえて開いて、外にまなざしを向けるのが
人間の進歩というものだったと思います。けれども、物語を外に向けて開くこと
なく、心地よい物語を作っては消費して、飽きたら捨ててまた新しい物語を作る。
その繰り返しでは社会の進歩はありません。阪神と東日本の大震災は、
「喪失と癒やし」といった小さな物語として消費されてしまいがちですが、
本来「自然と文明」という大きな物語の方向に開かれるいい機会でした。
人間の文明など、自然の力で一瞬にして押し流されることがある。そう気づいた
以上、「私たちとは何者か」と語りなおすことによって、内向きの物語が外に
向かって開かれる可能性があったのですが。結局、「復興」という美名を冠した
あまたの物語にのみ込まれてしまっています。 私が小説家として目指している
のは「閉じない物語」。いろいろな人間、価値観が混じりあって混然一体となった
空間。いたるところに破れ目や出口がある。あえて完結はしない、
大団円やオチがない物語が理想ですね。》
▼ 地元の城下町・長岡に戻ってきたとき、「アッ危ない!」と思った。
『閉じられた孤島の世界があって、この価値体系に飲み込まれると自分の一生
が潰されてしまう。とにもかくにも、距離を置くこと。自分の世界をつくり、
第三者をいれないこと!』であった。こう割り切ると、これほど面白い世界は
ない。で、今回も、その距離のおかげで、比較的、冷静にいられる。
「目くそ、鼻くそを笑う」というが、そんなもの、「ドくそ、目くそ、鼻くそ
(を)、笑う」でしかない。逆に「ドくそ、目くそ、鼻くそに笑われる」と、
割り切ればよい。所詮は、共同幻想でしかないのだから。挫折を個人にとっての
大震災と喩えると、その人を取り囲んでいる地球の、そして身近な「自然と文明」
に、気づき、開かれる機会になる。この東北大震災も、リーマンショックも、
日本人に、いや、人類にとって、「文明の行方の方向性を、根本から考え直せ」
になる。私も、この結果を含めて人生の意味を考えると、森の生活から、
サバンナの生活に移行し、早く馴染め! ということか。 これからして、
{『東京オリンピック』は、明らかに愚行そのもの!}いや、{オリンピックは
文明の象徴、これで良い!}と意見が分かれるが、私は、せっかくの再生の
チャンスを潰す象徴!の方が、正しいと思うが・・
・・・・・・
4428, 前期高齢者になって、気づいたこと!
2013年05月01日(水)
  * 老人教育の必要性
 前期高齢者になって丸二年になる。丁度、会社も無くなり、年金暮らしに入り、
丸裸の自分に直面、そこで改めて自分の年齢に驚いている。まず気持ちが年齢に
ついていけない。まだ50歳半ばというところ。数年前に親戚の法事に出たが、
宴席で80歳位の人の愚痴が始まった。「後期高齢者という命名が人を馬鹿にした
ようで気に入らない」「免許書換えで、返納を考えるように暗にいわれた」とか。
そこで、年寄りの愚痴ほど周囲を不愉快にすることを教わった。私の両親の愚痴を
殆ど聞いたことはない。 肉体の衰えが精神に転化し顕れるのが愚痴。
スポーツジムに毎日通って腰痛は軽くなったが、何かしらイライラする頻度が
多くなった。さしあたった心配事がないこともある。「前期高齢者」
「後期高齢者」という命名は確かに失敗。例えば前期を「グリーン高齢者」、
後期を「プラチナ高齢者」ぐらいにする心遣いも必要である。歳を重ねるたび
身体は重く、気持ちは暗くなり、身内や身辺の悪口、あら探しの度合いが強く
なるのが老化のようだ。 他人をみると分かるが、自分になると自覚できない。
それもあるから年寄りは意識して明るくなければならない。それと自立が出来て
なかった人ほど老人の甘えが強い。 政府が音頭をとって、地域自治体に
「お年寄りの心得」とかいうセミナーの聴講を義務づければよい。 私など
最も手のつけられない偏屈老人になりそうだが・・ 日本は世界の名だたる
長寿国になったが、それに備える知識教育はされてない。 その以前に、自立と
教養の問題に行き着く。御隠居学とか、余生の過ごし方のようなノウハウ本には、
長年かけた準備が必要とあるが、今日明日、そう簡単に良い老人への変身など
土台無理の話。そこで、せめて「明るく自立した生き方を目指すべき。
老人になると、人生で培ってきた要素の格差が大きく出てくる。老いていく
自分を自虐的に鳥瞰するのも面白いもの!
  ー たまたまだが、以下の内容が、丁度つながる。
・・・・・・
4054, 吹き来る風が私に云う
2012年05月01日(火)
  ー 帰郷 ー   中原中也
柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が 心細さうに揺れてゐる

山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ
路傍の草陰が あどけない愁しみをする

これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと 年増婦の低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云う
  ーー
 この最後の二行が、現在の自分の心?でもある。 
自分だけでない、晩年の人間から湧き出る言葉。
「あゝ、おまえは何をしてきたのだと・・・吹き来る風が云う」 
ったく!お前という奴は!と、まともに人生を生きてくれば、
この言葉が出るのが自然。 秘境ツアーで、平々凡々に生きてきた人が
病気で突然、死に直面し慌てて人生の余白を埋めに来た人に出会ったこと。 
死線を彷徨った手術の後、壮大な景色に感動して夫婦して肩を抱き合い
泣いている姿も見た。ネパールで遠景のヒマラヤ連峰が一望できる丘だった。 
パタゴニアでは初老の婦人が何気なく、「親のいう通り生きてきたが、
ハッと気づくと、先が無い。私の人生で何もしてこなかった。このままでは
死にきれない。この旅行で、その穴埋めにきた」と、道すがら語りかけてきた。
「・・吹き来る風が云う」声で追われるように旅立ってきて、そこで何を
感じたのだろう。実は、この矛盾こそ実在。 生きてきた証である。 
エッ 証文が束になっている? 誰? ただ飄々と風がふく。

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