堀井On-Line



817、「神話の力 」 −2

2003年06月30日(月)

単行本
出版社: 早川書房 ; ISBN: 4152035234 ;
(1992/07)
ー私の感想
この本は、私にとって過去に読んだ本の中でベスト5に入る本である。
随想日記でも何回か取り上げてきた。
自分とは何かを考える時、神話に大きいヒントが隠されている。
日本のような島国の神話は「中空」思想が物語の中に隠されている。
左右に相対立するものを配置して中央に中抜きの存在を置いて、ガス抜きの役割をさせている。今も天皇制が中空としての役割として存在しているのが面白い。
西部劇もそうだ。ある町にふらりと現れた主人公が、そこの悪役と対決して苦難の上に、倒して英雄になり、何処かに帰っていく。これが神話のストーリーと同じである。
男は無意識のうちに英雄願望を持っており、女は誰もがシンデレラ姫コンプレックスを持っているという。結婚して10年も経った姉が「今でもシンデレラコンプレックスある。白馬に乗った王子様が何時か迎えに来てほしいという」と私にうちあけたことがあった。
人間なんてのはそんなものだろうが、これも無意識の中の刻印があるためだろう。
・・・・・・・・・・
ーレビュー
神話はわれわれに何を語ろうとしているのか。
神話が人間の精神に及ぼす見えない影響を明らかにし、全米に神話学ブームを巻き起こしたベストセラー。

目次
第1章 神話と現代の世界
第2章 内面への旅
第3章 最初のストーリーテラーたち
第4章 犠牲と至福
第5章 英雄の冒険
第6章 女神からの贈り物
第7章 愛と結婚の物語
第8章 永遠性の仮面
・・・・・・・・・
<いま生きているという経験>
  神話は人間生活の精神的な可能性を探る鍵である。
「人々はよく生きることの意味を探していると言いますが、人間が本当に探求しているのは<いま生きているという経験>です。」
この本は、神話学の世界的な権威であるジョーゼフ・キャンベルが、世界各地の詩人や賢者の言葉を使い、私たちに「人生は素晴らしいことだ!」ということを伝えてくれる。
古代の神話が失われつつある現代において、今求められている神話がどういうものか、そしてその中で生きる私たちはどのように生きるべきかを導いてくれる本である。
宗教学や神話学に興味のない人であっても、必ず彼の言葉には自分と共通する物語が探せるはずである。
・・・・・・・・・
アメリカ東部で生まれたキャンベルは幼少時代に訪れた、ニューヨークのスミソニアン博物館でエジプトやインド等の古代の様々な展示物に強く感銘し、天命とでもいうべき神話の探求という彼独自の道を踏み出した。
カトリックの厳格な家庭に生まれ育った彼であったが、その枠に留まることなく、ネイティブ・アメリカン(インディアン)の歴史、伝統と儀式に多大な興味を持ち、研究を重ねた。
そして、双方の宗教の中に、そして他の宗教にも現れる、共通の概念、例えば処女降誕や、聖杯伝説というものを発見し、その意味を読み解いた。
アメリカの名門、コロンビア大学で学び、ヨーロッパへも留学した彼は、神話をただ単に昔話の絵空事と考える人々の概念を大きく覆し、神話を読み解く事を通して、神話が、現在生きている我々に生きる道しるべを提供してくれていることを証明してくれた。

彼の神話の探求は、ほぼ全世界の神話の研究に広がり、ただ机上での研究だけではなく、現地に赴き、体験し、遠く離れた地域での神話の共通点を発見し、神話比較学とでもいうべき新しい分野を開拓した。
また、キャンベルは、心理学者のユングとの交流により、時代を超えた人間の普遍的な心理の探求にも、彼の仕事の領域を広げた。そして驚くべきことに、20世紀の偉大な画家、ピカソやクレー、また、トーマス・マンやジェームス・ジョイスという小説家、ドイツの哲学者ショーペンハウワーというような人々の作品にまでも彼の領域を広げている事は、前代見聞の偉業とも言える。
映画“スターウォーズ”を製作した、ジョージルーカスはキャンベルの英雄伝説の解釈を参考にしたとも言われている。
この本は彼が他界する少しまえの彼の仕事の集大成とも言われるもので、アメリカで有名なインタビュアーであるビル・モイヤースとの対話をテレビ放映されたものの翻訳版である。
最後にキャンベルは神話は時とともに、人々とともに変わり、作られていくもので、現在の我々の次の神話の概念は、「国境線がない宇宙からみた地球に想いを馳せ、COMPASSION(思いやり、慈悲の心)を表現する」ものであるというメッセージを残してくれている。

・・・・・・・・・・・
以前書いた内容をコピーしておきます。


2002年02月27日(水)
  344,「神話の世界 」 -1

    ーキャンベルとモイヤーズの対談集を読んで
                 私の愛読書の一冊でもある

「シェーン」をはじめとする西部劇の大部分は、
           [神話のストーリ]の転用であるという。

主人公がある街に流れてくる。
そこで悪に遭遇して、正義感からその悪と対決し退治をする。
そして何も報酬を求めず黙って去っていく。
「英雄の理想像」である。

英雄の立場からすると、大いなる旅に出てそこで色々な困難に遭遇をする。
それと闘い勝利して「大きい精神的な何か」を得て故郷に帰っていく。
アメリカ西部劇の全てに共通しているストーリである。

「スターウオーズ」も、そのストーリーが背後に一本通っている。
現代の神話、西部劇である。

今話題の「千と千ヒロの神隠し」もその筋道だ。
桃太郎、一寸法師などの昔話もそうだ。
挑戦、闘い、変化ー成長、の成長過程が全て含まれている。

我々もそのプロセスを重ねて成長していく。
神話はそういう意味で「人間の一番の本質」といってよい。
誰もが自分を一生を貫いている神話を持っている。
自分にとって誰もが主役、皆が大将である。
「脱皮できない蛇は死ぬ」という諺があるが、神話のない人生をいう。

西部劇をみていて、そこに懐かしいアイデンティテーを感じるのはその為である。
そこに内面の深奥の旅を経験する為だろう。
蛇と鷲の闘いを絵でみたり、TVのドキュメントを見て興奮を覚えるのは、
「地に縛られている蛇」と「飛躍の象徴のわし」の戦いを、
「自身の内面、過去の経験」で知っているからである。

英雄は鷲である。飛躍とは地に縛られている自分からの飛躍である。
蛇は縛られている自分でもある。その自己葛藤がその闘いである。
また蛇は人間がまだサルの時、森に縛られていた時の天敵である。
本能的に嫌うのは、その時の記憶が遺伝子に残っているからだ。

その合体が龍である。羽の生えた蛇である。
何処の世界にも龍という架空の動物がいるのは、人類共通の想像的産物である。
願望の結果である。
神話の中によく大きい鳥に乗り、はるかかなたに旅をする世界共通の物語も
その形を変えたものであろう。

実は私の「秘境のたび」もこれに似ている!
一時の蛇から、森からの飛躍のバーチャル版といっていい。
鳥を飛行機と喩えることができる。








816, 『80対20の法則』ー読書日記

2003年06月29日(日)


 リチャード・コッチ著 
 仁平和夫訳 
 TBSブリタニカ
 ・・・・・・
ー私の解説ー 
 数年前になるが、この本を読んだ時はショックであった。
約100年前のイタリアの経済学者パレートは、19世紀のイギリスにおける所得と資産の分布を調査した結果、所得と資産が一部の人達に集中していることを発見し、2つの奇妙な事実に気が付いた。「わずか20%の人達に資産総額の80%が集中していた」という数理的事実を発見した。
以前からABC 分析や戦略論などがあったが、この本は非常にわかり易い内容であった。
この法則を知っているかどうかで、数倍も人生を濃く生きる事が可能になる。7つの法則ー最優先事項ーに、要約すると似ているところがある。
人は無意識的に「如何でもよい方の80」を選択しているように思えて仕方がない。 
どの要因の20%が結果の80%を決定するのかを、つねに自分に問いかけてみる習慣をつけるかだが。 

ー 以下は幾つかのホームページから抜粋したものである。 
■この本の内容
・80対20の法則とは、たとえば、あなたが成し遂げる仕事の80%は、費やした時間 の20%から生まれる。
・あるいは、本の価値の80%は、ページ数にして20%以下の中 にみつけることができることなどをいう。但し、80対20というのは目安にすぎず、 不均衡がもっと大きくなる場合もあれば、小さくなる場合もある。
★80対20の法則を理解すれば、自分の周りで起こっていることがじつによくわかっ てくる。
 80対20の法則をうまく活かせば、何もかも驚くほど改善する。
★80対20の思考とは、数量分析をせずに、80対20の法則を日常生活に適用することである。

★目に見えない20%、水面下に隠れている20%をみつけ、求めよ。
★80対20の思考の目的は、行動はひとまず忘れ、しずかに考え、心の闇の中に光を 見いだし、それから行動を起こすことにある。そして、行動を起こすときは、目標をふ るいにかけ、いちばん大切なものに的を絞り、必要最小限のエネルギーと資源で最大限 の結果を出すために全力をあげる。

★戦略的ということは、重要なこと、他人にとって以上に自分にとって重要なことに力 を集中し、計画を立て、断固とした決意で粘り強く、その計画を実行していくことである。
★80対20思考は、経験と思索と想像力に訴えるものなので、線形ロジックの罠から 抜け出すことができる。自分は今不幸だと感じているとしたら、その原因をあれこれ考 えてはいけない。幸せだった日々を思い出し、それと同じような状況をつくり出そうと
 考えたほうがいい。
★達成と幸福の80%は、時間の20%の中で起こる。
★重要な鍵を握っている要因はつねに、ごく限られており、それは目に見えにくいこと が多い。それが何であるかがわかったら、その力をいままでの何倍も活かせる。
★誰でも、偉大なことを成し遂げられる。鍵は努力ではなく、やるべきことをみつけら れるかどうかである。
★もっと努力しようと思うより、好きなことに力を集中したほうが勝つ確立は高くなる。
★すばらしい事を成し遂げるのは、モノを選り分ける能力があり、一度決断したら迷わ  ない人である。
★ほとんどの人は、自分にとっても他人にとっても価値がないことに、たくさんの時間 を費やす。
★価値ある仕事の80%は、使う時間の20%で達成される。
★幸福の80%は、人生の20%で経験する。
★時間のわずか20%を有効に使うだけで、時間が足りないということはなくなる。
★80対20の法則は単純明快である。衆に抜きんでていること、自分がいちばん楽しい と思うことに全力をあげろ。それが80対20の教えである。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■80対20の法則ってよく聞くものだが、この本を読むと「一人勝ちの経済」「スピードの経済」とも絡みあい、そのバックボーンとなっている。
 この法則を知るか知らないかは大きな分岐点。

★80対20の法則は、われわれが何をすべきかを教えてくれる。
 努力の平均水準を上げるのではなく、努力を集中する。決められたコースを走るのではなく、近道を探す。最小限度努力で人生の支配権を。多くの分野で平均点をとるのではなく一つの分野で卓越した成績を上げる仕事でも自動車の修理でも、自分でやらずにできるだけ専門家に任せる。
 よくよく考えて、仕事と会社を選ぶ。できれば、他人に雇われるより、他人を雇った方がいい。
 一番得意とすることで一番楽しいと思うことだけをやるあたり次第にチャンスに追いつくのではなく、気を沈め、仕事量を減らしゴールへの最短距離に照準をあてる油が乗り切った時期に訪れる幸運の連続を大切にし、それを元手に将来の成功を確保。

★成功している企業は、努力で最大限の収益を上げられる市場で事業を行っている。そして、投資収益率の絶対水準が高く、なおかつ利益率が競争相手より高くなければ、成功している企業とはいえない
 これはすべての企業にいえることだが、現在最大の「黒字」を上げている市場分野や顧客グループにまとを絞れば、業績を目覚ましく伸ばすことが常に可能である。最も黒字を出している分野に資源を再配分し、他には資源と経費の全体の水準を下げなければならない。社内の不均衡を解消することで、黒字を増やすことができる。最高の黒字を出している会社の部分・営業所・部門などを見つけ、抜本的な改善策をメリット、改善の見込みがなければ、その部分での資源投入をやめることで、それができる。

☆80対20の法則を生かした付加意思決定の原則

極めて重要な決定はそれほど多くはない。何かが決定を下す前に行って目の前に二つの書類を受けがあると想像してみよう。机の上によくある掲載箱と未決箱のような箱の代わりに、重要な決定というラベルを張り、もう一方に重要でないというラベルを張る。そして重要な決定に入るものは20のうち一つくらいであることを思い出しながら、頭の中で決定事項を振り分けていく。重要でないものについては、あれこれ頭を悩ましてはいけない

八十%のデータを集め、使える時間の20%で80%の分析を行い、残りの時間を100パーセントを使って下す。そして、下した決定が100パーセント正しいと信じて、果敢に行動する

下した決定が間違っているかがわかったら、すぐに考えを変える。市場をというのは休みなく動き続けているものなので、山のように積まれた分析結果をより、市場の方がはるかに正しいのだから、実験を恐れてはいけない。間違った決定版にしがみついてはいけない。
市場の流れに逆らってはいけない。

事態が思い通りに突き進んできたら、掛け金を2倍に増やしていく。なぜうまくいっているのかわからなくても、追い風が吹いている間に全力で従う。

★多数より常に少数の方がはるかに重要

★生産性が低い分野から生産性が高い分野に資源をうつすのが、起業家の仕事であり自由市場の本来の役割である。しかし、起業家も市場もその役割を果たしているとは思えない。複雑な企業や官僚組織は言わずもがだ。どこを見渡しても無駄が多い。しかもあきれるほど多い。資源の80%は価値の20%しか生み出していない。従って、真の起業家の前には、常に裁定機会がある。そして裁定機会は、通常思われているよりはるかに多い。

★ほんの一握りの人が価値の大半を創造する

★価値とコスト努力と報酬との間には、常に大きなアンバランスがある

★資源配分は常に間違っている。ほとんどの会社が、低採算の活動に資源を与えすぎ、高い採算の活動に資源を与えなさすぎる。おんぶにだっこの事業は、いつまでたっても自立できない。採算が悪いからもっと資源を与えようというのは話が逆である。

★均衡は幻想。永遠に続くものは何もない。永続的なものがあるとすれば、
それはイノベーションだけである。イノベーションは常に抵抗に会い、多くの場合成功が遅れるが、死に絶えることはまれである。イノベーションに成功すれば、生産性は今よりはるかに高まる。
ある線を超えると、イノベーションの勢いにはだれも抵抗できなくなる。個人であれ、企業であれ、国家であれ、めざましいイノベーションに取り組んだからといって成功するものではない。もう誰にも押しとどめようがないところまでイノベーションを進めた場合のみ、成功するのである。

★大きな勝利はすべて、小さな勝利から始まる。ちょっとしたきっかけで、大ヒットするとは思えない製品、小さな会社、小さな市場・・・。こうしたものが大成功に向けた第一歩になる。
そしてその小さな第一歩は一顧だにされないことが多い。われわれはすでに存在している大きなものに目を奪われがちであり、身辺の新しいさざ波には注意を払わない。それに気付くのは、大きな波になって、上成長が加速し始めてからである。
小さな波に乗った最初に力付いたごく少数の人達だけ、一財産築くことができる。すでにその波に乗っていながら、その重大性に気づかず、目の前に開けた大きなチャンスも逸する人たちは多い。

☆80対20思考は本質的に楽観的である。物事はすべて、思ったよりもたいしたことではないという事実を明らかにするからだ。成果を上げるのに、本当に重要な資源は20%だけである。
残りの大半は、ないよりあった方がよいと言う程度のものである。従って、その20%にもっと力を入れて、残りの80%をもっとましなレベルまで引き上げれば、成果は何倍も大きくなる。

80対20思考をすると、気が楽になる。たったひとつの単純な原因で起こることなど何もない。
必然などということは何もない。均衡は存在しないし、変わらないものは何もない。
不快なことを我慢している必要はない。望んで手に入らないものは何ひとつない。
なにが原因で何が起こるかは、実際のところ、よくはわからない。意外な要因が大きな力を持っていることもある。ちょっとしたことで、状況がガラリと変わることもある。
重要だが決定的というのは、数えるくらいしかない。
そして、どんな状況でも、必ず選択の余地はある。80対20思考は経験と施策と創造力に耐えるものなので、先手ロジックの罠から抜け出すことができる。

自分は今不幸だと感じているとしたら、成功したときを思い出し、それと同じような状況を
つくり出そうと考えた方がいい。仕事で、厚い壁に突き当たったとき、つまらないことを考えてはいけない。
自分の事や人生にとって、なにが本当に重要かを考えた方がいい。
われわれの時間の使い方は合理的ではない。時間は余っている。時間の20%を有効に使いさえ
すればいいのだから。そして、有能な人の場合はほとんど、ほんの一部の時間の使い方はで、
他人に大きな差をつけている。重要な20%の活動に使う時間も倍に増やすほか、週に二日働くだけで、
現在よりも 60%高い成果を上げることが出来る。

★時間も敵ではなく友人として扱う。

★時間革命を起こす際、七つのステップが必要
 
 …努力と報酬は別物と考える。
 ∈甍感を捨てる。
2,敬佞韻蕕譴燭仕事から自分を解放をする。
ぜ蠡海にとらわれず、柔軟な時間の使い方を考える。
ト十%を与えてくれる 二十%が何かを見つけると。
θ十%をを与えてくれる二十%に使う時間をもっと増やす。
Г弔泙蕕覆い海箸呂笋瓩

★時間の利用法ワースト10。
 ‖梢佑ら頼まれたことをやる。
 △い弔盡き合っていることをやる。
 あまり得意でないことをやる。
 こ擇靴ないことをやる。
 イ燭┐瑳挧發入ることをやる。
 β梢佑ほとんど関心を持っていないことをやる。
Ч佑┐討い燭茲蠅垢任忙間が二倍かかっていることを続ける。
┸頼できない人と仕事をする。
山あり谷ありのサイクルが予想できることをやる。
宇宙電話気に入っている

★時間の利用法をベスト10
 /誉犬量榲に沿った事をやる。
 △い弔發笋蠅燭い隼廚辰討い襪海箸鬚笋襦
 H十%の成果を生み出す二十%のことをやる。
 ず脳限の時間で最大限の成果を上げる方法も考える。
シにはできこないといわれていることをやる。
κ未諒野で波誰かが大成功を収めたことをやる。
Ъ分の想像力を生かせることをやる。
┸佑貿い擦蕕譟⊆分はほとんど遊んでいればいいことをやる。
常識外れの時間の使い方をしていて成功している人と手を組む。
やらなければ生涯出来ないことをやる

・・・・・・・・・・・・・・・・
八〇対二〇の法則は、われわれが何をすべきかを教えてくれる。

◆努力の平均水準を上げるのではなく、努力を一点に集中する。

◆決められたコースを走るのではなく、近道を探す。

◆最小限の努力で、人生の支配権を握る。

◆網を広げるのではなく、網を狭める。

◆多くの分野で平均点を取るのではなく、一つの分野で突出した成 績を上げる。

◆日常生活で、できる限りアウトソーシング(業務の委託・外注)を進める。
 庭仕事でも、自動車の修理でも、自分でやらずにでき るだけ専門家に任せる。

◆よくよく考えて、仕事と会社を選ぶ。できれば、他人に雇われるより、他人を雇ったほうがいい。

◆いちばん得意とすること、いちばん楽しいと思うことだけをやる。

◆水面下に隠れている皮肉な現象や不思議な出来事を探す。

◆重要な分野ではすべて、二〇%の努力が八〇%につながるように 調整する。

◆手当たり次第にチャンスに飛びつくのではなく、気をしずめ、仕 事量を減らし、ゴールへの最短距離に照準をあてる。

◆脂が乗り切った時期に訪れる「幸運の連続」を大切にし、それを 元手に将来の成功を確保する。


815,  たそがれ清兵衛

2003年06月28日(土)


 構想十年、山田監督が藤沢周平の時代劇を選び映画化した話題の作。
中年男性が目に涙をいっぱいためて映画館から出てくるという。
昨年、行きそびれてしまい、DVDレンタルがでたら借りようと待っていた。
4月に貸し出し開始の予告の張り出し広告が、レンタルショップに出た。
しかし店頭には中々でなかったが、やっと3週間前に出た。
ところがいつも貸し出し中。それがやっと昨日借りることができた。

 藤沢作品は表題作を始め、どの短編もいじらしく人間くさい主人公と、
普段は見せぬがいざというときに出てくるあざやかな剣さばきの対比が素晴らしい。
作者が晩年に達したといわれるユーモアとペーソスをさわやかに織り成しながら、剣客小説としての凄絶さも失われないのがよい。
彼の多くの小説の共通点がある。
地方の名も知れぬ小さな藩の中の、風変わりな主人公が、それゆえに周囲からあざ笑われている。しかしそこで、お家騒動がおこり巻き込まれていく。
そして・・・

早速、映画をみて驚いた。
小説と映画は全くといってよいほど違っていた。

ー映画のあらすじは
 時は幕末。庄内地方の海坂藩の平侍井口清兵衛は妻を亡くし、家には二人の娘(萱野と以登)、そして老母がいる。そのため生活は苦しく、下城の太鼓がなると同僚の付き合いなどを一切断って帰り、毎日家事と内職に励んでいる。同僚たちはそんな清兵衛をからかって、陰で“たそがれ清兵衛”と呼んでいた。

ある日、かつて想いをよせていた幼なじみ・朋江の危機を救ったことから剣の腕が藩士の噂となり、上意討ちの討ち手として清兵衛が選ばれる。藩命には逆らえずやむなく承知した清兵衛は、朋江への秘めた想いを打ち明け、意を決して邸に向かう。
愛する家族に背を向け、命を賭けた果し合いに向かった・・・。

ー小説の「たそがれ清兵衛」では、
人間愛(夫婦愛)が描かれている、それと完全並立するかたちで、武士社会の論理も描かれている。
主人公のもとに上意討ちの討手の役がひそかに舞い込む。
実は彼は若い頃には藩内でも一,二を争う剣の腕前であった。
夕方の城中での上意討ちが刻々と迫る中、愛する女房の下がもれてないか気が気でたまらぬ。
が、そこは主人公、相手を鮮やかな腕で始末した後、いそいで女房の下の世話へと急ぐ・・。
病気の妻に優しい主人公。しかし「上意」(主君の命令)により何のためらいもなく、人を殺す。いやためらいはある。それは殺害の日には帰りが遅くなるので、妻の介護に差し支えはしないかという心配のためだ。
 また、その後日、殺した相手の護衛が主人公を殺そうとするのですが、この時も、主人公は実にあっさりとその人物を殺している。何のためらいも、葛藤もなく。そして平然とその場を立ち去り、妻の元に急いで帰ってゆく。
  ・・・・・

 私はどちらかというと山田洋次の映画のストーリーが好きだ。
やはり、私も映画をみ終わって涙があふれていた。
何ともいえない藤沢と山田洋次の合作がよい。
とくに上意討ちにあう男の生き様に、何ともいえない日本人の悲しさ、美しさが出ていた。

ーーある書評ーーのコピーです。

山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」「学校」は、邦画の中では私のベスト5に入るくらい大好きな作品です。見る度に涙が溢れて仕方がない傑作ですね。そんな山田監督が初めての時代劇を作ると聞いた時、普通のチャンバラ映画にはならないなと密かに思っていました。
黒澤時代劇を敬愛する監督のこと、それまでにはない時代劇を目指すのは当然と言えば
当然です。そこで描かれる世界は、とてもリアリスティックで現代的。
まるで平サラリーマンの生活を見ているかのような感覚です。家族を養う為に仕事に出かけ、家に帰れば内職する毎日。定時になると、すぐに帰ってしまう付き合いの悪い人って確かに現代でもいますよね。そんな人を陰でからかう人がいますが、もしかしたら清兵衛のように家族の為に帰っているのかもしれない。
家族のあるべき姿、現代人のあるべき姿が、清兵衛という平侍の生活を通して語ること、それこそ山田洋次監督が描きたかったことのように思います。
映画の後半、清兵衛はある暗殺を命じられます。もちろん断ることはできない。現代社会で言えば、上司に逆らえない平サラリーマンの姿そのもの。
果し合いの日、周囲は何事もなくいつもの朝を迎えるが、清兵衛にとっては心中穏やかではない。養わねばならない家族を残し、死ぬかもしれない果し合いに挑む清兵衛の心だけは、激しく揺れ動いていたに違いない。朋江に身なりを整えてもらうここでのシーンは、印象的で素敵な名場面です。果し合い。男なら誰でも一度は迎える真剣勝負。
文字通り、清兵衛は小太刀を握り締めて、死闘に赴いていく。送り出すのは、妻か恋人か。このようなシチュエーションは、常にどの時代でもあったはずです。
山田監督は、この朝を迎えるまでの清兵衛の生活を、じっくりと描き出している。それだけに、この時の清兵衛の胸中を思うと、胸が苦しくて仕方がない。そして、見せ場となるクライマックスの死闘。この余吾善右衛門との一連のシーンは、従来の時代劇にはない生々しさがあって壮絶です。山田監督の描きたかった思想は、ここでの清兵衛と余吾善右衛門の会話に最も現れているような気がしました。
やがて迎える爽やかなエンディング。井上陽水の主題歌「決められたリズム」が効果的に使われていて、素晴らしい余韻を残す作品になっていました。必見です。

複雑な清兵衛の役どころを繊細に演じる真田広之が素晴らしい。私の好きなこの役者さんは、どんな役でもこなしてしまう人。つい最近の「助太刀屋助六」でも好演していましたし、演技派として最も才能のある一人だと思います。そして、ラスト数十分ながら最も印象を残す田中泯さん。
これが銀幕デビューだとは思えない気迫のある演技で、真田と対等に渡り合っていました。
最後の殺陣シーンは、本気で望んだそうです。それだけにリアルで怖ろしかった。最も重要なこのシーンが成功したのも、彼の存在によるところが大きいと言えるかもね。
もちろん、朋江役の宮沢りえも言うことなしです。「遊園驚夢 華の愛」を観た時にも感じましたが、本物の女優として着実に成長している人だと思います。頑張って欲しいですね。

http://www.shochiku.co.jp/seibei/


814, 「ありがとう」の言葉 −6

2003年06月27日(金)


 昨日、現地見学ということで千葉の越谷に行ったが、どうしても現地の場所がわからない。
たまたま通りがかりの自転車に乗った女の人に聞いたら、そっちに行くから案内をしてくれるという。ところがなかなか現地のその場所がわからない。
普通なら、途中で「誰かに聞いてください!」というのが当たり前なのに、30分近くも一緒にさがしてくれた。
人品のよい、かなりの人というのは勘でわかったが、こういう時の親切は本当に嬉しいものだ。
最後にお礼を言おうとしたが、逃げるように帰って行った。
その時ハッとしたのが、「ありがとう」という言葉が心から出ていたことだった。さがしている間に何回も何回も「ありがとうございます」といっていたのだ。
「ありがとう」といい続けていれば有り難いことがよってくる。
先日から「ありがとう」の言葉を繰りかえしていたために、ありがたい気持ちが伝わったのだ。
もちろん、その人がそれなりの人品の人という前提があったが。
「ありがとう」を口ずさむ習慣を身につけて、実感として自分が一番足りなかったのが、「ありがとう」という気持ではなかったかということだ。
私の場合は特に亡くなった両親に一日千回いったとしても、足りない。
まして恩師や上司や先輩に対して考えてみると、数千回いっても足りない位だ。
そういう視点で周囲を見渡すと、幸不幸は「ありがたい」という気持ちをどれ位持てるかどうかで決まってくるのが歴然としている。
何か修身みたいな話だが、やはり歳をとった為なのか?
「やれる親切は可能な限りする」というのが信条なのだが、見知らぬ地で見知らぬ人に困り果てた時にあってみて、親切心は、教養という面で身に付けておきたいものだと思い知らされた。


813, 日暮里界隈

2003年06月26日(木)

一度、日暮里に行きたい思っていたが、念願かなって知人に夜の日暮里を
案内してもらった。
谷中銀座と日暮里駅の中間を少し入り込んだところに、時代から取り残されたような場末の飲食街があった。
それが何ともレトロ調で映画のセットの中に入ってしまったよう感覚だ。
知人の会社の東京事務所があったため、よく通ったという店があった。
沖縄出身の60歳位の女将がやっている7~8人位しか入れない沖縄料理の
小さい店であった。
店の名前は『あさと』といって、本人の名字の安里をそのままつけていた。
石垣島出身で、具志堅用高もわざわざ訪ねてきたという。
何とも沖縄料理がおいしい。
豆腐よう、ほしぶどう、ゴーヤーの炒め物、そして泡盛が絶品であった。
そういえばこの数ヶ月、泡盛を晩酌で飲んでいる。
スーパーで売っているが、ブレンドされた泡盛がいやにおいしい。
店の中の全員がお互いの話を旧知のように話し合える感じがよい。
それこそ若い人は皆無という雰囲気がまたよいのだ。
たまたま若い女性が一人入ってきて飲んでいた。
話しかけると「2~3日うちに石垣島に亭主と行く」とのことで、
女将に知り合いの店を紹介してもらっていた。
何か楽しくなって、下の息子を呼びだして一緒に呑むことになった。
本人も目をクリクリさせて、「今時、凄いところがあるものだ!」と驚いていた。
その後にもう一軒、谷中銀座の中にある居酒屋にいったが、
ここも印象深い店であった。大きいメンチカツが何とも美味しい!


812, 変な人が書いた成功法則 ー 読書日記

2003年06月25日(水)


 
 昨日、新潟駅のセゾンの本屋で本を眺めていると、ふと見たことのある人がいる。
コンサルトをお願いをしている林さんだ。
先日、産能大学で臨時講師という珍しい経験をさせてもらった人だ。
まさかと思って声をかけたら、やはり林さんである。
これからある会社にコンサルトにいくという。
「面白い本がある!」と彼がいう。
ピンときたので、この本でしょうとその本のところに案内をすると、
やはりそうであった。
先日「大丈夫」というテーマで書いた本だった。
買うには、少し俗っぽい本で、10回に分けて立ち読みで済ますつもりであった。
しかしこれも因縁と買うことにした。

「長者番付日本一」といううたい文句が嫌で買わなかったが、それが買ってみると面白い。
自腹を切るとやはり違う、元を取ってやろうと思う為だ。
元気が出る名言が次々書いてあるのだ。
中村天風の小型バンという内容だが、この不景気に面白い。
ー楽しい生き方を真似をすると、お金と健康と幸せが雪崩のようにやってくる!
というのが、一貫して流れている。
・「しあわせだな〜」を口癖に
・言葉が変わると行動も変わってくる
 何事も千回言葉に出していうと『千回の法則』で心が見違えるほどきれいになる
 口に出せば幸せはあとからついてくる
・外見だけでも人生が変わってくる
・モテる超簡単な口癖
・抵抗力が強いほど幸せになれる

・・・・・・・・・・・・
「変な人が書いた成功法則 」
 講談社
 斎藤 一人 (著)
ー目次
 第一章  千回の法則
 第二章  バランスの法則
 第三章  加速の法則
 第四章  七八点の法則
ー内容ー
 中学卒業後、裸一貫から「日本一の大金持ち」になった著者が説く、
人生を明るく楽しく生きてリッチになる「究極の成功法」!
「仕事がカンタンでなぜ悪い? 楽をするから成功する」
「口に出せば幸せはあとからついてくる」「外見だけで人生は変わる」
「ダメ人間のほうが成功する」など、著者が語る「新常識」の数々には、
幸せになる「宇宙の法則」がいっぱい。「人生に困ったことは起こらない」
と神様が決めているから、誰だって笑いながら大成功する!
内容(「MARC」データベースより)
日本一の大金持ちが極めた努力しない成功法。成功の秘訣は楽しくて仕方が
ない生き方。「千回の法則」「バランスの法則」「加速の法則」「七八点の法則」
にしたがえば、幸せは向こうから雪崩のようにやってくる!


811, 「最良」の敵は「良」である

2003年06月24日(火)


ある本の冒頭に出ていた見出しである。
ー以下に書き写してみるー

「重要事項を優先すること」は、人生の核心に関する問題といえる。
ほとんどの人は、「やりたいこと」や「やらなくてはならないこと」が
ありすぎて疲れ果てている。自分の時間を最大限に使い果たすために、
そのときどき、あるいは一瞬一瞬、行動を決定することは大変なことである。
「良」か「悪」を見分けることは簡単だ。無駄な時間や愚かな時間の
時間の使い方なら誰にもすぐに分る。

「良」か「最良」かを見分ることが難しいのだ。
「最良』の敵は「良」であることが多いからだ。
あなたにとっての「最良」とは何だろうか。

「最良」のために時間を使うことを妨げているのは何だろうか。
それは意外なことに、あまりに多い「良」が邪魔をしている。
数多くの「良」に邪魔をされて、最優先事項を優先できなかったことを、
ほとんどの人が後悔するのである。・・・・・・・・・・・

ー以上であるが、
「無意識的に小事に取り組んでいるのは、意識的に大事に取り組まないのと同じだ」
と次の項目にあった。
小事が「良」大事が「最良」と考えてみると
小事が最大の敵というのが解る。
小事も大事であるが、それにとらわれて大事を見逃すことが致命傷になる。
目先の緊急を処理することが、いっけん大事そうだが、これが敵である。
「最良」を明確にして、真北(北極点)に向かって常に磁石の針を「最優先事項」に向けていなくてはならない。

 何かハッとする言葉である。
イトーヨーカドウで「ヘドロー売れ筋外れ商品」の仕入れ原因を調査した。
ーそれがなんと売れ筋商品の品切れをカバーする為に仕入れた類似商品だったー売れ筋を最良とみて、次善の商品を入れたつもりが、最悪の事態を呼び寄せてしまった。少し意味がそれたか?
人生そのものであると同時に、すべてに当てはまることといってよいだろう。
今の日本の姿といってもよいだろう。
自民党旧守派が常に「足して二で割る」政策をしてきたことが、この「良」といえる。
日本をここまで追い込んだのは醜悪集団が「良」の選択をしてきた結果である。単なる利権集団屋さえ気がつかない低俗国民に問題ありだが。

最良の「敵」が「良」とは、もっと早く気がついているべきであった!
気がついているほうであったが、それは「良?」の人に比べてか。
最良じゃない自分がいう権利はないか?
しかし真北の選択という面で最良は選ぶことはできたはずだ。
その都度真北を見てきたつもりであったが、どうであろうか。
私が意識的にー敵(良)としてきたことは俗に言う「世間様」である。
それでも一言で「『最良』の敵は『良』である』とずばりいってのけるとは!

「7つの習慣」よりこの本のほうがずばり書いてあってよい!

・・・・・・・・・・
「7つの習慣 最優先事項」
  ―「人生の選択」と時間の原則

出版社: キングベアー出版 ;
ISBN: 4906638112 ; (2000/07)
スティーブン・R. コヴィー (著), レベッカ・R. メリル (著),
宮崎 伸治 (翻訳)
ー内容(「BOOK」データベースより) ー
・『7つの習慣』で世界を揺るがせたスティーブン・コヴィーが再び放つ話題のベストセラー、
 ついに登場!「人生の本当の仕事」を探しに、いま知的冒険の旅が始まる。
『7つの習慣』における最大のポイントを徹底追究。

・もっと時間を有効に使いたい。ストレスを感じることなく毎日を過ごしたい。
人生の目的や目標を達成したい。これらを実現させるための原則や法則を詳細に
掘り下げてまとめた。「7つの習慣」の続編。
http://www.asahi-net.or.jp/~gw5k-tksw/business/book/seven/seven_habits.htm
http://member.nifty.ne.jp/hamada/f990704a.htm
ー目次ー
ー第1部
 時計と羅針盤(コンパス)(死の床で、どれくらいの人が、
「人生をもっと仕事場で過ごせばよかった」と思うだろう。
・緊急中毒
・生きること、愛すること、学ぶこと、そして貢献すること)
ー第2部
 最優先しなければならない重要事項を探る(第二領域時間管理―重要事項を
 優先する方法とは
 ビジョンが発するエネルギー役割と役割の間のバランス ほか)
ー第3部
 相互依存の相乗効果(相互依存の現実ほかの人と一緒に重要事項を優先する
 インサイド・アウトからのエンパワーメント)
ー第4部
 原則中心の生き方における"力と安らぎ"(時間管理から自己リーダーシップの確立へ
 結果としての「安らぎ」)
 
カスタマーレビュー
おすすめ度:
9 人中、8人の方が、このレビューが参考になったと投票しています。
ーこれを読むと怠惰でいられなくなる, 2003/03/31
レビュアー: 九州商人 (プロフィールを見る)   宮崎県宮崎市
凄い本です。
大抵の書籍は人間の「脳みそ」に働きかけてきます。しかし行動までも変えてくれた書籍に貴方は
出会った事がありますか?例え行動を変えられたとしてもその行動を継続して維持できていますか?
「ようし、やるぞ!」と燃える事は出来ても継続させる事は出来ない、
そんな事が多くないでしょうか?
この本は「正直者が報われる」ための本です。この書籍に書かれてある事をバカ正直に
実行してみてください。私自身「テレビ依存症」がすっかり直り、仕事への時間配分を
「苦しむ事なく」実行できる様になりました。

毎朝5時起床してますがそれは、「嫌がる自分に打ち勝っているから」ではなく、
この本を読んだ事で「怠惰でいない自分が気持ちいい」という域に達したからだと思ってます。


810, 「ありがとう」の言葉−5

2003年06月23日(月)

 最近は殆んど見られなくなったが、石油スタンドが完全自由化になる以前は、まだ石油の価格が暗黙のうちに規制されていた。
その際の、ガソリンスタンドの差別化として、お客の車に対して深深と頭を下げるのが流行っていた時期があった。
 30年前に千葉市の千城台で「養老の滝」を始めたとき教えられたのが、「お客の後姿に頭を下げろ」であった。
帰ったお客ではなく、店内のお客に対して見せる為だ。
ガソリンスタンドも同じことだ。
「頭を下げなくともいいから値を下げろ!」といつも思っていたが。

 長年メイン銀行の店長や次長が転勤する時、栄転祝いを贈っていた。
もう10年前のことで問題がないから書くが、ある支店長が転出の挨拶に来たときに、不思議な顔をして「何も見返りがないのに何で祝い品をくれるのか?」と聞いた。その時に千城台で教わった話をした。
「こうしていると、直接関係のない、栄転祝いなど関係ない人もくる。
この地を去る時に侘しい気持ちがあるが、ここにくれば気持ちを含めて見送ってもらえる。その意味で直接の見返りなど全く期待してない」と。
一本やられてしまったという感じであった。
 彼が去ってから解ったことだが、金利変更時で当然上がるべき金利が上がってなかった。彼の指示で、200万は金利が低かった。


「ありがとう」のエネルギーはブラックホール内の特異点から出てくる光という。これ似ている言葉が「正中心一点無」がある。
この「正中心一点」とは特異点といってよい。
そして「無」がエネルギーである。
無は色即是空・空即是色の空である。

ー先日、サロンのコーナーに載せた内容をコピーしておきますー
 ーーーーーーーー
 ・「あ」というのが「絶対[ぜったい]」という「光源[こうげん]・光[ひか り]・
 命[いのち]の本源[ほんげん]」というのが「あ」、全[すべ]ての始[はじ]まり。
・「り」が、らせん状[じょう]」に全[すべ]てが生[う]み出[だ]されて組 [く]み合[あ]わさっていくという意味[いみ]で、ら行音[ぎょうおん]の「り」を使[つか]って いて、
・「が」が、「か」をダブらせて「輝[かがや]きに輝[かがや]く」という意味[いみ]  で、「無限[むげん]に無限[むげん]に輝[かがや]いている」というのがが」。
・「とう」いうのが「十字[じゅうじ]」にみて、縦横[じゅうおう]の組[く]み合[あ]わせ、と見[み]てもいいし、また「ありがたし」のた行音[ぎょうおん]とさ行音[ぎょうおん]というふうに分[わ]けた時[とき]は、た行音[ぎょうおん]が縦[たて]で、さ行音[ぎょうおん]が横[よこ]。相対[そうたい]に別[わか]れた両極[りょうきょく]を縦横[じゅうおう]に組[く]み合[あ]わせて一[ひと]つのものを創[つく]りあげる。

 だから絶対[ぜったい]の無限[むげん]の無限[むげん]の更[さら]に無限[むげん]の大光明[だいこうみょう]がね 出発点[しゅっぱつてん]にあって、そこから複雑無限[ふくざつむげん]の創造[そうぞう]活動[かつどう]が行[おこな]われて、無限[むげん]に輝[かがや]いた最高表現[さいこうひょうげん]が生[う]み出[だ]されて、それが完璧[かんぺき]に組[く]み合[あ]わさって本当[ほんとう]の全大宇宙[ぜんだいうちゅう]の姿[すがた]をとってる。これが「ありがとう」という意味[いみ]ですね。


809, 与三八さんー名前と人生

2003年06月22日(日)

以前にも少し書いた事があるが、私の兄ー三郎と、私ー八郎の仲人の名前が
与三八さんである。ウソみたいだが本当の話である。
本人に以前、意識していたか訊いたことがあるが(^^ゞと笑って答えなかった。たまたま母に頼まれ嫁さんを探してきたのだが、ブラックジョークのようだ。
兄にしても、私にしても他の何処かで因縁があれば他の人と結婚していたと思うし、やはり奇遇といってよいのだろう。

名前は、その人の人生をある程度左右するのは間違いない。
(刑務所の囚人に恵とか豊とつく名前はいくらでもあるから一概に言えないが)私が名前に対して意識しだしたのは20代なかばであった。
「ビルを八つ建ててやろう」と、過去に6棟つくったが、ホテルの第二と第三の増築を入れると8棟になる。
私の家内は恵子だが、これだけ何事?にも恵まれている人は見たことがない。そのように生まれてきたようだ。但し亭主には恵まれてはいなかったか?

何かの本に名前の中に人生が隠されているとも書いてあった。
字の組み合わせをパズルのように変えたりすると現れるという。
女性が結婚を繰り返す場合など、恐ろしく運命が変わったりするが名前の組み合わせに暗示しているケースがあるという。
名前は親が願いを込めてつけるのだから、念が入っている。
その名前を朝から晩まで呼ばれるのだから運命を左右するのは当然である。

私の八はきょうだいで八番目に、兄の名前の三郎は男で三番目に生まれた為につけられたが、戦災後のドサクサで名前をイチイチつけるのが面倒でつけたのではないか?と邪推している。
母に八は末広がりでよい人生が待っていると度々いわれていた。
中国では八はお金に因縁があるというが、どうであったか?
少なくともお金の苦労はしたことがなかった。
もっとも、これから何か怪しくなってきたが??!!


808, 大丈夫

2003年06月21日(土)



 一休が死ぬ間際に、自分が死んだ後もし如何にもならなくなった時に開く
ようにと一通の封筒を残した。そして残されたものが、如何にもならなくなった時がきた時に封筒を開いた。
その中味には「何とかなる!」と書いてあったという話が残っている。
本当かどうか解らないが、一休らしい逸話である。

 先日、本屋で立ち読みをしていたらある本の目次に「女に持てる法」という項目があった。さてと心トキメイテそこをみて驚いた。
常に「大丈夫!」といい続けることだと。
何か肩透かしを食らったようであったが、納得した。
言葉だけでも、誰もが「大丈夫!」といって欲しいのが心理である。
それも女性なら尚のことである。

 最悪の「死」を考えてみても、死んだ瞬間には本人にとって死ではなくなる。あるのは「死」に対する恐怖である。
だから何事も「大丈夫!」といえるのだ。
何事も90数佑、あくまでも不安という恐怖心でしかない。

 話はそれるが「女にもてる法」といえば、九州の学生時代の友人が新潟に遊びに来たときの話である。
彼は長崎で飲食店を数軒経営しているのだが、女性遊びが大好きだという。
そして、とうとうと女にもてる話が始まった。
実際にもてるのだろう、なかなか含蓄があった。
ー我われ中年はそうでなくても若い人から見たら脂ぎっている。
それを自覚して「演技でよいからポヨーンとして、女には全く興味がない
ようにしていなくてはならない。それで普通の状態に見られる。」

 なるほど一理があるが、勝手に持てているのは自分だけ信じているのが面白い。経験的にみると「お前は女に持てるだろう!」というと、殆んどの男が舞い上がってしまう。そして「如何に自分が持てているか」の自慢話が始まる。誰かに実験してみたらよい、罪のないジョークとして。
少しアルコールの入っている状態で、誠意を込めていえば大部分の男は舞い上がってしまう。
挙句に「お前はもてないだろう。ケチで口が悪い上に・・・」と始まる。
ほっとけバカと思うのだが「もてるのもてないは苦労の結果だろう」というのが持論だ。もてない男のいい訳か。これも男の永遠の課題だろう。

テーマが変わってしまった。
この不況の中、今度は「ありがとう」だけでなく、「大丈夫」を呪文のように唱えるか。


807, 心の構造進化ー書き続けるということ

2003年06月20日(金)

 少し難しい話をすると、
 社会学者のレビィ・ストロースは、人間社会の基本形を
「時計仕掛け型」と「蒸気機関型」に分けた。
・「時計仕掛け型」の社会は実質的に歴史を持たず、構造変化をしない社会
 ー南アメリカのアマゾン奥の部族の人達やアフリカのマサイや・・・・・
・「蒸気機関型」は我々の社会のように進化をしていく社会をいう
 
 この両者の違いを、ストローは「書く」ことによるとしている。
ーといって、「どちらが文化的に優れているかというとむしろ『時計仕掛け型』ではないか!」といえるが、この問題は違う時に考えてみる。
 
 社会だけでなく私たちの心も言葉にして書かない限り「時計仕掛け型」である。内語を書きとどめることによって、人間の心も言葉との相互作用によって構造進化を始める。二年間書き続けてつくづくそれを実感する。

 この随想日記を書き始めて、何かが大きく変わっているのを実感する。
毎日書いている解るのだが、大体が過去の話である。
ということは、過去のことしか書けないのだ。
未来のことも書けるが、結局は過去の前提の上での未来でしかない。
せめて夢か予定の一部だけでしかない。
書くことで、過去の自分を見つめ直すことによって、心の構造進化をしている。

 もし、過去を無理してふりかえないようにしているなら、心に蓋をしていることになる。このように書き出すことによって、心の中の曇りやその奥にある光に気がつく。その意味では、二年以上毎日書き続けたおかげで自分を見つめなおすことができた。心がどんどん構造進化ー私の場合は構造変化だがーをしているのを実感する。そして書くこと自体が面白くなるのだ?!
毎日が一語一会になったしまうのだ。
しかし、いつもネタさがしにキュウキュウとしているが。

(注)ストローズ
ークロード・レヴィ=ストロース

 フランス生まれの文化人類学者(1908-まだ生きている)。
「構造主義」のリーダーとなった人。
あらゆる民族の神話を分析することによって、浮かび上がってくる「構造」を発見することによって、未開社会も、われわれの社会となんら変わらないではないか、と考える。
しかし、彼の神話解釈はそこに共通する「構造」があることを前提としているのでしばしばうさんくさい(と感じる)。
《著書&論文一覧》
『悲しき熱帯』(『悲しき南回帰線』)
『野生の思考』『神話学』etc

 レヴィ・ストロースは、各地に伝わる神話を洗いざらい分析し、それらに共通する法則(=<構造>)を発見する。それまでその地方オリジナルの神話だと思っていたところに、共通する<構造>
が存在するということが分かり、ヨーロッパ社会に衝撃が走る。
自分たちのヨーロッパ文明が最頂点であり絶対であると信じていたら、いわゆる「未開」社会のそれも、その<構造>という点に関しては共通だったからである(ザマ〜)。
聖書に関しても、神様の言った言葉(テキスト)を無視して<構造>を見出せてしまう点において、キリスト教社会たるヨーロッパ社会に同様の衝撃が走る(本当にザマ〜)。
 
 人間個人個人にも<構造>があると言った人がフロイトであり、彼の場合は個人レベルにおける
構造主義者である(岸田秀は、その個人レベルの<構造>は、社会全体にも当てはめることができると言っている)。 インセスト・タブー(近親相姦の禁止)に関して、レヴィ・ストロースは社会成立の必然(女性交換の際の必然)にその起源を見出し、その過程にややインチキ臭さがあるので、
僕としては岸田理論の「幼児の性欲存在説」のほうに共感を覚えてしまうのだが、岸田論とは違っても、そこから社会の<構造>を見出したレヴィ・ストロースには感心を覚えてしまう(岸田秀のインセスト・タブー論を確認するために『哺育器の中の大人』を読み返してみたら、ちゃんとレヴィ・ストロースの名前が出ており、やや嬉しくなった)。
 
 ということで『はじめての構造主義』はおすすめだ。内容もさるものながら、橋爪大三郎の本の構成がまた憎たらしい。第1章、第2章では構造主義の成立過程のみ(音韻論、語学、人類学の説明など)
が書かれているだけで、構造主義そのものの内容は分からないままになっている。第3章に入っても数学について論じられているだけで、構造主義の具体的なイメージが湧かない。
このまま本が終わってしまうのではない読者の不安が最高潮になったところで、「それらをレヴィ・ストロースにつなげると」という文章が始まり、「要するに構造主義とは・・・」
という大まとめに入って、第3章の最後の数ページで一気に構造主義のイメージがつくり上げられてしまう。
音韻論、言語学、人類学、数学の諸説明が最後のまとめですべて構造主義の概要に結びつくのである。
多くの読者はその構成に感動を覚えることであろう。
 


806, 『自分様と馬の骨』 読書日記

2003年06月19日(木)


    〜なぜ認められたいか? 〜

「ぶざまな人生」「わたしを認めよ!」「まれに見るバカ」
等、彼の文章のタッチの面白さに、次々に買って読んだ。
人間の一番の本音をあまりにもシビアに書いている。
先日、図書館でこの本を見つけたときは、しめたと内心叫んだ。
早速読んでみるとやはり面白い。
「わたしを認めよ!」の続編であり、何ともいえない力がこもっていた。
彼のいっていることは別に難しいことをいっているのではない。
・自分を持して一生懸命に生きればよい、
・ダメならまた自分を立て直してやり直せばよい。
 たとえそれがぶざまな人生であっても。
言っているだけだ。

 「懸命に生きる」とは「自分ひとりの関係」である。
それが自分ー自分様であり、自己が自分になっていくことだといっている。
人間は自分はとるに足りない馬の骨と思うことに耐えられないのだ。
特に比較において。
友人との年収の差、学歴の差、同業他社との利益の差、性経験の差において、
馬の骨として、耐えられないのが人間であると主張している。

 創業を経験すると、人間観が変わるーこれは私だけでないと思う。
自分の骨の髄のエゴイズムを知ることになるからだ。
その骨の髄のエゴイズムから、出発をしなくてはならない。
それを嫌というほど、自分に対して思い知ることになる。
表層で生きている人は、創業のそのリアルな姿を見て冷笑する。
しかし、自分がその立場になれば全く同じ利己主義に落ちざるを得ないことに
気がついていないのだ。また環境がそこまで追い詰めない。

創業は自分ひとりになって、その一人の内語から出発をする。
自己から自分へのプロセスの始まりである。
馬の骨からおれ様への本質的な転換を事業で始めることだ。

ー「自己」と「自分」のちがいについて書いてあるのを少し抜粋してみるー
「自己」とは匿名的個人のことである。
それゆえに、一人ひとりの「自己」は同等の存在価値を持つ。
世界の人口の数だけ「自己」がいる。
他方、「自分」とは何々の某という名前を持った、世界のなかでただ一人
の、この自分のことである。この「自分」に価値がある。
・「あなた」も「わたし」もおなじ個人だから、おたがい大切というのが
 「自己」
・「おまえ」は「わたし」でないから、「おまえ」がどうなっても知ったこたない
 というのが「自分」
この二重性を生きているのが人間である。

ー以上である。
何故ここであえてこの問題を出すかというと、「他人とは何か」を知ることが
生きていくうえの一大事である。それが自分を知ることになる。
その自分の骨の髄はエゴイズムー利己主義でしかない。
そこのところを知らないと、自分の中の悪魔と神と出会うことがない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

『自分様と馬の骨』
 勢古浩爾 著
 三五館
 発刊日ー2002年11月
(四六判並製 240頁 
 本体価格1400円 +税)
 長岡中央図書館
 2003年6月15日
◆◆内容紹介◆◆

「仕事のできない奴だと思われたくない」
「ブサイクだなんて陰口を叩かれたくない」
「小心者には見られたくない」
……かくしてすべての人間は生まれてから死ぬまで、
こう叫び続ける。
「俺(私)は馬の骨なんかじゃない!」。 そして、「俺(私)が馬の骨」
ではないことを、両親に、恋人に、友人に、上司に、同僚に、果ては見ず知らずの
他人にまで証明し、認めてもらおうとする。お化粧・ネクタイ選びといった一般生活上の
行為からプチ整形・暴走族といった現代の病理、宅間守・造田博が犯した犯罪までが、
この考え方と深く結びついていると著者は述べます。
これこそが著者曰く「承認論」!
歯切れよく過激にして、斬新軽快な評論です。 とここまででは本書の50%に
しかすぎません。ただの時勢評論にとどまらないのが本書の真骨頂であり、ここから本書は
評論の域を完全にオーバーランし、感動のラストへ向かってほとんど小説・ドラマの
ごとくに諄々、切々と説く、説く、説く……。
誰しもが読めばきっと力の湧いてくるであろうラストの感動=単純な真理
(また遣り直せばよい)に、いかに説得力を持たせられるかのために本書丸々一冊が
費やされたといって過言でありません。「敗北からいかにして立ちあがるか」
「自分で自分を支えていくことはいかにして可能になるのか」――。
自分自身すら溶解しつつある現代において、確固たる自己を打ち立てる方法
(本書が言いたいことはこれだけなのです!)が明らかされます。

【目次】
第1章 瀕死の承認――人間が変わった
第2章 認められたい!
第3章 自分様と馬の骨
第4章 終着駅は犯罪だった
第5章 敗北はなぜ恐ろしいのか――中流崩壊のなかの承認
第6章 最後の承認――言いたいこと


805, 「ありがとう」の言葉ー4

2003年06月18日(水)

一週間「ありがとう」を、一日おおよそ500回を言った実感を書いてみる。
まずは、気持ちが落ち着いた。特に夜半2時半に目が覚め、この経済の異常事態や事業のことをあれこれ考えてしまう。
ベッドの中では考えない訓練はしてあるのだが、今の状況は過去になかった異常な事態である。会社も日本経済もだが。しかし、その時しめたと「ありがとう」を繰り返すと、あれこれ考えないで済むのだ。
また新幹線の中や散歩やふとした空白時間に繰り返していると、結果的に否定的な考えが激減している。不思議といえば不思議である。
単純に思えるかもしれないが、何か否定的な感情を消す作用があるみたいだ。それと、意識をしていると結構細かい時間が多くあることに驚く。
マイナスな時代に、否定的な言葉の毒消し作業がよい。

 死ぬ時に、周囲に対して心の底から「ありがとう」と言っていけたら、残った人に対して最高の癒しになる。と同時に自分の死に方としても最高の死に方になる。その為には「ありがとう」を数万回、数十万回、脳の中に叩き込んでおくというのも理屈に合っている。

 以下はインターネットで調べた、50年以上「ありがとう」を言いつづけて2億回言っている人を書いた内容をコピーしておく。
・・・・・・・・・・・・・・

 昨年の8月に皆さんが集まった席で、おじさんの本を創ることを提案しましたところ、皆さんには是非、本があるといい、と賛同いただき、又、ありがとうおじさんにお尋ねしたところ「観音様は33身に変幻自在に変わり世を救う」と快諾してくださいました。
ありがとう村で、毎回4時間、皆さんがおじさんに質問し、おじさんが皆さんに応えるという形で今日まで、30回を超えるツアーを行なっており、今も継続中ですが、その質疑応答の中から、この本は生まれました。珠玉のような回答の随所に大きな愛や光を感受したのは私だけではないと思います。
 
 この本の決定的な他の本との違いは2つあります。宇宙の根源につながる方法は、坐禅だとか瞑想なのですが、他に、ヨーガのバクテイ―や神さまの名前を呼び続けるとかの法もあるのですが、あまり一般的ではありません。ところが、この本の主人公である、ありがとうおじさんは、驚くべきことに、誰にでも簡単に出来る方法を57年間かかって実証してしまったのです。その、方法が余す所無くこの本には記されていると思います。
もし、あなたが素直にこれを捉える事が出来たなら、凄い事なのです。
あまりに凄い事なので最初はなかなか、解らないかも知れません。
しかし、実に簡単なことなので実践し続けていると内側から変化が起こって来ます。つまり、宇宙の根源とつながり、絶対的な幸せに到るノウハウがこの本には書かれてあるのです。
 
 次に、この本には定価が無いという事です。自由価格なのです。
自由価格とは無料ではありません。無料という時には、だれかが、必ずスポンサーになっている訳ですが、この本にはスポンサーは存在しません。
何故に自由価なのか?この本の価値が判る人の間で、価格が決められ流通するのです。
この本の価値は大多数の人にとってお金以上の価値があります。
金銭を超えた価値というものは存在するようです。
ですから、価格は付けないことにしました。一人でも多くの方に、広く日本中の方々に読んで頂きたいと思い、買い求めし易くしたものです。
通常の本の相場というものもありますので常識の範囲内で流通することを願っております。高い安い、損した得したの勘定の入らない世界でみなさんに読んでいただきたいばかりです。
 ありがとうございます。


ーどう 生きたら いいの?ー
 *** まえがき ***

「ありがとうございます」は感謝を表現する言葉だという事は、知らない人はいないでしょう。
しかし、「ありがとうございます」という言葉の中に秘められている、深い意味、そして、不思議なパワーについて知る人は、とても少ないと思います。既に知る人は幸運といわなければなりません。私も、例外なくその一人でした。
滋賀県の山の中にお住まいの、ありがとうおじさんに出会うまでは。
この本に、出会うことになったあなたさまは、実に幸運な星の元に生まれ、そして、「ありがとうございます」という、とんでもない「生きもの」に出会ったことに、やがて感謝せざるを得なくなる自分を、発見するかも知れません。
 
 ありがとうおじさんは、昭和16年に日本で生まれました。三歳の時から、誰に云われた訳でもなく、神仏の前に坐り、朝夕、一時間以上も感謝のお祈りを、捧げる不思議な子どもでした。中学生の時には、「僕の、この世に生きてる理由は何だろう?」と深く悩み、その答えが、どうしても見つからないので、自殺しようと思っていたそうです。
ところがある時、どこからともなく、囁くような小さな声で、「おい、きみ死んじゃダメだよ!きみの人生の目的を教えるから!」って聞こえてきたそうです。とても不思議なことだけど、その声によって、生きられるようになったそうです。どんなことを云われたのか?

 この本を読み進んで行く内に解ってくるけれど、少しだけ、ヒントを書かせていただきます。
おじさんの言葉とは、違うけれど、大体、私の説明できる範囲では、人間の
生き方には二通りがある、ひとつは「思いに生きる」こと。もう一つは「感謝に生きる」こと。
「思いに生きる」とは文字どうり、自分自身で色々学んで、計画を立てたりしながら、自分が満足できるような、身近な家族や、友人も含められたら、それに越した事は無いけれど、とにかく自分が納得できそうな生き方を「思いに生きる」という。

  一方、「感謝に生きる」とは、簡単にいうと、宇宙の法則に従って、「おかげさま」に感謝しながら、目の前に現れたご縁を大切に、一所懸命に、しかも楽しく、イキイキ、ワクワクと耀いて生きること。そんな生き方に周囲の人も感化されて、明るく、楽しく、生きたくなるような、そんな生き方でしょうか。
 この本に登場する、ありがとうおじさんに沢山の人が押しかけて、色んな質問をします。日常の悩み事やら、神仏のこと、恋愛のこと、病気のこと、あの世のこと、それこそ、1000以上の様々な質問に、これまた不思議な事に、間髪を入れず答えが返ってきます。
おじさんは、ただ口を開けて、パクパクやってると、そこから言葉が、勝手に出てくるという、不思議な「何でもおじさん」という感じがします。
 
 私は縁あって、このありがとうおじさんという、世にも稀なる不思議な方のそばで、一年間、直接に皆さんの質問、おじさんの応答に、立ち会うことが出来ました。
その貴重な体験の一部をみなさんと分かち合うことが、この本で出来ることを嬉しく思います。また、みなさまも、今の不安と不満の気が充満し、末期的症状がむき出しの社会の中で「どう、生きたらいいのか?」という問いに、きっとその核心に気づいて頂けるものと
信じております。
 尚、念の為に書き添えたいと思いますが、おじさんは宗教家ではありません。宗教を超えた真理を語って下さいます。だだひたすら、感謝の「ありがとうございます」を唱え、万類のしあわせを祈り続けておられる、徹底した感謝の実践者であり、奉仕に生きておられる方です。
そのことは参加されたみなさんがご存知のことでもあります。
 ありがとうございます。

2002年2月  
 詠人不知  
ーどう 生きたら いいのー

  ー*** 目次 ***

はじめに・・・・・・
まえがき・・・・・・

第1章  ありがとうございます

1・ありがとうございますの本当の意味・・・・・・
2・感謝のなかに全てがある・・・・・・・

第2章  宇宙が自分

1・宇宙の創造とおわり・・・・・・
2・完ぺきな神さまは、なぜ不完全な人間を降ろしたのか・・・・・
3・どん底に行くまでに、何度でもストップをかける神・・・・・
4・言霊は神さまの世界、言葉は思いの世界・・・・・・・
5・神道と古神道の違い・・・・・・・・・・・・・・・
6・共通の天命と個性の天命・・・・・・・・・・・・・・・
7・天命、個性は神さまが中に入ったときに発揮される・・・・・・
8・低い番組を見たがる魂がある・・・・・・・・・・・・・
9・魂の生まれ変わり・・・・・・・・・・・
10・言葉の縛り・・・・・・・
11・ありがとう村に集う人・・・・・・・・
12・新しい世界、本物の世界が必要・・・・・・・
13・人のする事と神の計画との違い・・・・・・・・
14・不登校の子どもの方が正しい・・・・・・・・・・・
15・子どもは親にとってなに?・・・・・・・・・
16・徳の預金を残す・・・・・・・・・
17・病気には二つの見方が・・・・・・・・・・
18・宇宙が自分・・・・・・・・・・・
19・神を感じるには手放すこと・・・・・・・・・・
20・中村天風と同じものが・・・・・・・・・・・


第3章  心配は何も無い

1・憑依ってあるのですか・・・・・・・・・
2・道元さんと古神道・・・・・・・・・・・
3・悟ってる自分が何故修行する・・・・・・・・・・
4・自然と神というものの関わり・・・・・・・・・
5・落ちて骨折することの意味は?・・・・・・・・・・
6・どうして折れた骨がすぐに治ってしまうの?・・・・・・・
7・世界維新〜神さまがひとり一人の中に・・・・・・・・・
8・子どもを授かるということ・・・・・・・・・・・・・
9・家族と仲良くする秘訣・・・・・・・・・・・・・
10・生き方を求める若者たち・・・・・・・・・・・・・
11・本当の自分は宇宙と一体・・・・・・・・・・・・・・
12・教からの開放・・・・・・・・・・・・
13・心配は何も無い・・・・・・・・・・・・


第4章  初めてのインタビュー

1・ありがとうおじさんの修行・・・・・・・・・・・・・
2・おじさんの結婚・・・・・・・・・・・・・・・
3・ありがとう村・・・・・・・・・・・・・・・
4・ありがとうを唱える事による奇蹟・・・・・・・・・・・・・・
5・心の修養道場・・・・・・・・・・・・・・
6・般若心経の祈りの言葉・・・・・・・・・・・・
7・無限の無限のしあわせとは・・・・・・・・・・・
8・神計らい・神さまのお手伝い・・・・・・・・・
9・お祈りはどのように・・・・・・・・・
10・神社仏閣は模型・・・・・・・・・・
11・「私は神です」について・・・・・・・・・・・
12・古神道と惟神(カンナガラ)の道・・・・・・・・・・

あとがき・・・・・・・


804, 50歳の頃ー2

2003年06月17日(火)


ー50歳といえば1996年、平成8年である。
今から見れば、まだ景気の先行きに明るさがあった。
・村山から橋本に首相が変わり。
・狂牛病の0−157が社会的な大問題になっていた。
・携帯電話やパソコン・インターネットがが普及を始め
・この頃から『援助交際』とか『ルーズソックス』が流行りだした。
・アトランタオリンピックが開かれ、マラソンでは有本が銅、柔道では
 野村、恵本が金、田村が銅メダルをとった。
・ロシアではエリツィン、アメリカではクリントンが大統領に再選された。
・国内のベストセラーでは春山茂雄『脳内革命』野口悠紀雄の『超勉強法』
 がベストセラーになっていた。
個人的には
・母が亡くなった年である。海外旅行はエジプト、インカーペルーと
南アフリカに行った。
会社のほうは第三の増築をして、客室が合計500室になった。

こう当時を振り返ってみると、時代背景が個人も会社にも大きく関わっている
ことが解る。また刻一刻と時代が変化している。

個人的にも色いろの出来事があった。
その殆んどが忘却のかなたになっているが、それだかこそ生きていける
のだろう。これからは60,70,80歳の坂を乗り越えていかなくてはならない。
現在とは過去から見たら最長老であり、未来から見たら最年少といえる。
こうして文章を書いているとつくづく実感する。


803,  50歳の頃ー1

2003年06月16日(月)

  −60歳までの人生
 曽野綾子の本で『人生の良いところは60歳まで』という文章があった。
丁度私が50歳の時であった。
50歳で、母親を見送り(亡くなり)
人生の損益分岐点を超えたという思いがあった。
あとの人生を如何生きようかという自分への問いかけをしていた。
その翌年、下の子供と家内と3人で南米のギアナ高地に出かけた。
テーブル・マウンテンのキャンプ場で、夕陽を見ながら息子と日本酒を
飲みながらふと思った、「ああ自分の人生の元は充分にとった」と。

 その時に考えたのは、「曽野綾子の『人生60歳までがよいところ』
なら、それ以降の人生を60歳までに詰め込んで生きよう!
『人生の純益』を60歳までにとってしまおう」であった。
・海外旅行をそれまでに50回行くこと-不景気で難しく?なってきたが
・人の目を気にしない生き方を更に徹しよう
・好きな事を可能な限りしよう
 等、生き方を変えようであった。
しかし曽野綾子は60歳少し前の文章である。
母の行き方を見ていたので、この人はまだまだ解っていないと思った。
本当に「良いのは60歳から」というのを母の生き様から教わっていたからだ。しかし「60歳以降の前倒しをしてしまおうという決心』は良いのではと解釈した。 

 その翌年にネパールに行ったとき、67歳の初老の人が人生の秘訣を教えてくれた。「私は43歳までに必ず死ぬ家系であった。それを前提にして、そこまでに人生のすべてをし尽くした。その一つに日本を全てを家内と娘と3人で回り尽くした。その後は世界にチャレンジしてほぼ全てをまわり尽して今もこうして生きている。短命の家系という前提それがなかったら人生をここまで味わいつくせなかった」かなり深い人生の示唆であった。
「60歳までに人生の全ての前倒し」を自分の生き方に取り入れた直後であったから、尚のこと心に響いた。

 あと2年半で、その60歳に近づきつつある。
「それでは60歳以降如何いう生き方をするのか?」。
元を取ってしまったので、逆にあとは一日一日をじっくりと味わって生きることができるのではないだろうか。
そして、それまで経験をしたことのない分野を探し出しチャレンジすることである。その意味では、逆に広い世界に飛び出せるのではないかと考えている。

 最近になり、景気後退ー恐慌一歩手前になってきたり、SARSや
テロなどでアフリカや中近東には以前ほど気楽に行けなくなってきた。
この時勢に優雅に海外旅行などともいっていられなくなってきた。
あの時点にやはりギアチェンジをしていて良かったと思っている。


802, サッカー観戦記

2003年06月15日(日)

 先日、知人からサッカーの招待券を貰った。
アルビレックス新潟とサガン鳥栖の対戦である。
こういうチャンスはめったにない、行くことにした。
昨日ー6月14日、場所は新潟市の駅裏から数キロ先である。
去年のワールドカップの為につくった新潟スタジアム、一度見てみたかったから丁度よかった。
雨が気になったが終了後、車に乗ったと同時に降ってきた。
もっとも雨よけがあったが。

 キックオフが14時、その30分前に着くように出かけたが、車の渋滞で開始後30分後に席に着く。初回は一時間前につく予定を立てるべきであった。

やっとたどり着くと会場から、唸りのような歓声が聞こえてきた。
観客席に座った時には、アルビレックスがすでに一点を取られていた。
何とも会場の大きなウネリのような歓声が凄い。
その世界に一瞬に吸い込まれてしまった。 
招待席は相手チームの席、といってほとんどが地元の人たちであった。
若い人ばかりかと思っていたが、年代層は広い。
3万4千人の入場者と場内放送でいっていた。

 試合は一点リードされていた新潟が後半に逆転、2対1で勝った。
攻めまくった新潟がなかなか点が入らず会場が苛立っていたが。
それでも試合の後半に新潟が2点を入れて逆転、非常に面白い内容であった。
これで引き分けを挟んで四連勝である。
サポータが熱くなるのも解るような気がした。
あの熱気の世界も一度経験しておくと良い。

 最近は何事も経験と、チャンスがあれば何でも参加するよう心がけている。
今度は後楽園で巨人戦にいってみたいと思っている。


801, 一期一会 「一語一会」−2

2003年06月14日(土)


「一期一会」それは元来、お茶の世界のこころとして
「すべての客を一生に一度の出会いとして、悔いのないようにもてなしなさい」と言う意味である。

 私が酒を人と飲む時に常に「一期一会」で飲むことにしている。
そうすると、飲み方が変わるのだ。
ある会が面白かった、といってそれはそのTPOS がたまたま良かっただけと
割り切るのだ。一回ごと徹底的に割り切って飲む。
店でもそうだ、一回こっきりと常に割り切って楽しむ。
そうすると酒の味も、その場の感じ方が全く違ってくる。
スナックなどでボトルを入れる人の気持も解らないでもはないが、私は絶対に入れない。
従ってあまり飲み屋のママにはいい顔をされないが、明日から二度と来ないかもしれない、という緊張感が良いのだ。
 
 そういえば一期一会の酒を数限りなく飲んできた。
そして、その全てが思いで深い、よい酒であった。
桜と同じである。一回性だからこそよいのだ。
年齢を重ねてくると、この意味が今更のように思い知らされる。
「べき時に、べく事を、べくすべし」を常に意識してことがよかった。
これは酒席だけの事を言っているのではない。

 言語学者の西江雅之のー「ことば」の課外授業ーという本に
「ことば」はその場、その時、一回限りである、という趣旨のことがあった。
ー以下に少し書きうつしてみるー
現実の場では、人はことばを二度と同じようには言えない。
すべての発言は「一回限り」である。
たとえば「これは何ですか」と、同じ調子で二回言ったら、二回目はくどい
と思われます。怒鳴っていったり、これも当然違ってきます。
また何か言う場合には、必ず前後関係があります。それによって嫌味になったり、単なる質問でしかなかったり、・・・・・・・・・

以上のとおり、ことばも一期一会である。
もじれば「一語一会」といえる。
その意味では「ことば」にもっと注意をして話さなければならなかったと反省している。それと感銘した「ことば」こそ一語一会と言える。
その意味でー事業百訓というカタチで、その時々に書き残してきたことも一語一会を記録してきた事になる。
この随想日記もそういうことになる。


800,   「ありがとう」の言葉−3

2003年06月13日(金)




「幸せの宇宙構造」
ー七つの言葉「祝福神」ーより
 
自分が最も得をする生き方はどういうものでしょうか。
何よりも大事なのは笑って愉快に生活すること。
そのために私たちが発すべき言葉は
・うれしい、
・楽しい、
・幸せ、
・愛している、
・大好き、
・ありがとう、
・ついてるの
七つ(これを七福神ならぬ「祝福神」と呼んでいます)です。
そうすれば健康になるし、つまりは自分の人生にとって大変得になるということになります。人間は自分の発した言葉で自分の人生をつくります。
私の周囲の環境や、自分が立たされた状況はすべて自分の発した言葉によって形成されていきます。ですから、
朝から晩までうれしい、楽しい、幸せ、愛している、大好き、ありがとう、ついてる、と言い続けると、この言葉しか言いたくなくなる人生に囲まれてしまいます。私の周りの多くの人がそうなってしまいました。
 私には最近、次のようなメッセージが届いています。

七つの「祝福神」を年間、五千回唱える人はその言葉を再び言いたくなるような現象が来年、五千回降ってくる。
逆に嫌だ、嫌だ、疲れたという否定的な恨み言葉を五千回発すると、
その言葉を言いたくなるような現象が、来年五千回降ってくると。
もちろん、五万回発すれば五万回、十万回発すれば十万回降ってくるというという意味です。私は自分や仲間たちの身の回りに起こる現象を知れば知るほど、このメッセージが正しいと納得せざるを得ません。
 

 損得勘定で七つの「祝福神」を繰り返し口にしてきました。
でもいつのまにか夕焼けを見ては「きれいだなあ、楽しいな」と感動し、
お茶一杯飲むのでも「ああ、幸せだ。ありがたい」と心から喜べるようになっている
ことに気づきました。口先だけだったありがとうを何万回、何十万回と繰返すうちに、身の回りのありとあらゆることが本当にありがたいと思えるようになりました。
損得勘定でやってきたら、最後には一つひとつのありがとうの言葉に真心が
こもるようになりました。そして、いま本当に幸せを実感しています。
宇宙に対してありがとうの言葉を投げかけていると、誰が一番豊かになり得をするのか。それは自分です。このことに改めて思いをめぐらしていただきたい。宇宙の方程式はシンプルですが、やればやるほどその深さに驚くことでしょう。
・・・・・・・・・・・・・

ー感想文ー
当たり前のことだが、その当たり前のことがこういう時代になればこそ、
失われそうになる。
戦場の真っ只中でこうは言ってられないのも事実だ。
大不況の中で、どうしても暗い風潮に流されやすいからこそ、言葉ー心の
コントロールが必要である。
その意味で心ー言葉だけは明るく、習慣になるまで明るい言葉を繰り返して、セットしておく必要がある。
その意味で一番大事な言葉『ありがとう』を含めた七福神の言葉をセットしておくことは重要である。20年近く前に般若心教を憶えて数万回唱えてきた。その効果は絶大あった。二人の子供と会社の正社員全員も含めて
三桁近い人がこのお経を暗記してくれた事が最大の成果であった。

「ありがとう」を数万回数十万回いうことはそれに匹敵すると直感をした。
特に良いのは細切れ時間をつかえることだ。
もし若い人がこれを実行したら、人間的な暖かさがプラスされ若さの輝きを更に増すだろう。
この小林正観氏の本を、この本を含めて他の著書と供に3冊注文をした。
web上の書店にはなく、直接出版社に電話で宅配にしてもらった。
他の二冊も面白かったら読書日記として書くつもりだが、初回だから面白かったのかもしれない。
いずれにしてもシンプルで解りやすい習慣だ。


799, 「ありがとう」の言葉−2

2003年06月12日(木)


「幸せの宇宙構造」
 小林正観著 
 弘園社刊
 
 (昨日の続き)
・・・ある講演会に『ありがとうの実践会』の人が200人ほどいらっしゃったとのことでした。『私は60万回』『俺は70万回』『今はまだ97万回』というような人が次々に現れ、私は驚きました。5万、10万回という人は結構多かったのですが。

 『ありがとう』の回数が5万回あたりで、奇蹟が起こるモードが第一
段階がくるらしい。10万回あたりで、第二モードがくるらしい。
 50万回あたりで第三モードに入り、100万回を越えたあたりで
第四モードに入り、1000万回を越えたあたりで第五モードに入り、
一億回を越えたあたりでは第六モードに入るらしい、というものです。
その『ありがとう実践会』の中に癌の人がいて、20人くらいの仲間が
みんなでその人を囲んで、朝から晩までただひたすら「ありがとう」を
言い続けたところ、その人の癌細胞が無くなってしまった、という例
もあるそうです。・・・・・・

 日本に『ありがとう』を一億回を超えて言い続け、そして今も言い続けている人がいるそうだ。滋賀県住むMさん。年齢は50歳後半です。
子供の頃から一日10時間、一時間で約1000回で、一日平均一万回を
50年間一億8000回で2億を超えているかもしれません。
10万、50万、100万回を超えると、とんでもないことが起こるらしい
ことは、超常現象研究家の私としても大変興味があったが、一億回を超える
とどうなるか、未知なる領域でした。
Mさんの日常的な話を少ししておきますと、一年間、傘を一度もさしたこと
がないそうです。玄関を出ると、降っていた雨がピタリと止まるそうです。
次の建物に入ると雨がザ~と降るという具合だそうです。
たまたま電車に乗ろうとすると、10~20分遅れても、電車が待っている。
それは三次的には電車の事故だったり、物理的な連絡ミスだったりするが、
その意味ある偶然の一致が必ず起こるそうです。
ー本田宗一郎も、そうだったと聞いたことがあるー

 ーありがとうの語源ー
日本語の語源辞典で『ありがとう』の言葉を調べてみた。
語源は『有り難し』からきている。
『存在し得ないこと』『あるり得ないこと』という意味で、
あり得ない事を神・仏が起こしてくれた場合使った言葉である。
神仏を褒めたたえ、賞賛する言葉として存在した。
室町時代以降だそうだ。
『自らの伝言』という写真集が出て、あちこちで評判になったが、
「ありがとう」という日本語で声をかけた水と、「サンキュー」と
声をかけた水とでは、結晶の形が違います。
私に印象では、「ありがとう」の方がきれいで、透明感のある
結晶になっているように思いました。
「ありがとう」は、神仏に対しての賞賛の言葉で、
「サンキュー」は」人に対する言葉なのです。
『ありがとう』は一種のお祈りととらえる事ができます。
神様は「ありがとう」という言葉を聴くとガバッとおきてカウント
するようです。
・・・・・・・・・・・・・
とりあえず、毎日500回を一ヶ月続けてみよう。
そうすると二ヶ月で3万回になるが、私の場合は到達する前に、
不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を数百回言ってしまうから、
涙が溢れることはない。いったという事実は事実である。
毎朝、両親と仏様には5〜6回は言っていたのだが、まだまだ甘いことが解った。
数ヶ月後には仏様みたいになっているか(笑い)。
 
 ーつづくー


798,  「ありがとう」の言葉  −1

2003年06月11日(水)

 長年生きてきてつくづく感じるのが「幸せ系の人」と「不幸系の人」がはっきり分かれていることである。
家柄、結婚の相方との相性、本人の品性等いろいろの要素がある。
多くの人を見てきて、不幸系の人に感謝の念が足りない人ー特に両親に
対する感謝が少ない人ーが多いことに気づいた。両親に対する不信感ーが本人を不幸にしていることに気がついてないのが、更に不幸を拡大している。
その不信感が人間観になってしまうからである。
夫婦間のトラブルー権力争いーが子供を傷つけ、子供が恨みで感謝を忘れてしまうことも起因している。
人間には感謝はしないが感謝される事を求める傾向がある。
昨日図書館で何げなく借りてきた本を読んでいたら、
あるページに目が釘つけになった。
  
  以下に書き写してみる。
ー不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、涙が出てきます。
呪文のように言っておくと、その累計が2万5千回を越えたあたりで、突然涙がどっとあふれてくるということが、多くの人にあるようです。
その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均2時間ほどで、とにかく止まらないのです。
こんなに自分の体から涙が出てくるものと思うほど激しく流れ続けます。
この涙が出終わって、そこからまた続けて「ありがとう」
と言おうとすると、今度は心の底から感謝の念がわいてきて、体中が温かい思いに満たされ、本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
 
 さらに、心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど
心を込めて「ありがとう」を言い続けると、なぜか突然「私」にとって奇蹟と思えることが起こるようになります。
この話をあちこちでしていて、「実際言ったが、そんな涙出てこない!」
という質問を受けました。私はその人達に同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を
言わなかったですね」と。
その答えはすべて「言ってました」でした。
「それを言った瞬間、チ~ンという音がして、『ありがとう』の回数が
ゼロになったのだと思いますよ」と答えています。・・・

ー続くー


797, 流通業界よりみた時代の変化ー

2003年06月10日(火)


流通業界の事は度々書いているが、10年前の状態と今を比べると段差に
驚かされる。
ー10年前は、
・ダイエーの中内功は、まだ他の会社の建て直しをしていた。
・西武グループの堤清二もバブルの後始末に入ったところであった。
・マイカルーニチイも創業者の一人小林某が、マイカルシティーとかいう、
 アメニティーなど入れた複合の施設をつくっていた。
・長崎屋も駅前型から郊外にその重点を移そうと必死であった。
・ヤオハンは香港に本部を置き中国に出店を始めていた。
・ソゴウも大型店を破竹の勢いで出店していた。
 
 その全てが潰れてしまったか解体である!
時代の変化の激しさを痛感する。
すべて多角化によるエネルギーの分散による競争力の低下で自滅したパターンである。
当時チェーンストアのコンサルタントの渥美俊一は現状に近くなる事を予言していた。

今だに元気のよいのが、イトーヨーカ堂とジャスコである。
それと十数年前に一時潰れそうになったユニーである。
今後10年後はどうなっているか?というと、想像すらつかないのが流通の世界である。
もっとも日本そのものがどうなっているのかも想像を絶するが!
経済的大変動に90涌幣紊禄韻錣譴討い襪呂困澄
愚民の選んだ自民党と官僚の利権維持の為である。
それとアメリカの毒饅頭をタップリ食べさせられたことも背後にある。

若い人は本当に大変だと思う。
大激動時代を生きていかなくてはならないからだ。
話しをもとに戻すと、この情報革命とそれによるグローバル化により
想像もできない流通形態になっいるだろう。
ビジネスの宿泊が3分に1に僅か2~3年で激減する時代である。
当面始まるのが東京周辺の百貨店の淘汰である。
高島屋、東急、松坂屋とか株価欄を見ればいくらでも候補がある。
まだ高島屋みたいに表面化してないところもあるが。


796, 至高体験ー読書日記ー2

2003年06月09日(月)

  
「歓喜 ー>  理智 ー> 意志 ー> 気  ー>肉体」
至高体験=歓喜の体験、それを知った理智、そして意志にかわる、それが気になり、肉体に反応する。
たとえると野球で9回の裏逆転のホームランを打った。
そして歓喜する、その体験が理智になる、さらなるよい選手・バッターになる意志を固める、それが気(気合)に変わり、練習をして積み重ねるようになり一流選手なっていく。

 他には薬草や苔類を使う場合と、アルコールを使う場合や、禅などの修業で到達する場合などがある。
教祖様やシャーマンは、この歓喜体験を通して自己より解脱をして理智を得る。好きなことを見つけ一生かけて続けるプロセスで、この歓喜体験をするケースが多くある。女性の千人切りも好きな人には、歓喜体験ー至高体験を多くする事になるのだろう。

 音楽会の会場が歓喜に包まれ、アンコールの嵐をTVなどで見かけるが、至高体験をしている。この瞬間を味あう以前と以後位に感動するのだろう。

そういえば初めてロッキーに行った時も、旅行に行く以前と以後位に感動をした。

ー昨日とは別のホームページよりコピーしてみた。
 ・・・・・    
■覚醒・至高体験とは(1)

◆事例集に入れる基準は?  
サイト「臨死体験・気功・瞑想」の中心になるのは、やはり「覚醒・至高体験の事例 集」です。
さまざまな文献や投稿のなかからこの事例集に入れるにふさわしいと思われるものをNoboru(このサイトの作成者)が選んで載せています。そのおおよその基準をまずここで明らかにします。

ところで「覚醒・至高体験」というときの覚醒と至高体験の違いは何でしょうか。この点については私自身の中では明確な区別があります。最初にこの違いを明らかにしながら、それぞれの意味を考えます。

◆自己実現した人間  
覚醒と至高体験という二つの言葉は、はっきり区別できるものとして私自身は使用しています。
この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っています。  

マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的 傾向を持っています。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達 しうる最高の状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼び ました。  

しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が 「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについ てまわります。そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循 環的方法を採用しました。  

循環的方法とは何でしょうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた 「人間性」を意味するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の 上でも矛盾するところがあればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合す ると思われる「自己実現した人間」のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。  

こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。
このよう にラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。
このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的なも のにしながら研究を深めていくのです。  

こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブ ーバー、鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な 人々の日常的なそれとはっきりとした違いを示しているということでした。    

平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 はB認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。

◆至高体験  
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、 ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでもいうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからなのです。

 「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験 のことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。
 あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで 体験されるかも知れません。  

ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも 深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに気 がついたというのです。  

ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っ ており、その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、あ る程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある 者は誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す のです。
つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。  こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、多くの 人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。  

以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけた でしょう。至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。


--------------------------------------------------------------------------------

■覚醒・至高体験とは(2)

◆普遍的な体験
臨死体験者の意識変化のうちで私がもっとも引かれるのは、体験者が伝統的な特定の 宗教の排他的な教義からは自由になり、しかも深い精神性、霊性に目覚めるという傾向 です。
教義や組織や伝統に意味があるのではなく、体験者自身が身をもって知った深い 精神的な体験にこそ意味があり、それがすべての宗教の根底をなすと感じはじめること です。  

体験者が「存在する全てのものに、神のエッセンスが内在している」、
「神は我々す べての中にいる」と言うときの「神」とは、それを「神」と呼ぼうと「大いなる命」と 呼ぼうと「仏性」と呼ぼうと、もとになる体験の基盤は同じなのです。
だからこそ、 「全てはまったく一つなのです。個別的な宗教のドグマ(各種宗教・宗派が信奉するそれぞれの独特の教義・教理。独断。独断的な説)に固執することは意味がないことです。
ドグマは人間が作ったものです」と断言しうるのでしょう。

「自分のうちなる大いなる命を実感すれば、 どのような外なる神も必要としなくなるのです。どんなドグマも、教義も、偶像も、信仰も、 迷信も、組織も、権威も、いらなくなるのです。 それが、宗教的なるもののもっとも奥深くにある真実なのです。」  

これは、本サイトのトップページに掲げている言葉ですが、 おそらく臨死体験者の多くが言おうとすることと同じでしょう。と同時に多くの覚醒・ 至高体験者たちが語る言葉とも同じはずです。  

最近読む機会があった『悟りと解脱』(法蔵館)の中で玉城康四郎は、形なき《いのち》そのものであるダンマが、全人格体に顕わになり、浸透して全宇宙に充足するという事 実を、ブッダだけでなく、イエスに、ソクラテスに、孔子に、親鸞に確認しています。 臨死体験者は、この形なき《いのち》に、多少の差はあれ触れたのだとは言えないでし ょうか。
そして覚醒・至高体験者も程度の差こそあれ同じ真実に触れるのです。  

それは、「日常的な小さな自己に滅んで、自己を超えた大いなる存在に目覚める」とでもいうべき体験です。宗教の根源にはこうした体験があって、こうした圧倒的な覚醒 体験を前にしたなら、個々の宗教の教義体系などは、空しく色あせた言葉の羅列に過ぎ ないのかもしれません。    

どのような既存の宗教やその教義とも無関係なところで、深い覚醒を体験する人々が 数多く存在するのは事実です。臨死体験者の中にもそうした人がいることをこれまでに 確認してきました。「小さな自己に死んで、大いなる命に目覚める」という体験は、宗教の根源をなしながら、個々の宗教の枠を超えた普遍的な体験なのです。  

心理学者マズローは、至高体験と呼ばれる状態の心理的な特性や、自己実現ないし自 己超越したと思われる現代の多くの人々の心理的、人間的特性を緻密に検討しました。 そうした精神のあり様を、たとえば大乗仏教が長い歴史の中で繰り返し説き、発展させ て来た「悟り」の理論、無分別智(般若の智恵)の理論が示す人間のあり方と比較して みるなら、そこに驚くべき共通性があることに気づきます。あるいは、キリスト教やイ スラム教の聖者たちが
示す深い宗教体験の中にも、大乗仏教が示す無分別の智恵、般若 の智恵とまったく同質の英知への目覚めを示すと思われる体験が数多く発見されるでし ょう。  

こうした覚醒体験は、個々の宗教のどのような教義とも無関係に成立しうる人間の心理的な体験なのです。それは、すべての真実の宗教の根底をなしながら、しかも個々の 宗教の枠を超えた普遍的な体験なのです。

◆「これまで花を見ていなかった」  
その普遍的な体験は、マズローのいう「自己実現」や「至高体験」に見られるB認識 と重なると思われます。B認識は、ごくふつうの人々の日常的な認識のあり方であるD 認識(D=deficiency=欠乏)と比べられます。マズローのいうB認識の特徴をいくつ かまとめてみます。

あらかじめ列挙します。
(1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められ ず、
 「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる。
(2)B認識は無我の認識である。
(3)またB認識は、ふつうの認識に比べ、受動的な性格をもつ。
(4)B認識では、対象はまるごと一つの全体として把握される。
(5)B認識にはまた、具体的であると同時に抽象的である。

以下で詳しく見ていきます。、

(1)B認識において人や物は、「自己」との関係や「自己」の意図によって歪められ ず、
「自己」自身の目的や利害から独立した、そのままの姿として見られる傾向があり ます。自然がそのまま、それ自体のために存在するように見られ、世界は、人間の目的 のための手段の寄せ集めではなく、それぞれのあるがままがで尊厳をもって実感される のです。  

逆にD認識においては、世界の中の物や人は「用いられるべきもの」、「恐ろしいも の」、あるいは「自己」が世界の中で生きていくための手段の連鎖として見られます。  
以前触れた臨死体験者が、「病院で気がついたとき、最初に目に入ったのは一輪の花 でした。」私は涙を流しました。こんなことを言っても信じていただけないかもしれませ んが、実はそれまで実際に花というものを見たことがなかったんです。」と言いました。
この「それまで実際に花というものを見たことがなかった」という不思議な表現は、マ ズローのいうB認識とD認識の違いを念頭において考えると分かりやすいです。  

つまり、この臨死体験者は、認識がD認識(手段―目的の連鎖として見る)からB認 識(それ自体の尊厳性において見る)に激変したことの驚きを、「これまで花を見てい なかった」、はじめて花を見たという表現で表したのです。彼は、一輪の花を「それ自 体の生命において」
見直し、「なにか偉大なものを眼前にするような驚異、畏敬、尊敬、 謙虚、敬服などの趣き」(マズロー)をもって接した感動を語ったのです。

(2)B認識は無我の認識であるともいえます。自己実現した人間の正常な知覚や、ふつうの人々の時折の至高体験においては、認識はどちらかといえば、「自我超越的、自 己忘却的で、無我」という傾向をおびるといいます。
それは「不動、非人格的、無欲、 無私」とも言いかえられるでしょう。自我中心の見方から脱して、対象中心的な見方に なったということです。
(1)で見たような違いを別の観点から表現したのだともいえ ます。  
至道無難の歌「我れなくて見聞覚知する人を、生き仏とはこれをいうなり
」というの は、まさにB認識の核心をすばりと表現しているでしょうし、逆に同じ至道無難の「我 ありて見聞覚知する人を、生き畜生とはこれをいうなり」というのは、まさにD認識を 表現しているといってよいでしょう。

 「稲や土、光や風、自然界のありとあらゆるもの、大宇宙のさまざまなものがすべて、 素晴らしい秩序の中にあって、それぞれが一つひとつの役割を果たして調和している、 そうして燃えている」と臨死体験者・鈴木秀子氏が語ったとき、世界は計算だかい「自 己」の手段として価値判断されたり、比較検討されたりすることなく、そのあるがまま の尊厳性において実感されていたのでしょう。つまり「自我超越的、自己忘却的で、無 我」の立場から感じとられていたのです。


795, 至高体験ー読書日記 -1

2003年06月08日(日)

 数年前に買って読んだが、人に貸したまま帰ってこない本である。
当時コリン・ウイルソンの文章の巧さもあって、その面白さに夢中になって読んだ。
インターネットで調べた内容を後でコピーしておくが、至高体験の
内容に対して詳細に情報が載っている。

 私の知人で精神症の人が、鬱の治療薬を飲んで一回だけ歓喜の体験談を話始めた。「それは至高体験といい、薬物を使わなくとも経験できる。またその体質を持った人にはたびたびおこる現象」と説明したところ、その人は怒り出した。「絶対に度々経験ができるはずがない!」と。
「じゃあ長島茂雄はどうなんだ。あの人は過去に他人の体験できない歓喜を数百倍経験しているだろう」といったら、本人は納得をした。
その直前に巨人が10・6?の劇的逆転優勝をしていたからだ。

 この本は19世紀から現在までの精神分析の流れが書いてある。
フロイトやユングなどはマイナスの精神病の患者からの切り口で精神分析をしてきた。これに対してマズローが精神分析を健康人に対して、自己実現などの視点で前向きにとらえた。
 多くの普通人が「至高体験」を経験していることに注目をした。
そしてそれを真正面に分析して解ったことは、超人とか成功をしているほど
この「至高体験」を多く経験しているのだ。成功体験などもそうだろう。
一時巨人の9連覇した選手が多くのチームの監督になったのも、至高体験者の原動力と成功手順の経験を求められた為だろう。

私がいそいそと秘境旅行に出かけるのも、そこで大自然の何かに打たれて「至高体験」を経験するからだ。三桁以上は軽くある。
酒を飲んで騒ぐのも、ミニ至高体験を求めるからだ?少し違うか。


-----------
「至高体験―自己実現のための心理学 」
河出文庫
コリン ウィルソン (著), Colin Wilson
(原著), 由良 君美 (翻訳),
四方田 犬彦 (翻訳
ー内容ー
人間の新しい地平をひらく、悦びの純粋な瞬間「至高体験(ピーク・イクスペリエンス)」。
倒錯や異常といった病理を斥け、あくまでも健康人の心理学の確立を目指した
エイブラハム・マスローの仕事のなかに、『アウトサイダー』のウィルソンが見出した
驚くべき可能性―。十九世紀以降の心理学が辿った複雑な歩みを、分りやすく語った本。

ー目次ー
機械論の時代―デカルトからミルへ
意志の心理学へ―ブレンターノからジェイムズへ
フロイト以降
マスロー、伝記的スケッチ
人間の限界をより高く

ースポーツ医学の分野で解明されつつある現象で、真のトップ
アスリートのみにあらわれるという次元。
それは、ZONE(ゾーン)と呼ばれる現象です。
ここに登りつめること、そして、それを常時日常的に感受する
心理的身体的状況を実現すること、これこそが人類の求めている
一つの到達点ではないか、というのがコリンの主張です。
ーーーーーーーーーーーー
ー至高体験をインターネットで調べてみたー

道徳うんぬんを別にすれば、類似の体験は幻覚剤の効果によっても得られるらしい。
実際、神秘家や芸術家の中にはむしろその効果を助けとし、何らかの啓示や
創作イメージを得る者も多い。

 次に、LSDによる変容意識の体験者のレポートをひとつ挙げてみよう。
「服用してから約2時間後、何となく後頭部を締め付けられるような感覚が起こり、
身体がむずむずしてきた。静かに壁を眺めていると、次第に唐草模様、あるいは
ヘブライ文字か、シッタン文字のようなものが浮かび上がり、ゆらゆらと動いて見え
壁に掛けてある絵画の人物や、背景などの輪郭も滲んで見えた。
色彩 は鮮やかに眼に飛び込んでき、激しく生気を発していることに気がついた。
また野外の音や、自らの体内の音にも敏感になり、その一音一音に深い意味性を汲み取り、
また、時空の振動すら意識できた。  さらに経つと、時間感覚すら無くなり永遠を感じた。
外出してみると、風や日差し、空、草花などが少々恐ろしいくらい身近に感じられ、
自分はそれらとまったく一体で、そこには偏在した意志のような“何か”があった。」
 以上がLSDの体験記の一例で、LSDの開発者ホフマン博士も同様な時間の消失感について
言及している。また、小説家オルダス・ハクスリーは、メスカリンの体験を著書『知覚の扉』
で詳しく述べている。彼の花の観察には次のようなくだりがある。
 「生き生きとした花の光の中に、質的に呼吸に相当するものが認められ
 一ただしその呼吸は出発点に戻ることのない呼吸で、潮が繰り返し引くということはなく、
ただひたすら美から更に高度の美へ、深き意味から更に深き意味へと絶えず昇って
いく流れである。−中略−〈神の示現〉、〈存在−認識−至福〉
−これらのおどろおどろしい言葉の言わんとすることを、私は、はじめて・・・正確に、
完全に、理解した。」
 もっとも幻覚剤の場合、バッドトリップと言われる悪夢のような状態に至る場合も
ままあり、例えば詩人アンリ・ミショーのメスカリン体験は、自我崩壊の恐怖を
地獄巡りとして表現していた。
 
 その他の体験では、ただひたすら万華鏡のような光彩が見え続けるだけとか、
人によってもその変容意識の状態は様々である。
かように薬物による効果でも、神秘体験や変容意識などの状態に非常に
近似している要素がある。      
 実はそれも当然のことで、インディアンのシャーマンなどは、ペヨーテを用いて得た
幻覚を啓示として受け取り、古代ヴェーダでは幻覚性植物ソーマが時に神そのものとして
敬われていたのである。
彼らにとって薬物と神秘は、儀式の一部として深く溶け合っていたのであろう。
 
  一方、中東や西洋でも薬物と神秘は強く手を結んでおり、サバトといった
  怪しげな世界で親しまれた。一説によれば魔女たちは、ヒスイ、ベラドンナ、
トリカブトなどの成分からできた軟膏を秘部に塗布し、一晩中飛行体験や、夢幻的、
あるいは性的なトランス状態に耽溺したという。民族学者ポイケルト教授は、
実際にそれらの成分で魔女の塗膏を処方し、自ら実験台となった。
その結果 報告を端折って挙げると次の通りである。
 「無限の空間へのファンタスティックな飛行感覚、醜悪な顔の生きものたちの祭り、
 原始的なまでの地獄巡り等々。」  上述したような薬物の影響ではなく、
何らかの極限状態や身体の変化に因っても、変容意識は起こり得る。
登山家が厳しい自然と格闘の末、頂上を制服した時、突如として目前に広ろがる
大自然にはっとして至高感を得るという。このように、稀に自然に意識が変容する
こともあるようである。

ここでは生理的変化の一因として、酸素欠乏が挙げられよう。
説明すれば、肺や血液中の酸素が減少すると、代わりに二酸化炭素の濃度が高まり、結果 、
大脳が影響を受け幻覚が生じる。深い瞑想状態でも極端に呼吸の回数が少なくなる。
このことから禅やヨーガでの呼吸法の重要性が理解できよう。
 また同様な状態は、長時間続けて歌ったり踊り続けたりしても起こり得る。
たとえば、シャーマンの祈りや魔術などには舞踏が付き物で、イスラム教のスーフィーズムの
回転舞踏、密教のマントラ、読経、キリスト教の賛美歌などが挙げられよう。
これらは皆、恍惚へと至るためのひとつの手法である可能性を秘めている。
ランニングハイや、武道家の一心集中、断食や苦行もまたしかり。恍惚感や幻覚の要因として、
栄養失調やビタミン不足に依るペラグラ症や、苦行に於ける苦痛ではヒスタミンや
アドレナリンの分泌、また、膿んだ傷からはあらゆる毒物の体内への侵入、などが挙げられよう。
 性的なオルガスムなどでも至高感や幻覚は起こり得る。
ましてや聖女の法悦には甚だエロティックなものが多く、聖テレサの幻視の描写 には、
神の光る失で何度も突き刺され、内臓を引きずり出されて恍惚となったとある。
性的エクスタシーは“小さな死”と言われる。
まさに死へまでも突き動かされる性のエネルギーの解放は、
ニーチェの言う“ディオニュソス的”なものにも内包されている。
以上のように、至高体験、変容意識は身体感覚とも密接なようである。

 そもそも脳内には快楽物質エンドルフィンや、想像力や幻覚をも感知し得るA10神経なるものが
存在している。神秘体験やヴィジョンすら、脳内の神経反応という大脳生理学からの
見地もあるのだ。上記のA10神経と言われるものは、何でも愛情にも大いに開係しているらしい。
もしそうなら幻想やエロティシズムが、文学、芸術に於いて大きな役割を果 たしている
理由が頷けるような気がする。そもそも幻覚剤などの効果とは、元来人間の裡に潜在している
能カを一時的に賦活させるだけなのであろう。
 
 次に至高体験の裏の面とも言える《ヴァステイション》(壊敗)についても少々触れなくて
なるまい。このヴァステイションという言葉は、小説家ヘンリー・ジェイムスが自らの体験を
称したもので、今まで挙げ連ねてきた新鮮で美しい幻覚や、素晴らしい至高感とは打って変わる。
それは、幻覚への畏怖とその不可解な違和感など、ただひたすらその現象に対しての
戦慄に捉われてしまうことを指している。
異端の作家や天才的な人物は、その希有なる才能からか、至高体験やヴァステイションを
経験したという記録が数多く残されている。
 画家エゴン・シーレは、「芸術は自然を目標とし、が、そこには“神”がいて、
私はそれをもっとも強く、もっとも激しく感じる。」と言い、舞踏家のニジンスキーは
「私は神だ。神なのだ!」と言って発狂し、ドストエフスキーは癲癇を起こして
“時間を越えた瞬間”を経験した。ゴッホやニーチェもまたしかりであろう。
至高感には、世界へのまったき肯定が喚起され、通常に悪徳とされるものでさえも、
ひとつの“あるがまま”な存在として眺めているような状態が起こる。
 
  ニーチェの思想の内にも、世界の悲劇さえもがひとつの美として、
生命の内に躍動する一点〈巨大な希望〉や、〈知識に災いされぬ 純粋意志〉など、
至高感の示唆らしきものがある。一方、破壊的なまでの生の過剰、生命の根源的エネルギー
であるディオニュソス的なものも、それはすなわちヴァステイションのことではないだろうか。
  作家コリン・ウィルソンは、〈知識に災いされぬ純粋意志〉を、力(生のエネルギー)
を垣間見ること、そして“全てを肯定する悟り”と同一ではなかろうかと記述していた。

しかし、極端に傾倒さえしなければ、それは人生の大いなる希望ともなる。
心理学者エイブラハム・マスローは、フロイディズムの病跡学にのみ向いた心理学ではなく、
幸福感や至高感へと目先を向け、健康人の心理学を新たに提唱した。 だがたとえそれが、
マスローの示す健康人のものであれ、薬物に因るものであれ、何にせよ、
至高体験は精神への強烈な刺激に対する内的反応に変わりはない。
それはまた、“感動”と換言しても差し支えあるまい。
−“驚異、感動”という刺激は、“快楽、恍惚”であり、ともすると人は虜になり、
何度も繰り返したいと願うことも少くなくないだろう。
それはしかし、人を小羊のように従わせはするものの、知的判断を鈍らせる要因ともなる。
そこへ更に罪、罰、恐怖、禁忌などを付加すれば、信仰、そして宗教の原始的形態が
できあがるだろう。元来、宗教とは、人間の本能が高度に美化されたものであり、
社会的動物の所産でもあろう。
 端的に言うと、人間の普段の意識は、物事との関係上に成り立つ認識と、その繰り返しに
よる経験則に終始しているが、至高体験の場合、それは通 常の意識を越えた、
“精神エネルギーの過度の流出”であり、変容意識での幻覚や達観などは、
認識のオートマティズムとでも言おうか・・・。 “精神の過度の流出”とは、
すなわち並外れた自我への洞察であるとも言えよう。

 ヤーコブ・ベーメは、ヴィジョンを再び得るためには、洞察、内識が必須であるとし、
クリシュナムルティも、深い洞察からこそ真理はやってくると言っている。
それゆえ彼は決して至高体験の恍惚には囚われなかった。
禅のように、至高点すらも冷静に眺める姿勢を忘れなかったのである。彼はまたこうも言う。
「真理や至高は語れない。それは静謐であることだから」と。そこには主観を放棄する、 
無への意志がある.
 至高体験という、そもそも不可解な事象は、まさにそれを言語化しようとする失先、
もはや“至高”ではなくなり、残された表層的なもののみが辛うじて語り得ることとなる。
それはさながら、近づこうにも到達できない展気楼のようである。
全てのあらゆる存在は、“普遍的な何か”の氷山の一角で、恐らくその一角を通 して
“普遍的な何か”の真相を垣間見ること、これこそが至高体験に於ける世界との
一体感なのであろう。

 ノヴァーリスは、『青い花』の中で、登場人物のジルヴェスターに次のように言わせている。
「すべての感覚は、結局はひとつの感覚なのだ.」と・・・。
また、「この世の生を眺める超越的視点が、われわれを待っている。」
というノヴァーリス自身の箴言もある“精神の一点”“ひとつの感覚”“超越的視点”
そしてニーチェの〈知識に災いされぬ 純粋意志〉−これらの言葉はすべて、
同じものを指しているのであろう。

 「至高とは進むことにして、進むとは遠くへ行くこと、遠くへ行くは還ることなり」
これは老子の章句の一部である。 まさに至高点は、ウロボロスのごとく自我へと帰結する。
我々は、常にデカルト的自我から逃れらないのであろうか。ロラン・バルトもまた、
「自分が主体であること、そうならざる得ないのだ。」と言っていた。
どうにもならない《自我》という視座・・・それは、ブルトンの言う“精神の一点”
すなわち《驚異なる意識》の通 過点に他ならない。  至高体験ではなくとも、
日常的な出来事の感動、そして《驚異》を外在化させていくことが芸術の始まりで、
その行為へと誘う“意志”と、結果 としての“意味性”が《神》なるものの認識の
始まりだったのではと私には思える・・・。  
 −しかして《神》の顔とは如何なるものなのであろうか。

「一切を疑い、かくして懐疑の苦悶から確信が芽生えなければならない。
恍惚の瞬間にこそ懐疑を招き寄せよ。なぜならその時残るものの中に、
真実と虚偽とを見いだすだろうから。」  J・クリシュナムルティ


794, 夢とイメージ

2003年06月07日(土)



 学生時代に3番目の姉が結婚をして、家を建てた時の話である。
その姉は節目ごとに私にノウハウを教えてくれていた。
(小学校5年時の勉強のコツ、中学2年時に具体的な目標のたて方と
挑戦の仕方を教えてくれた)

「実を言うとね、この家と庭と旦那とのこの生活、ずっと願って心に
イメージをしていたの。それがね、このままいま現実にあるんだよね。
夢を持って、イメージまで高めなさい。そうすると叶うんだから。
本当に驚いているんだから」と教えてくれた。

 今ではポール・マイヤーとか、ナポレオン・ヒルとかの本に詳細に
そのノウハウが本に書いてあるが、当時は新鮮な情報であった。
「なるほど夢を持ち、それを目標に変えて、具体的にイメージ化をして実行していけば夢が夢でなくなる」と解釈した。
建物なら平面図を描き、次にビルのイメージ画を先に書いてしまうのだ。

 女性なら好きな女性のイメージを頭に描くのだ。
しかし世の中には自分の想像を超えた理想の女性がいることを現実に知った、高嶺の花でしかなかったが。
好きなタイプをイメージ化した為、早めの判断をしないで済んだ。
(ダブルデートで、もう一組が何人も結婚していった)
当時、簡単に一生の伴侶を決めてしまうのが不思議であった。
いま考えると、自分の未来を考えてない人が大部分であった為だ。
私の勝手の見方だったのかもしれないが。

 夢のイメージの類の本を小ばかにして拒否している人がいたら、とんでもないことだ。
夢の実現の方法論として、高度のシステムとして体系化してあるからだ。
特に若い時に、この知識・情報を持っていると人生を効率よく生きることができる。全く知らないのと知っているとでは天地の差が出る事は間違いない。
偉人などの自伝を読み、その中で自分を投影して夢を創っていくのが
一般的であるが。
もっと割り切った時の方法論である。
末っ子は、つらい反面けっこうノウハウを貰っていたことになる。


793, 起業についてー2

2003年06月06日(金)



 起業について実感のキーワードは「発狂」である。
精神の爆発といってもよい。
よし!やろうと決めた瞬間から、もう全てはプロジェクトの完遂をイメージ
して突き進むだけである。
よほどの粘りと信念がないと突き抜けることはできない。
当然の事だが、簡単には事業を興して軌道に乗せることは不可能だ。
可能にするのは「的」が間違ってない事と、周到な準備と、信念だけである。

 いまの事業を興した時は500佑寮功確率という確信があった。
失敗は許されないし、初めの一歩の重要さを知っていたため、
考えられるだけのことは考え抜いていた。
それと、それまでの成功体験の裏付けがあった。
何事にもいえるが一番大事なことは、成功体験である。
それが実績ということだ。

 それと育ってきた家庭環境が大事ではなかろうか。
10歳位までに,両親の立ち上げをみた経験がなければ、
計画も準備も甘くなっていた。
また20歳で起業をするという決心をして準備していた事もある。
その瞬間から女性に対しては、気を許さなくなった?
どちらを取るかといえば、迷いなく事業の立ち上げであった。
若い時の最大の難関はまずは女性である、創業以外の事を割り
切ることであった。
つまらない男になっていた!それが陰になっていた?ようだ。

 事業を始めるとき、まずは自分の心の問うたことがある。
「経営資源として金を含めた資産を全て『博打の札ー事業』に変えるが、
全てを失っても後悔しないと自分に誓えるか?
そして事業を本当にしたいのか?−−したい!!」
一人の誓いである!今更だが、それだけ勇気と覚悟が必要だった。
おそらく大小にかかわらず誰もが、その位の自問自答はしているのだろう。
いろいろな危機があったが、最後はいつもこの言葉を繰り返していた。
結局は事業経営は博打でしかない!当たり続ける事はない。
最後は裸になる覚悟は出来ている?のが強みである。

 しかし、まだ憶えているが、事業の準備をしていたときのことである。
何か一人でTVを見ているとき、急に不安になり「屋上の手すりの上に立っている
ような末恐ろしい感覚」になったのを憶えている。確か借金を初めてしたときである。
この意識下に隠れた不安が意外と経営の原動力になっているのだろう。
立ち上げで判断を迫られるとき、夜半の2時35分が一番冷静な思考になっている。
しかしこの大津波ー大不況に対して、まだそこまで意識がいってないのは
どういうことだろう?!これからか?


792,起業とは−1

2003年06月05日(木)


 現在アントレブルナー(起業家)という言葉がキーワードになっている。
国家が支援金まで援助して新しい事業を興すことを勧めている。
ベンチャーだけでなく、企業に属している人やすべての社会人に
このマインドが求められるようになった。
 しかしアイデアや着想を練り上げて、プロジェクトを立ち上げ、業績を
あげて、拡大し、次世代にひき継ぐのは至難の業である。
うまくいっても大体が25〜30年で、その生命を終了する。
営業ー不動産などで「千三つ」といわれることがある。
千に三つしか成功しないからだ。
これは2分の1の確立で10回当たった数字である。
起業で成功する確率も同じ事がいえる。
無から有を生み出すのだから、想像を絶する苦痛を伴なう。
コンサルタントの林さんも産能大学での講座では、本当は「起業論」を
やりたかったといっていた。
 
 考えてみたら、小さいながらも27歳から事業の立ち上げを数回経験してきた。
決心をしてから半独立ー27歳、
そして完全独立ー34歳、
と階段を上るように一歩づつ独立をしていった。
私の知人友人に起業をした人が数人いるが、見ていても壮絶である。
想定が甘かったり、少しいうまくいくと拡大ではなく膨張をしてしまう。
自己能力の限界の設定が甘くなってしまうのだ。
他人事ではないが。

 私も何回か立ち上げをしてみて大変であったが、両親の創業を見ていたので、
その苦労の数分の一でしかないことをわきまえていた。
時代の変化の中で、それまでとは違った業種・業態を新たに創りあげるのだから
簡単なはずがないが、しかし手順は一緒である。
今までの常識を否定して、仕掛けとして違う切り口で組立てをするのだから、
覚悟とエネルギーが要るのは当然である。


791, 鎌倉がよかった

2003年06月04日(水)



 林さんに大学の授業が終わった後、鎌倉を案内をしてもらった。
家内と私にとって素晴らしい思い出になった。
鎌倉は父方の親戚が駅前で古美術(堀井古美術)の店を開いて、法事などで
数回行っていた。しかし鎌倉の大仏以外は全く未知の世界であった。

 今回初めて解ったことだが、鎌倉にも五山があった。
鎌倉時代に中国の五山制度にならって、鎌倉の禅寺に設けられた五大寺をいう。
室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められた。
その後たびたびの改定を経て、足利義満のとき、五山の上に南禅寺がおかれ、
・京五山として天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺、
・鎌倉五山として第一位 建長寺 第二位 円覚寺 第三位 寿福寺 第四位 浄智寺 第五位 浄妙寺 がおかれた。

それぞれに深い歴史があることがはじめて解った。
私達が案内されたのが、第一の建長寺と第二位の円覚寺、それと長谷寺と
‘あじさい寺’の名で親しまれている名月院である。全て印象的であった。
その中で名月院を書いてみると
ー北条時宗が建てた禅興寺の塔頭の一つだっ たが、のちに足利氏満の命令で上杉憲方が 時宗の父、時頼の墓所と して中興した。
1394年上杉憲方の没後、上杉憲方の法名 をとって明月院となったという。アジサイだけでなく スイセン、ボケ、モクレンなど草花の種類も 多い寺である。

 それぞれが、味わいのある素晴らしいお寺であった。
鎌倉がこれほど良いとは実際のところ知らなかった! 

 昼飯を御馳走になった老舗の中華料理店がよかった。
横浜の中華街にある中華料理店の支店として60年前から営業をしているという。
由緒ある別荘がそのまま店になっている高級料亭風であった。
中華料理も絶品の味であった。
林さんとでなければ、間違っても入れない店である。

 話は変わるが鎌倉でタクシーに乗った運転手が「景気が悪い!」といっていた。特に今年に入ってから、かなり悪いとか。
鎌倉の一人当たりの地元に落とす金は平均700円?と冗談で林さんが教えてくれた。
ウォーキングスタイルにリュックを背負いコンビニで弁当を買ってベンチで食べるのが鎌倉の一日観光のスタイルとか。

 母校の講義と鎌倉の散策、一期一会の素晴らしい二日間であった。


790, [ 産能大学講義]談

2003年06月03日(火)

 何事も経験と、会社のコンサルトをしてもらっている林さんの
産業能率大学の授業の臨時講師を受ける事にした。
授業70分のうちの60分が持ち時間であった。
場所は新宿より箱根に向かう小田急電鉄で一時間のところにある伊勢原である。

 気楽な気持ちであったが、二日前に講義をいている夢をみた。
あまりにも力みすぎ空回りをして一人芝居をしている夢であった。
何処かで緊張していたのだろう。
ゆっくり話すのがコツというが、力みを抜く事を忘れてしまって空回りをしてしまった夢だ。

 ところが当日は緊張感はゼロであった。
「相手は学生で、実体験をそのまま実感で話せば問題はないだろう」
という気持ちと十分の準備があった為だ。
いざ壇上に上がって驚いた、学生のほうがむしろ緊張をしているようであった!?抽象的な話しばかりの授業が多い中、具体的な異様な?話に逆に興味を持ってくれたようだ。
まあ実務家の話は聞いたことがないから、珍獣でも見ている気分ではなかろうか。

 出席者は50人位で、女学生が半分近くいた。
私語をする学生はゼロ、少し居眠りをしている学生が2名いた。
講義は先日のレジメどおりに進めたが、
カタチ、心観学術態、好きな事を今のうちに見つけて職業にしなさい、
ダンスと歩行、般若心教を暗記しなさい等を話している時は
全員の目が光っていた。
「私の人生で得たエキスを誰か一人でも理解してくれればよい」
という気持ちが少しは伝わったようだ。
しかし禁止用語も使っていたようだ。

また大学で講義など変わった貴重な経験を一つしてみた。
そして面白い経験であった。


789, 東京見物

2003年06月02日(月)

 この二日間、東京と鎌倉に行ってきた。
まずは初日の東京見物の話。
さっき帰ってきたところだが、「新潟と地球の僻地」を行ったり来たり
していた世界とは少し違う。

 一泊二日で約16000円の東京宿泊パックである。
新幹線とホテルのパックで、ホテル代が無料ということになる。
指定された列車で、二人以上という条件がつくが安い。
日曜日の8時45分の新幹線で出発する。
家内は上野で降りて、息子に会いに行く。
私は東京駅近くの八重洲ブックセンターに行く。
13時の待ち合わせまで、アッという間に時間が過ぎる。
よくぞこれだけ面白そうな本があるものと驚く。

 その後、家内と丸ビルに行く。
思ったより落ち着いた、奇をてらってないのがよかった。
そこの和食のランチが1800円と高いが、それを感じさせない店であった。
そして日本橋の三越本店に行く。
店員の多いのと、催事場の人の多さに驚く。
それと年配ー60歳から80歳が8割がたであった。

17時半より、はとバスに乗る。
20数年ぶりのハトバスである。
新宿の高層ビルの54階での食事と、お台場をまわるコースで7500円である。
50人以上の定員に12名の乗客である。
世界の刺激の強いところばかり行っていた為か喩えると、
薄いコーヒーをクリープをタップリ入れて飲んだ感覚であった。
お台場も雨上がりの為、何ともいえない趣があったが!
それより、新宿のパックの指定されたホテルが見つからず、危なそうな場所をさ迷ったほうが刺激的であった。
ポイントを効率的に回った!のがよかった。


788, 産能大学ー講義レジメ

2003年06月01日(日)

  
 来週の産業能率大学ー講義のレジメと一部内容である。

1、ペガサスの軽い説明と、チェーンストアの現状
2、現事業の立ち上げの戦略とプロセス
3、創業とは、創造とは
4、もし私が、今あなた方であったら、最優先で何をするだろうか
5、現在の景気について

ー「ペガサスクラブ」について
チェーンストアを束ねているコンサルタント会社である。
40年前に、日本にも新しい流通経路をつくる為にアメリカのチェーンストアに学ぼうとしていた。
ジャスコやヨーカ堂やダイエーの創業者達が、読売新聞の記者をしていた渥美俊一のもとに勉強会を作った。
それが発展して、コンサルタント会社の「ペガサスクラブ」が出来上がった。

私自身、設立の年にジャスコに入ったが、一年で辞めて産能大学の
二部に籍を置いていたことがある。
その後金沢の衣料チェーンの「いとはん」という会社に一年半在社した。
その会社もジャスコの偶然だが傘下に入ってしまった。
そういう経験を含めて、チェーンの内部からそのシステムを見てきた。
また会社設立から、「ペガサスクラブ」に入会した。

ー現事業の立ち上げについてー戦略とプロセス
・スペシャリティーホテルを当時、日本で初めて創った。
 オールシングル 
 統一料金
 ロープライス

ー創業ー創造について
 カタチつくり
(カ・カタ・カタチ)
 カー神・発想
 ター田・型
 チー血・エネルギー・道

ーもし私が、今あなた方であったら、何をするだろうか
 人生のトータルデザインを創る
 ホームページを作成する
 資格を取る
 哲学を学ぶ
 世界を旅をする

ー現在の景気について
 もうよくなることはない
 軟着陸をどういうカタチでするかのレベル

 ・・・・・・・・・
どうなることか、面白そうだ!

 < 過去  INDEX  未来 >


horii86 [HOMEPAGE]