堀井On-Line



695, お金の哲学−1

2003年02月28日(金)

「お金のたまる人たまらない人」と「金持ち父さん貧乏父さん」
と「ホームレス失格」を読んで金銭哲学を考えてみた。

私の両親は教育といえば金銭哲学の話がメインといってよいほど
繰り返し繰り返し話をしていた。
今から考えると、それは人生哲学であり、如何に生きるかということであった。
この本の90佑藁梢討繰り返し話している内容であった。
ー思いつくまま書いてみるー
・浪費をしないことー人生の楽しみを浪費に求めないこと
・自分の趣味を持つ事ー人生を楽しむこと
・時代の変化を早く見つけ、その変化をチャンスに変えること
・常に蓄えを増やす事ーチャンスに即金を出せること
          −最悪に備える事
・借金は最小にー
・勤勉であること
・仕事を楽しむこと
・勉強をし続けることー教養を積むこと
・肩書きや仲間付き合いは最小の人と、しかし最高の人と
・投資物件をつねに抱いていること-投資をし続けること

・生活レベルを上げないこと
・「飲む、買う、打つ」は身を滅ぼす
・銀行の恐ろしさを十分知るべし
・神仏に対しては真摯に、とくに墓は大事に
・保証人には絶対になるな
・死に資産は持たない
・質実剛健であることー贅沢や肩書きは敵と思え
・情報はもっとも大事
・自宅は可能な限りよい家を造り、生活は質素に

長岡商人は大阪商人の流れをくむという。
御朱印船の影響が残っているためだ。考えてみれば面白いものだ。
新潟は天領であった為、江戸の影響が今でも残っている。


694, ハウステンボスの倒産

2003年02月27日(木)



20年前に、チェーン理論のペガサスクラブの渥美主幹の言葉が印象的に残っている。
「いま色々なリゾート開発とかテーマパークがブームになっているが、
あれは後背人口が3000万以上でないと成り立たない。日本では関東しかない。
大阪でさえ難しい」であった。
「なるほど全くそのとおりである!」と納得したのを憶えている。
「浦安のデズニーランドが上手くいっているのは、関東の3000万のある上に、
日本全国とアジアの数億人の後背人口があるからだ」と加えていた。
 
 その後バブルが発生して色々な計画が発表された時に
「本当にバカでないかと冷笑していた!」のは私の周辺にいた人は全員知っている。
別に私が考えてことでない、情報を持っていただけだ。

新潟では「ロシア村」「トルコ村」、長岡ではゼネコンの「スペースシャトル村」
が計画され全て頓挫した。聞いていてバカ気違供と思っていた。
再開発の99パーセントもこの類だ!!
今年オープンする「トキメッセ」はその最も最悪下劣の計画である!
これはこのテーマではないから省く。

現在になってこれらの計画のボロが露出しているが、この計画と遂行した犯罪者は
引退したか、あの世にいっている。日本という国はどういう国だろ??
いつの間にか、ボタンを掛け違えてしまったのだ。
このツケの支払いが、今の若い人たちの10年〜50年後に回ってくるのだ。

5〜6年前にハウステンボスに行った時その計画の合理性に驚いて、
こういう例外があるのかと目を見張った。
特にテーマパークにあわせたオランダ風のマンションや住宅を造って販売して
いるのに驚いたものだ。といって2回以上行きたいとも思わない。
デズニーランドなら別だろうが。

この「2回以上いってもよい」と思わせるには、高度のノウハウが必要のはずだ。
今は大型PDPTVが家庭内に入り、居間がテーマパークになってきている。
映画館もしかりである。
私の場合、PDPTVが入ってから飲みに行く回数が半減した?
テーマパークはバーチャルが最大の売りだが、今の映画はデジタル技術でその過激さ
が飛躍している。

ハウステンボスの倒産は今の時代を象徴している。


693, 「ホームレス作家」

2003年02月26日(水)

新潟の駅にも40人ぐらいのホールレスがいる。
段ボールを見かけるが、昼はさすがに寝ている人は見かけない。
かれらは昼どうしているのだろうか不思議と思っていた。
時たま駅の待合のベンチで、目を宙に浮かして不安そうにしている姿がある。
ひとつ人生を狂ってしまえばホームレスになる可能性は誰にもあるし、あったはずだ。

深夜はコンビに入ったり、たださまい歩き、朝になると、電車に乗ったり、
喫茶店に入ったりして仮眠をするという。
彼らホームレス仲間では、炊き出し場所の情報は敏感で、仲間内ですぐ知れ渡るという。
身なりは何とかきれいにするように気を使うとか。

先日TVで、空き缶の廃品回収で生活しているホームレスをドキュメントで放映していた。
最近では読み捨ての雑誌を集めて、100円で売るのがはやっている。
新潟駅の中でも見かけたことがある。
何処かの?ホテルが、客の置いていった週刊誌をホテルの前の自販機で
売っていた。ホームレスがやっているのは卑しいのではない、生きる為だ。
客の置いていった雑誌を利益のために売るとういうのが卑しいのだ。
卑しさを売っている事になる。
他人事でないが、変形学生服を売っていたことがあるのだから!
もっと悪いか!

「ホームレス作家」という本を書店でよく見かけていた。
先日、図書館でその続編の「ホームレス失格」という本を図書館で見かけ借りてきた。
かなり厳しいl生々しい内容であった。

この作家の本で本人は気がつかないが、お金に対する感覚が非常に甘い。
だからホームレスになったのだろう。
出版後に印税が入ると、すぐに使ってしまうのが文面に現れていた。
お金など、そうそう入ってこない事が全く解ってない。
借金や税金をばら撒くように払うのだ。
大事な事だが、「まずはホームレスを脱出する事だろう!」と教えてやりたいが、
本人は何も解ってない。
一人一万円の店に平気に入るのだ。こちとら、この10年間に一度も入った事もない!
何を考えているのだと。何も考えてないのだろう。
まあいいかホームレスを説教しても仕方がないが。
  −−ーー
パソコンで検索したら書評が出てきた。
コピーをしておくが、これを読めは十分だ。

ー『ホームレス作家』松井 計著
半年間の実体験つづる
 不況はますます深刻化し、失業率も増加している昨今、町に出ればホームレスの人を
見かけるのも珍しくなくなっている。
 本書は、家を追われてホームレスとなった作家が、食うものも食えず腹を空かせながら
路上生活をするルポであり、自らの生活をつづったノンフィクション。
普通のルポだと潜入取材で、一時的に路上生活を体験することはあるかもしれないが、
本書はそうした取材ではない。

 自らが公団住宅の家賃を払えずに滞納し、強制的に退去処分を受け、その日から
住む家がなくなってしまった経緯をありのままに書いたものである。
そのために、記述内容が著者の個人的な事情に終始するので、ルポというより私小説
ノンフィクションと言うべきかもしれない。

 一家そろって家を追われたといっても、妻と娘は区役所の世話で寮を紹介され、住む所と
食べ物の確保が出来たから、後は著者だけがどう生活の糧と寝場所を得るかという問題になる。
現役の作家でありながら、やっていけなくなったのは、妻の病気で本の執筆がままなら
なくなったからである。しかも、当てにしていた出版の企画や預けていた原稿がボツになり、
路上生活は半年間余りと長期化する……。

 明日はわが身ではないが、他人事(ひとごと)として読めない迫力があるのは、
今の時代の不況が背景にあるからだろうか

・・・・・・・・・・・・・・・
『ホームレス作家』は、公団住宅の家賃が支払えず、強制退去処分を受ける。
身重の妻と三歳の娘は新宿区役所の斡旋で福祉施設で保護してもらえることに
なったが、男は保護してもらえない。作家は、コンビニに入って寒さをしのい
だり、六時間で九百八十円の漫画喫茶でうたた寝をしたり、二十四時間営業の
ファミリーレストランで、お替わり自由のコーヒーだけ取って、朝まで粘った
りする。カプセルホテルは一泊四千二百円もするので、よほど懐に余裕がない
限り泊まれない。

 食事は安売りのハンバーガー屋、牛めし屋、一○○円ショップ(カップラー
メンやクッキー)などを利用する。大型スーパーではから揚げや刺し身、アイ
スクリームなど様々な食材が試食に供されることがあるので、見逃せない。ビ
ールやワインの試飲もある。
 こうしてみると、ホームレスでもなんとか生きていけそうだが、気をつけな
ければいけないのは臭いである。体が異臭を放つようになったら、元の生活に
戻ることはできないだろう。そこで、作家は次のように考えた。

   もし、私が路上の生活から抜け出すことを望んでいるのなら、ルールが
  要る。自分を縛るルールが。この時私が決めたルールはたった二つだった。
  一つは路上では横にならないこと、もう一つは残飯を漁らないこと、であ
  る。
   その二つを守れる限り、私は<住む場所のない小説家>でいられると思
  った。そうでなければただの浮浪者だ。私は浮浪者にはなれない。浮浪者
  の生活を見下しているのではない。私は彼らのように生きる覚悟もなく、
  それだけの生命力もないのだ。

 作家はまた、路上生活をしながら収入を得る方法を思いついた。

  気分が少し楽になると、また、生きる意欲が湧いてきた。ポケットには
  まだ三百円と少しの金がある。これを有効に使うべきだ。これだけの金額
  でどこかに泊まるのは無理だから、食費にするしかない。ブロードウエイ
  を出て早稲田通りに入った辺りに、一○○円ショップがある。あそこで何
  か、腹に溜まるものを買おう。そう考えながら歩いていると、ある大型の
  古書店が眼についた。所謂、新古書店と呼ばれる大型のチェーン店である。
  「ツイてるぞ」
   私は思った。確認すると、ポケットには小銭が三二六円残っていた。消
  費税を含めても、一○○円の本が三冊買える。私は店へ入り、迷わず一○
  ○円コーナーへいった。このチェーン店には単行本、新書、文庫、まんが
  のそれぞれに一○○円コーナーがあるが、私がいったのは単行本の一○○
  円コーナーである。残りの金を有効に遣うため、私はセドリをやろうと考
  えたのだ。

 セドリとは、古本屋で買った本をそれより高い値段で売って、利ざやを稼ぐ
ことである。作家は職業柄、古本のめききがきく。おまけに本書の作者は、古
本屋をやっていた頃、セドリの経験があった。
 新古書店の一○○円コーナーには、普通の古書店なら少なくとも倍の値段で
買ってくれそうな本がいくらでもあった。その中から厳選して三冊を三○○円
で買い、それを他の古本屋に持ち込んで交渉すると七八○円になった。四八○
円の利益である。そんなことを繰り返しているうちに、所持金が三千円にふく
れあがったのである。

 そのうちに、彼は作家としての矜持を思い出した。
 書こう。総てを残そう。

  私の脳の奥深いところから、書け、書け、と命じる声が聞こえていた。妻
 とのことも、そして、路上での生活の逐一も、嘘偽りなく記して残せ。臆す
 ることなく・恥じることなく、繕うことなく、飾ることなく、総てを書け
 ――と。もしも私が作家であり続けることを望むのであれば、それ以外に何
 ができるというのか――と、その声は命じていたのである。

 かくして、小説『ホームレス作家』は誕生した。売れ行きは順調で、今のと
ころは本屋のベストセラーの棚に並んでいる。作家ならばこその一発逆転満塁
ホームランである。

 めでたしめでたしといいたいが、不安材料もある。高次脳機能障害の妻は、
精神のバランスを崩し、子育てや家事がまともに出来ないという。同居すると、
作家は専業主夫もしなければならないが、そうなると、原稿執筆に専念するわ
けにいかなくなる。そもそも、『ホームレス作家』になったきっかけは家事に
追われて、原稿執筆がままならなくなったからである。

 それにしても、専業主夫までするとは、『ホームレス作家』は生真面目で、
健気な男だと言わざるをえない。わがまま勝手なむかしの破滅型私小説作家と
は比較にならないほど立派な人格者である。友人のミステリ作家谷田勉の『ホ
ームレス作家』評は象徴的だ。

  今のあなには魅力がない。いつも何かに脅えていて、小市民的に過ぎる。
 多くの友人があなたから去っていっても、それでもぼくがあなたと付き合お
 うかと思うのは、あなたにある種の魅力があるからなんだ。それは常識なん
 か無視したあなたの無頼な生き方じゃなかったの?今のあなたにはそれがな
 い。
                            (2001/10/01)


692, 「わたしを認めよ」ー3 読書日記

2003年02月25日(火)


 <面白そうなところを抜粋してみた> 

ーわたしをみよー 自己証明をめぐる闘争
 
 あなたのまわりを見渡してみるとよい。
いや、あなた自身をかえりみるだけで十分だ。自分の無意識の言動の大部分が、
いかにつぎのような動機に基づいているかがわかるにちがいない。
世の中のほとんどすべての関係が、つぎのような証明動機に満ち満ちているかが
わかるにちがいない。

ー自分がいかにうつくしいか、いかにカッコウいいか、いかに可愛いか、
いかに若いか、いかに頭がよいか  ーこれからはーいかにーを省く。
勇気があるか、度胸があるか、ユーモアがあるか、明るいか、優しいか、
いかに凄い体験をしたか、気がきくか、仕事ができるか、正しいか、
ものがわかっているか、忙しいか、金持ちか、ケンカガ強いか、酒が強いか、
ざっくばらんか、大物か、太っ腹か、もてたか、セクシーか、性技巧に優れているか、
自己犠牲ができるか、子供思いか、親思いか、義理堅いか、正義感が強いか、
努力をしたか、苦労したかー
(こうもくどくど列挙が文章上、下品だが、ここまで書かないとわたしの気持ちが悪い。 
ご寛容を。)・・・・

ーつまり、わたしたちはこのようにいいたいのだーー
わたしを見て、わたしを振り向いて。
わたしを気にかけてくれ。
わたしを好きになって。
わたしを知って。
わたしを理解してくれ、と。
わたしを見る他人の「視線」。
わたしたちの自己証明は、すべて他人の「視線」をひきつけることに
費やされる。
この、わたしを見よ、と。

・・・・
 鷲田はさらにこのようにつづけている。
あるいは、生きることのプライドを、追い詰められたギリギリのところでも
もてるかどうかは、自分が無条件に肯定された経験をもっているかどうか、
わたしがわたしであるというだけで全部認められた経験があるかどうかに
言い換えてもいい。その経験があれば、母がじぶんを産んでしばらくして
死んでも耐えられる。
こういう経験がないと、一生どこか欠乏感を持ってしか生きられない。
あるいはじぶんが親や他人にとってじゃまな存在ではないかという疑いが
払拭できない。つまりじぶんを、存在する価値あるものとして認めることが
最後のところできないのである。

 鷲田は、家族による「無条件の肯定」は「じぶんを、存在する価値のあるもの
として認める」と書いているが、わたしはこれを、家族の無条件の承認は、
じぶんを、存在する意味のあるものとして認める、というふうにいいかえたい。
意味の承認は、価値の承認、より無条件であり、より根源的であると考えるからである。
わたしの考えでは、「無条件」ということは、「価値」からはでてこない。
なぜなら、「価値」は交換可能(相対的)だからである。
じぶんという存在の「価値」を証明を求めはじめるのは、家族以外の関係性
においてである。
すなわち、ひとりの異性(あるいは多くの異性)との性的な関係や、
社会的な関係においてである。

ー感想ー
 かの文豪のドストエフスキーが24歳の時に「貧しき人々」が認められ文壇に出た時の話だ。
当時の著名な評論家のネクラーソフが、その原稿を読んで感動し、
友人と連れ立って、夜明けにわざわざドフトエフスキーを訪ねて「きみは天才だ」と
激賞したという。
 その時の気持ちを、ドフトエフスキーはこう記している
「胸がおどる!これが成功なんだ!だが、私にとってなにより嬉しかったのは、
彼らの思いやりだった。朝の4時に、二人は目に涙をためてやってきてくれた。
感激で胸が満ちあふれた」
彼のような暗い感じのする男でも、認められということは最大のこれからの作家生活で必要な
事であった。
  ーーー
私の母の口癖は「人を認めてあげなさい!だれもが認めて欲しいのだから」であった。
両親の呪縛があったとしたら、
「両親の期待を失望させてはならない!」だ。
両親の期待にこたえることであった。


691, 「わたしを認めよ!」−2「読書日記」

2003年02月24日(月)



 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。

・・・「ふつう」の意味とは・・
・「普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない」。当然である。
 だれも知らないからだ。
 わたしが考える「ふつう」とはこういうものである(「普通」と区別する)。
 「奴隷みたいな退屈な生き方」が上と下の「中間」(中流)に落ち込んだ「普通」だとするなら、
 目指されるべき「ふつう」とは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。
 「普通」が惰性なら、「ふつう」は意思である。
 すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、
 それが「ふつう」である。
 たしかに、「普通に生きていくのは簡単ではない」。けれども「ふつう」とは困難にして容易である。
 できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとってはこれが最善であり最も
 正しいとおもうことを、覚悟してやるしかないのである。むろん判断は一回かぎりではない。
 覚悟もまた一回かぎりではない。

 ・・・「断念」について・・
・いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である(それゆえくりかえし打ち立てられなければならない)。
 自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという弧絶した自己承認には限界がある。
 すくなくとも、「わたし」が承認する一人の他者から、「わたし」は根本的に承認されているという
 自己確信は不可欠である(たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも〈少しだけ大きな他者〉
 などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。
 世界のなかで、「わたし」はすくなくともひとりの人間から承認されているという確信さえないところには、
 ほんとうの勇気や元気は出てこない。
 ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、
 自分はあくまでも「ふつう」を一生懸命生きるという覚悟のない者には、
 他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。
 承認は循環するのだ。
 その場その時に、最善の判断と選択を求めつづけたあとになにが残るか。信頼するに足る承認が
 「わたし」に残る、とわたしは信じるが、それと同時に、ある種の断念が残るとおもう。
 家族、性、社会も、金も、「セックス」も、有名であることも、そしてあくまでも「自分らしく」  
 ありたいという欲求さえもが断念されるとおもう。
 「人事」をつくしたあとの行方さえ、断念しなければならない。
 「わがはからいにはあらず」という言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。
 「なるようにしかならない」と思い、さらに、「しかし、おのずと必ずなるべきようになるのだ」
 と心の中でうなずきます。
 そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じる。
(五木寛之『他力』講談社)

 この「安心感」のなかには、「人事」をつくしたあとに、もしそれでも「承認」がもたらされないのなら、
 それはしかたがない、という断念がある。
 もう、それでいいではないか、という断念の強さがあるとおもう。
   ・・・・・・・

 ちなみに著者は1947年生まれの団塊ではあるが「平凡パンチ」にも「朝日ジャーナル」
 にもかすらず生まれてこのかたドライヤーをただの一回も使ったことがなく、
 麻雀牌を握ったこともなく、クラブ・バー・キャバレーの類の店には一歩も足を踏み入れたこともなく、
 競馬場競艇場競輪にも無縁で、車の免許持たずカラオケも基本的には好まず、
 赤提灯にも無縁ゴルフもやらず、どんなサークルにも属していない洋書輸入会社の勤め人という。

ー感想
 地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。
 もっとも都会は内幕情報社会だが。
 この三層の元−下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。
 
 子供時代は「世間」レベルしか見えない。
 成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。
 成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。
 前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。
 
 三層の世界をきっちり意識していれば、特に世間の現象をクールに対処する事が
 できそうなのだが。
                        ーつづく


690, 「わたしを認めよ!」

2003年02月23日(日)



「ぶざまの人生」「まれに見るバカ」が何とも面白い内容であったので
三たび「わたしを認めよ!」を買ってしまった。
これも前書にまけず面白い内容であった。
この3冊は日常の心の何気ない事を取り上げているから、
ひき付けてはなさない内容になる。
「なるほど、なるほど!」という説得力がある。
人間は誰でも褒められれば、解っていても有頂天になる。
人が褒めてくれない時は、自分で周囲に褒めてくれるように誘導さえする。
−「私って若く見えるでしょう?」
 「あの人と自分はどっちが若く見える」
 この場合明らかに自分の方が若く見える時のみいう。
 その反面、自己認証が歪んだカタチとして貶しに入るケースがある。
 私の嫌いな痴呆迷士と子狐に、このタイプが多い。
褒めるということは認証として、一番大事なことである。
しかし、認証はもっと深い意味の話である。
前書きと要約を書きうつしてみる。
 
   ・・・・・・・・

「わたしを認めよ!」
洋泉社新書018
著者名 勢古浩爾 (エッセイスト)
ジャンル 心理学・社会学
発刊日 2000年11月22日
買い入れ日 2003年2月19日
購入場所 新潟セゾン
価格 680円
★★★

まずは「まえがき」の要約
ー我々は認められたがっているーもっと厳密にいうと「承認」されたいのだ。
「まじめでおとなしい」性格!、これは明らかに揶揄を含んだ否定の言葉である。
 わたしには、「まじめでおとなしい」ことのどこが悪いのかまったくわからないが。
 この言葉は自己証明にならないのだ。
 根本的には、自分という存在を証明したいのだ。
 人間は承認原則と証明原則の力学として読み解く事ができる。

ー内容  
・人間は、「承認」を求めて生きている。自分という存在の意味が他人から否認されるとき、
 人は絶望し、あるいは暴発する。
 人は、自分の何をどのように認めてもらおうと欲しているのか。
 狂おしいまでに「承認」を求める人間の心理構造とはいかなるものかを考察し、
 現代日本における承認の実態を解き明かすとともに、最終的な承認である「自己承認」を
 手に入れるための心のありようを探る内容である。
 何より、「人間に必要なのは、自分の『価値』を『肯定』してもらうことではなく、
 『意味』を『承認』してもらうことだ」と主張している。

ーそれでもわたしが生きる意味とはなにか?
 わたしたちが世界のただひとりからも「理解されたり、認められたり、必要とされたり」
 しないとき、自分が生きる意味を失ってしまう−−−。
 ・古典的承認(家族、性、社会)、
 ・現在的承認(金、「セックス」、「自己」)、
 ・反承認(「自分」)
 など承認のかたちの三層を踏まえ、
 この「承認」への欲望をいかに自分の生に捉えなおすことができるかを指し示す
 他人の毀誉褒貶に翻弄されない自己承認の道を語っている! 

 古典的承認・現在的承認・反承認。なるほど美味いタームである。
これを「我が人生三枚舌悦楽教の三層スキーマ」=「世間・社会・魂」にあてはめると古典的承認
 とは世間あるいは社会における承認であろう。
 そして反承認とは?

  この「自分」にとっては、もはや他人による承認など一切無用である。
 他人を承認もしないし他人から承認してもらう必要もない。「自分」は自分が承認するからという
 自己満足と、自分が世界だという全能感、これが1990年代を特徴づける反承認である
(とはいえ、1990年代の主流は依然として現在的承認である。
そのなかの先端部分が反承認として突出する)。
 反承認は突然変異ではない。
かつての「新人類」がそうであったように、あきらかに現在的承認の正嫡子である。

 反承認とは魂のことだ。
 世間がどうであろうと社会がどうなってもいい、
俺はベートーヴェン弦楽四重奏NO.16を聴いて随喜の涙を流す。
魂にとって世間も社会も究極的には無関心事なのである。
 そうなのだ。魂にとって世間も社会も故に当然に承認も不要。
 私が私であればそれでいい。
かくして魂は自律する。すなわち存在は関係を止揚して自律するのである。
 起て万国の存在者よ

ー感想ー
・社会的の承認をまずは求め、と同時に一般の承認ー世間の承認を求め、
 世間も社会も、そんなものどうでもよいという 自分の魂の世界を求める
 ―わたしがわたしを認める世界を求める。
 これが 「わたしを認めよ!」 の三層である。
 これが人生の意味なのかもしれない。
 こうして毎日随想日記を書いているのも、
 潜在的に自己承認を求めているのだろう。
  
 ただ自己承認を強要してくるやつがいるから始末が悪い。
 自信がないからだ!
          
                            ー つづく


689, 人生の「かたち」

2003年02月22日(土)


ーいやなことはやらない!

51歳になった年に、母を見送り(88歳で死亡)、下の子供が大学に入学。
事業では新潟駅前で500室の客室数の完成で、人生の丁度目安がついた年ー
人生の分岐点の年であった。
その時に、「好きな事をやり、厭なことは可能な限りやらない」という方針をたてた。

ところが同じような記事が産経新聞に出ていた。
哲学者の中島義道氏の文章で
ー私流人生の「かたち」ーの{「厭なこと」はなるべくしない}であった。
きしくも、私と同じ歳で、やはり6年前に決心したというから不思議なものだ。

ー私よりずっと徹した内容で、人生を半分降りようと決意したという。
・社会的成熟を拒否し、世間体を投げ捨て、どんなに嫌われようと、排除されようと、
 いやなことはなるべくしない
・親戚とか友人の冠婚葬祭は一切省く、大学の校務はギリギリ最低限のことしかしない。
 −5年前と2年前に亡くなった両親の法事にも一切参加しなかった。
・自分の実感から離れる社会的慣用句(「世間語」)を語る事を完全にやめる。
 −感謝してない時は「ありがとう」といわない、心のそこからそう思わない時は
 「おめでとう」と言わない。
・あまった膨大の時間、18歳の少年のように「生きるとはどういうことなのかな〜。
 まもなく死んでいくとはどういうことなのかな〜」とか考えている。
・楽しいかといえば、全然楽しくはない。むしろすざましく不幸である。
 しかし、自分の人生のカタチと諦めている。

先日亡くなった同級の知人が、その正反対でドップリとその世界で必死に
自分を演じていたのが対照的であった。
でも彼の立場は、それが不可能の立場であった。

6年前に考えたのは、「本当に好きな事は何か?」「いやなことは何か?」であった。
・好きな事は秘境旅行、ウォーキング、事業、読書、居酒屋通い、映画、
 随想を書くことであった。それと世界を広く深く知ることだ。
・今までの付合いの見直しである。
 「世間体に生きている度合いの高い人」は可能な限り寄せ付けない。
 勿論、それすら解らない人もだ。
・プレッシャーのかかるセミナーや会合には可能な限り出ない。
それを割り切って一づつ確実に実行する。

そんなことをいったって、不可能だろうし、高慢でないか!と聞こえるかもしれない。
そのとおりかも知れないし、バカなたわごとと解っている。
でも、中島義道氏のようには徹する事は難しいが、少なからず実行している事は
事実である。

このホームページを開いてから、誰かとどこかで繋がっている実感が強くなった為に、
更にこの傾向が強くなってしまった。
中島氏のように多くの読者を持っていれば、その姿そのものを共感する見えない
仲間の存在があるから可能になるのだろう。
自分の人生のカタチは自分で創っていくものだ!


688, ストレス

2003年02月21日(金)

先日亡くなった同級生の偲ぶ会で、彼の死因について話しが出た。
直接原因は癌であったが遠因がストレスだろうと意見が一致した。
その場の全員が人生で一番厳しい一里塚にさしかかっているから解るのだ。
その場でAが「堀井お前ストレスなど無いだろう!」
わたし「ゼロ!」。
Bが「堀井、お前は与える方だ!」
爆笑であった!!

ところで彼らは、「ストレスの解消法をあまり解ってない?」と思えた。
ストレスの潰し方は、他のストレスで潰すのが一番本能的な簡単な方法だ。
しかし、それは更なるストレスの蓄積をしているに過ぎない。
わたしの経験からいうと、「独りになりきるしかない!」
それが全く解ってない、号泣せざるを得ない立場になって初めて気がつく!
それでも気がつかないだろう。

ストレスだけは、気をつけないと。
いつの間にか溜め込んでいるのに気がつかない人が多い。
群れるしか能がないから、ストレスの雪だるまになる。
「人間は孤独の存在!」である、また「群れていなくては生きられない存在!」でもある。
この二律背反を使い分ける事が必要である。

私の場合はお経とか、ウオーキング、旅行、読書、映画で発散する。
それとイヤな事は繰りかえして考えないようにしている。
この随想日記もストレスにもなるし、反面ストレス解消にもなる。

ここで一句
バカいうな やることだけは やっている


687,サラ川(サラリーマン川柳)

2003年02月20日(木)


毎年この時期になると、第一生命のサラ川(サラリーマン川柳)が発表になる。
Webで調べコピーしてみた。
 
ー朝日新聞Websieー
 第一生命は17日、恒例となっている「サラリーマン川柳コンクール」の入選
 100編を発表した。
 サッカーW杯やノーベル賞、タマちゃんなど流行や話題性の高いテーマを選んだ作品が
 多かった一方、中高年サラリーマンやその家庭の悲哀がにじんだ作品も目立った。

 「髪型は息子ベッカム、父ジダン」
 「年収はゴジラ松井の一打席」のお父さん。
 「オヤジギャグうちの主任は冷やし系」
 「言ったあと、これセクハラか?聞く上司」とからかわれ、
 家庭では
 「午前様妻のイビキにホッとする」。

 「タバコより体に悪い妻のグチ」と嘆き、
 「顔だけがブランド品でない女房」と文句も出るようだ。
 娘にも
 「大そうじ今年も娘がかたづかぬ」とあたるが、
 結局は
 「不景気で家族の団欒(だんらん)取り戻す」。

 そんなサラリーマンに、
「人生は川の流れとタマがいう」というのも実感がこもっている。
 
  ・・・・・・・・・・・・・

歴代第一位の作品 ■

第15回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位   ー デジカメの エサはなんだと 孫に聞く ー浦島太郎

第14回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ードットコム どこが混むのと 聞く上司ー ネット不安

第13回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ープロポーズ あの日に帰って ことわりたい ー恐妻男

第12回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ーコストダウン さけぶあんたが コスト高 四万十川 ー信彦

第11回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位 ー わが家では 子供ポケモン パパノケモン ー万年若様

第10回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ー「早くやれ」 そう言うことは 早く言えー 新舞い

第9回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ー『ゴハンよ』と 呼ばれて行けば タマだった ー窓際亭主

第8回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ーやせてやる!! これ食べてから やせてやる!! ー栗饅頭之命
(くりまんじゅうのみこと)

第7回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ー連れ込むな! わたしは急に 泊まれない ー紫式部

第6回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ーいい家内 10年経ったら おっ家内ー 自宅拒否症

第5回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位 ー まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる ー遠くの我家

第4回 サラリーマン川柳コンクール
 第一位  ーボディコンを 無理して着たら ボンレスハム ーとなりのトトロ


・・・・・・・・・・・・・・・
02 7.27
 サラ川   役員会、肩書きなければ、老人会
02 9.17
 慎一作   別れぎわ、おもしろかったよ、ありがとう
02 8.6
 サラ川   妻怒る、どれがバレたか、様子見る
 サラ川   財産はネコにゆずると言いだした   
 サラ川   一時停止おまわりいないこと確認
 サラ川   ムカつくと言ったら吐けばと返された
 サラ川   充分に腐らせてから捨てる母
サラ川   物忘れ怖くてへそくり隠せない
 サラ川   ゴハンよと呼ばれて行けばタマだった   
 サラ川   ダイエット グラムで痩せてキロで肥え  
  万川  愛想の良い店員は経営者  
  万川  イタリアへ行きたいけれど歯が抜けた


686, まれに見るバカ−読書日記  −5

2003年02月19日(水)

ー バカの定義ー

バカの定義をこの本の中から抜粋してみた。
・小谷野敦「バカのための読書術」の中で
 「当面、哲学とか数学とか、抽象的なことが苦手、というような
 人のことである」
・勝谷誠彦「バカとの闘い」で、
 「バカとは人間に与えられた志を追うという能力を捨てて、
 馬や鹿のように、本能のまま目先の欲望のためだけに生きている輩をいう」
 と書いている。で、何故かくもバカが多くなったかというと「戦後のアメリカ
 軍の洗脳教育で、バカをバカと指摘する美しき日本の風習が否定されたからだ」
 といっている。
・立花隆「東大生はバカになったか」で
 基本的知的能力を欠くというのでなく
 「教育の目的とは現制度の賛美者をつくることでなく、制度を批判し改善する
 能力を養う事である」と書いている。
 そこでまたー人間、教養がないとどうなるかというと、幅が狭い近視眼的人間
 になる。教養とは、幅広く全体を見る巨視的能力を身につけることをいう。
・吉野敬介「やっぱしおまえはバカじゃない」
 本当のバカというのは、すべてを要領よくこなし、何ひとつ本物に行き着けない
 奴の事をいっている。
 要領のよさや、要領だけで世渡りのうまさを吹聴するヤツはバカの第一条。
 自分だけの小さな規準で満足しているヤツ。これが第二条。

以上がバカ規準として書いてあった内容だ。
わたしがバカと信じてきたのは吉野敬介にほぼ近い!
「誰もがバカであるから、あまりいわれても気にしない事だ」と気休めを
考えているのが一番バカということだ。
「つくづく自分てのは、バカだな~」が結論!
                  ー 終わり


685, 値段のカラクリ

2003年02月18日(火)

ダイヤモンド価格の話である。
世界で一般にダイヤと金は物質的な価値基準になる。
動乱で最後もって逃げる物質として、コンパクトで便利な塊である。
どこの世界でも通用する。

買った宝石を高価と思っていたが質屋に持っていったら、ぜんぜん値段が
つかないことはよくあることだ。
じつは、宝石の原価には、面白い原則があるという。
全体の値段が高いものほど、原価の占める割合が大きいのだ。

たとえば、100万クラスの指輪だと、原価が20〜30万。
ところが、20万だと、原価は1〜2万いやそれより以下だ。
宝石は買ったと同時に10分の以下になると考えてよい。

数ヶ月に一回位、5〜8割引の宝石などのチラシが入ることがあるが、
あれはゴミ?である。それで満足するのもそれでよいが。
規格外の小さいゴミを飾り立てているのだから、面白い。
20万クラスの宝石が売れた場合、原価が10%だが、
・メーカーが15
・卸商が25
・最終の販売店が50
三越や伊勢丹や阪急などの百貨店は、地下の食品で釣って、1〜2Fの
宝石・装飾品売り場で、無知の客を吊り上げ詐欺師商法に近い事をしている。

詐欺?を自覚しているから、詐欺るためにあらゆる仕掛けをつくってある。
50佑里い筍牽悪佑陵益を得る為にあらゆる手段を使うのだ。
これしつこくいうが、三越や高島屋が実際やっているのだ!
老人を集めて、飯を食べさせて、詐欺同然の商法を今も実際やっているのだ。

十数年前に、ハワイの飛行場の免税店のテナント料が、売り上げの70数
が報道された事があった。
売れ残りのブランド物を10〜20倍の価格をつけて売っているのがばれてしまった。
JTBとか日本旅行が安いツアーで、詐欺同然の店に連れて行って騙して、
原価10%の商品を売りつけていた。

無知という事は、本当にかわいそうなことだ!
今の日本のデフレも、こういう仕掛けが壊れているだけでしかない。
これはデフレというのだろうか?


684, まれに見るバカ ー読書日記ー4

2003年02月17日(月)

 男・獲物ー獲得法
第2章「バカ本を読む」の中の酒井冬夏「バカ・ゲット」がおもしろい。 
1995年に流行った「バカゲット」とは、「バカ」な男を「ゲット」する、
自分に「安らぎ」と「安全」を与えてくれるバカ男ー獲物を獲得する意味である。
この獲得のマニュアル本である。

目次は「コンセプ」「マーケッングリサーチ」「アポイントメント」
「営業」「交渉」「プレゼンテーション」「接客」「契約」などあって、
男と女の関係もビジネスと思わせる仕掛けがある。
・男は「クライアント」であり、
・自分は「会社」であり、
・結婚は「プロジェクト」であるというわけである。

ところが一転、
・社内で「獲物」を探すのが「近海漁業」であり
・「合コン」は「遠海漁業」
・なんでも手を出すのが「そこ引き網」
・ずっと付き合って結婚するのが「一本釣り」
・同性からの紹介は「おとり漁法」
・シャイなふりをするのは「定置網漁法」
・光りモノでおびきよせるのが「ルアー釣り」

女としては「らくして生きる」ために、こういう「バカ」を「ゲット」するための手練手管、
言葉遣いが、懇切丁寧に手ほどきされている。
つまり「バカ」男を「ゲット」する「バカ」女の本である。

ー感想ー
こう書いてあると、結婚とは何か基本的に考えてしまう!
わたしも「バカおんな」にゲットされた「バカおとこ」だ。
晴れて、バカの夫婦が成立して、子バカが生まれるのだ。
まあここまで考えたら結婚はできない。
男などこの本をしっかり読んでおかないと、とんでもないバカ女に一生を棒に振る
ことになる。

さらにこの本には「正しいバカの選び方」という部分である。
・・・
間の悪い男のコ。いますよねぇ。
男の子ってデリケートな生き物なのです。
要領が悪くって、タイミングが悪くって、不器用で、いつもチャンスを逃してしまう。
・・・・こういう男の子に愛の手をさしのべるのがワタシ達の役目。
こういう男のコがターゲットであります。
ワタシタチが求めるのは「安らぎ」と「安全」です。
だから、
・結婚生活に向いている男のコ
・よりラクできる相手
・よりコントロールしやすい相手
を選んだほうが、勝手に生きられるというモノです。


感想ー30代半ばまで女の職場のこういう中で、ふわふわ浮いて泳いできた!
その辺が一番面白く辛いところだったが。
個人は誠実に、集団としては猿として割り切っていればよかったが。
以上のような漁りは、誰にも必要であり、その漁場でいかに仕掛けを
つくり、その中から選定しなくてはならない。
その魚が一生の伴侶として当たりかはずれは五分五分ときているから面白い。
早ければ新婚旅行で判別できる。24時密着するのだから。
TVでも当たり外れは五年経たないとわからない、人間は一生でも気がつかない人も
いるが。
バカ本を読んで、ニヤニヤしながらパソコンに打ち込んでいるのが
一番バカだ!


683,まれに見るバカ−読書日記-3

2003年02月16日(日)

バカの罪状以下のごとし。
1、バカはやかましい
 ついでにいっておくと、バカはじっとしていない。
 つねにうろうろしている。
2、バカは群れて力を持つ
 バカはバカを呼ぶ、バカの盛り上がりは、まさに僻みもあるのか、
 どうだ、バカはこんなに楽しいのゾッ、というほど凄い。
 「とにかくバカは群れたがる」。ゴルフにマージャンに居酒屋に。
3、バカは恥をしらない
 まずは言い訳から入る。言い繕う事の恥を軽くみている。
4、バカは自分の頭で考えない
 何でもかんでも「如何したらよいか」と他人に聞くものがいる。
 自分の頭で考えないものは、何ごともしたがらないやつである。
5、バカには話が通じない
 バカは自分が正しいと思っているから、何をいっても話にならない。
 聞く耳を持たないのである。そのバカに「正しい」という観念だけが
 宿っているのが不思議である。自分バカである。
6、自分がバカだと夢にだに思わない。
7、バカは自分から一ミリも外にでれない。
 自分は世間に100mも出ているくせに、自分自身からは一ミリも出れない。
8、バカはいやらしい。
 この手には学歴バカが多い。手の込んでいるバカである。
 建前と本音を使い分けているが、その隔離に自分が気がついていない。
9、バカは横にならう。
 つねに横一線。自分ひとりで何もできなくて、
 おなじバカを味方につけようとする。ほかのバカに見限られると、
 そいつらをバカよばわりをする。

半分近くは誰もがその要素は持っているが、全てという奴がいる?
嘘みたいだが本当だ!・・ひょっとすると自分の可能性もある!?
わたしの周辺のバカを上げてみよう。

・チンドンヤバカー 年中自己宣伝の選挙運動をしているバカ
・地方名士バカー  痴呆迷氏
・太鼓もちバカー  痴呆迷氏に取りつこうするゴマすりバカ
・芸者バカー    上記の女版
・酔っ払いバカー  酔うと全く人格が変わってしまうバカー誰だ?
・本読まぬバカー  現象と事実と真実の差が理解できないバカ
・資格バカ
・早打ちマックバカー すぐ??しまうバカ、?せるバカ
                      ー 続く


682, まれに見るバカ −読書日記 −2

2003年02月15日(土)

ー印象的なところを抜粋するとー

人はバカに生まれるのでない。バカになるのである。
親子という縦の系列によってバカになり、友人・社会という
横のつながりによってもバカになる。・・・
 
なぜ容易くバカになるのか。理由ははっきりしている。
人間は楽な事を選ぶ生き物だからだ。できることなら責任なんか
負いたくない。他人の心配などまっぴらである。
難しいことより易しいこと、苦しいことより楽しいこと。
不自由より自由。貧乏より裕福。まどろこしい事よりすぐ成果が見えること、
に流される。努力するのも金輪際イヤである。
 これらの諸条件を満たすのは必然的にバカになる。自分中心主義で、
物知らずに、自分の頭で考えることができない。考える努力もしない。
だから人に頼りたくなり、人の責任にしたくなる。
このようにして人はいとも簡単にバカを志向する。
だから親がバカだと子供はつらい。「バカ」を刷り込まれるからだ。

バカになるのに訓練や努力はまったく必要でない。
欲望と感情だけがあればよい。そしてどんな人間でも欲望と感情だけは
もっているのである。・・・
もしバカになったら、それはどこまでも自分の責任である。
責任がなくとも、自分で負わなくてはならない。
  ・・・・
バカがひとりで死ぬまで山の中で生きているのならどんな罪もない。
しかしそのときは「バカ」であることじたいが無意味であろう。
ひとりだけならバカも賢いもないのである。
バカの罪状以下のごとし。
ーつづく
感想ー2

・人間、他人のバカは見えても自分のバカが見えないものである。
 他人のバカは、実を言うと自分バカを見ているのでしかない。
 「他者認識不可知論」ー他人の事を理解する事は不可能だ、理解したと同時に
 それは自分自身のことであるから、それは他人の事でなくなるー
 ということから考えると、わが内なるバカを自己確認しているだけでしかないのでは。
 とくにバカはわが姿そのものとして、可笑しく悲しい影といってよい。
 だから書くほうも読むほうもお互いにイヤに共感をしてしまうのだ。


681,「まれに見るバカ」 ー 読書日記 ー1

2003年02月14日(金)




「ぶざまな人生」が面白かったので、同じ著者のこの本をインターネット
で取り寄せた。とにかくすっきるする!「わが内なる馬鹿」というところか!
わたしも辛辣だが、ここまでひどくはない!
読んでいてわたしなど可愛いものだと思ってしまう本である。
こんな本を書いてみたいものだが、無理だ。
これもまた下手な書評などより「まえがき」と「あとがき」を抜粋した。

ー表紙裏ー
人の世に一定程度のバカがいるのは常識である。
「浜の真砂はつきぬとも、世にバカの種はつきまじ」と。しかし、そうは知りつつも、
平成の世にわが日本につぎつぎとバカが異常発生している驚くべき事態をいったいどう
考えればいいのか。性別も年齢も、収入も地位も関係がない。
さらには有名人・無名人も問わない。
なぜ、こうした事態がこの国に出現したのか?「バカ」の生態と由来とその現状を
あますところなく伝え、読む人に不思議なことに、生きる勇気が湧いてくる「当世バカ」
生態図巻。

【目次】
第1章 バカはなぜ罪なのか/第2章 バカ本を読む/第3章 現代バカ著名人列伝
/第4章 現代無名バカ列伝/第5章 わたしの嫌いな10のバカ言葉/第6章 
「あとがき日付」一言バカの諸君/終章 バカを寿ぐ


まえがきー「バカが幸福になると手がつけられない」

わたしはバカがきらいである。
なぜなら、バカはバカであるからである。
と、厚顔にも公言するくらいなのだから、当然わたしはバカでない。
と、自分で否定する奴に限ってバカだという説があるが、でもバカでない事を
主張する。二回否定するする奴もまたバカだという説を聞いたことがないから、
これでわたしは非バカは証明された、と納得していただきたい。
50年も生きていると、さまざまなバカに遭遇するものである。
だが、幸いなことに、バカのかたまりという全身バカには意外と出会わなかった。
そこそこのバカ、「折々のバカ」、時々発症する季節バカには随分とであったが。
わたしもかってはその一員っであることはあったが(30歳まで)。
しかし広く世の中を見渡してみると、感動的なことに、正真正銘のバカは
やはりいるものだ。長ずるにつれて、全身バカも少なからず存在するものだ、
ということがわかった。
本書は、そのようなまれに見るバカ(だけでない)の生態に関する物語である。
  ・・・・・
本書での「バカ」は、学歴なんかとはまったく関係がない。
性別も年齢も、収入も地位も関係がない。
うれしいことに、一流大学を出ていて一流企業に勤めていて法外な収入があって
地位がありながら、掛け値なしの「バカ」という者もいる。
悲しい事に、学歴も地位も収入ないけれど、やはりどこから見ても
やはりバカ「としか言えないような人」も当然いるのだが。
本書は「バカ」の定義にはこだわらない。一方的にわたしが、こいつが「バカ」
だと思った人間が「バカ」なのである。
  ・・・・
バカになにをいっても無駄である。なぜなら、他人の言葉など右の耳から
左の耳に素通りしてこそバカだからである。
内省するバカなど語義矛盾もはなはだしい。・・
現在の日本は、「幸福になったバカ」の天国である。
  ・・・

 感想文−1
ーーこの文章だけでも何かすっきりする。
わたしの書きたい事をすべて書いてくれているようでいて、
わたしのすべてを書かれているようだ。
以前も書いたが、「男はつらいよ」の中で、頭の軽い男に「このバカ!」と言った人
にその男が「バカにバカという奴が一番バカだとお母ちゃんが言っていたぞ」
とやり返す場面があったが。
一番バカが書いていると思って読んでいると、奥行きが広い本に思える!?

                          ーつづく
新書
著者: 勢古浩爾
出版社:洋泉社
ISBN:4896916018
サイズ:新書 / 248p
発行年月: 2002年 01月
本体価格: 720円
WEB紀伊国屋
 ☆☆☆


680, 自殺志願

2003年02月13日(木)


昨日の朝のニュースで自殺志願を報じていた。
インターネットで知り合った若い男女3人が自殺をしているのが
発見されたという。インターネットの検索で自殺志願のキーワードを入れてみたら、
あるホームページに、すばらしい文章が載っていた。
以下をコピーしておく。
 ・・・
 私は死に場所を探していた。
脱サラして始めたラーメン屋も、思うように上手くいかずに借金だけが残り、
40を過ぎてやっと手に入れたマイホームも、結局、手放す羽目になってしまった。
働き口も、そう簡単には見つからない。妻も私に愛想尽かして家を出て行き、
弁護士まで立てて離婚を迫ってくる。子供達も皆、妻の味方だ。
今の私にあるのは借金だけで、他にはもう何もなかった。
夢も希望も、明日を生きる気力さえ残っていなかった。

「ここにしよう。」
私は、自殺の名所で知られる、断崖に立っていた。
ここから飛び降りれば、簡単に死ぬことが出来る。一歩、足を踏み出せば、
もう苦しむ必要はない。日が沈むのを待って実行する事にしよう。
沈む夕日は、私の心を穏やかにした。そして、この夕日が消えた時、
私も人生を終えるのだ。最高の演出じゃないか。

「おい!」
私はビクッとして振り返ると、一人の老人が立っていた。
顔を見て、更に驚いた。
「親父!」
夕日のせいで、ハッキリとは見えないが、間違いなく親父だった。10年も前に死んだ
はずの親父が、何故こんなところにいるのだ?
「そう見えるか。」
親父はそう言いながら、私に鞄を差し出した。
「5000万円入っている。使え。」
私は訳が分からなかった。夢でも見ているのだろうか?
「これは貸すんだぞ。20年後に、ここに返しに来いよ。まったく、
金のせいで命を捨てるなんて、バカらしいと思わんか。」
夕日が沈み、辺りが暗くなると、親父の姿はもう消えていた。
だが、札束のギッシリと詰まった鞄だけは確かに残っていた。

それから私は、その金で借金を返済し、一生懸命に働いた。親父との約束を果たす為に。
妻とも一度は離婚したものの、数年後に復縁した。子供達も結婚して、幸せな生活を
送っている。
そして、瞬く間に20年の月日は流れた。私も70を過ぎ、物忘れが多くなったものの、
親父との約束の日が今日だという事は、ハッキリと覚えていた。
私は必死で働いて貯めた金を鞄に詰め込むと、あの時の断崖へと向かった。
約束を果たす時が来たのだ。

丁度、あの時と同じような夕日。
本当ならもう死んでいたはずの自分が、こうやって、またここにやって来た。
何やら不思議な気分だ。そして、親父はまた現れるのだろうか。夕日が海に沈み始め、
辺り一面がオレンジ色に染まる。
その中で、座り込んで沈む夕日を見つめている男の姿が見えた。
すぐに分かった。親父ではなく、20年前の私がそこに座っていた。

ー感想を書いてみるとー

父親が現れて与えた5千万円は希望・意志ではなかろうか。
「20年後に約束どおりそこに行くと、そこにいたのは父親でなく
若い時の自分であった」という落ちがよい。
20年前のその人は父親ではなく、20年後の自分というのがじつによい。
死ぬほどの苦しみ絶望も、人生で経験しなくてはならない大事な事だ。
5千万に匹敵する事かもしれない。
丁度その時に彼にとっての意志が5千万の価値があったのだろう。

・悪魔の囁き・
ーこれを書いているのは宗教系の巧妙な餌ではないか?ともウガッタ見方も
できる。これを求めてクリックしていったところが、危ない商売の宗教の
「??学会」だったり、「??の科学」だったりする。
カルトはやるから、そのへんは!!
自殺よりは、それでもいいが!
それでも自殺志願者はオイシイ餌でもある。

簡単に自殺など考えない方が良い。
「このカルト教団どもが、アフリカのエイズのボランテアをするか?」
カルトにとって自殺志願者は餌であっても、救済の目的でない!
念のために!

・天使の囁き・
悪魔にだまされてはいけません!
これは経験を積んだ人間しかいえない究極の救いの物語です。
この人にとっての究極の中から取った人生の真髄なのです。
もし貴方が「??学会」とかを自分の価値で切り捨てているなら
それは間違いです。
それで救われるなら、その人にとってのベストなのです。
それを乗り越えてこそ人生である。
のりこえる時の出会いがそれならそれで良いじゃありませんか!


679, イヤなやつー2

2003年02月12日(水)


ー良い人と偽善ー
先日書いた河盛好蔵の文章をから
「イヤなやつ」の要素は以下のとおりだ。
・他人の幸福より不幸を喜ぶ感情の悪さがある。
・自分ではできるだけ怠けて、人をはたらかせ、その功を自分だけで独り占め
 をしたいというズルさと、欲の深さがある。
・権力者にはなるべく逆らわないで、
 進んでその権力に媚びようとする卑しさがある。
・自分に寛大で、他人には厳しくって、エゴイストの部分が非常に多い。
・ケチで、感情高くって、他人の不幸にそ知らぬ顔をする。

 逆にこの文より「良い人とは如何いう人か」を考えると
・他人の不幸を悲しみ、幸福を共に喜び
・自分に厳しく、他の人より多く働き、その功を他の人に与え
・感情は常に冷静である

十数年前に経営セミナーで聞いた、香港の財閥と結婚後
死別してオーナーになった日本人の女経営者の心訓を思い出した。
「人には優しく自分に厳しく、いつもニコニコと、人に良かれと思って
生活する事」であったが、相通じるところがある。
ほうっておけば「イヤなやつ」になるのを、この言葉を繰り返す事で
自分を自省する言葉である。
それを意識して生活をすれば、初めは偽善?だとしても、近づいた時に真善の人間に
近づけるのではないか。
その意味で「偽善を次善としてなせ」という意味も一理がある。

目先に都合のよい人が「良い人」も確かに間違いがない。
所詮よい人悪い人というのは、このレベルのでしかないが。
といって「良い人」の方がお互いに良い。


678, 聞く耳持たぬ人

2003年02月11日(火)

以前は「話しまくる人」というテーマで書いたが、似ているが違う。
喋り捲るところが違うが、それでも相手の反応をみてフィードバック
しながら話す。
聞く耳持たぬ人は、相手の言おうとしている事に元々関心もない。
何を言っても耳の中に石が入っているとしか思えないほど、人の話が
聞けないのだ。

逆に相手の言わんとすることがストーンと入る人がいる。
耳から脳にストレート入ってしまう人だ。
ストーンと入る人が20諭∩瓦入らない人が20佑搬臑梁臺未任る。

全く入らない人をみわけるのは意外と難しい。
一見聞いている風なのだが。
相手の意見をただ薄ら笑いして聞いているふりをしているからだ。
会話にも対話にもならない。その人の声位にしか思ってない。

「相手は何を言おうとしているのか、それに対して自分の考えは如何か。
それを吸収して・・・」など全く考えられない。
周辺に驚くほど多くいる。
以前はそうでなかったが、年とともに聞く耳を持たなくなった人がいる。
この文章を読んでいて自分ではないかと思ったら、そう貴方のことだ!
まあそれはいいとして、自分もその傾向が強いと思ったら
聞き手側になる事を意識して日常の生活の中で訓練する事だ。

もっともそれすら聞けないだろう。
心を閉ざしているのとも少し違うのだ。
性格だろうか。
本を読まないのだ!
読まないから、何故読まなければならないのかが解らない。
読んでいても、その言わんとする中心からずれたところしか理解できない。

まあこの位にしておこう、20佑凌佑盡ているのだから!
いや絶対に見ていない!!聞く耳を持ってないのだから。


677, イヤなやつ

2003年02月10日(月)

「ぶざまな人生」があるなら「イヤなやつ」のテーマが
面白いだろうと調べたら有った有ったーサブテーマだが。
河盛好蔵が昭和33年に週間朝日にかいた「人とつき合う法」の第一章に
かいてあった「イヤなやつ」という文章があった。
一部を書き写してみる。

ーー「私自身のことを考えてみると、私まず人に快感を与える容貌の持ち主で
ない。性質についていえば、他人の幸福より不幸を喜ぶ感情の悪さがある。
自分ではできるだけ怠けて、人をはたらかせ、その功を自分だけで独り占め
をしたいというズルさと、欲の深さがある。権力者にはなるべく逆らわないで、
進んでその権力に媚びようとする卑しさがある。・・・・・
自分に寛大で、他人には厳しくって、エゴイストの部分が非常に多い。
ケチで、感情高くって、他人の不幸にそ知らぬ顔をし、・・・・
考えてみると「イヤなやつ」要素・条件をことごとく持っている。
そしてそんな事を、あけすけに書いたほうが、かえって得になると
ひそかに計算しているのであるから、われながら謙悪にたえない」−−
  
以上であるが、読んだ人はドキッとするはずだ、自分の事だからだ!
私など更に弱い相手には威張り、こすっからいし、馬鹿なくせに
より馬鹿が大嫌いで、酒癖が悪いし、書いていてイヤになる。
しかし「人間はイヤな奴の程度が高いか低いかの差」の存在でしかないのも
知っている。
仏教でいう四苦八苦の中にも「怨憎会苦(おんぞうえく)」
:怨み憎む人と出会わなければならない苦ーがある。

人間誰でも持っている要素で、かつ何処かでいつも気にしている言葉
でもある。男は一歩外に出れば7人の敵がいるというがー8人の味方もいるが、
敵から見たら「イヤなやつ」になる。
私などいつも言われてきたし、特にイヤなやつである。
ところでそれが如何したという開き直りがある。
私など言葉という凶器?があるから、いらない敵までつくってしまう。

ところで「いい人」とはどういう人か考えた事があった。
ある純朴な?居酒屋のママさんが人の好き嫌いがハッキリしていた。
あの人はいい人だ、いやな人だと明け透けにいっていた。
よく聞いているとー自分では気がついてないが、自分にとって今その時
都合のよい人が「よい人」、不快の人や都合の悪い人が「イヤなやつ」
であった。
単純明快のところが大変面白いが、度が過ぎると問題だ。
彼女いつもストレスの塊になっていた。

人間という奴は本当に面白い!
「イヤなやつ」をやったり、「よい人」をやったりしながら
色いろ人生を過ごしていく。
夫婦なんてこの両方の織りなす柄を創っていく!!
嫁姑の関係も、その際にある。


676, ぶざまな人生ー4(読書日記)

2003年02月09日(日)


偽善論

この偽善論が面白い。
いやらしい偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。
善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴だ。
「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも最大の同情者のように振る舞い、
実利を得ようという輩」だ。
これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。身辺に幾らでもいる?!

不可避的な偽善には、少なくとも善がある。
真実の善など本当にあるのか。どこでどうやって見分ける事が出来るのか。
偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、次善となせ。
一生偽善をなせば、それが真善である。
偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」がこの世の中にある。
私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。

ー以上が著者の言わんとするところだ。
「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事を
いう。所詮、善悪とは個人、社会、宗教が創りあげた価値観でしかない。
その基準が、どれほどの価値があるものか?
偽善いや善悪という言葉そのものが怪しいのだ。

「人を殺すのは悪でないというのか?」
もちろん悪いが、戦争で相手国の非戦闘員を殺してしまったとして、
それもどこまで悪と言えるだろか?全てが状況だ。
その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。

孟子の性善説と荀子の性悪説があるが、これも何を基準に善悪といっている
のだろうか。あくまで両面を言っているだけだ。
それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、世間体のいう善と思える奴を、
仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。
偽悪の方がまだましと思っていたが、偽善も必要か?

偽悪の背後にあるのは善ではない?
偽善の背後は悪じゃない?
次善論じゃないか?

よっしゃ、早速褒める訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックの
ママから褒めてみようか?下心がないのだから偽善と違うか?
褒めるのは偽善でなく、義務か!


675, ぶざまな人生ー3

2003年02月08日(土)



ーおれ様の人生と馬の骨の人生ー
この本にはなるほどと合点する面白い内容がいくつもあった。

人間の存在とは
1、この世でたった一人しか存在しない人間ー「自分」・・「自分様・オレ様」
2、他人から見ると、その他大勢のなかの一人 ー「自己」・・「馬の骨」
この二つを同時にもつ存在である。
この二つの認識を持つことが重要である。

個人主義とは、もともと集団的価値よりも個人的価値を上位に置く
対集団的な考え方だが、それが個人に向けられた時には、たった一人のオレ様である。
お互いに馬の骨同士「個人」であるがゆえに、お互いの唯一性を尊重することになる。
それが個人主義であり、その領分を守るのが自分ー自らの領分である。
利己主義は、自分だけがこの世でたった一人しか存在しない人間としか認めない。
他人と自分の領分も理解できない輩である。
以上が「オレ様と馬の骨論」である。

人と話していて驚くことがある、ある二代目が皮肉交じりに
「お前は金儲けだけは上手いからな!」と私に言ったことがある。
この言葉の論外に「オレ様の仕事は金儲けでなく、お前ー馬の骨のやっていることは
金儲けでしかない」という自惚れの気持ちがありありであった。
「人間とは自分に都合のよいように自分を買い被っている存在に自分で
気がついてない」と、呆れたのを憶えている。
この手前勝手さは誰もが、勿論自分も形を変えて基本にある。
それがこの馬の骨論で、ずばりと書いてあった。
「みんなが大将!」というところか。

私が怒ると知らずと「あの馬鹿が!」とか、「あの馬鹿どもが!」という言葉が
頭をよぎるが、おれ様という意識がそう言わしめるのだろう。

私が以前「世間様」論を書いたことがあったが、世間様とは自分の領分をわきまえない
集団主義者のことである。いや集団主義というより仲間主義の連中である。


674, ぶざまな人生−2 (読書日記)

2003年02月07日(金)

立ち読みをもとに、前回「ぶざまな人生」というタイトルで書いた。
先日、本屋で再び立ち読みをしたら、「前書き」と「あとがき」が余りにも
面白い内容につられ、思わず買ってしまった。
下手な要約を書くよりずっと文章に味があるので、そのまま写し書きする。

ーー表紙ーー
ーぶざまこそ人生の醍醐味と見つけたり!

人生50年も生きていれば、時に不偶感に苛まれ自信を失い、世間に屈してしまうことがある。
金がない、愛されない、学歴がなく社会的地位もない、有名でもない、おまけに流行にも
ついていけない。だが、これらはけっして「ぶざま」を意味しない。
人生とは他人に見せるものではなく実際に生きるものだからだ。
「人間の人生」(=運命)に翻弄されながら、それでも「自分の人生」(=意志)を垂直に
立て生きようとすること、それだけが決定的なことなのだ。
「ぶざま」を自覚しなければ、生きている資格がない。

まえがきー「中小零細企業」の人生論

人生、である。
しかも、ぶざま、である。
ははあ、「ぶざま」といって一端下げておき、しかし一転して、「ぶざま」こそ
人生そのものでナイかと持ち上げ、さあ元気に生きていこうぜ、と口先だけの
空元気で鼓舞しようというんだろう、手口が見えているぞ、と思われるかもしれない
があたってない。「ぶざま」は「ぶざま」である。いまさら人生論か、50年古い、
と思われるかもしれないが、

・・・・とおりいっぺんの人生論など、興味がない。
成功した経営者や哲学者や有名な評論家とか宗教家とかいったつぶしの利く
人間が書くものと相場が決まっている。
しかし、彼らの人生論はおおむね「大企業的ー立派で高尚」の人生論である。
それに対して本書は、全然つぶしの利かない普通の中年男が書くそれである。
いわば「中小零細企業」的人生論である。
日本の会社の95佑中小零細なのに、だれもが5佑梁膣覿箸陵佑平誉犬
送りたがる。無理もないが。・・・・・・・・・・・・・・

人生という言葉に魅力がないかもしれないが、人生そのものは誰にもあるものだ。
いま「人間の人生」(簡単に言うと、運命)の真っ只中にいるのだ。
けれどその中でも、「自分の人生」(簡単に言うと、意志)だけで順風漫帆
に生きている人間は「人生」に直面しないだろう。
「人間の人生」と「自分の人生」のせめぎあいの中にある人間が「人生」の波
をもろにぶつかるのだ。中年こそ、「人生の辛酸」ということが身に
こたえる年代なのである。・・・・・・・・・

^^^^^^^^^^^^^^^
ーー以上が概要である。ーー

この文章が延々と続くのである。
それでは「あとがき」になるが、またこれが味のある、素晴らしい内容だ。
抜粋する。               
                        

あとがきー「だが大切なのは立ち上がることだ」

 ・・・・ベルザーは子供のスチィーブンに言う。「パパの過去から
お前が何かを学ぶとしたら、誰も憎むなということだ。もし憎んだら、
おまえはひどいことをしたその人間になってしまうということだ」

心配いらないよ。おまえは強い心を持っているからね。
人生では、失敗もするし、ころびもする、だが、大切なことは立ち上がることだ。
・・あきらめるなよ。
面倒なことになった途端に降参する人間は多い。そういう連中は学校をやめて、
知ったかぶりをして、そして何をやってもすぐにあきらめてしまうんだ。
・・・・パパは子供を育てようしているんだ。
本気で望むなら、実現できないことなんて、何一つないんだよ。
決めるのは自分だ。・・・最後までがんばりなさい。
自分に正直に生きていけば、何も心配要らないよ。
・・・
最後に
責任ある大人として、年をとり分別も備わった今では、誰の人生も完璧
でないし、普通でさえないということが解るようになった。
誰にも過去があるし、誰にでも問題がある。
人生は、自分で切り開いていくものだ。
自分が目指すのは、優しくて謙虚な人間、
思いやりがあって助言を与えてくれる父親、そして夫になること、
ただそれだけだ。毎日毎日、僕はとにかく全力を尽くしてがんばっている。

ーー以上があとがきである。ーー
ぶざまな人生を認めてしまって、生きたいように生きることだ!!

                       ー 続くー


673, 笑点

2003年02月06日(木)


毎日新聞で,毎週日曜日の夕方のTV演芸番組の「笑点」を特集していた。
ー要点を書くと
・1966年から37年近い長寿番組である。
・16佑了訥偉┐鬟灰鵐好織鵐箸望紊押せに20佑魃曚洪裕と崛箸澄
・過去に初代が立川談志、2代目が前田武彦、3代目が南伸介
 4代目が20年前から現在の三遊亭円楽である。
・この大喜利には9人の構成作家がいる。持ち寄った100問を
 2週分の収録として6問まで絞り込んむ。
 「旬の話題」と「同じ問題はやらない」がモットーだという。
 問題とその解答を同時に考えるという。
 軽妙に答えているが、全て作家の創ったものだ。
・映画の寅さんのマンネリズムを逆手に魅力にしているという。
・長寿の秘訣は「腹8分目の姿勢」である。

私が学生時代に始まった番組で当時から楽しみに見ていた。
立川談志が司会で、円楽や毒蝮三太夫や歌丸、小円遊がいたのを
はっきりと覚えている。
特に歌丸と小円遊の掛け合いが面白い間合いであった。
集団芸の古典落語というところか。

この番組と映画「男はつらいよ」はいつの時代でも見ていた。
やはりかなり練りこまれた質問と答えの背景には、それなりの
影武者がいたのだ。

http://www.ntv.co.jp/sho-ten/
http://home7.highway.ne.jp/chikao/shouten/link.html
当初の内容をホームページでコピーしてみた。

1966年 毎週日曜日16:30〜17:10の枠で放送開始。

「演芸」「談志とゲストの対談」「大喜利」の三部構成。
司会者と大喜利レギュラーの平均年齢は28歳、
真打ちは談志と円楽だけで、あとの4人は二ツ目だった。

大喜利レギュラー:
三遊亭円楽、桂歌丸、柳亭小痴楽(のち梅橋、故人)
三遊亭金遊(のち小円遊、故人)、林家こん平
座布団係:三升家勝松(現 桂文字助)

1967年 1月29日
座布団係変更
石井伊吉 (毒蝮三太夫) に交代。
1969年11月9日
出演者が大幅に変更される。

現在も親しまれているオープニングテーマ曲
『笑点のテーマ』が披露される。作曲は中村八大。
実は、二代目司会者・前田武彦の作った詞もあった。

大喜利レギュラー:
三遊亭歌奴(現 三遊亭円歌)、三遊亭金馬、
桂歌丸、三遊亭小円遊(故人)、三升家勝二(現 三升家小勝)、
柳家さん吉、柳家小きん(現 柳家つば女)、林家木久蔵
11月9日
座布団係変更
三遊亭笑遊 (現 三遊亭円遊) に交代。
1970年7月18日
司会が三波伸介に交替。

1970年 6月21日
座布団係変更
桂米助 と 小野千春 に交代。
7月18日
座布団係変更
松崎真 に交代。

ーー大体こんなものだったーー


672,嘆きの部屋

2003年02月05日(水)


・高校同級の土田氏が入院でわずか3週間で亡くなった。
 食道がんで肺に転移もう末期だったという。
 一瞬で地獄の底に突き落とされた恐怖は言語に絶するものだったろう。
 「病院には嘆きの部屋」があるとモッケイクラブを事務所の部屋で開い
 ていた時に、看護学校の末期医療専門の女の先生が来て話してくれた
 ことがあった。

・絶望のその気持ちや混乱を大声で喚くことで静める防音の部屋が
 どこの病院にもあるという。もう他人事ではない年齢だ。
 本人しか解らない死の恐怖!
 死を自覚してから死ぬまでの時間、それまで生きてきた全ての人生を圧縮
 した時間が流れるという。
 キュ−プラー・ロスという「死ぬ瞬間」という本を出している死の見取りを
 専門にしてきた人が、その本で究極の死を受け入れの心理過程を書いている。
 確かまずは拒否、怒り、取引ー自分との、受容。

・父が死ぬまでの一年間、しっかりとその時間の中でそのプロセスをみた。
 生への渇望ーその砂漠の真ん中に一人取り残された生への渇きの極限状態だ。
 その時父に「昔の哲学者がー本人にとって死はない!という話をした。
 死んだ瞬間それは自分でないから、生きている限り自分の死は存在しない。
 存在するのは他人の死だけだーエピクロス」と。
 父がその時ホッとした顔で「死について初めて解ったような気がした」
 と答えた対話が鮮明に残っている。
それまでの父の口癖は「死んでしまえばそれまでよ!」であった。

・死ぬのは仕方がないことである。ただ後悔をして死にたくない!
 いや、後悔したっていいじゃないか、死んでしまえば全て無なのだから。
 生まれる時も独り、死ぬ時も独り。
 生きている時も独りだ。ただ忘れているだけでしかない。
 考えてみれば、生まれる前の状態に戻るだけ。
 誰もが生まれる前の状態と、死んだ後の状態が生きている時でも
 取り囲んでいる。寝ている状態はその際に戻っているのだろう!

 以上、死のおさらいでした!


671, アルカイダー

2003年02月04日(火)

「お前は言葉のアルカイダーだ!」
土田氏の葬式に出たときの「しのぶ会」で,ある同級生にいわれた言葉である。
同級生『ヘンな奴に何をいわれても「あの馬鹿!」で済むが、お前の奴は
中心の核心を言うからな〜。お前は言葉のアルカイダーだ』
私『じゃ〜お前は下半身のアルカイダー!』
同級生『・・・・・・』
これは私の瞬時の答えである。
同級生同士が酒を飲んで他愛もないことを言い合っていただけだが。

「何々のアルカイダー」は何でも使えそうだ。
銀行のアルカイダー化が今の日本を駄目にしているとか。

私の学生時代の専攻が「社会学の人間関係学科」だったから、
どうしても人間の本質を話すので、聞く人はぐさりと来るのは解る。
別の男が『それよりもっと凄い言葉がないか?』と言ったが出て来なかった。

それではアルカイダーが正当化されるか?
自殺を正当化して、それを武器にするテロは正当化されるものではない。

城下町のような固定化社会では、なるべく波風を立てないで真実より目を逸らす
方がよいのだろう。でも言いすぎであるのも事実である。


670, 「三分で右脳が目覚めた」

2003年02月03日(月)



これは新聞広告の本の題名である。
最近本屋や図書館でよく目にする著者である。
若い人や女性向の文章を書くが、内容はなかなか鋭いものが多い。
副題が
ー日常生活で簡単「右脳トレーニング」ー
 自分の中に眠る不思議な力

この見出しだけで恐らく80佑鮓世た圓している。
ーそれを抜粋してみると・・下行は私の主観だ
・読書は、右脳を目覚めさせる
 −一見左脳だが、イメージと連想を刺激する

・右脳を働かせれば、面倒なことに巻き込まれない
 −動物的感が面倒な事を察知する
・右脳人は、やりたいことに2番がない
 左脳の人は、一番2番で行ったり来たりする
 −絞込みがしっかりできる
・右脳人は、企画書を一行で書ける
 −一番の要点を把握してある
・「褒める」は右脳、「けなす」は左脳
 −褒めるはトータルの中の光が見える。けなす事は批判ー批評に
 とらわれる
・ドタキャンの時、右脳の人は映画館に行き、
 左脳の人は「なぜ、急に?」を考える
 −瞬間判断ができるかどうか、なぜ急にはあとで考えればよい
・左脳の人は、絵を輪郭から描く
 右脳の人は、中心から描く
・写真は、ファイルに入れずに、レイアウトをして貼ろう
 ー主観を大事にして、レイアウトで自分の世界を創りあげる
・右脳の人はブランドをバラバラにくみ合わせて着る。
 −自分のコーデネート創りあげる
・左脳の人は実行より調査がすき
・味は、その前の行動で決まる
「・・・・のあとのビールがおいしい」
 −行列をして食べたラーメンは美味い
・「寂しい」と感じるのは、落ちこんでない証拠だ
 −???
・125歳まで生きると決めると、今が変わる
 −せめて80歳を生きることを決めようか

  ーーーーー
以上だが、「褒める」が右脳の人というのが納得できる。
これも訓練と営業センスが必要だ。
それより光と影の光を見て,指摘する事がよい。
どうしても影に眼がいくものだが、観光をすればよい?


669, ぶざまな人生

2003年02月02日(日)

本屋で見かけた本のタイトルである。
「ぶざまな人生」というタイトルにハッとさせられる。
軽く1分程度立ち読みした程度だったので概要は主観的になる。

「人生を捉えてみると誰もが皆ぶざまな人生だ。それを初めから割り切
って自分のやりたいよう、生きたいように生きるべきだ」という内容だ。
シビアなタイトルだが、皆「ぶざま」という言葉に呪文をかけられて
いる。
誰もが本当はぶざま人生じゃないか、見っともないという他人への
思惑など捨て切って、自分のやりたいことを、やりたいように生きるのが
本当だ。

政界のプリンスと、この前まで言われていた鳩山由紀夫だって、
最後は見っともない醜態を曝け出してしまったではないか?
でもこれからが本人の真の力が湧き出てくるかどうか試されるのだろう!
凡人が「ぶざまな人生」と初めから割り切れるかというとなかなか難しい。
よほど哲学的に裏づけか信念が必要だ。それがその本の主旨だったようだ。

「ぶざま」という言葉を使う人は「教養のない中年のオバサン」だろうが。
心の奥に誰もが「ぶざまな人生だけはおくりたくない!」
あるいは「みっともない最後だけは人に見せたくない」というのがある。

自分の人生を顧みて、ぶざまとも格好よかったとも思ってない。
それではやりたいこと出来たか?というと、こんなものかという感がする。
ただ専攻が人間関係学であった為、人生のトータルデザインを考えて
生きてきた。
自分の真にやりたい事を一生通して追求するのは自明の事であった。
「ぶざま」という言葉自体が「世間様」という虚構の言葉である。

それでは「ぶざまな人生とは、どういう人生だろうか?」
その言葉にやはりこだわって何も出来ないで終わってしまった人生のことだ。
それなら「初めから人生はぶざまなものと割り切ってしまえば、
開き直った生き方が出来る」。

「悟りということは、如何なる場合では平気で死ぬ事かと思っていた事は
間違いで、如何なる時でも平気で生きていることであった」
正岡子規の病床六尺の言葉である。
これは「ぶざまな人生を平気で生きることが悟りである」と言える!

完全な人生を求めるな!そんなものは元々ある訳がない。
しかし知らないうちに社会的動物として完全を人生に求めてしまう。
完全でなく充分な人生しか存在しない、それが人生というものだと
割り切ってしまえ!
充分の人生を初めから求めるべきだ。
それを脇で見たらぶざわに見えることもあろうが!!

親戚・姉兄や知人を見ていてカッコウいい人生の人など殆どいない。
遠くから見ていて例外の人がいたら、ただそう見えるだけだ。
 
 書いていたら気分が楽になった!!


668, 昨日で新潟日報を止めた!

2003年02月01日(土)



生まれた時から?地元にいる時は必ず日報と朝日新聞と日経は
毎朝の日課で目を通していた。
特に新潟日報の地元の経済欄と死亡広告は必見と思い込んでいた。
ところが数年前より家内が日報がつまらない止めようと言い出した。
「全く見る内容がない、ひどい!」と言う。
それでも決断を先延ばをしてきた。

ところが去年、光ファイバーをNTTの営業に強引に?入れられてしまった。
今考えてもADSLで充分であった。
その時トレードオフとして、その上乗せ分として、今度こそ日報を
止めると決心し、今日の2月より止めてしまった。
それとレンタルでいれている浄水器も止めた。
100胆茲暴侏茲織后璽僉爾離ぅン水が無料で貰えるからだ。
これでプラスマイナスゼロである。

会社に行けば見れることだし、10日も経てば不自由を感じなくなるだろう。
以前BSTVとWOWOWをいれた時は日経新聞を止めた。
全く不自由は感じなかった。

新聞を若い人は見なくなってきているという。
去年暮れ日報が配達をされない事があった。
その時、担当の人から家内が「近所の100世帯近くのうち
うちも含めて3軒しかとってない」と聞いた。
それまでは過半数はとっていると思っていた。

私の例が示すように新聞メディアはどんどん衰退の傾向になる。
あとは朝日だが、これは当分止めないがいつかその日がくるだろう。
インターネットのWEB新聞で済むからだ。

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