日々雑感
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2002年05月31日(金) 往きて帰りし

『指輪物語』の第三部、「王の帰還」を読み終わってからというもの、地に足がついてないような日々。「中つ国」があまりにリアルだったために、こちらの世界にいるという感覚が不確かになっている。

『ホビットの冒険』も『指輪物語』も「往きて帰りし物語」である。今、こうしてここにいる自分の生もまた「往きて帰りし物語」だとするならば、いったいどこへ向かっているのだろう。そして、帰り着く先はどこなのだろうか。そんなことばかり、ぼんやりと考えている。

夜、隣りに住む友人から電話で呼び出し。もうひとり共通の友人が遊びにきているらしい。出かけていくと、大勢のお客にチワワのナーちゃんは興奮気味。ぐるぐると順番に周りながら、3人にまとわりつく。サービス精神旺盛。


2002年05月30日(木) 遠い夕空

国立の喫茶店へ。前に来たときは桜が満開だったが、2ヶ月たって木には緑の葉っぱが繁り、梅雨の気配までする。

会いたかった人と会う。言葉や写真を通してしか知らなかった人だが、喫茶店の中に座っている姿を見た瞬間、ああ、この人だと、なぜだかすぐにわかった(お客はひとりだけだったけれど、それでも)。

言いたいことの周辺をぐるぐるまわっているような自分の言葉を、その人は吸い込むようにして聞いてくれる。話したいことや聞きたいことをうまく言葉にできないのがもどかしく、それでいてどこか安心している自分もいる。

その喫茶店には、ひとりでも何時間もいられるような、自分の中に沈みこみながらも外とつながっていられるような、そんな空気が満ちている。その人の持つ空気はこのお店の空気と同じだ、と店を出てから気がついた。

夕方、帰り道。何層にも重なった雲が、それぞれ別々の色をしている。ときどき、はるか遠くまでつながっているような夕空が広がることがあるが、今日はそんな日。踏み切りの音。路面電車が街の中、夕空の方へと消えてゆく。


2002年05月29日(水) 「アラスカ」

朝、外に出ると、どこかから自分の名前を呼ぶ声がする。見回すと、隣りのアパートに住む友人がバルコニーに出て布団を干している。たしかに布団干し日和だ。バルコニーの隙間から、友人の犬・ナーちゃんの耳だけ見える。「ほれ、ナーちゃん、挨拶しなさい」という友人の声に、耳が揺れる。小さすぎて顔は見えず。

外出しての帰り道、19時近くなってもまだ空は明るい。夕方の街を人が行く。スーパーに寄ると、新しいビールや発泡酒が並んでいるのを発見。新顔を見つけると、とりあえず試してみたくなる。今日はキリンから出ている発泡酒の「アラスカ」を購入。なぜアラスカ、と思いつつも青い缶と名前に惹かれる。

夜、「アラスカ」を飲む。辛口で炭酸がきつめの味。「キリン」の人々のアラスカのイメージか。「ビール(発泡酒)・街シリーズ」をいろいろ出してくれると面白いのにと考える。全部制覇するのは大変かもしれないが(いや、きっとする)。


2002年05月28日(火) 読みふける

よく晴れる。昨日の晩から読み始めた本のつづきが気になって、ゼミの間も落ち着かず。出席者は4人だけなのに、つい意識が本の世界のほうへ飛んでいってしまう。

帰り道もそわそわして、途中の喫茶店に入って本を開く。窓際のカウンター席に座っていたのだが、いろんな人が隣りに座っては注文したものを飲み、また立ち上がってゆく。何人くらいそうしたのか、わからなくなった頃に上巻読了。帰宅後、夕飯もそこそこに下巻を手にとる。

いろんな本を並行して読んだり、つまみ読みしたりすることが多いので「読みふける」というのは久しぶりだ。とにかくつづきが気になって、その世界にどっぷりとつかってしまうような体験。時間も周りの音も消えるような。

夜も更けた頃に下巻を読み終わる。最後のページを閉じたあと、しばし放心状態。本人は幸せだけど、使い物にはならなかった一日。


2002年05月27日(月) 「川の流れはバイオリンの音」

昨晩は、NHKアーカイブスで「川の流れはバイオリンの音」を観て夜更かし。81年に放映された佐々木昭一郎演出ドラマである。

ピアノの調律師A子が、イタリア・ポー川のほとりを旅する。手には壊れたバイオリンを入れたバイオリンケース。クレモナはバイオリンの街だ。

バイオリン職人のアントニオ、白い馬を引き、農作業をしながら「私はアルプスの生まれ」と歌うセニョール・ルイジ。川のほとりでA子が出会った人々の、日常と、その死と、両方が同じ重さで描かれる。出会いと別れ、生と死はいつもセットなのだ。どちらかひとつを引き受けなければ、もう片方も得られない。

生も死も、出会いも別れも抱え込んで、川は流れ続ける。そして、音。ルイジといっしょに歌ったその歌を、彼が亡くなったあともA子はひとり歌い続ける。川のせせらぎ、鐘の音、バイオリンの音、歌声。世界を調律するAの音(A子のAだ)。エピローグの言葉。

川は 永遠に流れ
音は うたいつがれ
人は 生まれ 生き 変わり 
生きつづける 

初めて観たのは何度目かの再放送のときだったが、それでももう10何年も前になる。A子が旅した川のほとりを、きっと自分も歩き続けてきたのだ。そのことに改めて気づいて少しびっくりする。

今日は、雨が降ったり、晴れたり、また降ったり。花屋の青いあじさいが雨に濡れている。あじさいは雨に濡れると3割増くらい美人度アップ。6月の花だ。


2002年05月26日(日) 雨上がりマジック

午後から散歩。歩き始めた頃はよく晴れて暑いくらいだったが、だんだん雲が多くなる。下北沢から歩き始め、経堂に着いたあたりで雨。雨宿りのためにモスバーガーに避難する。

店内から通りを眺めていると、準備よく傘を取り出す人、雑誌を頭に載せて走る人、気にせず進む人など様々。映画の画面を見ているようで面白い。雨はだんだん強くなる。雷の音もする。

しばらくして雨が上がる。同時に、やれやれという感じで、あちこちから人が出てくる。雨が上がったあとは、街中の色が鮮やか。緑も花も建物も色が深く澄み切って、まさに雨上がりマジック。雨雲は遠くに消え、また晴れ間が広がる。夏が過ぎたあとのような高い空だ。

千歳船橋まで歩いたところで小田急線に乗り、再び下北沢へ。歩くと何時間もかかる距離も、電車に乗るとあっという間だ。「さっき虹出てたよね」という声が聞こえる。見つけられなかったけれど、確かにそんな空だった。


2002年05月25日(土) 夢の本屋

本屋の夢を見る。ときどき見る夢だ。夢の中に出てくる本屋は、なぜか決まって同じである。古い7階建くらいの建物で、店内は狭く、学校の図書館のような少しかび臭い匂いがしている。エレベーターもあるのだが、ゴトゴトいうようなオンボロで、階段を使った方が早い。照明は落とし気味。上の階へ上がっていくと窓から外の光が入ってくる。

細かい部分が微妙に変化しながら、それでもいつも同じ本屋が現れる。いつかどこかで実際に入った本屋なのか、知っている本屋が混じり合ったものなのか、まったく架空の本屋なのか。はっきりしないのだが、ずっと昔から知っている気がする(その本屋へ入るたびに夢の中で「なつかしい」と感じているのだ)。あれは自分だけの本屋なのだろうか。皆、いろんな自分なりの店を持っているのだろうか。

夕方から新宿で友人と会う。タワーレコードに寄ると、27日発売の椎名林檎の新譜が入荷している。2枚組みのカバーアルバム。スピッツの草野マサムネ氏とのデュエットが気になっていたので、さっそく視聴。二人の声は果たして合うのかと思っていたのだが、しっくりはまっている。選曲も合っている。その昔加藤登紀子がカバーした「灰色の瞳」。それにしても、草野氏の声はよい。好きな声。CDがほしくなるが、とりあえず見送り。東京スカパラの新譜とこっちとで迷い中。


2002年05月24日(金) 夏を知る花

夕方、外に出る。ちょうど、夏の午後にプールから出て、サンダルをペタペタいわせながら歩いてるときのような空気。少しだるいが、ときおり吹いてくる風が涼しくて気持ちいい。夕立がきそうな空の色だ。

夾竹桃が咲いている。葉っぱの緑も花の紅色も濃くて鮮やか。東京に出てきたばかりの頃は夾竹桃は見慣れない花だったけれども、今では道端で紅い花が咲き始めるのを見ると夏が近いのだと思うようになった。季節を知る花。夾竹桃、タチアオイ、夏の花は色が濃くて深い。

夜、冷奴を食べる。これからの時期は豆腐大活躍。ネギや茗荷をたくさん載せる。なぜだか今年は夏が来るのがほんとにうれしい。暑くなったらなったで、うだうだ言うのだろうが、それでも。


2002年05月23日(木) 言葉は即興的なもの

自由が丘で友人とお茶。駅前の通りに、蕎麦猪口がたくさん積まれている店があるのを発見する。最近蕎麦猪口マニアという友人は一個購入。蕎麦によし、コーヒーを飲むによしで、確かに魅力的だ。

いろんな話をする。馬鹿話から、音楽の話から、歴史の話まで。言葉と言葉を交わすということ。うまく言葉が見つけられずにもどかしく思うことが多いけれども、何でもないことで、ときには真剣に、対話することは楽しい。

「言葉はとても即興的なもの」とある友人が言ったのを、今でもときどき思い出す。その即興性が前は怖かったけれども、最近はうまくいかなくてもいいではないかと感じる。「言葉」が人と関わるために自分たちに与えられた道具であるならば、それを大事に使っていこう。

お茶のあと、日の暮れかけた街をぶらぶら歩く。大きなガラスの器に水を張り、小さな浮き玉をいくつも浮かべた飾りを見つける。青い彩色がほどこされた陶器の浮き玉が涼しげ。夏の色だ。帰りは焼肉屋で話のつづき。そのあと、駅前の古本屋に寄り道。二人歩きの楽しさ。




2002年05月22日(水) 焼ハマグリとビール

友人の家へ。久々にチワワのナーちゃんに会う。しばらく見ないうちに大きくなっていてびっくり。日々成長しているのだ。

相変わらず元気。お気に入りの毛糸玉やおもちゃをくわえては、膝の上にのってきて、そこで遊んでいる。ナーちゃんを膝にのせながら、夏になったら江ノ島へ散歩に行こうという話をする。友人はナーちゃんに海を見せたいらしい。江ノ電に乗って、浜を歩いて、焼ハマグリを食べてビール。潮の匂いがする風が吹き、波の音が聞こえるだろう。ナーちゃん、海を前にして何を思うだろうか。

帰り道、道路端に七厘を出して何か焼きながら食べている人たちがいる。いろんなお店が入り口の戸を開いており、そこから灯りと話し声、笑い声がもれてくる。梅雨を前に、既に夏の宵の雰囲気。今夜は月も明るい。


2002年05月21日(火) しゃぼん玉

帰り道。細い路地を抜けたところで、しゃぼん玉がひとつ、目の前に飛んできた。あたりを見回すが、近くでしゃぼん玉を吹いている人はいない。ひとつだけ、どこからかはぐれてやってきたのか。

小さい頃、ずいぶん熱心にしゃぼん玉をつくった。食器洗い用の洗剤を少し水にまぜて、ストローで吹くのだ。ひとりで、弟と二人で、あるいは近所の子たちと、何かというとしゃぼん玉をつくっては飽かず眺めた。風にのって飛んでいくもの。七色に光るもの。やがて、パチンとはじけて消えてしまうもの。

小学校にあがったばかりの頃、「みんなで詩をつくりましょう」という授業があって、自分はしゃぼん玉について書いた。たしか「しゃぼん玉に乗って、遠くまで行きたい」という内容だったはずだ。何を思ってしゃぼん玉を眺めていたのか、今はもうおぼえていないけれど、とにかくどこかへ行きたかったらしい。割れずに遠くまで届くしゃぼん玉がほしくて、あんなに真剣にストローを吹いていたのだろうか。

夕食後、友人からもらったお菓子を食べる。ケーキ屋を開いた友人の先輩がつくったというもの。白ゴマと全粒粉のクッキー、黒ゴマのクッキー、金時芋を使ったスイートポテト、カシューナッツと胡桃が入った焼菓子など、どれも味がしっかりしていて、食感もよくて、おいしい。「和菓子もいいけど、食べて幸せな感じになるのはバターとかクリームとか使ったやつだよね」と友人が言っていたが、同感。甘いものを食べて、しみじみと幸せな夜。




2002年05月20日(月) オレンジ色の薔薇の花咲く

なぜだか気分がざわざわする日。

活字中毒気味なのに、「言葉」にうんざりもする。大好きな場所があるけれど、ひとつの場所に繋がりたくない。両極端に思える志向が共存していて、そのときどきによって振れ幅が変わる。夕方、古本屋へ寄り道。ずらりと並んだ本に今日は圧迫感をおぼえる。それでも何か買ってしまうあたりが、やっぱり中毒か。

大家さんの庭にオレンジ色の薔薇が咲く。大きな花びら。夜でもそこだけぼんやりと明るい。月は見えず。空は暗い。


2002年05月19日(日) 風鈴

朝から暑い。窓を開けると、隣りの部屋の窓辺にかけられた風鈴の音がする。

風鈴は大好きだ。けれども、自分では持っていない。小さなガラスの風鈴がひとつほしい。前に住んでいた場所では、夏になると風鈴屋がやってきた。山ほどの風鈴をつるした手押し車をひいてくるのだ。遠くから風鈴の音が何層にも重なりながら聞こえてくる。ガラスに太陽が反射してきらきらと眩しい。

誰かが呼び止めて、風鈴を買う様子を見たことはない。道をゆっくりと歩いてゆく姿だけ覚えている。どこから来たのか、どこへ行ったのか(風鈴の響きだけ残しながら)。

夕方、駅裏の駐車場で猫を見かける。いつもここにいる二匹だ。片方は真っ黒、もう片方は真っ白で、二匹並んでいる様子は、さながら碁石。あるいはオセロ。


2002年05月18日(土) 好きな街

午後、池袋のスタジオで練習。楽器を持った面々と別れて、その後、今度は新宿で送別会。友人がひとり、6月からドイツへ留学するのだ。駅の改札で待ち合わせだったのだが、土曜夕方の新宿駅は大混雑。その中を、藍染の服と帽子、背中に大きなリュックという姿の怪しいおじさんがやってくると思ったら先生だった。

集まったのは総勢11名。先生の山仲間がやっているというお店に行く。店内には小樽の北一硝子のランプがたくさんぶらさがっていて、どれもよく使いこまれている様子。常連らしい人々がやってきては、カウンター席に座り、マスターと山の話などしていく。新宿の片隅、隠れ家のようなお店だ。

今年の阪神の話から留学の話まで。「誰でも、いちばんはじめに長く滞在した街をいちばん好きになる」と先生は言う。いろんな人が、自分にとっての特別な街を心に持っている。世界のどこかに大好きな街があって、今このときも確かに存在していると想像するのはいいものだなと思う。

あっという間に時間が過ぎる。お開きのあと、よい気分でつい2次会へ。久々に飲みすぎる。山手線には乗れたが、乗り換えの終電はすでに出たあと。仕方なく歩いて帰るが、緑の匂いがする夜道を歩くのもまたよし。


2002年05月17日(金) 2歳のころを覚えてますか

ミーヨン写真展『2歳の瞬間』へ行く。会場は世田谷区文化生活情報センター「生活工房」。自身の娘が2歳になったことをきっかけに2歳児を撮り始めたというミーヨンの写真が集められている。

「まだ赤ちゃんの1歳と、幼児の入り口にいる3歳の、ちょうど真ん中にいる2歳は、どんなふうに生きているのだろうか。彼らの世界には、過去へのこだわりも未来への不安もなく、今この瞬間だけを生きる純粋な美しさがある」。写真を撮ったミーヨンの言葉である。

何人もの2歳児の何枚もの写真。一生懸命に目を見開いている。笑っている。おしゃべりしている。涙を流している。何かを見つめる小さな背中。「今、ここにいる」ということ。その危うさ、不確かさ、だからこその尊さ、美しさ。写真の中の2歳児たちは、みな力いっぱいでそこにいる。

「2歳のころを覚えてますか」。自分が2歳だったころ、何を見て何を考えていたのか。断片的なイメージがいくつか浮かぶばかりで、まるで思い出せない。どうして忘れてしまったのだろう。いったい、世界はどんなふうに見えていたのだろう。そして人はいつの間に、自分の中に記憶を積み重ね、それに気づくようになるのだろう。

一日中、雨。真っ赤なレインコートを身につけた犬とすれ違う。レインコート、隠しているのは胴体の部分だけ。胴体隠して顔隠さず。鼻の先をぬらしながら歩いて行った。


2002年05月16日(木) 人はそんなに変わらない

髪を切る。だいぶ長くなって、このまま伸ばしてみようかという気持ちもちょっとわいたのだが、結局短くしてしまう。短くするとなぜか安心する。ほんの数年間を除いて、短い髪でいた時間のほうが圧倒的に長いからかもしれない。

美容院を出ると夜風が寒い。近くのお店で友人と軽く飲む。メニューには新しく「栗リキュールのミルク割り」なるカクテルが登場していて、友人はそれを注文。少し味見させてもらうと「栗牛乳」のような味わい。

平日の夜だが、お客はひっきりなしにやってくる。おそらく辺りの会社の人たちだろう。少しのお酒と肴とで、リラックスした表情をして笑ったり、話したりしている。やわらかい灯り。外で飲む楽しさに満ち満ちた空間。

帰りの地下鉄はいつもより空いている。電車に揺られながら、友人から借りた『屍鬼』についてあれこれ話し合う。帯に「超弩級ホラー」というコピーがついた作品だ。文庫で全5巻のうち、まだ1巻の途中までしか読んでいないのだが、この先の展開について「夜にひとり部屋で読むと怖いか」と尋ねると「うん」と言う。そうか、怖いかと思いつつも、つづきを読むのがますます楽しみ。小学校の頃、夜になると必ず怖くなるとわかっていながら、テレビで「あなたの知らない世界」とか「心霊写真特集」など欠かさず見ていたのを思い出す。人はあんまり変わらないらしい。


2002年05月15日(水) 「地球交響曲第四番」

阿佐ヶ谷で映画「地球交響曲第四番」を観る。今回登場するのは、生物物理学者ジェームズ・ラブロック、野生チンパンジーの研究家ジェーン・グドール、サーファーであるジェリー・ロペス、版画家名嘉睦稔の4人。

中でも、7〜8メートルもあるという大きな波に乗るジェリー・ロペスの姿が圧巻である。正直、サーフィンってどこが面白いのだろうと思っていたのだが、考えを改める。あれはすごい。サーフィンというのは、波との対話なのだ。ひたすらに海の、波の声を聞き、それに自分の身体ひとつでもって応えてゆく。

ロペスは言う。「ダンスを踊るときのように波の力の良いパートナーになるんです。サーフボードはダンスパートナー、波は音楽、その音楽に乗って共に踊る、それが私の実感です。」

「対話」というのは、登場する4人に共通するキーワードだ。樹と、波と、チンパンジーと、「場所」と、そして人と、対話する。また、その対象を深く愛し、全身全霊をかけて向き合うということ。ほんとうに対話するためには、きっと自分の100パーセントで向き合うことが必要なのだ。

チンパンジー研究家であるジェーン・グドールの自伝。その巻頭ページには星野道夫が撮影した写真が使われている。映画の途中、星野道夫がグドールを訪ねたときの写真が画面に映し出された。二人とも笑っている。なぜかそれだけで涙が出そうになって、自分で自分にうろたえる。

ジェリー・ロペスはサーフボード、星野道夫はカメラが、世界と向き合い、対話するときのパートナーだった。自分はどうだろう。何を携えてゆくのだろう。

帰り、新宿で本屋に寄り道。ついでに渋谷まで歩く。夕方の風が気持ちいい。ビルの向こうに見える木々もざわざわ揺れている。坂をゆっくり下りながら、どんどん歩く。渋谷は谷の底。


2002年05月14日(火) 好きなものを好きという

午前中のゼミのあと、学校裏の喫茶店で年下の友人と昼食。3種類のランチのうち、日替わりの和食コースを選ぶ。今日の和食コースは豚の角煮にきゅうりとわかめの酢の物、それに豆ごはん。豚の角煮は生姜の風味が効いて美味。やわらかくて、ちょっと箸を入れただけでほろほろと崩れる。チンゲン菜も味がしみておいしい。

店内にはバイオリンのCDが流れている。サービスのコーヒーを飲んでいると、曲がバッハの「シャコンヌ」に変わる。「この曲、大好きなんですよ」と、友人が言う。

「シャコンヌ」を聞きつつ、人には弦楽器タイプと管楽器タイプがあるのではないかという話をする。実際に演奏するかどうかは別にして、手にもたせた場合、弦楽器がしっくりくる人と、管楽器が馴染む人とに分かれるのではという説。同じゼミに参加している面々を友人が分類するのを聞くと、「なるほど」という感じがする(あとから考えて、打楽器タイプもいるような気がしてきたが)。

さらに「ツィゴイネル・ワイゼン」へと曲が変わる。「これもすごく好きなんです」。ほんとうに嬉しそうな表情をする。好きなものを「大好き」とまっすぐに伝えるのっていいものだと、友人を見ながらしみじみと思う。そうだ、ためらうことはないのだと、少しはっとする。今さらながら。


2002年05月13日(月) 元気を出す方法

大家さんの庭のあじさい。葉のあいだに、まだ緑色の小さなつぼみが見える。「つぼみ」と呼んでいいのかわからないが、あじさいの花がそのままの形で小さくなったもの。あじさいの季節が近づいているのだ。

午後、大学へ。今日はゼミ発表の担当である。資料やら本やら、いろいろ持って学校へ向かう。発表したり議論したりというのは、いくら時間がたっても慣れない。今日もしどろもどろ。3時間ほどのゼミだが、終わったあと落ち込む。

帰り、駅前の古本屋に寄る。藤沢周平の『蝉しぐれ』(文春文庫)『春秋山伏記』(新潮文庫)を購入。次に新刊書店によって『長い旅の途上』星野道夫(文春文庫)も買う。元気になる。気分転換ばかりうまくて困ると思いつつも、好きな本、読みたい本を抱えて帰るのはこのうえない幸せ。それにビール。


2002年05月12日(日) 新幹線にて

午前中の新幹線で東京に戻ろうと、早めに駅へ向かう。見ると、改札前が何かざわざわしている。「新幹線の運休をお知らせします」というアナウンス。

「岩手でかなり大きい地震があったので線路など点検しております」と駅員が説明している。「かなり大きい」というには、ひどい地震だったのだろうかと心配するが、待合室のテレビに流れるNHKは通常の番組。乗るつもりだった新幹線は運休となり、様子もわからず駅の中をうろうろする。

結局、2時間ほどたってから臨時で全席自由席となった新幹線に乗り込む。もともと乗客は少なかったらしく、ガラガラとまではいかないが車内は空いている。ひとりあたり2席くらいの割合だ。本を読んだり、おにぎりを食べたり、昼寝したりと好き放題。快適だ。反対側の窓際に座っていたおじさんは、持ち込んだ缶チューハイ2杯をあっという間に飲み干し、そのあとも車内販売から缶ビールなど買って、東京へ着くまでに缶8本くらいのアルコールを摂取。飲み終わるたびに律儀に缶を捨てに行く。

夕方の東京に着く。人の流れ。戻ってきたなあと思う。

地震は、岩手南部を中心に震度4だったらしい。その割にはあまりニュースにならず。駅での大騒ぎが嘘みたいだ。テレビカメラや新聞社も来ていたが、東北地方限定か。


2002年05月11日(土) 夏の夜になったら

昨日までの快晴から一転、雨が降る。

午前中、今回の帰省の目的である試験を受ける。慣れないスーツを着て会場へ。試験監督がいて、制限時間があって、大勢が一斉に受けるという試験はものすごく久しぶりだ。緊張する。筆記試験に面接、終わった頃にはぐったり。できれば、今後二度と試験は受けないですむように祈る。

高校時代、毎日乗っていた路線の電車で帰る。見慣れた景色が車窓を流れてゆく。木々にからまった藤の花がちょうど盛りだ。藤棚を見慣れていると行儀のよい花のような気がするけれど、新緑にまじって群れ咲く様子を見ると、むしろたくましい。前の席に座った高校生の女の子たちは、何がおかしいのか、さっきからひっきりなしに笑っている。ふと、同じように何でもないことで大笑いしていた頃を思い出す。ずいぶんと前のこと。

夜、いつもの面々といつもの居酒屋で飲む。夏の計画について相談。まだ先のような気がするけれど、夏はあっという間にめぐってくるだろう。その頃には夜になってもまだ暑くて、空にはさそり座や白鳥座が浮かぶのだ。なまぬるい風が吹く中をぶらぶら歩こう。小雨降る中、夏の夜を思いながらビールを飲む。外の気温は10度。


2002年05月10日(金) 家の匂い

「『ちゅらさん』の続編放映決定!」などという夢を見る。目が覚めると、いつもと違う眺めに一瞬「ここはどこだろう」とぼんやり。実家の元自分の部屋の中だ。

家の匂いというものがあると思う。自分で住んでるときにはわかりにくいけれども、少し離れてから久しぶりに戻ると「あ、この匂いだ」とはっとする。そこに住む人々の思いや、過ごした時間が沈殿してできてゆく匂い。人がみんな違うように、家の匂いもそれぞれ違う。実家の中を歩くと、どこもなつかしい匂いで満ちている。東京の自分の部屋はどんな匂いだったか、考えるが浮かんでこない。

今日も快晴。外へ出ると、家のそばの木に巣をつくっている親ガラスが大きな声で威嚇する。巣の中に子ガラスが三羽いるのだ(小さな首を一生懸命にのばして餌を食べているのが見える)。近所の猫が現れても威嚇。このあいだなど、トンビと対決していたらしい。親ガラスからすれば、トンビも猫も人間も、全部同じ危険物体か。

夜、カエルの声がする。「夏みたいだな」と父が言う。






2002年05月09日(木) 緑の世界

帰省。早朝の新幹線に乗る。

東京はくもり、栃木のあたりも霧の中だったが、仙台を過ぎた頃から晴れてくる。岩手に入ると快晴。水沢や北上のあたりなど新緑がほんとうにきれいだ。田んぼに水が張られ、そこも空と同じ青い色をしている。雲まで映っている。岩手山も、今日は稜線までくっきりと見える。

地元の駅には正午前に到着。ここもまた新緑の季節だ。どの季節の木々もそれぞれに美しいと思うけれども、緑に「旬」があるとすれば、今がまさにそう。うす緑、黄緑、濃い緑、陽に透ける緑、眩しい緑。いろんな緑が重なり合って、その鮮やかさに圧倒される。葉を繁らせようとする植物のオーラか。

木は風にこたえて揺れる。強く吹けば強く、弱く吹けばかすかに揺れる。揺れるたびに光の加減で様々に色が変わる。見飽きない。波のように、よせては返す葉ずれの音。

夕方、西の空に明るい星が二つ浮かぶ。そういえば、ちょうど「惑星直列」が見える時期だと聞いた。4つは並ぶはずというのでしばらく待ったが、二つの星を結んだ直線上にそれらしき星は現れない。それでも、暗くなるにつれてずいぶん多くの星が見えてきた。大きな北斗七星もある。それだけで十分満足。夜の空気にも草の匂いが混じっている。


2002年05月08日(水) 食い合わせ

外に出ると空気がぬるい。寒くなったり暑くなったり、大変だ。

午後から担当教官と面談。向こうも風邪気味らしく、くしゃみばかりしている。お互いぼうっとしたまま、ほとんど雑談のようにして終わる。どうやら先生のほうが重症らしい。そのあとはゼミ。夕方から始まって20時すぎまで続く長丁場だ。途中、いろんなところからお腹がなる音が聞こえる(自分も含む)。

帰り、駅の「みどりの窓口」に寄る。週末に地元で用事があるため、明日から帰省するのだ。平日夜の「みどりの窓口」はさすがに空いている。すぐに順番が来て、乗車券と新幹線の自由席特急券を買う。いつものことだが、長距離の切符を買うのは楽しい。窓口で並びながら係の人の作業を眺めているのも好きだ。

短い帰省だが、冷蔵庫の中のものを整理。小瓶に少しだけ残っていた梅ワインを空ける。ヨーグルトも食べる。ヨーグルトにワイン、食い合わせ悪そう。どうだろう。


2002年05月07日(火) 飛鳥美人

連休が明けたとたんに朝から雨。外は寒い。

コンビニで買い物をする。ふと目をやると、レジを打つ女性の名札に「東雲」とある。それに「しののめ」と振り仮名。文字も響きもきれいな名字だなあと、しばし見とれる。「東雲」は「東の空がわずかに明るくなる頃。夜明け方」。意味まできれいだ。「東雲」の姓を持つその女性も、とてもきれいな人だった。「平安」というよりは「飛鳥」のイメージ。

夜の帰り道。水たまりにうつった街灯の灯りがにじむ。雨が葉っぱに落ちる小さな音がする。昨日よく寝たせいか、体調はだいぶいい。薬代わりに梅ワインを小さなグラスに一杯だけ飲んで寝る。ほんとに薬になっているのかどうかは不明。


2002年05月06日(月) 小さい頃のおもちゃ

風邪気味。昨日布団をかけずに寝てしまったせいか。今週は大仕事が詰まっているというのに不覚。たしか風邪薬があったはずと思って部屋の中を探すが見つからない。あきらめて、おとなしく寝ることにする。

映画「スパイダーマン」がもうすぐ公開らしい。広告を見ながら、そういえば小さい頃にスパイダーマンの人形を持っていたなあと思い出す。手足が吸盤になっていて、ガラスなどにくっつくようになっているのだ。小さい頃のおもちゃ。どれもみんな、いつの間にか消えてゆく。ウルトラマンのゴム人形や、小さな人形の靴や、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

ぼんやりとしたまま連休も終わる。明日は寒くなるらしい。


2002年05月05日(日) 東京脱出

東京脱出、一路信州へ。目的地も決めず、「新緑」「温泉」をキーワードとして出かける。個人的には、それに加えて「浅間山」も。

何年も前に、友人と二人でまだ寒い軽井沢へ行ったことがある。よく晴れた日で、浅間山と噴煙がどこへ行ってもはっきりと見えた。北海道へ行ったときは、十勝岳の噴煙。それに九州の雲仙普賢岳。どれも遠くから眺めただけだが、なぜか惹きつけられた。「怖い」という気持ちもどこかに抱えつつ、それでも目が離せない、あの感覚(しかしこの日、雲が多くて浅間山は山裾しか見えず)。

地図を眺め、小諸まで行くことにする。高速を降り、街中を通り抜けて高峰高原へ。うねうねとつづく坂道の横には棚田が広がる。まだ水もはられていないが、緑の稲穂が揺れるころには、見事な眺めになるだろう。

高峰高原は冬季はスキー場となるところ。遊歩道があるというので歩いてみるが、熊笹をかきわけながらの急勾配。「遊歩道」ではなく「登山道」だ。はじめの20分くらいは、ひたすら登り。雪も残る道を、足元を見つめながら進む。

やがて視界が開ける。絶景。山々に囲まれて小諸の街がある。遠くに光る細い流れは千曲川か。雲がすごい速さで流れてゆく。街の上に雲の影がある。富士山の頂上や雪の残るアルプスも見える。

360度、どこを見ても山。この土地で暮らしていると、どんな思いがするものだろう。いっしょに行った沖縄出身の友人は「端っこにいないと落ち着かない」という。自分も海辺で育ったせいか、山に囲まれていると少し怖くなる。同様に、ここで暮らした人たちは、だだっ広い平野や海辺の土地に不安になるだろうか。

下山。小諸市街で辛味大根そばと山菜のてんぷらを食べる。どちらもおいしい。てんぷらに使われていたのは、たらの芽、山うど、ぜんまい、あと名前のわからないものが何種類か。同じお店で売られていた「おやき」も美味。食事のあとは千曲川を越えて別所温泉へ。別所はツバメだらけ。道を歩いていると、あちこちからいきなり飛んでくる。巣作りの季節なのだ。つばめの巣を探しながら散歩。

帰りは渋滞。向こうを出たのは夕方だが、夜も遅くなって東京に着く。車を降りると、何となく暑い。どうやら、ひどく暑い日だったらしい。「新緑」「温泉」に加えて、思いがけず「避暑」の一日。


2002年05月04日(土) 静かな修羅場

持ち帰りバイトや課題など山積み。部屋の中にいると、どうしても他の本に手を出したり、昼寝したりしてしまうので、荷物を持って外へ。長居できそうな喫茶店を求めて街中をさまよう。

ある喫茶店の2階、窓際の席に落ち着く。コーヒーも飲んで作業を始めたとたん、隣りの席に50代半ばほどの夫婦らしき二人連れが座った。大きな音をたててカップを置くなど、動作が荒い。何だろうと思いつつも自分の作業を進めていると、だんだんと二人の様子が穏やかでなくなってくる。どうやら二人の間に何かあったらしい。男性のほうは一生懸命言葉を尽くして言い訳したり、謝ったりしているが、女性のほうは聞く耳持たず。感情的に騒いだりするでもなく、淡々とたたみかけるように相手を問い詰めてゆく。静かな修羅場。ドキドキする。

隣りの席に座りながら、「作業に集中していて何も聞こえてないよ」という振りを装うために手を動かす。おかげで作業ははかどり、ノルマ分も終了。修羅場の行方が気になるが、だいぶ時間も経ったので席を立つ。

夜、友人から電話。「チャット」のやり方を教えてくれる。チャット初体験だが、テンポが速くてついていくのが難しい。緊張もする。実際の場面でもテンポよく話すほうではないので、まごつくのも当然か。


2002年05月03日(金) おすすめメニュー

友人と町田で飲む。町田は友人の地元だ。「いつもより人が少ない」というが、それでも十分に多いと思う。どの通りにも人がいる。

まだ少し明るいうちからお店に入る。入り口の戸が開けられていて、そこから時折入ってくる夜風が気持ちいい。お通しはおかわり自由のキャベツ。手でつまんで味噌をつけながらかじる(友人はちゃんと箸を使っていた)。

お店のおすすめメニューという、鶏の水炊きを注文する。小ぶりの土鍋に鶏肉とにんじん、大根、かぶ、しいたけといった野菜が入っている。特別な味付けはしていないのに、鶏と野菜のエキスがよく出て、スープがとてもおいしい。ポン酢が添えられていたけれども、必要ないくらいだ。「これで雑炊とかつくったらおいしそうだね」など言いつつ、きれいにたいらげる。

お店を出たあと、二人して街中を散歩。線路の向こうまで歩く。駅前でお茶を飲みつつ、小学生のときに学校で映画の上映会をしたか否かという話になる。地元の小学校では、年に数回体育館に全校生徒を集めて映画の上映会をした。いろんな作品が上映されたが、その中に「マタギ」「イタズ」という映画もあった。どちらもクマやマタギが出てくる作品。どの小学校でも上映してるものだと思ったが、友人は「そんなことはない。ましてや、マタギもイタズも観たことない」と言う。もしかして、あれは地域限定だったのか。

帰りは小田急線に乗る。窓の外には点々と街の灯り。向こうからも、灯りの連なりがゆらゆらと夜の中を進んでいくのが、遠くに見えているだろうか。誰かそれを眺めている人がいるだろうか。


2002年05月02日(木) 「百年の記憶」

朝から胃が痛い。悪いものでも食べたか。

バイオリンを弾く男性の写真が載ったポスターを見かける。「アン・ビクトル写真展 百年の記憶」とある。茫々とした草はらに古びた家、その前でバイオリンを手にした男性の背中。モノクロのその写真が気になって、行ってみることにする。

写真展には「旧ソ連に生きる高麗人の運命と希望の物語」とサブタイトルがついている。スターリンの時代にロシア極東から中央アジアへと強制的に移住させられ、現在もそこで暮らす高麗人(コリョサラム)の生活を、自身も「高麗人」としてウズベキスタンに生まれたアン・ビクトルが追った写真が並ぶ。

自分たちの「故郷」であるはずのウラジオストックを歩いたときのアン・ビクトルの言葉。「故郷を訪ねた。けれども、そこはもう故郷ではなく異郷となっていた」。

人にとって故郷とは何か。自ら望んで旅立つのではなく、また、はじめから存在しないというわけでもなく、強制的に「故郷」を奪われる意味とは何か。あるいは、離れてこそ、幻の「故郷」が肥大してゆくのか。

アン・ビクトルが撮影したモノクロの写真には、人々の生活が映っている。仕事をする人、ひとつの部屋に集まって談笑する家族、楽器を持つ人、ダンスする人。淡々とした日々の営み。その何でもなさが、ずんとくる。見入ってしまう。

夜、胃はまだ痛むが、夕飯はしっかり食べる。ただし晩酌はなし。


2002年05月01日(水) 5月の夜に

夕方、アパートの下の部屋から歌声が聞こえてくる。好きなのか仕事なのか、下に住む人はよく歌っている。低くキーボードの音もする。今日のこの曲、何という名前だったろう。知っているはずなのに思い出せない。だんだんと暮れてゆく夕方の路地に歌声が響く。もどかしく思いながら、その声を聞く。

夜、近所を散歩する。昼間よりも緑の匂いが強いような気がする。

近所のお寺の前を通る。入り口近くに石柱が二本建っているのだが、その片方に猫が座っている。背筋を伸ばして、目を閉じて、シーサーの片割れのようだ。近寄って頭をなでても動かない。嫌がりも、喜びもしない。その場を離れてしばらく歩き、振り返ってみても、まだそのまま。瞑想中か。

家々の窓から明かりがもれる。誰かの声がする。その中をひとり、うろうろ歩く。金魚屋の店先、亀の水槽を前に立ち止まる。水槽の中には小さなミドリガメが二匹。どちらもじっとしたまま動かない。水槽を指でたたいてもピクリともしない。こっちも瞑想中か。猫も亀も、もしかしたら人も、皆、物思いに沈む5月の夜。


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