原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2005年08月30日(火) 平和の祈り(アシジの聖フランシスコの祈り)

Anno Job Log (http://d.hatena.ne.jp/annojo/)を読んでいたら、平和の祈り(アシジの聖フランシスコの祈り) http://www.pluto.dti.ne.jp/~yuriko/asiji/asiji20.htmというのを見つけた。

ここにも全文を書き写す(他にも翻訳はいろいろあるそうなので、もしかしたらわたしなりにアレンジしてしまうかも。でも今はとりあえず忠実に):

平和の祈り

主よ、わたしを
 あなたの平和のために用いてください。
 憎しみのあるところに、愛を、
 争いのあるところに、和解を、
 分裂のあるところに、一致を、
 疑いのあるところに、真実を、
 絶望のあるところに、希望を、
 悲しみのあるところに、よろこびを、
 暗闇のあるところに、
  光をもたらすことができますように、
   助け導いてください。

主よ、わたしに、
 慰められるよりも、慰めることを、
 理解されるよりも、理解すること、
 愛されるよりも、愛することを、
  望ませてください。

 わたしたちは与えることによって与えられ、
  すすんで許すことによって、許され、
  人のために死ぬことによって
   永遠に生きることができるからです。

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前から、その存在は知っていた。
けれど、今回、『マザー・テレサ』をオリビア・ハッセーが演じるということから改めて興味を感じていたところ、冒頭に紹介したAnno Job Logに言及されていたので、書き写したくなるほど興味を惹かれた、というわけ。

2005年08月23日(火) 「政治の道具としてのテロ戦争」

政治の道具としてのテロ戦争

これが本当のことだとしたら、なんて恐ろしい……というか、アメリカは「順調に人口が増え続けている」からねえ。
「テロ」だろうと「イデオロギー」だろうと「利権」だろうと、なんでもいいんだよ。
増えすぎた人間を「間引く」ことさえできれば。
それが戦争の本質だろう。
わたしは、嫌だ、そんなの。

増えすぎないように気をつけながら、生まれた命はとことんまで大切にするべきだ。
「K戦略」。

2005年08月17日(水) あらら、また鬱に……

今年の春頃にカウンセラーさんから「鬱に周期があるのでは?それを調べてみるのも良いのでは」とアドバイスされ、囚われてもいけないと思ったから少しずつ「どうなのかなー」と気にし始めたら、どうやらいくつかサイクルがあってそれを組み合わせているみたい。
とりあえずわかっているのは「毎月中旬は落っこちやすい」ということ。
で……

具体的な原因もあるんだけど、今、というか今日、また鬱に入り始めたようだ。
しばらくはもうどうすることもできないので、こういう自分をそっとしておいてやろう。
無理して動こうとしても、人に毒をばら撒くようなことしかできなくなってしまうし。

うう、辛い……

ああ、原因がもう一つあった。
昨日の地震だ。
わたしは被災したことなんか、ない。
けれども、地震報道をさんざん見てしまったことがあって、それ以来地震災害を「追体験」してしまったようなところがあるのだ。
昨年の中越地震の時も、たまたまテレビを見ている時に起きたのだし。

だから、昨日はできるだけテレビは見ないようにしていた。
けれど……
防ぎきれていないみたい。

(そこへもってきて、ヘルパーさんがショッキングなこと言うんだもん……まあ、それはショック療法みたいで逆に気が紛れそうだけど)

2005年08月12日(金) 「マガジン9条」の記事

著作権はわたしにもあると思うので、この際だから全文をこちらに転載しておきます。
掲載ページ→マガジン9条『見た・聞いた・体験した「戦争の話し」読者編』
http://www.magazine9.jp/60th/aizu/index.html

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終戦60周年特別企画 見た・聞いた・体験した「戦争の話し」読者編

伝えられた戦争のはなしと9条のこと

 私の父も母も戦争体験者です。断片的ですが話を聞いたことがありました。父は戦争当時、35歳でした。2度ほど徴兵されたらしいですが、そのことについてあまり多くを語りませんでした。「世界は国連を中心に統一するべきだ」とか、「(父は弁理士だったので)士のつく職業は武士だが、自分は剣ではなくペンを使って闘う武士だ。武士は食わねど高楊枝」といったようなことばかり言うので、戦場での具体的な体験については、知りません。父いわく「すぐに病気して日本に帰ってきた」とのことでした。

静岡空襲で一度に両親と妻を失った父
 それから、私にとっては年のすごく離れた兄が、「静岡空襲」のことを少し話してくれました。静岡の中心街はすっかり焼け野原になり、たまたま焼け残った我が家から、それまでは見えるはずもない、2キロ先の静岡駅が見えたそうです。
 ちょうど東京に出かけていた父は、夜静岡に帰ってくると、空襲で明かりも破壊された真っ暗な町にぽつんと灯る明かりを目指して歩けば、それが我が家だったのでした。
 当時7歳だった兄は、家族を探し、自分の家のまわりの焼き尽くされた町並みを見てまわり、そこらじゅうに転がった焼死体にかかっている藁むしろを、はがして歩いたそうです。
「今思えば恐ろしいことだと思うが、当時は子どもでかえって怖さがわからなかった」と兄は言っていました。
 この空襲で、父は自分の父親と母親(わたしの祖父母)を亡くし、妻(わたしの母ではありませんが、兄の母親)が行方不明になりました。
  考えてみればいわば「家族崩壊」してしまったわけで、父はその後一人で3人の子を育てていかなくてはならなくなりました。

静岡空襲で一度に両親と妻を失った父
 一方、私の母は同じ頃、旧満州にいました。ソ連兵がやってきて女を見つけたら陵辱するから、ということで、母は泣く泣く髪の毛を短く切って、一見女性には見えないような格好をしたそうです。
 母がよく話していたのは「引き揚げ」のことでした。奉天で暮らしていたのだけれど、本土に引き揚げなければならなくなり、大勢で列車に乗り込んだのですが、それはもう客車ではなく貨車だったそうです。しかもはじめは屋根のある貨車だったのに、途中で乗り換えさせられたら「無蓋車(ムガイシャ)」、つまり天井のない貨車になり、最後は徒歩で港までたどり着いたのでした。その間にも、すぐそばで何人もの人が身体をこわして死んでいき、乗り換えるごとに人数が減っていったそうです。

 もしもわたしが母や父と同じような体験をしたら……。累々と並ぶ死体を眺めながら歩く、そんな体験をしたら、いつまでもトラウマとなって、その後の人生に暗い影を落としたことだろうと思います。
  父が戦地に赴いた時のことを、結局死ぬまで語らなかったのは、もしかしたら語ることのできないような陰惨な、それとも後ろめたさを感じるような体験があったからかもしれません。
 母は、9人兄弟で支えあって生きてこられたから、少しは戦争体験のことを語ることができたのかもしれません。しかし戦時体制の中で、押しつぶされてしまったような祖父(母の父)の死(当時の国策会社であった“満州綿花”での仕事の失敗を引責しての自殺)に関しては、ずっと苦しんでいたように見えました。
 もしかしたら、父も母も、実は立ち直れないまま戦後を生き、私たちを育て、死んでいったのかもしれません。

もしも戦後9条がなかったらと想像してみる
 父や母が体験したようなことを、再び父母や私たちが体験せずにすんだのは、憲法9条があったからでしょう。9条があったから、このような戦争の極限状況を更に繰り返すことによって、戦争を「常識」にしてしまうことはなかったのです。アメリカのように。

 父は時々「おれは反戦じゃない、非戦論者だ」と言っていましたが、これも「日本国憲法」が成立した社会の中でこそ言える言葉だったのではないでしょうか。
  母は、戦後10数年を東京で暮らした後、静岡に嫁いできて、生涯を閉じるまで定住していましたが、もしも再び戦争状態に陥っていたら、流浪の一生を送ることになったかもしれません。
 歴史に「もしも」はありませんが、“もしも9条を持つ憲法が無かったら”と想像した時、父と母がめぐり合うこともなく、私はこの世に生を受けることができなかったのでは、という気さえしてきます。
 改めて、戦争を回避するのに役立った憲法9条を、今手放すべきではないと思います。

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2005年08月07日(日) Re: I LOVE YOU!

「自殺」なんてクラい話題の夢を見てしまった理由がなぜだったのか、思い当たった。

夕飯の後で飲む薬(パルギン)を、3日に1回くらいずつ飲み忘れてしまうのだけれど、そういう時はだいたい夜も朝も、気持ちの調子が悪い。
被害妄想がひどくなったり、自殺の夢で飛び起きたり。

精神状態が薬でこんなにまで左右されるなんて情けないし、パルギン飲まないと強迫観念に悩まされてしまうわけ!?と不安にもなるけれど、……まあ、仕方ない。
いつか、飲まなくても不安のない日、不安があっても自分で乗り切れる日が、来るかもしれない。来る、はず。
それを信じて生きていこう。
そうしよっと♪

2005年08月05日(金) I LOVE YOU!

今(AM3:11)、目が覚めた。
おかしな夢をみていた。
バンドのメンバーやいろんな知り合いと一緒に、何か大きな建物――教会?――の中の階段を、ものすごい大人数で登っていく。
なんでそんなことをしようとしているかというと、集団自殺をするためなのだ。
(そんな夢を見た理由がわかった。眠たくてたまらず、扇風機をかけたまま寝込んでしまう時、「なんて自殺的なことを」と思ったのだった)
みんな、のろのろと階段を登りながら、ひそやかに声を交わしている。
いちばん多い話題はやっぱり
「飛び降りる時に何を叫ぶか」
だった。――って、何が「やっぱり」かわからないのだが。
何を叫ぶか、必死で考えた。
何しろ、この世で最後のひと声だから。
何人かの人が、何を言うか教えてくれた。
「な〜るほど〜」と思わされる言葉ばかりだった(もう一つも覚えていないけど)

ふと答えが浮かんだ:
わたしの最後のひと声は、

I LOVE YOU!

だ。



そう思った瞬間に、目が覚めた。

なんつー夢だ。

でも、確かにそれが答えだと、思う。


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