原案帳#20(since 1973-) by会津里花
★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲

2004年07月29日(木) 性同一性障害で戸籍の性別変更認める

asahi.comの記事より

性同一性障害で戸籍の性別変更認める 那覇家裁が全国初

 心と体の性が一致しない人の戸籍上の性別変更を認める「性同一性障害特例法」に基づき、那覇家裁が沖縄県内の20代の成人に対し、戸籍上で男性から女性への変更を認めたことが分かった。16日に同法が施行されてから、全国で少なくとも9人が変更を申し立てているが、変更が認められたことが公になったのは初めて。

 28日に同家裁が変更を認めた。本人によると、申し立て後、1度だけ30分ほどの審問があった。同家裁は「現在、安定的に女性としての社会的アイデンティティーを取得しつつあることが認められる」とした上で、戸籍上の性別が男性とされている点について「大きな精神的苦痛を感じていることも確かのようである」として、性別変更を認めた。

 本人は幼いころから男性としての自分に違和感を感じ始めたという。ヨーロッパへの海外留学を機に女性として生活するようになり、カウンセリングやホルモン療法を経て、昨年、家族の了解も得て海外で性適合手術を受けた。

 しかし、銀行の窓口で「あなたの口座ではないのでは」と疑われたり、海外旅行ではパスポートの性別欄と外見の違いから収監されそうになったりした。今年に入って名前の変更を同家裁に申請し、認められていた。

 本人は「アイデンティティーを否定され続け、つぶされそうになったこともある。失われた20余年間をやっと取り返した。女性に戻れてうれしい」と喜びを語った。 (07/29 13:13)


-----------------------

まずは、よかった。

2004年07月28日(水) (ジェンダー観・また補足)

7月19日の記事に:

>何百年かたったら、生物学的に生まれた時の性別とは無関係に「子を産むつもりのある人=(とりあえず)女(と呼んでおこう)」とでもいうような常識が成り立ち、それはたとえば学齢を迎えた後なんかに自分自身で決めることができる…… 

と書いたけれど、後から考えてなんてこと書いちゃったんだろう、と後悔している。
あちこちでさんざん「産まない女のことも考えて!」というようなことを言ってるのに、
それと正反対のことを書いてしまったことになる。
よく考えてから書けよな!>自分

もっと簡単に、こう書けば良かったのだ:

>何百年かたったら、生物学的に生まれた時の性別とは無関係に「自分が思っている性=その人の性」とでもいうような常識が成り立ち、それはたとえば学齢を迎えた後なんかに自分自身で決めることができる……

わたしも、まだまだ「ジェンダーのドグマ」にがんじがらめにされているらしい。

2004年07月27日(火) 後悔……

自分のしていることの「間違い」に、うちひしがれている。

「時間が守れないこと」が大きな問題なのだけれど、
それが引き金のようになって、
何も彼も嫌になってしまいそう。

抱える問題はとても具体的だし、努力すれば改善できそうなので、
恐れることはない……はず、なんだけど、

変えていくことができるかどうか、
とても不安になってしまう。

どうすればいいのだろう?

ええと、全ての現象についていっぺんにどうにかしようとするのではなくて、
一つずつ、具体的なことがらについてどうすればいいか考えて……

ああ、空回り。

困ってしまった……

2004年07月26日(月) 煙草について(苦

(真夜中っていうか明け方に書き込みするのは止めなさい>自分)

煙草って、なんで「特別扱い」されているんだろう?
厚労省が「煙草よりも大麻のほうが害が少ないという『誤った情報』が流れているが」などと言っている。
わたしから見れば、ほんと、五十歩百歩だよ〜〜〜。

アメリカ征服、とか。
産業革命の進展、とか。
そういうものの象徴だから、毒性も依存性も仕方ないんだよ、きっと。
受け入れてあげようよ。

……なんて、ムリに考えても白々しくなるだけ。

わたしの目の前で煙草を吸う人がいる。
でも、残念なことに、そういう人とは30分以上一緒にいられない。
だって、副流煙吸ってしまうと、すぐにむせちゃう、頭痛くなる、目がしょぼしょぼしてくる。
頭がぼぉっとしてきて、正常な思考判断能力が維持できず、とにかくその場から逃げ出したくなってしまうのだ。
かなり重症。

いちいち「わたしの近くで喫煙しないで」って、言いたくないし、言えない相手だっているんだもん。
でも、確実に、わたしは自分のすぐそばで喫煙する人のことが、嫌いになってしまう。
他のことでは思いやりがあったり礼儀を心得ていたりするんだけど、こと喫煙のことになるとその人の美点がぜーーーーーーんぶすっ飛んでしまうの。

喫煙者の「喫煙を止めない理由」も、誰から何度聞いても同じようなことしか聞けない。
その言い訳が、自分で考えたことではなく煙草の(特にニコチンの)神経作用で思い込まされてるだけ、というのがまざまざ見えて、すっっっっっっごくがっかり。
そう、あなたは喫煙についてだけは自由がないのね。
自分では「自由だ」と思い込んでるみたいだけど。

煙草は確かに、アメリカ先住民との接触から伝えられたものだし、喫煙者にとっては産業革命で大量に大気中に放出されるようになった内燃機関のガスがあんまり気にならなかっただろう、という点で産業革命そのものにも大きく貢献しているのだろう。
しかも、なくても誰も何も困らないはずなのに、資本的生産様式にのっとって大量生産し、無意味に(というよりも要するにニコチンの依存性によって)大量消費する、という点ではまるで「資本主義の教科書どおり」とでも言いたくなるようなものだ。

煙草は、いわば「歴史的意味のあるもの」なのだ。

でも、そろそろ考え直そうよ。
厚労省が「大麻より害がない」という比べ方をするのを、まず止めてほしい。
害の質が違うんだから、比べるな。
JTも、煙草で収入を得ようとするのを止めなよ。

何度も言ってるけど、煙草はアメリカ先住民の神聖な儀式で使うもの。
それを理解できる人だけが、自分自身も神聖な気持ちをもって喫煙する、というようなものに変えていこうよ。

それか、とても高級で、自滅覚悟の趣味、とか。
(20本入りの煙草1箱の値段がたった数百円なんて、ひどいと思う。喫煙者や受動喫煙者が負わなくてはならないリスクを考えたら、マイルドセブンなんかでも数千円は必要だと思う。ついでに、その利益を肺癌治療に充てるとか)

……でも、わかってるの。
突然煙草を非合法化したら、とんでもない社会不安が発生して、たぶんこの日本であっても暴動くらいの騒ぎにはなってしまうだろう、ということが。
それは、それこそまさしく煙草の危険性(特に依存性)をまざまざと示すものなのだろうけれど、暴れたい気持ちを煙草抜きで冷静に抑えられる人なんて、この世に何人いることやら。
(だから、喫煙撲滅に21世紀の100年間を全部かけたらいい、と思っている……前に書いて、今はめんどうだからそこまでは繰り返さないけど)

わたしは、行く先で煙草が、と思うと、外に出たくなくなってしまう。
家の中では煙草の臭いが絶対にしないので、よけいにあの臭いで服や髪の毛が臭くなってしまうのが耐えられなくなってしまう。

……って、こうやってしつこく「煙害」を言い立てるわたしの思考回路のどこかに、たぶんわたし自身が過去に喫煙者だったり、今も時々受動喫煙させられてしまうことからくる「ニコチン回路」があるのだろう。
つまり、わたし自身がたぶんある種の「ヤニ切れ」状態なのよ。
それも怖い。
わたし自身もニコチンという化学物質から今もまだ自由じゃないのかもしれない、と思うと。

人は誰でも「完全な自由」を手に入れることはできない。
それはわかっている。

けれども、少なくともわたしには、喫煙という手かせ足かせはいらない。
煙草からは、自由でいたい。
そんなもののせいで、人と争いたくもない。

2004年07月23日(金) ルーツ

(久々の「原案帳メール」から転載)

久しぶりにEROさんたちのライブを聞きに来た。

音に接してみると……

あうっ、気持ちいいっ!

こういう音が、わたしのVitamine。

不良少年のままのオヤジたち。
70年代のロックへの限りない愛情……なんてクサいな。
あの人たちは、そもそもそういう音楽でできてるのよ。

……
後半。
すごい!!!!
ルーツだぁ!
かっこいい!

……
終了後。
いろんな人と初めて話した。
いっぱい発見があった。

やっぱり、わたしは一人で歩かなくてはならないんだ。

来て、本当に良かった。

2004年07月22日(木) いろいろ〜

ハリー・ポッターの5巻、ペーパーバックで読み始めました。
第1巻は1ヶ月ぐらいで読めちゃったんだけど、その頃は予備校教師+電車で移動時間あり、という環境だったので、ある意味原書を読むには最適だったのね。
けれど、第2巻は読み終えるのに1年かかった……その間に翻訳版出ちゃった……
第3巻は読み始めてすぐに挫折して翻訳版読んじゃった……
第4巻は買っただけで読まずに、翻訳版だけ読んだ……
というようなわけで、わたしの英語力は着実に退化していってます。あーあ。
まだ最初の16ページくらいまでしか読んでないけど、まあぼちぼちと読みましょうか。

森博嗣『四季・春』読みました。
ミステリイというより、もう純文学に近い世界。
この人もB型なので(あれ?違う?いえいえそうだったはず!)、感性がストレートに届いてくる部分があって、それが心地よいです。
決して血液型決定論に陥ってしまいたくはないのだけれど、同じB型だと本当に楽……
「5人に1人」という人口比率のせいで、そういう実感がより強く感じられてしまうのかも。
わたしの人間関係も、B型の人がかなり多いです。
ただ、それって「B型以外はダメ」ということも意味していて、人間関係が血液型に左右されてしまうのはそれだけわたしが関係性を作るのが苦手、ということにもなってしまうのでした。
ま、そうは言ってもA型やO型やAB型のお友達だっているし。
そんなに自分をわざわざ狭めなくてもいいじゃん。

わたしが載った本
なんか、ちょっとしたブームにでもならないかな、などと思ってはみたものの、配本数よりも買いたい人のほうが多いらしく、店頭に並ぶこともなくて。
こんなに逼迫してしまうとは思ってなかったので戸惑ってしまいましたが、版元の双葉社に連絡して、いくらか取り寄せることにしました。

トップページでも宣伝しようかな。

8月1日「ftm日本10周年記念フェスティバル」に向けて
練習もしているけれど、あれこれ大変。
でも、共演してくれる人たちが本当にいい人ばかりなので、それが救い。

来れそうな人、ぜひおいでくださいね!

ありゃりゃ。宣伝で終わり? うーん。 まあ、いいや。

-----------------------

で、終わろうとして、ふと姿見を見てみたら、わたしなんて変な顔してる?
口はへの字形にまげて(歯を食いしばってしまってる)、眉を上げて、なんだか悲しそうな顔。

うん。
わたしは回復するのに、まだまだ時間がかかるのです。

ひけらかす必要はもちろんないけれど、わたしは自分の「被害者性」をもっときっちり自覚して、そのことにきっちり「怒る」ことが必要なのです。
肝心なことに怒れず、余計なことに衝動的な怒りを感じてしまう自分。
それを少しずつでいいから、適切な感情の動きができるように変えていかなければ……。

道はまだまだ長いみたいです。

2004年07月20日(火) (補足しますた)

昨日の記事にもう少し補足しますた。

あと、数値的には不妊手術は世界で最も一般的な避妊方法という文章の中にいろいろ出ていて、
どうやら1年あたりで世界人口は1億人以上増加しているらしい。
どうりで「世界人口50億」と聞いてからあまりたたないうちに
「60億」と言われるようになったのを知って戸惑ったのは無理もなかったんだ。
100億越えてしまったら、地球が人間を養うことができなくなってしまう。
つまり、人間が何をどうあがこうと存続できなくなる、っていうこと。
そこまでいっちゃう前に気付こうよ、みんな……

日本の「少子化対策」=「人口増加政策」は世界全体の流れに逆らっている。
わたしはそういう政策をとること自体に、強く反対する。
何度も繰り返すけど、少ない子どもを優秀に育てればいいじゃん!

あ、ぐぐったのを調べたらarsvi.com というところに、わたしが言いたいのと似たようなことを言っているページ、みっけ。

2004年07月19日(月) わたしのジェンダー観;少子化問題について

★1・わたしのジェンダー観
★2・少子化問題について
★3・ところで(Re:わたしのジェンダー観)
★4・Re:わたしのジェンダー観(7/20補足)



★1・わたしのジェンダー観

ジェンダーは世界最大の暴力装置である(蔦森樹)という論文を読みました。
わたしにとっては「暴力装置」「性は限りなく実体化した可変概念」などというごつごつした言葉がなじめない印象なのですが、どうやら言いたいことはほぼ同じらしいです。

わたしは、少なくとも20世紀まで、多くの人々の間で「常識」と思われることが多かった「性別=男か女かの二つに一つ」という概念は、性に対する思考が未分化で大ざっぱだったから、と考えています。
わたしには理由はよくわからないけれど、どうも人がものごとを考える時に「二項対立」で考えることが多い、という傾向があるような気がします。
本当は「二項」というほど大ざっぱではなく、確かに「両極端」はあるかもしれないけれどその中間もある、というのが現実です。
しかし、それをそのとおりに受け止めて考えるのが「大変」というかそこまで考えるだけの思考の精密さが、少なくとも20世紀いっぱいまでは不充分だった、ということなのではないでしょうか。

わたしの頭の中には、「性のあり方」を示す図として「つり橋」のイメージがあります。
つり橋の両端にある柱が「典型的な男/女」です。
ただし、実はこの「典型」は実態ではなく一種の「幻想」で、現実には存在しない、と考えます。
現実に存在する「性」は、両端の柱に結び付けられた「ロープ」です。
ロープのそれぞれの端が柱にぐるぐると何重にも結び付けられているように、現実の性も柱に密着するように存在する部分がいちばん長くて量も多い。
でも、両端の柱の間には、1本(から数本)のロープがずっと渡されています。
ちょうど現実の橋のロープが真中に行くほど低くなり、両端に近ければ近いほど高くなるのと同じように、両端に近づくほど人数は多く、真中に近いほど少なくなっています。
両端を結んで渡されるロープにあたるのは、典型的な男女ではなく「非典型的な性」なのです。

20世紀までは「♪男と女の間には深くて暗い河がある」などと歌われたように、河の両岸を結ぶ橋がなかった、または橋があるということが認知されていなかったのだろうと思います。
けれど、実は途中につり橋があったのです。
たまたまそれを知っている人がいなかったり、いても大きな声で「ここに橋がある」と言わなかったりしたのでしょう。
この掛け橋を往復すれば、もっともっと男女相互のことが理解できるようになる、とわたしは思います。

掛け橋の途中のロープを形成している人々は、同性愛(人口の3〜5%)やインターセックス(同じく0.05%)、性同一性障害(0.01%)と言われているように、とても少数の人たちです。
もちろん、決して(わたしも含めて)このような人々=セクシュアル・マイノリティをあげつらってほしい、というわけではありません。
でも、セクシュアル・マイノリティの人々を理解し、受け入れることのできる「常識」を多くの(少なくとも95%以上の)人々が持つことができるようになれば、古臭くて強制的な「ステレオタイプ・ジェンダー」にがんじがらめに縛られて不本意な一生を終える人が減って、多くの人々がより幸せに生きていけるようになるのでは、とわたしは思います。

おそらく、人間以外の動物では典型的な「雄/雌」のどちらにもあたらない性を持つ個体は、それなりに受け入れられたり受け入れられなかったりしているでしょう。
ただ、人間の場合、それをある程度理屈つけて考えないと受け入れる思考ができない……あ、否定文じゃ嫌なので、言い直そう。
人間の場合は、思考によって非典型的な性を持つ人々のことを受け入れるだけでなく、典型に近い人々自身もより豊かに、幸せになれるはず、と思っています。

---------------------------------

「ジェンダーフリー」という言葉がどうも一人歩きして、Googleで検索してみても否定的な言説ばかりが飛び出してきて気持ち悪いと思ったけれど、ジェンダーフリーは決して「男らしくしたい」とか「女らしくしたい」ということを否定するものではない、と思います。
ただ、その人ごとに異なる自分自身のジェンダー(または個性)を、ステレオタイプジェンダーだけを基準にして「おかしい」とか「止めろ」とか言うのを止めてほしい、というだけのことなのではないでしょうか。

アンチジェンダーフリーの人々は往々にしてヒステリックに見えて、何かコンプレックスでもあるのかしら、と思わされることが多いけれど、その人1人だったらいくら極端に男ぶってみたり逆に女ぶってみたりしてもかまわないと思います。
それが他人への強制になったり、あるいはたとえば「女は男に従え」などという、他人をも巻き込むような価値観の押し付けになるのでは困る、ということです。

アンチの人がヒステリックになる理由は、たぶんこんなものでしょう:
「自分はステレオタイプジェンダーを自分にも他人にも押し付けることでぎりぎりやっていけるのに、それができなくなったら困る。生きていけなくなる。」
または
「ジェンダーフリーというのは、自分が他人にステレオタイプを押し付けているのと同じように、ジェンダーを完全になくすことを押し付ける思想だ。押し付けられてたまるものか!」
とか。
心貧しいものです。
ジェンダーフリーって、そんな懐の小さいものじゃないんだから。

あと、滑稽だとしか思えないのが、アンチな方々の言う「男らしさ」「女らしさ」が、ステレオタイプと呼ばれている割には一定ではなく、それを言う人ごとに千差万別だ、ということ。
つまり、実はステレオタイプな「男らしさ/女らしさ」というものも、その人ごとに多様なのです。
たまたまある人の発言力が強くなったりするとその人の抱えるステレオタイプがさも誰にでも当てはまるもののように扱われてしまうようになるかもしれない。
逆にステレオタイプに従おうとするあまりに自ら発言しなくなってしまった人たちが、自分にとって不当としか言いようのないステレオタイプを自ら受け入れてしまうこともあったかもしれない。
このように、「ステレオタイプ」と言っている割には「これこそ男らしさ/女らしさ」というものも、不安定で多様なものでしかないのです。

自分の信じるステレオタイプが実は万人に当てはまるものなんかじゃない、と知ったら、アンチな方々はいったいどう思うでしょう。

---------------------------------

わたしの考える「ジェンダーフリー」は、決して生物学的な「性差」まで解消してしまおうとするものではありません。

産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。
それを止めろとか変えろとか言うジェンダーフリー論者など、この世にいるのでしょうか。
産むのは女、それをサポートするのは男。これは「典型的な性差」として当然認めるべきことでしょう。
(医療の発達で「男が産む」という時代もやってくるかもしれませんが、21世紀初めに生きるわたしには今のところ想像が及びません)

ただ、そのために社会がどういうシステムであるべきか?
女が産み、「育て」、男は「働く」……
「子どもを育てる」ということと「外で働く」ということが、それこそ二項対立になってしまっているのはおかしいのでは?
「子どもを育てる」のは、女も男も、どっちもやるべきこと。
働きながら育てる女が(かなりたくさん)いるように、男も子育てと労働を両立していい。
いえ、現実には女は既にそれをやっている人が多いけれど、男でそれをできている人がまだまだ少なすぎるようですね。
男女どちらにもできるはずのことを片方しかできないようにしてしまうのがステレオタイプの一つだと思います。
生物学的性差を社会構造の中へ無制限に敷衍していってしまうのがステレオタイプジェンダーの問題点であって、ジェンダーフリーはそこを解消しようとしているだけなのではないでしょうか。

男よりも労働能力の優れた女なら、男を家庭に「専業主夫」としておいて、自分が働けばいい。
それをもしも男が恐れるのだとしたら、それは自分の自信のなさの表われでしかなく、男自身がコンプレックスを乗り越えて変わっていくしかないと思う。
コンプレックスを助長するような周囲の反応(現実には「主夫」をやっていても、「仕事もしないで家でぶらぶらしている」としか言われないケースがあんがい多いのではないでしょうか)も問題だと思います。

何百年かたったら、生物学的に生まれた時の性別とは無関係に「子を産むつもりのある人=(とりあえず)女(と呼んでおこう)」とでもいうような常識が成り立ち、それはたとえば学齢を迎えた後なんかに自分自身で決めることができる…… というような世の中に、なっているかも。
わたしがその時代に生まれたら、きっと「産む」ことを選択するだろうな。
でも、だからといって、自分がやりたいこと(=仕事だったり趣味だったり)を放棄するようなことはしないだろう。
両立して生きるだけの能力を、貪欲に学びとってやる。きっと。

この記事のトップへ
ページのトップへ



★2・少子化問題について

このところ、原案帳#22でもしょっちゅう言ってるけど
わたしは「少子化対策」なんかする必要はない、と思っている。

理由は極めて単純。
「人口が増えないとこの国の発展・安定が維持できない」というのが根拠の薄い思い込みでしかないから。

「右肩上がりの発展」がなければ「衰亡」なんて、帝国主義時代(19〜20世紀)の亡霊みたいなものじゃん。
21世紀なのにまだそんな考え方しかできないようじゃ、この100年は乗り越えられませんぜ、ダンナ。
「規模拡大」ということを全く含まずに穏やかに安定した状態を作り出すことのできる発想がなければ、
人類はただ単に滅亡を早めるだけだと思う。

少ない人口でやっていける国土と社会を作っていけば、いいじゃん。
こんな狭い国土に今の人口、既に多すぎ。
自然に減っていくのなら、殺し合いして減らす必要もなくて、都合がいいじゃん。
今ならまだ、日本全土が「過疎化」してゴーストタウンがあちこちにできても、
気候の砂漠化がそれほど進行していないから、
放っておいて100年もすれば森にはならなくても草ぐらいは生えているでしょう。

世界的にも人口爆発が恐れられているのに、
自分の都合ばかりで少子化を恐れるのは、あまりにも近視眼的で自分勝手。
そんなに人口減が嫌なら、人口爆発している現場から子どもをたくさんもらってくればいいじゃん。
そのままその地で生きていこうとしても餓死が待っているだけの子どもたちを何万人でも「日本人」として迎え、
それこそ少ない人口でも充分やっていける優秀な人材になるように教育すればいいじゃん。

「日本人の純血が汚れる」などと寝言を言う人、
その「日本人」の遺伝子の6割以上は中国や朝鮮半島の人たちと同じだ、という事実をどう思う?
「日本固有の遺伝子」を持つ人なんて、確かほんの2、3%しかいない、って聞いたよ?
(きっと100人に2、3人しかいないような独特な姿なのではないでしょうか)
「昔から日本人として生きてきているから、そういう人(=日本人全体の6割にものぼる『帰化人』)は別」とでも?
その「昔」ってどれくらい? 300年(江戸時代)? 500年(戦国時代)? 1500年(大和時代)? それとも100年(明治時代)? 50年(戦後)?
決められるの、そんなこと?
幻想にしがみつくのは止めようよ。
(ついでに言うと「北方領土返還」を実現した暁にはなんと!「ロシア系日本人」が誕生する可能性が! 
それはいいわけ、「純血」の好きな人たちは?)

多様性を喜びあおうよ。

「量」に頼らない幸せを、探そうよ。見つけようよ。

(あーあ、なんかまた暴走してしまった……)

この記事のトップへ
ページのトップへ



★3・ところで

★1・わたしのジェンダー観

>産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。

と書いたのだけど、じゃあわたしはなんなのか。
わたしは「非典型的な性の一人」です。
仕方ないじゃん。産むことはできないんだもん。

じゃあ、不妊の女も「非典型的」なのか。
……っと、そこまで言うつもりはないんだけど……

そうか。「典型」「非典型」という、それこそ「二項対立」を持ち出してしまうこと自体が、ツッコミどころになってしまうのだった。
なーんだ、自分で自分の墓穴を掘ってるじゃーん。
たぶん、「典型」「非典型」にちゃんとした定義を与えようとすればするほど、更に二項対立的な決め付けにはまっていってしまうんだろう。

ああ、多様性が多様性のままで、一人一人の性がそのままで、尊重されるような「常識」がほしい!

……やっぱりダメねえ。
思いつきだけでだだだーっと書いてしまうのは。

この記事のトップへ
ページのトップへ



★4・Re:わたしのジェンダー観(7/20補足)

>産むことができるのは生物学的に典型的な「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく典型的な「男性」だけでしょう。

と書き、その後「おかしい」ということだけは気付いたので★3・ところで

>「典型」「非典型」という、それこそ「二項対立」を持ち出してしまうこと自体が、ツッコミどころになってしまうのだった。

と書いたけれど、そうじゃなかった。
「典型的な男女」(より一般的な言い方をすれば「ふつうの男女」)というものを設定するこ自体とがおかしいのだ。
「二項対立」がおかしいんじゃなくて、それ以前に「典型」(=ステレオタイプ)というものがあるかのように考えることがおかしい。
わたしもついつい古い常識に引き戻されて考えていたところがあるけど、そこのところに注意深くならなければいけなかった。

本当は。
「典型」なんて、実在はしない。
「ふつうの家庭」というものが実は存在しないのと同じこと。
(何も問題のない家庭など存在はしないし、「波風が立たない、穏やかで幸せな家庭」を「ふつう」だと考える人がいたら、それはあまりにも浅はかだ。
そんなとびぬけて幸せな家庭が「ふつうの家庭」であるはずがないじゃんか!
「そりゃ大したことじゃないけどうちにもそこそこ問題はあるよ」という人、「問題がある」のにどうして「ふつう」と言い切れる?
「ふつう」という言葉がいかに実体のないものの妄想か、わかっていただければ幸いです)
性についても、例の「つり橋」の喩えでちゃんと説明していたとおり、「典型」にあたるのは「柱」の部分だけど、それは「ロープ」の部分とは違った材料で作られている、つまり実体ではないもののことだったのだ。
いかにその柱にしっかり巻きついているつもりでも、柱の木質の中に食い込むことはできない。
柱=プラトンのイデアみたいに「抽象的に思いつくことはできても、決して現実に見ることのできないもの」なのだ。
「典型」は、実在しない。
あなたの腕に生えている毛の濃さは「典型的な女性/男性」のそれだと言える人、いますか?
「そんなの、人それぞれでしょう」
という答えが返ってくるだろう。
そうそう、それでいいの。
現実に存在するのはあくまで「人それぞれ」であり、ひとまとめにして「典型」なんて言える状態は一切存在しないのです。

さて、それでさっき引用した言葉を、より適切に言い換えれば……

産むことができるのはある面で生物学的な「典型」に近い機能を備える「女性」だけだろうと思うし、「産ませる」ことができるのも同じく生殖機能の点で典型に近い「男性」だけでしょう。

「ポリティカル・コレクトネス」みたいでなんだかうざったいけど、要するにたまたま生殖する機能を備えているのも、決してそれが「典型」とか「ふつう」じゃない、っていうこと。
ええと……調べてみたけど、いったい人口の何%くらいが「不妊」なのか、すぐには出てこない。
っていうか、「生殖しない/できない」ということの中に、既に多様な条件が入っている(たとえば結婚しない=生殖しない、という人だって当然いる)ので、それやこれやも含めて結局「生殖しない」で生きている人、生きるのを終えた人、なんて、下手すれば人口の数十%を占めてしまうのではないか。
(少子化がキライな人たちはそんな数値誰にも見せたくないでしょうね)

生物の本質が「生殖」にある、だから本来の姿は生殖できるものがそれにあたる(=「生殖するのが典型的な性のあり方」)、という価値観は一見もっともらしく聞こえるけれど、生殖できるということ自体が生殖しない個体によって多様性をもたされ、支えられている、ということも考え合わせなければいけないと思う。

多様性を喜ぼう。
これこそが豊かさなのだ。

この記事のトップへ
ページのトップへ



更に更に、補足(ゔ〜〜くどい……)

2004年7月28日の記事で、更に補足しますた。

ひとことで言えば「産む=女」なんて、そんなのとんでもない話、ということ。
全体的に↑の記事は雑すぎたと思います。

2004年07月16日(金) 今日から施行<性同一性障害特例法

性同一性障害 30人のカミングアウト
↑アマゾンでも買えます! (価格間違っていて、本当は1680円税込み、なんですけど)

ところで、今日から「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(通称「GID特例法」、以下同じ)が施行されます。
施行に伴い、申し立てのための細かい書式などを定めた「厚生労働省令(このリンクはgid.jpのHPに飛びます)」も出されました。

わたしはどうすればいいのでしょう。
GID特例法の中にある要件の一つ「現に子がいないこと」に引っかかってしまい、わたしは戸籍変更の申立てができません。
(無理に申し立てしても、間違いなく「不許可」になるでしょう)
で、いろいろ考えたけれど、今はある程度整った書式の診断書(「子無し要件」さえ外れれば戸籍変更が許可されそう、というようなもの)を作ってもらうために、負担は大きいけれど「ジェンダークリニック」に参加している精神科医のところに通うことにしようか、と思い始めています。

今更遅いんだけど、わたしが改名の申し立てをした時、なんだかすごく時間がかかったと思ったら長々とした「審判書謄本(初公開!)」というのが出てきて、そこにこんなことが書いてあったんです。

---------------------------------

3 当裁判所の判断
(1)略
(2)(略)

(3) 申立人の本件申立ては、申立人の真摯で誠実な願望であると認めることができる。ただし、現在、本件のような場合でも、戸籍の訂正は、認められた例がなく、名を変更しても、依然として申立人にとって不都合は継続せざるをえないが、それでもなお、名の変更を求めているのであって、以上前記の事情を総合すると、本件申立てについては、戸籍法107条の2にいう「正当な事由」があるものということができ、申立人の本件申立てを認めることが相当である。


---------------------------------


そうか、この一文を使って「特例法」への活動をしていくという手もあったんだ、と今ごろになって思います。

現行法で申し立て、許可をいただける人には、本当におめでとうございます。

わたしはその後のために、少しずつ、できることをやっていこうと思います。

2004年07月14日(水) バスティーユ!

7月4日はアメリカ合州国独立の記念日だったんだけど、
今の世界の様子を見ていると、素直にお祝いできない気分だった。
むしろ「いっそ先住民に返せよ」とか言いたくなってしまう。
あの国の2億人(くらいだったよね)を養うのに加担するのが、ばかばかしい……

で、一方。
たまたま日本とはあまり関係が深くないから気にならないだけかもしれないけれど、
フランス革命については、(正直幼稚かなあとも思うけど)憧れもあるし、なんだか素直に喜べる。
つい数日前に宝塚のドキュメンタリーで『ベルばら』やっていたのも見たし。

2004年07月13日(火) 書きますた。

2004年6月23日の記事(ライブのこと)、書きますた。

「〜ますた」という言い方、2ちゃんねるの影響なんだよね……
現在形と過去形が微妙に入り混じってる表現。
もちろん今のところは「正しい日本語」ではない。
でも、もしかしたら「ら抜き言葉」が実は「正しい日本語」を強く反映した表現だった、というのと同じように「実は」ということがあるかもしれない。
……ていうか、それ、ムリ。

あとは6月20日の記事だ……けれど、なんかいろいろあって書ききれないなあ……

2004年07月12日(月) うう〜ん、やっぱり宝塚はいいなぁ〜

NHKスペシャル』で、タカラヅカ(宝塚歌劇団)のことを取り上げているのを見た。
ああ〜〜〜、あれ見ていると、ついつい入り込んじゃうんだよね〜〜〜……っていうか、
それにハマってしまう自分が嫌で、いつもはできるだけ見ないことにしているくらい。

だってさ…… 「ベルばら」やってた30年前は「男の体であんなことできるわけない」と思ってたし、
本当はわたしもあんなふうにキラキラした衣装をつけて、
素敵な歌や踊りがやりたい、なんて思っているなんて、
誰にも言えないじゃないの。

でさ、ようやく女の体になれたと思ったら、もうとてもじゃないけど
宝塚に入れるような年齢じゃなくなってしまっていた。
太ってきちゃったし。

なんで15歳で性転換できなかったんだろう、なんて思ってしまうわけ。

わたしが「女優」だの「ミュージシャン」だの「作家」だの言って騒いでいるのは
元を正せば宝塚への憧れ、そういうものを(見習うのも無理だから)自分なりに追求したい、という
欲求からだったのかもしれない。
っていうか、そうとしか思えなかったりして。

そんなに影響大きかったのか…… 自分でもわからなかった。
自分のことがよくわからないのは、いけなことだと思う。
自分をないがしろにするなんて。
自分の思いを大切にできるのは、自分だけ。
他の誰も、わたしに代わってわたしのことを大切に考えてくれることなんか、できない。

親は自分よりも子どものことを先に考える、なんていうけれど、
それもとんでもない思い違いだ。
親は自分の都合のために子どものことを考えているに過ぎない。
所詮自分の価値観でしか考えられないのだから、それが本当に子どものためになるかどうかなんて
わかるはずがないし、
自分の価値観すらなければ、それはいいかげんにしか考えていないのと変わらない。
たとえ子をもつ親でも、自分の考えが自分勝手なエゴイスティックな思い込みでしかない、という
限界をわきまえた上で自分の考え、価値観や判断を子どもに伝えていくべきだ。
それは決して、自信のない、あやふやな態度とは違う。
限界を知っているからこそ、穏やかであることができるのだろうと思う。

ああ…… 思い出すなあ…… 
あれは確か、1974年の冬休みか春休み(?どっちかわからないけど、
もしかしたら1974年の終わり頃のことだったのかもしれない)。
学校がお休みだったので、昼間NHKで放送された宝塚の舞台を、最初から最後まで見た。
「ああ、わたしもあんなふうに美しくなって、歌ったり踊ったりしたい」
と、さんざん思ったし妄想しようとしたけれど、
「おまえの体じゃ無理だよ」
という冷めた声も、どこからか聞こえてくるようだった。
その頃(確か中2ぐらい)にはもう身長が170cm前後あったし、体はどんどん男っぽくなっていってしまうのだった。
(今思うと、あの頃「なんでこんなふうになっちゃうの!?」と困惑していたのよりも
更に男じみた体になっていってしまったので、
まだまだ甘かったんだよね、きっと)

あの頃に自分の望みがかなえられる可能性がある、とわかっていたら、
わたしはもっと素直に生きることができたに違いない。

もう、仕方ないんだけどね。

↑1976〜77年頃の「原案帳」みたいなウダウダした内容になってしまった。
ま、いいや。あの頃の虚無に、今浸ってみるのも、ね。
(そうそう、あの頃って「虚無」とかそういう言葉が好きだったなあ……
最近流行りの「ゴス・ロリ」とどこか似ているかも?)

2004年07月11日(日) Re: 選挙結果

「民主党大躍進!」「自民党敗北」…… なんて言うけど、改選されていない議席数も合わせれば、所詮過半数は与党なんでしょ。
わたしにとっては大いに不満な内容。
しかも、民主党の議席数が大きく伸びた大半は、実は共産党の票を食ってるだけじゃん。
野党どうしで食い合ってるだけ。

構造的にこの国がアメリカ合州国の「属国」になっている以上、日本の政治において結局「アメリカにばっかりいい顔したがる政権」しか成立しないのも当然。

たとえ(これもアメリカの真似でしかないけど)「二大政党制」なんてことになったとしても、相変わらず政権政党はアメリカに媚売ってしまうだろう。
(10年ほど前の「社会党連立政権(当時)」を思い出してほしい。
首相に就任した社会党左派の村山氏の、自衛隊やアメリカに対する態度の豹変ぶりが、
日本の政権がいかにアメリカに縛られたものかを恐ろしいぐらいはっきりと物語っていた)

時間はかかるが、これを変えていかなければ、日本の捩れた状況は決して変わりはしないだろう。

-----------------------

「日本はアメリカの、相手にしてもらえない恋人(っていうか妾=めかけ)」という言葉を思い出す。
構造の古さを考えると「めかけ」という古臭い言い方こそ適切だろう。

ヨーロッパが実家。その中で、イギリスが母。

北米大陸には複数の「妻」がいる。中南米諸国は手なづけた養子たち。

アフリカ大陸は、本当は「実父」なのだけれど、今のところは「使用人」の立場に甘んじている。

アジアは夜遊びの場。以前は東南アジアで「火遊び」していたけれど、追い出されてしまったので今は西アジアを自分のものにしようとしている。

アジアで唯一「自分のもの」にできたのが日本。
でも刺激が少ないので、今はもう飽きている。
(本当は「簡単に言うこと聞かない」のがアメリカにとってたまらない「刺激」なんだけど、皮肉なことにそのことへのちゃんとした自覚はない)

白人のドラ息子がいい気になっている図が思い浮かぶ。
日本の政治だって、選挙だって、所詮はそんなもの。
そういうところはそのままで、っていうよりそれを隠し立てするために「日の丸」だ「君が代」だって、バカみたい。

-----------------------

わたしは何度でも言うよ。
日の丸の上に空色の鳩のマークを入れようよ。
日本は世界に誇る「非戦国家」だ、って世界中に宣言しようよ。
国家が軍事力を持たなくてはならないという常識は、もう古いんだよ。
日本国憲法は歴史の先取りをしているのに。
改正するなら、そのことをちゃんと自覚してからにしなよ。

-----------------------

そうそう、イラク(や西アジア各地で)のテロは、CIAが仕組んでるんでしょ?
アメリカの産業経済を保つために。
それも、早く変えてもらわなくちゃね。
今や、世界中のどの国も、自分一人で勝手に生きていくことはできない。
ちょうど、一つの国の中で自治体が勝手にやっていけないのと同じこと。
規模の違いによる質の違いは(それがちょうど「軍備」のように見えることは)もちろんあるだろうけれど、
地方自治体どうしが戦闘状態に陥らないのと同じように
国家間の戦争も、遅かれ早かれなくなるはず。
それを阻むものがあるとすれば、それは軍事産業への強い「依存」だと思う。
国家間、あるいは国内での戦闘状態が、いつも世界中のどこかで起きていなければ
産業経済が立っていられないなんて、
妻を殴らないと自分のプライドが守れないDV男と同じ。
そういう「依存症」状態から、早く脱却してほしい。

-----------------------

イスラエルが、かつて自分たちに対してドイツがしていたようなことを自らパレスティナに対してやっているのを見ていると、本当に胸が痛む。
ああ、これが「連鎖」なんだ、と思う。
被害の自覚を薄れさせてはいけない。
でも同時に、自分がもう被害者ではなくなっている、
自分に対する直接の加害者はもうここにはいないんだ、ということへの自覚も
なくてはならないと思う。

絶対に、とは言わない(言ってはならない)が、被害者はいろんなことについてちょっとずつ注意深くしていないと
あんがい簡単に「加害者」になってしまうようだ。

2004年07月07日(水) 七夕だったりするし

今日は、七夕。 「棚ボタ」ぢゃないよ〜。

1年に1度会えるの? まあ、なんて幸せなこと。

一生会えないこともあるよ。

来世で会える?

織姫と彦星は、宇宙が今のかたちである間ずっと、
とにかく1年に1度しか会えない。
わたしにとっては気の遠くなるような(そうしてほとんど無関係な)ことだけど
宇宙そのものにとっては
「ちょっとした日常」なんだろうな。

わたしたちは儚(はかな)い。
でも、その儚い生を、せいいっぱい生きる。
大局的に見たら矛盾だらけの存在、生き方でも、それは仕方ない。
今できることを、せいいっぱいやって、生きる。

たぶん、みんな、そうしてるんだよ。
たとえそういうつもりがなくても、ね。

わたしは人間が大嫌いだし、大好き。
愚かさ、頑固さ、弱さ、傲慢さ、
そういうもの全部が
大嫌い!!!! 
しかも、
大好き!!!!

わたし自身のそういうところも、
大嫌い!!!!
でも、
……好き。
だって、だから人間なんじゃん。
不完全でなくなったら、そんなのもう人間じゃないもん。
どんなに突っ張って「これでもう絶対大丈夫!」なんて思っても
いつも必ず何かが抜けていて、後から「さあ困った」なんてことに。

わたしは人間であることが嫌で嫌でたまらないけれど、
でもだからといって人間以外の何かになりたいとも思わない。
(サルになりたい、と思うことはあるけど、実は今でももうサルの一種だしね)
自己嫌悪に始終苛まれながら、
それでもいーかんじに苦笑して(いやその「いーかんじ」でありたいけどさ)
これからも歩いていくんだろうなあ。

一生会えない人たちの思いを胸に。
(「あっちに行ってから」会える人たちもいるけどね。
それは信じてるし、楽しみ♪)

2004年07月04日(日) わざと悪い子にならなくても

★1・いい子
★2・Re:いい子
★3・Re2:いい子



★1・いい子

もしかしたら。

もしかしたら……

もしかしたら?

わたしは自分のことを「DV加害者だった」などと言っているけれど、
そんなふうに思ってしまうこと自体が間違っているのでは?
誰かから「おまえは加害者だ」と言われるまで、
黙ってほうっておいたほうがよかったのでは?

多くの人は「いい子」になりたがる。
自分にとって都合の悪いことは隠して、人には知られないようにするものだ。
それは、神さまじゃない人間だったら誰でもそういうところはあるだろう。
自覚なしにそういうことをしながら「自分は間違ったことをしてはいない!」と言い張る
わたしから見るととても憎しみを感じてしまうような人もいた。
そういう人ほどわたしに向かって「おまえは間違っている!」と言い立てるのだ。
わたしだって無自覚にそういうことをしてしまっているところが全くないとは思わない。
ただ、できるだけ謙虚になりたい、とは思う。あんなふうにはなりたくない。
(あ、話が逸れた)

ただ。
わたしはもしかしたら、「いい子になりたがる」ところが欠けている?
それとも、「悪い子になりたがる」?
どうも、そういうところがあるようだ。

わたしには「悪い子ならば、かまってもらえる」と思っているところがある。
これはいわゆる「AC(アダルト・チルドレン)」の問題だ。
父親は、わたしが小学校にあがったくらいから、わたしのことを問題視するようになった。
理由は、(性同一性障害のこともあるのかもしれないけれど)正確にはよくわからない。
まあ、何が問題なのかわたしにもわかるようになれば、
その問題を改善するようにわたし自身が努力し始めただろうし、
そうしたら父だって繰り返し繰り返し
「里花(とは言ってなかったけど)がこんなふうになってしまったのは
おまえ(=父の後妻でわたしの実母)のせいだ!」
と言い続けることもなかっただろう。

ただ、父の言うわたしの「問題」が何なのか、わたしにはついにわからなかった。
父が死ぬ間際、わたしに遺した言葉は「バカ」の2文字だけだったし。
だから、わたしの心に残ったのは
「問題のある悪い子は親にかまわれる」
ということだけだった。
わたしは自覚してわざとやっているわけではないけれど、
人からかまってもらうためにわざわざ「問題のある、悪い子」になろうとするところがあるのだ。

念のため、たぶん「バカじゃねーの?」と思う人が多いだろうから繰り返すけど、
本当に、本当にわざとじゃないの!!
だから、自覚できそうなところでは、わたしは決して
「悪い子」とか「悪者」とかになろうとなんかしてはいないの!!
知らないうちに、気が付くとそういうことになってしまう、そういうことがあるだけなのーーー!!

こら、落ち着け>自分。

わたしが自分のこと「加害者」だと言いふらすのは、
「悪い子になって世間にかまってもらう」というところがないか?
今はもうDV加害なんて決してやってないんだし、
なんだか「本物のDV」ってわたしがやったことなんかよりもずっとひどいことみたいだし。

確かに、結婚して一緒に家庭を築こうとしていた彼女には、とても悪いことをしてしまったと思う。
でも、それを「DV」と呼ぶべきなのか?
それに近いことをしてしまったことがあるのは事実だ。
でも、そういうことにだけ注意を向けて、ただ「悪かった、悪かった」と思っているだけでいいのか?
彼女は、そんなことも含めて、わたしに対して「もうかかわりをもたないで」と言ったのではなかったのか?

わたしは、自分が幸せになることだけを目指せばいいのではないか?
そのことを「身勝手」とか「わがまま」とか呼ばわる偽善的な人々など相手にせずに
そういう人だって結局は自分のことしか考えられないのと同じように
自分自身をいちばん大切にすることを目指すべきなのではないか?

この記事のトップへ
ページのトップへ



★2・Re:いい子

上の記事を書いた理由っていうか原因は、
どうも「本物のDV思考」を垣間見たからのような気がする。

でも、わたしが決してそんな思考の罠に落ちてしまうことがないのかといえば、
それははなはだ怪しい。

たとえば。
DVの源流のかなり大きなものに「戦争」があるのは間違いないと思うし、
だから戦争が起きない世の中を目指すのは当然だと思っているけれど、
自分のDV(ととてもよく似た)行為や、それを正当化する思考パターンなどを
全て「戦争のせいだ」=「戦争がなくならなければ自分も変わらない」と
言ってしまうのは、それこそが「DV思考」と呼ばれるものだと思う。
戦争があってもなくても、自分が変わる努力はできる。
たとえそれが、他ならぬ戦争のせいで限界のあるものだったとしても
その努力を否定するには当たらない。

自分がいくら変わろうと思って努力しているつもりでも、
何かに阻まれて変わることのできない虚しさを思い知らされた時、
それを何か他のもののせいにして
「自分の責任で不完全になってしまうのではない」と言いたくなってしまうのは
「責任」や「完全さ」を強く求められる企業社会では仕方のない思考パターンなのかもしれない。
けれど、他の何かに「責任」をなすりつけて自分が「完全」でないことを言い訳し、
結果的に本来自分が向き合わなければならないことからも逃げてしまっては
元も子もない。

むしろ、それこそ企業社会では「許されない」ことのように見えてしまうけれど
そんな見せかけに騙されたりせず、
自分がここまではできているということを「評価」して
「完全じゃないけどここまでできてるんだからいいじゃん」
といいかげんに思うようにするほうが
たとえばDVを防ぐのにもずっといい、と思う。

人間には完全な「白か黒か」は不可能だ。
いつまでたっても今いちよくわからない「灰色」がずっと続くのだし、
それは決して悪いことじゃない。
少なくとも、自分が人間であるということを肯定しようと思ったら。

この記事のトップへ
ページのトップへ



★3・Re2:いい子

いやー、そういえば、もう一つあったっけ。
本当は先週の日曜日に放送されていたんだけどわたしは見てなくて、
昨日の夕方くらいに見たんだけど、
NHKの大河ドラマ『新撰組!』で、とうとう芹沢鴨が死んだんだよね。

佐藤浩市の演技がとてもよくできている、ということもあるけれど、
あれって典型的なアルコール依存症の当事者の姿だと思ったし、
あの向こうにはきっとDVもあったんだろうな、と思う。
ドラマの中の芹沢はなぜか決して愛人のお梅には手を上げなかったけれど、
そこまで生々しくしてしまったら、ドラマのテーマまで変わってしまったかもしれないので
それは仕方ないでしょう。

わたしはある面で佐藤浩市の芹沢鴨に共感した。
あれほどプライドがあってしかもあれほど不遇な道を強いられていれば、
そりゃ世の中を全て恨むような生き方になってしまうのも無理もないでしょう。
でも、その「共感」は、わたしの周りに何人かいたああいう人たちのことを思い出してのものだった。
わたしはああいう人たちから、とても苦しめられ、辱められながら生きていた。
自分も同じような人間になるのだとしたら、生きてなんかいたくないと思っていた。
なぜそこまで思ったのかといえば、わたしの中にもあんなふうになってしまうための「種」がある、と
感じていたからだった。

それが生来のものだったのか、それとも後天的に与えられたものだったのか、
それはわからない。

ただ、少なくとも今は、自分がそういうこととはほぼ無縁と言ってもいいような生き方ができている。
そのことに、心から感謝したい。

-----------------------

……って、それ書いてから改めて佐藤浩市の芹沢鴨をNHKのサイトで見てみたら、
〜〜〜〜〜ううーーーん佐藤浩市、カッコイイ!!
芹沢鴨の破滅的な生き方を肯定するわけにはいかないけど、演じてる佐藤浩市は無条件にカッコイイよぉ〜〜〜。
実はそれが言いたいだけだったりして。

この記事のトップへ
ページのトップへ

2004年07月02日(金) 神さまはセクシュアルマイノリティを愛するか

★1・セクシュアルマイノリティと宗教



★1・セクシュアルマイノリティと宗教

(いや、なんでこんなこと書きたくなったのかというと、職場で社会科の「倫理」に出てくる「宗教」について生徒と話す機会があったから、というのが一つ、
あと一つは……やっぱり自分がずっと感じてきた「自分は神さまに背いているのか」という疑念に答えを出したい、と思っているから、ということがあるのでしょう)


Q22 聖書には「同性愛は罪である」と書かれてあるのでしょうか?
Q23 キリスト教は同性愛を受け入れていますか?
Q38 宗教では、性同一性障害を認めているのですか?

以下引用---------------------------------
(『同性愛って何?』(緑風出版2003年)より←クリックするとアマゾンで注文できます)

Q22 聖書には「同性愛は罪である」と書かれてあるのでしょうか?

聖書には「同性愛」という言葉自体は出てきませんし、「同性愛は罪である」という言葉もありません。にもかかわらずキリスト教会において「聖書に『同性愛は罪である』と書いてある」と語られることがあります。その際、根拠に挙げられるのは「女と練るように男と寝てはならない」(旧約 レビ記18章22節(引用者注―原文漢数字ですが改めました))などの言葉ですが、この言葉を見ても解るように聖書が書かれた時代には「同性愛」という概念がはっきりしていませんでした。

また、……(中略:「ソドム」という町が神によって滅ぼされたのが同性愛のせいだとは書いていない、という内容)……

また、……(中略:こんにち「男娼」「男色をする者」と訳されている語はもともと何をさすのかわからない語、という内容)…… ……この二つの言葉(=「男娼」「男色をする者」―引用者注)は、15世紀以前には同性愛に関する単語としては訳されてはおらず、同性間の性行為を表すものと理解されるようになったのは、同性愛を「性的倒錯」として排除する考え方が定着してからのようです。このことからも、聖書の言葉自体にはそのような意味はないにもかかわらず、解釈の歴史において、ホモフォビック(同性愛嫌悪)な考え方が選考して、解釈されるようになり、その解釈が定着してしまったことが解ります。

つまり、「聖書に『同性愛は罪である』と書いている」というのは、聖書が本来伝えようとしたものではなく、後の時代の人たちのホモフォビックな考えに基づく間違った解釈に過ぎないのです。


聖書を読むときに注意しなければならないことは、聖書の言葉には、それぞれの歴史的な背景があるということです。それらは、特定の時、特定の場所、特定の状況に生きる特定の人々に宛てて書かれた「神の言葉」なのです。ですから、どのような状況の中で、どのような意図をもって書かれたのかを考えなければ、聖書の言葉は本来の意図から離れてしまいます。また、聖書はそれぞれの物語・教えから成り立っていますので、その物語や教え全体で何を語ろうとしているのかを読みとらなければなりません。ですから、一言だけを取り出して、「聖書にこう書いてある」と語ることは全く意味を持たないことなのです。つまり、字面だけをとって「聖書には『同性愛は罪である』と書いてある」と解釈し「同性愛は罪である」と断罪することはできません。


聖書における「罪」とは……
もう一つ気を付けなければならないことは、「罪」という概念についてです。聖書における「罪」おちうのは、社会的、倫理的なものではなく、神様との関係性を表すものです。にもかかわらず、イエスの生きた時代にも、社会的、倫理的な価値観と聖書における「罪」を混同し、それによって「罪人」というレッテルを貼られた人たちがいました。そして、今日もなお、そのようなレッテル貼りが行われることもあります。ですから、現在の社会においても、「罪」に対する間違った捉え方から「罪でないものを罪」としてしまい、私たちは感じなくてもよい「罪意識」を抱かされています。そして、多くの人が必要以上に心に傷を負わされているのです。

けれども、イエス・キリストはその間違った捉え方を批判し、社会の価値基準から「罪人」というレッテルを貼られた人たちをそのままの姿で受け入れ、そのレッテルから解放し、その人の命も存在も大切なものであることを伝えようと、命をかけてその時代の社会と闘ったのです。つまり、聖書の目的は、人を積荷定め、裁くことではなく、人をあるがままに受け入れ、愛し、生きる希望を与えることにあるのです。イエス・キリストの十字架は、人を裁くための道具ではなく、わたしたちを罪から解放するための「赦しのしるし」なのです。これらのことから、「聖書には『同性愛は罪である』とは書かれていない」ことが解ります。

<大月純子>

---------------------------------

Q23 キリスト教は同性愛を受け入れていますか?

前項で見てきたように、……(中略)……

けれども、問題は、聖書やキリスト教の教えそのものではなく、聖書を解釈してきたキリスト教会の歴史の中にあるのです。キリスト教の教えと言われるものも、それぞれの時代の人間によって解釈し、形作られたものです。ですから、キリスト教の教えそのものが同性愛を受け入れないのではなく、キリスト教会の中にあるホモフォビックな感情によるものなのです。

ですから「キリスト教が同性愛を受け入れていない」のではなく、「そこにいるキリスト者の中に同性愛を受け入れることができない人がいる」ということなのです。もし、「聖書に書いてある」と語るキリスト者がいたら、その人は自分の感情を正当化するために聖書を利用しているに過ぎません。

一つの問題としては、キリスト教会の中に「性」をタブー視する傾向が根強く残っていることが挙げられます。そのため、同性愛だけではなく、様々な性に関わる事柄に関して、きちんと語ってこなかった歴史があり、そのために無知による偏見や差別が根強く残っているのです。それゆえ、今日もなお、教会の中で様々な性にまつわる事柄のために感じなくてもよい「罪意識」を感じさせられ、心に傷を抱えている人が数多くいます。

では、教会は本当に「性」について語ってこなかったのでしょうか? そうではありません。「性」について語ることを赦さない一方で、「性」を「汚れたもの」「マイナスなもの」とするイメージを植え付ける解釈をしてきました。その影響から、教会の中には「同性愛」に関して「理解しなくて良い」「語る必要がない」と思っている人がいることも事実です。実際に教会に行き、牧師に同性愛者であることをカミングアウトすると「祈ってなおしてあげよう」と言って祈られたり、そのままカウンセリングに連れて行かれたりするなどの悲しい出来事が起こっています。けれども、それは牧師や教会関係者の無知・無理解によるものです。

しかし、その一方で「性」について、教会の中でも語っていかなければならないことであり、語ることによって私たち自身が様々な心の傷から開放され、自分らしく生きることができるということに気付き、そのための取り組みも行われています。また、同性愛を始めとするセクシュアリティについての理解を深めるための学習や取り組みも行われたり、同性愛者の相談に乗っている牧師も増えてきています。

キリスト教と一言で言っても、様々な教派があり、様々な教壇組織や団体があり、それぞれの聖書解釈や教義を持っています。ですから、現在もなお、同性愛を受け入れない教派や教団や教会がある一方で、同性愛者も神に選ばれた民であるとして、教会から同性愛者差別を無くしていこうという動きを起こしている教団や教会・教派もありますし、もともとある教派の中でもセクシュアル・マイノリティのグループができています。

また、キリスト教会の中にもたくさんの同性愛者が存在します。中には、自分のセクシュアリティを神様が与えてくださった賜物であるとして受け入れ、そのことの喜びを伝えていきたいと願って、活動をしている人もいます。また、現在日本の中にも、同性愛者をはじめとするセクシュアル・マイノリティのキリスト者のコミュニティもいくつかあり、集会をしたり、聖書の読み直しをしたり、情報交換などの活動が行われています。

神が求めていることは、自分自身のあり様を否定して、社会の枠組みに自分をはめ込み、苦しみながら生きることではなく、自分自身が神の前で美しい存在であり、神にとってかけがえのない存在であるということを知り、自分自身を受け入れ、愛することなのです。「同性愛」という「性的指向」は本人の意思で選択も変更もできません。しかも、「同性愛」は病気でも「障害」でもありませんから、祈って治るものではありませんし、治す必要もありません。ですから、教会には社会などの価値基準によって自分のセクシュアリティを受け入れることができずに苦しんでいる人の心の傷を共に担い、癒していくことこそが求められています。今日のキリスト教会がしなければならないことは、教会の中に根強く残っている「同性愛」に対する偏見や差別や嫌悪感を無くし、どのようなセクシュアリティであっても、神の前でかけがえのない存在であるという喜びを分かち合っていくことなのです。変わらなければならないのは、「同性愛者」ではなく、「キリスト教会」とそこに生きる一人一人なのです。

<大月純子>


---------------------------------
(『性同一性障害って何?』(緑風出版2003年)より←クリックするとアマゾンで注文できます)

Q38 宗教では、性同一性障害を認めているのですか?

宗教と言っても各々の国に何十何百とある所もあり、成立時期によっても考え方に硬軟あって一概には言えませんが、「同性愛」は出てきたとしても、名称に多少の違いはあっても「性同一性障害」というものがはっきりと登場する教えは、よほど新しいものでないかぎり、見つけるのは難しいと思います。

もし古い時代に性同一性障害というものが世間に浸透していたとしたら――どうでしょう。

仏教の宗派の一部には「変成男子(へんじょうなんし―引用者注;以下カッコ内で紺色の字は全て本文内の原著者注)」という語が残っています(法華経の第十二「堤婆達多品」の竜女成仏の逸話が有名)。それは「女子は五障があって成仏できないため、男子になって成仏する」という、まことに男尊女卑的ではありますが性の変更を(女子から男子の場合には)奨励するような考えです。性別よりは、成仏することに重きがおかれているからでしょう。

キリスト教圏では性的少数者への嫌悪がひどく、命の危険さえありますが、それは全く元々のキリストの教えの核を忘れ果てた行いです。聖書では、異性装を禁じる箇所が見られるものの、聖書の書き手たちの私見が必ずしも皆無ではないであろうことや、文化的・時代的背景を考え合わせると、それを文字通り受け取ることが、そもそもの教えにかなっているとは思われません。むしろ女王に仕えるために去勢した宦官に、全く差別なく丁寧に復員をのべ伝える箇所(使徒行伝8・27〜39)や、「母の胎内から独身者に生まれついているものがあ」るとの、生まれつきを重視した言葉(マタイによる福音書19・12)、さらに「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」(コリント人への第一の手紙15・10)を味わうべきでしょう。特にこの「コリント人」の箇所にあたる英文は、By the grace of God I am what I am(神の恵みによって、私は≪今のような≫私であるのだ)ということであり、信仰に生きる者が、自分ではわけがわからないまま性同一性障害を抱えてしまい、あまりに苦しいので治療に専念しようとどうしようと、全ては神の御心のままであり、冒涜には当たらないのだと解釈したほうが、愛の宗教にふさわしいでしょう。

イスラム教は、めちゃくちゃ厳しいように見えますが、不思議と鷹揚なところもあります。エジプトでイスラムの性同一性障害問題について調査をしてきた友人の伊東聰氏によると、「イスラム教では、この世に存在するものは神のもとにおいて等価で平等。存在するものに格差が生じる原因はひとえに、神への帰依の強さ」であるため、人は「人間」であることがサキで「性別」はその「人間」の属性に過ぎず、不完全な状態で生まれるとの見方をしています。

しかし神への帰依の強さを実現するためには「男」あるいは「女」のどちらかはっきりしていることは重要なのだそうで、その点から性同一性障害への治療は、反イスラムとは思われないそうです。

仏教は「慈悲」、キリスト教は「愛」、イスラム教は、その核を強いて一言で示すなら「寛容」でしょうか。どの言葉も、性同一性障害の治療をはばむものとは思えません。ひたすらに信じ、帰依し、その道を生きるかぎり、その人間が、どうしてもそれをしなければ生きていけないほど追いつめられた挙げ句に、多少身体を変えてみたところで、大きな問題ではないのではないかと私は思います。

一木一草に至るまで、全ての生き物を創られたほどの方が、何の計画もなしに性同一性障害を抱える人々をこしらえ続けているとは思えません。必ず理由があるはずです。

性同一性障害を、考え方を工夫して何の治療もせずに乗り越えた人は、より強い人間になるでしょう。どうしても手術をしなくてはダメな人が、何年もかけて必死で貯金し、家族や恋人などと、あらゆる修羅場をくぐり抜け、とうとう待ち望んでいた肉体となった時には、心の底から「生きていてよかった」と感じられることでしょう。そうやってしばらく暮らすうちに、男と女、二つの視点を経験した自分のユニークさが、貴重なものに思われてくるかもしれません。

その強さ、感動、自己肯定感を、今ある自分を支えてくれた人々全て、育んでくれた世の中全体への感謝へと昇華させることができ、ついには自分の生命の大元である創造主への深い感謝と畏敬の念を、本当に持つことができたなら、性同一性障害も何もないのに不平だらけでダラダラ生きている人々よりも、ずっと神仏に愛される人間になることができたのだと、自信をもってよいと思います。

(虎井まさ衛)

(なお、引用した両書とも、本文の下に豊富な注釈情報が入っていますが、煩雑になってしまうため、ここでは全て割愛しました)

---------------------------------以上引用

とりあえず、引用しただけで疲れてしまったし(ぜんぶ手書き!! あ、「手打ち」っていうのかな?)、今のところ私見を付け加えようとも思わない。
それぞれの文章を繰り返しかみしめたい、と思うばかりだ。
ただ、わたしの目の前にあった霧がだいぶ晴れてきたような気はする。

-----------------------数分たって……

あ、そうそう。
わたしの知り合いのキリスト者が「ECQA」という団体のニュースレターをくれた。
「ECQA」は「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会」という意味だそうだ。
「無断転載・複写禁止」ということになっているので詳細を紹介するのは控えるけど、教派を越えてセクシュアルマイノリティを肯定する立場から信仰を考えていく団体がある、ということは、それだけでもわたしにとって心強い。
(「教派を越えて」っていうところもわたしの好みだし♪ だって、わたしの信仰は、プロテスタントの母とカトリックの姉から受け継いだものだもん!)

わたしは、確かに日曜日に教会へ行くこともせず、あちこちで「聖書を言葉どおりに信じるなんて無理だよねー」などと言いふらしたりしている「罰当たり」のような者だけど、わたしが認知できる世界の全てを無から創られた神さまがいる、ということだけは信じている。っていうか、「知っている」。
見たこともさわったこともないけれど、神さまがいる、ということが全身で実感できるのだ。(こればっかりは、見ることもさわることもできない相手なので、他人に「わかってくれ」などとは決して言えないことだけど)

そうして、神さまが、わたしのような者でも愛してくださっているのだ、ということを、信じたい。……これは希望みたいなものだけど、この希望が確信になっていく過程が「信仰」なのかも?という気もする。まだわかんないけど。

この記事のトップへ
ページのトップへ

2004年07月01日(木)

あーあ、なんかうまくいかないものなんですねー。


★表紙へ戻る★  ★#22★  ★#26★  ★セクマイ★  ≪前   次≫   ▲目次▲