原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2004年06月28日(月) (なんか早速揺り返して落ち込み)

なんか、ね。

早速、落ち込んでます。

メールの返事ができずにいます。

まあ、明日は元気でお仕事するんだけど。

あーもう、忘れたいことが頭から離れない。

……

2004年06月26日(土) GIDしずおか第3回フォーラム開催!

=速報=

本日、大島俊之先生(神戸学院大学法科大学院教授)をゲスト講演者としてお呼びして、GIDしずおか第3回フォーラム『性同一性障害と法律・社会』を開催しました。
参加者は56名。一地域としてはかなり多い参加者数なのではないか。

大島先生のお話の前に、当事者の割と多くにとっては「あたりまえ以前」の、でも今回が初めて参加という人たちにとっては「初耳」な、性同一性障害についての基礎知識を会津が解説(相変わらず話が長い?)。
その最中に大島先生が到着、長くなりそうだった話を中断して講演に入っていただいたので、なんか効果的だった。

大島先生のお話は、今回の法(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律)制定にいたるずっと前から先生が「性同一性障害者の戸籍訂正又は変更」について研究し、それが日本でも早急に実現されるべきだと主張しつづけてきた、というお話から、法制定の経緯、更にこの法律が現在抱える問題点や今後の展望に至るまでを時間内にきっちり説き明かしてくださった。

その後、休憩時間を挟んで質疑応答に移り、会場からの質問への回答に交えて「人権としての性」にも言及した内容を、大島先生と会津のトークに近いかたちで語り合うことができた。
その部分について特に聞きたいと思っていそうな顔ぶれがけっこう多く見えたので、ちょこっと配慮した……つもりだけど、そのお話をメインにしたらもっともっと話は続いただろう。
このことは、会津自身にとってもかなり大きな関心事。
大島先生とそのことまで含めてお話できたのは貴重だった。

終了後、市内「辰金」にて打ち上げ。
うなぎが上品な味でおいしい。
大島先生も大いに盛り上がってくださり、ホントみんなミックスで語り合った。
更にその後、ゲイバー「プチきの娘」へ(その場にいた3分の2以上が)移動し、また盛り上がった。

よくゲイバーやそこで働く人たちを「GIDとは違う」といって事実上差別する人がいるけれど、確かに「違う」人もいるけれど、きっとGIDに違いないという人もいるし、その境界は曖昧だ。
いちがいに決め付けることも、決め付けて差別することも、許されないと思う。
この人たちだって、自分の人生賭けてこの仕事をしているのだから。

とにかく、すっごく楽しい夜でした。

フランスとケベックの香りもほのかに♪

=以上、速報でした♪=

2004年06月24日(木) 某日記に

(040626朝)
うーん、自分では一生懸命考えて書いたつもりだけれど、
たぶん誤解する人が多いだろうと思ってやっぱり削除しちゃいました。
「誤解」だけじゃなくて、自分の発想そのものにも全く問題がないわけじゃないのでは、という気もするし。

(040626深夜)その後、すごいものを見つけてしまったので、ちょこっと追記。


杏野丈の性同一性障害の日記「独語徘徊記録」の中、(2004年)6月24日の記事に、すごいことが書かれている。
っていうか、わたしが出版社の人と話したことをちゃんと受け止めていればよかったのだけれど、背表紙にわたしを使うなんて「リップサービス」だろうと高を括っていたところが、正直ないとはいえない。
本当にそんなことになるなんて。

すごい。すごすぎる。

2004年06月23日(水) Live at "EXPERIENCE"

会津里花 Select Live #6 @EXPERIENCE 2004.06.23.

1. 赤い花・白い花
2. I Want To Hold Your Hand
3. I Call Your Name
4. Things We Said Today
5. People Get Ready
6. MOON
7. Serenity Prayer
8. NOTHING
9. Where The Boys Are
10. Fields Of Gold *
11. The Rose *
12. Time After Time
13. She Loves You
Encore
14. Get Back

……と、まあこんな感じの選曲。
ふと気が付いたら13曲もやってて、その上アンコールまでつけて約70分。
途中の"Serenity Prayer"は、AAやACの自助ミーティングなどでおなじみ(?)の「セレニティ・プレアー(平安の祈り)」に曲をつけたもの。
まだそんなに良い出来栄えではないけれど、歌ってみた。

「*」がついてる曲は、ピアノ伴奏になんとわたしのソプラノサックスで間奏ソロ!!だったんですねえ〜。
ブラバンにいたおかげで、ほんの少しだけどサックスが吹けるのです。
おもしろいよ〜。何が?って、同じソプラノサックスでも、わたしのはアルトサックスみたいに曲げた形に作ってあるのね。
ふつうはソプラノサックスといえばまっすぐストレートで、そのせいか音色がアルトやテナーなんかと比べるとかなり違う(ように聞こえる)けれど、わたしの「カーブド(curved)」ではなんだか音色そのものまでアルトサックスとちょっと似た感じに聞こえるのです。
まあ、わたしの演奏の力量がまだまだたいしたことないので、音色というよりもちゃんと吹けてないだけなのかもしれないけれど。
でもとりあえず、サックス・ソロらしきことはできました。は〜、自己満足(あれれ?)。
いっぱい練習して、満足の前の「自己」が消えるようにしたいなー。

自分は満足だけどお客さんが聞いてて満足できたかどうか今いちわからない(=あんまり満足してくれなかった、という場合が多い)と、わたしの「自己満足」も今いち。
わたしは、どれほど客観的に見て(聞いて)良かったと言われても、自分がその演奏に満足しないと気が済まない。
そうして、わたしの「自己満足」は、お客さんが心から楽しんでくれて初めて得られるものなのだ。
ただ「自分の満足よりもお客さん優先」とは思っていない。
ていうか「滅私奉公」みたいなことやってるわたしを見ても、誰も喜んでなんかくれないと思う。
わたしは自分の「満足」の基準がそんなに甘いとは思っていない。
何しろ、自分の演奏は自分がいちばんよく聞いて、見て、知っているから。
そりゃ、他人が聞いて「それじゃ違うんじゃない?」ということもあるし、自分一人では気付かない過ちも多い。
けれど、そうやって他人から指摘されたことでも、自分自身がそれを改善できた、という手ごたえがない限り、わたしは満足しない。

わたしにとって「自己満足」は、お客さんが心から喜べる、ということも含めてかなりレベルの高いものなのだと思う。
その証拠に、今までただの一度だって「これでいい」と思ったこと、ないもん。(←ダメじゃん!)
「まあ良かったかもしれないけど……」の後に、必ずあそこはああだった、ここはこうすればよかった、と次から次へと改善しなければならないことが出てくる。
……あ、そんなの当たり前か。
誰だって、その表現で自分を複数の人たちに向かって表す、というより投げ出して、それでその人たちが感動したり笑ったりすっきりしたりしてくれる、ということにとても重要な「自己満足」の基準が張り巡らされているものなのだ。

さあてと、音楽活動のやり方、少し変えていったほうがいいかもしれないな……

2004年06月21日(月) わたしの被害者性

わたしは、かつて自分が「被害者」だったことがあるのを
今自分で思っているよりももっとしっかりと
受け止めなければならない。
そのことを忘れて、心に染み込むまで何度も繰り返された「被害」を
「あんなことは大したことじゃなかったんだ」と思ってしまったら
わたしが加害者になってしまう。

本当の意味で自分を大切にする、ということ。
それは、上に述べたような、こういうことなのだ。

-----------------------

世間では割と最近まで「良いこと」とされていた「男らしさ」の中に
このことを阻害する要素があった。
「男はちょっとやそっとのことで文句を言うものではない」
……ん? ちょっと待った。
「女らしさ」の中にもあったじゃないか。
「女のくせに文句ばかり言うのははしたない(黙って男に従え)」

このように、いわゆる「ステレオタイプジェンダー(悪い意味でパターン化された『男/女らしさ』)」は
とても恣意的で、矛盾に満ちている。
もちろん、ある志向性を軸にとれば、そんなもの矛盾でもなんでもないし、
恣意的ではなくとても合目的的だ。
しかし、それは人と人とが共感し、理解しあうことを志向しているわけではない。
それは決して人が人として安心・安全・自信をもって生きていくこと(=しあわせ?)を
目指すものでもない。

「ある志向性」とは……
今、わたしはそれを言葉で言い表すことができない。
とても陳腐な言い方しかできないだろうから。
ただ、とても象徴的だけど、こんな形容はできるかもしれない。
「抑圧支配と戦争と死への志向性」

日本は、たまたま過去60年ほどの間、直接戦争に参加することがなかった。
けれども、その前までやっていた、とても歪んだ「戦争の道」によって
とても歪んだ志向性を社会に植え付けてしまっていた。
たとえ戦争なんかもうとっくに終わっていて
そんなことはよく知らない国の出来事でしかない、と思っているような人でも
過去の亡霊に脅かされ、それに踊らされ、暴力を容認する生き方を強いられている。

特に多くの企業は、今でもその組織のあり方に支配と戦争と死のにおいをぷんぷんとさせている。
上の例で言えば、「男らしさ」も「女らしさ」も、要するに文句を言わずに黙って従え、という価値観だ。
それは戦場での価値観に等しい。
戦場では、どのように殺し、どのように殺されるかということが常にその場での最大の関心事であり、
そのためには個人の意思や感情などは滅殺して組織の一部になりきり、
美しい形式の一部となって殺し殺されることが最善なのだ。
そのためには、文句など言わずに上の指示に従うことが「善」なのだ。
そうして、従わずにその形式を乱すことは「悪」なのだ。
(こういうヒステリックな「善悪」の「白黒思考」が顔を覗かせるのも
戦争という陰惨な嗜癖のもつ異常性のあらわれ、と言えるだろう)

わたし自身、企業社会の中に十数年浸っているうちに、
父親から植え付けられた暴力性を外から見えないところで爆発させる
陰湿な「男」に成り下がっていた。
わたしは父親からさんざん言葉でいじめ抜かれていたので
他ならぬ自分の家族に対して、同じように言葉で傷つけるように
なってしまっていた。
わたしは、そういう自分がもう許せなくなってしまった。
「無理して男になろうとしているのに、なったらこんなに醜い存在になってしまうのか」と。
こんな割に合わないことはない、と思った。
人を傷つけてまで、無理して偽りの自分を演じているのはもう嫌だ。
そんなふうに思ったから、わたしは女に戻った。
本当の自分を取り戻したのだ。
(それはもしかしたら、ただ単にステレオタイプジェンダーの「男らしさ」を
脱ぎ捨てただけだったのかもしれないが)

さいわい、女の自分を取り戻してからは、
実社会では今までのような暴力性を発揮してしまうことはなくなった。

けれども、ネット上で、時々父親からされたのと同じように
今また言葉でいじめられている、と感じてしまうと
同じ手段で対抗しようとしてしまうところがある。

いじめられるのは、あくまで「被害」なのだ。
わたしはそれに対して戦いを挑んだりせずに、
ただ黙って逃げればいいのだ。
反撃なんかしたら、「加害者」である相手によけいに付け入る隙を与えてしまうだけなのだ。
「おまえが加害者じゃないか」と言わせることになってしまうのだ。
そうして、わたしはもっともっと傷つけられ、もっともっと苦しみ、
そうして、もっともっと暴れまわるようになってしまうだろう。
やのかおな」になってしまう。

わたしは、自分の被害者性を、もっともっと大切にしなければならない。
いや、自分の被害者性を自覚して、
これ以上自分から「飛んで火に入る夏の虫」になんかなってしまうことがないように
慎重に振舞わなければならないのだ。

それが、自分の被害者性ゆえに「加害者」に転化してしまう、という最も惨めなことを
未然に防ぐために最も必要なことだ。

2004年06月20日(日) (これから書きます)

gid.jp主催 GID特例法に関する厚生労働省例説明会

……に参加してきました。
そういえば、そのことをここに書くのはほとんど「義務」なのでは。
040626現在、まだ書いてません。すみませんm(__)m

2004年06月18日(金) 「未来」「記憶」髪の毛

★1・「未来」
★2・「記憶」
★3・髪の毛染めました



★1・「未来」

わたしは未来のことを考えるのが苦手だ。
漠然と「こうだったらいいのになあ〜」とかいう非現実的なことを考えるのは大好きだけど、責任もって次に何をする、というようなことを考えるのはとにかく苦手だ。

まあ、誰でも好きで考えるわけではないだろうけど。
考える手順がわかっているからできる、とか、あまり苦痛でもない、とか、それができる人にはできる条件があり、わたしにはそれがない。
仕方のないことだけど。

男のフリしていた頃には、未来のことをちゃんと考えるなんてできなかった。
だって、どう考えようと、その「未来」は「男としての未来」でしかなかったから。
そんなの、真面目に考えられるはずがなかった。
適当に自分をごまかして、あまり嫌なことが目に付かない程度に生きていければいい、と思っていた。

今はもう、そんなことはない。
でも、悔しいことに、男だった頃に身につけてしまった「無責任」という性質が、もう本来の性で生きて良いことになっているというのに、今でもまだ癖になってしまっているのだ。

悔しい。
悲しい。

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★2・「記憶」

そうだ。そういえば、とても大切な「記憶」を、ここに書き留めてなかったような気がする。
(いやいや原案帳#22には書いたけど)

こないだね、浜松の「楽器館」というところに行ったの。
彼と一緒に。ていうか彼が連れていってくれたの。

すっっっっっっごく楽しかった!
たぶん、彼の足がへたってきたり、わたしが頭くらくらしてきたりしなければ、閉館までしつこく歩き回っていただろう。
わたし、あそこだったらまる1日遊んでいられる。
う、でも、そのうち「セルパン(とかサリュソフォーンとか)吹いてみたい!」とか言い出すかも。
「どうしてもダメなんですかぁ?」とか食い下がっちゃったりして。

とても貴重な思い出。
次は犬山の日本モンキーセンターへ行こうねっ。
今日はけっきょく夕方へばってしまって(昼間あれこれあったので)、NHK『地球ふしぎ大自然』探検!針山の迷宮 マダガスカル大絶壁をヒヒが登る エチオピアを見ながらうたた寝してしまった。
でも、今のわたしはなぜかサルの姿を見ると、気持ちが安らぐのでした。
ああ、彼らに会いたいよぉ。
わたしJMC(モンキーセンターのこと)だったら、2日くらいはいられると思う。
そのまま住み込み……?? んなこと、ないか。
(……と思ってJMCのHP見てみたら、なんかそれほどでもなさそうな気が?)

わたしにとって、過去は楽しいことばかり。
あれ? でも、過去の続きの「次の予定」は、なんかすごく楽しそうじゃん。

うーん。よくわからないぞ、自分。

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★3・髪の毛染めました

カヨちゃんのところで、髪の毛を染めてもらいました。
けっこう明るい色にしてしまったので、ちょっと「先生」としてはやばいかも。
でもねー、今までのプリンじゃあんまりだし……

いーじゃん、きれいになったんだから。
ありがと、カヨちゃん

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2004年06月17日(木) ぐろっき〜@ケータイ

なんか、気疲れした。
気持ち悪い。
風邪引いた?
なーんかさ。

あーもうっ、具体的なことが書けない!
(書くとよけい気疲れするようなことになりそうだから)

頭に膜でもかかってるみたい。

2004年06月15日(火) memo 記念日

★1・memo
★2・記念日
★3・4万Hit



★1・memo

わたしがやっていること:
音楽 ライブ活動
GIDしずおか代表 他GID当事者としてできること
小学生と高校生に英語を教える
パートナー
生活 後回し……

わたしがやりたいこと:
DV加害者対策 加害者がいなければ被害者は発生しない
世界を日本国憲法みたいに平和を目指す状態にさせる
100年たっても人間が地球と共生できる生き方を考える わたしの子どもの子どもの子どものため
↑自分にできることを実行する
本を書き著す
芝居 台本書いてもいいかも? やれるもんならやってみろ

わたしはきっと、どこかの遺伝子であるパターンの繰り返し回数が多いんだ。
次から次へとやりたいことが増える。
いや、増えているわけじゃない。

昔からやりたいと思っていたことを、諦めていないだけ。

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★2・記念日

今日は、忘れてはいけない日。
思い出の人(それも複数)の、誕生日。
一人はもう、この世にはいない。
あと一人は、どこでどうしているか、ぜんぜんわからない。

わたしは、記憶力がよすぎるのだろうか。
でも、忘れられないものは、忘れられない。

今日は、この思い出と共に過ごす。
いえその、忙しいんだけど。

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★3・4万Hits

そういえば、この日記(原案帳#20)もトップページhttp://www.jackies.jp/も、いつのまにか4万Hitsを越えていたっけ。
記念に何かやればよかった。
今からでも遅くない…… か、今更もう遅いか、ちょっと判断がつかない。

このところずっと書いてないけど、「4万Hits記念ショートショート」でも、書こうかしら?

一つだけ、思うこと。ちょっと嬉しいこと。
わたしは、ネット上である人たちから非難され、誹謗中傷とでもいうような目に遭ったことがある。それも、何度も。
でも、わたしはそれでもネット上で「生き残った」。
わたしに対していわれのない悪意を抱いている人に、わたしは勝ったのだ、と感じる。
ある意味、わたしは「オンライン・サバイバー」とでもいえる存在なのかな、と思う。
初めてホームページを持った2000年から数えて4年半。
よく生き残った>会津里花。

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2004年06月14日(月) 書きますた。

6月12日の記事(伽藍博物堂『忘れた森』感想)を書きました。

6月13日の記事(アムネスティ日本発表:「君が代」について)を書きました。

2004年06月13日(日) アムネスティ日本発表:「君が代」について

★1・「君が代」強制反対/アムネスティ
★2・じゃあ「日の丸」は?



★1・「君が代」強制反対/アムネスティ

以下転載---------------------------------

アムネスティ日本発表
2004年6月9日

アムネスティ日本 info@amnesty.or.jp
http://www.amnesty.or.jp/

------------------------------------
アムネスティ・インターナショナル日本
「君が代」斉唱の強制に強い懸念を表明
------------------------------------

アムネスティ・インターナショナル日本は、2004年6月8日、君が代の斉唱に関して、生徒を起立斉唱させるよう指導することを教師に義務付ける職務命令を出す旨を東京都の横山教育長が都議会で発言したことに対し、強い懸念を表明する。

日の丸、君が代の強制については、すでに国旗、国歌法の国会での審議中、また審議後も、思想、良心の自由の侵害にあたるとする数多くの批判が寄せられている。そして何よりも、国旗国歌法を根拠とする君が代の斉唱などの強制および、それに反対する意思表明をした人びとに対する処分は、憲法第19条および自由権規約第18条の思想、信条の自由、憲法第21条、自由権規約第19条の表現の自由、などに対する重大な違反行為である。教師に対する一般的な指導という形式をとっているものの、この間、卒業式などでの君が代斉唱の際の不起立により、すでに都の教職員238人が職務命令違反で戒告などの処分を受け、生徒が起立しなかった学校の67人が注意や指導などの処分を受けていることなどを踏まえると、現在、思想、良心、表現の自由の重大な侵害が進行していると指摘せざるを得ない。また、こうした動きは、君が代斉唱の際の音量を計測した福岡県教育委員会の例など、全国に広がりを見せている。

アムネスティ日本では、すでに2000年4月16日、日の丸、君が代の強制が良心の自由を侵害するものであることを指摘する宣言を総会において採択している。しかし、その後の情勢は、思想、信条の自由、表現の自由を配慮した慎重な対応などではなく、一律に強制力を増す方向で運用されている。これは、自由権規約をはじめとして、日本も締約国となっている人権諸条約に明確に反する施策である。

また、日の丸、君が代の子どもへの実質的な強制は、子どもの権利条約第12条、第13条、第14条に反する重大な人権侵害であるとともに、外国籍の子どもたちの存在を考え合わせると、人種間の分断を強化する動きを禁じる人種差別撤廃条約にも抵触する可能性がある。

以上を踏まえ、アムネスティ・インターナショナル日本は、日本政府および関係当局に対し、教育現場への日の丸、君が代の強制を直ちにやめるよう強く求めるものである。

----------

(参考資料)

日の丸・君が代に関する良心の自由宣言

日本国憲法は、思想・良心の自由を保障し(第19条)、市民的及び政治的権利に関する国際規約は、これを具体的に「この権利には、自ら選択する信念を受け入れ又は保持する自由(第18条第2項)、単独で又は共同して、公に又は私的に、その信念を表明する自由を含む」(第18条第1項) 「何人も自ら選択する信念を受け入れ又は保持する自由を侵害する恐れのある強制を受けない」(第18条第1項)」と定めている。

国家行政組織法は、「(各大臣が発する省令=命令)には、法律による委任がなければ、罰則を設け、義務を課し、国民の権利を制限する規定を設けることができない」(第12条)と定め、命令より下位の法形式である「告示」(第14条)によっては「義務を課し、権利を制限する」ことを認めていない。

去る1999年に制定された国旗・国歌法は、義務づけ規定を置かず、また、これを省令に委任する規定もない。しかるに文部省、各地方自治体の教育委員会は、「告示」に過ぎない学習指導要領を根拠として、教職員に対し、日の丸・君が代に関する業務を義務づけ、これに従わない教職員を地方公務員法違反として、減給等の不利益処分を課し、また、子ども・生徒・保護者が、日の丸・君が代に関して自ら選択する信念を受け入れ・保持・表明することも困難にしている。これは、憲法・国際人権規約などの諸法規に明白に違反する行為である。

アムネスティ日本支部は、政府及び自治体の行為によって、日本全国各地で「思想・良心の自由」の侵害が生み出されていることを深く憂慮し、政府及び自治体が日本国憲法を尊重・擁護し、国際条約・法律を誠実に遵守・執行することを求めると共に、すべての人がこれらの自由を不断の努力によって保持することを希って、ここに日の丸・君が代に関する「良心の自由」を宣言する。

2000年4月16日
アムネスティ・インターナショナル日本支部2000年度総会

---------------------------------以上転載

わたしも、これまではぜんぜんしょーもない理由から『君が代』は大嫌いだった。
理由というのは「メロディがおかしい」ということ。
日本古来の旋法による、ということだけど、実はイギリス人が採譜したのだそうで。
で、近現代の日本人の誰も、あんなメロディーの歌を作ったり歌ったりしていない。
そういう「庶民=民族の感覚からかけ離れた楽曲」を「国歌」にしよう、というセンスが最悪だと思っていた。
皇族だったらああいうメロディに親しみを感じるのだろうか。
皇太子や雅子さんに聞いてみたい(皇族に対して敬語を使わないのは自分の良心に従ってのことです)。
オケやブラスにアレンジしても気持ち悪い和音ばっかりで、自分が参加していた中学高校のブラスならヘタでもあたりまえだったかもしれないけれど、日本はおろか世界中のどんなに優れたオーケストラが演奏しても、気持ち悪いものは気持ち悪く、ぜんぜん聞けたものではなく、聞けるようにもならない。

ところで……
このようにアムネスティが危険性を警告しなければならないほど異常なことを、なぜ政府や自治体が強行しなければならないのか?
その理由は、わたしが上に書いたようなことと紙一重のところにあると思う。
たいていの日本国民にとって、「君が代」は日常的に愛唱したいと思えるような歌ではないのだ。
それがわかっている(=「君が代」について自信が持てない)からこそ、躍起になって強制するのだ。

国歌、ちゃんと作ろうよ。
でも、「『君が代』の代わりにこの歌を国歌に!」という代替案は、今までのところ聞いたことがない。
わたしが作る? ……うーん、わたしにはちょっと荷が重いなあ……(←もしかしたらほとんどの日本人作曲家がそう思ってる?)
ねずみの相談かよ。困ったもんだ。

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★2・じゃあ「日の丸」は?

「日の丸」は、デザイン的には好きだ。
でも、あくまで単純にデザインだけの話。
その背後にある歴史を思うと、けっこうぞっとする。
俗説だけど、戦(いくさ)でとった敵の首を包んだ白布を開くと、ちょうど「日の丸」と同じような模様に血がついてる、とか。
戦に出陣するとき血判状を作ったらあんな感じになった(白地のところにはこれから死んでいく人たちの名前が自署してある)とか。
どっちにしても、戦争がらみの図案。

まあ、定説は「極東の国=太陽が昇る国」、昔聖徳太子が当時の大国・隋に向かって対等外交をしようとして「日出(いず)る処の天子より日沈む処の天子に云々……」という手紙を出した、とか。
「日本」という国名ともあってるし。

ただ。
ただ、ね……
あの図案を見ただけで「日の丸=侵略者」と思ってしまう、日本の周囲にある国々の人々もいる、ということを忘れてはいけない、というのは、わたしにとってどうしても譲れないところ。

だとしたら。
ここ20年くらい、ずーっと考えてきたのね。
まあ、真剣にじゃないけど。
でも、さすがに長いこと考えたおかげで、一つだけ「これは」と思える案が浮かんできたの。

日の丸の太陽のすぐ上に、青い色で小さく「ハト」の絵を入れたら。
もちろん、平和の象徴。
だって、日本は今後永遠に戦争はやらないんだから。
その決意を込めて。
(ハトの代わりに「折鶴」は? 日本人の器用さとか命を大切にする象徴とか福祉とか、意味が多重化するだろうけど。
でも、わたしとしてはやっぱりハトがいいなあ)

「平和の象徴なんて嫌だ」という人がいたら、それは憲法違反でしょう。
ま、そうは言っても、今の日本には日本国憲法の持つ世界史的な意味をぜんぜんわかってない人が、あまりにも多すぎるとも思うんだけどね。
なぜ気がつかないんだろう????
世界はこれから、日本国憲法、特に前文と第9条に定められているような「戦争放棄と国際平和の誠実な希求」に向かっていくんだよ!
9条がおかしいんじゃないの。
世界がまだ、9条についてこれないだけなの。

経緯が「アメリカからの押し付け」だったとしても、それこそ歴史の不思議な成り行きで「塞翁が馬」みたいなもので、あちらは自分の都合だけで「アメリカの敵=日本の再軍備を防ごう」と思っただけなんだろうけど、そういうレベルの低いエゴで押し付けたものが、たまたま世界史の未来を先取りするものだった、っていうこともあるのよ。
今はじっと我慢して、ただただ9条を守る、それだけは後へはひかない、それだけでいいの。
あと100年すれば、日本国憲法は人権宣言なんかと同じように並び賞されるものになるんだから。
あ。ちょっと違う。
憲法の意味や価値を、日本国政府自身がまともに評価できていない。
だから、憲法そのものは高く賞賛されても、今の日本国政府は「その意味も価値も理解できず、何度となく貴重な条文を潰そうと画策した」と、貶められるんだろうね。

繰り返す。
日本人だったら、憲法9条を「改正」しよう、なんてみっともないことは言わないで、世界中を9条にあわせさせよう!
その使命を政府も国民も一体となって、あ、言い過ぎた「一体」はまずいよね、多様性を受け入れよう、でも政府が主導してその使命を遂行していこう!

そうすれば、少子化だって食い止められるよ。
この国の希望や誇りは、そこからしか生まれはしない。

憲法改悪したって、国民の気持ちはすさむだけ。
歴史の流れに逆らって、してはいけないことをしてしまえば、みんなわかっちゃうんだから。
みんな、後ろめたい気持ちになっちゃうんだから。
そんなふうに意識して考えていなくても、心のどこかでそのことがわかっているのが、日本国民の大半だと思う。
そうして、そのことに正確に反応して、政府が道を踏み外せば社会をすさませてしまう、それが「大衆」というものの性質。

この予言は当たります。
良いほうに進んでも、悪いほうに進んでも。
どちらに進むかは、わたし自身も含めて日本人が全体としてどの程度まともにものを考えられるか、で決まります。

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2004年06月12日(土) 伽藍博物堂『忘れた森』

★1・伽藍博物堂公演『忘れた森』見ました♪



★1・伽藍博物堂公演『忘れた森』見ました♪

(2004年06月14日記す)

あうあう、感動が薄れてしまわないうちに書かないと。

今日(6月12日)、わたしが以前お世話になった伽藍博物堂の本公演『忘れた森』を見てきました!
(って、今書きながらリンクを作ってみたら「ああ、もっと前からここにあれこれ書いて宣伝しておけばよかった!」と思った。
伽藍のHPにももっと足繁く通えばよかった!)

『星の王子さま』?にしては、設定は日本のどっかのアパート?
でも、わたしには、サンテグジュペリの『星の王子さま』(ここをクリックするとアマゾンの検索結果へ)と比べてもいい、と思った。
ぜんぜん遜色ない、と思った。

「森と人の共生」ということも、このお話のテーマなのでは、と思った。

終盤、ちゃんと泣かせてもらいました〜。

あと、個人的にマダガスカルのおサルさんが大好きなわたしとしては(いえそのりくちゃんがそういうふうに見えたとかじゃなくて;りくちゃんはしっかり「少年」だったよ!)、「バオバブ」はバオバブらしく作ってほしかっ……
あ!違う!
あの「木」は、ここ日本の森に生えているブナとかナラとかの木でいいんだ!
もともと、設定からして『星の王子さま』のとおりにしなくちゃいけないようになんかなっていないんだから。
今、書いてて気がついた。

孤高の少年、カッコよかった。
(他の役者さん、役どころについてもあれこれ書きたいけど、わたしがHPでエラそーに書くのもどうかと思って控えておきます。
でも、全員が一人一人、すごく個性的に役を演じきっていた、とわたしは思いました!)

本公演の成功、おめでとうございます。
わたし、やっぱり伽藍のファンだわ。
(っていうか、ああいうのを見せられると、またまた「わたしもやりたい」と思いそうになってしまうの!!
でも、実は次に伽藍と関わらせてもらうとしたら「男役」がやってみたい、と思っているので、それはまたいずれ……
基礎練習もしてないしさ。
劇団ってホントに「関係性の濃い場所」だから、そういう部分の難しさもちゃんと受け止めていけるようにならなくちゃいけないしさ。)

公演が始まってからずっと行きたいと思ってて、2日目の日曜日にコケて(体調悪かった)、火曜日が無理で(落ち込んでた)、木曜日もだめで(忙しすぎた)、ようやく楽日に間に合ったんだけど、

見てよかったーーーーー!!

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2004年06月11日(金) Re:少子化問題

★1・Re:少子化問題
★2・Re2: 少子化問題



★1・Re:少子化問題

2004年06月10日(木) 少子化問題〜受け入れる発想の続きです。

以下(図も含め)引用---------------------------------
日本事情http://www.asahi-net.or.jp/~dn8k-tkm/Q.html
人口構成http://www.asahi-net.or.jp/~dn8k-tkm/japan2-2.htmlより


population_pattern_jpn

◎「明治生れ」の世代(1868年〜1912年生れ)〜85歳以上の最高齢の世代です。戦前、戦中、戦後、高度成長、経済大国化、バブル崩壊のすべてを経験してきた20世紀の生き証人としていつまでも長生きしていただきたいと思います。

◎「大正生れ」「戦前派」の世代(1912年〜1925年生れ)〜男は戦地に行ってきた世代です。女はもっとも配偶者を失った世代です。敗戦後の日本の復興を支え、戦後日本の繁栄を実現し、にもかかわらず、その子供たちとの断絶に苦しんだ世代ともいえます。

◎「昭和ひとけた」「小国民」「戦中派」の世代(1926年〜1934年生れ)〜もっとも過剰な「軍国主義教育」を受けて育ち、敗戦後の価値の転換にとまどい、育ち盛りの時期の食糧難に苦しみ、とにかく戦争に翻弄された少年少女時代を過ごした世代です。

◎「昭和ふたけた」「戦後民主主義世代」(1935年〜1945年生れ)〜戦火の中で不安な幼年時代を過ごし、最初の戦後教育を受けて育った世代です。アメリカのポップカルチャーを同時代感覚で受け入れた最初の世代でもあります。

◎「団塊の世代」「全共闘世代」(1946年〜1951年頃生れ)〜若いときから「受験競争」や「学園闘争」を戦い、「ビートルズ」を聞き、「ニューファミリー」を形成したもっとも活力ある世代です。

◎「ポスト団塊世代」「しらけ世代」(1952年頃〜1958年頃)〜「谷間の世代」ともいうのでしょうか。先行する「団塊の世代」の陰に隠れ、あまり目立たない世代です。「しらけ」という「柔らかい個人主義」を実践した最初の世代といえるかもしれません。

◎「新人類世代」「おたく世代」(1958年頃〜1964年頃)〜「オウム世代」と言われることもあります。ものごころついた最初の時からテレビを見ていた最初の世代です。「昭和ひとけた」の親から戦前的な価値観を一部受け継いだ最後の世代でもあります。

◎「ポスト新人類」「校内暴力世代」(1965年頃〜1970年頃)〜よく理由がわからないまま突然中学校が荒れ始めた世代です。「バブル経済」の最盛期に社会に出て、就職に苦労したこともない世代です。「フリーター」という生き方を示した世代でもあります。

◎「団塊ジュニア」「いじめ世代」(1971年頃〜1975年頃)〜「団塊の世代」の子供たちとして、宿命的に受験競争を強いられた世代です。「偏差値」と「校則」に縛られ、「管理教育」のうっぷんをはらすかのように「いじめ」が深刻化する世代でもあります。

◎「茶髪世代?」「サポーター世代?」(1976年頃〜1980年頃)〜もはや「戦後」は歴史上の世界に入りました。「ポケベル」→「PHS」→「ケータイ」とそのコミュニケーションツールの進化は、おやじ世代の会社を次々と倒産に追い込みながらとどまるところを知りません。


-----------------------以上引用

……と、このように若年世代のことがわからない(というよりわかろうとしない)人たちには人口構成のまともな評価もできないんじゃないか。
特に
>◎「茶髪世代?」「サポーター世代?」(1976年頃〜1980年頃)…(引用者により中略)…おやじ世代の会社を次々と倒産に追い込みながらとどまるところを知りません。
はぁ? 「会社を次々と倒産に『追い込み』ながら」って、なんで人のせいにするの?
わたしには、「おやじ世代」が多すぎて人があふれて職にあぶれるのを防ぐために、無闇に会社作ったのが変なことで、今は人口に見合った企業数に自然に修正されていく途上なんじゃないか、としか思えないんだけど。
(申し訳ないけど、引用元のHP『日本事情』では、少子化の原因として
(以下も引用)
> ◎非婚増大・晩婚化の進行〜 ◎働く女性の増加〜 ◎出産・育児への支援不足〜 ◎経済的事情〜 ◎環境ホルモン?
(以上引用)

というようなことしか書いていなかった。これは原因じゃなくて少子化の現象的な内容を言っているだけだと思う)

図を見れば明らかだろう。
第1次・第2次ベビーブーマーが余計なのだ。
60代と10代が似たような数値なので、ためしにその両者をつなぐ縦の直線を引いてみれば、ベビーブーマーが「余っている」のがよくわかる。
もちろん、年齢が上がっていけば自然と人口は減っていくものだが、医療があまりにも高度に発達してしまった現在、生まれてから40代くらいまでの死亡者数っていうか死亡率は信じられないくらい低いのだ。
(0〜29歳までの年齢別死亡者数(年間あたり)は、平均600人弱/年齢しかいない! 母数になる年齢ごとの人口は平均120万人なので、比率で言えば1万人に5人または「1000人あたり1人未満」くらい。生まれてから29歳までの間に、全部で1万8千人しか死亡しないのだ)

ベビーブーマーを殊更に敵視するつもりはない。
ただ、数が多いからって、そっちが「正常」みたいな発想でものを考えるのを止めて欲しい、と思うだけだ。
ベビーブーマーの突出した部分を切り捨てて、60代〜40代〜10代をつないでいけば、日本の人口構成が典型的「吊鐘型」になっているのがよくわかる。
10代半ばよりも下の世代が少ないのが気になるが、それだってベビーブーマーがいなくなれば改善するだろう。
日本人の大衆的な感覚で、今の日本に「人が多すぎる」ということはちゃんと受け止められているのだろう。
適切な人口になっていけば、今みたいな極端な少子化は自然に歯止めがかかるはずだと思う。
(ロコツに言うと「もう人が多すぎる状況じゃなくなったから少しは増えても大丈夫」と思えるようになり、それに連れて出生率も少し上向く、ということ)

要するに、日本人は政府から強制なんかされなくても、自発的に「一人っ子政策」を実施している、ということ。

わたしは戦争は大嫌いだ。
「殺しあう」というかたちで人口を調整するのは、その後の精神的リスクなどを考えるとあまりにも無駄が多すぎる。
知恵を用いて自発的に穏やかに人口調整ができるのなら、そのほうがずっといいに決まっているじゃないか。

中国では一人っ子政策が効を奏して人口の増加に歯止めがかかりつつある。
インドは? アフリカ諸国は?
――21世紀後半の世界を主導していく国々じゃないか。
今は仕方ない。徐々に変わっていくだろう。

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★2・Re2: 少子化問題

↑とは書いたものの。
「ベビーブーマーが余計」と書いたら、言われてる世代の人たちは傷つくだろうなあ。
しかも、その世代の人たちって声が大きいから怖い。

わたしは世代の面で「マジョリティ」の人たちを、やたらと挑発してしまっていることになるのかもしれない。

う〜ん。かといって、違う書き方ができるわけでもない、っていうか……

う〜〜ん、う〜〜〜〜〜〜ん。

要するに…… 特に躍起になって「少子化対策」なんかしなくても、
団塊の世代のみなさんが高齢化して数が少なくなっていった頃には
自然に出生率が上がってきますよ〜、という程度のことなんだけど。
逆に言えば、それまでは何をやっても無駄ですよ〜、と。

わたしの言っていることは感覚的で根拠に乏しい。
けれど、直感はかなり当たっていると思う。

少なくとも、短期的には思ったとおりにならなくても、
世の中はだいたいわたしが思ったとおりに進んでいくもん。
たとえば、共産圏崩壊→冷戦終結→アメリカ崩壊→多極化→多様性を尊重しあえる穏やかな世界…… とか。
(途中からは未来のことを言ってるけど、たぶん50年後くらいにこの文章が残っていてたまたま読んだ人がいれば
「確かにその通り」と思ってくれるだろう)
それは決してわたしが世の中を動かしているとかいうことじゃなくて
(そんな自己愛性人格障害じゃないんだから……いや、そのケもあるけどさ)
世の中がどう動いていくかを理解している、というだけのことで。

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2004年06月10日(木) 少子化問題〜受け入れる発想

(6月9日の日記も書きました)

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原案帳#22
「産まない性を大切にしよう」と書いたら、今朝の朝日新聞に
出生率低下1.29〜政府想定を下回る・経済の活力に影響」
と書かれている。しかも一面トップだよ。

なんてこと。

わたしにはどうしても「人が多いほどいい」とは思えないんだけど。

日本人の人口は、国土面積と適切な(=人間以外の自然環境に悪影響を及ぼさない)人口密度(ってなんとなくでしかないけど)から考えて、7000万人くらいが適切だと(自分勝手に)思っているので、一時的に「経済の活力」が低下してもそれは止むを得ない、というよりいったんは必然的に受け入れなくてはならないこと、と思う。
自分の世代とかすぐ次の世代とかのことだけ考えれば「人口(特に若い人たち)が減る=国力が落ちる」と短絡的に結論付けるしかないのはわかる。

でも、100年後を考えてみようよ。
人口が「順調に増える」ってもしも2億人とかになってしまったら、日本の国土は文字通り人間で埋まってしまって、他の自然環境なんか残っていられる隙間なんてありゃしないじゃないの。
その時代の人たちはきっと「100年前には人口増やすことしか考えられなかった。おかげでこんなにひどいことになった。過去の過ちを反省し繰り返さないようにしなければ」と言っているでしょう。

日本で人口がこれ以上増えるとしたら、それはたとえば食料自給率の破滅的な低下とか、いわゆる「ハコモノ(建築物、道路、自動車など)」の氾濫による気候の砂漠化とか、そういうとんでもないリスクを代償にしなければ支えることはできないだろう。

「年金改革の前提ゆらぐ」などと、いかにも致命的なことのように言われているけれど、それは大きく括ってもあと40〜50年くらいのことでしかないし、それを「危機」と受け止めるのは過去の発想に囚われたまま、現在生きている自分の損得だけを勘定している人たちだろう。

少ない人口で効率よく稼げるようになればいいじゃん。
人間の手だけでなく、自然の恵みに任せて生きられるような価値観を、大人がしっかり考えて子どもたちに伝えていけばいいじゃん。
なんでもかんでも人間自身の手で「管理」してやらなければならないと思い込んでるから、自然が自然のままでいることとまともにつきあえず、それを壊して自分勝手なかたちに作り変えてしまい、……後の時代の「お荷物」を増やしていくんだよね。
アスファルトの道路やコンクリートの建物は「町の自然」を砂漠化させていくものだよ?
昨今日本の気候がどことなく「極端」な感じがするのは、全地球規模での温暖化にも原因はあるけど、その一因でもある日本の都市化に起因する「砂漠化」のせいでもあるんだよ?

人間は、もっともっと自然に対して無力であることを自覚するべきだ。
蚊に食われてかゆい思いをし、病気になればなすすべもなく死んでいく、それが自然に合った姿なのだ。

それをごまかして、人間よりもずっと長い時間をかけて育ってきた森を思いつきだけで破壊して、自分勝手なもの(たとえば誰も使わないような空港とか)を作って、それが「発展」だとか「繁栄」だとかの象徴だと思い込むことで自分の弱さ・はかなさの自覚から逃げる。
いい「大人」の発想がこんなに幼稚なのか、と思わずにはいられない。

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わたしはサルになりたい。
サルの目から人間を眺めると、人間がいかにみっともなく羽目を外しているか、すごくよくわかる。
彼らは傲慢でわがままで幼稚な人間を許容して、自分たちが絶滅しそうになっていくのを黙って受け入れている。
そういう「許し」や「受け入れ」ができないのは、まさに人間だけだ。
事実、霊長類の中で絶滅の心配がないのは現在のところヒトだけなのだ。
それは決して人間が「優れている」からではない。
自然のルールをちゃんと守ることができず、無神経に踏みにじっているからにすぎない。

たとえば、乳児死亡率は人間以外の霊長類では20〜40%。
生まれた赤ん坊の5人に1〜2人は大人になれずに死ぬのだ。
「かわいそう」「なんとかならないのか」と、親になったことのあるわたしも思う。
でも、自然は本来、そういうことをちゃんと計算に入れて初めて、まともに機能している。
どうにかしたいと思ってもどうにもできない、それが自然というものだ。

たとえば、ヒト以外のサルの平均寿命は、どんなに体が大きい種でも40年くらい。
(「寿命」はその種の体格の大きさと、ほぼそれに規定される代謝率で決まっているらしい)
ヒトがヒトとして生きるようになってから、自分自身で作り変えたさまざまな条件のおかげで、たとえば日本人の寿命は世界一(←実はこのせいで出生率が低下していると思うんだけど)。
薬とか医療とかいろんな手立てで「長生きする」ということは、本当に良いことなのか。
死ぬべき時に死ねない、というのは、実はとても恐ろしいことなのではないのか。

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もちろん、わたしも死ぬのはいや。そんなの生命である以上、本能的にそう思うのは仕方ない。
たぶん、あと20年ぐらい余計に生きたとして、その頃になってもやっぱり「今死ぬのはいや」だと思っているだろう。
でも、たとえば病気になって、なんとかして助かりたいと思いながらもどうすることもできずに
「死にたくないよぉ、もっと生きていたいよぉ」と嘆きながら死んでいくのは、それは当然のことなのではないか。
意識というのがあるせいで自分の死を受け入れられなくなってしまったのは、そういうふうに進化してしまったので仕方ない。
わたしは自分の死を受け入れられず、嘆き悲しみみっともなく生に執着しながら、最後まで後悔しながら死んでいくことだろう。
でも、それも仕方ない。
無理に生き延びるよりもずっと健全だと思う。

ああ…… またなんだか書きすぎてしまった。
わたしがもともと言いたかったことは、これだけ。

日本の出生率低下には、ちゃんと意味がある。
(どういう意味かはわたしにもまだわからないけど)
むやみにそれを否定せずに、受け入れて生きていくべきだ。日本人は。

2004年06月09日(水) My宗教観(ネガティブな面から)

(原案帳#22から転載しておきます)

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わたしが警戒する「危険な宗教4条件」(こういう宗教とは関わらないこと)

殺す宗教
 (といっても、歴史上殺したことがなかった宗教なんてまずないんですけど;
 だからあくまでこれは「現在」の状態、ということで。
 宗教は本来「殺す」ということからは最も遠いものだと思う。
 それなのに宗教を言い訳にして殺すことを正当化するのは、その宗教に対して最もたちの悪い冒涜だと思う)

儲ける宗教
 (宗教専従者が自分だけかろうじて生きていけるだけのお金を信者から預かる、ということを逸脱して「儲ける、稼ぐ」をやる宗教は、その宗教の信仰対象ではなく「お金を信仰している」ことになると思う)

増やす宗教
 (積極的に信者を増やそうとする宗教は、世俗的な「政治」を信仰してしまっているのだと思います。
 本当に良い宗教は、ほうっておいても人は集まってくるし、むやみと大きな勢力になったりする必要はないのです)

他宗教を否定する宗教
 (これは、こうやって否定する条件を挙げるわたしの態度ももしかしたらそうかもしれません。
 ただ、信仰する当人にとって自分の宗教が「絶対」であることと、他人が自分と同じ信仰を持つか持たないか、ということは、ぜんぜん別のことだと思っています。
 わたし個人にとってキリスト教の神さまは絶対だし「他のなにものをも神としない」のはわたしにとって当然のことだと思っています。
 けれど、だからあなたもわたしと同じ神さまを信じなさい、とは誰にも言いたくありません。
 その人が自分と異なる何かを信じていることを間違っているとも思いません。
 むしろ尊重したい、と思います)

この後ごちゃごちゃ書いたけど、しょせん人間の限界ある頭でいくら考えてもまともな結論は出ません。なのでカット。

あ、ひとつだけ。
わたしの考え方は、100年くらい昔の宗教哲学者、キェルケゴールの影響をかなり受けているらしいです。
(「キルケゴール」でもいい)
興味のある方は検索とかしてみては。

2004年06月07日(月) HPすんげぇ久しぶりに更新

森博嗣の浮遊工作室

だって、面白いんだもん>森博嗣



↑で結局『すべてがFになる』『黒猫の三角』を漫画で、『そして二人だけになった』を文庫で、買ってきてしまったのでした(^^;;
そ、それはともかく↓本題!


http://cgi.jackies.jp/cgi/jackies.jp/user-cgi-bin/topics.cgi?

以前は「会津里花の行動予定」として使っていたけれど、これからはGIDしずおかの活動予定のお知らせに使うことにしました。

あと、これまたすんげぇ久しぶりにトップページも更新……する気力、あるのかしら??

2004年06月06日(日) 久々にネットにハマって

5月26日の日記を書きました

★1・脱「DV」宣言(?)
★2・Re:脱DV宣言

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久々にネットにハマって、かなりあちこちを巡り歩いてきた。
けっこう疲れた。
生身の人間とかかわりあうわけではないので、むなしさやさびしさはなくならない。
けれど、それでもそこそこ充実した時を過ごした……って、6時間もたってるよ!
これはいけない。病的になってしまう。
なので、今はいったん離れようっと。



★1・脱「DV」宣言(?)

なんだか、悪い夢からさめたような気がする。

わたしはいったい、なんだって自分のことを「DV加害者」とか言っていじめなくてはならなかったんだろう。
確かに、追い詰められてそのようにしてしまったことがあった。
けれども、その後は?
誰かに対して暴力を行使したことがあったか?
皆無じゃないか!
(……と言い切れるのか?わたしの言動に怯えた人が本当に一人もいなかったのか?
でも、少なくとも物理的に腕力を使ったことはないし、人を怒鳴りつけたこともない。
それは言い切れる)

わたしが過去に自分が人を苦しめるようなことをしてしまったとしても
今、それに拘って苦しみ続ける理由は、もう、ない。

「苦しみ続ける理由がない」というのは、時々かつてのわたしのパートナーのことを思い出して苦しむことが
なくなってきたとは言わないけれど、たとえばどうしても彼女に手紙を出したいとか電話したいとか
ある意味「危険」な行為につながるほどではなくなったから、ということもある。

わたしにとっては、もう過去の人。
わたしの苦しみを、そうとは望まないまま分かち合ってくれた人。
感謝しているし、申し訳ないことをしたとも思う。
けれど、それだけ。
彼女はまだまだこれから幸せになることができるし、そうなってほしい。
子どもも、確かにわたしが「精子提供者」ではあるけれど、
子どもに対して「父親」であることについては放棄しているし、失格だと思う。
だから、そのことを気に病んでも何かできることがあるわけではない。

わたしも、自分の道で幸せを見つけようと思っている。
彼らのことは忘れて。(まあ、そんなに簡単に忘れられるわけはないけど)
それが彼らに対する、いちばんの思いやりだと思う。

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★2・Re:脱DV宣言

とか言ってるけど、また苦しむようになっちゃうかもしれない。
「暴力加害」だけはしないけど。

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