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2002年10月28日(月) FedExで届いたものは・・

お昼過ぎ、玄関の前にFedEx(アメリカの宅急便のようなもの)の小さな箱が置かれているのに気が付いた。なんだろうと思って見てみると、マーク・ウォルス(仮名)というこの家の大家さんの名前が書かれていた。

近くに住む 大家さんがウチに荷物を送ってくるというのも変だけれど、とりあえず開けてみることにした。中から出てきたのは、書類とそれを送って来た人の名刺、なにかフィルムケースのようなものがいくつか入っている茶封筒だった。この茶封筒は何だろうと思い、厳重に封されているテープを見てドキリとした。赤いテープに黒い太文字で「EVIDENCE EVIDENCE・・・」(証拠)と書かれていたのである。あ、これは開けてはいけないものだったと思い、もう一度箱を見てみると、住所は確かにここだけれど宛先がマーク・ウォルスになっている、大家さん宛てに来たものだったのだ。(以前はここに大家さんが住んでいたこともある)

なんだか分からなかったが、開けてしまったものはしょうがないので、夫が帰るまで待って、どうすればいいか聞くことにした。

「ねぇ、これ 間違えて開けちゃったんだけど何だと思う?」と、わたしが訊くと、しばらく見ていた夫が 「ちょっと マズイものを開けちゃったよ」 と言って、ひとりで考え込んでしまった。

それは、誰かが子どもの認知をするために血液鑑定所に調査を依頼して、弁護士を通して送られてきたその結果だったのである。

でもなぜ、そんなものがここに? 相手の女性が前の住所(ここ)しか知らなかった? さて、これはどうするべき?

「わたしの所為にすれば、よく分かっていなかったってことで許されるから、明日、マークのオフィスに電話して、謝って取りに来てもらうようにするよ」と、私が言っているのに、夫は 「弁護士の所に電話してこの人はここに居ない(知らない)と言ったほうがいい」 などと 関わりたくないようなことを言う。

「弁護士事務所だって、FedExだって、いい加減だよ、書留にするなり、相手を確認するなりもっときちんとして欲しいよ。それに、その見ず知らずの人にそこまでよくしてあげなくたって・・・」というのが夫の言い分。

わたしは「それではあんまりだ、問題が先送りになるだけだし、この人知らないなんて嘘はつきたくない(そんなこと言って、ばれた時の方が信用なくすよ)」という言い分。

結局、私の意見が通って、明日、私からマークに電話することになった。

なんだか、こういう事があるとアメリカっぽいなあって思ってしまう。


でもねぇ、マークって決してカッコよくないし、すんごく太ってるし、仕事をバリバリしてるイメージはあるけど、もてるとは思えない人なのだ。全然もてないウチの旦那さんに「なんかさぁ、(マークでも外で子ども作っちゃうなんて)自信ついた?」なんて言ったら、素直に「うん」と言われてしまったのだった。


2002年10月25日(金) もしも日本が戦争することになったら

わたしが2歳から18歳まで同居していた義理の祖母は、父の母でも母の母でもなかったから、父の母や母の母よりひと回り以上も年がいってて、つまり、古い考え方の嫁姑の確執を絵に描いたような祖母だったのだが、なぜかわたしのことは気に入って猫かわいがりしてくれた。

祖母には、小学校の教師だった夫と3人の息子たちがいたのだが、戦争や病気で皆、死んでしまった。祖母は天涯孤独の寂しい身の上だった。そこで、わたしの父と母が結婚した時、親戚にあたるその家に夫婦養子となって入ったのである。

わたしは「おばあちゃん子」だったから、物心ついた時からずっと祖母の話に耳を傾け、祖母の影響を強く受けて育った。おばあちゃんが語ってくれた戦争の話は、4つや5つだったわたしでも涙無くして聞けないほど悲しいお話で、わたしはその頃から、戦争は絶対にあってはいけないことだ強く思っていた。はだしのゲンを読んだことがなくても、広島の原爆資料館を訪れたことがなくても、既に強い思いとして刻み込まれていた。

わたしのそういう気持ちはたぶん同年代の人より、より強いものだと思われる。9.11の後、報復という名の戦争に気持ちが向かっていたアメリカ人にどうして日本人は同じ気持ちになれないのかと言われたとき、わたしは「日本人の戦争体験が戦争は忌むべきものとして身体の芯から染み付いているからだ」と答えたかったのだが、どうしてあのおじいさんにそう言ってくれなかったのかと夫に聞いたとき、夫は、わたしに言われるまでそんな答えは思いつかなかったと言った。

そんなわたしが最近、日本にも軍隊が必要なのではないかと思うようになった。

ボストンにいた頃、ドイツ人や韓国人の友人が、自分の国では兵役の義務があるから帰ったら2年とか3年とか、軍隊に入るのだと言うのを聞き、先進国では徴兵の義務がないのは日本くらいだと言うのを聞いても、その事実に驚きはしたけれど、男の子ふたりの母として、日本人でよかったと思ったものだ。

アメリカには陸海空の軍隊があって、その士官を養成する士官学校の生徒はエリートで、教会に行くような敬虔なクリスチャンでも軍隊に働いているのだという事実に、わたしは長い間、違和感を持っていた。軍隊は戦争をするためにあるのだと思っていたからだ。

けれど、軍隊は戦争をするためにあるのではない。ひとつの国が国としてあるため自分の国を守るためにあるのだと思う。

日本が、お金をばら撒くだけの外交しかできないのも、北朝鮮を始めとした諸外国に舐められたような外交しかできないのも、日本に軍隊がないからなのだ。戦争になったら困るのは日本だから、仲良くしましょうといって各国に恩を売るために拠出する金額はODA関係だけで年間1兆5千億円にものぼる。(資料:1996年)

国連などの国際機関に多額のお金を拠出していても、大きな発言権さえもない。何かあったときには、日本にも駐留しているアメリカの軍隊に守ってもらわなければならない。

日本はずっとこのままでいいのだろうか。

わたしは日本の若者が自分の国について考える機会がないのは、ひとつは他の国のように兵役の義務がないからなのではないかと思う。

軍隊があったほうがよいという意見は過激にすぎるのかもしれないが、外務省や財務省の弱腰で国益不在な、お金のばら撒き外交を見ていると、そんなふうにも言ってみたくなる。


2002年10月23日(水) 緊張の中でも日常は非日常ではない

きょうは、日本人の奥さん達が30人も集まって「幕の内な」お弁当を食べましょう・・という集まりに行ってきた。 

久しぶりにお化粧して、よそゆきの服を着てお出かけしたので、たまには旦那さんにこんな私を見せてあげようと、帰ってきてもお化粧も落とさず、着替えもせず、疲れてたので、そのままお昼寝してみた。旦那さんの出張中に無差別狙撃事件があって以来、ちかごろの私はなんだかかわいい。(と、自分で言ってみたけど、寝起きに見た鏡の中の自分に驚いて「だれ?このケバイおばさんは?」と思ったことは内緒)

きょうの会でも無差別殺人犯の話が出て、「ウチのとなりのオジサンは、相変わらず外を走っているけど、ジグザグに走っているんだって言ってた」(そんなことして効果があるんだろうか)とか「こんなに犯人が捕まらないのは警察の人なんじゃないか」(そんな訳ないでしょ)とか「ウチは毎日ブラインドを下ろして外から見えないようにしている」とか、そんな話題でもちきりだった。

夫のように必要以上に過剰反応している人もいれば、夫の同僚のように心配しても仕方がないと言って何もしない人もいる。いつもどおり外をジョギングしている人も何人も見かける。少しでも危険を防ぐため、買い物した後の駐車場で、車まで走っているも多い。みな多少の緊張感を持ちながら、それでも、それぞれの日常生活は変わらない。

そんな中、きょうの話の中で一番印象に残ったのは、「私たちはここで、いつ自分が殺されるかもしれないという(多分10万分の1くらいの)危険にさらされて暮らしているけど、イスラエルやパレスチナでは(自爆テロによって)この100倍も1000倍もの死の危険と隣り合わせで日常の生活を送っているんだよね。そんなことをふと思った」という一言だった。


2002年10月20日(日) ストレスの「もと」

相変わらずsniper(狙撃犯)は捕まっていません。昨日の夜は、ついに12人目の被害者が出てしまったようです。

3日前、夫が出張から帰ってきました。今回ほど夫が帰ってきてくれて、ほっとしたことはありませんでした。やっぱり、わたしも見えないストレスを溜めていたのでしょう。いつもの3倍くらい優しく「おかえりぃ〜(はあと)」って言って、ゴロゴロとマトワリ付いたのも 束の間・・・・。

ところがっ、聞いてくださいよ奥さん! だったのです。

心配性で、何でも大袈裟に考える性格で、全てのコトを一大事だっ!と言い張る夫は、テレビを見て、今後の見通しの自己分析を始めたのです。

「平日より日曜日の方が人出が多くて安全だから買い物はこの土日に済まそう」
「見通しの悪いごみごみした所のガソリンスタンドに行かなきゃだめだよ」
「現場は拡散してきてるけど、絶対もとの場所(ウチの近所)に戻ってくるよ」
って、そりゃーもうウルサイったらありません。

いままでは、テレビを見ても半分も分かっていなかったので、「大丈夫かなあ」と心配するわたしとは対照的に、子どもたちは「そんなもん宝くじより当たる確率、少ないんだよ」と言って平然としていました。わたしの漠然とした不安は、夫が帰ってきたことによって、見える不安に変わってきてしまいました。

きょうも、夫と一緒に買い物に行ったのはいいけど、それだけでとてもストレスになりました。

ひとりで行けばよかったとは思わないけど、自己防衛して危険にあう確率が減るならそうするべきという夫の言い分も分かるけど、それでも・・

「パパと一緒にいるとストレスなんだよっ」って、思わず言ってしまいました。

夫は「ごめん、もう言わないよ」と言ったのに、買い物が終わって帰ってくるなり、ニュースをつけてテレビに釘付けになっていました。

あーあ、わたしのストレスのもとはなくなりそうにありません。

もちろん、sniperが捕まってくれることが第一で、夫の所為ではないと分かってはいても。


2002年10月11日(金) 雨降りに私は母になる 〜学校事情〜

ここ2日ばかり、一日中雨が降り続いている。 だから、

いつもはスクールバスで登校する息子たちを私は学校まで送っていく。

ここに来て初めて知ったのだが、アメリカの高校は義務教育なのだ。

日本のように公共交通機関の発達していないアメリカでは、

高校生も、黄色いスクールバスで学校に行く。

バスは、子どもたちが全員乗れるほど台数が揃っていないので

小学生から高校生まで、時間差で使い回しをする。

朝6時15分に高校生の乗るスクールバスが来る。

それを送り届けると、7時15分に中学生の乗るバスが来る。

小学生は一番最後で、8時15分に来る。

まだ夏時間なので(時計を1時間早めた状態)5時半に起きても、

家を出る頃になっても、雨降りだと暗いままである。


学校にクラスがあり、クラス単位で行動するのは小学校までで、

中学・高校は日本の大学のように、個人単位で科目を履修する。

自分の取る科目の教室に1時間ごとに移動するかたちだ。

廊下には個人のロッカーがあって、学校に来たらすぐ、そこに

ランチボックスとバックパックを入れ、勉強道具だけを手に持って

各教室へと急ぐ。 移動時間が短いのだ。

ロッカーは小さくて最低限のものしか入れられない。

傘も冬の防寒用のコートも入らない。

アメリカ人が雨降りに よく傘なしで歩いているのは、中学・高校時代に

そんな事情で、傘なしで登校して雨に濡れることに慣れてしまうから

なのではないだろうか。

雨に濡れるのは、かわいそうだと思う日本的発想の私は、

「きょうは雨降りだから学校まで送っていくね」と提案する。

雨の日には、いつもの3倍くらい多くの車が車寄せに並んでいる。

日本的発想と言わずとも、雨に濡れてはかわいそうと思うのは

どこの母親でも同じということか。

朝2回のドロップ・オフをしたら、私は8時には開放される。


スクールバスの使いまわしのせいで、高校生は2時40分には

学校から帰ってくる。中学生は3時5分。小学生は3時半。

それから長い放課後。

日本の高校生と比べたら なんと楽なことだろうと思う。

塾にも行かず、親の干渉も排除した、自主性だけが頼りの勉強方法。


雨降りに学校までの運転手をするくらいしか、私は親らしいことを

していない気がする。


2002年10月05日(土) 「運動会」で涙したわけ

Code Blue も翌日の金曜日には解除になり、5日(土曜日)には、日本語学校の運動会が、青空の下 開催された。

日本語学校の運動会は、今年からできた幼稚園年長クラスから高校3年生までの、園児、児童、生徒(ちっちゃくてかわいらしいのから、髭の生えたオッサンみたいなのまで)が一堂に会して行なわれる。それは、まさしく日本語学校ならではという光景なのだ。

ただ、運動会で使用する道具の関係からか、毎年同じプログラムで行なわれるうえ、2学年ごと同じ競技をし、さらに高学年になるほど出番が少なくなるという、もう今年で4回目の我が家には、飽き飽きして楽しめないはずのイベントだった。

今年は、リレーの選手に選ばれなかったと言ってくやしがっているこうすけ(小6)と、リレーに出たいなんてガキだね、そんなもん辞退するんだよと言っているなおき(中3)の出ない、最終種目「紅白リレー」。朝から居ても 午前中1種目、午後2種目しか見るモノがない。

そんな私だったが、日本語学校の運動会を見ていたら、「運動会は、やっぱり日本の秋の風物詩だよねえ」とじんわり涙があふれてきて、いつのまにかぽろぽろと涙をこぼしていた。

半周遅れになっても、一生懸命完走している子に、思わずガンバレーって、拍手しながら応援していたり、最後の紅白リレーの迫力に、どの子も一生懸命に走っているその姿が、短いドラマのようだったり、私の涙腺は緩みっぱなしだった。

最後の校長先生の挨拶を聞いても、泣けてきたのは、あの中でも たぶん私くらいのものだっただろう。


今年の、7月4日、独立記念日、子ども達が一足先に日本に帰ってしまっていたので、わたしは夫とふたりでDCまでパレードを観に出かけた。あの時も、私はパレードを観ながら、ぽろぽろ涙をこぼし続けていた。

わたしは泣きながら、自分でも意外な その涙の訳を考えていた。

一番初めに思ったのは、もしかしたら、私はなんだかんだ言っていてもアメリカのことが好きじゃないんだろうかということだった。ワシントンやリンカーンが苦労して、母国アメリカを築いていったその国が226回目の誕生日を迎えられたこと、この国の過去に思いを馳せているのだろうかと思った。

それから、次に思ったのが、夫が日本には帰りたくないと言っているから、私はもしかしたらずっとアメリカに住むことになるかもしれない。日本に帰りたいのに帰れない。そんな自分がけなげで可哀想に思えるからだろうかと思った。

それから、このパレードしている人たちの姿に感動しているからだろうかと思った。暑い日で、Tシャツで立っているだけでもダラダラと汗が流れてくるのに、みんな重そうな衣装を着けて、パレードに情熱をかけて一生懸命やっている。その姿に。


結局 私はその時の涙の訳が分からなかった。けれど、運動会を観ていて思ったのは、私はあの時と同じ理由で泣いているのだろうということだった。

一生懸命にひとつのことに取り組む姿に感動し、それからそれがいまの自分に一番欠けているものだと自覚し、涙をこぼさないではいられないのだ。

いまの私はとても中途半端で不安定だ。駐在員の妻の中には、せっかくのチャンスだからとこちらで大学に入りなおしたり、こちらで仕事を見つけたりする人もいる。また、英語の上達なんて望まない、楽しければいいと、日本人奥さんたちでかたまって、日本語のお稽古事をしたり、ランチをしたりして、アメリカ生活に溶け込むことを諦めてしまう人もいる。わたしはその中間でどちらでもないのに、初めはそこそこにあった好奇心や気力もどんどん失せて、内向的になってしまっている。

アメリカの滞在は2年の予定だったのに、4年になり、さらに延び、先の見えない不安と焦燥感に、私は家族にも世間にもひとり取り残されたような気持ちになっている。

それでも、私は「みんなで日本に帰ろうよ」と夫に言うことはできない。私には、夫がここに居たいという気持ちがよく分かるからだ。私の無理を通せば、こんどは日本に帰った夫が私のような不安定な気持ちになり、きっと悔やみきれない後悔をすることになるだろう。

いま、夫と私の間では 私がひとりでしばらく日本に帰るということまで話し合われている。子どもたちは、父の転勤ででもない限り日本には帰らないときっぱりと言ったからだ。けれど、それさえも決めかねた状態でぐずぐずと歳だけ取っていくわたし。






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2002年10月03日(木) Code Blue

きょう、メリーランド州 モンゴメリー・カウンティーで銃による無差別殺人事件があり、5人の方が犠牲になりました。

(この日記は現地時間の10月6日23時に書いています)

Mカウンティーの中の 異なる場所で、1〜2時間の時差のうちに、次々と通り魔殺人があったのです。

「コード・ブルー(学校への出入りを制限し、屋外活動を禁止する勧告)が出たから、外には出ない方がいいよ」と電話をもらったので、テレビを点けたら、本当にウチの近くのガソリンスタンドやモールが犯行現場になっていました。

犯人は逃走中とのこと。

きょうこそ、ずっとサボっているスポーツクラブに行って泳ごうとか、買い物に行かないと冷蔵庫が空っぽとか考えていたのに、みんなキャンセルです。

テレビではずっと、それぞれの犯行現場や目撃証言が 繰り返し流されていて、嫌でも大事件と感じざるをえません。

去年の9.11といい、今回といい、こういう時って、いっつも夫は出張中なのです。(1年のうち3分の1は出張しているので、不思議ではないけれど)

家の外に出なければ大丈夫だとはいえ、やっぱり怖いです。9.11のことを他人事のようにしか思えなかったと日記に書いたバチが当たったのかと思いました。

子どもたちの学校は、急いで家に帰したほうが危ないからか、普通どおりのスケジュールで、午後のクラブ活動等が中止になっただけでした。

午後になって帰ってきた子どもたちに、「大変だった?」って訊くと「別に」と答えました。うーん、バス停までも迎えに行かなかったから、冷たい母だと思ったのかしらん。

夜、家の外の郵便受けまで20歩ほど歩いて行った時、ヘッドライトを点けた車が通り、思わずビクッとして、駐車してあった車の陰に隠れそうになりました。

そんなふうに、わたしにとっては大事件だった無差別通り魔殺人事件も、日本ではほとんどニュースにもならなかったようでした。

「明日、学校どうなるのかな、休みかな?」って、私が心配している横で、「ママねぇ、アメリカで発砲事件なんて、どれだけ起こっていると思ってるの、そんなもん いちいち学校休みにしたり、日本でニュースにしてたら いくらやっても追いつかないでしょ」 と息子に言われ、はーあ そんなもんですかと 自分よりよっぽど大人な息子にちょっと落ち込んだ母でありました。






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2002年10月02日(水) うんこな話 ぶひぶひ♪

昨日、父とのちょっとしんみりした話(←のつもり)を書いたと思ったら、今日はうって変わって「うんこな話」など繰りひろげてしまおう・・な山田(仮名)です。こんにちは。

あ、ドーデもいいですが、人妻(自分で言うなって)8人ほどで集まって、旧姓は何?って話になりまして、「わたし、山田!」って言ったら、 ぶひゃ〜ぁ だははって笑われたことあります。いくらお酒が入っている席だからってあんまりです。ひどいです。傷つきました。まさか苗字で笑われるなんて、思ってもみませんでした。顔のことを笑われるのと同じくらいヒドイとおもいます、って顔で笑われたことはないですが。(←それが言いたかったんかいっ)

あ、もうひとつ、今日の日記はリンクが多いです。ちゃんと戻ってきてね(はぁと)

あれれ、うんこな話はどーした? 

実はですね、enさんの「うんこ日記」っていうのを読んでたら、しらない間に、息子が背後に立っていて、「へーぇ ママって『うんこ日記』なんて、そーゆーのよむんだぁー」なんて言われちまいまして、ギクッ! 

・・・じゃなくて、

けさがた、みにむりんちゃん(←ちゃん付け)のオフレポを読んでたら「うんこ」「うんこ」「うんこ」の「れんこ」だったのです。
うんこの話を書きたくなろうってもんです。(←違う?)


以前、駐在2号。さんが「アメリカのトイレは、下水管が細いのか知らないがよく詰まる。」と日記に書いてたんですが、ちっちっちっ、駐在さん、認識甘いです。

あれは、アメリカのパイプが細いんじゃなくて 日本のパイプが太いんです。
(あ、ちっちゃいフォントで見てる方、バイプじゃないですよー)



って、同じじゃねーかよ。 ←いやん、ツッコマないでぇ〜

なぜだか知っていますか?


国土、車(アメ車のこと)、ずうたい、態度、なんでも大きいアメリカの中にあって、唯一、日本の方が大きいものがあったのです!


そうです。それは、「うんこ」


日本人は野菜などの繊維質のものをたくさん食べるので「うんこ」が太いんだそうです。
肉ばっかり食べてるアメリカンとはワケが違うんです。
さすが 長寿世界一だけのことはあります。
なんだかんだ言っても、日本人って健康体!?

わたしゃ、この話を聞いたときには目から鱗が落ちましたね。
よくやった! 感動したっ!(by小泉さん)って言いたくなりました。


日本人はもっと、でっかい「うんこ」 のこと、誇ってもいいんじゃないでしょうかっ!

(あ やっぱり恥ずかしいので 誇りたくないです)

ウチも日本から引っ越してきたばかりの頃は、よく下水道が詰まって水があふれ出したものです。最近、詰まることがなくなって、ふと「うんこ」を見たら、うんこが細くなっていました。

そんなところだけ、アメリカナイズされてどーするってなもんです。ってゆーか、ちゃんと野菜も食わせろよ、自分・・・なのでございます。とほほ。






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あ、そんなこと言うアメリカ人なんていないっすね。


2002年10月01日(火) ちょっと悲しい父親との関係

わたしは大学4年のときに、当時の総理大臣の秘書のうち5人が働いている、衆議院議員会館でアルバイトをしていたことがある。秘書のお手伝いなので、電話番をしたり、他の議員秘書のところへお使いに行ったり、来客にお茶を出したりという、本当に下働きの仕事だった。

ある時、総理官邸にたくさんの資料を持って行かなければいけない用事があり、年配の男性秘書と一緒に大きな紙袋を2つずつ持って、官邸まで歩いてついて行くことになった。

官邸は、議員会館と通りひとつ隔てた目と鼻の先にあるのだが、門の前にも建物の前にも、数人ずつのSP(警備員)がいて、いやでも緊張させられる雰囲気を作っていた。

一歩、官邸の中に入ると正面の奥に階段があり、通路に沿ってふかふかの赤い絨毯が敷きつめられていた。ドアの内側に居たふたりのSPに両脇から最敬礼されて、わたしはとても戸惑った。

その赤い絨毯とSPの最敬礼を実感したときわたしは、総理大臣になりたいと思う人の気持ちがよく分かった気がした。確かにそこには日本の最高権力があると、若干ハタチを過ぎたばかりの小娘は興奮気味に思ったのだ。

これを経験したわたしは、なんだか、もう怖いものなしだと思い、急に有名になって勘違いしてしまう歌手や俳優の気持ちも分かると、そんな気持ちになった。

当時、付き合っていた彼(いまの夫)に、この話をすると、
「さとこは、そういうもの(権力)に反感を持って、そういうものに迎合しない姿勢でいる人だったのに・・・」と、悲しい顔をされてしまった。

「違うよ、その権力を欲しがる人の気持ちがよーーく分かった気がしたと言っただけだよ」と、反論したけれど。


卒業前の、ある時、父が、議員会館に来るように秘書に呼ばれて、わざわざそのためだけに上京してきた。わたしは父に 「中で余計なことを言わないで」と部屋の前で、小声で耳打ちした。すると父は本当になんにも喋らず、「はい、はい」と、かしこまって従順に返事をするだけだった。

ああ〜っ、違うって! 「余計なことは言わないで」とは言ったけど、 「なんにも喋らないで」 とは言ってないと、心の中で繰り返したが、無駄だった。

わたしは、1年近くアルバイトをしていて、皆に「先生」と呼ばれる国会議員とエレベータで乗り合わせたり、不意に部屋に訪ねてくる、同じ派閥の新人議員の対応をしたりと、もう慣れている場所だった議員会館だけれど、父はもしかしたら入ることさえ初めてで緊張していたのかもしれない。

議員会館での第一秘書が、特に用もないのに父を呼びつけ、奥の部屋のソファに父と私を並んで座らせて、目の前でえらそうにしているしているのと対照的に、そのときの父がとても小さく見えた。

きっと誰にでも親を超えたと思うときがあるものかもしれないが、いままでずっと尊敬していた父が、もう、わたしの上にいる人ではなく、わたしは父を超えたのだと(不遜にも)思った、ちょっと悲しい瞬間だった。






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あの頃の平均時給って650円くらいだったと思う。


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