momoparco
  超自我
2007年02月05日(月)  

イド、自我、超自我
<id, ego, superego>
 
「イド、自我、超自我」は、精神分析学者フロイトによって提唱された、精神構造を3つに分けた概念。
 
フロイトによると人間の精神構造は「イド、自我、超自我」から成り、その中でイド(id)とは、人の精神エネルギーの源泉に当たる。
 
■イド(id)
イドは快楽原理に基づいて、本能のままに「今すぐあれがしたい」「これがしたい」という欲求を出して満足を求める。
 
■自我(ego)
このイドの上に存在し、理性的にイドをコントロールするのが自我(ego)である。
 
 自我は本能的な欲求を現実にあった形にする役割や、その欲求をかなえるために必要なプランを立てるなどといった準備行動を作り上げる。
 
例えば、「嫌いな仕事でも家族の生活のためだ」と思い、仕事を続けることは自我の働きによるものである。
 
■超自我(super ego)
最後に、超自我(super ego)とは常に道徳的、意識的であろうとする部分である。子どもは親から叱られたり褒められたりすることで、行動の善し悪しを学ぶ。
 
幼い頃は親の判断基準に従っているが、成長するにつれ「これをやっては他人に迷惑がかかるからやってはいけない」と自分で判断できるようになる。
 
この意識が超自我である。
 
超自我は自我の意識よりも強く、イドを律する。つまり、自我はイドと超自我の間に立つ調整役であり、三者の関係はそれぞれ自動車、ドライバー、交通法規になぞられることができよう。

転載元リンク


 自我は心の主とも云える存在で、自分のことを「私」と感じる部分、つまり、自分を自分と意識(認識)できる部分であるらしい。しかし「私」を感じる部分でありながら無意識的でもある。

 快楽原則を持つ欲求(エス)と、良心の塊のような優等生でしばしば融通の利かないところがある超自我の中間的な役割にあって、バランスを取り、社会に適応しようとするのが現実原則を持つのが自我。

 しかし、超自我が強すぎると、コントロールを取るのが難しく、時として自分自身を縛ったり苦しめたりしてしまうという厄介なことが起こってしまう。

 超自我が作られるのは子供の頃や若い時に受けた教育や環境に因るところが多く、自分が自分として感じられる以前に潜在的に植えられているもののようで、なかなか自己コントロールが難しい。

 その「世界」にいる事によって出来上がった無意識の中の超自我を、その「世界」から一歩表へ出た場所から眺めると「中」と「外」の違いがわかるのだが、それがわかるということは目から鱗が落ちるほどの衝撃である。

 しかし、自分を培って来た超自我はそう容易く変質させる事は難しく、一歩「中」に近づけば再びもともとの超自我に支配されそうな危うさがある。

 トレーニング次第で超自我を本来の姿に戻すことが出来るそうだが、その場合、最も大切なことは欲求(エス)に耳を傾け、できるだけ欲求に忠実になることだそうだ。つまり、自分の心に忠実になることだそうである。

 今、私に一番必要なのは心の声に耳を傾けること、嫌な事は嫌だという事、だというのは昨日カウンセラーから聞いたお話である。
 話の理屈の上では大いに納得できるものだが、実践しようとするとそう簡単には行かない。考えれば考えるほどわからなくなりそうだからである。しかし、話す事によって絡んだ糸がほぐれて行くような実感はある。蚕が糸を吐き出して外側からあの堅い繭を作るのだとしたら、私は逆に内側からその糸を少しずつほどいているような、そんな状態なのかも知れない。



Copyright©*momo* 2001-2006 (Prison Hotel)