momoparco
  理屈じゃないのよ涙は
2007年01月28日(日)  

 初詣のおみくじ以来、今年のモットーは、忍の一字とトップページにも書いてあるのだが、我慢というものはどこまでが我慢でどこまでがそうでないのか、している時にはなかなかわからないものではないか。心に無理を強いていても、そうでなくてはならない時、それを我慢していると自覚はないように思う。理屈の上では。たぶん、理性でも、こうあらねば、ああせねば、と次の行動への手配はあっても、実際に心の声に耳を傾けている時間も余裕もないのだと思う。

 心にある受け皿が知らず知らずにいっぱいいっぱいになってしまった時に、理性と行動がさっぱり噛み合わなくなる自分に気がつく頃に、ようやく無理をしていたのだと知るのではないだろうか。それはキレてしまうという時かも知れないし、壊れてしまうという時かも知れない。

 我慢というのはなかなかやっかいなもので、一度そういう事があると次の沸騰点が低くなる。初めは100℃まで我慢できていた、そこまで行かなければ沸騰しなかったものが、次は80℃のところでその状態になり、その次には50℃、更に次には20℃、しまいには、ちょいと触ろうものならもうそれだけで気が触れるほどにパニクってしまう。本人も回りも大やけどをおうのである。なすが堪忍、するが堪忍。それは確かに大切なことなのだろうけど、生理的現象にまで及ぶと心を理性ではどうにも方向づけすることが出来ない。そもそも心を変えることはできない。

 考えすぎ、真面目すぎ、などなど、後になってそうならないためのアドヴァイスを受ける頃には、なるほどそれは確かにそうだったかも知れないと思いながら、何か矛盾を感じている自分もいる。

 それは何なのかと考えたら、考えすぎも真面目すぎも、ごくごく自然な自分の在りようなのだ。つまり、それが楽だったのだということ。むしろ、深く考えず、いい加減に、ということを無理してしようとしても、知らず知らずに思考回路は別の軌道を行き、ふと気がついてみれば元の木阿弥。

 なんて面倒なんだろう、人間て。
せめて、雑誌くらいはパラパラとめくって愉しみたいと思うのに、相変わらず何かがそれを阻んでいる。



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