momoparco
  ナイトヘッド
2007年01月15日(月)  


 雪道で転ぶというお話を書いたら、雪国にお住まいのお友だち ellie さんから、飲み会の帰りに雪の上で滑って転び、しばらく気絶していらしたというコメントをいただいた。たぶん脳震盪ではないかなと思った。

 かれこれ数十年前、まだ私が小学生の頃、母からお使いを言いつかり、走ってでかけたものの道の角でステンと転んで頭を打ったことがある。その時も確か後頭部をしたたかに打ち、しばらく意識を失っていた。意識を失うのはとても気持ちが良くてそのまま心地よい眠りに入ったような気がした。気がしたのは、上から「大丈夫?」という男の人の声が聞こえて気がついたとき、あたかも眠りから醒めたような気分だったからだ。

 次の瞬間にははっきりと私は覚醒し、覗き込む男性の顔を見上げていた。しかし、その頃は知らないおじさんに声をかけられてもお話してはいけないという があり、咄嗟にひとさらいのおじさんかも知れないと思った私は、たった今目が醒めたとは思えないほどの素早い動きで脱兎のごとく逃げ去ったのである。
 
 走りながら私は眠っていたんだと思った。心配をして声をかけてくれたであろうおじさんにはひと言の言葉を返すこともなく、それが気がかりになりながらも、決して振り返ることもせずに走りに走った。きっとおじさんはこちらを見ているだろうと思ったが、照れもあったような気がする。
 
 たぶん、あれは気絶していたんんだろうと思う。すぐに敏捷な動きで起き上がり走り出す事が出来たのは、脳みその位置が揺れるほどではなかったのだろう。その時のことを時々思い出すと、あおのおじさんに申し訳ない気持ちがある。それはもう今となっては時効だし、きっとおじさんは憶えてはいないだろう。同時に冷たい地面の上で眠るということがあれほど気持ちの良いものだとは知らなかった、と眠った時の心地よさの方が私には印象深かった。以来、同じような場所や条件で同じように眠った記憶はない。幸いなことに大事にはならず、脳みそも健全であった。(と思う)

  ところで、ここずっと私は一冊の本も読んでいない。活字中毒の私はいつでも本は手放せなかったし何かしら読んでいた。以前読んだものの再読する癖もあるので、読むものにはことかかなかった。ベッドに入れば赤ちゃんが眠りにつく時のおしゃぶりのように本を読むのは儀式でもあった。

 今はそれが出来ない。活字を追うことが苦痛になり内用に入っていかれない。それだけでなしに雑誌の類もダメである。画像は購入したものの積読の形になって放置されたままのものたち。ああ、なんとういう勿体なさと思えば感無量。

 頁を繰るたびに入り込んでくる画像や文字、そうした情報がとてつもなくキツく感じられ、手にはするものの読む事はおろか眺めることも続かない。集中力だのという問題ではなくて、頭が拒否をする。

 何かが頭の中に入り込むと、脳は勝手に情報処理を始めるだろう。その脳みその動きが止まってしまったような状態。脳みそが眠ってしまったような。

 以前見た映画の前宣で「りゅうおう島からの手紙」の一部が流れ、単純に涙した。感受性が止まってしまったわけではないのだろう。たった数分の本当に一部のセリフを聞いただけで涙がでるほど悲しい気持ちになった。しかしこのところ、それ以来あまり感動したりという事がない。しばらく前に書いたが、何かが邪魔をして私の感受性にまで届かないのである。目の前に、感受するということを阻止するように見えないカーテンが下がっていて、リアルにこちらに届かない。それがなんと歯がゆくも、ももどかしい。

 無理にものを考えようとしたり頭を使うと、頭のてっぺんから前頭部にいたる前の方がパンパンに張ったような感覚がある。頭痛とまでは行かないが、筋肉が張り切ってしまった時のように、脳みそが膨張してしまったような感じだ。あまり心地よくない。だから、余計にものを考えないように(と言っても人間は知らず知らずに何かを考えているものだ)と思っていたりする。

 仕方がない。脳が眠っていたいのだ。眠りたいだけ眠れば、やがて醒める時がくるであろうと思っているのでそれまで眠る。眠れ眠れ。今私は、そんなこんなの日々である。



Copyright©*momo* 2001-2006 (Prison Hotel)