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2005年12月19日(月) チェーホフとの日々。

■この間、この日記を書いたのは、もう一ヶ月以上も前のことなんだなあ。……あれから、チェーホフを読み続けていた。一ヶ月半弱、起きてから寝るまで、ずっと読んでいた。毎日、毎日。……たまに次の仕事の打ち合わせに出ていったり、十日に一度くらい恋人に会ったりする以外は、ずっと。
ひとつ読んではあらすじをまとめ、感想を書き、心に残る描写やことばを抜き書きしていった。もう、なんというか、自分でも呆れるくらいの入れこみ方だった。

44歳で亡くなったチェーホフが生きている間にやったことを、わたしは44歳になった今からやろうとしている。そんな生きる欲求と意地が、わたしを動かしていたんだろうか?

■中央公論から出ている全集に収められた501の短篇を、今日、すべて読み終えた。ファイルメイカーで作ってきたデータベースは大変な文字数、ページ数になった。そのこと自体にも、ちょっと感動するのだが、いや、そんなことより、何よりも、何よりも。

501篇の中で、わたしは本当にたくさんの、生きた人間たちに出会った。誰も彼も、チェーホフの描いた人間たちは、みんな懸命に生きていた。十九世紀に生きる彼らは、二十一世紀に生きるわたしたちとほぼ変わりなく生きていた。

愚かな者も賢明な者も、富める者も貧しき者も、身分のある者もない者も、聖なる者も俗なる者も、名のある者も名のない者も、恋に喜ぶも者も泣く者も、運に恵まれた者も運に見放された者も、健全なる者も病める者も、教育のある者もない者も、正しき者も狂える者も、社会に有益な者も無益な者も、男も、女も、老人も、壮年も、青年も、子供も、赤ん坊も、時としては犬も、鳥も、虫たちも! そして、大いなる大地、大いなる自然、人間と共存するすべてのものが、輝いて、時に暴れて、普遍の営みで人間を潤したりいたぶったりしながら、その懸命に生きる者たちを見守り育くみ、淘汰していた……。

人生は時として苛酷で、時として優しく、無数の生きる喜びの裏には無数の生きる哀しみがひそんでいた。それでも、501篇を通り抜けた後に残るのは、やはり、どうであれ、「生きる」ことなのだ。

さあ、こんな体験のあとに、わたしはどうしよう?
演劇人としてチェーホフの戯曲はすでに読破していたから、これで作品群はすべて読み終えた。これから、チェーホフを友に、わたしは自分を、どう生きていこうか?

■それにしても、読書好きで通してきたわたしも、44年間、こんなに読書だけで過ごし続けたのははじめて。読書って、「経験」なんだなあ。

チェーホフはすごいです。彼の短篇はどれも宝物です。一篇一篇解説して、伝道者になりたいくらい。

ああ、本当に、明日から何をしよう?
短篇を越えてきた自分で、もう一度戯曲を読み直そうか?それとも、サハリンシベリアの記録に移るか、それとも、自分で書き始めるか……。
とりあえず、自分を、見つめなきゃなあ、これからを生きるために。生き直すために。


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