月の輪通信 日々の想い
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2004年08月06日(金) 思いはかる力

時折ざーっとにわか雨。
朝から、「今日はプール、あるかなぁ。」と小学生組もアプコも何度も空を見上げる。
小学校のプール開放は、今日でおしまい。村のお子様プールもあと数日で閉鎖になる。今まで、精勤にプールへ通った子供たちにとっては「締め」の一日。
午後のプールの開放時間の前にさっと雲がひいたので、Go!Go!とばかりに、家を出る。

朝のお天気が曖昧だったせいか、若宮プールは良く空いている。今日はアプコ、相棒のKちゃんがお休みなので、一人で細々と水に入り、ふわふわとプールの端から端へと遊泳し、まったりと水と戯れる。
空いているせいか、ちょっと年かさの男の子たちはプールの真ん中でもぐったり、逆立ちしたりして、シンクロの真似をして遊んでいる。もともと女性が主体のスポーツなのに、ここのプールでシンクロごっこをしているのは男の子ばかり。TVの影響というのはえらいもんだ。本来は飛び込み禁止の浅いプールだが、プールサイドからコミカルな振りをつけてパタパタと飛び込む様が何ともおかしい。いつものルール破りグループに眉を顰めつつ、「こどもって、ほんと単純であほやなぁ。」と笑ってしまった。

アプコがプールの向こうの端まで泳いでいく間、見るともなしによその子達の遊びを眺める。
3年生くらいの男の子3人組。プールの端からヨーイドンで競争したり、もぐりっこしたりして遊んでいる。ぼんやり眺めていると、なんだか変だなと気がついた。
「平泳ぎで向こうまで競争や。」と誰かが声をかけると、「おれ、負けるから嫌や」と遊びから外れる子がいる。
「せーの!」で潜りっこしても、負けそうになると誰かが「やーめた。」と輪を外れていってしまう。
「鬼ごっこしょうや」とはしゃぎだしても、鬼になった途端「お茶、飲んでくるわ。」と遊びを中断してしまう子がいる。
3人ともが、しょっちゅう「やーめた」とやるので、ちっとも一つの遊びが続かない。それでも特に喧嘩するでもなく仲良く遊んでいるのだが、なんだか見ているほうは一向に落ち着かない。
仲良しの友達と遊んでいても、自分がビリになりそうになったり鬼になったりすると、さっさと遊びを中断してリセットしてしまう。ほかの仲間もまたそんなふうに中途半端に遊びが途切れても、特に不平を言うわけでもない。
当たり前のように次の遊びを思いつく。

日常の些細な遊びの間ですら、自分が「敗者」とか「鬼」とかマイナーな立場に置かれるのが耐えられないのだろうか。
だからといって、一方的に遊びを抜けても誰もそのことを非難しない妙な暗黙のルールがあるようで、気持ち悪い。
昔だったら、鬼になった途端「やーめた!」なんていったら「鬼逃げ」とか「負け逃げ」とか言われて、総スカンを食ったような気がするのだが・・・。
こんな子どもの世界にすら、どこかで「白黒つけない」「突き詰めない」「痛い想いををする前にやめる」といった生ぬるい人間関係が、浸透している。

最近、中学の先生から伺ったのだが、今の子ども達には他人の気持ちを自分の置き換えて思いはかるということができない子が増えているのだそうだ。
友達の悪口をいった子を叱る。
「お前が同じことを言われたらどんな気がする?」「嫌だ。」
「じゃあ、○○くんはどんな気持ちだったと思う。」「嫌だったと思う」
そこまでは察することができても、「だから、悪口を言っちゃだめじゃないか」というところで、ぐいと心に突き刺さらない。「もし、自分だったら」という置き換えはできても、「だから○○君も」というところへの発展が苦手な子が増えているのだという。
いじめっ子の頬を打って、「○○君もこのくらい痛かったんだぞ!」というような叱り方が成り立たないのだそうだ。

先日、TVをみていたら大学生に戦争のときの悲惨な体験談を聞かせて、戦争の残酷さ、平和の大切さを共感させようという試みが行われていた。
広島の原爆を奇跡的に生き延びた老婦人の講演を聞き終わった学生の感想の中には、「話が現在の生活と隔たりすぎて、実感しづらい」とか「自分自身の問題として消化しきれない」という戸惑いを洩らすものがあったそうだ。
幼い子どもですら、夏休みに「火垂るの墓」をみて涙を流し、「戦争は嫌だ」と素直に感じるだろうに、大学生になっても、現在の自分とぜんぜん違う厳しい状況を生き抜いた老婦人の悲話に自分を重ねて共感ができないのはなぜなのだろうか。
ちなみにこの講義が行われたのは、広島の折鶴放火事件のあのK大学である。広島の悲劇を知識ではよく知っており、平和教育も十分に受けてきたであろう学生が、わざわざ彼の地へ足を運んでも折鶴にこめられた誰かの祈りの深さを思いはかることができなかったのもこんな環境があったせいかもしれない。

お互いに傷つくことを恐れて激し喧嘩はしない。親は子を厳しく叱らない。負けるゲームや苦手な競争には最初から参加しない。失敗しそうになったら、早々にリセットして最初からやり直す。
そういう突き詰めない、ソフトな環境ばかりを選んで渡り歩いていることが、今の子供たちの「思いはかる力」をどんどん削いでいってしまっているような危機感を感じる。
口当たりのいいファーストフードに慣らされた子ども達が歯ごたえのある硬い食べ物をなんとなく敬遠して噛む力を失っていくように、シビアな人間関係を消化しきれないやわな人格の大人がますます増えていくような気がする。

「おかあさん!あっちの端まで泳いできたよ!」
いつの間にか戻ってきたアプコが、私を現実に引き戻す。キラキラ輝くしずくが熱いコンクリートのプールサイドに水玉模様を描く。
プールの別の隅では、2年生くらいの男の子がクラスメートらしい女の子に熱心に背泳ぎを教えている。女の子は水面に仰向けに浮くことができなくて、何度やっても体をくの字に曲げてぶくぶくと沈んでしまう。
「体の力を抜いてね、もっとあごを引いて、おなかを上に出すんやで。」
男の子はありったけのボキャブラリーで、ふわりと浮き上がる感じを説明するのだがなかなかうまくいかない。
「体をまっすぐにして、腰を曲げたらあかんで。こうやってな。」
何度もお手本を示してみるのだが、女の子にはどうにもうまく伝わらない。
「あのな、あのな。う〜ん」と考え込んだ男の子、「そうや!棒の気持ちになってみぃ。まっすぐの木の棒になった気持ちで浮いてみて。」

棒の気持ち!なんと難しいことを!と噴出しそうになっていたら、女の子、大真面目な顔で、ぴんと腰を伸ばした。ザブンと体を水面に倒す。しこたま水を飲み、アップアップと沈んだけれど、それでも一瞬、体が浮いた。
「そうや、そうや、ちょっとだけ浮いたん、分かった?」
咳き込む彼女を、男の子が嬉しそうに褒めた。女の子も嬉しそうにこっくりした。
男の子と女の子と、そして木の棒の気持ち。
相手の気持ちを思いはかって、自分の気持ちとして置き換える。そんな難しい作業がここでは当たり前に何気なく完了している。
まだまだ子ども達は大丈夫。
人の心を思う力は、ちゃんと今の子供たちの中にも生きている。
初めて、仰向けにプールの水面にプカリと浮くことができたときのあの愉快な気持ち。それは私にも、男の子にも、女の子にも、そして多分木の棒にも共通の爽快感に違いない。

ちょうど今日の天気雨のように、明暗めまぐるしく心動かされながら水遊びの子らを眺める。
暑い暑い昼下がり。
蝉の声がひときわ騒がしかった。


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