※大きなネタバレがありますので、気をつけてください。ネタバレが平気という方もいらっしゃるでしょうが、個人的には観る前に読まないことをおすすめします。 宣言していた通り3/4に東京で『ブロークバック・マウンテン』を観てきました。アニマル好きのひつじに関する戯言はこの際抜きにして、長くなりそうな感想を書き始めます。 さっきから何度もサントラを聴いており、つい今しがた原作を日本語で読み終わったところです。原語で読むことに挑戦しましたが、私には手に負えないとわかったし、訳者の米塚真治さんは信頼できると判断したので、日本語で読みました。英語に関して言えば、やはり西部の方言で話す登場人物(際立ってイニス!)の台詞はほとんど聞き取れなかったので、むやみに海外で観なくてよかったです。 首まで涙に濡れて、二回観ました。とても寡黙ですが、シンプルでわかりやすい映画でありながら、最初はなぜか少しも理解できていないような感じがして、でも時間を経るごとに少しずつ靄が晴れてゆき、帰りの機内でプログラムを通読してやっと7,8割方わかってきた感じです。原作を読み終わった今、靄を発生させている原因のひとつは、固く抱き合っている素晴らしい原作と素晴らしい脚本の間に、わずかながら脚色による隔たりがあるからだということもわかりました。原作と脚本はそもそものスタンスに違いがある。米塚さんも書いていますが、映画が「物語上の必然性」や「ドラマの方向性」というものを無視できないのに対し、原作はそうしたことに左右されず、人間の本質に迫ろうとする故にずっと「曖昧」です。このことは原作者アニー・プルーの「人は生まれ、生まれた時代を生き、死ぬ。私は、登場人物の人生に起こった事柄を通して場所と時代を理解しようと努めているのであり、結末は結末です」という言葉に要約されています。 この映画を一刻も早く観たいと思っていたのには、個人的には色々と複雑な理由があります。それを一言で言い表すなら確信を持ちたかった、ということです。ご存知、『ブロークバック・マウンテン』は今、世界中で話題になっています。それでずっと疑問に思っていた事は、自分にも大きく関わってくることだと感じていました。たとえば「同性愛の映画が本当に様々な先入観の垣根を越えて人を感動させられるのか」、「女性にタフで過酷な男同士の愛を描けるのか」、「海外で育ち、大人になってから渡米した外国人に、アメリカの心と言われる西部(その伝統と風土)を掌握し、スクリーンに描き出せるのか」といったことです。その答えはイエスでした。ヒース・レジャーは「男女の物語に今まで描かれたことのない謎の部分なんて、もうないと思う。すべてやり尽くされてしまった」と言いましたが、愛が持つ不変的テーマは、その魅力を失いつつある西部の気質の中に埋もれているところを見出され、人々に受け入れられました。アニー・プルーは女性の直感をもってすれば、「存在」を把握することができることを証明し(これはメアリー・ルノーにもできていなかった)、アン・リーは育った文化的背景が違っても人間の本質は変わらないから、理解することは不可能じゃないということを証明したと思います。 ジェイクやミシェル・ウィリアムズの演技も素晴らしかったけど、タフで保守的で「今を維持すること」しかしないカウボーイ、イニスを演じたヒース・レジャーの演技は、奇跡的です。彼が寡黙な表情をするだけで、世界中に雨を降らせることもできそうでした。 40年代西部、貧乏で教養のない保守的な親のもとに男として生まれ、カウボーイに育つということは、それだけでイニスの人生を決定付けてしまうようなことでした。アメリカでは50年代後半から60年代にかけて公民権運動が高まり、大都市にはゲイの活動団体が誕生し、69年にはニューヨークのストーンウォールでゲイによる暴動が起こり、73年にはゲイの活動家ハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコ市の評議委員に立候補した――そんな気運の中でイニスとジャックは出会い、愛を育みながらも、その時代の波はまだ西部をも飲み込んではいません(その波は多分、現在も依然として西南部に完全に到達してはいない)。それこそそんな世界は、テキサスと国境を共有するメキシコよりも、ふたりにとっては遠い世界。イニスは忍耐に慣れきっていて、ひたすら耐える男で、そのかわり前進しようともしない。アニー・プルーが繰り返し本編に書いているように、「自分で解決できないなら、我慢するしかないのだ」。 一方、原作で語られる子どもの頃の父とのエピソードを通して、自分が特別な存在――女役のゲイであることを自覚しているジャックは、その自覚のためか、よりオープンで、陽気で、ロマンチックなカウボーイ。 イニスは彼と恋に落ちても保守的な自分のスタンスを変えようなどとは考えず、社会のルールに従い、社会に順応して生きようとする……というよりも、彼にはそれ以外に「生き延びる」すべが存在しないのです。でもだからといってメキシコや、都会に行くこともできない、それが彼らなのです。 先日、「社会性のある人間」と「非(反)社会的な人間」の衝突は物語において最高のテーマ、ということを書きました。『カッコーの巣の上で』についても書いたように、社会というのはいつの時代も、その枠を越えた『はずれ者』に対しては冷酷なものです。社会性とは人間や動物が共存するための知恵であるから、それは当然なのですが、集団の心理は見方によってはキリスト教における羊のイメージに似ています。自分勝手な考えや意見を持たず羊飼い(神)に盲従する羊は群居動物のシンボルであり、英語の「羊のように愚かな」という慣用表現はここからきているそうです。映画の脚色部分ではあるものの、イニスがジャックと初めて関係を持った翌朝、羊が一匹殺されている場面は暗示的です。 ブロークバックを離れることになった時、イニスはジャックへの愛に漠然と気づきながらも、恐怖のあまり自分に感情などないようなふりをする。原作ではほとんど無意識の行為ですが、映画では自分の身に何が起こったのか半ば自覚しており、感情が暴力的に暴れ出してコントロールできないイニスを演じるヒース・レジャーの演技は、stunningとしか言いようがありません。 山を下りたふたりはこれを機に、現実の社会に引き裂かれて生きていくことになります。彼らは長い年月をかけて、人生で一番幸せな時間を過ごしたブロークバックに帰ろうとしますが、ジャックの身を削るようなひたむきな愛もイニスの心を動かすことができず、彼は一歩を踏み出せません。そのことがどれほどジャックを傷つけたか。でも私たちは、イニスもまたどれほど犠牲を払ったかを知っています。おそらく彼はジャックとさえ出会わなければ、典型的な夫、父親として特別幸福でもないが不幸でもない人生を送れたはずです。それがひとり寂しくレストランでケーキをつつき、粗末なトレイラーハウスで暮らさなければならなくなるのは、忍耐によって秩序を保ってきた彼がたったひとつのことに耐えられなかったからであり、それはジャックとの愛を失うということでした。イニスがジャックと口論になり、こうなったのは、俺がクズで、負け犬だからだ、と胸の内を吐露するシーンは涙を堪えることなどとてもできません。 結果的には保守的な態度を貫き、「自分で解決できないなら、我慢するしかないのだ」としてイニスが守ろうとしたものを、ジャックは前進することで失います。でもイニスに残されたのは後悔でした。ジャックの実家でふたりの愛の痕跡を見出し、彼がどれほど自分を愛してくれていたか知るイニス。アニー・プルーの割り切った結末は、映画がラストでイニスに変化の兆しを与えたほどは、希望的ではありません。けれど脚色部分である娘とのやりとりは、「結末は、書かれたかもしれない、あり得たかもしれない無数の物語の中で、その結末を語ることによって読者に価値とか重要性の片鱗を示せるようなものであるべきだ」というアニー・プルーの主張と照らし合わせて考えても、とてもいい結末だったと思います。 そして女たち。映画の脚色部分で最も優れているのは女性とふたりの関わり合いの部分だと思います。カウボーイの愛は彼らを取り巻く女性たちを不幸にしかしませんでした(アレキサンダーに翻弄された女たちとなんて似てるんだろう!)。いかにも田舎娘のなれの果てという感じで、肛門性交を許しながらもそんな夫を理解できないイニスの妻のアルマ、快活なじゃじゃ馬娘だった頃は信じていた愛が、幻想だったことに気づき、女性らしい現実主義に則して生きることを選んだラリーン、イニスの新しい恋人、娘たち、皆それぞれに振り回され、傷つけられ、そのうえ妻たちとジャックの母親はおそらく、本能的な女の直感でふたりのカウボーイが何を共有していたのか勘付いている。それは昔から、あらゆる社会において散見された「男たちの秘密」であり、疎外された女たちは嫌悪し、苦しみ続けるのに、どうすることもできない。でも何が胸を打つって、彼女たちはある時点で彼らをひそかに許すのです。それは敗北を認めた証なのか、それともジャックがイニスの娘の存在にはどうしても勝てないことを悟り泣いたことが象徴したように、女たちが最初から「勝っている」からなのか。だとしたら憐れみなのか。 私には、女たちがふたりを許したのは、男の中に眠っているその情緒こそが、女たちが真に求めている本質の部分であり、憎らしくも愛しい男たちを、犠牲を払うに値する価値のある存在に高めてくれるものだからだと思えてなりません。 最後にもうひとつ。プログラムの米塚さんの解説を読んで狼狽たえてしまったのは、私だけではないはずです。なんと、「受」「攻」はともかくとして、ジャックのことを「誘い受け」とまで書いている! この映画を観るうえで、実は一番の障害となったのは、私のスラッシャーとしての部分でした。これは恋愛劇ではありません。最近では、脳内では受け、攻めという発想をすっかり捨ててしまっているので、その方が瑣末で陳腐なことに捉われず映画を観やすいだろうと思っていました……が! 映画の途中に、カウボーイ二人が炊事係、米塚さんが言うところの『女房役』と、羊番を交代するというあまり本筋には関係のないエピソードが登場します。これを観た時、私の中にセックスの役割分担=ジャックが女役となり、イニスが男役を務めるというヴィジョンが湧いてきたのですが、直後に自分の「スラッシャー」としての陳腐な発想に嫌気が差しました。ところが実際セックスシーンでは、監督はジャックの受身をわかりやすく描いており、その後もずっとジャックからは女役の臭いが漂ってきます。たしかにイニスという男の性格からして、彼が女役を務めることなどありそうもない。それができるようであれば、もっと積極的に自分というものを受け止めているはずです。ジャックは、両親の眼をごまかすように自分のシャツの下にイニスのダンガリーシャツを隠していたはずが、ラストシーンでは、イニスの手で重ね方が変えられ、わざわざイニスのシャツがジャックのシャツを抱擁するような形になっています。これは自然な愛情表現と取るべきかもしれませんが、やはりセックスの役割も暗示している気がしてなりませんでした。 ジャックは受けだったのかな、と漠然と思っていたところ、まさにそれを指摘する米沢さんの解説とぶつかったというわけです。すると気分は一気に後悔のムードへ。結局はスラッシャーとしての部分が邪魔をして、私は曲がった見方をしてしまったというわけです! 原作を読むと、暗示的にではありますが、ジャックは受身の男として解釈できなくもありません。これはもう心理学の領域だ! このレビューを三時間もかけて(!)書きながら、感極まってしまったりしましたが、公開されたらまた観にいこうと思います。 しばらくはブロークバックマウンテンに心を奪われたままになりそうです。オスカーは獲れても獲れなくても、この映画らしい気がします。ひとまず、短いSSから……。
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