今日、ずーーーっと避け続けていたことをしました。 狼の番外編である、藻花、藻&豆の「6月の救済者」を読んだのです。 実はこれ、前回初版時に印字のかすれのミスをやらかしていたことと、 冒頭の部分が時間がなく焦りまくっていたがためにめちゃくちゃで、 とても読めた代物ではないということでずっと読み直しを忌避していた のです。それが、実のところ中巻再販の遅れにも繋がっていました。 でもそうも言っていられないと思い読み直しました。 想像以上に冒頭の部分はひどかったので、ガンガン書き換えました。 それから、ゆっくりと最後まで読み、アホみたいですが、感動しました。 文章もすごく丁寧に書けているし、発想そのものが冴えてました。 でも、何よりも私が感動したのは、狼というシリーズを書き、サブキャラ ではありますが藻、花、豆という役者に役割を与えて、こんな番外を 書いたわけですが、一年前の今頃終わった話がなんだか懐かしく、また 指輪物語のブームが少しずつ落ち着いていく中で、当時はこんなふうに 彼らを熱く思ってたのだなあと思い、胸を打たれてしまいました。 役者たちに対する愛情も少しずつ形を変えていっており、今があの頃より 薄っぺらいなどとは信じたくないのですが、文章を読むと、当時のものは やっぱり生々しいですね。 ヴィゴ、ショーン、オーランドに対する私個人のありったけの賛美みたいな ものが、読んでいて(私には)感じられました。 会話や仕草、描写などは、今は、出来ないかもしれないなあ。 あの頃の方が優れた比喩や描写を多用してたような気が してどきっとすらしました。 それから、いまや誰も語らなくなった(笑)アンドレ・シュナイダー とオーランドの関係が、現在のトップスター・オーランドそのものを 象徴しているような感じがしました。結局アッティってなんだったの、と 私にはよくわからないんですが、旅の仲間がブレークした当時、 アッティとオーランドの記事なんかが出てきてて、オーランドがアッティ を抱きしめて朝まで歌を歌ったとか、そんな話がありましたよね。 うーん不思議だ。 それと、私はスカウンドレル・デイズではすっかり忘れてたんですが、 「オーランドは決して車を運転しない」という設定になってんたんですね。 SDでは台詞の中で彼が運転してることになってますけど、 「運転しないのは両親が交通事故で死んだから」と思えば、あやうく事故 りそうになるSDの花、というのもなんとなく面白いです(ごまかしてる だけか)。 なんだか、とっても感慨深く「六月の救済者」を読みました。 前回、初版のペーパーバックを読んでくださった皆さんには、あのような はちゃめちゃな冒頭シーンのまま刷ってしまったことを、心からお詫びしたい です。というわけで、書き直した冒頭シーンをここに貼っておきます。 お暇なら、いつか読み直して比べてみてください。 六月の救済者 私は、連綿として続く人生のある一時期に、二度の出会いを経験している。 あまり共通点がないこの二人の男と出会うまで、私にとって生きることは、呼吸をすることと同義だった。ふたつの間に区別などありはしないのだと思っていた。あるいは、もっと正確に当時の自分を分析するなら、ふたつに違いがあるということ忘れて久しい状態が、驚くほど長く続いていたと言える。 彼らとの出会いは、私の長い間木偶同然だった肉体とひからびた魂に、光を感じるということが、どんなことかを思い出させてくれた。 それ以前の私という存在は、味気ない無色の残像に過ぎない。そして近年、その残像は記憶の彼方に消え入ろうとしている。 二人の男は、いずれも何の前触れもなしに、空から降ってきたかのように突然、六月に現われた。 私にとって、記憶の中の六月という季節は、例外なく猛暑を予感させる熱気に満ちている。実際は、当時それほどではなかったにしても。つまり、当時のことは時を経るごとに私の中で少しずつ形を変えている。都合のいい解釈を伴って変形してゆき、いつ頃からか、実際以上の意味づけがなされた、特別な季節となってしまった。 彼らとの関係はゆっくりと流れる時間の中で熟成した。別々に、それぞれの方法で。 どちらか一方でさえ、厳かで、芳醇な香りを放つまで育むことは難しい。それはどちらも、私が若さを失うことと平行していつの間にか諦めかけていたものだった。 時々私は、どちらか一方を、あるいは両方を手放さずに済んだ幸運について考える。その幸運の影には小さな秘密が隠されている。その秘密とはこういうものだ。 一方は愛であり、もう一方は友情だったということだ。 最初の友との出会いは干からびた私の心に雨を降らせた。優しい、静かな雨を。やがて二度目の出会いが訪れ、今度私を見出したのは愛だった。 愛は靄立ち上る大地に新たに種を蒔いた。 その時、私を最初に優しく包み込んだ雨は、芽吹こうとする種を押し流してしまうことなく、そっと雨足を弱めたのだった。 二度目の出会いにより齎された、奇跡のような調和と喜びに満ち溢れた数年間、私はただひたむきに幸福を味わった。そのために、その代償として払った物事には、これまで眼を向けずにきてしまった。 長く寡黙な時間が充分に流れたことで、近年の私はやっと、幸福の下に隠れた事実と向き合うようになった。それは突然降って湧いたものではなく、最初からそこに横たわっていた。ただ、その深層を直視することは自分の罪過と向き合うことだったために、私はずっと、これを無意識のうちに忌避してきたのだ。 この幸福は、大きな犠牲の上に成立している。だがもっと大切なことは、大きな犠牲以上に、大きな赦しがあったということだ。 年を経るにつれ、その思いはしだいに強まっている。一方で、無言のうちに私に与えられた赦しに、どれほど感謝しているかということを、今更となっては伝えられない歯痒さは募りゆくばかりだ。 無論、当の本人は私の感謝も、贖罪も求めてなどいないだろう。むしろ穏便に、自然に任せ、忘れてゆくことを望んでいるはずだ。 それでも私は時々、彼と二人きりでいる何気ない瞬間に、たとえば張込み中の車内や、勤務明けに立ち寄ったバーで、そのことを話題にし、せめて感謝の言葉を述べたい衝動に駆られることがある。 過去の私の残像と共に、彼と共有した思い出が、古い順番に記憶から抜け落ちていく中、彼の方はいつか本当にあの事件のことを忘れてしまうかもしれない。 だがその時が来ても、おそらく私の方は覚えているだろう。記憶が正確性を欠いていこうとも、その本質だけは、私の存在そのものにきざまれた刻印として、残り続けるだろう。
|