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2006年11月21日(火)
(。^0^。)ノ オッ (*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ
死は他者の死しか知ることができない。 そして他者のごく身近な人の悲しみの表情をみて、 死=悲しい、という構図を長年人間は描いてきた。
象も死んだ子供や仲間の死を悲しむというが、 それも、その象の表情を見て、勝手に思っているだけである。 虚無になる恐怖感と言えども、「無になる」とは 他者の死体を見たイメージでしかない。
人生ー生死が何ものか解らないのに 意味など果してあるのだろうか?という、疑問が成り立つ。 せいぜい、年寄りの老化現象でしかないのか。 といって、意味の意味が、「価値」とするなら、 「人生の価値は無い!」と切り捨てることも出来まい。
−−−−−−−−−−−− *死ぬことは不幸のことなのか −�� −−−−−−ーーーーーー
「どうせ人は死ぬ」と人はいう。「だから人生に意味は無い」と。 「死ぬ」ということと、人生の意味のあるなしは、どうして関係しているのだろうか。 「どうせ」という言い方によって、死ぬことが既に否定的な意味として捉えられている。 しかし、死ぬことが既に有意味か無意味か、生きていることにおいて言及できない以上、 「死ぬ」ということと、「生きる」すなわち「人生」の意味の有無とは、 関係しないはずである。
文字通りの「観念」としてしかあり得ないところの「死後」の観念によって、 この現実を意味づけようとする、それこそが悪しきニヒリズムなのだと、 ニーチェは指摘した。 生に意味があるのは、この生自身に意味があるからだ。 この生、この瞬間がそれ自身で意味がある のでなければ、どうして人生に意味などあり得よう。 目を覚ませ、見よ、この現在、この瞬間にこそ、 この永遠は実現しているではないか!
一般的に、早逝した人のことを不幸だと人は言い、 「生きていれば、もっと良いことがあったのに」という仕方でその死を哀しむ。 しかし、「生きていればもっと悪いこともあったのに」とも言えるのだから、 じつは何をいったこともなっていない。 他人の死をどちらかと言えば不幸と感じるのは、残された人の悲しみを思い、 それをそのまま死んだ人の痛恨だとしている場合も多い。 死んだ人が不幸と思うのは、明白に観念でしかない。
他人の死を不幸と感じるのは、どういうことか? 「悔いを残す、残さない」という言い方によって、 人は孝、不幸の感覚を述べようとする。 そのとき、生に悔いを残さないことがその生の幸福であるとされている。 これを言及できない死の側から言えば「成仏できる、できない」 ということになる。
生の幸福の成就のための経験もしくは努力の断絶、 これを不幸だと感じて生きている われわれは、死そのものを恐れているのではなく、 実は生の不幸を恐れているのだろう。 不幸で死ぬのは不幸だ、だから「まだ死にたくない」であり、裏返せば 「もう死にたい」となり、逆に幸福の絶頂においては、 「もう死んでよい」ということになる。 しかし「死んでも良い」も、死はやはり否定性として捉えられている。 死はかくまで深く生の意味の源泉になっている。
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私の60歳の実感の一つとして、 「60歳の人生に悔いない」が偽らざる気持ちである。 やり遂げたという悔いは無い、ということではない、 その時点時点で、精一杯であったという意味でしかない。 その「悔いが無い」というのも、 人生の孝・不幸で、孝の要素が多かったと、 自分自身に説得しているに過ぎないことになる。 「死」が、直線上に存在していると思っているからだ。 しかし、そうとはいえ、やはり悔いがないのは実感であるが。
(*^ワ^*)i バイバイ! ・・・・・・・・ ・・・・・・・・
2005年11月21日(月) 1693, 中学校還暦同期会
あと二ヶ月で還暦になる。 Σ(O_O;)Shock!! 中学校の還暦同期会は、考えようによっては面白い。 卒業してから45年という歳月と、 義務教育の分別?される前の、 危ない場の中学の還暦はそれぞれ思いは深い。 w((´ω`))w !! 同期会ということもあって、45年ぶりの再開の人が多い。 それも、もう恐らく二度と会うことはない人だ。 一昨日が、その中学校の還暦同期会があった。 来るべき時が来た!というのが、実感!。 そして興奮と感激の連続であった。koufun (+`ω´+)∩・・・
驚いたのが、学年の三分の一の108人が集まったことだ。 (私のいたクラスは一番まとまりのあるクラスだが、五分の一だった。) 長岡の一流?の料亭の鴨川別館で、 会費が写真込みで一万円。 幹事は大変だったはずだ。 ase ∩(+`ω´+)∩・・・キュゥ
二次会はフロアーを変えた別会場で設定してあった。 ほぼ8割が出席していた。(別料金) 不景気、料亭も考えるものである。 これでは、スナックは大変だ。 ヽ(゚Д゚;)ノ!! 還暦に神社で御祓いの習慣があることをはじめて知った。 わざわざカジュアルの服装で行ったが、男の8割が背広であった。 還暦とは、成人式と同じ感覚なのだろう。 還暦が過ぎると、「生老病死」の問題がシビアに出てくる。 反面60歳代が人生で一番面白いとか? 準備してきたかどうかで決まるだろうが。(O.O;)(oo;) (^_^)/~~ ・・・・・・・・ ・・・・・・・・ 2004年11月21日(日) 1328, 「哲学者たちは何を知りたかったの?」−1 読書日記 ー教養は何故必要か?−
ふと本屋で立ち読みをしていたら、 ー教養とは自由になるために必要なアーツー という文章にいきあたった。。 早速買ってきて読んだが、なかなか読み応えのする本であった。 特に教養に対して、ズバリその本質をついている。
ー「日本で教養というと、大学の教養課程やその延長線上で身につけるものと
受けとめられがちだが、本来教養とは、人間が自由(リベラル)になるために
必要な(アーツ)だったのです。ですから、教養としての哲学、教養を持てば、
それがガイドやパイロット、あるいは乗り物となっているので、
脳空間の中を自由に飛躍でき、さまざまな世界をのぞき見ることが可能になる。
人間は、神のもとから自由な空間に解放され、そのために多くの不安や悩みを
もつようになりましたが、教養としの哲学を持つことで人間として生きていくことの
素晴らしさを味あうことができ、それがまた、不安や悩みの解消につながり、
「幸せ」を招来してくれることも確かです。ーー −以上だが、なるほどそのとおりである。
生まれでたと同時に、多くの刷り込みが行なわれるが、 教養とは、それを乗りこえる為のパーツの総量ともいえる。
教養といえば、字のとおり「教え養われたもの」であるが、 それでは、「それが何のため?」といわれると、言葉に窮してしまう。
一流の職人が 「おれ中学しか出てないけど、大学を出ているのと、あまり変わらないと思うんだが?」 という素朴な言葉の中に、多くの問いかけと答えが含まれている。
現象が全てなのだから、それはそれで仕方がない。 彼は言葉の中に含まれる意味の世界とは全く無縁であるから、 目の見えない人に視覚が解らないのと同じことである。
しかし、その分他の感覚が研ぎ澄まされるようになったから、 一流になれたのだ。
宇宙から見れば人間の存在などチリ以下、いや地球の存在自体チリ以下で あることを考えれば、その知識の差、教養の差など些細なことでしかない。
しかし、せっかくこの世に生を受けたからは、この宇宙のこと、地球のこと、 自然のこと、人間のことなど、可能な限り知り体験することは大事なことだ。
人間という拘束された存在を自覚して、少なくとも刷り込みの拘束から 自由になることが最も重要である。
私が最も嫌っている、「教養のないオバちゃん」「小狐のような男」とは、 現象が全てと信じて疑わない世間という世界の住人をいう。 束縛されている自分に全く気が付いてない存在である。
人間である限り全ての人に、その要素が殆どを占めている。 それを、最小にしていくのが人間の一生の課題といってよい。
読み応えのある本であるが、この随想日記でシリーズで 哲学について書いたベースがあったので、興味を持って読むことが出来た。 しかし、刺激的な内容でもある。 「飛岡健が哲学を書くと、こういう風なのか」という視点を持てるのも、 そのベースがあったためである。
教養は、積極的自由を得んがための知識の総量ということか!
ーーーーーーー 「哲学者たちは何を知りたかったの?」 ―はたして、彼らは“答え”を見つけられたのか… 河出書房新社 (2004-11-05出版)
・飛岡 健【著】
ソクラテス、プラトン、カント、ニーチェ…。 “哲学者”とよばれる彼らは、つまるところ何に悩み、どう解決したのか? その思索からいまを生きる我々が学ぶべきものとは? 「人と世の中の見え方」が一変するやさしくて刺激的な“知”の実践本。
プロローグ 「哲学者」って誰のこと、そもそも「哲学」ってなに? 1章 「幸福」はどこにあるか哲学者たちは考えた 2章 「愛」と「性」の本質について哲学者たちは考えた 3章 「神」は人を救えるか哲学者たちは考えた 4章 なにが「善」で、どれが「悪」か哲学者たちは考えた 5章 「死」と「生」の意味を哲学者たちは考えた 6章 「自由」と「社会」の関係を哲学者たちは考えた 7章 「真理」は発見できるか哲学者たちは考えた エピローグ 未来図を描くうえで哲学は欠かせない
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2003年11月21日(金) 961, 「いらっしゃませ〜!ぽんぽこぽん〜」
昼は、毎日のように新潟の郊外に色いろなレストランやファーストフードに 通っている。昨日はイタリヤン・レストラン、今日はお好み焼屋、その前は 讃岐うどん屋、180円ラーメン屋などなど。 ダウンタウンの昔ながらの古い商売を、郊外型のレストラン方式にするのが 流れのようである。 その中で一番驚いたのは、讃岐うどんのカフェテラス方式の業態だ。
今日、初めて郊外型の「お好み焼屋」に入って驚いてしまった。 入ったと同時に 『いらっしゃいませ〜!ぽんぽこ、ぽんぽこ、ぽんぽこぽん』である。 中年が入るには、お客としてはミスマッチの店である。 少し気が引けて?、入った瞬間、 『いらっしゃいませ!ぽんぽこぽん・・・』と、全員が山彦のように 繰りかえすのだ。 たったこれだけで、お客の心を掴んでしまうのだ。 特に子供の心を掴まえてしまうだろう。 こういうバカバカしい?のが大好きである。
キャラクターの漫画がタヌキで、メニューなどに書いてあった。 鉄板焼きということで『かちかち山のタヌキ』を連想させる為だろう。 居酒屋で注文をした時、『喜んで!』と言われたとき以来の新鮮さである。 何回か聞き慣れてしまえば、奇異でなくなってくるのが不思議だ。 お好み焼屋は開店をして、まだ一週間だった。
長岡の郊外で数店見かけたが、如何してこんな店が郊外に存在をしているか 不思議であった。しかし考えてみれば家族客にとって気楽に入れる店である。 12時過ぎであったが、私たちを除いて全員ヤングママで、満席であった。 昨日もイタメシ屋に入ったが、やはりヤングママで盛況であった。
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587, 方針について - 2002年11月21日(木)
ある経営セミナーでなるほどとイヤに納得をした事があった。 「経営方針とは何々をするというのではなく、何々は 絶対にしないという事である」
非常に解りやすいし、ずばり本質をついている。 枠をハッキリ明示して、エネルギーの分散を避けることだ。 何かをする為には何々を守るためには何々はやらないという事を 明示しておく事だ。
家訓などはそういえばそうだ。 住友の家訓は「浮利を追わず」がその典型だろう。
父は「無借金経営」であった。 家訓は ・請け判はするな ・実力以上のことをするな ・質実剛健ー贅沢するな ・肩書きを求めるな−ライオンズやノータリンクラブにはいるな! 2代目が家を潰してしまうのは、家訓をふみはずてしまう ケースが多い。家訓に縛られて何もしないのも問題だが。
老舗や名家は代々続いたその家訓が光り輝いている。
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[234] ゼネコンの世界-1 - 2001年11月21日(水)
26歳から増築2回も含め八回工事を経験したことになる。 その業界の深さ、得体の知れない不気味さを書いてみよう。
まずは「談合世界」が基本にある。それと業界の情報網がある。 国家が認める?犯?システムである。 こんな事を書いていいのか? もちろんよい。 誰も告発は出来ないからだ。
全員が解かっていながら薄ら笑いをしながら、集っているからだ。 イタリヤのマフィアの日本的国家版だからだ。
私ら素人?が如何あがいても、どうにもならない世界である。 新潟県のその大本は「大成建設」という話を聞いた事がある。 ヤクザの世界にそっくりだ、いやそのものだ。
普通の素人は、その世界に入ってきた子羊一匹といったところ。 その中で自分が出来る最大の抵抗を試みるだけだ。
考えてみれば、出来上がりの製品を買うわけでないし、設計事務所を 100パーセント信用してよいわけがない。 甘ければ甘いだけ商品の価値を下げた建物を造ってくる。
その噂を聞くと、色いろな因縁を作って業者が寄ってくる。 もし親戚とか同級生の業者を入れたとしたら、そこはノーチェックとなる。 それがあるから彼らは因縁があるほど有利になる。 もしそれが成立すれば‘いただき!’である。
そんな善意(利害をを目指した因縁)は金を屋上よりばら撒く以下だ。 その連中(騙す奴と騙される奴)がいるから、世の中が成り立っているのだ。 こんな事を書いているだけ、私が純粋か低脳だからだ。 暗黙知を形式知にかえるバラシを楽しんでいる。
建物を創るほうから見れば、命を懸けた塊だ! もちろんそれを受けるほうもそうだ。 だから談合もあるのだろう。 情報化で、このダニどもが、 陽ー情報にあてられのたうちまわり始めてきた。
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ある時間の断片 −11月21日 1968年
11時過ぎ起床。 12時に登校、学食で食事後、 「価格理論」に出席をする。 16時から寮の駒村君のところで過ごす。 18時に、大妻女子大の宮本さんと、その友人が間中君のところに来る。 宮本さんに「誰か可愛い人を紹介してよ!」と冗談を言うと、 話がこじれてしまった。 二人を侮辱してしまったようだ。 二人は可愛くないといっているようなものだった。 後味が悪い事になってしまった。 どうも最近、無神経すぎる。 唯我独尊の自分が知らないうちに周囲を傷つけてしまう、困ったものだ。
ー2003年11月20日記 何かこういう文章を見ると、今と全く変っていない。 知らないうちに人を傷つけている。 全く、もう!と思う。 この性格はどうも昔から蒲鉾ー板についているーのようだ。
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