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2003年06月19日(木)
〜なぜ認められたいか? 〜 「ぶざまな人生」「わたしを認めよ!」「まれに見るバカ」 等、彼の文章のタッチの面白さに、次々に買って読んだ。 人間の一番の本音をあまりにもシビアに書いている。 先日、図書館でこの本を見つけたときは、しめたと内心叫んだ。 早速読んでみるとやはり面白い。 「わたしを認めよ!」の続編であり、何ともいえない力がこもっていた。 彼のいっていることは別に難しいことをいっているのではない。 ・自分を持して一生懸命に生きればよい、 ・ダメならまた自分を立て直してやり直せばよい。 たとえそれがぶざまな人生であっても。 言っているだけだ。
「懸命に生きる」とは「自分ひとりの関係」である。 それが自分ー自分様であり、自己が自分になっていくことだといっている。 人間は自分はとるに足りない馬の骨と思うことに耐えられないのだ。 特に比較において。 友人との年収の差、学歴の差、同業他社との利益の差、性経験の差において、 馬の骨として、耐えられないのが人間であると主張している。
創業を経験すると、人間観が変わるーこれは私だけでないと思う。 自分の骨の髄のエゴイズムを知ることになるからだ。 その骨の髄のエゴイズムから、出発をしなくてはならない。 それを嫌というほど、自分に対して思い知ることになる。 表層で生きている人は、創業のそのリアルな姿を見て冷笑する。 しかし、自分がその立場になれば全く同じ利己主義に落ちざるを得ないことに 気がついていないのだ。また環境がそこまで追い詰めない。
創業は自分ひとりになって、その一人の内語から出発をする。 自己から自分へのプロセスの始まりである。 馬の骨からおれ様への本質的な転換を事業で始めることだ。
ー「自己」と「自分」のちがいについて書いてあるのを少し抜粋してみるー 「自己」とは匿名的個人のことである。 それゆえに、一人ひとりの「自己」は同等の存在価値を持つ。 世界の人口の数だけ「自己」がいる。 他方、「自分」とは何々の某という名前を持った、世界のなかでただ一人 の、この自分のことである。この「自分」に価値がある。 ・「あなた」も「わたし」もおなじ個人だから、おたがい大切というのが 「自己」 ・「おまえ」は「わたし」でないから、「おまえ」がどうなっても知ったこたない というのが「自分」 この二重性を生きているのが人間である。
ー以上である。 何故ここであえてこの問題を出すかというと、「他人とは何か」を知ることが 生きていくうえの一大事である。それが自分を知ることになる。 その自分の骨の髄はエゴイズムー利己主義でしかない。 そこのところを知らないと、自分の中の悪魔と神と出会うことがない。
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『自分様と馬の骨』 勢古浩爾 著 三五館 発刊日ー2002年11月 (四六判並製 240頁 本体価格1400円 +税) 長岡中央図書館 2003年6月15日 ◆◆内容紹介◆◆
「仕事のできない奴だと思われたくない」 「ブサイクだなんて陰口を叩かれたくない」 「小心者には見られたくない」 ……かくしてすべての人間は生まれてから死ぬまで、 こう叫び続ける。 「俺(私)は馬の骨なんかじゃない!」。 そして、「俺(私)が馬の骨」 ではないことを、両親に、恋人に、友人に、上司に、同僚に、果ては見ず知らずの 他人にまで証明し、認めてもらおうとする。お化粧・ネクタイ選びといった一般生活上の 行為からプチ整形・暴走族といった現代の病理、宅間守・造田博が犯した犯罪までが、 この考え方と深く結びついていると著者は述べます。 これこそが著者曰く「承認論」! 歯切れよく過激にして、斬新軽快な評論です。 とここまででは本書の50%に しかすぎません。ただの時勢評論にとどまらないのが本書の真骨頂であり、ここから本書は 評論の域を完全にオーバーランし、感動のラストへ向かってほとんど小説・ドラマの ごとくに諄々、切々と説く、説く、説く……。 誰しもが読めばきっと力の湧いてくるであろうラストの感動=単純な真理 (また遣り直せばよい)に、いかに説得力を持たせられるかのために本書丸々一冊が 費やされたといって過言でありません。「敗北からいかにして立ちあがるか」 「自分で自分を支えていくことはいかにして可能になるのか」――。 自分自身すら溶解しつつある現代において、確固たる自己を打ち立てる方法 (本書が言いたいことはこれだけなのです!)が明らかされます。
【目次】 第1章 瀕死の承認――人間が変わった 第2章 認められたい! 第3章 自分様と馬の骨 第4章 終着駅は犯罪だった 第5章 敗北はなぜ恐ろしいのか――中流崩壊のなかの承認 第6章 最後の承認――言いたいこと
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